2016/9/30

美瑛の丘より…  携帯電話から投稿

見る夕陽…

たなびく雲に秋の気配。

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2016/9/30

発祥の地、旭川で食べる…  携帯電話から投稿

「青葉」のラーメン♪
こってり系しょうゆ味だね。

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2016/9/29

青空広がる…  携帯電話から投稿

根釧大地!

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2016/9/28

遅い夏休みで…  携帯電話から投稿

北海道に来ています。
3日間で道東を巡ります。

北海道は涼しくて、既に秋めいています。

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2016/9/28

これから…  携帯電話から投稿

小旅行に行って来ます。

かなり久しぶりの訪問となります。

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2016/9/22

「怒り」(日本、2016)  映画(今年公開の映画を中心に)

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 見終わった後にいろいろと考えさせられた。

 社会において、さまざまな事情から自分の居場所を見つけづらい人々、自身のアイデンティティを表明しづらい人々、さらに事件・事故の被害者の苦悩は、結局は当事者である本人やその家族にしか理解できないものなのかもしれない。冒頭から、その切なさが伝わって来る。

 個人的に(人懐こく見えて実は人見知りの私が)痛切に感じたのは、素性を知らない人物を信じることの怖さと難しさだ。近年はSNSによって、以前なら現実世界では接点を持ちえなかった人物と出会う機会も増えただけになおさらだ。

 出会ったばかりの人をどこまで信じ、素の自分をどれだけ相手に見せるのか、その塩梅が難しい。


 八王子の自宅で夫婦が残忍な形で殺害された事件から1年後に、東京、千葉、沖縄に現れた素性不明の3人の男。

 肉体関係を持った男性の住む都心のマンションに転がりこんだ、繊細で儚げな男。
 千葉勝浦の漁港で働き始めた、常に伏し目がちで無口な男。
 沖縄の無人島に住み着いた、風貌むさ苦しいバックパッカーの男。

 その何れもが何か訳アリの雰囲気を湛え、テレビに映し出された凶悪犯に顔つきが似ている。それぞれの地で彼らと出会った人々は、目の前にいる男との関わりを深めて行くうちに、男が指名手配の凶悪犯なのではと疑心暗鬼に囚われ始める…


 ここ数年で、「反社会性人格障害」と言う言葉をしばしば耳にするようになった。この障害を持った人物を一言で表現するなら、「良心を持たない人間」。

 自分の欲望の為なら犯罪も厭わない。弱者への思いやりもなく、他者の温かい心遣いにも嫌悪感しか抱かない(だから親切が仇になる可能性が高い)。人と人が関わり合うことで成立する社会を憎悪し、常に心の内に社会や自分以外の人間に対する怒りを抱え、その怒りを暴力で訴えることに躊躇しない。明確に「悪意」を持った人物である。

 恐ろしいのは、そんな人物が高い知能を有していたり、恵まれた体格の持ち主である可能性もあるのだ。中には悪知恵を働かせたり、腕力に物を言わせて、人を支配する立場にある人物もいるのだろう。

 そんな人物と運悪く接点を持ってしまったら、私達はどうすれば良いのか?常にどの時代にも一定の割合で存在すると言われる彼らと出会う可能性は、社会で人と関わっている以上けっしてゼロではないのだ。


 一方で「反社会性人格障害者」である凶悪犯が見せた、自ら破たんする(自滅する)生き様には興味深いものがあった。彼(彼女)は幾ら猫を被っても、結局は自らの内にある荒ぶる魂<怒り>を制御できないのだ。

 その本性を知れば誰も彼(彼女)に共感せず、彼(彼女)は社会で孤立するだけだ。

 それは逆説的に、社会の中で他者との誠実な関わりを継続できる限り、人は人として生きて行けるのだと思わせてくれた。

 現実問題として、人知れずさまざまな事情を抱え、素性を隠して、地方でひっそりと、或は都会の喧騒に紛れて暮らす人々は、この日本にも数多くいるに違いない。

 そうした人々も、流れ着いた場所で出会った人々との関わりを拒まない限り、いつしか支え合う関係が生まれ、そこから活路を見いだせるのではないか。そもそも彼らを受け入れるだけの懐の深さをコミュニティも持っていた方が、誰にとっても生き易い場となるはずだ。

 原作者の要望に応えて、現在の日本を代表する演技派を揃えてのオールスターキャスト(+新人1人)で臨んだ本作。その期待に応えての俳優陣の熱演が映画に生々しい実在感を与えて、見る者に容赦なく苦い現実を突きつける。

 後味の悪さに本作への批判的な意見もあるようだが、本作で描かれているのはけっして「怒り」がもたらす「恐怖」や「絶望」だけではないと思う。でも中学生に見せるのは些か刺激が強過ぎて躊躇われるな。

映画「怒り」公式サイト

2016/9/18

国立西洋美術館で、じっくり作品を見たいなら…  はなこのMEMO

 「世界遺産」狂想曲に沸く現在の国立西洋美術館で、以前のようにじっくり作品鑑賞を楽しみたい方には、金曜及び土曜の午後5時もしくは5時半以降の来館をオススメする。

 夕方になると、それまでの喧騒が嘘のように、潮が引くように人波が消えて、かつての静寂を取り戻す(と言うことを昨日知った)

 「世界遺産」登録後の混雑を見越して、美術館では従来の金曜日に加えて土曜日も常設展示室のみ午後8時までの開館時間の延長を始めたので、土曜日の夜間などねらい目ではないだろうか?(入館は午後7時半まで)

 また金曜日にはボランティアの発案で、金曜ナイトトークも今年度から始まったので、近隣の方は仕事帰りにでも立ち寄ってみてはいかがだろうか?詳しくは美術館のホームページで確認いただきたい。

国立西洋美術館美術トーク&建築トーク案内


 昨日は「どようびじゅつ」と言うファミリープログラムで、終日、美術館にいた。

 朝、8時前に家を出て、9時過ぎには美術館で午前の回の準備作業をスタート。午前、午後とふたつのプログラムをこなし、プログラム終了後はワークショップルームの清掃と次回のプログラムの為の材料の補充、反省会と一連の作業を終えると午後5時を過ぎていた。

 土曜日も平日と変わらず、終日複数のツアー客が大挙して訪れ、大混雑であった。そのせいで、「どようびじゅつ」のプログラム実施にも支障を来すほどであった。

 まず、美術館とは思えないほどの喧騒で、少しでも離れるとトーカーの声がまるで聞こえない。移動時にもターミナル駅のコンコースを歩くような混雑で、人の間を縫うように歩くしかなく、いつも以上に時間がかかる。誘導する私達も幼い子どもが迷子にならないかとハラハラしている。

 観察するに、ツアー客の多くは作品ををじっくり見ることは殆どしない(せめて限られた滞在時間の中で1点でもお気に入りを見つけてじっくり見て欲しいところ)。全体を眺め回す感じで、中央付近をかなりゆっくりとしたペースで横並びで歩くか、有名作品の写真を撮ることに執心して、結局、肝心の作品を自身の肉眼で見ようとはしない。

 とにかく残念なのは、美術館に来ているのに、作品をちゃんと見てくれないことだ。声高にしゃべって、周りの迷惑を一顧だにしてくれないことだ。喧騒に紛れて携帯電話で話をしている人もいる。以前には考えられなかったことだ。

 今回のファミリープログラムは「世界遺産」登録に因んで建築にフォーカスしたプログラムだったので、美術作品前での直接的なツアー客との接触は避けられたのだが、この状態が今後も続くようでは、従来の作品鑑賞をメインとしたファミリープログラムの実施は難しいかもしれない。

 「世界遺産」登録を是とする世の大勢(たいせい)?に抗うようだが、つくづく美術館の建物が「世界遺産」に登録されることの弊害を感じずにはいられない。

 このところの「カオス」としか言いようのない国立西洋美術館の常設展示室の状況は、美術館とは何なのか、美術館の本来の役割について改めて考えさせられる”事件”と言える。

2016/9/10

新しい友人と「LOUVRE No.9 漫画 9番目の芸術」展へ  日々のよしなしごと

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 最近、韓国出身の新進アーティストと知り合い、アートの話で盛り上がった勢いで、昨日、森アーツセンターギャラリーで開催中のルーヴル美術館特別展「LOUVRE NO.9 漫画 9番目の芸術」展を一緒に見て来ました。

 Hさんはニューヨークの大学で4年間ファインアートを学び、現在はアメリカ人のご主人の仕事の関係で日本に住んでいるそうです。

 Drawing, Painting, Printingと、彼女の作品を幾つか見せていただきましたが、柔らかな感性と豊かな色彩感覚を持った作家、との印象を受けました。

 私は韓国語、来日間もない彼女は日本語が話せないので、二人の会話はほぼ英語で。日本でアジア人同士が英語でコミュニケーションを取るなんて、英語が国際的なコミュニケーションツールとして必須になっていることの証でしょうか。

 今回訪ねた展覧会はルーヴル美術館による特別企画。日本やフランス、ベルギーで活躍する漫画家16人に、ルーヴル美術館をモチーフとした漫画を新たに描いて貰うというもの。その為に漫画家をルーヴル美術館に招き、創作の便宜を図ったそうです。

 タイトルの「NO.9」とは、フランスにおける芸術の序列で、漫画は第9番目に位置することを指すのだとか。

 因みに序列の第1から8までは順に「建築」「彫刻」「絵画」「音楽」「文学(詩)」「演劇」「映画」「メディア芸術」とされる(諸説あり)そうですが、素朴な疑問として、なぜ芸術を序列づける必要があるのか?

 17〜18世紀のフランスアカデミーでは、さらに「絵画」も宗教や神話をモチーフとした「歴史画」を頂点に、次いで「肖像画」「動物画」「風景画」「静物画」と序列づけていたのです。つまり、絵画の中でも「歴史画」が最も価値が高いとされた。

 歴史的にフランスが厳然たる「階級社会」であるがゆえの序列づけなのでしょうか?フランス革命以降「自由・博愛・平等」を謳いながら、未だに何に対しても序列づける社会の在り方が、差別や偏見を生み出し、現在の社会不安へと繋がっているような気がしないでもありません。

 例えば日本なら、伝統芸能で「歌舞伎」の方が「能」「狂言」より芸能として上だなんて言わないはず。

 とまれ、16の個性で描かれるルーヴル美術館とその収蔵作品をモチーフとした漫画。彼の大美術館を漫画家達がどう料理するのか、個々の漫画家を知らずとも興味あるところです。

 フランス語圏と日本はそれぞれ独自の漫画文化を築き上げて来ました。そして、フランス語圏と日本とでは、社会における漫画(所謂バンド・デシネと漫画)の在り方に大きな違いがあるようです。

 創作のペース:寡作か、量産か
 表現方法:フルカラーか、モノクローム主体か。
    1コマで表現するか、1ページ全体のバランスで表現するか
 出版の形態:使用する紙にしても品質重視のハードカバーか
    ←1冊2000円なので、親が子に買って与える
    コスト重視のペーパーバックか
    ←安価なので、子どもでも買える エトセトラ…

 それを踏まえて個々の作品を見てみると、そうした彼我の違いが、作家の視点の置き方や作品のスタイルにまで影響を及ぼしているのが見て取れました。これは「百聞は一見に如かず」です。興味を持たれたなら、是非、会場で実物を見ていただきたいですね

 意外だったのは、漫画を1ページずつ、通常の展覧会形式で壁に横一列に掲示されると、ストーリーを追うのが難しかったこと。子どもの頃から読み慣れたスタイルとは違うことに、脳が戸惑っているようでした。漫画はやはり馴染深い「本」のスタイルで読むに限りますね

 また、彼の国の漫画家はギャグを描いているのだろうけれど、ユーモアの感覚が異なるせいか、どこが笑いのツボなのかが、今一つピンと来なかったり…軽いカルチャーショックを受けました(笑)。まあ、それも展覧会の意図するところなのでしょう。

 あいにく展覧会は冒頭の挨拶は英語の翻訳があるものの、作品解説や作品の吹き出し部分はフランス語か日本語のみ。フランス語には日本語訳がついていましたが、英語はなし。

 学生時代に交換留学で短期間フランスの美大でも学んだことがあるというHさんですが、現地ではもっぱら英語でのコミュニケーションだったらしく、フランス語も理解不能。そうなると絵だけで内容を理解しなければならない。それではあまりにも気の毒なので、私が(日常会話ならともかく、より専門的な話になると…)拙い英語で逐一説明してサポートしました。

 しかし、意志疎通の為に使用する言語がお互いにとって母語でない場合、互いに相手を慮って相手の言っていることを理解しようと努めるので、案外通じるものですね。

 日本人はとかく英語を母語とする人々並の発音でなければと思いがちですが、英語を「母語の異なる者同士のコミュニケーションツール」と割り切って使えば、それぞのお国訛り丸出しの英語でも気にならないものです。要は相手に敬意を持って、相手のことを理解しようと思う気持ちがあるかどうか。

 気が付けばあっと言う間に2時間が経過していました。二人共充実した面持ちで、会場を後にしたのでした。また機会あれば、Hさんとは是非ご一緒したいです。

 共通の話題、共有できる価値観があれば、国の違いなど軽々と超えてしまうものですね

「LOUVRE NO.9」公式サイト
 東京の後、大阪、福岡、名古屋と巡回するようです。

2016/9/8

いつまで続く「世界遺産」狂騒曲  日々のよしなしごと

 上野の国立西洋美術館が世界遺産登録されて以来、ほぼ連日朝から館内混雑が続いているようだ。
 
 世界遺産登録に伴う午後の混雑を見越して、今年から午後のスクールギャラリートークがなくなったが、開館前から50人前後の長蛇の列が出来ており、開館と同時に雪崩をうって団体ツアーも入館して来るので、午前中だけの実施となったスクールギャラリートークも、最近はまさに芋を洗うような混雑の中での実施を余儀なくされている。

 1コース3作品をグループで鑑賞するコースだが、まず対象作品の前に既に人だかりが出来ていて、なかなか鑑賞をスタートすることが出来ない。仕方なく、他の作品を見ながら待ったりするのだが、鑑賞が始まったら始まったで、大勢のギャラリーに囲まれるのもしばしばで、どうにも落ち着かない。子どもによっては集中力が途切れてしまうだろう。
 
 前回のトークでは、作品のトークを終えて、次の場所へ移動しようと身体の向きを変えたら、子どもの頭越しに写真を撮ろうとしていた人にぶつかった。トークに集中していたので、まさか背後にカメラを構えた人が立っていたとは気付かなかった。 

 今日はトーク中に、絵の写真を撮りたがっている女性に「あなた、チョットどいて」と言われた。別に館内に展示されている作品は寄託品(所有者が別にいて館内に特別展示されている作品)以外は撮影OKだし、声をかけた女性もれっきとしたお客様だから、私が場所を譲るのも当然ではあるが、頼み方がぞんざいなのが少し気になった。

 いずれも以前にはなかったことなので、正直戸惑っている。
 
 世界遺産登録直後から、都内の観光資源に飢えていたツアー会社は、早速「世界遺産登録記念」と銘打って、都内の名所と国立西洋美術館を組み合わせたツアーを企画し、集客しているようだ。
 
 ツアーでは最低限の鑑賞マナーさえ指導していないのか、作品の彫刻に触ったり、作品と鑑賞者を隔てる結界線を越えて作品に近づきすぎて、監視員から注意を受ける人が続出している。

 私自身、国内外のツアーに参加して美術館に行く機会も多いけれど、ここまで鑑賞マナーの悪い人達を見たことがない。しかし、それが目立つ理由は、美術館の狭さにあると思う。美術館のキャパシティを越えて、大勢の人が押し寄せているから問題なのだ。

 美術館関係者は、何れ混雑も落ち着くだろうとの見方をしているが、一体いつまでこの状態が続くのだろう?現在のような落ち着かない鑑賞環境では、来年度(私にとってはボランティアとしての最終年度)のスクールギャラリートークの参加校数にも、影響が出るのではと心配している。 

 国立西洋美術館(本館と前庭)の世界遺産登録は、台東区長年の夢?であったし、1年間の集客実績によって美術館に対する国からの交付金額も決まるので、ボランティア如きが苦言を呈する立場にないのは重々承知ではあるが、今の状態は明らかに異常だ。台東区も美術館も、今のような状況を望んでいたのだろうか?

 監視スタッフはもちろんのこと、「建物」も、展示されている「作品」も、尋常ならざる連日の混雑に、おそらく疲れていると思う。動物園の動物達が閉園後にグッタリするように、モノだって疲れるのだ。真面目な話、ちょっとした湿度と温度の変化も、作品の劣化を速めてしまう恐れがある。

 地味でコンパクトながらも、静かな雰囲気の中で、ゆったりと泰西名画と彫刻を見ることが出来たかつての西洋美術館。その当時からのファンは、今の状況をどんな思いで見ているのだろう?

2016/9/4

最近のニュースで思ったこと、感じたこと。  はなこのMEMO

二世俳優が引き起こしたホテル従業員レイプ事件

 事件後の波紋の大きさを見れば、容疑者はあまりにも愚かだ。「後悔先に立たず」とは、まさにこのことを指すのだろう。それ以前に、自らが犯した罪の大きさを果たして自覚できているのだろうか?(犯行後に平然と寝ていた、と言うのが気になる)

 事件を引き起こした原因は彼の慢心なのか、本能を制御する機能が通常より弱い、脳の器質的問題なのか?或はさまざまな複合的要因なのか?

 私自身は、さまざまな犯罪において、加害者が精神障害や発達障害等を抱えていたり、薬物や何らかの理由による心神喪失状態であろうと、それらを理由に量刑が軽減されることなく、罪過に応じて相当の刑に服して欲しいと思っている。間違っても「無罪」にはなって欲しくない。

 何れにしも、同じ「息子を持つ親」としては、我が子が「犯罪者」、或は事故の「加害者」(娘の場合は逆に「被害者」か?)になることの恐怖を追体験したのが、今回の事件である。

 子育て自体は子どもの成人を機にひとつの区切りがつくが、自分の子育てが正解であったのかどうかは、その時点では誰にも分からない。しかも親子関係は一生ついて回るのだ(特に日本では、世間がいつまでも親子は一蓮托生と見る傾向がある)。だからこそ、今回の事件は「親」である以上、けっして他人事とは思えないのだ。

 容疑者は社会通念上、レイプ事件がどれだけ被害者の尊厳を踏みにじり、人間として恥ずべき行為なのか分かっていなかったのだろうか?それとも、分かっていながら、自分の欲望を抑えることが出来なかったのか?はたまた自分の立場なら、たとえ罪を犯したとしても、どうにかして揉み消すことができるとでも思っていたのだろうか?

 性欲は動物としての本能に根差したものだが、本能を脳で制御できることが、人間と他の動物とを明確に分かつ違いであり、人間を人間足らしめていると言える。それが出来ず本能が理性に勝るようでは、人間とは言えない。性犯罪者が獣(ケダモノ)と言われる所以である。だから、レイプは人間として恥ずべき行為なのだ。他者から軽蔑される行為なのだ。統計的にレイプ犯は再犯率も高いことから、今後、女性も容疑者を恐れて近づかないだろう。

 それゆえに、刑期を勤め上げ社会復帰を果たそうにも、社会から受け入れられることは難しい。事件以前のような活躍など望むべくもない。ましてや容疑者は有名人である。有名人の母を持っている。彼の前途は一般人以上に多難と言わざるを得ない。

 今回の事件に対する世評の厳しさを見ても分かる通り、所謂二世タレントのような立場の人は、親からの七光りの受益が大きいだけに、転落した時の反動も大きい。最近は芸能界にうんざりするほど二世タレントが溢れかえっているが、そのことを、どれだけの二世タレントが分かっているのだろう?


自然災害における被災への覚悟

 まるで人間の対応力を試すかのような、近年の自然災害の深刻化である。

 次々と襲い掛かる未曾有の自然災害に対処できない人間は、容赦なく淘汰される運命にあるのだろうか? 

 先日も東北・北海道地方の豪雨で、川の氾濫が相次いだ。水害で命を落とした人も2桁を記録した。

 報道では各メディアが「なぜ、救えなかったのか?」と問う。

 しかし、地元の人や研究者が「百年に一度の」と口を揃える災害である。人間の備えにも、対応にも、自ずと限界があるだろう。

 9人の犠牲者が出た木造平屋建てのグループホームでは、宿直担当ひとりで十数人の世話をする中、室内に一気に水が押し寄せ、為す術がなかったと言う。一方、隣接する鉄筋コンクリート造りの中層の老人ホームでは、屋上に避難して全員無事だった(ここでも「垂直避難」が有効であった。【参照】「持家のリスク〜広島の水害」)

 人間の運命は、人智の及ばないところで分かれるものなのかもしれない。

 犠牲者の息子さんだと言う男性が「母から電話があった時点で迎えに行っていれば」と嘆いていたが、誰にも予測がつかないのが人の命運だ。少なくとも、グループホームに入所した時点で、母親の命は他人の手に委ねられたも同然であった。

 しかも今回は未曾有の災害だ。誰のせいでもない。誰もが犠牲者になる可能性があった。


 言うまでもなく日本人は豊かな自然に囲まれて、自然の「恵み」も「災い」も受けながら、連綿と命を繋いで来た。

 日本人として生まれた以上、自然の恵みを感謝して享受しつつ、常に天災の被害の覚悟を持って生活するしかないのだろう。

 そして、たとえ被災しようとも生き残った人々が再び立ち上がる強さ互いに助け合う優しさを、長年に渡って育んで来た歴史が、この日本にはあることを覚えておきたい(映画ゴジラ・シリーズの最新作「シン・ゴジラ」では、そうした日本の在りようを「スクラップ・アンド・ビルド」と表現していた。言い得て妙である)

2016/9/1


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 予告編を見た時から気になっていた作品。「映画の日」の今日、観客の殆どが学校帰り?の高校生と言う中に混じって、本作を見て来た。

 面白かった。巷では殊更映像の美しさが高く評価されているようだが、物語もよく出来ていて、上質な青春SFファンタジーをアニメと言う表現媒体で見た、と言う印象だ。

 もしかしたら、同じ物語を実写で撮った場合、陳腐なCGの多用で、ここまでの完成度は無理だったかもしれない。アニメだからこそ実現した物語の世界観なのかなと思う。

 「睡眠」をスイッチに魂の交換が起きる摩訶不思議な現象で、主人公の「都心に住まう瀧」と「とある地方の山間の町に暮らす三葉」は出会う。しかも、その現象は気まぐれで、いつ起こるのかは本人達にも分からない。ある朝目覚めると、相手の身体に魂が入り込んでいるのだ。

 なぜ、そんなことが、この二人の間に起きたのか?千年に一度とも言われる彗星の接近との関係を匂わせつつ、物語は進んで行く。

 いつの間にか、祈るように二人の行く末を見守っている自分がいた。作品の世界に没入する喜び…今回は声優陣の好演も大きかったように思う。有名俳優が演じていたが、見ている間はそのことを忘れるぐらい、それぞれが役にぴったりと嵌っていた。

 そう言えば、元々私には「アニメ=子ども向け」と言う認識はない。なんだかんだ言って私はアニメの第一世代。物心ついた時からテレビで草創期のアニメを見ていた。そして今に至るまで、ありとあらゆるアニメをテレビや映画館で見て来ている。アニメは「映像表現の一ジャンル」、と言う位置づけだろうか。

 世界中のアニメを見て来たが、それぞれが表現に独自の進化を遂げていて、どれが優れて、どれが劣ると、軽々には言えない。それぞれが際立った個性で、独自の境地を開いていると言う印象だ。

 例えば水の表現にしても、「ファインディング・ドリー」ではディズニー・ピクサーがリアリティの追及に腐心したの対し、今回の「君の名は。」は絵画的表現に拘ったのが分かる。
 
 見る側、鑑賞する側としては、さまざまな国、さまざまな作家の、アニメの多様な表現を楽しめるのが嬉しい。作家独自のちょっとした"癖"も、個性として楽しみたい。



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