2015/6/27

定期健診  日々のよしなしごと

 先日、夫の会社の配偶者向け健診に行って来た。通常の健診に加えて、子宮頸がん健診と乳がん健診の費用も、会社の健保が全額負担してくれる。まことに有難いことである。

 因みに自己負担となれば、婦人科健診だけでも17,000円もかかる。会社の健保からすれば、それだけの費用をかけても、早期発見で早めの治療を行えば、医療費の抑制に繋がるのだろう。それ以前に、予防医学の観点から、通常の健診を定期的に行うことで自身の体調を把握し、各自で健康維持に努めて貰いたいと言うことなのだろう。

 そう考えると、夫が定年後のことが心配である。現在は毎年、会社の健保から健診の知らせが届き、半ば強制的に健診が受けられるようになっているが、夫が定年後、会社の健保から国民健康保険に切り替わると、それもなくなる。現在は健康でさえ会社に守られているのが、定年後は心構えと言う点でも、費用の面でも、より自律的に健康管理をする必要が出てくる。

 そうなって初めて、夫が会社員であることのありがたみが、しみじみと胸に迫って来るのだろうなあ…

 しかし、それにしても、胃のレントゲン撮影の為にバリウムを服用するのが辛い。バリウム(と発泡剤)を口にした後は数日経っても、お腹の調子が悪い。このバリウムに関しては、何年経っても、何度経験しても、一向に身体が慣れないようだ。先日、偶然目にした記事によれば、バリウム服用によってアナフィラキシー・ショック(アレルギー反応の一種)を起こし、死亡した例も稀にあると言うから、健診の為とは言え、身体に異物を入れると言う事は常にリスクを伴うものなのだと改めて思った。

 また、数年前にたまたま予約の日程的な問題で健診先を変えたのだが、それで以前の健診先と今とを比較して、今の健診センターの方が、胃のレントゲンにしても、マンモグラフィーにしても、断然丁寧であることを知った。これは変えなければ分からなかったことだ。費用的にどう違うのか不明だが、より精度の高い検査を受けられるのなら、素人目には現在のところが良いように見える。それとも無駄に放射線を浴びているだけなのだろうか?


 健診は朝の9時過ぎから始まって、12時半頃終了。バリウムと発泡剤でお腹が張っている状態ではあったが、朝食抜きであった為、とにかく何か軽めの野菜中心のメニューを食べたいということで、駅ビルのレストラン街にある「さんるーむ」と言う自然食レストランへ。

 そこで食べたのが写真の「夏の京のおばんざい御膳」。小皿に、もずくの酢の物、京野菜の煮物、京漬物の三品、メインは米ナスの味噌田楽と揚げ出し豆腐。そして雑穀米に麦とろろと昆布の佃煮が付いている。量も少なめ、カロリーも控えめの野菜尽くし。朝から少量の水とバリウムと発泡剤しか口にしていなかった身体が喜ぶ品揃えだった。何となくヘルシー…?!税込みで1,300円超え(自然食だから、このボリュームで、この値段なのか?)

 この店、味、ボリューム、コスパに世間でも賛否両論あるようだが、一応おいしくいただきました。ごちそうさま!
 
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2015/6/23

アートを楽しむ  読書記録(本の感想)

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 アートを自分なりに、もっと気軽に、気楽に、楽しもう!
 アートを自分なりに、もっと自由に、深く、味わい尽くそう!


 今年はたまたま美術館にまつわるドキュメンタリー映画を2本見る機会があった。ひとつは『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』、もうひとつは『ヴァチカン美術館 天国への入口』と言うものだ。

クリックすると元のサイズで表示します 何れも世界的に有名な美術館を取り上げているが、全く違うスタイルで、フォーカスしている部分も違う。

 前者は展示室内でのギャラリートークの様子を何度も映し出しつつ、展示室を"舞台"としたイベントやアート教室開催等、美術館資源を用いた多彩な活動、また、修復保存室の様子や美術館スタッフの運営会議の様子等、美術館のバックステージとも言うべき内容も映し出した、約3時間にも及ぶ長大なレポートだ。

クリックすると元のサイズで表示します 一方、後者は美術館の建築や所蔵コレクションの紹介にフォーカスした作りとなっている。取り上げられるコレクションも、それほど数は多くない。それらを、外連味たっぷりの演出で、格調高いナレーションと共に、凝った映像(今回3Dと言うのがウリらしいが、私は2Dで見た)で映し出している。こちらの上映時間は66分と短い。

 あくまでも個人的感想だが、両者共に自分が期待したものと少し違っていて、見終わった後、満足したとは言い難かった。作り手の発信したいものと、受け手が「美術館のドキュメンタリー」と聞いて期待するものとのギャップが大きかった印象だ。

 ただし、何れも表現芸術としては当然成立する映像作品だとは思っている。それぞれの作家の視点で、世界の名だたる美術館の姿が描かれたと言うだけのことだ。

 斯様に、特に近代以降は作家の主体性が重んじられているのがアートの流れと言える。受け手の反応以前に、作家が伝えたいものをいかに表現するかが重視される時代。

 西洋美術で言えば、中世以降近世以前のアートが、キリスト教の教義を広く民衆に伝播する手段として用いられ、多くの作家が創作を通して自身の作家としてのアイデンティティを誇示するよりも、"職人"として誰の目にも分かりやすい表現に徹していたのと違い、近代以降の作家は、その作家性を際立たせることに腐心して来た。特に現代は、"人と違ってナンボ"の時代である。

 上野の国立西洋美術館の常設展示室は基本的に古い年代順に展示されている為、中世以降から20世紀前半に至るまでの西洋美術のテーマの変遷と技法の変化を概観するのにうってつけの場所であるが、その最後の部屋の20世紀美術の作品群を見れば、このことは瞭然である。正に「個性が爆発している」。

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 私はこの10年余り、教育普及ボランティアとして、主に児童生徒を対象にギャラリートークを行って来たが、頭の柔らかい子供たちは、その殆どが初めての鑑賞体験でありながらも、西洋美術史の劇的な変遷をそれほど違和感なく受け止めているように見える。一方で、成人は最初の宗教画コーナーで首を傾げ、途中の印象派絵画にホッとした表情を見せ、最後の部屋に来て、百花繚乱とも言うべき作品を前に、戸惑いの表情を見せる人が少なくない。

 成人諸氏が戸惑うのも無理もない。彼らはその人生の中で、鑑賞教育を受けたことがないからである。そもそも日本で、学校の教育カリキュラムに鑑賞教育が取り入れられたのも、ここ15年程のことである。既に翻訳物を中心に、美術教育の専門家の視点から書かれた鑑賞教育に関する書籍も数多く出版され、学校における鑑賞教育は十分に浸透しつつある。

 それでは、既に学校で学ぶ機会のない成人はどうしたら良いのか?まず、カルチャー・スクールで開講されている鑑賞体験が組み込まれた講座を受講すると言う手がある。また地方公共団体が主催するギャラリートーク付きのツアーに参加すると言う方法もある。或いは、美術館で実施されている一般向けギャラリー・トークに参加するのがもっと気軽だろうか?(美術館によって実施方法やスケジュールが違うので、各美術館のHPを参照のこと)

 因みに国立西洋美術館では、教育普及室長が、今後はシニア層への教育普及活動も視野に入れて取り組みたいと、数年前に言及している。それを踏まえての、ボランティアによる週末の一般向けギャラリートークの開始だったのだろう。

 国立西洋美術館ボランティアによる美術トークと建築ツアーについてのご案内

 さらに鑑賞体験を豊かにする手立てとして、鑑賞方法を指南した本を読んでみる、と言うのもある。ところが意外にも、この種の本に一般の成人を対象としたものは、これまで殆どなかった。その意味で、冒頭に掲げた2冊の本『現代アート、超入門!』(集英社新書、2009)『アート鑑賞、超入門!』(集英社新書、2015)<何れも藤田令伊著>は画期的なのである。教育的観点からでもなければ、専門家の観点でもない。鑑賞者の立ち位置から、鑑賞の楽しみ方を指南する本。一般の美術ファンが、特別な気構えを必要とせずに鑑賞を楽しむ為のヒントが満載の本。

 と言うのも、著者は元々美術の専門家ではなく、出版社で編集者として働いていた人物だ。今は美術好きが高じてアート・エッセイを執筆したり、美術鑑賞グループを主宰する等して、美術と一般鑑賞者との橋渡し役を果たしている人物のようだ。

 ところで、私は思い立ったが吉日とばかりに、自身の勉強も兼ねて、一人で展覧会に足を運ぶことも多い。その際、一鑑賞者として作品を見ながら、実は他の鑑賞者の言葉に聞き耳を立ててもいる。美術館の教育普及事業を担う一人として、一般の鑑賞者がどのように作品を鑑賞しているのかが気になるからである。

 鑑賞者は鑑賞の際に何に注目し、何に疑問を感じているのか、どんなことに困っているのか、何を知っていて、何を知らないのか、鑑賞を本当に楽しんでいるのか否か、美術館に対して率直にどんな感想を持っているのか、美術館に何を期待しているのか、企画展について、どの程度満足しているのか、常設展示室のあり方についてどんな意見を持っているのか等々、美術館と鑑賞者の間に立つ人間として、鑑賞者と美術館の関係についての関心は尽きない。

 そして、自分が答えられる範囲の疑問を耳にすると、つい答えたくなってしまい、答えたら答えたで、相手を驚かせてしまう。そりゃあ、そうだ。自分のつぶやきに聞き耳を立てている見知らぬ他人なんて、気持ち悪いだけだ。

 だからこそ、美術鑑賞に興味があるけれど、どうやって鑑賞すれば良いのか分からない、或いは迷っている人に、掲記の2冊をまずオススメしたいのだ。私のように散々美術館で研修を受けて来た者からすれば当たり前の内容であっても、一般の鑑賞者からすれば、帯に書かれているように「目からウロコ」の内容だろう。

 そして、その2冊を読み終わった後に、もし時間があれば、現代美術の入門書して優れた下記の2冊をオススメしたい(表紙写真をクリックすると、アマゾンの該当ページにジャンプします)

 できるだけ多くの方々が、美術館での作品鑑賞を心から楽しんでいただけるよう願って止まない。 




2015/6/21

子供の頃見た映画の世界が現実に  家族のことつれづれ

 2次研修で、現在は静岡の工場で現場作業に勤しんでいるらしい息子。週に1度の割合で、向こうから連絡がある。

 昨日は息子が大学院に通っていた当時利用した奨学金の返済免除の件で、日本学生支援機構から封書が届いていたので、その連絡もあって、こちらから電話した。

 息子が現在住んでいる社員寮は築40年と古く、ネット環境も整っていないので、ネットが使えるまでに寮側の不適際もあって1カ月もかかってしまった。昨日、漸くネットが繋がったと言うので、夫のネクサス7でスカイプを介して息子と互いの動画を見ながらの会話となった。さながら、昔のSF映画で見た『テレビ電話』である。

 5月末以来の息子の顔。思ったより元気そうで安心した。息子に頼んで、PCを持って360度ひと回りして貰い、寮の室内を見せて貰った。息子にしては荷物も少ないせいか、こざっぱりと片付いている(イマドキ珍しく、6畳の和室を同期2人で分け合う寮生活。知らない他人との同居生活はもちろん初めてだから、意外に神経質な息子は何かと気苦労が絶えないのかもしれない)

 いやぁ…便利だなあ。当然のことながらタイムラグもない。そう言えば知人も、米国に駐在する娘さん家族とスカイプで連絡を取り合っていたそうだ。いやはや便利な世の中になったものである。

 息子の話では、同居人君は毎週のように、週末は地元の関東に泊りがけで帰っているらしい。往復の交通費も馬鹿にならないと思うのだが、地元に彼女でもいるのだろうか?まあ、我が家には関係のないことだけれど。一方、息子はもう少し当地での仕事と生活に慣れてから、早ければ7月の上旬に、一度は帰省するつもりだそうだ。親ばかとしか言いようがないけれど、今から息子の帰りを心待ちにしている。

 それはさておき、昨日の電話の主な用件は、学業成績で選抜される無利子貸与奨学生(学生支援機構奨学金制度には無利子と有利子の2種類ある)の内、成績優秀者や在学中に著しい業績を上げた学生に対して行われる奨学金返済免除の審査結果の通知であった。

 これは奨学生に対する褒賞制度の一種で、学長推薦で学生支援機構に免除申請がなされ、大学が提出した候補者リストを元に学生支援機構が免除候補者として相応しいか否かを厳正に審査した上で、推薦順位上位3分の一は全額免除、それ以外の者は半額免除となるらしい。息子は1次審査に通り、今回、最終的に半額免除の認定となった。半額と言っても60万円。これは大きい。息子も「2年間の努力が報われた」と素直に喜んでいた。

 本当に良かったね

 学部時代に、成績優秀者を対象とした給付奨学金審査の最終で落とされた息子からしたら、喜びも一入だったと思う。こうした経験が少しでも息子の自信に繋がるのであれば、今や遠くから見守ることしか出来ない親としては嬉しい限り。くれぐれも身体に気をつけて、自分の選んだ道で頑張って欲しい。 

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         中二の春休みのロンドン母子旅で、バッキンガム宮殿の守衛と

2015/6/18

今、気になるTVドラマ『美女と男子』  はなこのMEMO

 ネットテレビやBSのDLIFEチャンネルで、海外ドラマを録画して見ることが多い我が家ですが、今クールはNHK地上波の火曜夜10時台のドラマ『美女と男子』も楽しく見ています。

 通常このドラマ枠は10回前後で終わるのですが、この『美女と男子』はなぜか全20回と長編。仲間由紀恵の主演(沢渡一子役)で、所謂芸能界の内幕もの。現在10回を終えたところで、主演の仲間由紀恵にとっては、『花子とアン』の蓮子以来の当たり役となりそうな予感。

 彼女は演技はけっして上手いとは言えないけれど、何より女優としての華があり、直向きに役に取り組む姿勢には好感が持てます。今回、脇を固めるキャラも多彩で、ストーリー展開も笑いあり涙ありの、なかなか面白いドラマとなっています(まあ、ベタと言えばベタかも)

 主要キャスト全員によるオープニングタイトルのパフォーマンスも楽しいです。仲間由紀恵の七変化がキュート

 が、視聴率が悪いらしい。一桁台前半。どうしてかなあ…?(イマドキの視聴者は目が肥えていると言うか、他の娯楽を上回るだけの魅力がないと、連ドラなんて見てくれないのかもしれない)

 私はこれまで高橋ジョージが苦手だったのですが、この作品を見て以来、彼に対する抵抗感が薄れるほど、今回、役者として彼はいい味を出しています。

 今クールの民放で15%台の視聴率を記録した『Dr.倫太郎』(日本テレビ)より、こちらの方がよほど面白いと思う。

 NHKには是非、前半放映分のキャッチアップ放送をして貰い、さらなる視聴者を獲得して欲しいところ。そうでないと、キャストとスタッフの努力が報われない。

 そう思わせるほど、作り手の頑張りが画面を通して伝わって来るドラマだと思います。とは言っても、肩の凝らない、コメディ要素の強いサクセス・ストーリーと言った趣き週の前半に元気を与えてくれるドラマです。

参考記事:視聴率5%でも傑作の仲間由紀恵ドラマ『美女と男子』」

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2015/6/18

「シャープ」イズムは死なず  はなこのMEMO

 今週からまた夫がテレビの朝の視聴番組を変えました。6時台はテレ東系のBSジャパンの経済情報番組を見ています。6時から録画して、6時半から1.5倍速の速聴で。ニュースソースは日本経済新聞社なので、本当に経済情報に特化した感じ。起き抜けから仕事への集中力を高めたいんでしょうかね?

 次々と流れる情報の中で、最近、特に印象に残ったのは、家電メーカーのシャープが、使用者には負担だった機器の重量感を、従来品より軽減させた新型の掃除機を開発し、近日発売するとのニュースです。

 詳細は忘れてしまいましたが、体感的に実際の機器の重さの半分程度まで軽減されるとのこと。どうやってそれを実現したかと言うと、機器の重心を移動させたらしい。物理学の応用ですね。そのヒントとなったのが、女性が赤ちゃんを抱っこする時の重量感だと言うのですから、その着眼点に驚きます。あれだけ重い赤ちゃんを、どうして女性が長時間抱っこできるのか、と言う疑問から、思いついたらしい。

 これは正に、かつてのシャープCMのキャッチ・コピー

 『眼のつけどころがシャープでしょ』

 最近は業績不振に伴う大掛かりなリストラ実施や本社社屋の売却など、あまり良いニュースが聞こえて来ないシャープですが、開発現場では地道に新商品開発に取り組み続けているようです。それだけに、大幅な人員削減に乗じて、優秀な技術者が他社に引き抜かれていると聞くと、胸が痛くなります。

 会社を生かすも殺すも、やはり人材。人材は人財なり。

 かつて日本メーカーの独壇場であった薄型テレビの市場が、瞬く間に韓国メーカーに取って替わられたのも、SONYのテレビ事業部門からの優秀な技術者の引き抜きがひとつの原因であったのは有名な話。日本のメーカーは技術者をもっと大事にしないと、どんどん技術が盗まれてしまいますね。単に市場を失うだけでなく、基礎研究を含めた、それまでの技術開発に投じた費用、その技術者を一流に育て上げるまでの費用と時間まで考えたら、企業の損失は計り知れません(しかも、技術移転が済めば、技術者はお払い箱だったとか。それだけ韓国メーカーの狡さが際立つわけですが…)

 近年は製品のコモディティ化も叫ばれて、よほど画期的な発明で独自性を持たなければ、コスト競争では、人件費の高い日本はどうしても新興国に負けてしまいます。

 しかし、あのシャープペンシルを開発したシャープですよ。社名がそのまま製品名になっている会社なんて、歴史上どれだけありますか?

 新型掃除機の開発を見ても、現場の技術者の中では今もシャープイズムは生き続けていると思います。結局、駄目なのはトップにいる経営陣なのでしょう。目まぐるしく変化する国際情勢に先んじて、的確に会社の方向性の舵取りをする経営者の不在。そういう優れた船頭のいない会社が、今の日本には沢山あるような気がしてなりません。

 こういうところにも、戦後の日本のリーダー養成のあり方に、つまり国の教育体制に問題があったのではないかと思います。米国と言う巨人に果敢に挑んだ(←もちろん、皮肉です。ハッキリ言って、身の程を知らない無謀な挑戦でした…おかげで米国は従順な僕<しもべ>を手にいれたわけです)極東アジアの島国日本に対する、米国の"(日本が二度と米国に歯向かわない為の)日本人愚民化政策"が、戦後70年を経てジワジワと効果を発揮しているんでしょうか?

 また、海外投資家が日本の企業業績の回復傾向を高く評価しながらも、利益率の低さに懸念を示していると言うニュースの中で、「利益率の低さは、日本の企業が不採算部門を抱え続けているから」と言う論調にも異を唱えたくなります。企業業績のみを追求して、株主への利益還元を最優先に経営すれば、企業で働く人々は当然、蔑ろにされます。日本が先進国の中でも失業率が低く、社会の不安定要素が少ないのは、企業が不採算部門を抱えながらも雇用を守っているからではないでしょうか?それが証拠に、事件報道を見ると、容疑者は殆ど無職ではないですか?人間、心身共に働ける状態にありながら仕事にあぶれた場合、ロクなことを考えません。

 日本企業(日本人)が資本主義の権化たる欧米企業(欧米人)に歩調を合わせなければならないと言うならば、グローバリズムは本当に人々を不幸にするだけ。特に米国の後追いは、日本人を不幸にするだけだと思います。日本がその独自性(特に文化的特性)を大切にしつつ、欧米に勝つ方法はないものか?知恵を絞りたいですね。

 その為にも、日本と言う国、日本の国民の為に、先頭に立って、国の進むべき道について正しい選択をしてくれる偉大なリーダーの登場を待望するばかりですが、来るべき未来のリーダーが、今、どこかで登場の時を待っていると信じたいです。


【追記】

 今夜の『ガイアの夜明け』(テレビ東京)で、再建中のシャープが取り上げられたようです。知らなくて見逃してしまいました。残念番組を見た方は、どんな感想を持たれたんでしょうね?

2015/6/16

イタリア語、また勉強したいな…  日々のよしなしごと

 先日、夫とチネチッタで「海街diary」を見た後、最近ブログでも取り上げたイタリアンの店にランチを食べに行った。

 週末の昼時とあってか、店は7、8割程の入りで、適度な賑わいを見せていた。平日はパスタランチがあるのだが、週末はピッツアランチ一種のみの提供のようだ。

 サラダもピッツァも二人前が大皿で運ばれて来た。チネチッタ半券サービスのデザートはパンナコッタが小ぶりのしゃれた足付きグラス入りで出て来た。これにソフトドリンク付きで、二人前2,700円也。私はこのボリュームと味と店の雰囲気なら、妥当な値段だと思うのだけれど、倹約家の夫は高過ぎると言う。コスト意識の高い夫の反応が気になって恐る恐る週末の店に入ってみたけれど、やっぱり駄目だった。夫には申し訳ないけれど、今後は平日に友人と利用するとしよう。

 この日はイタリア人店主のガリレオ氏が店に出ていた。「イラシャッイマセ」とイタリア語訛りの日本語で私達を迎え入れ、帰りの会計時も店主自らが対応した。

 「オイシカッタデスカ?」と聞かれたので、「Buono!」と答えたら、「イタリアゴ、ワカルノ?」と興味を持たれた。

 どこで勉強したの?イタリアで?この店は初めて?僕に会ったことある?と矢継ぎ早に聞かれたので(久しぶりのイタリア語だったけれど、どうにか聞き取れた)、嬉しくて思わず、自分が今覚えている限りのイタリア語で、少し話せること、イタリア語は日本の大学で第二外国語として学んだこと、この店には3度目だけれど、店主のあなたとは初めて会うと答えた(なんせ社会人入学した大学で学んだのは10年以上前で、卒業後にイタリア語を話す機会なんて皆無だった…)

 お金の勘定もすべてイタリア語で話してくれた。数詞はいつも忘れないようにイタリア語を口ずさんでいたりするので、問題なく聞き取れた。

 店主は最後に「スバラシイ。スバラシイ。Bravo!」と言って満面の笑みで見送ってくれた。

 イタリア語って、やっぱりその音の響きがメロディアスで美しいから好きだ。また、勉強し直したいなあ。

 知人に、九段下のイタリア会館のイタリア語講座で、もう数年間勉強している人がいる。彼女もせっかく前に勉強したんだから勉強を続ければと講座受講を勧めてくれるが、いかんせん、交通費と学費のことを考えると、二の足を踏む。

 見る映画や展覧会の数を絞る等、日頃の贅沢?を慎めば、捻出できない費用でもないのだろうが、それらを諦めてまでイタリア語講座に通う価値が、今の自分にとってあるのか、天秤にかけると迷ってしまう。そもそも勉強しても、イタリア語を使う機会は殆どない。近々にイタリアに行く予定もない。ただ純粋に言葉として興味があり、学びたいと言う好奇心だけだ。後先考えずに、お金をかけて学ぶことには、専業主婦と言う立場上、躊躇する。何にせよ、贅沢な悩みである。

 一方、上述の知人は主婦として家事と3人の子育てをしながら25年間フルタイムで勤め上げて後、自らの蓄えで勉強している人だ。家庭の事情で若い頃叶わなかった大学進学を、今、通信制で叶えている。その研究テーマの一貫でイタリア語を学んでいる。

 それに比べたら、私の学習動機は弱いなあ…本当に学びたいのであれば、現時点でNHKのラジオの語学講座なりで勉強していても良いはずだ。でも、やっていないのだから、やはり一過性の花火のような願望なのかもしれない。

 にしても、やっぱりイタリア語は甘美な響きだ。大学時代、週1回の講義とは言え、3年間イタリア語を学べたのは良かった。新たな言葉を知ると言うことは、自分自身の世界が広がることに等しい。イタリア語なら、語学に留まらず、それを契機として、イタリアと言う国の人や文化や歴史にも興味が広がる。

 本当に学びたいのであれば、今のような恵まれた時代、幾らでも学ぶ手段はあるだろう。私の場合、昔とった杵柄で、とりあえず、自宅にある教科書や参考書や辞書で、ある程度自習だって出来なくもない。

 生きている限り、常に何かを学び続けることは大切だと思う。何よりそれは、何気ない日々を充実したものに変えてくれる。正にNo Study No Lifeだね

2015/6/16

最近、夫婦でよく新語を作る(笑)  家族のことつれづれ

 最近、加齢のせいか、夫のおっちょこちょいぶりに拍車がかかって、言い間違いが増えているような気がする。また、夫のへっぽこぶりが目だっているので、(自分のことは棚に上げて)、私もついつい彼にツッコミを入れたくなる。

「他人の空耳」:おそらく「他人の空似」が頭にあったのだろうけれど、本人が2度言った後でやっと言い間違いに気づいて、バツが悪そうにしていたのが笑えた

「意味なし○○(←夫の名)」:これは「耳なし芳一」が元ネタだ。「街中の仙人」(←これも私が名付けた)である夫は、とにかく最近、仏教やら哲学やら歴史やらの本を図書館から借りて来ては読みまくっている。しかし、読書記録を残している風でもなく、読んだ内容をブログなりにまとめたり、私に話して聞かせるなどアウトプットするでもなく、ただ読みっぱなしに私には見えたので、もったいないと言う意味を込めて、「これでは"意味なし○○"だね」と夫に言ったところ、夫には大受けだった。

 以上は、とある下町の現代長屋で、日々、観客もいないのに夫婦漫才を繰り広げている、粗忽者夫婦のヨタ話である。

 しかし、何の取り柄もない一組の夫婦が、そこにささやかな幸せを見出しているのも、また事実である。

2015/6/16

我が家のラタトウィユ  「食」についての話題

クリックすると元のサイズで表示します ときどき無性に野菜をたくさん食べたくなる時があります。そんな時は迷わず和風なら「筑前煮」、洋風なら「ラタトゥイユ」を作ります。

 昨晩はラタトゥイユを作りました。これはお野菜たっぷりのレシピで、冷蔵庫の野菜室のお掃除にも、身体のお掃除にもピッタリな料理です

 しかし、元々南フランスの郷土料理なのに、フランスでは刑務所や軍隊でよく出される料理でもあることから、その名は所謂"臭い飯"的な言い回しで使われたりするんだとか。う〜ん、なんだか残念ですねとってもおいしいのに!(注:今回撮り忘れたので、掲載写真は以前撮ったものの使いまわし。実際は1時間以上コトコト煮込むので、もう少し野菜の形が崩れてポテッとした感じになります)

 このブログにも何度か登場している料理ですが、ここで改めて、ネットで見つけたのを我が家流にアレンジしたレシピをご紹介。

【材料】

・鶏もも肉300g←ちょっと珍しいですが、ゆめBerryさんと言う方のアイディアで、鶏肉を加えると味にコクが出て、メインディッシュにもなります。 
・にんにく1〜2片 
・野菜室にある野菜:ズッキーニ1本、パプリカまたはカラーピーマン2〜3個、ナス2〜3本、タマネギ1玉、ニンジン1本、ジャガイモ中2個、トマト中2個、ダイコン100〜150g程度、シイタケ3枚(←これらを入れるのが我が家流?煮込み料理にピッタリな食材なので、洋風料理にもとても合います)などを基本に、野菜室にある野菜(全部で10種類以上?)を適宜加えて下さい。

・コンソメスープの素 1個
・塩コショウ 適宜
・オリーブ油 適宜

【作り方】

1.材料を切ります。基本的にすべて一口大の乱切り。ナスは形が崩れやすいので少し大きめにカット。トマトはクシ切りかさいの目切り。私は炒める順番を考えて、野菜を以下のように3つのグループに分けます。

 ズッキーニ、ニンジン、ダイコン、ジャガイモ
 パプリカ、ナス
 タマネギ、シイタケ、トマト

2.最初に鍋(できればル・クルーゼやヴィタ・クラフトやフィスラー社等の無水調理のできる鍋で)にオリーブオイルを敷いて、包丁で潰したニンニクを弱火で炒め、香りが出て来たら、中火で鶏肉を炒める。

3.鶏肉の表面に適度な焦げ目がついたら、ズッキーニ、ニンジン、ダイコン、ジャガイモを加えて炒める。

4.最初の野菜に火が通って来たら、パプリカとナスを加えて炒める。

5.ナスに火が通って来たら、タマネギ、シイタケを加え、最後にトマトを加え、蓋をして、弱火で少なくとも1時間はコトコト煮こむ。水は一切加えません。煮込みで食材の味をじっくり引き出すので、野菜類はザックリ炒める程度で構いません。

3.途中、10分程度弱火で炒めた後に塩・コショウで味を調える。コンソメスープの素も加える。時々ザックリ混ぜることを忘れずに。

 ひたすら材料を切って、ザックリ炒めて、コトコト煮こむだけですが、食材の旨味のハーモニーで、本当に美味しく仕上がりますどうぞ、お試しあれ

 我が家はこれを、大麦ごはんと一緒にいただきます。


2015/6/15


 私は息子に、ことあるごとに「お母さんは変人だから」と言われ続けて来た。別にそれで私のことが嫌いだとか、人前に出すには恥ずかしいと言うわけではなく(だいたい息子も変人の部類に入ると思うし…夫だって「街中の仙人」と私が呼ぶように、どこか浮世離れしたところがある立派な変人だし…変人の息子はやっぱり変人である)、自分のお母さんはヨソのお母さんとはちょっと違う個性・感覚の持ち主、と言う程度のようだ。

 まず、群れない。人に迎合しない。人と違うことを気にしない。逆に一般的な女性の特徴は、「群れる」「人に合わせる」「一人浮くのを恐れる」である。子供の頃から、こうした女性の性向には違和感があった。自分も女性でありながら、未だに女性のそういうところが苦手である。

 今朝、NHKの朝の情報番組「あさイチ」で、「つながらない生き方」と題して、SNSを通じた人との関わり方で悩んでいる主婦の問題が取り上げられていた。

 子供が幼い頃は、子供が集団から孤立しないよう、ある程度親同士の付き合いが必要だと言う理由から、LINEと言うSNS機能を利用する主婦達。今や学校の連絡網でも利用するらしい。私の子育て期にはなかったものだ。メッセージの既読、未読で気を揉んだり、果てはトラブルに発展すると聞いたら、私の時代にこんなに便利で、同時に面倒くさいものがなくて良かったと思う。そもそも、そんなものがなくても、当時はコミュニケーションに何の問題もなかったのだから。

 最近は特に郷里の友人達(総勢12人のグループで、ひとりひとりが精神的に自立した女性で、思いやりもあり、つかず離れずの程よい関係が小中高以来続いている。彼女達は私の人生の宝である)が、互いの近況が分かり合えるからと、しきりにLINEを勧めるけれど、私は常に友人達と繋がっていたいとは思わない。これまで年に1度会えるか会えないかの程度でも、かれこれ40年近く続いて来た友情である。たとえ、逐一近況を伝え合わなくても、関係がそうそう簡単に切れるとは思えない。それに私の携帯電話は所謂ガラケーで、しかもネットにも繋げていないので(ネットに繋がるのは自宅のPCだけで十分)、機能的にもLINEを使えないのだ。

 また、最近よく言われるところの「格付けし合う」とか「マウンティング」とか、女性同士の小競り合いも嫌で、他人のSNSの書き込みに、やれ自分が上だ、下だと一喜一憂するのは馬鹿馬鹿しいと思う。多少の虚栄心は、本人の心持次第で向上心にも繋がるのかもしれないが、大抵は、相対的に自分を持ち上げる為に、他人を蔑む手段と化している。そこが何とも浅ましいと言うか残念なところ。そもそも私達は、ママ友程度の付き合いの浅い他人の、何を知っていると言うのだろう?少なくとも相手に大きな非がない限り、相手を蔑みの対象としてではなく、ひとりの尊厳ある対象として接することが、良識ある大人としてとるべき態度だろう。

 自分が自分らしくいる為には、他人から自分がどう思わているのか〜他人からの評価や評判をあまり気にし過ぎないこと。自分なりに誠意を尽くして、それでも相手に理解して貰えないのなら、その人とは元々縁がなかったのだと思えばいい。自分のあるがままを受け入れてくれる人は、たとえ今、そこに居なくても、きっとどこかにいるはずだ。少なくとも今、結婚しているのなら、夫がそういう存在のはずだ。自分を殺してまで、他人に合わせる必要はないと思う。

 私は他人の目に振り回される人生なんて、真っ平ごめんだ。そんな人生を歩むくらいなら、「変人」であることを選ぶ。 

2015/6/13

今日、明日は西美で"FUN DAY"  文化・芸術(展覧会&講演会)

 アナウンスをうっかり忘れてしまいましたが、今日13日(土)、明日14日(日)と、上野の国立西洋美術館では「FUN DAY」と銘打ったイベントが開催されています。この2日間は無料開館となっています。

 これは毎年、年に一度開催されているイベントで、常設展示室でのギャラリートークや、前庭コンサート、建築ツアー、そして様々なワークショップが行われています。

 私は今日の午前中、「塗り絵」ワークショップを担当しましたが、老若男女、海外からの旅行者も含めて、大勢の方々がお越し下さいました。

 因みに私が担当した「塗り絵」は、入館口で配布されるFUN DAY専用のチケットに印刷された西美所蔵作品(8種類ご用意しましたが、どの作品が当たるかは当日のお楽しみ♪)をモチーフとした塗り絵を、新館2階の休憩コーナーと出口付近に設置されたブースで楽しんでいただくワークショップです。

 実物の作品の色を忠実に再現しても良いですし、ご自分のセンスで全く違う色合いで塗られても結構です。今回、担当して特に印象的だったのは、同じ絵柄でも、塗り手の個性が必ず出ることでしょうか?ひとつとして、同じような仕上がりの作品はありませんでした。

 小さいお子さん達は、絵柄なんかもう無視しちゃって、様々な色鉛筆で書きなぐったり…でも、それでもOKです。ご両親と一緒に美術館で楽しい時間を過ごした。それだけで十分です。それが次の来館に繋がれば、西美の教育普及に携わる一人のスタッフとして嬉しい限りです。また、今回は年配の方々も、ご夫婦やお友達同士で、積極的に塗り絵を楽しんでおられました。下は1歳児から上は70、80代まで幅広い世代に楽しんでいただいたようです。

 塗り絵は一見、単純で幼稚な作業のようですが、その実、結構頭を使う作業で、結果的に、その作品の細部を観察することに繋がります。輪郭線内部の白い面に、自分なりに色を選んで(忠実に再現するにしても、色選びには塗り手の個性が出ます)、自分なりの塗り方で(人それぞれに筆圧も違いますし、塗り方のスタイルも違います)塗る。こうした一連の作業を通して、その作品に描かれた細部、作者の繊細な色使い等、新たな発見があります。ひとつの作品を少なくとも2度楽しめるのです。

 もし、お時間がありましたら、是非、国立西洋美術館へ、足をお運びくださいね!

詳しくはこちら=>国立西洋美術館 FUN DAY

2015/6/11

『あん』(日仏独、2015)  映画(今年公開の映画を中心に)

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 このブログで繰り返し述べているが、この世に完璧な人間なんて、おそらくいない。ごく最近のお気に入りのフレーズで表現するなら、人間は皆、「尊ばれるべき霊性」と「愛すべき無様さ」の両面を持った存在だ。表面上は様々な属性によって差異が見られても、外側の虚飾を剥いで、その内面を突き詰めれば、皆、そんなものだと思う。

 斯くいう私も偏見や差別意識においては、自分の無知を恥ずべき点が多々ある。人間が何かを厭い、遠ざけるのは、大抵無知から来る偏見が原因であることが多い。

 映画『あん』においても、ハンセン病に対する人々の偏見と無理解が描かれているが、これは政府の90年近くに及ぶハンセン病患者隔離政策(1907-1996)による弊害と言えるだろう。

 私は偶然にもこれまで一般の人々よりは、ハンセン病について、身近で見聞する機会があった。

クリックすると元のサイズで表示します 若かりし頃、国家公務員試験に合格し、行政事務職採用面接の為に、当時、厚生労働省の管轄下にあった、あるハンセン病患者隔離施設を訪ねたことがある。まだ「らい予防法」で患者の隔離政策がとられていた頃の話である。しんと静まり返った施設内に患者の姿はなかったが、当時はハンセン病に対してあまりにも無知であるが故に、そこで働く自分の姿が、どうしても想像できなかった。

 最近では、昨年、沖縄県立美術館で開催された「木下晋展」で、ハンセン病患者で詩人のS氏の肖像画を目にする機会があった。病気の為に容貌が著しく変形したS氏の肖像には、木下氏の入魂とも言うべき筆致によって、「人間の尊厳とは何なのか」を、見る者に改めて問いかける迫力があった。

 今回、映画の中で、ほんの一瞬だが、そのS氏の写真が名前と共に映し出された。何と言う偶然であろう。

 また、私が中東に駐在していた約20年前まで、当地ではハンセン病患者が存在していた。その姿を実際に見ることはなかったが、ハンセン病は聖書にも度々「らい病」と言う名で登場し、映画『ベンハー』でも、主人公ベンハーの母と姉がハンセン病を患い、人里離れた洞窟の中で身を隠すように暮らすシーンが描かれる等、古来より中東では比較的知られた病だったのだろう。

 しかし、ハンセン病に関しては既に何十年も前に特効薬が開発され、それを服用した患者は感染源になることもない。今や日本では、ハンセン病の新規罹患者は皆無に等しく(日本で発生する新規患者はほぼ全員が海外から渡航して来た外国籍らしい。一方、世界では今もインド等開発途上国を中心に、年間25万人の新規患者が発生していると言われている)、普段の生活の中で元ハンセン病患者の姿を見かけることもなく、一般の人々からは益々ハンセン病が遠い世界の話になっている。だからこそ、映画「あん」で描かれたような、元患者に対する心無い中傷が起こり得る状況になっていると言えよう。


 ただし、映画「あん」は、様々な事情で心に傷を負った人々を描いた作品であり、元ハンセン病患者である餡(あん)作り名人の老女、徳江(樹木希林)は、その一人に過ぎない。

クリックすると元のサイズで表示します 鯛焼き屋の雇われ店長の千太郎(永瀬正敏)にしても、高校進学を諦めようとしている女子中学生ワカナ(内田伽羅・樹木希林の孫娘)にしても、それぞれに悲しい過去や、どうしようもない現実を抱えて、自信を失い、痛々しいまでに世の中に遠慮して生きている。千太郎とワカナは、店長と常連客と言う関係を超えて、互いを支え合うような関係である。そこには、生きることに不器用な人間の、敬愛すべき優しさがある。

クリックすると元のサイズで表示します そんな二人の前に、桜の季節(春爛漫の桜並木が美しい!)に突然現れたのが、徳江だった。桜吹雪舞う中、鯛焼き屋の甘い香りに誘われるように訪ねて来た徳江は、バイト募集の張り紙を見て、70半ばの自分を雇ってくれないかと請う。高齢を理由に頑なに断る千太郎だが、ある日、徳江が無理やり置いて言った自作の餡を口にして、その美味さに驚き、徳江を雇うことに決めたのだった。

 この徳江との出会いから彼女を雇い入れるまでの、千太郎の心境の変化が丁寧に描かれていて、物語の展開に無理がない。徳江の一言一言が、萎縮した千太郎の心を徐々に解き放して行くのが見て取れて、私自身も徳江の言葉にいつしか癒されていた…

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 徳江は真摯に耳を傾ければ、自然の声を聴くことが出来ると言う。動物達の声も、森の木々や草花の声も、そして、そよぐ風の声も…

 故に、人は何者かにならずとも、ただそこに居るだけで、生きる価値があるのだと、徳江は目前に広がる自然の風景を心から慈しむように見遣りながら言う。

 幼い頃に得た病で、家族から引き離され、世間からも隔離され、身ごもった我が子をその手に抱くことも許されなかった徳江の言葉である。言われなき差別で人生を奪われた人の言葉の、なんと滋味深いことか…

 こんな私でも「大丈夫。生きていて良いんだよ」と、スクリーン越しに徳江婆に言われたようで、心が軽くなった。スクリーンの中の千太郎もワカナも、徳江のその一言に救われたのではないか?

 ふと、新約聖書「マタイによる福音書」第5章の有名な一説が頭に浮かんだ。
 
 心の貧しい人々は、幸いである、
 天の国はその人たちのものである。
 
 悲しむ人々は、幸いである、
 その人たちは慰められる。

 柔和な人々は、幸いである、
 その人たちは地を受け継ぐ。

 義に飢え渇く人々は、幸いである、
 その人たちは満たされる。

 憐れみ深い人々は、幸いである、
 その人たちは憐れみを受ける。

 心の清い人々は、幸いである、
 その人たちは神を見る。

 平和を実現する人々は、幸いである、
 その人たちは神の子と呼ばれる。
 
 義のために迫害される人々は、幸いである、
 天の国はその人たちのものである。
 
 徳江のように、不遇の中にあっても、謙虚に自らを省みられる人だけが、かくのごとき透徹した境地を得るのだろうか?

 だとすれば、自分の身に起きる理不尽な出来事にも徳江のような態度で臨めば、ただただ自分の不運を嘆くのではなく、何らかの意味を見出して強く生き抜くことができるような気がする。


 この映画もまた、生きることの意味を考えさせられる、得難い作品であった。

           季節は巡り、また桜の季節がやって来た…
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2015/6/8

『トイレのピエタ』(日本、2015)&野田洋次郎の舞台挨拶  映画(今年公開の映画を中心に)

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 昨日、幸運にも川崎チネチッタ(本当にチネチッタは上映作品のチョイスが素晴らしい!)で、本作の舞台挨拶付き上映を見て来た。

 舞台挨拶では出演者の生の姿を見られるのと同時に、製作裏話を本人や監督自身の口から聞けるのが嬉しい。今回は本編上映終了後、余韻覚めやらぬうちに、松永大司監督と主演の野田洋次郎が登壇。お二方の挨拶の後、短いながらも観客との質疑応答の時間もあり、おかげで個人的には作品への愛着がより深まったように思う。

 舞台挨拶での発言:

 監督:郷里に戻った時に森林を背景に「威風堂々」を口ずさむシーンは、実はすべての撮影が終わった後に撮った拘りのシーン。なかなか納得のいくロケ地が見つからず、最後になってしまった。
 野田氏:死期を悟った宏の心情に寄り添い、宏として口ずさんだ。

 野田氏:実際の病院のロケでは、患者が使用直後のトイレで便座に顔を埋めるシーンを撮影したりと、多少キツイものがあった(笑)。

 野田氏:プール撮影のシーンは夕方からで、主演の自分は濡れてはいけないので、日中ひたすらプールに落ちた枯れ葉を掬っていた。撮影準備のスタッフはともかく、なぜか監督までプールに入っていた(笑)。


 本作は、野田洋次郎演じる園田宏(以下、宏)が、ある日突然、余命3カ月のガン宣告をされてからの日々を綴った物語だ。宣伝コピーでは「恋愛映画」と謳うが、個人的にはそれ以上に、自らの余命を否応なく知らされたひとりの人間の、生々しい生き様がドキュメンタリータッチで描かれていたのが印象的だった。本職はロック歌手だと言う野田氏が、あまりにも自然な佇まいで宏として居るので、そんな風に感じたのかもしれない。時折挟み込まれる何気ない風景描写も、宏の心情を映し出しているようで印象的だった。

 漫画家、故・手塚治虫の病床日記の中にあった草案をもとに、監督自ら脚本を書き上げた本作の撮影は1年にも及んだらしい。ヒロイン真衣役のオーディションにも1年をかけて、出演女優を選び抜いたと言う(その期待に、杉咲花は見事な演技で応えている)。最近の邦画にしては丁寧に時間をかけて作り込まれた作品であることは、本作を見ていて随所に感じられた。

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 宏は美大卒で、美大時代はその才能を高く評価されながらも、今は筆を折ってビル清掃に従事する20代後半のフリーターだ。そんな自分を宏は、「ビルの窓にへばりつく虫」と喩える。宏が絵を描くことを止めた理由は映画の中で語られない。宏自身も語らない。

クリックすると元のサイズで表示します 私は美大時代、絵画制作に没頭する学生を何人も見て来たし、卒業後は美術館の教育普及ボランティアとして、ギャラリートークの準備の為に様々な文献資料を読む中で、美術史に名を残した数多の画家の苦闘の生涯を知った。その経験を踏まえて改めて思うのは、才能で身を立てることの難しさである。

 才能、タレントは、熟練によって磨かれる技術、スキルとは明らかに異なるものだ。酷なことに、本人の努力とはあまり関係のないところで、天賦としか言いようのない他を圧倒する才能に"運"(←時代の変化の波に上手く乗れたとか、自分を引き上げてくれる人物との出会いとか、人を惹きつけて止まない恵まれた容姿の持ち主であるとか、生活不安を感じることなく創作に没頭できる経済環境にあるとか…)も味方して初めて、作品が世に出ることの方が多いのではないか?一握りの成功者の陰には、無数の夢破れた無名の人々がいる。

 だから宏が筆を折った理由も想像に難くない。その証左として、美大時代のかつての恋人さつき(市川紗椰)が登場するのだ。
 
クリックすると元のサイズで表示します タイトルの『トイレのピエタ』が意味するものは何か?それは、宏が自身の残された時間を費やして全身全霊をかけて遺した、彼が生きた証なのだと思う。実際、どのような作品なのかは、映画のクライマックスとも言えるその製作過程も含めて、映画で是非見ていただきたい。

 一般にイタリア語のピエタ(Pieta)は「哀悼」と訳され、十字架降下後のキリストの亡骸を抱えた聖母マリアの姿を表現した、キリスト教美術でも最もポピュラーな主題のひとつだ。

 長い歴史の中で繰り返し描かれ、彫られて来た主題だが、中でもヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロ作のピエタが最も有名である。これはミケランジェロが23〜25歳の頃の作品で、彼の初期の傑作と言われている。

 本作のレプリカが映画の中でも登場するが、さりげないほんの数分のシーンながら、宏が"表現者"として再び覚醒する重要なシーンだと思う。そこで、そのタイミングで、ピエタに出会わなければ、宏の中で「トイレにピエタ」なんて発想は湧かなかったはずだ。宏は、息子を失って悲しみの中にあるはずのマリア像の、かすかに微笑んでいるかのように見える柔和な表情に、安らぎを見出したのだろうか?

 ここで宏を"画家"ではなく、敢えて"表現者"としたのは、内側から迸る表現欲求に駆られて、憑かれたように創作に没頭する境地に至った人間は、もはや世間に認められたい、才能で名を成したいと言った功名心を超越した、純化した存在だと思うからだ。だから尊敬の念を込めて"表現者"と呼ばせて貰う。

 命の期限を知り、その後に出会った人々との関わり合いを通して、彼の中で潰えていたかに見えた創作への意欲が再び湧き上がる。都会の中で、自分は孤独で、取るに足らない存在だと思っていたのに、最期になって彼に対する人々の温かな思いを知る。死を間近に感じたからこその、感覚の鋭敏化とでも言おうか。

クリックすると元のサイズで表示します 17歳の女子高校生、真衣(杉咲花)。彼女もまた、人には言えぬ重い現実に喘ぎ、怒りと哀しみと孤独を抱えて生きていた。

 その真衣と宏の人生が、思いがけず病院の待合室で交差する。恋愛ドラマと言うには、あまりにも味気ない二人の出会い。互いの素性もあまり知らないまま、互いの孤独感を埋め合わせるかのように、二人は次第に心を通い合わせて行く。

 真衣は時に辛らつで、強引で、激情を所構わずストレートにぶつけて来る。死期の迫った重病人の宏に対してさえ遠慮会釈なく。しかし、病人として気遣われるより、その方が宏には気が楽だった。真衣の強引さに振り回され戸惑う宏だったが、彼の中で彼女の存在は次第に大きくなって行く…

 真衣を演じた杉咲花が、その小柄な身体のどこからエネルギーが迸るのかと思うほど力強い演技を見せてくれた。以前、彼女がバラエティ番組にゲスト出演したのを見たことがあるが、普段の彼女は、耳をそばだてないと聞こえないほどか細い声でしゃべる人のようだ。ところが、映画の中の彼女は、全速力で走り(転倒し)、大声で喚き、自在に泳ぎ、まるで別人のようだった。まさに憑依型の女優と言えるだろうか?ともあれ、今後が楽しみな若手女優のひとりだと思う。

 今回、彼女の舞台挨拶も楽しみにしていたのだが、残念ながらチネチッタには来場せず。演技と違って、素の彼女は、大勢の前で素の自分をさらけ出せるような大胆さを持ち合わせていないと言うことなのだろうか?
 
 他に、最近俳優としての活躍が目立つリリー・フランキーが一見飄々として掴みどころのない中年男の、拠り所のない哀しみを巧く表現していて印象に残った。ほぼ同世代と言うこともあってか、彼の台詞が逐一心に引っ掛かった。彼は演技巧者と言うより存在そのものが稀有な持ち味で、最近の人間ドラマには欠かせない役者になったなあ。

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 私はどちらか言うと長生き願望がなく、自分が幼い頃に思い描いた人生をこれまでにほぼ実現しているので、いつ死んでも悔いはないと思っているが、こうした作品を見ると、改めて自分の生き方について考え込んでしまう。自分が生の充実感を持つ瞬間て、人生の中で一体どれだけあるのだろう?50年あまり生きて来て、果たして今まで、何回あったのだろう?自分は与えられた命を大切にしているのか?寧ろ粗末にしているのではないか?もっと真剣に人生に向き合うべきなんだろうか?と。

 エンドロールに流れた野田氏の作詞作曲による主題歌も、歌詞が映画の内容と見事にリンクしていて、画面上の歌詞を目で追いつつ、野田氏の歌声を聴きながら、作品世界の余韻に浸れて、とても良かった。撮影終了5日後、打ち上げの席?でスタッフに初披露したと言うその曲の歌詞は、野田洋次郎と言うより、宏の心情をそのまま綴ったかのようだった。少なくとも撮影の間、野田氏は宏そのものであったのかもしれない。

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2015/6/7

生まれた時代で、大きな差がつく  はなこのMEMO

知人に、悠々自適にシニアライフを謳歌されている団塊世代の方がおられます。

ご本人は結婚後間もなく退職され、その後はほぼ専業主婦でした。ご主人は大手企業に勤めておられた方で、ご主人が定年されるまでに1億円近い金融資産を築かれたそうです。

現在の30代は、現在の50代が30代の頃より、年収で100万円ほど低いと言われる今の日本で、定年までに1億円近い金融資産なんて、宝くじに当たるか、富裕な親から遺産を相続するか、夫婦共に高給取りの共働きか、よほど資産運用巧者でない限り、夢のまた夢のような話です。

しかし、団塊の世代が現役だった頃は預金の高金利に加え、国の高度経済成長の波に乗り、所得は確実に年々増えて行き、最初に買ったマンションは買った金額より高く売れ、その資金を元手に、より広い一戸建てに買い替えると言う「住宅すごろく」も可能でした。

今朝7時配信の東洋経済オンラインの記事によれば、団塊の世代が現役バリバリだったバブル時代、元本保証で金利7%の金融商品はザラにあり、例えば100万円を預ければ10年後には元本と利息を合わせて倍の200万円になったとのこと。

記事はさらに預けたお金が利率によって何年で2倍になるかの計算方法を紹介しています。

根拠は不明ですが、72と言う数字がポイントのようです。

72を金利で割るとお金が何年で2倍になるか算出できるそうです(小数点以下は切捨て)

バブル期:72÷7(%)=10(年) 

2015年現在:100万円を10年間、大手銀行の定期預金に預けると想定:
     72÷0.1(%)=720(年)

現在の金利では、預けた100万円が2倍になるのに、なんと720年もかかる計算です。しかも現在は昔に比べて社会保険料の負担もかなり大きくなっています(今の80代が現役の頃の年金保険料は給与の3%でしたが、現在は18%。しかもボーナスからも引かれます)。税負担も違う。昔に比べて可処分所得は大幅に減っていると言えます。

現在の団塊の世代は世代なりに厳しい競争にさられ、大変だったのかもしれませんが、こと資産形成に関しては、普通に働いていれば、現在の現役世代とは比較にならないほど多くの資産を築けたわけです。

日本は既に「普通に真面目に働いていれば、老後の心配もない社会」ではなくなってしまいました(さらにTPPによる国民健康保険制度の危機など、日本を取り巻く状況は悪化の一途を辿っているように見えます)。団塊の世代の資産は、その子供に何れ引き継がれるとは思いますが、それでも親世代ほどの豊かさを、もう子世代は享受できないのかもしれませんね。

団塊ジュニアより若い世代は、さらに気の毒な状況です。

世代間の格差是正は、それこそ国の責任の下に行われるべきではないでしょうか?

国の未来に対して、大きな青写真を描けなかった政治家、官僚。

差し迫った少子高齢化問題を認識していながら、何ら対処して来なかった政治家、官僚。

戦後日本のリーダーの養成方法に誤りがあったのでしょうか?或いは米国占領下に日本の支配層の首根っこを米国に押さえ込まれた結果が、今の社会状況を作り出したのでしょうか?戦後、日本は米国の顔色ばかり伺い、国家として主体的に判断し、動いたことなど、殆どなかったのではないでしょうか?それが国民間の経済格差拡大をはじめとする「米国社会の後追い現象」を招いているように見えます。

若い世代も、自分達にとって不公平な現状に対して端から諦めるのではなく、政府に対してもっと声を上げるべきだと思いますせっかく与えられた選挙権も確実に行使すべきです。

2015/6/6

バス停の紫陽花  携帯電話から投稿

今日もキレイ…

私に、紫色が美しい色だと気付かせてくれたのは、紫陽花の花。

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2015/6/6

マナティの視線の先には…  携帯電話から投稿

海外の風景写真のカレンダーや、マルチフォトフレームに納められた家族の写真。

つい、つられて私も眺めてしまう…

先週、我が家から巣立って行った息子。元気にやっているかな…

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この記事を投稿した1時間後に、息子から電話がかかって来た。

「今、映画館にいるんだけど、『トゥモローランド』と『予告犯』と
『新宿スワン』のうち、どれがオススメ?」

久しぶりの電話が、これかい?

相変わらすのマイペースぶりに、情けないやら、安心するやら… 

まっ、母は息子の肉声が1週間ぶりに聞けて、正直、嬉しい。



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