2019/6/17

霊峰富士  今日の言の葉

この時期は早朝でも靄(もや)で見えない富士山が、今日は珍しくクッキリと見えます(一昨日、昨日と吹き荒荒れた強風のおかげですね)。

すっかり冠雪が後退して岩肌を露出させ、遠目にも夏の到来が近いことを感じさせる今朝の富士山の姿です。

朝、出勤の夫を玄関先で見送った後に、「今日の富士」の様子を確認するのは、私の日課でもあります。

毎日見えるとは限らないその姿が確認できた時には、何だか幸先良い1日のスタートを切れるような気がして、思わず手を合わせ、「今日も良い1日でありますように。無事に過ごせますように」と祈ります。

130キロの彼方から威風堂々とした佇まいを見せる富士山は、正に「霊峰」と呼ぶに相応しい荘厳な山だと思います。

こうして富士山を拝める環境に、感謝です。

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2019/5/9

虎の威を借る狐  今日の言の葉

 自動車(最近は自転車も)の運転者はいわば「虎(=車)の威(力)を借る狐(=非力な人間)」なのだ。

 そこを勘違いしている人間が多いから、悲惨な自動車による人身事故は無くならない。

 もちろん全員とは言わないが、普段から横暴な人間はもちろんのこと、温厚と見られる人間も、自動車に乗ると自動車の威力を得て、どうしても尊大になる傾向がある。自動車から見れば圧倒的弱者である歩行者に対して高飛車になる。

 そのことを如実に示しているのが、信号のない横断歩道の前に歩行者が立っていても、そのまま走り去る自動車が殆どだと言う事実。運転免許取得の為に通った教習所では、「信号のない横断歩道の前に人が立っていたら、必ず自動車は止まるように」と指導を受けているはずにも関わらずだ。

 そのことをすっかり忘れたか、最初から教わっていないかのように、歩行者を一瞥してその存在を確認しているにも関わらず、そのまま自動車のスピードも落とさずに通り過ぎる運転手の多いこと(日本では地方都市でさえ、それが当たり前のせいか、以前、ポルトガルの地方都市を訪れた際、横断歩道でなくても全ての車が快く止まって、道路を渡らせてくれたのには驚き、感激した。)

 私は昔ながらの住宅街に住んでいて、近所の一方通行のバス通りを青信号で横断する時に、後方から左折しようと走って来た自動車に、何度か轢かれかけたことがある。

 その時の運転者は一様にスマホを見ながらの片手運転で、横断歩道を渡る歩行者の私のことなど気にもかけていない様子で、かなりのスピードで走り去って行った。

 以来、青信号でその道を渡る時には必ず後方を確認して、自動車が走り去ってから渡るようにしている。

 とにかく「車を見たら走る凶器と思え」である。横断歩道も青信号も安心出来ない。

 大きな交差点での信号待ちでは、どんなに急いでいても角には立たない。最前列にも立たない。それでも事故に巻き込まれる可能性は避けられないのが実情だ。

 可能ならば、交通量の多い交差点に面した横断歩道の前には、車の進入を阻む頑丈なポールを等間隔に設置して貰いたいものだ。これは、横断歩道に並行して自転車専用レーンが設置されているにも関わらず、歩行者の間を縫うように横断歩道を駆け抜ける自転車を排除する為にも有効かもしれない。

 斯様に最近、歩行者が巻き込まれる交通事故の多発を受けて、道路の安全対策をどうするかの議論が出ているが、こうした事故の最大の原因は運転者の危機感のなさなのだ。その尊大さなのだ。

 自動車メーカーによる自動車の二重三重の安全装置や自動運転システムの開発以前に、運転者の意識が変わらなければ、悲惨な重大事故は今後も無くならないだろう。

 運転者は運転する限り、いついかなる時にも自分が加害者になり得ると言う危機感を持たなければならない。被害者やその家族、そして加害者やその家族にとっても、一瞬の事故による犠牲はあまりにも大きい。事故が起きてからでは遅いのだ。

 運転者は自身が「虎の威を借りた狐」に過ぎないと言う自覚を持って、自動車の凶器性を十分に認識し、自身の運転技術を過信せず、歩行者の安全を第一に考え、心に余裕を持って運転することが重要なのだ。

 だから普段からスケジュールに余裕を持って行動すべきだし、運転時には譲り合う気持ちが大切だし、常に周囲の状況を把握しながら運転に集中することが重要だ。

 けっして運転に慣れてはいけないのだ。

 
 4歳の妹を交通事故で失った日のことを、50年経った今も忘れられない私の切実な訴えです。
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2019/4/30

「今日は平成最後の日だよ」  今日の言の葉

と、Siriに話しかけたら、
Siriは
「今日は聖ヤコブの日です」
と応じました。

なんとまあ噛み合わない会話だこと(笑)。

平成最後の日に、朝からボケまくっています。
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2019/4/1

新元号  今日の言の葉

新元号は

令和

に決定しました。

どうか天災や無意味な争いのない、穏やかな時代となりますように…
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2019/2/15

我慢しない  今日の言の葉

 「死」を身近に感じる年代、年齢になったら、もう我慢をしない。
 それが長年頑張って生きて来た自分を労わる一番の方法だと思う。


 最近、周辺で50代、60代の急逝の報を何度となく耳にするようになった。

 何れも女性で、死因が心不全である。やはり寒暖の差が心臓に堪えるのか…

 中でも最も衝撃的だったのは、会社の元同僚の急逝だ。

 彼女は同期入社で、短大卒ながら結婚しても着実にキャリアを積み上げ、部長にまでなった女性だ。

 同期入社と言っても同じ部署で働いたわけではなく、同じフロアで毎日のように顔を合わせる程度の付き合いではあったが、いつも会えば元気に挨拶してくれる、何十人といる女性社員の中でもひときわ快活で目立つ存在だった。

 私が寿退社(今や死語?)してから30年会ったこともないが、なぜか彼女の30年前の顔を未だに鮮やかに記憶しているし、折に触れて夫から彼女の活躍を聞いていたので、私の中ではずっと気になる、密かにエールを送り続けている存在ではあった。

 その彼女が6月の役職定年を前にして、旅先のホテルの浴室で亡くなったのだ。前触れもなく突然に。

 「これから漸くノンビリ出来る」と6月の役職定年を楽しみにしていたと言う話を夫から聞いて、なおのこと切なさが募った。けっして他人事ではないと思った。


 私達の年代は、もちろん人にもよるが、子育てを終えたかと思えば、親の介護に直面したり、孫の世話に駆り出される人が多い。配偶者もそろそろ定年を迎える頃だろう。

 そうしたさまざまな制約がある中でも、出来る限り無理をせず、我慢できないと思えば声を上げ、良き妻、良き母を卒業して、時には家族相手に口喧嘩だってした方が良いと思う。生きているうちにわだかまりは解消した方が良いのではないか(とは言え、何事も引き際は大切。永遠の喧嘩別れだけはしたくない)

 今まで我慢強く物事に対処していた人こそ、遠慮などせずに我がままになれば良いのだと思う。

 今、自分がやりたいことをし、食べたい物を食べ、行きたい所に行き、会いたい人に会う。そう、出来る限り悔いを残すことなく自分の人生を全うする為に!

 自分を労われるのは、結局、自分自身でしかないのだから。
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2017/8/23

「過去」も「他人」も変えられない  今日の言の葉

 「過去」も「他人」も変えられない。だから、それらのことでクヨクヨするだけ損だ。

 最近、読んだ本の一節なのですが、ストンと腑に落ちましたね。

 私は他人の善性に期待し過ぎなのか、行く先々で、周りの人への配慮を欠いたと言うか、傍若無人と言うか、はたまた自己中とでも言うべき振舞をする人を見かけると、本当に残念で仕方ないのです。

 今は夏休みの最中で、平日の昼間も子どもたちがそこかしこにいます。その子ども達の目の前で、いい大人がマナー違反するのは、本当に教育上ヨロシクナイと思う。

 本来、大人は子どもの模範となるべき存在なのでしょうが、年を重ねたからと言って、それがそのまま人間としての成熟や品性の高まりに繋がるとは限らないんですよね。

 やっぱり、個々人の心の持ち方次第なんでしょうね。欠点にしても、他人に注意されて正せると言うものではなく、自ら正したいと思って初めて正せるものなんですね。自ら変わろうと思わない限り、人は変われない。

 先日も、映画館のトイレが混んでいて皆並んでいるのに、後から来た団塊の世代と思しき年配女性が、ちゃっかり列の先頭に割り込んで、先にトイレに入ってしまいました。その一部始終を、近くにいた小学生の女の子が少し驚いた様子で見ていました。

 なぜ、そんなことになったかと言えば、個室の入り口のすぐ脇に男児用の小便器が備えられていて、ちょうど3〜4歳の男児が使用中だったのです。だから、列の先頭にいた私は遠慮して、少し後方に立ったのですが、その隙に件の女性は空いた個室に入って行ったのです。それを間近で見ていたのが、小便器を使っていた男の子のお姉ちゃんでした。

 男の子は用を済ませたけれど、まだ幼くて自分で下ろしたズボンをちゃんと元に戻せない。弟を近くで見守っていたお姉ちゃんは両手に荷物を抱えていて手伝えない。だからすぐ近くにいた私が男の子の服を整えてあげたのですが、お姉ちゃんはきちんと私に対して「ありがとうございました」と言える女の子でした。

 そんな子の目の前で、その子の祖母と同年配であろう女性が、しれっと待ち行列に割り込み。女の子の目には、その行為がどのように映ったのでしょうね。

 子どもは大人をよく見ています。子どもの問題行動は、その背景に身近な大人の問題が隠れていることが多いように思います。

 弱い者いじめなんて、その最たるものではないでしょうか?
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2017/2/3

モノより思い出  今日の言の葉

 この世で一番愉快なことは、
 何かを持っていることではなく
 何かを経験する瞬間です。
 


 これは先ごろ82歳で亡くなられた俳優でタレントの藤村俊二さんの座右の銘だったとか。

 藤村さんは父親がスバル興業社長という裕福な家庭で、6人兄弟の次男として鎌倉に生まれ、のびのびとした少年時代を送られたようです。

 母親がかなり懐の深い方だったようで、藤村さんがあまりの腕白ぶりで幼稚園を退園させられた時には彼を叱るでもなく彼の行く末を案じるでもなく、「明日から思いっきり遊べるわね」と、また、兄と激しい取っ組み合いの喧嘩をした時には、仲裁するでもなく二人の気の済むまで喧嘩させた後、「そろそろ二人とも疲れたでしょう。お茶にしましょう」と言われたのだとか。

 父親の豪傑ぶりを伝えるエピソードもあります。藤村さんが高校生の時のこと。実家の事業が傾いたのも知らずに温泉地で芸者遊びに興じ、その支払いに困って実家に戻ると、自宅は既に人手に渡っていました。そこで藤村さんは悪びれもせずに自宅にあった美術品を幾つか売り払って支払に充てるのですが、それを知った父親は当然、藤村さんを叱るのかと思いきや「お前は見る目があるな。一番高い物から売ってしまったんだから」と言われたのだそうです。

 正に、この両親にして、この藤村さんあり、と言えるではないしょうか?

 藤村さんは中高を私立暁星学園で学び、早稲田大学に進学しますが、理論主体の大学の講義に飽き足らず2年で中退すると、東宝芸能学校舞踊科に入り直して、卒業後はダンサーとしてヨーロッパ公演にも参加します。

 しかし、ヨーロッパのエンターテインメントのレベルの高さを目の当たりにして衝撃を受け、一転パントマイムを学ぶために渡仏するのです。

 帰国後の活躍は皆さんの知るところ。

 今回、私が初めて知って驚いたのが、ザ・ドリフターズの「8時だよ、全員集合」のオープニング曲の振り付けが藤村さんによるものだったと言うこと。これ、有名な話なんでしょうか?!

 藤村さんは、奥様仕込みのダンディな装いで知られる久米宏さんを驚かせるような仕立ての素晴らしいジャケットをさりげなく着こなしたり、ワイン好きが高じて、わざわざ英国からパブを丸ごと一棟日本に取り寄せ、英国人大工にその移築を頼んで、ワインバーを開業する等、お金の使い方が庶民とはスケールが違います。

 そもそも藤村さんは生まれや育ちからして庶民とは違うのですから、金銭感覚も庶民とは違って当然で、物質的に充たされない生活とは無縁だったと想像します。そこが庶民とは根本的に違う。だから、冒頭の「何かを持っていることではなく」も言葉通りに受け取るのは難しく、彼が経験することに価値を見出したのは、彼が自分の望み得る最上の物を手にした上で、最後に到達した境地なのかなとも思います。

 それでも私は、いつかは朽ち果てる物質(もちろん藤村さんとは格段に違うレベルの物)で得る一時的な満足感よりも、藤村さんのように(これまたスケールは全然違うのでしょうが)経験を通して得られる充足感を大切にする生き方を目指したい。

 だって、死に際に思い出すことが「自分は○○を手に入れることができた」より、「あの時は楽しかった」「○○が経験できて良かった」の方が、ずっと現世に執着することなく心穏やかにあの世へ旅立てそうですから…
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2016/12/11

「ありがとう」の語源  今日の言の葉

 さまざまなところで既に指摘されていることですが、私達は感謝する場面でつい「すみません」を口にしてしまうところがあります。

 おそらく、「見ず知らずの方にお手間をとらせて申し訳ない」と言う思いもあっての「すみません」なのかもしれませんが、言われた側からしたら、別にその人が悪いことをしたわけでもなく、こちらも大した迷惑を被ってもいないのに、その人に謝られるのも変だと違和感を覚えなくもない。

 さらに「人と人の関わりは偶然ではなく"縁"あってのこと」だとする「袖触り合うも多(他)生の縁」と言う言葉もあることから、その前提で私はできるだけ「ありがとうございます」と言うよう心掛けています。

 さて、そもそも「ありがとう」とは、どういった経緯で生まれた言葉なのかと常々疑問にも感じていたのですが、偶然最近読んだ本の中で紹介されていたので、以下に引用します。

 「ありがとう」の語源は…

 「『有り難し』。つまり、あることが難しく、めったにないこと、非情に稀なこと。」で、出典は「『法句経』のなかの『人の生を享(う)くるは難く、やがて死すべきもの。今いのちあるは有り難し』と言う一節です。

 意味は『私たちは、数えきれない偶然と無数の祖先の計らいによって生まれたのだから、命の尊さに感謝して精一杯生きなければならない』というものです。

 要は、当たり前のことを当たり前と思わず、有り難いことだから感謝しようというのが『ありがとう』の真意です。そう考えると、『ありがとう』が、実に哲学的で奥深い言葉だということがわかります。

 きれいな日本語がたくさんありますが、その言葉を聞いただけで心が温かくなり、優しい気持ちになれる言葉の代表は『ありがとう』ではないでしょうか。」
 
 保坂隆『精神科医が教える 50歳からのお金がなくても平気な老後術』(大和文庫、2016、191-192p)


 確かに「ありがとう」は含蓄に富んだ素晴らしい言葉で、人と人の間で潤滑油的な役割を果たす重要な言葉ですね。

 必要な場面では惜しみなく使おうと、上記の一節を読んで改めて思いました。
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2016/8/27

はためく  今日の言の葉

 日本語は世界に類を見ない擬音語(onomatopoeia)や擬態語の宝庫らしい(因みに擬音語は犬の鳴き声の「ワンワン」や風が吹く音「ヒューヒュー」など、"実際に耳に聞こえる音"を言葉で表現したもので、擬態語は「心臓がバクバクする」や「雪がシンシンと降り積もる」など、"実際に音として聞こえない物事の様子、状態"を言葉で表現したもの。諸説あるが、擬音語と擬態語の総称が「擬声語」)。

 日本語を勉強中の外国人に、彼らの言語にあまり存在しない擬音語や擬態語について説明すると、とても驚き、面白がってくれる。特に擬態語に関しては、擬音語以上に彼らには馴染みが薄いだけに、言語学者や日本語教師でもない私には説明するのも難しい(そのおかげで、"純粋に言語としての日本語"への興味も湧く)


 今日、ふと気になって「はためく」について調べてみた。

 台風10号の接近に伴い、ベランダに干している洗濯物がはためいている、と言って直後に、「洗濯物がはためく」の「はためく」の「はた」は、"旗のように"布が風に吹かれて動いていることから「はためく」と言っているのだろうと見当して、漢字で「旗めく」と書くのだろうか、とふと思ったのである。

 辞書で調べてみると、「はためく」は確かに「旗」のように布等が「バタバタと動く」さまを表す言葉(自動詞)ではあるが(他に「鳴りひびく」「鳴動する」と言う意味もある)、全てひらがな表記だと言う。

 しかも、「はためく」の「はた(ハタ)」は「擬音語」らしい。

 と言うことは、棒などに結わえた何らかの「印」の「布地」が風で「ハタハタ」と動くさまから、その「布地」に対して先人が「ハタ」と名付けたのだろうか?

 つまりは、「擬音語」が「名詞化」したと言うことだろうか?私の"見当"は、順序が逆であった。先に「音」ありきであった。


 面白いなあ…

 だから、「旗がはためく」と言う表現も成立する。辞書に例文として載っている。「頭痛が痛い」とはワケ(格?・笑)が違うのである。
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2016/6/16

「怒り」  今日の言の葉

 最近、書店に行くと「怒り」と言うタイトルの文庫本が平積みになっている。小説「悪人」を書いた吉田修一氏の作品で、近々、この小説を原作とした映画が公開されるらしい。映画館で、その予告編を何度か見た。

 この「怒り」という言葉は、短い言葉ながら胸に刺さる、なかなかインパクトのある言葉である。

 監督最新作「マネー・モンスター」が公開中の米女優で監督のジョディ・フォスターさんが、先日、NHKのインタビューで、今の時代を象徴するキーワードとして「怒り」を挙げていた(放送は6月15日(水)の『おはよう日本』)

 曰く「今、アメリカでは(映画の登場人物のように)自分の置かれている状況に『怒り』を抱いている人が数多くいます。特に若者は正しいことをし、努力し、税金を納め、親の面倒を見ているのに、報われないと『怒り』を感じています。彼らの『怒り』は、間違いなく現在の大統領選挙の過程にも反映されています。そうした彼らの『怒り』は人種差別のような問題に繋がる危険を孕んでいます。行き場のない『怒り』は、「誰か」 に向けるしかない。今のアメリカ社会は『怒り』を抱えているのです。私は映画監督として、今の私達の姿を描いたつもりです。」

 映画では米国金融界のマネーゲームに踊らされ、人生を破滅に追いやられた若者の姿を通して、米国社会にある理不尽な格差にも疑問を投げかける。

 「現代の金融システムは複雑過ぎて一般の人々には理解するのが難しく、そのルールを理解しシステムを制御できる僅か1%の人だけが、そのシステムの恩恵を受けることが出来るのです。」

 ジョディ・フォスターさんが、12日(日)に米フロリダ州オーランドで起きた銃乱射事件を受けて、この発言をしたのか否かは不明だが、米国社会に蔓延する「怒り」が、社会不安を引き起こす可能性を指摘し、それが世界中に広まることへの懸念を表明したのは、ハリウッドきっての知性派として知られる彼女らしいと思った。

 フロリダの事件は、「犯人の『怒り』」が、「LGBTの人々」に向けられた結果なのだろう。それにしても、その結果はあまりにも悲惨だ。

 戦後以来ずっと米国社会の後追いを続ける、この日本の社会もまた「怒り」を抱えている。ネットに溢れんばかりの呪詛の言葉は、正に人々の「怒り」が、「誰か」に向けられているものなのだろう。

 
 ふと我に返って、「怒り」に任せて振り上げた拳を下ろしたくなった

 そう言えば、人々の「怒り」「憎悪」を栄養源に増殖する「紛争」「テロ」のおかげで、今や武器製造販売業は空前の利益を上げているとの報道があった。

 何か、おかしくないか?今の世の中。
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2016/6/7

「ますぞえる」または「ますぞえとちじる」  今日の言の葉

 政治資金の使途等を巡る批判の渦中にある舛添都知事が、今日、都議会に出席している様子を夕方のニュースで見た。

 当初の批判を受け付けない高飛車な態度から一転して、都議会の各会派の代表質問に対する答弁では、ひたすら平身低頭なそぶりを見せていた。

 しかし、殊勝なのは態度と言葉面なだけで、舛添氏の本質は何ら変わっていない。

 多くの人々が、彼の政治家としての倫理観や責任資質
を問うているのに、前日には元検事だと言う弁護士に「自身の一連の行為に違法性がないこと」を証明させ、批判の種となったホテル代の返金や別荘及び絵画等を処分さえすれば事足れりと思っている。

 意図してずれた反証をして、有権者の批判をはぐらかそうとしている。これは、自身の才に溺れて、有権者を小馬鹿にした態度に他ならないと思う。有権者は彼が思っているほど愚かではないよ。

 (図らずも「政治資金規正法」のザル法ぶりが露呈した形。おそらく、この法律を作った政治家も、自分達が政治資金をいかようにも使えるように敢えてザル法に仕上げたのだろう。

 今回の問題を受けて、有権者の側からすれば、法の不備を是正する共に、政治家の政治資金の使い方を厳正に監視する第三者機関の設置が必要だと思うのだが、政治家にとっては何のメリットもないから、彼らは何だかんだ理由をつけて玉虫色の決着を図ろうとするんだろうなあ…)


 今日は与党である自民党議員でさえ、彼の過去の著書での発言と現在の行動の言行不一致を指摘して、「あまりにもセコ過ギル」と断罪していた。さらに、舛添氏の答弁に納得が行かなかったらしく、後で再度質問に立ったようだ(とは言え、裏では舛添氏と自民党都連の間で「残留」の話がついているとの噂もある。都議会が「ガス抜き」の場として利用されているのであれば、これまた有権者を馬鹿にした話)
 
 「飛行機のファーストクラスになど乗るな」「運転手付きの公用車など要らない」

 少なくとも30代の頃の彼は政治家に清廉さを求めていた。しかし、都知事と言う強大な権力を得た今は金と権力に執着して、自身がかつて嫌悪した政治家に成り果てている(答弁で本人も後悔の色を滲ませていたが、過去に高邁な発言さえしなければ、ここまで批判されなかったのかもしれない。達者な口が仇となったのか?)

 自身の良心に恥じることはないのかな?
 権力は、かくも人を変えてしまうのか?
 或は、有権者に人を見る目がなかったのか?


 舛添問題のインパクトの大きさから、早晩、新語が出来そうだ。

 
 「ますぞえる」または「ますぞえとちじる」

 意味:言行不一致な行為をする。公私混同な行為をする。
    金に汚い様子。他人に厳しく、自分に甘い態度。

 用例:「ばれなければ何でもOK」とますぞえる。
    あの人、ますぞえているよね。
    ますぞえた都知事は、リコールによって、その職を解かれた。
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2015/12/13

自信をつける方法  今日の言の葉

 「私は今までに世界の百十カ国を歩いた。(中略)
 その結果の印象だが、私は日本、日本人に失望したことなど一度もない。昔ソ連華やかなりし頃は、北海道をソ連が「侵略する」危惧が全くないこともなかった。(中略)侵略の目当ては日本の人材だと思っていたものだ。何しろこれだけ有能で責任感のある労働力が数千万人いるのだ、資源としては石油も金もなくとも、侵略して労働力を確保する意味は充分にある…(後略)。
 しかし、現実の日本人はその能力を少しも出し切っていない原因は簡単だ。自信がないのである
 
 自信をつける方法も簡単だ。それは国民すべてが、主に「肉体的・心理的」に苛酷な体験をすることである。この体験に耐えたことがないから、自信がつかない。自信がないと評判を気にし、世間並みを求める平凡な人間になる。今の霞ヶ関の多くの役人が、前例ばかり気にする理由である。
 
(長い中略)

 危険を察知し、避ける知恵を持たさなければならない。停電したらどうするのだ。すべての民主主義は停電した瞬間から機能しなくなることを知っている日本人は少ない。
 私はすべての生活は苛酷だと思っている。そのあって当然の苛酷を正視し、苛酷に耐えるのが人生だと、一度認識すれば、すべてのことが楽になる。感謝も溢れる。人も助けようと思う。自分の人生を他人と比べなくなる。
 これらをやるだけでも、多分日本はかなり変わってくるのである。」

 (曽野綾子『旅は私の人生』pp183-185より)

 このくだりを読むと、戦後、稀有なまでの経済発展を遂げた日本が豊かになり、その結果、生存が脅かされることも殆どなくなった安全な日本で、日本人が失った大切なもののひとつが「自信」なのか、と考えさせられる。

 今の日本では、大半の日本人が否応なくがむしゃらに生きざるを得ない、まさに命を脅かされるほどの苛酷な体験をする機会などないに等しいのではないか。皮肉なことに、だからこそ多くの日本人は"生"の実感が乏しく、人生が虚しく、自らに自信も持てない〜自分がこの世に生きる価値を見出せない〜と感じているのかもしれない。

 しかし、それは、紛争や想像を絶するほどの貧困と言った日々生きることさえ困難な中にいる人々から見れば、本当に贅沢な、腹立たしいまでに贅沢な悩みなのかもしれない。

 だからと言って、著者は安穏と生きる日本人に、敢えて苛酷な中へ飛び込めとは言っていない。"長い中略"の中ではテレビのだらだら見をやめて家族間の会話を増やしたり、読書する習慣を身に付ける、家庭ではできるだけ家族で助け合って料理(=教育、芸術、社会学の一部)をすることを勧め、さらに贅沢する為に安易に売春などするな、電車で化粧したり、携帯ばかり見つめるなと戒めているだけである。

 世界の中では信じがたいほど豊かで安全な国で生きている私達日本人に、せめて日々の暮らしの中で自分を律して生きるよう、昔気質の女性ならではの意見を述べているだけだ。

 私自身は、日々何事につけ"努力"や"真剣み"や"覚悟"や"緊張感"が足りないと思う。自分にすごく甘い。もう何年も何かに必死に取り組んだことがない。だから、今一つ自分の能力に自信が持てないのだろう。だから、上掲のくだりが心に引っ掛かったのだと思う。

 読書は自分を見つめ直す、貴重な機会だ。
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2015/12/2

こと始め  今日の言の葉

 新たに「今日の言の葉」と言うカテゴリーを作り、日々、印象に残った言葉を書き残して行こうと思う。私はけっして多読家ではないけれど、毎日何かしら読んではいる。外出時のバッグにも1冊ないし2冊の本を忍ばせて、バスや電車での移動中に読んでいる(そう言えば、最近また電車やバスで読書する人が増えて来たように思う。仲間が戻って来て?嬉しい限りまあ、あくまでも個人的な印象だけれど)

 私の読書傾向は、ある一人の作家の本を読んで気に入れば、続けて飽きるまでその作家の著書を読み続けることが多い。最近は『人間の分際』を読んで以来、曽野綾子さんの著書をコンスタントに読んでいる。もう今ので4冊目だろうか?

 今日はその中からひとつ。出典は『旅は私の人生』(青萠堂、2015)、p50「たまには途上国の悪路を経験するといい」より。

 ( 前略 )
 
 時々私は機嫌がいいと言われることがある。実は私はイジワルで不遜で、忍耐心もあまりない。機嫌がいい人などとほめられる要素は全くないのだが、子供の頃から苦労して育ったおかげで、仏頂面して生きるのと、とにかく表面だけはにこにこして暮らすのと、どちらが無難かという選択はできるようになったのである。

 これ以上乗り心地のいいシートはないと思うようなベビーカーで育った赤ちゃんは、将来どうなるのだろうか?

 ( 中略 )

 しかるに世界の半分以上はひどい暮らしをしている。国によっては、道路の九割は、穴凹だらけの未舗装の道なのだ。そこを路線バスさえろくろくないので、何キロでも歩く暮らしをしている人もたくさんいる。
 
 ( 中略 )

 過保護に育った子供はそんな体験をしたくないだろう。もちろん、その子が自分のひ弱さを自覚して、自分で自分を改造すれば、私以上に強くなるだろうが…。

 子供にはむしろ厳しさに耐えることを教えるのがほんとうの親心だと私は思っている。一日くらい食べなくても平気。長く歩ける。悲しみに耐えて生きて行く。ものがなければ工夫して生きる。こうしたことができる子供だけが、心身共に生き延びるだろうし、幸福も手にするのである。
 

 親ばかな自分を戒めるような言葉が印象に残った。今、気に掛かっていることだからこそ、その一節が心に引っ掛かったのだろう。そして自分の今の心情に照らして、敢えて自分とは逆の見方を選び、自らの甘さを戒めることで、考え方のバランスを取っているかもしれない。

 そもそも自分自身の経験に照らしても、辛かった子供時代があったからこその今があるように思う。今、私は自分が置かれた環境に素直に感謝できる。幸福である。その意味では、息子はこれからが大変かもしれない(とは言っても息子も傍目には恵まれた環境ながら彼なりに様々な葛藤はあっただろう)。しかし、辛く苦しい経験も糧にして、自立した人間として生き抜いて行くしかない。


 曽野綾子さんはその率直な物言いでしばしば物議を醸す人で、アマゾンの書評でも時々辛らつな批判を浴びている。戦中戦後を生き抜いて来た人らしい肝の据わった人で、多少の批判には微動だにしない。自分の粗忽さも認めた上で(だから一部で批判されているような上から目線ではけっしてないと思う。しかし、ネット上では曽野さんはご夫妻揃ってエライ叩かれよう叩かれても仕方のない失言も確かにあるようだ)、時には敢えて人の神経を逆撫でするような辛口な発言で、読み手に考えさせる。寧ろそこが彼女の良さだと私は思う。

 心地良い、目障りの良い言葉はするりと意識を通り抜けるだけである。引っ掛かるからこそ人はそこで考え、言葉は意識下に残るのである。

 とは言え、作家の言うこと全てを鵜呑みにするほど自分はうぶではない。学生時代の恩師にもCritical readingを勧められたのが今も頭の片隅に残っている。本の内容を読んでそのまま受け入れるのではなく、しばしば立ち止まって自分の頭で考えて、その是非を判断することを心がけている。

 その根底には作家も所詮人間であり、その思想やそれに基づく発言が必ずしも完璧ではないという認識がある。日本人はとかく信仰心が希薄だと言われるけれど、一部の歌手のファンの在りようを見ていると、歌手をあたかも神のように崇拝し、その挙動発言を鵜呑みにしているところがあるのではないか?今も昔も得体の知れない新興宗教に高学歴者が嵌るのも珍しくない。さらに、この国はかつて何かに付け「一億総」と言う接頭語?をつけて、国民に対して挙国一致を強いたことが何度もあった。そこに日本人、ひいてはこの国の危うさを感じる。

 どんな人物であれ〜立派な肩書きや華麗な経歴の持ち主であれ、一見真っ当な物言いの人物であれ、盲信してはいけない。それは曽野さんに対しても同様だ。特に戦略的に"イメージ"を利用する映像&宣伝広告の時代の今は、耳障り目障りの良い言葉を投げかけたり、印象的(キャッチー)なフレーズを多用する人物は少し疑ってかかるぐらいの用心深さが、受け手側には必要なのかもしれない。

 だからこそ作家とも程よい距離感を保って、その著作に時にはツッコミを入れながら読むぐらいが、読書をする態度としては丁度良いのではと思っている(そのせいか、読む本にもよるけれど読書中に独り言や含み笑いが多いと夫に指摘されている)
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