2019/5/16

人生、良い時もあれば辛い時もある  はなこ的考察―良いこと探し

 人間誰しも、長い人生の中では良い時もあれば、辛い時もあると思う。人によって配分には多少の差はあれど、人生は幸不幸の絶妙なバランスで成立しているのではないか。

 自分が今、幸せか不幸かと言うのも個人の感じ方で相対的なものだろう。辛い経験があるからこそ、幸せも感じることができる。一方、あまり起伏のない人生は「穏やか」かもしれないが、それでは「感受性」は磨かれないのかもしれない。

 さらに、自分の身に起きることのひとつひとつは、もしかしたら人生のターニングポイントであるかもしれず、その後の人生を好転させるか暗転させるかは、自分の捉え方次第なのかもしれない。


 私のブログを読むと、いつも、やれ映画だ、展覧会だ、散歩だ、旅行だと、随分とお気楽な立場だねと思う人がいるかもしれないが、この私にも辛い時期はあった。

 今、私は自由気ままに過ごしているが、子ども時代は不自由ばかりだった。がんじがらめだった子ども時代に、良い思い出は殆どない。

 子ども時代の1日1日は、大人になってからの1日1日とは、その濃密さや人生における重要度がまるで違うと私は感じているので、今でも自分の子ども時代を思いだすと切ない。

 ただ、辛い子ども時代があったからこそ、今の幸せを享受できると思っている。 

 私は9歳から、結婚して自分の子どもが生まれるまで働き詰めだった。

 父が家を購入した直後に病に倒れたり、通院中に交通事故で重傷を負ったりで、母が外に働きに出ることになり(それまでも母は自宅で洋裁の内職をしたり、家を購入するまでは都市部で24時間営業の喫茶店を経営するなどしていた)、9歳の秋から私は自宅1階にある小さな書店兼文房具店の店番をやらされた。毎日学校から帰ると夜の9時10時頃まで店番をし、雑誌の発売日には定期購読しているお得意さんのお宅に配達もしていた。

 私の店番は私が中学を卒業するまで〜親が店を畳んで貸店舗にするまで続いた。

 加えて私が小4の時に生まれた末妹は両股関節脱臼の状態で生まれ、4年間ギプスで股関節を固定され歩けない状態だったので、空いた時間には妹の世話もしなければならなかった。

 だから友達と外で遊びたい盛りに私は思い切り身体を使って遊ぶこともできなかったし、中学の部活動にも参加できなかった。

 さらに中学生の時に認知症になった父方の祖父を引き取り、自宅で介護することになったので、自宅療養する父や外で働く母の為、祖父の介護の手伝いもした。多忙な母の負担を減らす為に、晩御飯の用意も一部手伝った。

 祖父は引き取ってから2年半後に、自室で就寝中に心筋梗塞で亡くなった。朝、家族が起きた時には既に身体が冷たく、死後硬直も始まっていた。

 私は祖父の下の世話が子ども心にも辛かったし(当時は紙おむつもなく、祖父は褌着用だったので、糞尿の片づけが大変だった。もちろん、当時はデイサービスどころか介護ヘルパー制度もなく、家族は休む間もなかった)、私や妹達は「女はどうせ出ていくのだから、孫とは認めない」と祖父からは跡取りである弟とはあからさまに区別され、可愛がられた記憶も全然なかったので、冷たいようだが、祖父が亡くなった時には別れの悲しさよりも、「やっと介護から解放される」とホッとしたのを覚えている。

 中学生にして、私はちょっと人生に疲れていた。

 そんな私の楽しみと言えば、店番をしながら、小学生の頃にちょっと背伸びして手にした中高生向けの国語辞書がボロボロになるまで語句の意味を調べながら、ローカル新聞を隅から隅まで読んだり、図書館の本を片っ端から借りて読んだり(年に170冊は借りていた)、中学校で昼休みの間図書館に入り浸って、蔵書の「世界の美術館全集」を眺めたりすることだった。

 外で遊べない分、外の世界への憧れは強く、店番をしながら読書の合間に日本地図や世界地図を眺めては、図書館所蔵の全集でいつも目にしていた世界の美術館にいつか行きたいと思いを馳せていた。

 小学校からの新聞熟読や読書の賜物か、中高時代は文系科目の成績は学年でもトップクラスで、大学進学を希望していたが、父親が「女に学問は不要」と言う考えで進学を許してくれなかったので(祖父の考えそのまま)、高校卒業後一旦就職したのだが(ほぼ強制的に「明日から、この会社で働け」と父に言われて仕方なく働き始めたが、最後まで馴染めなかった)、1年後にはそこを辞め、入学に必要な費用を自身の貯金と母親からの借金で賄い、短大に進学した。

 もう父親の命令に従うのにはウンザリしていたので、働きながら秘密裏に進学の計画を進め、入学を強行した。入学後はバイトと奨学金で学費を賄った。短大時代は勉強とバイトと念願の部活(音楽好きの部長主導で聖歌ばかり歌っている聖書研究部(笑))に明け暮れ、慢性的な睡眠不足に悩まされはしたが、充実した日々だった(その間も時々親の代わりに妹弟のPTAに出席したり、弟の不始末の謝罪をしたりもしたが、妹弟達はそのことを覚えていないのが残念だ)

 けっして自分以外の誰かから強制されたものではなく、自分自身で選びとった人生の、なんと楽しいこと!この時に初めて、私は自分の人生を生きていると実感できた。嬉しかった。


 友人の中には「(親に対して)自分を生んでくれた恩は忘れるな」と言う人もいて、親がいなければ自分は存在しなかったと言うのはもちろん事実ではあるのだが、親なら我が子を支配下に置こうとせずに、可愛がって欲しかったと言うのが、私の偽らざる気持ちだ。

 そもそも戦前ならいざ知らず、高度経済成長期真っ只中の昭和も半ばの頃の話である。私の同級生の殆どは屈託なく子ども時代や青春を謳歌しているように私には見えた。友人のご両親も善良な方々で優しく接して下さるので、彼我の違いになおさら自分が惨めに思えたのを覚えている。

 今にして思えば、跡継ぎである長兄を溺愛し(終戦直後の混乱期に、鹿児島の沖合で行方不明になったらしい)、次男である父に冷淡だった祖父の呪縛が、父を今で言うDV親に仕立て上げたのだと思う(祖父もまた、父と同じだったのかもしれない)。私は子どもの頃、長女として精一杯のことをしたつもりだが、中学の時には理不尽な理由で父から傘を投げつけられ、右瞼に9針縫う傷を負っている。

 だから、私は不幸な親子関係の連鎖を断ち切るべく、息子には精一杯の愛情を注いだ。彼が夢に向かって進めるよう、私達夫婦が親として与えられる最大限の教育の機会を、息子には与えたつもりだ。


 今はお気楽然としている自分でさえそうなのだから、一見誰の目にも恵まれたように見える人にも、実は人には言えない、否、言いたくない辛い過去があったのかもしれないのでは(或は今、悩みを抱えている)と、今の私なら慮ることが出来る。

 目の前の現状を見ただけでは、他人の幸不幸なんて推し量れない。大抵の人は誰しも人生に好不調の波があるもの。だから徒に他人と自分を比べて自分の不幸を嘆いたり、他人を羨ましがるのは無意味だと思う。


 失敗は成功の(=学びの時)、スランプは飛躍の(=次に向けてのエネルギーの貯め時)、そして不幸は幸福の(=魂の修練の時)、「前段階」で、その時々で得た経験は、人生においてけっして無駄にはならない…と思うことにしている。

2019/5/9

虎の威を借る狐  今日の言の葉

 自動車(最近は自転車も)の運転者はいわば「虎(=車)の威(力)を借る狐(=非力な人間)」なのだ。

 そこを勘違いしている人間が多いから、悲惨な自動車による人身事故は無くならない。

 もちろん全員とは言わないが、普段から横暴な人間はもちろんのこと、温厚と見られる人間も、自動車に乗ると自動車の威力を得て、どうしても尊大になる傾向がある。自動車から見れば圧倒的弱者である歩行者に対して高飛車になる。

 そのことを如実に示しているのが、信号のない横断歩道の前に歩行者が立っていても、そのまま走り去る自動車が殆どだと言う事実。運転免許取得の為に通った教習所では、「信号のない横断歩道の前に人が立っていたら、必ず自動車は止まるように」と指導を受けているはずにも関わらずだ。

 そのことをすっかり忘れたか、最初から教わっていないかのように、歩行者を一瞥してその存在を確認しているにも関わらず、そのまま自動車のスピードも落とさずに通り過ぎる運転手の多いこと(日本では地方都市でさえ、それが当たり前のせいか、以前、ポルトガルの地方都市を訪れた際、横断歩道でなくても全ての車が快く止まって、道路を渡らせてくれたのには驚き、感激した。)

 私は昔ながらの住宅街に住んでいて、近所の一方通行のバス通りを青信号で横断する時に、後方から左折しようと走って来た自動車に、何度か轢かれかけたことがある。

 その時の運転者は一様にスマホを見ながらの片手運転で、横断歩道を渡る歩行者の私のことなど気にもかけていない様子で、かなりのスピードで走り去って行った。

 以来、青信号でその道を渡る時には必ず後方を確認して、自動車が走り去ってから渡るようにしている。

 とにかく「車を見たら走る凶器と思え」である。横断歩道も青信号も安心出来ない。

 大きな交差点での信号待ちでは、どんなに急いでいても角には立たない。最前列にも立たない。それでも事故に巻き込まれる可能性は避けられないのが実情だ。

 可能ならば、交通量の多い交差点に面した横断歩道の前には、車の進入を阻む頑丈なポールを等間隔に設置して貰いたいものだ。これは、横断歩道に並行して自転車専用レーンが設置されているにも関わらず、歩行者の間を縫うように横断歩道を駆け抜ける自転車を排除する為にも有効かもしれない。

 斯様に最近、歩行者が巻き込まれる交通事故の多発を受けて、道路の安全対策をどうするかの議論が出ているが、こうした事故の最大の原因は運転者の危機感のなさなのだ。その尊大さなのだ。

 自動車メーカーによる自動車の二重三重の安全装置や自動運転システムの開発以前に、運転者の意識が変わらなければ、悲惨な重大事故は今後も無くならないだろう。

 運転者は運転する限り、いついかなる時にも自分が加害者になり得ると言う危機感を持たなければならない。被害者やその家族、そして加害者やその家族にとっても、一瞬の事故による犠牲はあまりにも大きい。事故が起きてからでは遅いのだ。

 運転者は自身が「虎の威を借りた狐」に過ぎないと言う自覚を持って、自動車の凶器性を十分に認識し、自身の運転技術を過信せず、歩行者の安全を第一に考え、心に余裕を持って運転することが重要なのだ。

 だから普段からスケジュールに余裕を持って行動すべきだし、運転時には譲り合う気持ちが大切だし、常に周囲の状況を把握しながら運転に集中することが重要だ。

 けっして運転に慣れてはいけないのだ。

 
 4歳の妹を交通事故で失った日のことを、50年経った今も忘れられない私の切実な訴えです。

2019/5/8

「バレル・コレクション展」  文化・芸術(展覧会&講演会)

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GW最終日の6日(月)は夫婦で、渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで開催中の「印象派への旅 海運王の夢 バレル・コレクション」展を見て来ました。

 この展覧会は、産業革命期に英国随一の港湾都市グラスゴーで海運王として名を馳せたウィリアム・バレル(1861-1958)が蒐集した8,000点にも及ぶ古今東西の美術工芸品の中から、西洋近代絵画80点を紹介するものです(一部、別の美術館からの特別公開作品も有り)。

 バレル氏はそのコレクションの多くを生前、出身地であるグラスゴー市に寄贈しており、1983年には「大気汚染から作品を守る」と言うバレル氏の遺言に従い、グラスゴー市郊外に美術館が建設されています。

 私は1993年に家族でグラスゴー市を訪れていますが、当時はインターネットも使えない中東からの旅行で、情報不足の為この美術館の存在を知りませんでした。展示会場でその外観や内部の写真を見るにつけ、知っていたら、きっと訪ねていただろうと思うと残念です。

 寄贈の条件には「コレクションを英国国外に出さないこと」と言う条項もありましたが、今回は2020年までの美術館の大改修に伴い、特別に日本国内4か所で巡回展が許されています。つまり、今回来日中の作品が日本で公開されるのは、これが最初で最後なのです。

 グラスゴー市のあるスコットランドは16世紀のメアリー・スチュワート女王以来、フランスとのゆかりが深い土地柄です。

 バレル氏もフランスの芸術に深い関心を寄せ、グラスゴー出身の画商でフランスのパリを拠点に活躍したアレクサンダー・リード(1854-1928)を通じて、数多くのフランス近代絵画を蒐集しました。リード氏はゴッホやその弟テオとも親交のあった画商で、今回はゴッホが描いた彼の肖像画も出品されています。

 既に目の肥えた日本の美術ファンからは「今さら印象派?」と言う声も聞こえてきそうですが、今回の展覧会は海運王自身の趣味が色濃く反映された比較的サイズの小さな佳作揃いで、作品に関する丁寧な解説も数多く添えられ、より親密な形で作品を楽しめる構成になっています。

 「自分ならどの絵を自宅に飾ろうかしら?」なんて考えながら見ると、ホント楽しそう…

 印象派の前段としての、19世紀に起きた「17世紀オランダ絵画リバイバル」とも言うべき静物画や風俗画の数々は気軽に楽しめますね。水彩画も素敵です。

 出品作家はマネ、セザンヌ、ルノアール、クールベ、ドガ、ブーダン、オランダのゴッホやマリス兄弟、英国のペプロー、メルヴィル、クロホールなど多彩です。地元出身の画家への目配りも欠かさなかったと言う意味で、バレル氏は本当に素晴らしいパトロンだったのかもしれません。

 今回見た中で夫婦共に最も気に入ったのは、エドゥアール・マネ≪シャンパングラスのバラ≫(1882)。当時流行った細身のシャンパングラスに無造作に挿された黄色とピンクの2輪のバラ。ブルーグレイの背景がバラの色を鮮やかに引き立て、小品ながら全体的に艶やかな色合いが目を引く作品です。

 クリックすると元のサイズで表示します バレル氏お気に入りの画家だったのか、クロード・モネを絵画の世界へと導いた、フランスの港町ル・アーヴル出身のウジェーヌ・ブーダンの作品も数多く展示されていました。

 バレル氏が海運業で大成功を収めたと言うことで、ブーダンの海景画を特に好んだのかもしれません。

 ちなみにブーダンの作品は、上野の国立西洋美術館の常設展示室でも見ることが出来ます。

 最近はSNSによる情報発信を期待してなのか、展示室の一部が撮影可になっているケースが増えて来ていますね。今回の展覧会でも出口付近の一角の作品群が撮影可能となっていました。

 作品解説が作品を見る際に大変参考になったので、最近には珍しく今回は展覧会カタログも購入しました。色の再現性は今一つですが、大きさもB5版程度のコンパクトな物で、気軽にページをめくれるので気に入っています。

バレル・コレクション展公式サイト

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2019/5/5

205,000km越え  家族のことつれづれ

息子は4年前に、軽のスポーツカーである1991年製のHONDA BEATを大学の先輩から格安で譲り受け、以来、休みの度にひとりで全国をドライブしている。

今回のGWを以って、北海道と九州を除く全地域を走破したことになるらしい。

今回のGWは、未踏だった中国地方を6日間かけて巡ったようだ。

いつも関西方面に行く時は、往路は晴海埠頭からカーフェリーで徳島へ向かうのだが、今回はGWの混雑で車しか乗船予約が取れなかったとかで、本人は別途新幹線でとりあえず岡山に向かうことになった。

車は前日の午前中に乗船手続きを済ませ、本人は当日の早朝6時半頃に実家を出て、東京駅から新幹線に乗るも大阪辺りまで立ち続け、その後、岡山で徳島行きの特急に乗り換え、愛車と再会できたのは午後2時過ぎ。

国内なのに、どんだけ時間かかってんねん?と言う感じだ。

交通費も往路だけで、車の運送料と新幹線代(自由席)で6万円余り…決して節約旅行ではない。

無事、車を受け取った後は、旅行前にザックリと決めていたプランに従って、気ままなドライブ旅。

夕方に辿り着いた場所で、その日の宿を探すと言う大雑把さなので、毎回マトモな宿が取れずに、緊急避難的にインターネットカフェで寝泊まりすることがある。  

今回も2日間音沙汰がなかったので、(こちらからは極力連絡は取らないことにしているが)心配になって電話してみたら、夜中の11時半の時点で宿が決まっていないと言うので本当にハラハラした。その能天気さに腹が立った。

結局、日をまたいで0時15分過ぎに、漸くインターネットカフェに空きが出て泊まれることになったと連絡があった。

こちらとしては、何も知らない方が、どれだけ気楽か…毎回このことで息子とは喧嘩になる。

やはり、インターネットカフェはコンビニと同様に、24時間営業で、常にある程度の現金があるにも関わらず警備が手薄、と言うことで強盗被害のリスクがあるから心配なのだ。

案の定と言うか、今回のGW期間中にも、名古屋のインターネットカフェで、強盗事件が発生している。

いい大人が、お金がないわけでもないのだから、リスク管理はきちんとして貰いたいものだ。


今回、息子は岡山→広島→山口→島根→鳥取と巡り、復路は新人時代に半年間、工場研修で滞在した浜松に寄り、そこで研修時代に親しくなった何人かの友人(地元の飲み仲間?)と旧交を温め、1泊してのち実家に戻って来た。

今回訪ねた場所で最も印象的だったのは「しまなみ海道」だそうだ。風光明媚な景色の中を、風を切って走る心地よさは格別だったと言う。

因みに、今までの全ドライブ旅行で最も印象に残っている地は、それまでの彼の人生で感じたことのない独特の雰囲気を湛えていた青森の「恐山」だそうだ。

何百ヶ所と訪ねた中で、「恐山」の名が挙がったのは、正直意外だった。

息子の気ままなドライブ旅は、親から見れば心配の種が尽きない"無謀な冒険"だが、息子はこの一連の旅で親の私達も見たことのない景色をたくさん見て来たんだろうなあ…


とまれ、息子が車を買った時点の走行距離は不明だが、息子の車は既に205,000キロを超えている。走行距離20万キロは、(タクシーやトラック等の業務用車両は別格として)一台の自家用車としては金字塔とも言うべき数字だと聞いたことがある。

息子曰く、愛車は30年近く走り続けて、今なお「すこぶる元気で」快調な走りらしい。

息子の愛車BEATくんには今後も事故なく、車としての寿命を全うして貰いたいと願っている。

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2019/5/4

はいさいフェスタ  携帯電話から投稿

息子が北関東から一時帰省中なので、家族3人で映画を見に来ました。

折しも、チネチッタを擁する複合商業施設チッタデッラでは、GW恒例の「はいさいフェスタ」が開催中。

イタリアの街並みに、オレンジレンジの曲が流れ、黒山の人だかりは違和感がなくもないけれど、いつも以上に賑やかです。

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