2016/8/27

はためく  今日の言の葉

 日本語は世界に類を見ない擬音語(onomatopoeia)や擬態語の宝庫らしい(因みに擬音語は犬の鳴き声の「ワンワン」や風が吹く音「ヒューヒュー」など、"実際に耳に聞こえる音"を言葉で表現したもので、擬態語は「心臓がバクバクする」や「雪がシンシンと降り積もる」など、"実際に音として聞こえない物事の様子、状態"を言葉で表現したもの。諸説あるが、擬音語と擬態語の総称が「擬声語」)。

 日本語を勉強中の外国人に、彼らの言語にあまり存在しない擬音語や擬態語について説明すると、とても驚き、面白がってくれる。特に擬態語に関しては、擬音語以上に彼らには馴染みが薄いだけに、言語学者や日本語教師でもない私には説明するのも難しい(そのおかげで、"純粋に言語としての日本語"への興味も湧く)


 今日、ふと気になって「はためく」について調べてみた。

 台風10号の接近に伴い、ベランダに干している洗濯物がはためいている、と言って直後に、「洗濯物がはためく」の「はためく」の「はた」は、"旗のように"布が風に吹かれて動いていることから「はためく」と言っているのだろうと見当して、漢字で「旗めく」と書くのだろうか、とふと思ったのである。

 辞書で調べてみると、「はためく」は確かに「旗」のように布等が「バタバタと動く」さまを表す言葉(自動詞)ではあるが(他に「鳴りひびく」「鳴動する」と言う意味もある)、全てひらがな表記だと言う。

 しかも、「はためく」の「はた(ハタ)」は「擬音語」らしい。

 と言うことは、棒などに結わえた何らかの「印」の「布地」が風で「ハタハタ」と動くさまから、その「布地」に対して先人が「ハタ」と名付けたのだろうか?

 つまりは、「擬音語」が「名詞化」したと言うことだろうか?私の"見当"は、順序が逆であった。先に「音」ありきであった。


 面白いなあ…

 だから、「旗がはためく」と言う表現も成立する。辞書に例文として載っている。「頭痛が痛い」とはワケ(格?・笑)が違うのである。

2016/8/27

「奇跡の教室〜受け継ぐ者たちへ」(原題:LES HERITIERS/ONCE IN A LIFETIME、仏、2014)  映画(今年公開の映画を中心に)

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 パリ郊外の貧困地区にある公立高校で2009年に実際に起きた出来事を映画化。それはあるひとりのベテラン教師の直向きな思いが起こした"奇跡"であった。

 本作は、それぞれに複雑な背景を抱え、自らに今ひとつ自信が持てず、反抗するか、怠惰を貪るか、或は自らの殻に閉じこもるかしかなかった生徒達が、愚直なまでに彼らに真摯に向き合う教師によって、どのように変わって行ったかを描く(生徒達がどんなに反抗的な態度をとろうが、ひるむことなく威厳を保って、言うべきことを言う教師マダム・ゲゲンが格好良い)

 是非、現役教師、将来教師を目指す学生に見て貰いたい一作だ。そして本作を通じて、教師であることの「重責」と「冥利」について考えて貰えたらと思う。

 本作は、恵まれない環境にある子ども達にはなおのこと、彼らを信頼して、真剣に向き合ってくれる大人の存在が必要であることを教えてくれる。子ども達の良さを引き出すのは、周りにいる大人すべての責任である。

 大人は子ども達を常に温かく見守り、支え、励ます存在でありたい。同時に、子ども達が道を踏み外しそうになったら、全力で叱る厳しさも持ち合わせていたい。

 中でも感受性豊かな伸び盛りの子ども時代に1日の大半を過ごす学校で、互いに切磋琢磨し助け合う仲間や、信頼関係を結び合える指導者(←子どもはちゃんと見ている)と出会えることが、どれだけその後の人生を豊かにしてくれるのだろう…と思う。

 後日談を感動的に体現しているのが、劇中、映画好きを公言していた少年である。彼はかつての自分自身を演じているのだ。彼は映画で描かれたエピソードが後押しした形で俳優の夢を叶え、監督と共に本作の脚本も手がけている。

 真摯な姿勢を貫く教師の情熱は、子どもの未来を拓くのだ。

★★★★★★★★★★★★

 さらに映画の登場人物達の姿には、同世代の若者にも考えさせられるものがあるだろう。

 久しく単一民族国家と言われて来た日本ではあるが(厳密に言うと違う)、近年は従来の中韓系以外のアジア系の親を持つ子どもや日系ブラジル人、さらに国際結婚の増加で他国人と日本人の混血化も進んで、多様な背景を持つ子どもの数が確実に増えて来ている。

 その意味で、本作では日本に先行して多文化共生社会であるフランスの現在の姿が、ひとつの教室に凝縮された形で見られるのが興味深い。それにしても「29の異なる人種(民族?)」(校長談)は凄い。

 まさに人種と民族と宗教のモザイクの国であるフランスと言う国の今の社会の在りようと併せて、「哲学の国」を自負するフランスの、わが国とはあまりにも異なる「歴史教育の在り方」にも注目したい。

★★★★★★★★★★★★

クリックすると元のサイズで表示します さまざまなトラブルを引き起こし、他の教師達が匙を投げるクラスの生徒達に対し、担任教師マダム・ゲゲンは、毎年開催される「歴史コンクール」への参加を提案する。先生が掲げたテーマは「ナチ占領下の子ども達」である。

 その大胆な提案に驚き、当初は拒否反応さえ見せる生徒達。しかし、ベテラン図書館司書イデットもサポートに加わって、課外授業と言う形で、紆余曲折がありながらも彼らのテーマ学習は進んで行く。

 生徒達が「勉強をやらされる」から「主体的に学ぶ」姿勢へと転換して行くさまは、マダム・ゲゲンとイデットのベテランコンビの絶妙な誘導があってこそである。

 冒頭、「ノートを取る必要があるか」と問う生徒に、「要らない。歴史は理解するものよ」と答えるイデット。フランスの教育現場における歴史教育の目的を端的に述べた言葉だと思う。「歴史は暗記するもの」ではないのである。

 途中、ある生徒が興味本位で集めた画像集に、内心ギョッとしたであろうマダム・ゲゲンが戸惑いをおくびにも出さず、生徒の着眼点を否定もせずに一旦引き受けて、それを糸口にさらに深い考察を生徒達から引き出したシーンがあった。その人間としての懐の深さ、教師としての手腕の見事さに感嘆せずにはいられなかった。

 私自身、1コース1時間足らずと短いながらも、美術館で作品を前にして生徒達を相手に対話型トークを実施させていただいているが、生徒の予想外の発言や着眼点に内心戸惑うことがある。

 対話型トークでも、(作品鑑賞に即したものならば)生徒のいかなる発言も否定しないのが原則である。しかし、1作品当たり10〜15分と言う限られた時間の中で当意即妙な対応と言う意味では、マダム・ゲゲンのようには行かない。何十回、何百回と経験を重ねても、毎回、自分のトークはあれで良かったのか、子ども達に作品鑑賞の楽しさを幾ばくかでも伝えることが出来たのかと反省するばかりだ。

 マダム・ゲゲンと生徒達とのやりとりを見るにつけ、適切に生徒達を教え導くということはどういうことなのかを、曲がりなりにも「(美術鑑賞)教育普及」に携わる1人として学ばせて貰ったように思う。

 ここでふと、教師をしている友人が、「教師の中には『生涯一教師』を標榜して、敢えて管理職試験を受けずに、現場に立ち続けている人も多い」と、以前、言っていたのを思い出す。

 マダム・ゲゲンことマダム・アンヌ・アングレス(マダム・ゲゲンのモデルとなった人物)は、今もなお同じ高校で、歴史教師として教壇に立ち続けていると言う。

 彼女もまた、「生涯一教師」を貫く覚悟でいるのだろうか?

 若き日に、彼女と出会える生徒達が心底羨ましい。

★★★★★★★★★★★★

 それにしても思う。入試テストの傾向が「暗記力」から「思考力」を問うものへと転換しつつある私立校はともかく、我が国の公立校では、テーマについて深く掘り下げて考えさせる教育が、(自分の知る限りにおいて)現状、全般的にあまりにも不足しているのではないか?

 それは教師が子どもの能力を過小評価して、端から彼らにそうした教育は無理だと諦めて実施しないのか、或は、教師自身がそうした教育を受けていない為に、どう教育し、子ども達の能力を引き上げて良いのか分からないから実施できないのか? 

 (我が国の戦後教育は、GHQ<米国>の意向もあって?、敢えて、そのような教育を避けて来たフシもあるように思う。二度と日本が米国に逆らうことのないよう、また、戦後復興をできるだけ早く進めるために、物事を深く考えずに、上に言われた通りに迅速かつ正確に仕事を遂行する人間を育てることに注力して来たのではないか?)

クリックすると元のサイズで表示します はたまた、現在、文科省が教員や事務職員の定員増で解決を図ろうとしている、教務以外の雑務で多忙ゆえに、じっくり腰を据えて指導に取り組む時間が教師にはないからだろうか?

 以前、偶然テレビで見たドキュメンタリーによれば、フランスでは幼児期に哲学を学ぶ私塾に通わせる親もいるほど、幼い頃から学校現場では徹底的に物事を深く見つめ、考え抜き、自分なりの見解を、自らの言葉で発する教育を行っていると言う。

 本作の生徒が一見「落ちこぼれ」でも、臆することなく自分の意見を人前で述べることができ、日常生活でも堂々と友人と議論できるのは、そうした幼い頃からの教育の賜物なのだろう。

 自らを自ら足らしめるものは何か?それを徹底して考えさせる教育の理念は、フランスではおそらく長きに渡って連綿と引き継がれて来たものだろう。それはもしかしたらフランスが早くから多文化共生社会であったからこそ、必要に迫られて形成されたものなのかもしれない。

 フランス社会も近年はISによるテロが相次いだこともあって、多文化共生の絶対的テーゼが揺らぎつつあり、宗教や民族差別等さまざまな問題も抱えてはいるが(そうした問題を踏まえての、教育現場における「宗教性」の徹底排除は興味深い)、フランスの何に括目するかと言えば、本作で描かれているような教育が、エリートのみならず、公教育の場で遍(あまね)く長期間に渡って行われていることだ。

 今後、否応なく多文化共生の道を歩み始める我が国も、フランスに倣って幼少期から、ひとつのテーマをじっくり時間をかけて深く掘り下げ、自分なりの見解をまとめて、それについて他者と議論する教育を始めるべきではないだろうか?現実問題として日本社会を構成する人々の背景の多様化に伴い、かつての「以心伝心」は成立しなくなっている。

 それは「相手と堂々と議論を戦わせて自分の主張を通すことが当然」とされる世界の大勢に、日本も対応せざるを得ないと言うことでもある。世界の舞台で自己主張しないことには、不戦敗も同然なのだ。

 また、本作では教師の熱意ある指導の下、生徒達が一丸となって「歴史」を学ぶことを通して著しい成長を見せる様が主テーマであり、ヨーロッパで今なお傷跡を深く残す「ナチスによるジェノサイド」を殊更前面に押し出してはいないが、若い世代が"受け継ぐ"べき「歴史」のひとつとして説得力を持たせるべく、実在の強制収容所からのサバイバーを登場させている。

 先の大戦から歳月を重ね、戦争の語り部がひとり、またひとりとこの世を去って行き、戦争の記憶の風化が危ぶまれるのは我が国も同様である。「歴史の生き証人」から若い世代が受け継ぐべきものは何なのか、本作にはそういうことにも思いを致すシーンがあって印象的だった。
  
「奇跡の教室〜受け継ぐ者たちへ」公式サイト

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 因みに本作の存在は、毎朝見ているNHK−BSの「キャッチ 世界のトップニュース」で、毎月第一金曜日に放映されるコーナー「映画で見る世界の今」で知りました。

 映画通で知られる東大の藤原帰一教授が数多ある公開作の中から厳選した、"世界の今"を伝える海外オススメ映画を紹介するコーナーです。アイルランドを題材にした「ブルックリン」「シング・ストリート」もこのコーナーで知って、とても感銘を受けた作品です。


タグ: 教育

2016/8/17

違和感  はなこのMEMO

 オリンピックに興味が有る無しに関係なく、この時期はテレビを点けても、新聞を読んでも、ネットを見ても、オリンピック関連の話題で持ち切りだ。

 それはそれで仕方のないことだと思う。4年に1度の限られた期間のことだから、そのこと自体は目くじらを立てるほどのことでもあるまい。

 今でこそ、それほどオリンピックに興味のない私だが、かつては人並み?に自国選手はもちろんのこと、世界の一流アスリートのオリンピックでの活躍に注目し、その結果に一喜一憂していた。

 特に、中学生の時に見たモントリオール・オリンピックでの女子体操ナディア・コマネチ選手の活躍には胸を躍らせたものだ。

 以来、オリンピック全般に興味はないと言っても、体操競技だけはチラチラ見ている。

 それで今回違和感を覚えたのが、行き過ぎた日本人贔屓の放送体制だ。

 おかげで日本を中心にオリンピックが回っているように錯覚してしまう。「えっ?いつの間に米国は30個近い金メダルを獲得したの?」と。


 「ひねり王子」こと白井健三選手の、世界初の新技披露の跳馬銅メダル獲得は確かに素晴らしいことだ。繰り返しその映像を流すことで、同じ日本人として喜びを分かち合うことにも異存はない。

 しかし、銀メダル獲得のロシア選手の演技は何度か映ったのに、金メダルを獲得した北朝鮮選手の演技の映像が一切ないのは如何なものか?それとも、私がたまたま見逃しただけなのか?

 少なくとも一体操ファンとして、今回、世界最高峰と評価された跳馬の演技が見られないのは残念なことだ。

 なぜなら、オリンピックは各競技の世界最高峰を目の当たりにする場でもあるのだから。民放はともかく、NHKなら視聴率を気にせずに放送できるはずだ。それともNHKだから、できないのか?

 同じ映像の度重なる使い回しは、高騰を続ける放映権料の問題なのか否か不明だが、史上最多の205カ国が参加するオリンピックで、殊更日本人ばかりが映しだされる放送体制には違和感を禁じ得ない。
 
 オリンピックを国威発揚の場として位置づけた、大昔の共産主義国家じゃあるまいし…日本はもっと視野の広い、フェアな国だと思っていた。


 もしや国民の目を逸らす必要のある何か重要な出来事が、水面下で進行中なのだろうか?

2016/8/16

オーストラリア土産♪  携帯電話から投稿

夏休みで、中高時代からの親友とオーストラリアを旅行していた息子が、先ほど帰宅しました。

自らネットで格安航空券とホテルを手配して、シドニーとエアーズロックを訪ねる旅。

初めて尽くしの経験で、失敗も幾つかあったようですが、それらも含めて親友との二人旅は、息子にとって思い出深いものとなったようです。

視野を広げる為に積極的に旅をするよう、息子には常々言っているので、今後も国内外各地を旅することでしょう。

親としては、帰宅するまで、気が気ではありませんが…


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2016/8/15

一部の横暴に対して我慢はしない。やられ損にならない為に私達が出来ること  はなこ的考察―良いこと探し

 いつの時代にも社会の中には、「確信犯的に悪意を持って、それを行動に移す人間」が一定の割合で存在するのかもしれない。

 そういう人間から見たら、私のような人間は、「正義漢ぶった単純な馬鹿」なのかもしれないが、どうしても彼らの「社会秩序の破壊行為」が看過できなくて、抗議せずにはいられない。

 (社会秩序の在り方も時代と共に変化する。例えば、タバコの毒性が明らかになった今となっては、老いも若きも、男も女も、タバコをスパスパ、所構わず吸うのが当たり前だった50年代、60年代のような状況は、社会常識として許されない)


 先日のことだ。いつものようにバス停に向かっていた私は、外出早々に嫌なものを見てしまった。バス停の先頭に並んでいた中年男性が、その場で飲み干したドリンク剤の空き瓶を捨て置いたのだ。

 さらに後ろに人が並んでいるにも関わらず、「健康増進法第25条」の「受動喫煙の防止」に則て、全国各地のバス会社が禁煙と定めているバス停で(会社のホームページにも明記)、平然と煙草を吸い始めた。

 その人物のタバコの副流煙は、風下にいる私達のところへ流れて来る。臭くて不快この上ない。夏休みはバスの利用者に子どもだって多いのに。

 堪らず口頭で「バス停での喫煙は禁止されていますよ」と注意したら、「お前には関係ないだろう」「文句があるなら警察を呼べ」と逆切れする始末。

 「灰皿があるんだから、吸っていいんだろうが」とのたまうが、これは喫煙者の吸い殻のポイ捨てが後を絶たず、それに困った隣接の建築会社がやむを得ず設置したもの。バス停での喫煙を推奨しているのではけっしてない。

 それでも朝になれば、バス停付近にはタバコの吸い殻が散乱している。以前も当ブログに書いたが、大工の棟梁から身一つでその建設会社を興した社長さん自ら、毎朝そこを掃き清めておられる。そういう経緯を知っているから、なおのこと男性のゴミ投棄と喫煙行為に私は腹が立ったのだ。

 しかし、そもそも人間は、自分自身で変わろうと思わない限り、変わらないものなのだろう

 ましてやこうしたケースでは、信頼関係を構築している間柄の人物からの指摘ならともかく、見ず知らずの他人からの指摘には、反省するどころか内心の後ろめたさもあって、却って頑なになる可能性が高い。

 私自身、端から相手を責めるような口調が、いけなかったのかもしれない。それでは、相手の反発を招くだけだ。「未熟なコミュニケーションの取り方」と言われても仕方ない。

 バス停での一部始終を私の後方で静観していた夫は、バスに乗車後「理屈の通じない人間に何を言っても無駄だよ」と、吐き捨てるように言った。

 「どうして、私に助け船を出してくれないの?」と不満をぶつけると、「男が出たら、暴力沙汰になるから」と至ってクール。

 まあ、他の人々から見れば、バスが到着するまで不毛な押し問答を続けるおじさんとおばさんは、はた迷惑であったかもしれない

 (しかし、何だね。「おばさんのくせに」には思わずカチンと来たね。悪いことは悪いと指摘するのに属性は関係ない。まあ、これはマトモに言い返せない阿呆の決まり文句ではある。こういう一部の不届き者のせいで、時と場所を弁えた良識ある喫煙者まで、肩身の狭い思いをすることになるのは気の毒だと思う。)


 こういうことを個人で繰り返しても埒があかないだろうと考え(昨今、相手が暴力行為に及ぶ危険性だってなきにしもあらずだし、話の通じない人を相手にするのは疲れるだけなので、今後は控えるつもりだ)、バス会社のバス停における喫煙に関する見解を確認したかったので、後日、バス会社に電話した。

 当のバス会社は、「私と同様のクレームは多数寄せられているが、自治体でターミナル駅周辺以外の場所は「条例で禁煙と定めていない」以上、バス会社としては個々のバス停に関しては、利用者に『禁煙協力をお願い』するしかない」と、ある程度予想はしていたけれど当たり障りのない回答。

 現状では喫煙者に「関係ねえだろう」と悪態をつかれたら、すごすごと引き下がるしかないと言う(せめてバス停の標識に「禁煙」やバス停をきれいに使うよう、注意喚起の張り紙をしてほしい旨訴えた。コストが掛かることなのでバス会社がどう対応するか分からないが、言うだけは言ってみた)

【16.08.17 追記】
 今日バス停を利用したら、早速、バス会社は貼り紙で対応して下さっていた利用者の声を蔑ろにしない真摯な姿勢と迅速な対応に感謝!

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 「つまり、『自治体でバス停での禁煙を条例化すれば』、バス会社としてももう少し強く働きかけることが出来るのか」と問うと、バス会社の担当者は「そうですね」と応えた。


 それならばと、自治体のホームページにある、市民からの市政への意見や提案を受け付ける窓口「市長への手紙」へ、早速、条例化の検討を願う旨の意見をメール送信した。後日、回答を貰えることになっている。


 以前、バスターミナルのゴミの散乱に関して市の担当局に問い合わせた際、その時点ではハッキリとした回答は得られなかったのだが、暫くして、「ゴミ箱設置の要望」は叶わなかったものの、清掃の回数が増える等の改善が見られた。

 その経験から、市民として自治体に対して意見を述べることは、けっして無駄ではないと考えている。

 単に自分の我を通す為ではなく、市全体、市民全体の利益(公共の福祉)を考えた提案ならば、自治体も動いてくれるのではないか?

 この国はサイレント・マジョリティーが、ノイジー・マイノリティーの横暴に、ひたすら我慢を強いられているケースがあまりにも多過ぎる。

 おかしいと思ったなら、ひとりでも多くの人が勇気を出して声を上げるべきだ。悪意ある一部の人間の横暴に、善良(←別に人として完全無欠である必要はない。ここでは個別事案に関して常識をきちんと守っている人を指す)である多数の人々が我慢する必要などないと思う。

 具体的には、市民生活の上でおかしい点があれば、我慢せずに担当部署に自ら働きかけて改善を促すのも、市民としての権利であり、務めではないかと思う。


 言うまでもなく、本来ならば条例等で規制をかけずに、ひとりひとりの良識で社会の秩序が保たれるのが理想なんだけれどね。


 訴えから17日後に、自治体の担当者から以下のようなメールが届いた。それによれば、既に条例で市内全域で路上喫煙は禁止されている。

 それを知ってか知らずかバス会社が条例違反者に対して弱腰なのは、条例が罰則規定のない拘束力の弱いものであること、また、私企業である以上費用対効果の面からも、いちいち個別事案に対応できないからだろう。

 自治体自体、主要駅前でのキャンペーン等でお茶を濁している。結局、上述の男性を見れば分かるように個人のモラル向上など殆ど期待できないので、さまざまな場所での個人間の小競り合いはなくならなず、多くの人(サイレント・マジョリティ)がバス停での煙害を不快に感じながらも我慢し続けることになると思う。

 何か、抜本的対策はないものですかね?

【自治体からの回答】

 ××市では、道路や駅前広場などでの喫煙が周囲の歩行者にやけどを負わせたり、衣類などに焼け焦げをつけたりするおそれがあることから、こうした他の歩行者に対して危険となる行為を防止し、歩行者の安全を確保することを目的として平成18年4月1日に「××市路上喫煙の防止に関する条例」を施行しました。

 条例では、喫煙者には市内全域で路上喫煙をしないよう求めるとともに、主要駅周辺などの多くの歩行者が利用する区域を「路上喫煙防止重点区域」として指定し、区域内では市で設置した指定喫煙場所を除き喫煙を禁止しています。

 条例施行以降、市内各駅周辺での毎月のキャンペーン活動やポスターの貼付、市営バス車内での広報など、路上喫煙防止に向けた啓発活動を行うとともに、路上喫煙防止指導員による巡回活動により、路上喫煙者への注意・指導を行っています。

 なお、人の往来が多い区域に限定して重点的、集中的に路上喫煙対策を講じ、意識啓発を行うことで、区域外への波及効果も期待でき、条例の周知、PR効果も高くなると考えていることから、特に人通りの多いターミナル駅周辺を「路上喫煙防止重点区域」に指定しているところです。

 条例を実効あるものとするためには、今後も広報・啓発活動等を継続して実施し、喫煙マナーを向上させることがなによりも重要と考えていますので、御理解の程よろしくお願いいたします。

 また、本市では、平成7年7月に、地域環境美化の推進を図り、もって市民の生活環境の向上に資するため、「××市飲料容器等の散乱防止に関する条例(通称:ポイ捨て禁止条例)」を施行し、道路、広場、公園、河川その他公共の場所での飲料容器等(空き缶・空きびん・紙コップ、チューインガムのかみかす、たばこの吸い殻)のポイ捨てを禁止しております。そして、上記の「公共の場所」には、今回御意見をいただきましたバス停も該当するものと認識しているところです。

 主要駅をはじめとした主要駅周辺を散乱防止の重点区域に指定し、集中的にポイ捨て禁止等の呼びかけ及び清掃活動を行う啓発キャンペーンや巡回指導を行っており、これらによって環境美化についての市民の皆様の意識の向上を図るとともに、市内全域への波及を期待しているものです。

 他方、市では、今回の御意見と同様に重点区域以外の場所でのごみの散乱につきましても御意見をいただく場合があり、一人ひとりのマナーやモラルの向上に向け継続した取組みが必要と認識しているところです。今後も、様々な機会や広報媒体等を活用して条例の周知、ごみに関するマナー向上の呼びかけを行い、「ポイ捨てしないまちづくり」を進めてまいります。


××市長 ○○ ○○

受付番号 28−001273

(路上喫煙防止について)
担当 市民文化局市民生活部地域安全推進課
電話 ×××−×××−2284

(ポイ捨て禁止について)
担当 環境局生活環境部減量推進課
電話 ×××−×××−2580

2016/8/8

チョイ住みinキューバ(7月21日<木>放送)その1  海外旅行(旅の記録と話題)

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 今回も「チョイ住み的化学反応」を存分に楽しませて貰いました!
 
 昨年、突然?始まり、以後不定期に放映される(←だから視聴者は番組公式HPや公式Facebookをこまめにチェックしなければなりません!)「チョイ住み」シリーズも好評を得て、今回で第6弾を数えます。

 今回のチョイ住み人(びと)は、人気若手俳優の野村周平君(22)と著名な料理研究家の土井善晴氏(59)。その年齢差は番組史上最大の37歳です!強いて共通点を挙げるならば、おふたり共、関西出身(周平君は兵庫県神戸市、土井氏は大阪府大阪市)であることでしょうか?(因みに次点は、フィレンツェ編の斎藤&渡部組の35歳差。こちらも若手俳優とベテラン料理研究家の組み合わせです)

 そして「チョイ住み」の地は、カリブ海に浮かぶキューバ共和国。その首都ハバマの新市街ベダード区の海沿いにある築50年!の高層アパートの8階(100u、1人1万円/泊)に5泊6日の滞在でした。

 今回の滞在時の出来事の概要は、以下の通りです。

 1日目:深夜、一足先に土井氏がキューバ入り。
 2日目:午後、周平君もキューバ入りして、土井氏とアパートで合流。
     早速一緒に近所へ食材の買い出し。
 3日目:午前、近所にあるハバナ一の市場へ。午後は旧市街を散策後、
     セントロハバナへ行き、そこで「ルンバ」を初体験。
 4日目:ハバナっ子イチオシのビーチへバスで4時間かけて行く。
     車内で偶然、大学で日本語を学ぶ女子学生と出会う。
 5日目:バスで出会った女子学生ジゼルさんとその友人に
     自宅で日本料理のランチを振舞う。夜、土井氏帰国。
 6日目:朝、土井氏直伝のオムレツを作り、周平君も帰国の途につく。

 番組の冒頭で、キューバ行きは若きチョイ住み人、野村周平君の希望とのことでしたが、どういった経緯でチョイ住み人が選ばれ、滞在場所が選ばれるのか、興味あるところですね。

     今回滞在したアパート8階からの市街地の眺め。昔住んだことのあるアンマンに似ている
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       これもまたアパートのベランダから見える紺碧のカリブ海。美しい〜
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 番組の企画(仕事)とは言え、見も知らぬ赤の他人と数日間、異国の街で寝食を共にするなんて、実際のところどんな気持ちなんだろうなと毎回想像しつつ、異色のカップリングを固唾を飲んで?見守ります。

 出発前に初めて相手を知らされた両者の反応は、やはり不安が先行しているようで…

 「怖いなあ…ふたりで暮らす…」(周平君)
 「あまり気が合うとは思わない…」(土井氏)

 ところがどうして、実際にキューバの首都ハバマで共同生活をスタートさせると、「直感派」の周平君と「慎重派」の土井氏が、さまざまな局面で絶妙のコンビネーションを見せてくれます。

 仮に両者が「直感派」だと危なっかしくてトラブル続発のような気がするし、共に「慎重派」だと慎重過ぎるあまり探究心や冒険心に乏しい、つまらない滞在になりそうな気がします。凸凹コンビだからこその展開の意外性が、このチョイ住みシリーズの醍醐味でもあるのでしょう。

 それにしても、ふたりの最初の出会いからして、その対照性が際立って面白いです。

 「慎重派」らしく、スーツケースに最低限の旅支度以外に、包丁から、鍋、煮干しに味噌まで揃えて来た土井氏に対し、「直感派」の周平君は(海外に数日間滞在なのに)バックパックひとつの身軽さ。彼は先日の別番組「アナザースカイ」台湾編でも同様でした。必要な物は現地調達すれば良い、と言う考えです。

 しかし、社会主義国で、昨年まで50年以上に渡って西側の豊かさの象徴でもある米国と国交を断絶していたキューバです。そのキューバの自由経済とは程遠い現実を、前日にキューバ入りしていた土井氏は既に思い知らされていました。

 冒頭から食料調達に、他の国では考えられないほどの不便さを経験するふたり。まず、商店が見当たらない。商店があったとしても、米や塩がなかなか見つからない。特に塩は店で入手できず、見かねた現地の人から、自宅の物を分けてもらう始末。

 これ、番組では特に言及していなかったけれど、もしかして、キューバではは配給制なんじゃないかな?

 日本でもかつて製塩は専売公社(←若い人は知らないかも)の独占事業だったし、調味料の中でも「塩」は"人間の生死にも関わる貴重な調味料として"特別な位置づけなのでしょう。
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 また、軍事施設や空港、政府機関等が写真撮影禁止なのは分かるのですが、キューバではなぜか商店の内部も撮影禁止です。ネットで現地の治安情報を見たのですが、社会主義国のキューバは未だ「隣組」が現存する「相互監視社会」なんだそうです。そう言えば、同じアパートの住民との交流は一切なかったですね。

 海外旅行に行った人なら誰でも経験することだと思うのですが、現地のスーパーマーケットに行って現地の食材を買うことは、旅の楽しみのひとつでもあり、スーパーマーケットの品揃えで、その国の豊かさが推し量れるものです。

 今回のキューバでは、スーパーマーケット自体を見ることがなかったですし、数少ない商店内部の映像を見ても、棚はスカスカだし、扱っている商品の種類も少ない印象を受けました(私も湾岸戦争直後に赴任した中東のスーパーマーケットで同様の経験をしました。外資系にも関わらず棚はスカスカの品薄状態で、赴任早々、駐在生活に一抹の不安を感じたものです)
        この映像を撮影直後に、店の人から制止されてカメラは店外へ…
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 とは言え、チョイ住み3日目に訪れた生産者が対面で農産物を販売する市場では、キューバなりの豊かな食文化が垣間見れました。

 農薬や化学肥料を一切使わないオーガニックな野菜や果物、"と畜"直後の「まだ冷蔵庫に入ったことのない(それだけ新鮮な)(土井氏)骨付の豚ロース肉など、料理人土井氏を唸らせるような、より自然に近い形の食材に溢れていました。
     キューバ産の塩で味付けしただけの旨味豊かな骨付ロース肉のソテー、ライム添え
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     キューバの唐辛子と日本の煮干しのコラボ。
      辛味のアクセントに土井氏が1本だけ入れた激辛唐辛子を、
      土井氏の制止を聞かずに周平君が食べて悶絶(笑)

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     ふたりが合流して最初の夜に、地元の人が利用する近所のレストランで食べた
      「鶏と豚の田舎風グリル」〜キューバの素朴な伝統料理。
      鶏肉が脂身の少ないサッパリした味と言っていた土井氏。
      狭い鶏舎で無理やり脂身たっぷりに仕上げたブロイラーとは違う、
      十分に運動した平飼いの地鶏の味だったのでしょうか?

      そう言えば、中東で食べたKFCのフライドチキンも
      明らかにブロイラーではなく、食べられる部分が少ない(笑)、
      痩せた筋肉質の鶏肉でした。フランチャイズのはずなのに、
      香辛料の配合もビミョーに違っていて、アラビック味でした(笑)。

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 チョイ住み2日目、周平君が土井氏と合流。到着直後の買い出しの際に、早速近所の子ども達の草野球に飛び入り参加。滞在初日から、物怖じしない天真爛漫さを発揮する周平君です。
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 近所のレンタルバイク(自転車)屋さんで自転車を調達したことで、一気に行動範囲が広がりました。

 ここで、いきなり周平君が関西人のノリで、レンタル料の値切り交渉にかかるのですが、自由経済に慣れていない老店主には通じなかったようです。レンタル料3日間で、ひとり45兌換ペソ(5、000円)也。
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 「チョイ住み」は"現地の人のように暮らす"のが基本コンセプトなので、外国人観光客で賑わうようなレストランは敢えて避けます。

 上掲のグリル料理を食べたレストランは野外レストランのような体裁で、地元の家族連れで賑わっていました。

 そこで、まず周平君はビールを注文。筒の部分に氷が入っていて、キンキンに冷えたビールが味わえると言う3リットル入りのビールサーバーが運ばれて来ます。
 1,300円也。

 下戸でアルコールは一切ダメな土井氏と一緒なのに、周平君は大丈夫だったのでしょうか?(もしかして、スタッフが協力したのかな?)
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      その場に居合わせたカップルの男性と記念撮影。
       開放的な周平君に有無を言わさず土井氏が引っ張られる形。

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 この日の夜の本音カメラでは、

 「若さでグイグイ押して行く野村君にはビックリ。
  自分の思っていたキューバとは違う」
 と戸惑いを隠さない土井氏に対し、
 「ちょっと土井さんを置いてけぼりにしちゃったのが反省点」
 と、意外に冷静に自分を振り返る大人な周平君に、
 単なるやんちゃ坊主ではない、聡明さと優しさを感じたのでした。

(2)へとつづく…

2016/8/7

漸く「チョイ住みinキューバ」の感想が書けそうです  海外旅行(旅の記録と話題)

 このところ遠方の身内に不幸があったりで、身辺慌ただしかったので、少し時間を要するような記事が書ける状況ではありませんでした。

 今日、漸く7月下旬放送の「チョイ住みinキューバ」を改めて見直し、その面白さを再確認しました。

 近日中に、放送後に少しずつ集めていたキューバ情報も交えて、今回の放送の感想をまとめるつもりです。

 やっぱり「チョイ住み」シリーズ、旅好きの心をくすぐって、見応え十分です
 
 この番組を見ると、どこか遠くへ旅に出たくなるなあ…
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2016/8/7

なぜだろう…  日々のよしなしごと

かつてほど、オリンピックにも、高校野球にも興味が持てない(熱くなれない)

今はごくごく個人的な趣味趣向に意識が行くせいか、
「国を代表して」とか、「全員野球」とか、
国を挙げて応援とか、県民一致団結して応援とか、
そういう「全体主義的」なことに違和感を覚えると同時に、
競技自体に興味が持てなくなってしまっているのだろうか?

「がんばれ日本」なんて、
今の自分の心に最もフィットしない言葉かもしれない。

もちろん、他の人がどうであろうと関知しない。

オリンピックや高校野球に夢中になるのも、
それが他人の迷惑にならない限り、
それを他人に強要しない限り、
その人の自由だと思う。

2016/8/4

ほんのもう少し先の"未来"を見据えて…  はなこ的考察―良いこと探し

 何かしら行動する時、ほんのもう少し先の"未来"を見据えて、行動した方が良いのではないかと思う。

 例えば、私の住むコミュニティでは、毎日曜日に古段ボールや古新聞や古着の廃品回収を行っているのだが、私は住民の廃品の出し方が気になって仕方がない。

 廃品回収業者が町内を2トントラックで周って、各ゴミ集積所で廃品を回収することになっているが、観察すると、種別ごとに回収している。

 例えば、1台のトラックに段ボールのみ積んで、荷台が満杯になったら、リサイクル工場に運ぶ。町内の各集積所のダンボールがなくなるまで、それを繰り返す。ダンボールが終われば、次は古新聞と…

 しかし、ゴミ集積所では、各々の住民が何も考えずに適当に廃品を置いている。段ボールはひもで結わえてすらいなかったりする。

 業者の回収方法を見れば、ゴミ集積所でも、廃品をきちんと種別ごとに分類して置いた方が効率的だし、業者も助かるだろう。

 以前はこの廃品回収を、地元の建設業者がトラックを出して、子供会の役員が月に一度行っていた。私も役員を務めた数年間、ほぼ毎月、春夏秋冬、町内を練り歩いて、廃品をトラックに積む作業を行った。

 だから、その作業の大変さが分かるのだ。特にこの暑い時期は体力の消耗が激しい。

 確かに業者は仕事でやっているのかもしれない。しかし、そうだとしても、少しでもその負担を軽くする気遣いが、廃品を出す側にあっても良いのではないかと思う。

 だから、せめて私が利用する集積所ぐらいは分類しておこうと、廃品を出すついでに、てんでバラバラに置かれた状態の集積所の廃品を、種別ごとにまとめ直している。

 ひとりでも多くの人が、自分の行動の先を見据えて、現時点で自分がどうふるまうべきか、どう行動すべきか考えるのは大事なことだと思う。そうすればきっと、社会はより快適になる。生き易くなる。後先考えずに何でもやりっぱなしではいけないと思う。


 このことは、女子トイレでの待ち行列(女性は身体の構造上、どうしてもトイレが近くなってしまい、女子トイレは常に混雑しがちだ)の並び方にも通じるところがある。

 限られた空間の中で、トイレから出て来る人の動線を妨げずに並ぶには、どうしたら良いのか、列の先頭の人は考える必要がある(もし待ち行列が手洗い場への道筋を塞いでいたら、私はできる限り先頭の人に声をかけるようにしている)。待ち行列の人のほんのちょっとの気遣いで、誰もが気持ちよくトイレを利用できるようになるのだ。

 狭い歩道や通路で、どのように歩いたら、前から来る人、後ろから迫る急ぎの人の邪魔にならないのか、友人や家族と歩きながらも、少しでも気遣いの出来る人間でありたいと思う。

 人の迷惑も考えず、横に広がってダラダラ歩くのはもってのほかである。

 
 ほんの少しでも想像力を働かせて行動したい。 



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