2016/6/21

「ビンボー魂 おばあちゃんが遺してくれた生き抜く力」(中央公論新社、2016)  読書記録(本の感想)

クリックすると元のサイズで表示します 私の同世代と言えば、まず思い浮かぶのが歌手の藤井フミヤ氏、ビミョーなところでは元オウム、元アーレフ、現ひかりの輪代表の上祐史浩氏、そして同列に並びたくない人としては、連続幼女誘拐殺人犯の故宮崎勤などがいる。

 所謂「バブル世代」であり、学生時代には「ハマトラ・ファッション」が花盛りで、当時女子大生の間で絶大な人気を誇っていた「JJ」誌の表紙を、女子大生モデルとして賀来千香子さんや黒田知永子さんが飾っていた。

 「バブル世代」と言っても、私は華やかな「バブルの世界」とは無縁だった。就職しても学生時代に借りた奨学金の返済と、実家への仕送り(ボーナスも半分は親に渡していた)で経済的な余裕はなく、やれ豪華ディナーだ、やれ海外旅行だと浮かれる同期を横目に、つましい生活を送っていた(当時は、自分の人生はいつまで実家に振り回されるのだろうとの不安で、将来に明るい展望が見えなかった。結婚して初めて実家の呪縛から解放され、自由になれたと思う。夫には感謝している)

 バブルは東京だけの話かと思っていたが、後で郷里の友人も、当時は毎月のように恋人とホテルのレストランでひとり3万円のディナーを食べていたと聞き、当時は日本各地が狂乱の最中にあったのだと知った。

 それから数年後の1986年に「メンズ・ノンノ」誌が創刊され、その「メンズ・ノンノ」で阿部寛氏と共にモデルを務めていたのが、今回取り上げた「ビンボー魂 おばあちゃんが遺してくれた生き抜く力」の著者である俳優の風間トオル氏である(因みに女優の松雪泰子さんは、「第一回メンズノンノ・ガールフレンド」に選出されたのがきっかけで、芸能界にデビューした)

 この風間氏も、紛れもなく私と同世代。

 
 「文は人なり」と言うが、本書は彼の顔がすぐさま頭に思い浮かぶような、普段テレビで見る彼そのままの語り口調で綴られ、サクサクと読み進め易い。

 しかし、内容はけっして軽いものではなく、モデル時代から知られた端正なルックスと、俳優として活躍する現在の落ち着いた佇まいからは想像もつかないほど壮絶な子供時代のことを、風間氏は本書で赤裸々に綴っている。幼子が直面するにはあまりにも過酷な運命の、胸が刺されるようなエピソードの連続である。

 
 幼い頃、相次いで両親に捨てられ、父方の祖父母に育てられた風間氏。乏しい祖父母の年金だけが頼りの極貧生活は、同じく父の長患いでつましい暮らしを強いられた私でさえも驚く内容であった。あまりにも突き抜けたそのビンボーぶりには、驚きを通り越して、笑いさえこみあげてくる。

 尤も、本当は笑うに笑えない壮絶な極貧生活を「ユーモア」に変換しているのは、他ならぬ風間氏の、機知に富んだ、ひとりの人間としての逞しさなのである。

 「いいことも悪いことも過去でしかない。大事なのは今日を生きるために必死になること」(p.34)
 「貧乏ゆえに工夫をして暮らした生活は『目標を達成するための方法はひとつだけではない』という人生哲学を教えてくれました」(p.45)

〜幼くしてそう達観した彼は、困難の中を、彼流のサバイバル精神で生き抜いて来たのだ。

 数多ある人物の苦難を綴った半生記の中でも、本書が白眉なのは、本書を貫いているのが、幼い頃に自分を捨てた両親への恨みつらみではなく、両親に代わって貧しいながらもありったけの愛情を注いでくれた祖父母や、彼を温かく見守り、助けてくれた周囲の人々への感謝の念であること。そこに彼の気高い品性が滲み出ている。

 その彼の品性を育てたのが、基本的に放任主義ながら、要所要所で彼の胸に響いた、祖母の言葉や祖父母の振舞であった。両親が相次いで彼のもとから去った時も、祖父母がこれからどうしようと狼狽するでもなく、彼を不憫に思って甘やかすでもなく、淡々といつも通りの生活を送ったことで、彼は自分の身に起きた(普通ならかなり深刻な)事態に動揺することなく、やり過ごせたようだ。

 祖母は特に「学」や「技能」があるわけでもなく、パチンコで日銭を稼ぐような一介の老婆である。しかし、ちょっと"無茶ぶり"とも言えるアドバイスで(笑)、逞しく生き抜く為の知恵や、人としての心構えを、彼に授けてくれた人であった。

 「男は泣くもんじゃない」
 「(多少のケガは)ツバをつけときゃ治る」
 「出血がひどい時でも、ツバをつけて、心臓より高く手を上げときゃ治る」(←その"教え"のおかげか、或は天賦の賜物か、彼には驚異的な自然治癒力が備わっている)

 街で大きな荷物を持って歩いている女性を見かけると、
 「なぜ男なのに手伝ってやらないんだ」
 「なぜ男なのにドアを開けてやらないんだ」
 「なぜ男なのに順番を譲ろうと考えないんだ」
 とレディーファーストの教えを説いた。
 そこで親切を申し出て、たとえ無視されとしても、
 「そんなことはどうでもいいんだ(感謝されることを期待しない。それが男の優しさと言うものだ)」と、諭してくれた。

 カニの行商人がはるばる来たと聞けば、その苦労話に耳を傾け、お金もないのに全て買い上げてしまう。揚句に、生ものを家族で今日中には食べきれないからと近所に分け与えてしまう。心配する風間少年に、祖母は 「明日は明日。いいの、いいの、なんとかなるから心配しなくても大丈夫!」とあっけらかんと笑う。

 実際、ご近所同士のお裾分けを日々目の当たりにして、彼は「お金は回る。でも本当に回るのはお金ではなく人の情です。人情を持って人と接すれば、人情が返って来るのです。」(p.68)と、人と繋がることの大切さ、人との繋がりさえあれば、人生は何とかなるのだと悟る。

 どうしようもない貧しさの中でも楽観的で、時に豪快で、そして、とびきり情に厚い祖父母から、風間氏はかけがえのない人生訓を学び取ったのだろう。

 後年、風間氏は不思議なめぐり合わせでファッション・モデルとなり、バブル華やかなりし頃はその只中で我を忘れることもあるのだが、祖母の死によって再び原点を思い出す。斯様に祖母が、彼の人生に及ぼした影響は大きい。それが添えられた副題の意味するところなのだろう。

 個人的には「堂々と生きて行こう!」「時々、神様に出会った」「グレない理由」の項が、自分自身の体験と少し重なるところがあり、特に印象的だった。


 このところ巷間を賑わせた舛添要一氏も、北九州の貧しい家の出で何の後ろ盾もなく、その明晰な頭脳だけを武器に、学者を経て、国会議員(厚労相)や都知事にまで這い上がった人である。しかし、貧しさ故に辛酸を舐めた過去のコンプレックスの裏返しなのか、常軌を逸した金銭や社会的地位への執着で、最近の彼の評判はすこぶる悪い。

 多くの一般大衆は彼の社会的成功を妬んで、彼を執拗に非難したわけではなく、さらに今回の彼の転落に「それ見たことか」と溜飲を下げているわけでもないのだろう。大衆の殆どは、ただただ、彼がその成功に見合うだけの品性を備えていなかったことに、がっかりしているだけなのだと思う。少なくとも私はそうだ。

 6月21日付で辞任ながら、21日の日程は全てキャンセルし、20日が実質的に最後の登庁日だった舛添氏は、目に怒りを蓄えた表情で、マスコミから投げかけられた質問にも一切答えず、あれほど連呼していた「説明責任」も果たすことなく、逃げるように足早に都庁を立ち去った。少なくとも2年4カ月間、都政の頂点にいた人としては、無責任な去り方だったと思う。

 あの不機嫌さを隠そうともしない表情・態度からして、自分は悪くない、自分は無理やり都知事から追い落とされたと未だに思っているのだろうなあ。謙虚に自分を省みることの出来ない品性の持ち主には、自分の何がいけないのかが分からないのだろう。

 彼の身近に、そんな彼を諌めたり、教え諭すメンターはいないのだろうか?そして、自らが招いた今回の不遇をただ嘆いて、これから世間を呪い続けるのだろうか?天賦の類まれな頭脳があるのに、勿体ない話である。

 そもそも、彼の上昇志向のモチベーションが、かつて自分を蔑んだ世間を見返す為だったのであれば、彼は政治家になるべきではなかったのだと思う。政治は個人の恨みを晴らす場ではない。


 奇しくも貧しい環境から這い上がって、それぞれの分野で功なり名遂げた2人の人物のあまりにも対照的な現在の姿に、人間の品性がいかにして身に付くのか、磨かれるのか、その難しさを改めて考えさせられた。
 
 本書は文章の巧拙を超えて(プロの書き手ではないのだから、それは当然で…)、著者の力強いメッセージが胸に響く良書だと思う。特に子育て期の親、小中高生等(もちろん、興味を持たれた、それ以外の方々にも!)に是非、読んで貰いたい一冊である。

 「ビンボー魂 おばあちゃんが遺してくれた生き抜く力」(中央公論新社、2016)
  1,296円(税込)

       今は亡き"家族"ロコ助六銀之助と共に著者。これまた良い表情…
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2015/6/23

アートを楽しむ  読書記録(本の感想)

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 アートを自分なりに、もっと気軽に、気楽に、楽しもう!
 アートを自分なりに、もっと自由に、深く、味わい尽くそう!


 今年はたまたま美術館にまつわるドキュメンタリー映画を2本見る機会があった。ひとつは『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』、もうひとつは『ヴァチカン美術館 天国への入口』と言うものだ。

クリックすると元のサイズで表示します 何れも世界的に有名な美術館を取り上げているが、全く違うスタイルで、フォーカスしている部分も違う。

 前者は展示室内でのギャラリートークの様子を何度も映し出しつつ、展示室を"舞台"としたイベントやアート教室開催等、美術館資源を用いた多彩な活動、また、修復保存室の様子や美術館スタッフの運営会議の様子等、美術館のバックステージとも言うべき内容も映し出した、約3時間にも及ぶ長大なレポートだ。

クリックすると元のサイズで表示します 一方、後者は美術館の建築や所蔵コレクションの紹介にフォーカスした作りとなっている。取り上げられるコレクションも、それほど数は多くない。それらを、外連味たっぷりの演出で、格調高いナレーションと共に、凝った映像(今回3Dと言うのがウリらしいが、私は2Dで見た)で映し出している。こちらの上映時間は66分と短い。

 あくまでも個人的感想だが、両者共に自分が期待したものと少し違っていて、見終わった後、満足したとは言い難かった。作り手の発信したいものと、受け手が「美術館のドキュメンタリー」と聞いて期待するものとのギャップが大きかった印象だ。

 ただし、何れも表現芸術としては当然成立する映像作品だとは思っている。それぞれの作家の視点で、世界の名だたる美術館の姿が描かれたと言うだけのことだ。

 斯様に、特に近代以降は作家の主体性が重んじられているのがアートの流れと言える。受け手の反応以前に、作家が伝えたいものをいかに表現するかが重視される時代。

 西洋美術で言えば、中世以降近世以前のアートが、キリスト教の教義を広く民衆に伝播する手段として用いられ、多くの作家が創作を通して自身の作家としてのアイデンティティを誇示するよりも、"職人"として誰の目にも分かりやすい表現に徹していたのと違い、近代以降の作家は、その作家性を際立たせることに腐心して来た。特に現代は、"人と違ってナンボ"の時代である。

 上野の国立西洋美術館の常設展示室は基本的に古い年代順に展示されている為、中世以降から20世紀前半に至るまでの西洋美術のテーマの変遷と技法の変化を概観するのにうってつけの場所であるが、その最後の部屋の20世紀美術の作品群を見れば、このことは瞭然である。正に「個性が爆発している」。

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 私はこの10年余り、教育普及ボランティアとして、主に児童生徒を対象にギャラリートークを行って来たが、頭の柔らかい子供たちは、その殆どが初めての鑑賞体験でありながらも、西洋美術史の劇的な変遷をそれほど違和感なく受け止めているように見える。一方で、成人は最初の宗教画コーナーで首を傾げ、途中の印象派絵画にホッとした表情を見せ、最後の部屋に来て、百花繚乱とも言うべき作品を前に、戸惑いの表情を見せる人が少なくない。

 成人諸氏が戸惑うのも無理もない。彼らはその人生の中で、鑑賞教育を受けたことがないからである。そもそも日本で、学校の教育カリキュラムに鑑賞教育が取り入れられたのも、ここ15年程のことである。既に翻訳物を中心に、美術教育の専門家の視点から書かれた鑑賞教育に関する書籍も数多く出版され、学校における鑑賞教育は十分に浸透しつつある。

 それでは、既に学校で学ぶ機会のない成人はどうしたら良いのか?まず、カルチャー・スクールで開講されている鑑賞体験が組み込まれた講座を受講すると言う手がある。また地方公共団体が主催するギャラリートーク付きのツアーに参加すると言う方法もある。或いは、美術館で実施されている一般向けギャラリー・トークに参加するのがもっと気軽だろうか?(美術館によって実施方法やスケジュールが違うので、各美術館のHPを参照のこと)

 因みに国立西洋美術館では、教育普及室長が、今後はシニア層への教育普及活動も視野に入れて取り組みたいと、数年前に言及している。それを踏まえての、ボランティアによる週末の一般向けギャラリートークの開始だったのだろう。

 国立西洋美術館ボランティアによる美術トークと建築ツアーについてのご案内

 さらに鑑賞体験を豊かにする手立てとして、鑑賞方法を指南した本を読んでみる、と言うのもある。ところが意外にも、この種の本に一般の成人を対象としたものは、これまで殆どなかった。その意味で、冒頭に掲げた2冊の本『現代アート、超入門!』(集英社新書、2009)『アート鑑賞、超入門!』(集英社新書、2015)<何れも藤田令伊著>は画期的なのである。教育的観点からでもなければ、専門家の観点でもない。鑑賞者の立ち位置から、鑑賞の楽しみ方を指南する本。一般の美術ファンが、特別な気構えを必要とせずに鑑賞を楽しむ為のヒントが満載の本。

 と言うのも、著者は元々美術の専門家ではなく、出版社で編集者として働いていた人物だ。今は美術好きが高じてアート・エッセイを執筆したり、美術鑑賞グループを主宰する等して、美術と一般鑑賞者との橋渡し役を果たしている人物のようだ。

 ところで、私は思い立ったが吉日とばかりに、自身の勉強も兼ねて、一人で展覧会に足を運ぶことも多い。その際、一鑑賞者として作品を見ながら、実は他の鑑賞者の言葉に聞き耳を立ててもいる。美術館の教育普及事業を担う一人として、一般の鑑賞者がどのように作品を鑑賞しているのかが気になるからである。

 鑑賞者は鑑賞の際に何に注目し、何に疑問を感じているのか、どんなことに困っているのか、何を知っていて、何を知らないのか、鑑賞を本当に楽しんでいるのか否か、美術館に対して率直にどんな感想を持っているのか、美術館に何を期待しているのか、企画展について、どの程度満足しているのか、常設展示室のあり方についてどんな意見を持っているのか等々、美術館と鑑賞者の間に立つ人間として、鑑賞者と美術館の関係についての関心は尽きない。

 そして、自分が答えられる範囲の疑問を耳にすると、つい答えたくなってしまい、答えたら答えたで、相手を驚かせてしまう。そりゃあ、そうだ。自分のつぶやきに聞き耳を立てている見知らぬ他人なんて、気持ち悪いだけだ。

 だからこそ、美術鑑賞に興味があるけれど、どうやって鑑賞すれば良いのか分からない、或いは迷っている人に、掲記の2冊をまずオススメしたいのだ。私のように散々美術館で研修を受けて来た者からすれば当たり前の内容であっても、一般の鑑賞者からすれば、帯に書かれているように「目からウロコ」の内容だろう。

 そして、その2冊を読み終わった後に、もし時間があれば、現代美術の入門書して優れた下記の2冊をオススメしたい(表紙写真をクリックすると、アマゾンの該当ページにジャンプします)

 できるだけ多くの方々が、美術館での作品鑑賞を心から楽しんでいただけるよう願って止まない。 



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2015/2/23

"名画で読み解く"シリーズ  読書記録(本の感想)

クリックすると元のサイズで表示します 最近、中野京子さんに嵌っていて、彼女の"名画で読み解く"シリーズ(光文社新書)を立て続けに読んでいる。

 きっかけは中欧旅行から帰って来て以来、中欧を起点に600年の長きに渡りヨーロッパ全土で権勢を振るったハプスブルグ家について興味を覚え、その関連の著作を読み始めたからだ。その過程で中野さんの著書『名画で読み解く ハプスブルグ家12の物語』を知り、同シリーズの『ブルボン王朝12の物語』と続いて、現在は『ロマノフ家 12の物語』を読み始めたところだ。

 中野さんが一躍名を馳せたのは、意味深な女性の表情が印象的なジョルジュ・ド・ラ・トゥール作の《いかさま師》(ルーヴル美術館蔵)が装丁に採用されている『怖い絵』シリーズらしいが、私は周回遅れに嵌ったファンと言える。

 中野さんの"名画で読み解く"シリーズは、描かれた絵画を切り口に(しかもカラー図版なのが嬉しい)、複雑多岐に入り組んだ複数の王朝の歴史を時に連係して、軽妙洒脱な文章で紐解いてくれているのが何よりの魅力だ。おそらく語り部として、数多ある史実から取捨選択する能力にも長けているのだろう。そして、テンポ良く言葉が紡ぎ出される彼女の巧みな表現にかかれば、歴史上の人物達があたかも今、リアルタイムに生きているかのように活き活きと目の前で動き出すのだ。たまに軽はずみとも取れる弾けた表現がなきにしもあらずだが、そこはご愛嬌。

 特に、戦争なき覇権で他国の王族と政略結婚を繰り返し、王朝の権威維持の為には濃厚な血族結婚も辞さなかったハプスブルグ家は、フランスのブルボン家とも浅からぬ縁がある。『ハプスブルグ家』と『ブルボン家』の二冊には、両著を行き来しながら読む楽しさもあった。

 また、過去に見たヨーロッパが舞台の歴史映画の数々が、本シリーズを読むことで、「王朝の栄枯盛衰を通して見るヨーロッパ史」と言う1本の筋に繋がったのも嬉しい。

 その意味では『ロマノフ家』は前2著とは些か趣きを異にする印象だ。本の冒頭に折り込まれた家系図を見ても、国外の王室とは英国王室との姻族関係が唯一あるのみで、基本的にロシア国内で自己完結しているのが特徴的だ。さて、どのような12の物語をこれから展開させて行くのか、中野女史の手腕をとくと拝見しよう。

 そして、『ロマノフ家』読了後も、『印象派で近代を読む』『「怖い絵」で人間を読む』『はじめてのルーヴル』(←ルーヴル美術館は既に数回訪れているのだが、中野さんがどのように解説しているのか興味があって購入。一昨年も6時間滞在したが、結局、半分見るのがやっとだった…)の3冊が控えており、私が中野ワールドに嵌る日々は暫く続く…

 下記の画像をクリックすると、amazonのサイトにジャンプします。



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2012/12/25

岸本佐知子『なんらかの事情』(筑摩書房、2012)  読書記録(本の感想)

クリックすると元のサイズで表示します 昨日の散歩の帰り、いつのもように駅前の大型書店に寄った。その入口にある新刊本のコーナーで見つけたのがこの本だ。

 何十冊と言う新刊本がひしめいている中で、意味深なタイトルと白地に小さなイラストのシンプルな装丁が目を引いた。「なんらかの事情」って、不倫小説?ミステリー小説?著者の俯き加減の、ちょっと困ったような表情が目に浮かぶようでもある。

 しかし、ひらがなの「なんらか」に柔らかさと言うか、何となく軽みがあり、それほど深刻な事情とも思えない。一体、どんなことが書いてあるのだろう?著者の「佐知子」と言う名前が知人と同じで、もしかして彼女が旧姓で本を出したのか、と言うあらぬ想像も手伝って、本書を手にとってみた。

 エッセイだった。かつて講談社エッセイ賞を受賞した、翻訳家の肩書きを持つ著者の6年ぶりの新作らしい。ファン待望の新刊のようだ。有名作家にも、この著者のファンが多いらしい。

 知らなかった。こんな面白いエッセイを書く人がいたなんて。冒頭の「才能」で、心掴まれた。「レジ待ちの列で、いつも一番流れの遅い列を選ぶ」才能だなんて、「才能」と言う言葉にそんな修飾がつくとは、これまで想像もつかなかった。

 そうそう、スーパー・マーケットのレジに並ぶ時、悩むのよね。夕方のスーパーのレジなんて長蛇の列で、仕事帰りの重たいカゴを抱えている身には、どこの列に並べばより早く支払いを終えられるか、結構切実だったりする。隣の列に並ぶ人がライバルにさえ思えて来る。まがりなりにも場数を踏んで、列選びの要領を心得たつもりが、思わぬアクシデントや伏兵?の出現で、こちらで勝手にライバル視していた人に、あえなく先を越されてしまうのだ。その悔しさったら…ああ、いかん、いかん。私ったら大人げない。

 「才能」は、レジ待ちの行列の中で、人知れずそんな葛藤を繰り広げている私の心の中を見透かしたような、ド・ストライクなエッセイだった。

 タイトルからは想像もつかない話が次から次へと展開する。出発点は誰もが日常にふと思いつくことだったりするのだが、そこからの想像の広げ方がユニークで自由闊達。そして着地点が絶品。そうか、こう来たか、と意外なオチに唸らされたり、その遊び心にニヤリとさせられたり、或いは、あまりの面白さに笑い声をあげずにはいられなかったり…

 ブログとは言え、文章を書く立場からすると、作者の文章の締め方の巧さに脱帽だ。私はブログ記事を書いていて、最後のオチをどうするか迷うことが多い。ちょっと捻りをきかせてみたいとか、読み手の予想を裏切って驚かせてみたいと思ったりもするのだが、発想力に乏しいせいか、なかなか思う通りの終わり方ができない。冒頭の勢いから途中失速して尻すぼみになったり、締めの言葉が見つからず、当たり障りのない凡庸な終わり方になったり、結局オチらしいオチのない何とも締まりのないものになったりと、自分で納得できるような締め方が出来た試しがない。悔しいが(←って、身の程知らずもイイトコ?!)、そこがプロの書き手と素人の違いなんだろう。

作者について少し調べてみたら、本業の翻訳家としての評価も高く、この翻訳家の翻訳ならと「指名買い」する固定ファンも多いらしい。なるほど、翻訳家の力量次第で、元々の作品の評価さえ変わってくると言われるくらいだ。原文により近いニュアンスを日本語で表現するには、数ある言葉の中から、どの言葉を選択するべきか、翻訳家は日々呻吟しているに違いない。斯くて長年翻訳家として活動する中で研ぎ澄まされた作者の言語感覚が、その豊かな発想や想像の源泉となっているのかもしれない。

と、ここまで書いて、白状するのも小っ恥ずかしいのだが、私は本書をまだ買っていない。自宅にまだ読んでいない本が溢れかえっているので、夫に本を買うのを禁じられているのだ。何編か拾い読みして、書店にいることも忘れて声をあげて笑ってしまった私は、泣く泣く本書を元の位置に戻した。しかし、本書の面白さには抗えず、私は夫の禁を破って、たぶん明日には単身書店に乗り込んで、本書を買ってしまうだろう

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2012/12/3

大原千晴『名画の食卓を読み解く』(大修館書店、2012)  読書記録(本の感想)

クリックすると元のサイズで表示します ひとくちに「美術史」と言っても、さまざまなアプローチの仕方があると思う。私個人はどちらかと言うと技法的なことよりも(←もちろん、美術史的には重要で、ギャラリートークでも外せない要素)、作品が生まれた社会的背景に興味がある。

 ひとつの美術作品の誕生には、作家自身が目指した芸術表現の弛みない追求もさることながら、作家が生きた社会の政治体制、社会構造、経済状況、そして思潮が否応なく反映されているはずだ。

 例えば、17世紀オランダにおける風俗画の流行は、後に「黄金時代」と称せられる当時のオランダの政治・宗教・経済状況がもたらした社会構造の変化に拠るところが大きい(→参考記事:『フェルメールとオランダ風俗画』)

 作品が生まれた時代背景に目を遣ることは、幾年月を経て今に伝わる作品を通して、その時代に思いを馳せると言うこと。

 その意味で、英国骨董店の店主で、骨董銀器専門家の肩書きを持つ著者による本書は、大いに興味をそそられる内容だった。名画に描かれた食卓から、名画が描かれた時代の文化的背景に迫る。著者曰く、欧米では近年「食文化史」と言うジャンルが劇的に発達してるらしい。欧米の食文化史を、古代から近代までの名画を切り口に紹介したのは、日本ではおそらく、この著者が初めてではないだろうか?

 本書はカラー図版が豊富で目にも楽しく、美しい装丁は愛蔵版と言った趣き。各々がそれほど長くない(←つまり読み易い)21章から成る本書は、巻末に「読書ガイド」も添えられていて、読者のさらなる好奇心にも応える構成となっている。

 厳密には美術(史)書とは言えないのかもしれないが、こうした名画の楽しみ方があってもいいと思わせる良書だと思う。


 各章のタイトルは、例えば以下の通りだ。

《3》食卓で手を洗う(←その習慣はいかにして始まったか?)
《4》英国中世 修道士の肉食(←修道士の食いっぷりと商才に驚く!)
《6》紀元前4世紀末 古代エトルリアの宴(←豊かでしゃれていた古代エトルリア)
《9》19世紀初頭 ロードメイヤーの宴席(←知られざるロンドン市長の権勢)
《10》17世紀中期 オランダ都市の食卓(←豊かなオランダの食卓の背景には…)
《14》アフタヌーンティーの誕生(←アフタヌーンティーのルーツとは?)
《21》19世紀 パリ 船遊びの昼食(←19世紀パリ風俗の最先端!) 

【冒頭から、いきなり「ヘェーヘェーの連続】

 第1章は「15世紀 フランスの王族の宴」。取り上げられた作品は《ベリー公のいとも豪華なる時祷書(1月)》ランブルール兄弟、1413-1489頃。

クリックすると元のサイズで表示します 時祷書とは「祈祷文や賛歌、暦からなるキリスト教徒が使用する聖務日課書を指し、私的な物なので、各人が趣向を凝らして作成したらしい。中でも有力王侯貴族のひとりであったベリー公の時祷書国際ゴシックの傑作でもあり、最も豪華な装飾写本として評価が高い」と言われている(ウィキペディアより)

 この章で著者は、この一葉に描かれた事物を事細かに解説し、それぞれが意味する文化的背景を活写している。

 例えば、食卓脇で給仕している男性達は単なる「召使い」ではなく、ベリー公からの信頼が厚い「エリートの側近」であることを明快に解き明かす。

 まずは、その見た目に着目。緑の服を着た男性の靴の踵から飛び出しているのは乗馬に必要な「拍車」。拍車は「騎士身分」の象徴だと言う。次いで彼らの行為に注目する。一見すると召使いの行為である「給仕」。身分の高い人物がなぜ「給仕」をするのか?これには少なくとも2つの理由があった。

 ひとつには「毒殺対策」。当時、欧州各地の宮廷で毒殺の陰謀が跡を絶たなかった為、給仕は信頼できる側近にしか許されなかったと言う。宴席で料理を運ぶ銀盆"Salver"も、語源に"毒味をする"と言う意味を含むらしい(因みに韓国の食器が金属<銀?>製なのも、かつての毒殺対策の名残だとか)

 もうひとつは城の広大なホールを舞台に繰り広げられる芝居「宴の食事」の中で、「主役を演じるベリー公と賓客に対して給仕をする」と言う行為が、特別な訓練を要する厳しい食卓作法に則ったものであり、極度の緊張を強いられる大役であるということ。フランス語で「侍臣」と「刃」を意味する2語を組み合わせた役職名を与えられ、主家の紋章の刻まれた大中小のナイフを華麗に使い分け、宴のメインディッシュであるロースト肉を切り分ける彼ら。

 「重要な政治」の場であり、キリストの「最後の晩餐」への憧憬をも意味した、こうした特別な宴で存在感を示した人物達が、それぞれの立場を暗示させる形で、この一葉には克明に描きこまれているのだ。しかし、それが一般の、非西欧文化圏の日本人には分かりづらい。それを軽やかな筆致で絵解きしてみせたのが、著者の真骨頂だろう。

 また大道具、小道具に関する解説も興味深い。食卓で金色に輝く食器は果たして純金製なのか?テーブルの足の形やテーブルクロスが意味するところは?背景の豪華なタペストリーの意外な役割とは?

 他にも当時の宗教観や季節感への言及等、著者の視野の広さに感心する。そして、先へ先へと読み進めたくなる面白さだ。

 最後に敢えて難を言えば、細かい解説を読みながら、何度も章の表紙の図版を見返さなければならないこと(笑)。しかし、そんな面倒臭さを我慢しても、この本は一読の価値ありだと思う。とにかく著者の明快な絵解きに、胸がワクワクする。 
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2012/6/4

渡辺和子『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎、2012)  読書記録(本の感想)

クリックすると元のサイズで表示します 最近は「ボロは着てても心は錦」とは言わないようで、「名は体を表す」ならぬ「外見は内面を表す」と言うのが常識になりつつある。そのせいか、才色兼備と言うか、才能豊かな人々に、洗練された美男美女(いかにも品があり利発そうな顔立ち)が増えたような気がする。

 このことは本の装丁にも当て嵌まるのか、私が昨年辺りからその言動に注目している、新潮社出版部長の中瀬ゆかり氏が週一で出演の情報番組でも、本の装丁の良し悪しを2社で競う「装丁じゃんけん」と言うコーナーがあり、夫婦してそれをよく見ている。出版社が、商品である本を、とにかくまず客に手に取って貰おうと、装丁デザインに心を砕いているさまがよく分かる企画である。そのコーナーで編集者のプレゼンを見、中瀬氏らの熱いコメントを聞いて、紹介された本を買ったのも1度や2度でない。

 表題の本も、書店内をクルージングして、その装丁の可憐さに惹かれて思わず手に取ってしまった本である。後で知ったのだが、最近のベストセラーらしい。

 しかし、装丁の良さはあくまでも「掴み」。買う、買わないは、やはり「内容」が大切だ。私は(たぶん、多くの人がそうだろうが)、まず目次を見る。そこで気になった項目を2,3ページ読んでみる。そこで、例えば文体のリズムとか、主張への共感とか、さらに先を読みたくなる内容の魅力とかで、実際に買うか、買わないかを決めることになる。


 表題の本、『置かれた場所で咲きなさい』は、目次に羅列された項目のひとつひとつが「金言」の輝きを放って、胸にぐんぐん迫って来た。驚くことに、ひとつとして無駄な言葉がない。シンプルかつ心に響くメッセージの数々である。

 例えば、こんな感じだ。

第一章 自分自身に語りかける

 人はどんな場所でも生きていける。
 一生懸命は良いことだが、休息も必要
 …

第二章 明日に向かって生きる

 人に恥じない生き方は心を輝かせる
 親の価値観が子どもの価値観を作る
 …

第三章 美しく老いる

 いぶし銀の輝きを得る
 ふがいない自分と仲良く生きていく
 …

 ページ数は157ページと薄く、本文も大きな活字に平易な表現で語られているが、その内容には深みと重みがある。著者渡辺和子氏の85年の人生経験に裏打ちされた珠玉の言葉が散りばめられていて、何度も繰り返し手に取って読みたい本である。おそらく、読む度に新たな気づきを与えられる本なのだろう。

 それらの言葉は、若い人には希望と励ましを、子育て期の人には知恵と勇気を、 老いた人には自信と安らぎを与えてくれるのではないだろうか。

 著者はキリスト者であり、その言葉の端々にキリストの教えが顔を覗かせてはいるが、一貫してひとりの人間としての在り方を、自らのこれまでの経験を踏まえて、しかも自らの弱さや過去の失敗もさらけ出して訴えかける点に、著者の誠実さが感じられて、キリスト教信者でなくとも、その話に素直に耳を傾けたくなるだろう。

 そして、聖職者及び教育者として指導的な立場にある著者が(それは神に拠って立っている、と言うことなのかもしれないが)自らをけっして過信せず、他者に深い信頼を寄せる、その謙虚な姿勢が清々しい。著者の爪の先ほどの経験も実績もない自分の不相応な慢心が、本当に恥ずかしくなるほどだ。 

 金言の一部を以下に書き出してみよう。

「苦しい峠でも、必ず下り坂になる。」〜人はどんな険しい峠でも乗り越える力を持っている。そして、苦しさを乗り越えた人ほど強くなれる。

「きれいさはお金で買えるが、心の美しさはお金で買えない。」〜心の美しさは、自分の心との戦いによってのみ得られる。

「価値観は言葉以上に、実行している人の姿によって伝えられる」〜同じ事柄でも、価値観によって受け取り方が変わる。子どもには愛と思いやりのある価値観を伝えたい。

「子どもは親や教師の『いう通り』にならないが、『する通り』になる。」〜子どもに何かを伝えるのに言葉は要らない。ただ、誠実に努力して生きて行くだけでいい。→以前、当ブログで同じようなこと(『割れ鍋に綴じ蓋』)を書いていたので、この言葉を見た時、少し驚いたと同時に嬉しかった。

「まず考え、次に感じ、その後に行動する。」〜考えるということは、自分と対話すること。自分自身に語りかけ、次の行動を決めなさい。

「何もできなくていい。ただ笑顔でいよう。」〜笑顔でいると不思議とうまくいく。ほほえまれた相手も、自分も心豊かになれるから。

「苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。」〜生きることは大変だが、生きようと覚悟を決めることは、人に力と勇気を与えてくれる。

「”あなたが大切だ”と誰かに言ってもらえるだけで、生きてゆける。」〜人は皆、愛情に飢えている。存在を認められるだけで、人は強くなれる。

「一生の終わりに残るものは、我々が集めたものでなく、我々が与えたものだ。」〜人は何歳になっても成熟することができる。謙虚になることが成熟の証である。


 著者の渡辺氏は9才の時に、当時陸軍の教育総監だった父、錠太郎氏が、あの二・二六事件で惨殺されるのを目撃している。錠太郎氏は苦学して師団長の地位にまで上り詰めた人物。彼は職業軍人として第一次大戦後の欧州にも赴き、その惨状を目の当たりにして、「戦争は敗者も勝者も疲弊させる」と言う考えに至り、国家の守りとしての軍隊の必要性は十分認識しつつも、戦争を極力回避させることが自身の使命と考えていたらしい。

 仕事を離れれば、50代にして授かった著者を他の兄弟が妬むほどに可愛がり、さらに「人間として在るべき姿」を自身の命が果てる瞬間まで身を以て示して、「9年で一生分の愛情を注いでくれた」と著者に言わしめた父であった。その知見と愛情の深さは、親の直向きな生き様と深い愛情が子供の自尊心を育み、その後の人生の大きな支えとなることを、改めて教えてくれているようだ。

 そして、本書に綴られた数々の金言を前に思う。人は自分に投げかけられた言葉をどう受け止め、それを自分の中でどう生かすかで、その後の人生が大きく変わって来るのではないのだろうか?

 表題の言葉「置かれた場所で咲きなさい」は、著者が30代半に赴いた岡山で大学の学長に任命され、その重責に思い悩んでいた時に、ひとりの宣教師が手渡してくれた短い英詩の一節である。

 Bloom where God has planted you.(神が植えたところで咲きなさい)

 その後に「咲くということは、仕方がないと諦めるのではなく、笑顔で生き、周囲の人も幸せにすることなのです」と続くその詩に力づけられた渡辺氏は、神の御心のままに、与えられた場で精一杯生きることを決意する。

 ひとりの宣教師から手渡された詩の意味を邪心なく受け止め、それを道標に自らの生き方を極めて行った渡辺氏。果たして、本書に感銘を受けた読者はどの言葉を道標に、自らの人生を歩んで行くのだろう?結局、金言を生かすも無にするも自分次第なのだと思う。

 
渡辺和子(ノートルダム清心学園理事長)『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎、2012)¥1,000

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2012/4/24

村上憲郎『一生食べられる働き方』(PHP新書、2012)  読書記録(本の感想)

「食うために働け。そして、世界をイメージせよ」

私は並行して何冊かの本を読んでいる。(一応、かつて大学で美術史を専攻し、現在ボランティアとしての立場ながら美術に関わる者として)専門性を高める為に芸術関連の本や、教養と人間探求?の為に古今東西の文学、興味関心の赴くままにさまざまなジャンルの本、と言ったところだ。

そして、最近は社会人&職業人デビューを控えた息子に、親として何か少しでもアドバイスができないものかと考えて、書店やネットで目に付いた本を片っ端から読んでいる。その中から、自分で面白いと思った本を息子に勧めている。

息子は「忙しくてそれどころじゃないのに」と文句を言いながらも、ちゃんと読んでいるようだ。読んだ?読んでみての感想は?と聞くと、こちらの期待した以上の感想が返って来るので、彼の脳みその片隅にその本の内容が幾らかは残っているのかな、と思う。

表題の本も、今読み終えたばかりだが、息子に薦めたい1冊だ。

タイトルがいかにもハウツー物っぽくて、当初は買うのが躊躇われたが、書店でザッと目次を見て、興味を覚えた章を読んで見ると、あに図らんや、安直なハウツーものではなかった。寧ろ自らのキャリア形成の過程をテンポ良く語る中で、「働くことの意義」を後進に熱く説いた内容と言った趣き。このタイトル、どうにかならなかったのかな?

本書は、日本企業を出発点に、世界有数のIT企業で重職を歴任した国際的ビジネスパーソンの成功譚ながら、単なる自慢話ではないところが良い。ややもすると「自分はこうした。ああした。だから成功した」と、誰にでも適用できるとは限らない方法論を滔々と述べるパターンになりがちなところを、本書の著者はあくまでも謙虚。

彼のキャリア形成における実体験について、自らを飾ることなく述べながら、職業人としての基本的なものの見方や、仕事に対する姿勢、常に学び続けることの大切さを説いている。そこに好感が持てるし、そこが本書を息子に薦めたい理由でもある。

著者は1947年生まれ。大学時代は「全共闘」に明け暮れ、社会に出てからは身を粉にして働き、日本の高度経済成長を支えた所謂「団塊の世代」。昨今は批判的に語られることの多い世代であるが、彼らがベビーブーマーならではの熾烈な競争の中で、がむしゃらに生きて来たのは誰もが認めるところ。

本書でも、その生き様の一端が活写されていて、それがいかにも楽しそうで、「シラケ世代」と言われた私には少し羨ましいくらいだ。この世代以降で、ここまで生きることに熱くなれる世代が果たしているだろうか?

そして、グローバルに活躍して来た著者は、現在の日本が抱える諸問題についても率直に言及していて興味深い。息子にも是非知ってもらいたいことばかりだ。

とにかく、文体にリズムがあり、論旨明快なので、一気に読める。

印象に残ったキーワードは「大義」「大局観」「アダルト・スーパービジョン」「ミッション・ステートメント」「モンキートラップ」「コンテンツ産業」「リスク・テイク」「転職ではなく転社」「英語」「エリート教育」「世界」「経済学」

以下にキーワードに関する一文(一部)を列挙してみた。そのまま本文を書き写したわけではないが、ネタバレとも取れる内容で、これから本書を読もうとする人の興味を削ぐことにもなりかねないので、<続きを読む>でリンクしておきます。


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2011/10/17

若者よ、岡本太郎を読むべし!  読書記録(本の感想)

クリックすると元のサイズで表示します 岡本太郎はその著書『自分の中に毒を持て』(青春文庫)の中で、こう述べている。

 「成人式は文明社会では祝うべきものだけど、本来はただ祝って楽しんですむものじゃない。厳粛に、きびしく、「社会」と言うものをつきつける、イニシエーション(通過儀礼)であるべきだ。」

 日本では毎年恒例のように、マスメディアで「荒れた成人式」の模様が報道される。成人としての自覚に著しく欠けた幼稚な新成人の醜態を、ここぞとばかりに見せつけて、マスメディアは「イマドキの若者批判」を展開する。

 しかし、成人年齢に達した青年男女を、いつまでも子ども扱いしているのは、周りの大人や社会に他ならない(って書いている私はかなり自虐的)。若者批判の急先鋒に立つマスメディアだって、結局その片棒をしっかり担いでいるのではないか?

 成人式の式典や、その後に開催される同窓会用に、スーツや豪華な晴れ着を用意してあげることに、何の疑問も持たない大人達。大都市では式典も形骸化し、来賓の祝辞に、最初から最後まで真摯に耳を傾ける新成人は、果たしてどれだけいるのだろう?
 
 祝賀ムード一辺倒の先進国の成人式では、これから立ち向かう社会への畏れも、成人としての覚悟も、新成人に対して持てと言うのがそもそも無理な話なのではないか?

 太郎は昔取った杵柄で「民俗学(文化人類学的?)」的見地から、その対極にある南米アマゾンの成人式を紹介している。

 「南米アマゾンの奥地のある種族では、蜂をいっぱい袋にいれて、この袋を若者の皮膚にぱっと押しつけたりする。一匹に刺されても痛いのに、失神するほどの猛烈な苦痛だ。その痛みをもって、大人社会の〜生きていく責任とはこういうものだと教えているわけだ。またなかには深い森に若者を放って、若者はそこで自分ひとりの力と知恵で生きぬいて、帰ってこなければならないとか。奇怪なマスクをかぶった祖霊におどかされたり、恐ろしい儀式を課している種族もある。

 そのほかに入墨をしたり、割礼をおこなったりさまざまだ。入墨をされる若者はその痛さに耐えながら、成人のきびしさと誇りを知るわけだ。」


 そして、文明社会の成人式のふがいなさを嘆いている。

 「文明社会の成人式は、あまりにも形式的で、甘すぎる。はたちになれば、もう腐った大人だ。<中略> こんな形式的な儀式で大人としてきびしさに立ち向かっていく感動がわいてくるわけがないじゃないか。」

 岡本太郎の著作には、熱く鋭い芸術論に混じって、こうした辛辣な、(正直言って耳が痛いと言うか、マゾッ気が刺激されるというか…)しかしかなり的を射た、文明批評や人生訓が数多く散見される。私など、もっと早くに出会っていたなら、また違った人生を歩んでいたかもしれないと思わせられる、力強いメッセージがてんこ盛りなのだ。

 だからこそ、太郎の著作は是非、若者は読むべきだと思う。きっと自らの現状に納得が行かず、進むべき道に迷っている若者の背中を、力強く押してくれることだろう。


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2011/10/1

大人だからって、何でも知っているわけじゃない  読書記録(本の感想)

 岩波ジュニア新書シリーズなどもそうだが、児童生徒向けに書かれている本は結構侮れない。各分野の専門家が専門的な内容を、子どもでも分かるようにと、できるだけ平易な表現を用いて書いているから、その質は確かだし、大人にも分かり易いものになっている。

 大人だからって、何でも知っているわけじゃない。寧ろ複雑多様化した現代社会は、個人の手に余るほどの情報で溢れ帰っていて、知らないことがあるのは当然とも言える(あまりにも無知なのは恥ずかしいけれど)

 
それに、ある事柄について知らないと言う点では、大人も子どもも関係ない。知らないことを知ったかぶって知らないままにしておくより、素直に知らないことを認め、「知りたいと思った時が学び時」と考えて、人から教えを請うなり本を読むなりして学んだ方が、自分にとっては有意義なはずだ。昔から「聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥」とも言われている。手始めに児童向けの本で学んでみるのも、何ら恥ずかしいことではないと思う。

 先日読んだ金子哲雄著『学校では教えてくれないお金の話』も、河出書房新社から出ている「14歳の世渡り術」と言うシリーズの中の1冊。情報量としてはそれほど多くはなく、大人の私にはあっという間に読めた。中学生でも分かるようにと、やはり著者自身の経験談や具体例を多く挙げて、分かり易い解説を心がけている印象の本だった。

 本書を読んでまず感じたのは、まさに著者の育った家庭環境が、現在の著者を形作っていると言うことだ。船会社に勤めていたという著者の父は、ことあるごとに「経済」の観点から世の中の仕組みを説いて聞かせ、著者に経済観念の基礎を植え付けたと同時に、「経済」を切り口に、常に自分の頭でよく考えることを促したように見える。

 だからこそ、著者は中学生にして、「自分の一生に、いったいどのくらいのお金が必要なのかを計算し」、「社会人になるということは、この費用を負担することなんだ。生きていくために必要な経費を稼ぐ能力を、大学卒業までに身につけなければならないんだ」と考えるに至ったのだろう。

 本書は「お金の本」と銘打っているだけあって、延々とお金にまつわる話が続く。しかし、だからと言って、もちろん著者は必ずしも金の亡者ではないのである(人より抜きんでて利に聡い印象はあるけれど・笑)

 以下に「なるほどね」と思った、著者の言を列挙してみる(実際の著書は「です。ます。」調で書かれている)

金銭感覚とは、先を見通す力。これから先の人生を生きていくために、どれくらいのお金が必要かを把握しておく能力。

金子流お金持ちの定義は「お金を回せる人」。僕に言わせれば、100億円貯金しているだけの人よりも、月給20万円の会社員であっても、砂糖の取引を担当し、10億円動かしている人のほうが金持ち。

 なぜなら、砂糖の取引はさとうきびの栽培から、砂糖工場、流通、販売まで、多くの雇用を生んでいるから。雇用されて賃金を貰った人はその資金で(中略)、さまざまな場面でお金を使う。(中略)みんなの資金が様々な場面で使われ、お金が(社会で)回ることになるのだ。

 つまり、「お金が回る」とは、みんながお金を使って、経済が活性化するということなのだ。(→著者はマネーゲームには否定的)

お金持ちには「お金をもうけるだけでなく、世の中に広くお金を回す」という義務がある。例)慈善活動に熱心なビル・ゲイツ

景気が悪くなる原因は「今日より明日のほうが悪くなる。将来、収入が減るかもしれない」という不安。資本主義社会の構造は「風が吹けば桶屋がもうかる」で、例えば収入不安で皆が貯金→コンビニでの弁当を買い控える→コンビニ弁当が売れない→弁当工場の人が失業→コンビニ売り上げ減でコンビニ店員も失業→国は多くの人に失業手当を支払う→公共事業の予算がなくなる→道路工事の人も失業(と言う負の連鎖反応を呼ぶ)

景気が良いか悪いかはゴミ集積所を見れば分かる→個人消費が落ち込めばゴミの量が減る=景気が悪い

少子化は不況のシグナル→子育ては個人消費を増やし、雇用を生み、税収の増加に繋がる。逆に少子化は個人消費が減り、税収が減り、国が困り、国民が困る。

自粛するより、お金を回そう→今回の震災の被害総額は約16〜25兆円と言われている。これを国の税金で賄わなければならない。だから被災地以外の人々はできるだけ普段通りの生活をして、お金を使い、1円でも多くの税金を納めた方が良い。

コンビニ弁当の価格が高めなのは、昼までに店に弁当が届いているという「時間保証」をしているから。→違う方面から2台の弁当配送車を出し、事故や渋滞などのアクシデントに備えており、そのコストが弁当代に上乗せされている。→「時は金なり」で、時間を守れない人は、自分の価値を下げてしまっている!

値下げにも良いものと悪いものがある。→市場拡大を伴わないコスト削減(人件費、さまざまな経費)による値下げは、業界全体の消耗戦となるだけで、悪い値下げだ。例)牛丼チェーンの値下げ競争。

絶対に「連帯保証人」になってはダメ。お金の貸し借りに関する「連帯保証人制度」は、日本の悪い習慣のひとつで、海外では殆ど見られない。「連帯保証人制度」は自分の人生だけでなく、周囲の人の人生まで狂わせてしまう恐れがある

「ケチ」とはお金を使わないことで他人に不快感を与えたり、迷惑をかけたりすること。お金を使わないのも「自分のため」。「節約」とは人に迷惑をかけずに、自分のできる範囲でお金をかけないようにする「賢い生き方」を意味し、「活きたお金の使い方」をするために無駄遣いをしないこと。

節約を身につければ、強く生きられる。→世の中にどのような変化が起こり、日本経済がどうなって行くか不確定である以上、収入減となっても生きてゆけるよう、普段から節約を心がけること。

お店の集客作戦の裏をかく→商品には、客を集めるために採算度外視で激安の価格設定となっている「集客商品」と、店の収益源となる「収益商品」がある。何もかも同じ店で揃えるのではなく、その店の「集客商品」だけを買えば確実に買い得。

商品は激戦区で買え。しかし、人生では激戦区を避けるべし。→激戦区では店舗間で価格競争が起きて安く商品が買える。逆に人生では競争相手の多いジャンルで生き抜くのは大変なので、競争相手のいないジャンルで勝負しよう!→著者は「流通ジャーナリスト」と言う職業を自ら考案した。

友達はお金に優る財産。「秀才」ではなく、「集才」を目指そう!→自分ひとりで全てに秀でる「秀才」になるには大変な努力が必要。しかし、さまざまな才能を持った人を集める「集才」なら簡単。ひとつでも得意分野を持って友達を惹きつけ、普段から互いに助け合い、いざとなれば全員の才能を集結させて事に当たろう。→自分が「窓口」になり、自分の周囲に人が集まるようになれば、現代社会の問題点や人々が求めているもの、世の中の流れが読めるようになる。才能を持った友達が多ければ多いほど、人生で苦労しない。

(これから自らの人生を切り開く中学生に向けた言葉として) やりたいことが見つからないうちは、とりあえず勉強!→大学全入時代では、大学生であること自体には殆ど価値はなく、どの大学に入学したかが重要。

教育ほど素晴らしい財産はない→工業製品は新製品が出れば価値が相対的に下がるが、教育によって身につけた知識や教養の価値が下がることはない。金のネックレスのように、国境を越えて、世界中どこにでも持っていける。しかも、これからは世界が活躍の場になる。そのために語学の習得は必要。


 著者は教育に関してもコスト意識が徹底していて、自らの進学先も「教育は投資だ」との考えを基本に、「最もコストパフォーマンスに優れた大学」を選んだらしい(正確には、"よりラク<確実>な方法として"付属高校からの進学"を果たしている)

 その彼の論法からすると、私なんぞ、コスパ無視で大学を選択してしまったおバカさんである世の中、お金だけでは測れない価値もあると思うが、現実問題、私は大学卒業後、進学にかかった費用に見合った利益を上げるどころか、大学で学んだことを生かして1円の利益を上げることさえ出来ていない。

 一方、一緒に卒業した若い友人達の多くは、学校教師としてのキャリアを着々と築いている。当時の私はと言えば、学業と家事との両立が必然であったので、夜間に授業のある教職科目を履修することには無理があった。何の制約もなければ、おそらく履修していたと思う。

 こと「職業選択」の観点から見れば、日本社会の現状では、「できるだけ若いうちに学ぶこと」は重要だろう。若いうちにシッカリ学んだ人には、目の前に幅広い選択肢と大きなチャンスが与えられるはずだ。まさに「鉄は熱いうちに打て」である。自分のこれからの人生を戦略的に見据えると言う意味で、本書は(もちろん既に自覚している人は除くが)中学生をはじめ、遅くとも社会へ巣立つ前の若者に、一読を勧めたい。
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2008/3/6

米原万里さんのお話をもっと聞きたかった…  読書記録(本の感想)

 集英社新書の『米原万里の「愛の法則」』は2006年に亡くなられた米原万里さんの”最初で最後の講演録集”だ。奇をてらったようなタイトルは、必ずしも本書の内容全体を言い得てはいないと思う。寧ろ米原さんの幅広い見聞と鋭い洞察に裏打ちされた比較文化論と言った趣。ロシア語通訳の第一人者であり、後年、作家、エッセイストとしても活躍された米原さんは、50代半ばで惜しくも病死された。生前テレビで拝見することも少なくなかったが、軽妙洒脱ながら、なかなか鋭いコメントにいつも感心していた。頭の回転の早さ、思考の柔軟性、幅広い知識、どれをとっても一流の人だった。コメンテーターの存在価値は世論に阿(おもね)ることではなく、一般人とは違った切り口で物事を捉え、新しい見方を示してくれることにあると思う。まさに「目から鱗が落ちる」ようなコメントを、聞く側は期待している。その期待にかなり高い確率で応えてくれた一人が、米原万里さんだったのではないかと思う。
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2006/1/28

立ち読み:大前研一『ロウアーミドルの衝撃』  読書記録(本の感想)

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『ロウアーミドルの衝撃』表紙

今日は、現在興行成績1位を独走している
三谷幸喜脚本・監督の『有頂天ホテル』を
夫が見たいと言うので映画館に行った。
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2005/12/12

斜陽期に入った日本  読書記録(本の感想)

『バールのようなもの』
この短編小説を文芸誌で読んで以来、
私は作家、清水義範氏の慧眼に一目を置いている。
氏は目の付け所がどこか人と違う。
世の常識に独自の視点で異を唱える。
しばしば思いがけない発言で私を驚かせてくれる。


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2005/12/8

テーマ読書:日本の階層社会化現象について  読書記録(本の感想)

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ここ数年、新聞・テレビ報道等で取り沙汰されている、
日本の階層社会化について興味があります。
普段の生活では別段意識することがなくても、
日本社会には遙か昔から階層は存在していたのであり、
それが最近になって顕在化した、クローズアップされた
だけなのかもしれません。

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