2014/6/30

男は出世を妬み、女は幸せを妬む  はなこ的考察―良いこと探し

今朝のNHKの「あさイチ」は、「ママ友」関係の難しさについての特集だった。その中で、ある視聴者からの意見投稿の冒頭に書かれていたのが、表題の言葉だ。

いろいろな意見がある中で、この言葉が、私の心に引っ掛かった。

確か投稿者自ら考え出したことではなく、世間一般で言われていることとして、投稿の冒頭で引用していたと思う。

おそらく、妬む相手はそれぞれ同性だと思うが、男女が「他人の何を羨むのか」の違いに言及して、図らずも男と女の「生き辛さの度合い」の違いを言い得ているのが興味深い。

女性は他人の「幸せ」を妬むと言う。「他人の不幸は蜜の味」と言う言葉もあるくらいだ。人はこの世に生を受けたからには、誰もが皆「幸せ」になりたいはずである。よほどのひねくれ者か、逆に、人に「人の道」を説く聖者でもない限り、自分から敢えて不幸への道筋など選択しないと思う。

一方、男性が妬む「出世」は、人が望む「幸せ」の一要素に過ぎない。しかも、皆が皆、それを望むとは限らない。

男性に比して、女性の妬みはなんと壮大なことか。人が望むあらゆる幸せの形すべてが、妬みの対象となるのだ。

もし、これが事実なら、怖いなあ…女性の心の闇は、とてつもなく深いなあ…

でも、どうしてなんだろう?女性は男性より欲深いのか?底意地が悪いのか?

妬む行為と言うのは対象あってのことで、しかも妬む要素が際限なくあると言うことは、女性は常に誰かと自分を比較して、そのありとあらゆる形の幸せを妬んでいるということになる。

そして人を妬めば妬むほど心が醜くなり、その醜さが人相に出てくる。年を重ねると生来の顔の造作より、それまでの生き様、心の在りようが出る人相の方が重要だと、この年になってつくづく思う。

もし、妬みの気持ちが心にもたげて来たら、「いかん、いかん、妬み嫉みはブスの素。私はブスになりたくない」と唱えよう。


もし、そうだとすれば、生き辛いなあ…、生き辛くしているのは紛れもなく、女性自身である。

女性が今の自分として1度限りの人生を楽しく生きたいのなら、まず、自分と他人を比べることを止める!

「人は人、自分は自分」と、割り切ることだと思う。常に他人と比較しないと自分の幸福度が測れないのであれば、それは要するに「自分(の生き方)に自信がない」と言うことなんだろう。

何も自信満々である必要はないけれど、せめて「自分も自分なりに頑張っているよね」と自分のことを認めてあげては?自分の生き方を肯定的に捉えては?それで十分だと思う。


今朝の番組の、「ママ友」関係の面倒臭い話は、結局、女性の精神的な幼さから端を発しているのだと感じた。群れる女子高校生時代から母親になっても精神的に成長していないから、狭い世界でゴチャゴチャやっているんだと思う。

私自身は学生時代の友人に恵まれていて、30年来の友人達とは今でも頻繁に連絡を取り合う仲だ。彼女達とはつかず離れずの程良い距離感で、ずっとお互いに支え合い励まし合う関係だったので、昨今、見聞きする女子学生の友人関係の面倒臭さが、私には今ひとつ理解できない。

ママ友同士の関係も然り。自分のあるがままを受け入れ、理解してくれる友人の存在があったから、私はママ友関係にも殊更執着せずに済んだのかもしれない。

因みに、精神科医の水島先生は、群れる女性を安易に否定するなと、その著書で説いておられる。群れる女性の中にも、内心群れから離れたいと思っている<でも、子供の為に我慢している?>女性がいるはずだと。


そもそも「ママ友」関係は一過性のものである。自分なりに努力しても、あまりにも不快な思いが続くようなら、自分の方からその関係を断ってしまえば良いのではないか(長く良好な関係が続くのなら、それは「ママ友」関係を卒業して、本当の友人になれたと言うこと。私にもそんな友人が2人いる。息子が中高一貫校に通った時に出会ったお母さん達で、付き合いはかれこれ10年になり、息子たちが社会人になった今も彼ら抜きで続いている仲だ。実はもう一人いたのだが、ガンで亡くなってしまった。でも彼女の魂は今でも私達と共にいると思っている)

子供が可哀想と言う声もあるが、子供は親が思う以上に逞しく、置かれた環境の中で揉まれながら、成長して行く(そうでなければ、その後も続く長い人生を生きぬいて行けない)

親の感情は子供にも伝播するので、親がいつまでもウジウジクヨクヨしていては、それこそ子供の心を萎縮させてしまう。親はいろいろな意味で「鈍感」なぐらいが良いのかもしれない。

「ママ友」関係に悩んだりするのも、その世界が全てだと思うからで、その閉塞感から脱するには、自ら世界を広げて行くしかない。

子供が小さいうちは地元からちょっと離れて、親子で公園や映画館や図書館や動物園や美術館に出かけたり、自治体の主催する子育てサークルに参加したりしてやり過ごし、少し大きくなったらパートに出たり、自分の趣味やボランティア活動で子供を抜きにした友人を見つけたりと、いろいろ方法はあるはずだ。

番組でも言っていたが、愚痴は母親や姉妹や、遠くの友人にこぼしてストレス解消に努める。本来なら、夫も聞き役に回って欲しいところだけれど、ママ友世代の夫は年齢的にも仕事で多忙な人が多いのだろうか。


自分なりに楽しく、幸せを実感しながら生きたいのであれば、けっして他人を羨まず、(幸せになりたいと自分なりに努力することを前提として)自分の生き方を肯定的に捉え、できるだけ笑顔で過ごすこと。これに尽きると思う。

自分を幸せに出来るのは、夫ではなく、ましてや"不幸な他人"でもなく、自分自身〜自分の心の在り方〜なのだと思う
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2014/6/28

円卓 こっこ、ひと夏のイマジン  映画(今年公開の映画を中心に)

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 飽き性の私が美術館のボランティアを10年以上も続けているのは、ひとえに子供達に会えるからである。特に小学生が可愛くて堪らない。

 元々は社会人入学した大学で美術史を専攻して、卒業後も何らかの形で美術と関わり続けたいと言う思いから美術館でのボランティアを始めたのだが、今では美術作品以上に子供達の魅力の虜となって、美術をダシに子供達に会うのがボランティア活動の最大の楽しみになっているようなフシがある(美術館の皆さん、ごめんなさい)

 特にひとり息子が成人して、子育てにひと区切りついた辺りから、小さな子供達を見かける度に、幼い頃の息子の記憶と重ねて、懐かしさと愛おしさがこみ上げて来るようになった。子育てのただ中にいた時には自分に余裕がなかったせいか、今になって、あの頃が自分の人生の中でかけがえのない宝物のような日々だったことに気付いたと言う感じだ。

 映画「円卓こっこ、ひと夏のイマジン」は、主人公こっこ、こと渦原琴子ちゃんの日々の"冒険"〜そう、日々新たなことに出会う、好奇心旺盛なこっこちゃんの日常はまさしく冒険の日々である〜を描いて、小学生にメロメロな私を魅了して止まない。

 <教室で、妄想のひとり舞台をノビノビと演じているこっこちゃんの傍らで、鼻をほじっている男の子の姿が、何だかリアルで楽しい…>
クリックすると元のサイズで表示します こっこちゃんは小学3年生。両親、祖父母、3つ子の姉と共に、大阪千里?の公団住宅に住んでいる。

 玄関のドアを開けると目の前にダイニングキッチン、と言う開けっぴろげで気取りのない間取りが、いかにもアパートらしいと言うか、昔懐かしい佇まい(友達の家を訪ねたら、おもてなしに決まって出て来るのがカルピスなんて、いつの時代の話なんだろう?もしかして設定は、原作者の子供時代なのかな?)

 けっして広くないDKの中心にドーンと鎮座する、中華料理店にあるような朱色の円卓が、これまた気取りが無く、おそらく8人と言う大家族が1度に食卓を囲む為の苦肉の策なんだろうけれど、何だか微笑ましくもあり、こっこちゃんの家族の温かさが伝わって来るような道具立てになっている。実際、毎回、この円卓を囲んで繰り広げられる渦原家の食事のシーンは賑やかで、楽しそうだ。

 この渦原家を見て思うのは、他人を思いやる優しい心は、子供の頃から温かい愛情を受けて育つものと言うことだ。基本的に、人は自分が与えられたものしか、他人に与えることが出来ないのだと思う。そして自分に足りないものは、想像力で補うしかない(皆が皆、愛情豊かな環境の下で育つわけではないから、この"想像力"と言う能力は、人が生きて行く上で本当に大切で、必要なものだと思う。幸いなことに想像力は、意志さえあれば、自ら育てることができるものである)

     <大皿に盛られた数点の料理。笑顔に囲まれた円卓の上でグルグル回る>
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 本作は小学3年の1学期から夏休みを経て2学期に至る、こっこちゃんの成長を描いていて、学校生活での、こっこっちゃんを取り巻く友人達や先生との関係も、子供目線でリアルに描かれていて興味深い。

 想像力豊かなこっこちゃんは、ややもすると妄想に突っ走ってしまうのだが、学校の雰囲気は総じてそれを許容する大らかさがあり、見ていてホッとする。今よりノンビリした時代の話なのか、あるいは大阪と言う地域性なのか?

 そう言えば、3年前の大阪1泊旅行で、天王寺動物園で居合わせた遠足の小学生の会話が、とても楽しかった記憶がある。チンパンジーとオランウータンの食事のサンプルを前に丁々発止のボケとツッコミで、まるで漫才を見ているようだった。元気いっぱいで、ケラケラとよく笑う子供達だった。

クリックすると元のサイズで表示します 吃音に悩む幼なじみのぽっさんや、クラス委員を務める朴くんにまつわるエピソードでは、真っさらな心で世界を見るこっこちゃんの感性が、既に心が偏見で塗り固められたオトナの私には新鮮だった。

 結局、子供の真っさらな心に、さまざまな色を着けるのは周りのオトナや、巷に溢れる情報であったりする。その結果、人は成長するにつれ、さまざまな色メガネで世の中を見るようになる。良くも悪くも、それがオトナになると言うことなのかもしれない。

 だから、子供の素朴な好奇心から発せられる質問や、何ものにも囚われない自由な発想は、時にオトナの虚を突いて、オトナを驚かせる。さらにオトナには当たり前なことが、子供にはまだ理解できず、いざそれを子供が知り得る限られたボキャブラリで説明しようとすると、これが案外難しい(単に、私が下手クソなだけなのかもしれない。劇中の平幹二朗さん演じる祖父は、こっこちゃんにも分かるよう上手に説明していた)

 息子が小1の頃、こんなことがあった。息子が台所の私の元に来て、何の前触れもなく「お母さん、お母さんがお父さんと結婚して良かったことは何だと思う?」と聞いた。突然の質問に上手く応えられなかった私に、息子はニコニコしながら言った。「あのね、ぼくが生まれたことだよ。お母さん、ぼくが生まれて来て、良かったでしょう?」

 予想外の、息子の素直な喜びに溢れた言葉に、私は心底驚き、思わず息子を抱きしめた。もう20年近く前の出来事だが、今でも思い出す度に心が温かくなる。

 また、先月、一緒にTDLに行った幼い姪は、常に身近にいないせいもあるが、伯母である私が自分の母親の姉で、祖母の娘であることが今ひとつわかっていないようである。説明を試みたが、彼女が理解したかどうかは、正直、自信がない。残念ながら、未だに"たまに会う親戚のおばちゃん"程度にしか思っていないのかもしれない(笑)。

クリックすると元のサイズで表示します 思えば子供時代は、今はオトナの自分にも確かにあったはずなのに、既に遠い記憶の彼方に追いやられている。そのせいか、しばしば子供の心が理解できず、子供が不思議な生き物に見えてしまう瞬間がある。

 映画の中で、こっこちゃんが紡ぐエピソードの数々は、そんなオトナの、どこか懐かしく、時に甘酸っぱい子供時代の記憶を呼び覚ましてくれるようだ。月並みな表現だが、昔子供だったすべてのオトナに、是非見て貰いたい作品だ。そして、子供だった頃の自分を思い出して欲しい(たとえ辛い思い出の方が多かった子供時代でも、身近に自分を見守ってくれるオトナや、助けてくれる友達が、必ずひとりはいたと思うよ。その存在が生きる支えとなって、今があるのだと思う)

 主人公こっこちゃんを、名子役の誉高い芦田愛菜ちゃんは、喜怒哀楽豊かな表情でノビノビと演じて、素晴らしい。実は彼女を映像で見るのは「阪急電車に乗って」以来なのだが、名声が高まるにつれて子供らしさを失ってはいないかとの心配は、少なくともスクリーン上の彼女の溌剌とした姿を見る限り、杞憂だったようだ。子役としても、ひとりの女の子としても、今の輝きを失うことなく成長して行って欲しいと思う。

「円卓 こっこ、ひと夏のイマジン」公式サイト

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2014/6/27

マイノリティの悲哀  日々のよしなしごと

ボーナスが出たので、夫の仕事用の靴を買いに行った。

これまで10年余り、同じメーカーの同じ型の靴を3足、ローテーションで履いて来た。昨年辺りから3足共傷みが目立って来たので、私が「そろそろ買い換えたら?」と言っていたのだが、倹約家の夫はなかなか首を縦に振らなかった。

昨年の今頃、休日用の靴も傷んで来たので、仕事用の靴と同じメーカーの直営店舗に行って、新しい靴を買った。その時に、夫は生まれて初めて、専用の機械で足のサイズを計測し、正確な足のサイズを知った。

これまで28cm〜29cmの靴を店頭で試して買って来たが、実際のサイズは右足が29cm、左足が28.7cmだった。本人も初めて自分の本当の足のサイズを知って驚いていた。「思っていた以上に大きかったんだなあ…」生まれてから60年近く経って、初めて知る自分のサイズ。

しかし、この時点で、カジュアルシューズのサイズ展開は最大が28cmだった。しかも店頭にはなく、メーカ在庫から取り寄せになった。以前は確か30cmまであったはず。店員が言うには、ビジネスシューズなら30cmまであるらしい。

数日後に店に届いた28cmサイズのカジュアルシューズは、履けることは履けるのだが、夫は少し窮屈かな、と言った。しかし、それしかないのだから仕方ないと諦めた(何より、このメーカーの製品には全幅の信頼を寄せて来たので)

私はこの分だとビジネスシューズもいつなくなるか分からないから、今のうちに買えばと夫に進言した。しかし、夫は今はまだいい、と言って首を縦に振らなかった。

それから一年後の先日、同じ店から新商品のDMも届いたので、新しいビジネスシューズを買いに行った。すると、既に商品のラインナップから28.5cm以上の靴が消えていた。在庫も無いと言う。

ほら、言ったじゃない。今あるうちに買っておきましょうって。

履き心地が良く、長時間履き続けても疲れない、10年以上(15年近く?)も愛用していた靴である。それがメーカーの方針転換で、今後一切、入手出来なくなった。とても残念だ。

若い男性店員は、規格外の客は接客しても仕方ないと思っているのか、何となくつれない態度だったので、早々にその店を出て、その足で「男の大きい靴」を売りにしている店に向かった。

夫は幼少期、父親の失業や交通事故による長期入院で家が貧しく、靴が破れても、足に合わなくなっても、親に靴を買って欲しいと言えずに、我慢し続けたそうだ。いつだったか、「ほら、こんな風に」と足の指を不自然に折ってみせたことがあった。幼心に痛かっただろうな、苦しかっただろうなと思うと、私も悲しくなった。

以来、倹約家ではあっても値段を気にせずに、自分の足に合った靴を買うようにと、夫には言い続けて来た。新婚の頃は夫婦共にどんな靴を買えば良いのか分からずに、近所の靴店で1万円程度の靴を買って、2、3カ月で底が取れてしまう失敗もあった。その後、有名どころではリーガルの靴を買うなどして来たが、15年程前に、今履いているメーカーの軽量で柔らかな革が心地良い、サイズもピッタリな靴と出会い、今まで愛用して来たのである。それが、もう手に入らない。昨年まではあったのに、今年はもうない。本当に残念に思う。

結局、メーカーが経営の効率化を図る為に、少数派のビッグサイズは斬り捨てたのだろう。今回は仕方なく別のメーカーの商品を買ったのだが、有名メーカではあるものの、値段は今までの物の半額で、私の正直な気持ちとしては、安くて良かったと言うより、堅牢性はどうなんだろうという不安の方が大きい。現役生活が残り10年を切って、せめて快適な靴で仕事に頑張って欲しいと思う妻としては、何とも残念なメーカーの決断である。夫も1年前に、私の言葉に耳を貸してくれていたなら…


効率化を追求すると、少数派が斬り捨てられる。これは今回の靴の件だけに留まらない話のような気がする。
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2014/6/26

向き不向き  はなこのMEMO

FIFAワールドカップ・ブラジル大会での、日本代表のグループリーグ敗退の結果に、ふと思ったこと。

島国育ちの農耕民族である日本人は、サッカーと言うスポーツに向いていないんじゃないかな?

日本人は極東アジア人の中でも小柄で華奢な印象が否めず、大陸系の中国や韓国のアスリートとは骨格からして違うような気がする。欧米・アフリカ勢とは比べるべくもない。彼らとの体格差及び体力差の溝は、人種的な優劣(←あくまでも体格と体力ね)もあるだろうから、埋まるのは難しそうだ。バッドやグローブ等、種々の用具を使う野球のようなスポーツならば、用具の改良や、それを使いこなす技術力で以て多少なりとも埋まる溝も、サッカーのような用具を殆ど使わず、個々の身体能力を極限まで高めて勝負するスポーツでは、今後も日本人は(現実的な話、例えば白人や黒人との混血化が進まない限り)、欧米やアフリカ勢に太刀打ちできないのではないか?

また、一般的に日本人の気質は穏やかである(←別の言い方をすれば"甘い"?"ユルイ"?"平和ボケ"?)。歴史的に見れば、多民族がひしめくヨーロッパやアフリカと違い、四方を海に囲まれた島国と言う地理的条件もあって、国境を接する隣国との争いに巻き込まれることも殆どなかったことが、ややもすると闘争心に欠ける日本人の気質を醸成したのかもしれない。

狩猟民族と農耕民族と言う違いもある。獲物を追って日々山野を駆け巡っていた狩猟民族の末裔と、季節の移ろいに合わせて農作物を育てていた農耕民族の末裔とでは、まずスタミナが違う。動きの俊敏さも違うだろう。それぞれの環境に適応し、連綿と受け継がれて来たDNAはおいそれとは変えられまい。

さらに、四季の変化に富んだ比較的穏やかな気候(近年はそうとも言えない異常続きだけれど)のもと、戦前はともかく、現代は経済的にも豊かであり、徐々に欧米に近づきつつあるとは言え、未だに他国ほど階級格差が大きな社会でもなく、激烈な生存競争をしなくても生きて行ける環境で、多くの日本人は育つ(日本人選手はスポーツ少年団のようなところでサッカー人生をスタートさせた中流家庭出身者が多いのではないか?欧州の有名選手は、移民や貧困家庭の出身者が多いような気がする。中流以上の出身者はテニスやゴルフを志向か?)

そのような環境で育った日本人が、アスリートとしての成功がそのまま生活の豊かさ、社会的ステータスの向上に繋がる南米やアフリカ等の海外の選手のようなハングリー精神を持ち合わせていないのも、仕方のないことなのかもしれない。

サッカーを「フェアプレイ精神で戦うスポーツ」として見るか、或いは、「国と国とのプライドを賭けた闘い」「個人の命を賭した下克上の闘い」と見るか。日本の選手と海外の選手とでは、モチベーションに、それぐらいの温度差を感じる。

何より闘争心溢れる海外の選手は、勝つ為には手段を選ばない。激しくぶつかり合う肉弾戦を厭わず、時にはアンフェアな小狡いプレイをする。日本人選手にはそれが出来ない。攻撃陣にも「俺が点を取るんだ」と言う、相手ディフェンス陣に果敢に斬り込んで行くアグレッシブさが欠けている。そんなこんなで、日本人選手のプレーには、他国の選手ほどの「勝利への執着」が感じられない。

結局、日本には(語弊があるかもしれないけれど)民族的に、サッカー強豪国になれない条件が揃い過ぎている。つまり、"あくまでも勝ち負けに拘るのであれば"、サッカーと言うスポーツは、日本人には向いていないんだと思う(今後、噂されるメキシコ人監督の起用で、小柄な日本人が屈強な欧米アフリカ勢に対抗できる中南米流の戦術を学べば、少しは世界との差は縮まるかもしれないけれど、それでもなお世界の強豪国に名を連ねるのは難しいかも。中南米の選手は比較的小柄と言っても、やはり大陸で高地育ち。さらにストリート・サッカーからのし上がって来た人達です。心肺機能等、体力的にも、またメンタリティでも日本人に優るでしょう。その前提あっての中南米流の戦術です。だからと言って、サッカーをすること自体が無駄とは言っていません。素晴らしいスポーツのひとつだと思いますし、日本人がそれを楽しむ権利は当然あります)

そのプレースタイルがシンプル(つまり、道具を使わない、純粋に身体能力が問われるスポーツ)であればあるほど、日本のような島国アジア系のアスリートは明らかに不利だ。体格や身体能力で劣るのを、技術力でカバーするのにも限界があるだろう。

だから同様に、日本人がオリンピックで思うようにメダルを獲得できなくても、私達日本人は落胆することはないのだ。単に"日本人がその持てる資質で勝負するには向いていない"競技に挑戦しているからだと思えば良い。仮に2020年の東京オリンピックで、開催国でありながらメダルを思うように獲得できなくとも(国体もそうだけれど、開催地だからメダルラッシュが当然と言う風潮もどうなんだろう?幾らホームゲームでもね)、日本人は、クーベルタン男爵の?「オリンピックは参加することに意義がある」を体現しているのだと、堂々と胸を張れば良いのではないか?(しかし、スポーツ・ビジネスも巨額化しているから、ある程度強くないと、否、強さを演出して国民の注目を集めないと、何かと不都合なんだろうね)

もちろん、日本人に向いたスポーツもあるはずだ。小柄であること、身軽であること、正確な動きを得意とすることがアドバンテージなるスポーツ。体操競技なんて、まさしくそうではないだろうか?残念ながら、数はそれほど多くないだろうけれど。

言うまでもなく、身体能力と言う点で言えば、黒人は最強のアスリートだろう。近年、科学的トレーニングを取り入れたエチオピアやケニアが、マラソンで圧倒的な強さを見せている(結局、昔の彼らは、きちんとしたトレーニングを受けることなく、身体能力任せで走っていただけなんだろうね?)。彼らに最強の身体能力と技術が揃ってしまった時点で、今後は日本人の努力や技術をもってしても、彼らには太刀打ちできないような気がする。人種的差別が存在するせいか?、黒人選手が殆どいない水泳競技でも、黒人選手が本格参戦すれば、すぐさま白人を押しのけて頂点に立つんだろうね。

さすが、人類の祖先がアフリカで誕生しただけのことはある。
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2014/6/24

「お天道様が見ている」と言う感覚  日々のよしなしごと

自分の間抜けぶりが情けないやら、腹立たしいやら…先日、駅前で幾つもの買い物を済ませ、最後に立ち寄ったファーストフード店で、うっかり傘を忘れてしまった。

まだ、買って間もない、殆ど使ったことのない新品同様の傘である。不覚にも忘れたのに気付いたのはバスに乗ってからで、すぐさまファーストフード店のレシートを財布から取り出し、店の電話番号を確認した。もちろん、車中では電話できないから、ひたすらバスを降りるまで、忘れた傘が誰かに盗まれでもしないかとヤキモキした。

バスを降りてすぐに、件の店に電話した。そこは電話注文も受け付けているからなのか、いかにも営業用の女性の元気な声が耳に飛び込んで来た。「ハイ!○○・△△店です!」

その勢いに少し戸惑いつつも(オーダーの電話でないことを申し訳なく思いつつ…)、私はレシートを見ながら用件を述べた。
「お忙しいところ申し訳ありません。○時○分にそちらを利用した者なのですが、どうも傘を忘れたようなのです。店の○○の辺りに座っていた者なのですが、そこに傘の忘れものはありませんか?」

すると、声の主は自分はアルバイトの○○だと名乗り、トーンダウンした声で、「少々お待ち下さい。(少し間を置いて)今のところ、傘の忘れ物のお届けはないようです」と答えた。

どうも返答が早すぎたし、しかも店内の忘れ物を保管している場所を確認しただけのように聞こえたので、私は自分の傘の特長を述べて、自分が座っていた場所に傘の忘れ物はないのか、再度尋ねた。

しかし、少ない人数で接客、調理、片付けなどして、忙しい店を切り盛りしているファーストフード店である。電話対応している彼女にも、他のスタッフが容赦なく現場作業の進捗状況を確認して来る。それに応える電話口の彼女。

「見つかったら電話します」と言われたので、彼女に私の名前と自宅の電話番号を伝えて、電話を切った。この間、傘を忘れてから20分ほどの出来事である。結局その後、店から電話はなかった。

私はもう傘は盗まれてしまったものだと、ほぼ諦めていた。傘を忘れてから3日後、たまたま駅前に出る用事があったので、夫にも促されて、ダメモトで件の店を再訪した。

にこやかに応対する年配の女性スタッフ。「実は…」と切り出す私の目に、ポーチと思しき物が飛び込んで来た。それは、コンビニのレジカウンターにもあるような客側に突き出た、客の手荷物の一時置き場用?のミニカウンター上にあって、スタッフからはちょうど死角になっていた。

「あ…、ここに忘れ物があるようですよ。財布かしら?」ポーチと思しき物をスタッフに手渡すと、スタッフは心当たりがあったのか、即座に客席に向かった。どうやら、直前の客が忘れた物だったらしい。

(あるかどうか分からないけれど)忘れ物を取りに来た客が、別の客の忘れ物に気付く。何と言う偶然何と言う皮肉ただし、これは良き前兆であったりする

こうなると前回の電話より自分の用件を切り出し易い。自分は3日前に傘を忘れた者で、その後、傘が届けられていないかと尋ねた。するとすぐさま若い男性スタッフが、店の奥から見覚えのある傘を持って来てくれた。私の傘だ!私の傘が戻って来た


ここで、補足説明を。

クリックすると元のサイズで表示します自分の間抜けぶりに地団駄を踏んだのは、傘を忘れるほんの数分前に「傘を忘れないおまじない」として、自分の右手の甲に傘の絵を自ら描き込んでいたからである。これは大きな傘を使用する時にはいつもやっていることで、よく目に付く手の甲に傘を描くことで、忘れ物を予防しているのだ。「忘れませんように」と心で念じつつ傘の絵を描くと言う一連の行為で、忘れ物への注意が喚起され、予防効果があると信じてやっていることなのだが、しかも直前にやったにも関わらず(まあ、帰りに荷物が大幅に増えてしまったこともあるけれど…)、今回忘れてしまった。そんな自分に腹が立ったのだ。

傘が盗まれたと思い込んでいたのは、以前、台風直撃直前に、牛乳を買いに行ったコンビニの店頭で、傘を盗まれたことがあったからだ。牛乳2本を買うだけのほんの数分の間に、コンビニ入口脇に置かれた傘立てから、私の傘は盗まれてしまった。コンビニには通常監視カメラがあるので、店員に確認したら、ちょうど傘立ては死角だと言う。お気に入りの傘だったし、その後濡れて帰る羽目になったので、悔しくて未だに忘れられない。以後、(結局、コンビニは傘の盗難に関して責任を取ってくれないので)床が濡れてしまうのを店員さんには申し訳なく思いつつも、コンビニやスーパーでは、傘は持ったまま入店するようにしている。

上記に繋がる話だけれど、ファーストフード店の女性スタッフのぞんざいな(無責任な?)対応は、仕方のないことだと思っている。スタッフは安い時給で何ら保障もないまま散々働かされているのに、客の不手際まで面倒は見切れまい。"だからこそのファーストフード"でもあるのだから、客は客で多くのことを、店やスタッフに対して望まないのが当然だろう。

ただし、元々はファーストフードやコンビニエンスストアといった業態が、合理主義の徹底した米国から移入されたものとは言え、それが日本国内で根付き、本国と同等、或いはそれ以上に発展したのは、合理主義を越えた日本ならではの細やかなサービス精神の賜物と言える。企業がそれを経営戦略とした上で、さらに現場で働くスタッフ個々の善意(だから、究極のところ個々のスタッフによってサービスの質は違う)に支えられている部分が大きいだろう。実は、その日本人の"損得勘定を越えた善意"こそ日本の社会を支える礎であり、失って欲しくないものである。

そして、それを失ってしまうほどの負荷を、働く人に与える企業の在り方は、間違っていると思う。そうした企業の在り方を是認する政府も同罪。目先の利益を追求するあまり社員を消耗品として扱えば、いずれ人材は枯渇し、企業経営が立ち行かなくなるのは自明の理。結局、企業を支えているのは社員なのだ。同様に、この国を支えているのは国民である。国家の根幹を揺るがす少子化現象は、国民<特に若者>を蔑ろにする政府に対する、国民の声なき抵抗ではないのか(ただ、若者は"選挙への投票"と言う形で、意思表示はきっちりすべき)。人の善意に頼るのも大概にしろ、と言うことだと思う。


忘れ物を見つけたら、しかるべきところに届けるのは当然で、他人の物をネコババなんてもってのほか。目の前に困っている人がいたら、手助けするのも当たり前のこと。人に見られていようが、見られていまいが、正しいことをする、人の道に外れたことはしない。これは昔から言われる「お天道様が見ている」と言う感覚で行動すると言うことだろう。この感覚は大事にしたい。別に、「人から褒められたい」わけでもなく、「良い人だと思われたい」わけでもない。自分がひとりの人間として、どうあるべきか。どうありたいのか。それを行動規範に、どう振る舞うか。ただそれだけ。

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2014/6/20

初めて見た!  携帯電話から投稿

ヒマワリって、
こんな風に
花が咲くんだね。

季節は確実に
夏に向かっている。

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2014/6/13

梅雨の晴れ間  携帯電話から投稿

見上げると、
緑濃いコブシの背景に、
雲ひとつない真っ青な空。

耳に聞こえて来るのは、
高らかに歌い上げるような鳥の囀ずり
(何種類かの鳥が、まるで輪唱しているみたい)

視線を下ろせば、
目前に、
足取りも軽やかな散歩の柴犬。

マンションのベランダでは、
カラッと乾いた洗濯物がはためいている。


風薫る、清々しい梅雨の晴れ間のひとコマ、かな。


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2014/6/10

意外に知らない兄弟姉妹のこと  家族のことつれづれ

先日、2泊3日の日程で姪と共に上京して来た妹。これまで何度か上京して来たと言うが、当地で私と会うのは初めてであった。これまではいつも慌ただしい上京で、そんな余裕はなかったらしい。今回は旦那さんと中高生の甥っ子達抜きでの上京という気安さもあったのかもしれない。

4人兄弟の末妹と言うこともあって、妹とは10歳も年が離れている。10人兄弟の私の母など、長兄と末妹では親子ほどの年の差があり、末妹に当たる叔母は私と7歳しか離れていなかった。因みに私の従兄弟に当たる叔母の息子は、私の息子と同い年だ。それからすれば、10歳差など大したことではないのかもしれないが、私が就職で上京の為実家を出た時に、妹はまだ中学生になるかならないかの年であり、その後、あまり会う機会も殆どなかったので、思春期以降の妹のことを、実は殆ど知らない。

逆子だった妹は医師の処置ミスが原因だったのか、両股関節脱臼の状態で産まれ、3歳過ぎまで、コの字型に開脚した状態で股関節をギプスで固定していた。

石膏で固めたギプスも加わった妹の重量はかなりのもので、そのギプスの形状から普通に抱っこすることもできず、当時まだ小学生だった私が抱えるのは大変だった。それでも多数の"証拠写真"が残っているから、私なりに一生懸命、姉として妹を可愛がっていたのだろう。それを知ってか知らずか、妹は思春期以降あまり会っていない割には、私のことを慕ってくれている。

今回2日間、その妹と寝食を共にして、私がこれまで知らなかった妹の一面を知って、"彼女"と言う大きなジグゾーパズルの空白の部分に、ピタッと幾つかのピースが嵌ったような気がする。

詳細は省くが、その所作振る舞いに、40歳を過ぎたのだからもう少し大人としてのたしなみを身につけて欲しいと思ったり、3人の子育てをしながら働く母親としての逞しさに、自分にない頼もしさを感じたり、同居する気難しい姑との関係に悩む姿に同情したり、初めて聞く、自分の生まれ育った家庭に対する彼女の複雑な思いに驚いたりと、生身の妹を実感することができた。

また、妹を通して知る弟の姿も興味深い。そこには母から伝え聞く弟像とはまた違った一面が垣間見えた。普段、遠距離に住み、疎遠だからこそ知り得ない事実がいろいろとあった。

そして今回の経験で、妹との心の距離が確実に縮まったような気がした。私は元々クールな人間で、育った環境も相俟って血縁にあまり情を感じない人間だけれど(←息子と姪っ子は別)、妹とは姉妹の絆を改めて感じたような気がする。
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2014/6/10

エレベーターで悲喜こもごも  日々のよしなしごと

ショッピングビルのエレベーター。3基あれば、少なくともどれかひとつは違う動きをすれば良いのに、なぜかすべて揃いも揃って上りだったり、逆に下りだったりと、シンクロすることが多いような気がする。

私は間の悪い人間なのか、しばしばエレベーターの動いた直後にホールに到着し、待ち行列?の先頭に当たってしまう。そういう時に限ってエレベーターはなかなか来ず、ホールは待つ人でいっぱいになる。

そうなると、別に義務感に駆られるわけでもないけれど、私はエレベーターに真っ先に乗り込むと、操作盤の前に立って、エレベーターガールならぬエレベーターおばさんになって「開」のボタンを押すことになる。やはり大勢の人間が乗り込む途中でドアが閉まらないとも限らないからだ。同行の夫はそんな私にお構いなしにサッサとエレベータの奥へ。


先日のこと。大勢の人がショッピングモール内を行き交う中、珍しくエレベーターホールには私ひとりだった。ほどなくエレベーターが到着し、私が乗り込んでドアが閉まりかけたところで、誰かが外のボタンを押したらしく、ドアが再び開き、息せききった男性が乗って来た再びドアがしまりかけた…その時、またもやドアが開き、今度はふたりの女性。再びドアが閉まりかけた途中で、さらにふたりの女性…、もう勘弁してよと思っていたら、またまた閉まりかけたドアが…4度目は他のエレベーターが到着したのか、結局、誰も乗って来なかった

その間、私は慌てて「開」のボタンを押すこと4回。私は思わず"Oh my god"と呟いた。少し待てば次のエレベーターが来るはずなのに、ほぼ閉まりかけたドアに飛び込んで来る人がたまにいる(今回はそれが4回も立て続けにあったからビックリしたどれだけせっかちなんだよ)。これは電車の駆け込み乗車と同様で、危険な行為だと思う。実際、エレベーターでは稀に死亡事故も発生しているのだ。


次はデパートで。4階でエレベーターを待っていると、上階からエレベーターが降りて来た。中には年配の夫婦と家族連れが一組。操作盤の前には年配夫婦のご主人が立っていた。そこに私達夫婦と他に2、3人が乗り込んだ。地階まで行く予定だったが、エレベーターは各階止まり。その度に件のご主人が「開」のボタンを押し続ける。その年配のご夫婦も地階で降りるつもりだったらしく、最後まで一緒だった。

人の良さそうなご主人は他の乗客が降りる間、律儀に「開」のボタンを押し続けている。私は内心感心しながら、降りる際に会釈しつつ「どうもありがとうございます。」と御礼を述べた。すると間髪を入れず、後方にいた奥さんが「あんた降りないの?」と大声をあげた。最初に乗ったのに、後から乗った人にどんどん先を越されて、結局、最後に降りることになったのが余程腹立たしかったのか、奥さんは「何やってんのよ」とご主人を諫めた。

奥さんの強気な物言いに、ご夫婦の普段からの力関係が透けて見えるような気がした。奥さんに怒られて、悛(シュン)となったご主人。何も悪いことをしていないどころか、寧ろ紳士的で、立派な行為なのにね。

奥さんの剣幕に気圧されて口にすることはなかったけれど、もし私が「優しいご主人をお持ちですね」なんて言ったら、奥さんはどんな反応を見せたのだろう?


もちろん、エレベーターでは以前にも書いたように、思わず心がほっこりするような出来事もある。小さな"淑女"が満面の笑顔で「こんにちは」と挨拶しながら乗って来たり…


普段、何気なく利用しているエレベーターだけれど、そこでも悲喜こもごものドラマが日々、展開しているようだ
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2014/6/4

日本人離れした?息子  家族のことつれづれ

最近、息子の所属する研究室に、東南アジアから短期留学生が来たらしい。

互いの自己紹介で件の留学生から、息子は只1人"Where are you from?"と聞かれたそうである。つまり、息子も留学生と間違われたようなのだ。しかも息子は名前が些か変わっていて、夫が中国の詩の一節から取ってつけた名前なので、その音の響きにも、留学生は日本ではない異国の香りを感じ取ったらしい。

実は、このような誤解は初めてではない。大学院に入った当初も、息子は他の新入生から、英語で出身を聞かれている。茶目っ気のある息子は、そのまま留学生のフリをして"I'm from Malaysia."と答え、名前を聞かれると、なぜか"エドワード"と名乗ったそうだ。マレーシアなら、本来ムハンマドとかイスラムに因んだ名前だと思うんだけど…

結局、専攻全体の自己紹介の時まで日本人であることはばれず、後で息子が日本人であると知った件の学生は目を丸くしていたそうだ。

肌は浅黒く、細身で(身長は180cm弱)、細面に大きな目と高い鼻と大ぶりの口と言う風貌が、どうも日本人には見えないらしい。その風貌を一言で表現するなら「東南アジア風」か…おそらく件の留学生も、息子に親近感を覚えたのではないだろうか?

因みに両親は色黒ではない。父親など、平均的日本人より白い方で、どちらかと言うと「(分厚いレンズの下には大きな目が隠れているけれど)こざっぱりとしたしょうゆ顔」だ。ただ、パーツごとに見れば、しっかりと両親のDNAを引き継いでいるのが見て取れる。組み合わせの妙で「東南アジア風」に仕上がっているようだ。

息子が就職予定の企業は積極的に海外展開しているので、息子は風貌では十分、海外赴任要員になれると思う(笑)。カメレオンの如く、現地に溶け込めるに違いない。

これは喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか…日本人であることに誇りを持っている(笑)自分としては心境複雑。さらに正直に言えば、「息子が色白で西洋人風だったら、どんな気持ちだったのか」と考えると、自分に刷り込まれた「西高東低な人種偏見」が露わになるようで、これまた心境複雑。

尤も息子自身は、日本人に見られないことを気にするどころか面白がっているところがあり、それ以前にイケメンには程遠い自分の容姿が気に入らないようである。「自分はブサイクだ」と息子に言われる度に、親としては悲しくなる。
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2014/6/4

この世界を生きる  日々のよしなしごと

世界は自分が思っている以上に複雑で不条理なんだろうな。

常に正義が勝つとは限らないし、正論が通るわけでもない。そもそも正義も絶対・普遍ではなく、時代によっても、自分の置かれた立場によっても、拠りどころとなる思想や宗教や政治体制や社会体制によっても、正義の在り方は違って来る。さらに自分が常に正しい側に立つとも限らない。時と場合によっては、清濁あわせ飲む必要に迫られるのかもしれない。

正しい人が多くの支持を得るとは限らないし、不正を働く者が権力を手中に収めることもある。

かつてのような国民的コンセンサスを得るような価値観は今や殆ど存在しないし、個々の価値観でさえ強固なものではなく、何かをきっかけに180度変わることもある。

自分が信じていた人やモノに裏切られることもあるし、自分が信頼を裏切ってしまうこともあるだろう。

「そうであって欲しい」と願いつつも、努力は必ずしも報われないし、誠意が相手に通じるとは限らない。優しく誠実な人が幸せを掴むとは限らない一方で、狡猾な人が巧みに世渡りして人が羨むような生活を手に入れることもある。

悪事を働いたものが裁かれることなくのうのうと生きて、善良な人が貧窮や苦悩のうちに死ぬこともある。

生まれた国によって子供の運命は左右され、教育を受ける機会の有無も決まる。知ることのできる世界の範囲も決定づけられる。

そうかと思えば、一見飢えや貧困とは無縁な豊かな国で、無垢で罪のない子供が、狂気と悪意によって、ある日突然その命を断たれることもある。


日々見聞きするニュースや、読書で得た知識や、他者との関わりが、この世界のありようを、私に教えてくれる。

この世界で生き続ける限り、その複雑さに閉塞感や不信感や徒労感を覚えたり、その不条理にやるせなさを感じたり、ジレンマに陥ったり、時には打ちのめされることもあるだろう。

それでも寿命の続く限り生きて行くしかない。

時には厳しい現実に直面する覚悟を持って、注意深く観察しつつ、人は自分自身も含め誰もが間違いを犯す可能性があることに留意して、寛容さを備えた柔らかな心で生き抜くことが、私なりの智慧であり、目標。
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2014/6/3

「姪っ子Aちゃん、ディズニーのキャストになる」の図  日々のよしなしごと

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クリックすると元のサイズで表示します 姪っ子のAちゃんは本当に愛らしい子です。想像力豊かで、人懐こく、好奇心旺盛(←おそらく、この年頃の子は大抵そうだろうけれど)。今回も、その持ち前の天真爛漫さで、周囲を笑顔にしました (身内のひいき目もあるかもしれませんが、抜けるような白い肌に長いまつげとぷっくり膨らんだほっぺが本当に可愛いです。生まれた時は額の生え際が金髪だったそうです。今は栗色の柔らかな髪。表情も豊かで、見ていて飽きません)

 夜、寝る前には自分の枕元に、いつも持ち歩いているお気に入りの小さなロバのぬいぐるみ(「トイストーリー3」のバターカップ)を置き、ハンカチをそっとのせてあげて「はい、もうお休みね」(でも、朝起きると、ぬいぐるみはベッドから落ちていました)。 

 朝、前日の疲れもあったのか、なかなか起きられなかったAちゃん。母親に「もう、そろそろ起きなさーい」と促されて起きると、開口一番「ぬいぐるみのBちゃんは朝寝坊なの。Aちゃんも一緒に朝寝坊しちゃった」(オイオイ)

クリックすると元のサイズで表示します ディズニーランドでは、出会う人みんなに話しかけ、自分のお気に入りのロバを紹介します。「この子はね、Bちゃんて言うの。とっても朝寝坊でね、食いしん坊で、おしゃべりが大好きなの」(←って、自分のことでしょう?Aちゃん)ショップのレジのお姉さんなんか、たまたま手が空いていたから良かったようなものの、とにかく相手構わずに話かけます。みんな、それぞれに忙しいだろうに、(「夢の国」だから)辛抱強く姪に付き合ってくれます。

 Aちゃんは、その円らな瞳で、注意深く周囲を観察しています。物怖じしないので、興味を持ったことには迷わずチャレンジ。上掲の写真は、そんなひとコマ。

 突然、掃除中のキャストのおじさんのところにスタスタと歩み寄り、「おじちゃん、Aちゃんもお掃除のお手伝いしたい」と言い出しました。小さな子の突然の申し出に、おじさんは少し驚きつつも、笑顔で「手伝ってくれるの?ありがとう」と手にしていたほうきとちりとりをAちゃんに貸してくれました。ついでに、被っていた帽子もAちゃんの頭にのせてくれました。

 ウンなかなか板についているよ!Aちゃん

クリックすると元のサイズで表示します 親切なおじさんは、「こうして、こうすると良いよ」と掃除のコツをAちゃんに指南。のみこみの早いAちゃんはあっという間に、周囲の落ち葉を片付けました

 「お嬢ちゃん、上手だねえ。手伝ってくれて、どうもありがとう。おじちゃん、助かったよ」とお掃除担当のおじさんが言ってくれました(←いろいろと気遣って下さってありがとうございます。)

 褒められると、やっぱり嬉しい。Aちゃんは「あー楽しかった」と満足げ。母親曰く、いつも「Aちゃんが掃除機かけてあげる」と言っては、掃除を手伝ってくれるそうです。なかなの働き者のようで…このまま、この気持ちを忘れずに、大きくなって欲しいなあ…

 この直前には、混雑した中でお気に入りのぬいぐるみと同じ物を目ざとく見つけると、修学旅行中と思しき制服姿の女子高校生に一直線に駆け寄り、「お姉ちゃんもBちゃん大好きなの?Aちゃんと一緒ね。Bちゃんてね、朝寝坊で、食いしん坊で…」とまくしたてました。メイクバリバリのイマドキの女子高校生も、Aちゃんの天真爛漫な愛くるしさには抗えず、しばらく話に付き合ってくれました(同じキャラクター好きの)お友達が見つかって良かったね!Aちゃん!

 とにかく人懐こい笑顔が愛らしいAちゃんですが、その人懐こさにつけこむ悪い人間もこの世の中には少なからずいるので、おばちゃんはチョット心配です

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