2014/4/1

だからこそ必要  はなこ的考察―良いこと探し

修学旅行シーズンになると、地方から来る生徒さん達を対象にギャラリートークを実施することも多い。

学年単位で大挙して幾つかの施設を訪問していた私の時代と違い、最近の修学旅行は少人数のグループ単位で、生徒さん達自らが旅行前に興味のある場所の下調べをし、スケジュールを組んだ上で、行動しているようだ。

これまで彼らから聞いた限りでは、美術館訪問を組み込んだスケジュールの場合、最初に秋葉原でアニメ関連の施設、次いで上野の美術館を見学し、最後に駅隣接のアメ横でお土産を買う、と言うコースが多かった。無駄のない動線で、内容も硬軟バランスよく取り混ぜた、よく考えられたコースだと思う

上記のケースだと、生徒さん達の自発的な訪問なので、ギャラリートークも比較的スムーズに行くことが多い。

その一方で、過去には、旅行社のお膳立てで美術館に来た生徒さん達もいた。彼らの意思に関係なく、堅苦しそうな美術館に無理矢理連れて来られたと言う気持ちが強いのか、初対面から彼ら(彼女ら)は「別に好きでここに来たわけじゃないし」と言う態度で斜に構えて、作品をじっくり見るでもなく、ましてや作品についての感想を述べることもなく、挑むような目でトーカーの私を見つめるのであった(なんで、私につっかかって来るねん?私があんたらに何や悪いことしたんか?←その時の私の心の声)

こうしたケースでは、生徒達の不真面目な態度に業を煮やして、トークを途中で切り上げたスタッフもいたらしい。

彼らがそんな態度では、ギャラリートークも成立しない。そんな時は美術館をゆっくり巡回して、作品を少しでも見て貰おうと、私はとにかく忍耐強く彼らを案内した(←まあ、気持ちが顔に出ていたかもしれないけれど)。最後まで彼らの態度は変わらなかったが、途中で離脱する生徒もいなかった。

内心腹も立ったが、ここで私が気持ちを切らし、お互い気まずいままで別れてしまったら、彼らにとって、美術館は最悪の思い出の場所になってしまう。彼らはもう2度と美術館に足を運ぶこともないかもしれない。教育普及ボランティアとしては、どうしても、それだけは避けたかった。

不真面目な態度を理由に突き放すことは簡単である。しかし、それではボランティア活動の目的である教育普及が失敗に終わったことになってしまう。

改めて考えてみれば、地方の、地元に美術館や博物館はあったとしてもなかなか行く機会のない、そういったものとは縁遠い環境に置かれた生徒達にとって、今回の美術館訪問は、旅行社によるお膳立てとは言え、またとない機会であったはずである。

否応なく連れて来られた場所で、彼らは見たこともない世界に触れた、と言える。日常の生活では知ることのない分野に触れる機会を持てた、と言える。これまでに何度も引用しているが、美術教師曰く「子どもは皮膚で吸収する」。美術館で目にした作品、個性的な建築、美術館の独特の匂い、雰囲気。それらは確実に彼らの皮膚を通して、彼らの中に取り込まれたはずである。確実に彼らは美術館を「体感」したのである。これこそが、「人格の陶冶」たる教育の役割と言えるのではないだろうか?

それは、地方に生まれ育った私には身に染みて感じることだ。彼らは、かつての私である。確かに子どもは自ら育つ力を持って生まれて来てはいる。しかし、生まれた時代、育った環境で、与えられる情報には圧倒的な差が生じる。同じ地域でさえ、親の職業や経済力、或いは教育観で、子どもに与えられる環境や情報、授けられる教育には大きな差が生じる。その差を埋める役割を果たすのが、公教育だろう。

あらゆる機会を捉えて、子ども達にさまざまなものを見せ、体験させ、子ども達の世界観を広げて行く。そうすることで彼らの"1人の人間としての可能性"を広げて行く。その人生をより豊かなものにする。これこそが教育の役割であり、特に個人差のギャップを埋めるのが公教育の役割と言えるだろう。

美術館はその重要な担い手のひとつである。その意味で、美術館における教育普及部門の役割は、けっして小さなものではないと思う。

いつの日か、「ああ、そう言えば、おばさんが一生懸命美術館で何かしゃべっていたな」と、件の生徒さん達が、美術館で見た光景と共に私のことをふと思い出してくれることがあれば、それで十分だ。



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