2015/12/27

私もとうとうスマホ・デビュー  携帯電話から投稿

夫が間近に迫った私の誕生日を祝って、スマホをプレゼントしてくれました。

様々な理由から、スマホを持つことに抵抗感があったのですが、とうとうスマホ持ちの仲間?入りです。

ただし、あまのじゃく(と言うかケチ(笑))な我が家のことですから、キャリアではなく、SIMフリーのスマホです。所謂、ガラケーとの2台持ちです。 通信費も2台合わせて2300円程度。ライトユーザーなので、これで十分。

使ってみると、無料のアプリでも便利で楽しいものが多く、遅まきながらスマホ・ライフを楽しんでいます。

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2015/12/26


育ちの良さを感じさせる人がいる。
自分の身近に少なくとも数人はいる。

その人の人柄で一番特徴的なのは、
何時お会いしても笑みを絶やさないこと。
情緒が安定していて、感情の起伏が穏やかと言うことだ。

だから一緒にいて心安い。


また、常に誰に対しても、何に対しても、公正な態度を崩さない。
人の悪口にも安易に同調しない。
たとえ親しい間柄であっても、
相手に何らかの非があれば、その場でやんわりと正す。
しかし、けっして責めたりはしない。
とにかく諭し上手である。

だから、諭されれば素直に従わざるを得ない。反論の余地がないのだ。
その聡明さで、一緒にいて"気づき"を与えられることも多い。


そして、誰に対しても丁重に接し、親切である。何か頼まれれば協力も惜しまない。
人の長所を見出す励まし上手でもある。

だから、尊敬せずにはおれない。自分もかくありたいと思う。


育ちの良さと言えば、生まれた家の"格"で決まると思われがちだが、
育ちの良さは、生まれた"家柄の良さ"だけで決まるものでもないようである。

"立場"が人を形作るのはもちろんだが、
誰もが一目置くような家柄の出でなくとも、
賢明で、聡明な親のもとで育てば、
誰でも育ちの良さの特質を獲得できる可能性はあるようである。

そもそも家柄の良さは、"賢明さ"の代々に渡る継承が作り出すものであり、
各代の次世代に対するしっかりとした"教育"の賜物と言えるのかもしれない。

残念ながら生まれる"家"も"親"も選べないが、
育ちの良い人から、人としての在り方は学ぶことができる。
育ちの良い人と出会うチャンスは自分で作ることができる。


日々易きに流れることなく、目標を持って生きること。
日々自らの言動を省みること。
そして、日々改善の努力を惜しまないこと。

その先に、心惹かれる、自分の手本となる
素晴らしい人との出会いがあると信じて…

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     パリのロダン美術館の広大な庭。澄んだ青空に浮かぶ白い雲が印象的。

2015/12/25

充足感と不足感と  はなこ的考察―良いこと探し

 最近つくづく思うことは、

 これまでの"人生の垢"をすべてそぎ落としたとして、今の自分に何が残るか、と言うこと。
 自分がこれまでの人生で一番求めていたのは何か、と言うこと。
 
 そして、"失敗"は自分に"気づき"を与える貴重な機会である、と言うこと。

 すべてをそぎ落として後に残ったものが、自分にとって最も大切なもの、かけがえのないものなのではないか?

 それは自分が人生で一番求めていたものなのかもしれないし、それがもし一番求めていたものであったなら、自分は今、十分幸福だと言えるのではないか?だとしたら、そのことに感謝しないとね。

 もちろん、人生で求めるものは人それぞれだ。

 おそらく、それらは大人になる前に自分にはなかったもの?自分が持っていなかったもの?だから人の生き方は、どんな子供時代を過ごしたかで決まるのではないかと思うのだけれど、実際どうなんだろう?


 一方、シルヴァスタインが『ぼくを探しに』で描いたのは、自分の欠けた部分を探し求め続ける人生への疑問。

 「ぼくを探しに」は"完璧"であることの不自由さや不具合を描き、"完璧"であるがゆえに人生で失うものの大きさを静かに訴えかけている。

 完璧でないからこその人生の味わい深さに目を見開かせ、完璧でない自分を肯定し、その人生を慈しむよう促している。

 ただし、『ぼくを探しに』でぼくが探し求めていたのは、おそらく私の文脈では"人生の垢"に当たるもの。それは人(世間)から自分がどう思われているか(自分の言動が、他人には予想外の受けとめ方をされていることも多い)とか、世間の自分(の能力)への評価とか、それらが自分にもたらしたもの。

 人生も後半になると、何だかそうしたものがどうでも良くなって、それらをすべてそぎ落として後に自分に残ったものさえあれば、それで十分ではないかとも思えて来た。

 とは言え、人生で自分の思い通りに行かないことにぶち当たると、自分には何か欠けているものがあるのではないか、自分はこのままで良いのか、と考えさせられるのもまた事実。

 
 かくして充足感と不足感の繰り返しで、私の人生は過ぎて行く。

2015/12/18

東京オリンピックは本当に開催できるの?  気になったニュース

 東京オリンピック組織委員会の最新の試算によれば、東京オリンピックの開催運営費用が、当初、誘致時に提示していた3,000億円の、なんと6倍に当たる1兆8,0000億に上ることが分かったらしい。さらに早稲田大学スポーツ科学学術院の原田宗彦教授の試算では、国や東京都が負担する予定の競技場の整備費を加えると2兆円を突破する勢いらしい。

 1兆8,000億円の内訳は、主な支出としては
 (1)仮設の競技場の整備:3,000億円 ←この時点で当初の予算を使い果たしている
 (2)会場に利用する施設の賃借料:2,700億円
 (3)警備会社への委託セキュリティ関連費用:2,000億円
 (4)首都高速道路に専用レーンを設ける為の営業補償費など、
  選手や大会関係者の輸送費用:1,800億円などで、
 その他諸々を合計すると1兆8,000億円になるのだとか。

 一方、組織委員会がチケット収入やスポンサーから集められる資金は4,500億円程度と見込まれ、1兆円を超える不足分は最終的に国や都が補填する形になると言う。
  
 そもそも誘致時はどの立候補地も予算額を低く抑えて誘致活動を行う傾向があり、ロンドンオリンピックも実際には当初の計画の3倍に費用が膨らみ、最終的に国庫負担は1兆円を超えたと言われる。しかし、東京の6倍は「あまりにも見通しが甘す過ぎた」と、既出の教授。「説明責任を果たす必要がある」と釘を刺す。

 最終的に不足分は国や都が補填すると言うが、その補填額を負担するのは結局、国民や都民と言うことになる。

 こんな馬鹿な話があるだろうか?

 本当に試算額の元となる諸々の費用は適正なものなのか?何だか、オリンピック利権に群がった企業(特に建設関係?)が、寄って集ってオリンピック、ひいては国民の税金を、ここぞとばかりに食い物にしようとしているように見えるのだが…

 時間が経つにつれ、次々と顕になる問題に、東京オリンピックの行く末が案じられる。こうなって来ると、国立競技場やエンブレム問題は単なる氷山の一角に過ぎなかったと思わざるを得ない(このところ、日本と言う国のダメダメっぷりが一挙に噴出した感じだ。日本はもう少しマトモな国だと思っていたのに、実はそうではなかったと思い知らされたショックはけっして小さくない。ライフネット生命の出口社長が指摘されているように、「日本も"普通の国"になってしまった」のか?)

 敗戦から僅か19年で開催に漕ぎ付けた旧東京オリンピックは、焦土から立ち上がった日本の高度経済成長期(1954-1973)の真っ只中に開催された。国民が明るい未来を展望できた時代である。誰もが自らの努力が報われると信じて、がむしゃらに誠実に働いた時代だろう。

 ところが今はどうだ?オリンピック後の景気の落ち込みさえ懸念される低成長時代である。超高齢化社会による社会保障費の増大に、国の財政も危ぶまれる時代である。働く人間のモチベーションも、オリンピックに対する期待値も、高度経済成長期と比べて格段に低いだろう。

 そんな中でのオリンピックを巡るすったもんだ。いい加減国民も呆れを通り越して白けている。

 現東京オリンピックの闇は深い。

2015/12/18

帰って来た我らがSTAR WARSか?もう別物の新版STAR WARSなのか?  映画(今年公開の映画を中心に)

 ここのところ、それこそ朝な夕なにしつこい位、さまざまな企業の便乗商法も併せて「STAR WARS」の、あのお馴染みのファンファーレが流れて来て、正直ウンザリしています。

 映画「STAR WARS」自体は高校生の頃から見ていて、思い出深いシリーズなのですが、今回の企業連合によるCMの大合唱には辟易しています。

 それでなくとも現実の世界は紛争やテロが暗い影を落しているのに、陽気に宇宙戦争を謳っている場合か、と言う複雑な思いもあります。

 そもそも「STAR WARS」は既に生みの親であるジョージ・ルーカス監督の手を離れて、稀代の映像クリエーターJJ.エイブラムス版となり、制作にはあのディズニーが関わっています。

 最初の頃のルーカス監督らしい実験精神は薄れて、エンターティンメント性が前面に出た大作となり、何だかなあと言う感じ。ルーカス監督が作品を手放した理由も、成功したあまり失敗が許されず、制作する側として「遊びの部分がなくなった」からだと言われています。

 さらに鑑賞意欲に冷や水を浴びせたのが、TOHOシネマズの特別料金。どうして海外に比べたら充分高い通常料金に、さらに200円上乗せして2,000円なの?TOHOシネマズが掲げているその理由には、まるで説得力がない。それでも見に行くであろうファンの足元を見たあこぎさが感じられて、TOHOシネマズの経営姿勢には幻滅です(まだ新宿や六本木と言った都心の映画館限定だから、殆どの人には関係のない話かもしれないけれど。その特別感が良くて、敢えて足を運ぶ人も多いのでしょうね。所謂"お祭り"だから…)

 何だかいろいろな意味で、今回の「STAR WARS」には萎えます。

 でも、映画フリークとしては、見に行くんだろうなあ…少し周囲の熱も冷めた頃に。 

2015/12/18


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クリックすると元のサイズで表示します 昨日、フリホーレス大手町店に行って来ました。

 そこで食べたのがメキシカン・フード、ブリート(Burrito)。新しい味を探し求めることに対してそれほど貪欲でない私には、生まれて初めて目にした食べ物でした。

 薄い大判のトルティーヤの上に、ご飯やローストしたチキンや野菜やサルサソースやサワークリーム等(中の具材は何種類もあり、お好みのものを選べます)をてんこ盛りに入れて筒状に丸めた、メキシコ発のファースト・フードらしい。

 レギュラーサイズとラージサイズがあり、私はレギュラーサイズを頼んだにも関わらず、完食できませんでした。それぐらいボリューミィ。

 友人達は皆おいしそうに?頬張って、殆どの人がペロリと平らげていました。

 しかし、雑多な味が入り混じって、味は何と表現してよいか分からず…どちらかと言えばパリッとした小判のトルティーヤで具を包んだタコスの方が、わたくし的には好みかなと…

 まあ…、何事も経験だ


2015/12/18

『わたしはマララ』(原題:He named me Malala、米、2015)  映画(今年公開の映画を中心に)

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 早熟の女性教育普及活動家は、果たして今後、どのような人生を歩むのであろうか…?


 人が真に自律的な人間として自立する為に教育重要である。

 自律的な人間ほど、"衆愚政治を行いたい支配者(為政者)"にとって厄介な存在はない。

 だからこそ、"彼ら"は教育を破壊する。その器を破壊するだけでなく、その中身まで自分達の都合の良いように改変しようとする。結局、教育の重要性を最も認識し、そのパワーを最も恐れているのが"彼ら"なのだろう。

 その意味では、私達日本人にとっても教育の危機は他人事ではない。近年、政府が推し進めようとしている日本の教育政策の方向性に誤りはないのか、国民のひとりひとりが注視することが大切だと思う。
参考ブログ内記事:学力の地域格差について


 さて、本作は、その地道で粘り強い教育普及活動が認められて(若いマララ嬢に関しては今後"象徴"としての存在感も期待されてか?ことノーベル平和賞の授与に関しては、過去の業績評価に対してだけでなく、これからの活動への期待を込めた意味合いも含まれているように思う)、インドのカイラシュ・サティヤルティ氏と共に、2014年度ノーベル平和賞を受賞したパキスタンの少女マララ・ユスフザイ嬢の世界的な活動家としての姿を映し出すと共に、どこにでもいるひとりの少女としての素顔にも迫るドキュメンタリーである。

 マララ嬢は現在18歳。故郷のパキスタンにいた15歳の時に、彼女の存在を快く思わないタリバンによって銃撃された。軍病院で救命措置を受けた彼女はその後英国に搬送され、一命を取り留める。

 長い昏睡状態から目覚め、生命の危機を脱した彼女だったが、頭部に銃撃を受け、頭蓋骨の一部が破損し脳内出血を起こし、さらに内耳も破壊される等、一時は重篤な後遺症が懸念されるほどの重症であった。

 しかし、懸命にリハビリに取り組み、現在では左耳の聴覚が失われ、左顔面に多少麻痺は残るものの、かつての快活な彼女を取り戻しているかのように見える。

 回復後も家族と共に英国バーミンガムに留まり、普段は地元の高校に通う女子高生の彼女だが、その一方で精力的に世界各地を巡り、紛争やテロや貧困によって教育の機会を奪われた子供達の声を代弁して、教育の重要性と子供達の命の尊さを訴えている。さらにマララ基金を創設し、具体的なサポートも行っている。


 特に女性の教育の重要性を訴えているところが個人的には大いに賛同するところ。世界的に見てさまざまな偏見から男性に比べて女性の教育機会が少ないことから、彼女が特に強く訴えかけていることなのだが、子供との接触時間の多さから見ても、母親である女性がきちんと教育を受け、一定の教養と聡明さを備えていることが大切なのは言うまでもないだろう。

 実際卑近な例を見ても、父親の聡明さや家庭の経済状況に関係なく、母親が聡明な家庭の子供はほぼ間違いなく高い教育を受けて、独立後に親以上の生活レベルを獲得している。国民全体の教育レベルの引き上げの為にも、女性の教育は重要な鍵と言える。



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 自宅で家族と寛ぎ、屈託のない笑顔を見せる彼女は、見るからにごく普通の女の子である。しかし、女子高生としての彼女は、やはり他の女子生徒からは少し浮いた存在に、私には見えた。

 パキスタンでは成績トップであった彼女も、言葉の壁や国際的な活動で度々学校を休まなければならないこともあって、テストで思うような点数が取れない。おそらく真面目で努力家の彼女は、そのことにも内心歯がゆさを感じているに違いない。

 年頃の女の子なのに、同級生のように自由な恋愛を楽しむ余裕もない。尤も、身近な同世代で、彼女の精神年齢に見合うような男の子が果たしているのかどうか。何より「世界の子供達に充分な教育を」と言う崇高な理念の下、世界を見据えた活動をする彼女と、せいぜい自分の半径数メートルで生きている同級生達とでは、精神的成熟度と心理的距離の隔たりは大きいのではないか?

 同じ世代にしては、背負うものが違い過ぎる。

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 マララ嬢の大人顔負けの聡明さと弁舌の巧みさに関しては、早くから教育者である父親の影響が取り沙汰されていた。「彼女の生き方を選択したのは、父親ではないか」と。

 本作で彼女はそのことについて真っ向から否定しているが、親の教育意欲が及ぼす我が子への影響の大きさは誰もが知るところである。少なくともマララ嬢に対して父親が行ったことは以下の通りである。これだけでも、父親の彼女に対する期待の大きさが窺える。

 父はアフガニスタンが英国に侵攻された時に、アフガニスタン人の戦意を高揚させた伝説の女性「マラライ」の名を、我が娘に付けた(パキスタン、アフガニスタンと国は違うが、同じパシュトゥーン人<民族>である)
参考映画作品:『君のためなら千回でも』
 
 父は男性の名前しか記されていない過去300年に渡る家系図に「マララ」の名を書き加えた。

 父は自身が経営する学校に、幼い頃からマララ嬢を連れて行った(彼女はそこを遊び場代わりに過ごし、父が生徒に自らの意見を述べることの大切さを指導する様子を間近に見ながら育った)

 この時代に、パキスタンのこの父のもとに、彼女が生まれた。この因果関係は強いと言わざるを得ない。そして、彼女と言う存在が、今の世界において意味することは深く、重い。

 こうして父の期待を一身に受けて育ったマララ嬢は、次第に独裁色を強めて行くタリバンに対し、反対の声を上げ始めるのだ。当初は匿名でのBBCサイトへの投稿だったが、ついには自身の顔を晒して直接的に訴えかけた。それがタリバンの逆鱗に触れ、上述の銃撃事件へと至ったのだ。その時、傍にいた友人達も被弾し、重症を負っている。

 
 本作を平日のレディースデイに見たのだが、残念なことに観客席はまばらであった。映画の売り上げをマララ基金に充てると言う条件で、マララ嬢は本作への出演を快諾したらしいのだが、映画料金がバカ高なこの日本では興行的に厳しいものがあるのではないか?

 我が家の近所の映画館では、公開2週目にして早くも1日1回きりの上映と言う寂しさである。このままさして話題になることもなく公開を終えるよりも、料金を思い切って半額にしてできるだけ多くの人に見て貰うことの方が、本作の制作理念に適うのではないだろうか?記念すべきFOXサーチライト・ピクチャーズさん初のドキュメンタリーなんだし…

 内容的には、できれば学校の授業(総合学習の枠?)で"教育の一環"として是非、すべての子供達に見て貰いたい作品だと思う。未来ある日本の子供達に教育の重要性〜学ぶことの大切さ、学べることの幸せを理解して貰う為に。

       10代とは思えないほど、大人びた表情を見せるマララさん…
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 マララ嬢の2014年7月の国連演説には思わず涙が出たほど感動したなあ。特に最後の一節。シンプルで、心に響く。

 One child, one teacher, one book and one pen
 can change the world.
 Education is the only solution. Education first.


2013年7月の国連演説全文(朝日デジタル)

映画『わたしはマララ』公式サイト

 パンフレットを購入したが、とても充実した内容で勉強になった

2015/12/13

自信をつける方法  今日の言の葉

 「私は今までに世界の百十カ国を歩いた。(中略)
 その結果の印象だが、私は日本、日本人に失望したことなど一度もない。昔ソ連華やかなりし頃は、北海道をソ連が「侵略する」危惧が全くないこともなかった。(中略)侵略の目当ては日本の人材だと思っていたものだ。何しろこれだけ有能で責任感のある労働力が数千万人いるのだ、資源としては石油も金もなくとも、侵略して労働力を確保する意味は充分にある…(後略)。
 しかし、現実の日本人はその能力を少しも出し切っていない原因は簡単だ。自信がないのである
 
 自信をつける方法も簡単だ。それは国民すべてが、主に「肉体的・心理的」に苛酷な体験をすることである。この体験に耐えたことがないから、自信がつかない。自信がないと評判を気にし、世間並みを求める平凡な人間になる。今の霞ヶ関の多くの役人が、前例ばかり気にする理由である。
 
(長い中略)

 危険を察知し、避ける知恵を持たさなければならない。停電したらどうするのだ。すべての民主主義は停電した瞬間から機能しなくなることを知っている日本人は少ない。
 私はすべての生活は苛酷だと思っている。そのあって当然の苛酷を正視し、苛酷に耐えるのが人生だと、一度認識すれば、すべてのことが楽になる。感謝も溢れる。人も助けようと思う。自分の人生を他人と比べなくなる。
 これらをやるだけでも、多分日本はかなり変わってくるのである。」

 (曽野綾子『旅は私の人生』pp183-185より)

 このくだりを読むと、戦後、稀有なまでの経済発展を遂げた日本が豊かになり、その結果、生存が脅かされることも殆どなくなった安全な日本で、日本人が失った大切なもののひとつが「自信」なのか、と考えさせられる。

 今の日本では、大半の日本人が否応なくがむしゃらに生きざるを得ない、まさに命を脅かされるほどの苛酷な体験をする機会などないに等しいのではないか。皮肉なことに、だからこそ多くの日本人は"生"の実感が乏しく、人生が虚しく、自らに自信も持てない〜自分がこの世に生きる価値を見出せない〜と感じているのかもしれない。

 しかし、それは、紛争や想像を絶するほどの貧困と言った日々生きることさえ困難な中にいる人々から見れば、本当に贅沢な、腹立たしいまでに贅沢な悩みなのかもしれない。

 だからと言って、著者は安穏と生きる日本人に、敢えて苛酷な中へ飛び込めとは言っていない。"長い中略"の中ではテレビのだらだら見をやめて家族間の会話を増やしたり、読書する習慣を身に付ける、家庭ではできるだけ家族で助け合って料理(=教育、芸術、社会学の一部)をすることを勧め、さらに贅沢する為に安易に売春などするな、電車で化粧したり、携帯ばかり見つめるなと戒めているだけである。

 世界の中では信じがたいほど豊かで安全な国で生きている私達日本人に、せめて日々の暮らしの中で自分を律して生きるよう、昔気質の女性ならではの意見を述べているだけだ。

 私自身は、日々何事につけ"努力"や"真剣み"や"覚悟"や"緊張感"が足りないと思う。自分にすごく甘い。もう何年も何かに必死に取り組んだことがない。だから、今一つ自分の能力に自信が持てないのだろう。だから、上掲のくだりが心に引っ掛かったのだと思う。

 読書は自分を見つめ直す、貴重な機会だ。

2015/12/12


 先日、ある女性がきれいな赤紫のセーターを着ていらしたので、
 「今日のそのセーター、よくお似合いですね。顔の血色も良く見えますよ。」と褒めて差し上げたら、思いのほか喜ばれた。

 いつもは黒ばっかり着ているんだけれど…、これユニクロで買った着古しのセーターなんだけれど、あら、そう、顔色が良く見えるの?、と。

 そして、今日、久しぶりにお会いしたら、

 「ねぇねぇ、はなこさん、このあいだ、はなこさんに明るい色目のセーターを褒められたから、いつもは黒ばっかり着ている私だけれど、思い切って赤いセーターを買ってみたの」と、はにかんだ笑顔で話しかけて来られた。今日はワインレッドのセーターを着ていらした。

 「まあ、素敵な色ですね。色彩心理学では、身につけている色は周りの人間以上につけている本人に影響を与えるそうですよ。特に私達の年代は顔色もくすんで来るから、きれいめの色を着ると良いらしいですね」と私は応えた。

 先日は本当に赤紫色のセーターがよくお似合いだったので、ごく自然に褒め言葉が出たのだけれど、まさか、彼女がセーターを新調して来られるとは思ってもみなかった。

 夫にこのことを話したら、「その女性、はなこに褒められて、きっと嬉しかったんだよ。もしかしたら、そんな風に褒めてくれる人が、今までいなかったのかもしれないね」と夫が言った。

 自分の何気ない一言が、人に影響を与えるなんて思いもしなかった。

 今日のワインレッドの彼女も、落ち着いた大人の女性の優美さが感じられて素敵だった。 

2015/12/12

今日と明日はX'masプログラム♪  携帯電話から投稿

こんにちは!

今日・明日と、上野の国立西洋美術館では、
X'mas スペシャル・プログラムとして、
写真のオーナメント製作ワークショップや
ミニ・コンサート、そして宗教画のギャラリートーク等
が行われます。

第二土曜日の今日は常設展も入場無料!

足をお運びいただけたら幸いです。

私もワークショップで、製作のお手伝いをする予定です。

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私は午後のみ担当したのですが、
休憩時間も取れないほど切れ目なしにワークショップの参加者が訪れ、
終わった後はヘトヘトに疲れました。

明日もあるので、体力を温存しておかなければ…

2015/12/8

名古屋の出張土産♪  携帯電話から投稿

夫が名古屋の出張から帰って来ました。

お土産に、定番の「ひつまぶしの里茶漬け」と、
今回は「おほほっ」と言う名のみかん大福も買って来てくれました!

この和菓子店は季節の果物を使って大福を作ることで有名らしく、
今は旬の紀州産温州みかん。

それではジューシィなみかんを、大福でいただきま〜す。


うわぁ、薄皮の中に小ぶりのみかんがまるごと!

口の中に爽やかな果汁の香りが広がります。

激うまっ!


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2015/12/8

赤ちゃんの泣き声は明るい未来への道筋  はなこ的考察―良いこと探し

 昨日、バスの中で1歳前後の赤ちゃんがずっと泣き続けていました。どうやらバスに乗っているのが不快らしく、手足をバタつかせて全身で不快感を表していました。

 まだ通勤時間帯にギリギリ入っている頃だったので、バスの車内は結構混雑していました。若いお母さんは、何度あやしても泣き止まない赤ちゃんに困っているようでした。朝から心身共に疲れているのか、中にはその母子の周辺で露骨に不快な表情を浮かべている人もいました。

 しかし、最近息子が独り立ちして、折に触れて息子が幼かった頃の思い出が蘇る私にとってみれば、そんな赤ちゃんの泣き声さえ、懐かしさを呼び覚ます愛おしさに溢れています。

 バスはものの10分ほどで駅に着いたので、私はお母さんに声をかけて降車時にベビーカーを持ってあげました。この時期のお母さんは手荷物も多いですからね。

 バスから降りた途端、赤ちゃんはさっきまでの大号泣がピタリと止んで、母子共に安堵の表情を浮かべました。赤ちゃんはお母さんに促されて、私に笑顔で「バイバイ」と手を振る仕草も。よく見ると赤ちゃんの小さな鼻から鼻水が…風邪による鼻づまりも、赤ちゃんの不快感に拍車をかけていたのかもしれません。

 「今泣いた子がもう笑った」と言う表現が正にピッタリな赤ちゃんの目まぐるしい感情の動きに、思わず笑ってしまいました。ここで笑える自分に、実は幸せを感じてもいます。

 赤ちゃんの泣き声さえ聞こえて来ない社会の暗たんたる未来を想像したら、いっときの赤ちゃんの泣き声なんて何のその。

 近年、子供嫌いの若者が増えているのは、成長期に赤ちゃんとの接点が少ないせいではないかとの反省を踏まえて、欧米諸国のようにティーンエイジャーにベビーシッターをさせようとの動きがある、と最近の報道で耳にしました。良いことだと思います。

 これは老人に対しても言えることで、核家族化が進んで各世代が分断された形の現代社会では、世代間のコミュニケーションを密にすることで、相互理解を深める必要があるのではないでしょうか?

 乳幼児保育施設と老人施設を併設する。幼稚園と中学高校を併設する。まずはそういったハードウエアの面から、世代間交流の場を設けて行くと良いのかもしれません。

 自分が愛して止まないこの日本と言う国が、人が生まれてから死ぬまで、その存在に尊厳を認めてもらえる社会、誰もが「生まれて良かった」「自分は生きていて良いんだ」と思える社会であって欲しいと思います。

2015/12/7

黄葉するイチョウと東京駅  携帯電話から投稿

竹橋から東西線で大手町まで移動し、
オアゾの丸善のカフェでひとりランチしました。

これから家に帰ります。

晩秋の東京駅って風情がありますね。

色彩的に、その外観の"レンガ色"と、
街路樹のイチョウの"黄葉"の取り合わせが美しいです。

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2015/12/7

今、東京国立近代美術館に来ています…  携帯電話から投稿

殆ど雲のない晴天ですが、吹く風は冷たいです。冬生まれの私が好きな天気。

今回は常設展を見ただけですが、充実したコレクションで飽きません。

再び藤田嗣治の特集展示も見てきました。

是非、多くの方に見ていただきたいなと、改めて思いました。

写真の野外彫刻は多田美奈美さんの作品《キアロスクーロ》。
イタリア語で「明暗」を意味します。
日の光を浴びて、周囲の景色を映し出して、
多彩な色調と明暗を見せてくれます。
角度によって、違った形に見えるのも面白い。

多田さんは昨年亡くなられていたのですね。

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2015/12/2

こと始め  今日の言の葉

 新たに「今日の言の葉」と言うカテゴリーを作り、日々、印象に残った言葉を書き残して行こうと思う。私はけっして多読家ではないけれど、毎日何かしら読んではいる。外出時のバッグにも1冊ないし2冊の本を忍ばせて、バスや電車での移動中に読んでいる(そう言えば、最近また電車やバスで読書する人が増えて来たように思う。仲間が戻って来て?嬉しい限りまあ、あくまでも個人的な印象だけれど)

 私の読書傾向は、ある一人の作家の本を読んで気に入れば、続けて飽きるまでその作家の著書を読み続けることが多い。最近は『人間の分際』を読んで以来、曽野綾子さんの著書をコンスタントに読んでいる。もう今ので4冊目だろうか?

 今日はその中からひとつ。出典は『旅は私の人生』(青萠堂、2015)、p50「たまには途上国の悪路を経験するといい」より。

 ( 前略 )
 
 時々私は機嫌がいいと言われることがある。実は私はイジワルで不遜で、忍耐心もあまりない。機嫌がいい人などとほめられる要素は全くないのだが、子供の頃から苦労して育ったおかげで、仏頂面して生きるのと、とにかく表面だけはにこにこして暮らすのと、どちらが無難かという選択はできるようになったのである。

 これ以上乗り心地のいいシートはないと思うようなベビーカーで育った赤ちゃんは、将来どうなるのだろうか?

 ( 中略 )

 しかるに世界の半分以上はひどい暮らしをしている。国によっては、道路の九割は、穴凹だらけの未舗装の道なのだ。そこを路線バスさえろくろくないので、何キロでも歩く暮らしをしている人もたくさんいる。
 
 ( 中略 )

 過保護に育った子供はそんな体験をしたくないだろう。もちろん、その子が自分のひ弱さを自覚して、自分で自分を改造すれば、私以上に強くなるだろうが…。

 子供にはむしろ厳しさに耐えることを教えるのがほんとうの親心だと私は思っている。一日くらい食べなくても平気。長く歩ける。悲しみに耐えて生きて行く。ものがなければ工夫して生きる。こうしたことができる子供だけが、心身共に生き延びるだろうし、幸福も手にするのである。
 

 親ばかな自分を戒めるような言葉が印象に残った。今、気に掛かっていることだからこそ、その一節が心に引っ掛かったのだろう。そして自分の今の心情に照らして、敢えて自分とは逆の見方を選び、自らの甘さを戒めることで、考え方のバランスを取っているかもしれない。

 そもそも自分自身の経験に照らしても、辛かった子供時代があったからこその今があるように思う。今、私は自分が置かれた環境に素直に感謝できる。幸福である。その意味では、息子はこれからが大変かもしれない(とは言っても息子も傍目には恵まれた環境ながら彼なりに様々な葛藤はあっただろう)。しかし、辛く苦しい経験も糧にして、自立した人間として生き抜いて行くしかない。


 曽野綾子さんはその率直な物言いでしばしば物議を醸す人で、アマゾンの書評でも時々辛らつな批判を浴びている。戦中戦後を生き抜いて来た人らしい肝の据わった人で、多少の批判には微動だにしない。自分の粗忽さも認めた上で(だから一部で批判されているような上から目線ではけっしてないと思う。しかし、ネット上では曽野さんはご夫妻揃ってエライ叩かれよう叩かれても仕方のない失言も確かにあるようだ)、時には敢えて人の神経を逆撫でするような辛口な発言で、読み手に考えさせる。寧ろそこが彼女の良さだと私は思う。

 心地良い、目障りの良い言葉はするりと意識を通り抜けるだけである。引っ掛かるからこそ人はそこで考え、言葉は意識下に残るのである。

 とは言え、作家の言うこと全てを鵜呑みにするほど自分はうぶではない。学生時代の恩師にもCritical readingを勧められたのが今も頭の片隅に残っている。本の内容を読んでそのまま受け入れるのではなく、しばしば立ち止まって自分の頭で考えて、その是非を判断することを心がけている。

 その根底には作家も所詮人間であり、その思想やそれに基づく発言が必ずしも完璧ではないという認識がある。日本人はとかく信仰心が希薄だと言われるけれど、一部の歌手のファンの在りようを見ていると、歌手をあたかも神のように崇拝し、その挙動発言を鵜呑みにしているところがあるのではないか?今も昔も得体の知れない新興宗教に高学歴者が嵌るのも珍しくない。さらに、この国はかつて何かに付け「一億総」と言う接頭語?をつけて、国民に対して挙国一致を強いたことが何度もあった。そこに日本人、ひいてはこの国の危うさを感じる。

 どんな人物であれ〜立派な肩書きや華麗な経歴の持ち主であれ、一見真っ当な物言いの人物であれ、盲信してはいけない。それは曽野さんに対しても同様だ。特に戦略的に"イメージ"を利用する映像&宣伝広告の時代の今は、耳障り目障りの良い言葉を投げかけたり、印象的(キャッチー)なフレーズを多用する人物は少し疑ってかかるぐらいの用心深さが、受け手側には必要なのかもしれない。

 だからこそ作家とも程よい距離感を保って、その著作に時にはツッコミを入れながら読むぐらいが、読書をする態度としては丁度良いのではと思っている(そのせいか、読む本にもよるけれど読書中に独り言や含み笑いが多いと夫に指摘されている)



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