2012/7/31

残念なオリンピック  日々のよしなしごと

おそらくいろいろなことを犠牲にして、オリンピック目指して、直向きにトレーニングに励んで来たであろうアスリートの表情は、檜舞台で輝いている。清々しく、爽やかだ。

そんな彼らの表情を曇らせ、彼らのこれまでの血の滲むような努力に水を差すのが、審判の誤審だ。

まだ大会が始まって数日だと言うのに、日本が絡んだ誤審だけでも2件あり、選手にも日本にも非はないのに、何とも言えない後味の悪さを残している。まるで、獲得したメダルにもケチをつけられてしまったかのようだ(ただ、いつもは国際舞台で物言わぬ日本が、今回、声を上げたのは「進歩」と言えるか?(笑)オカシイと思ったら声を上げ、誤りを正すことの大切さを、体操のコーチ陣が示してくれたと言っても良いと思う)


特に体操のような採点競技は、ジャッジの公正性をどう保証したら良いのか?

技の高難度化、高速化に、人間の目が最早ついて行けないのであれば、すべてビデオ判定で演技後精査すれば良いのではないか?そうすれば、何らかの作為のつけいる隙もなくなるだろう。

素人目にも、演技直後のスロー再生映像では、日本と中国の演技の美しさが際立っている。最後まで気も手も抜かない完璧な演技だ。他国の演技が雑に見えて仕方がない。

ミスのない、しかも決勝でさらに難度を上げて来た中国の金は妥当だろう。日本は予選最初の鉄棒でのトップバッターの痛恨のミスが負の連鎖を引き起こし、それが最後まで響いたように見える(アテネ・オリンピック時のキャプテンも、そう指摘していた)。そのせいで、エース内村には相当な負担がかかったのではないか?最終演技の鞍馬での内村らしからぬミスも、彼の苦闘を物語っている。

世界選手権を経験した者でも、頭が真っ白になるほど緊張する。それだけ、オリンピックがアスリートにとって特別な大会と言うことなんだろうけれど。

そんな別格の大会だからこそ、今回の誤審続きには選手が本当に気の毒だし、見ている方もガッカリだ。
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2012/7/29

完熟マンゴー  携帯電話から投稿

遠方の友人から、完熟マンゴーのお中元が届いた♪

化粧箱を開けた途端、マンゴーの甘い香りが辺り一面に広がった


箱の中に一片の紙が入っていて、それには

「召し上がる2〜3時間前から冷蔵庫で冷やして、どうぞ。

食べ頃は7月29日〜31日」


とあったが、

書かれていた通りに冷やして、切ってみると、
完熟どころか、爛熟状態だった(笑)。

このところの酷暑で、輸送中に熟成が進み過ぎてしまったのだろうか?


とろみのある、果汁をたっぷり含んだ、爛熟マンゴーは、
口の中で濃厚な甘味を利かせた次の瞬間には溶けてしまう。

何だか勿体ないなあ…でも、間違いなく美味

Kちゃん、ありがとう〜♪おかけ様で、贅沢な気分が味わえました


写真は左から、爛熟の果実、種、切る前のマンゴー。

果実のサイズに比べて、マンゴーの種の大きいこと!
その点でも、何とも贅沢な果物である


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2012/7/27

このままで良いのか?  日々のよしなしごと

「いじめに関しては、いじめられる側にも問題がある」

昨日、知人数人と話している中であった発言だが、残念ながら、これも社会の中で大多数の合意を得ている考え方であり、社会の中から「いじめ」がなくならない原因のひとつなのだろう。

私自身は、この考え方に同意できない。なぜなら、私自身、子どもの頃にいじめられた経験があり、息子も小学生の時に、ある子どもから執拗な嫌がらせを受けたことがあるからだ。以前も書いたが、いじめの現場を見かけた友人がいじめっ子に問い質したら、「いつもニコニコ笑いやがって気に入らない」と答えたそうだ。その言葉を字面通りに受け取るのはあまりにも安易だとは思うが、その精神の幼さ、稚拙さ故に、いじめる側の論理は大抵乱暴なものだと思う。


人間も所詮動物だから、本能的には弱肉強食。他の種と比べてほんの少しばかり脳みそが大きいから、秩序だった社会を形成し、普段の生活では理性で本能を抑えてはいるけれど、何かの拍子で本能が表に顔を出す。

ある集団の中で少しでも弱みを見せた人間は、容赦なく攻撃の対象になり、強者の格好の餌食になる。たまたま攻撃を逃れた弱者も、理性より本能が勝れば保身の為に「寄らば大樹の陰」で強者側に付く。

とかく人間は社会の中で序列を作りたがり、強者は弱者を支配したがる。強者とて安泰ではなく、常に競争に晒され、上からはより強い者に抑え込まれ、下からは突き上げられ、常に自分のポジションが脅かされる。そこから来るストレスの捌け口に、より弱い人間を攻撃する。

理性では「弱い者いじめは良くない」と分かっていながら、冒頭の言葉に代表されるように、社会の中で「強者が弱者を攻撃するのは必然の理」と是認する空気がある限り、いじめはなくならない。その前提に立てば、何らかの弱みを持った人間は、その程度の差こそあれ、「いじめ」からは逃れられない(しかも、「いじめる側」は無自覚であることも少なくない。意識下にある相手への思いや評価が、婉曲的に差別や侮蔑や排除を意味する言い回しで表出することがあり、それが言われる側の自尊心を傷つけるのだ。大人の世界では、それが顕著である)

しかし、人間が他の種との違いを示したいのなら、現実的に「いじめ」の根絶が無理だとしても、あえて「理想」を掲げて、自らの人生を幸福に全うしたいと願う誰もが、尊厳を持って生きることができる社会を目指すべきだと思う。

昨日は、児童虐待の数も過去最高を記録したとの報道があった。それはあくまでも行政が把握している件数で、実態はもっと深刻なのだろう。

つまり少なからぬ子どもが、同世代からも、子どもを保護すべき身近な大人からも、攻撃を受け、その存在が脅かされている、と言うことなのか。

「子ども社会」は「大人社会」の反映に過ぎない。より弱い者に攻撃が向けられる、と言う原理からは、社会の中で追い詰められた大人が、より弱い存在である子どもを攻撃している図式が浮かび上がる。対子どもでは加害者である大人も、階層社会と言う枠組みの中では被害者(愛情も教育も不十分な中で育ち、精神的にも幼く、生活能力も著しく低い故に、社会の貧困化の影響をモロに受けてしまう)である可能性が高い

実際、普段生活していても、近年は何かに苛立っている大人の姿が多く目に付く。先日も大型書店のレジで、店員を怒鳴りつけている私と同世代の女性がいた。たとえ店員に何か不手際があったとしても、人前で畳みかけるように怒鳴りつける必要はないだろうと、たまたま隣のレジにいた私でさえ不快に思った。怒鳴りつけている時の自分の顔を鏡で見てみたら良い。自分でも目を背けたくなるような鬼の形相だから。

その女性も、苛立っているのは、単に店員の不手際だけが原因なのではないのかもしれない。何か別の理由で元々苛立っていて、それが店員の不手際で爆発しただけなのかもしれない。とにかく、この頃は人々の心から余裕が確実に失われている。多くの人間が苛立っていて、社会全体がゆとりを失い、ギスギスしている。そうした社会の歪みを一身に受けているのが、抵抗する術を持たない子ども達なのだと思う。

いい加減、社会を根本から立て直さないと、この国はどうにかなってしまいそうだ。このままでは、一部の強者を除く多くの国民が不幸になってしまうだろう。

さまざまな問題が噴出する現状は、「それでも構わないのか?」と日本人ひとりひとりにイエローカードを突きつけ、改革を迫っているような気がする。
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2012/7/26

「いじめ」だとか「万引き」だとか…  はなこ的考察―良いこと探し

「いじめ」だとか「万引き」だとか、
実際の行為の悪質さと、言葉の響きのギャップが大き過ぎる。


「いじめ」は暴行、強要、脅迫、恐喝、名誉毀損行為である。

「万引き」は窃盗(泥棒)行為である。

いっそのこと、もうふたつの言葉を使うのを止めたらどうか?
元々言葉に罪はないが、こうも悪事の目隠しに使われてしまっては、
その使用自体が罪深く感じられて仕方がない。


日本と言う国のありとあらゆる組織は、
直面する問題に対して、
「誤魔化し」「隠蔽」「先送り」「責任逃れ」することが常態化している。


まるで「問題を解決すること」より、「組織の維持」の方が大事であるかのようだ。

「組織」ってそんなに大事なものなのか?
それは、私達日本人の命より優先されるものなのか?

国家は生き長らえて、民が滅び、
会社は栄えて、社員が困窮し、
学校は存続して、生徒が死ぬ。

おかしくないか?そんな日本。
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2012/7/26

昼のつぶやき  日々のよしなしごと

思い出すだけでも涙が溢れ出て来る。

昨日の「あさイチ」は「こどもの交通事故」がテーマだったが、番組にビデオ出演したお母さんの様子に胸が詰まった。私も4才の妹を交通事故で失っているから、身につまされた。

「母の日」に亡くなってしまった4才の息子さんの死に、「自分の母親としての在り方が問われているような気がする」と言う彼女の視線の先に、小物干しに吊された靴下があった。それは息子さんが亡くなった当日の朝、「母の日」のお手伝いにと干した洗濯物だった。その日からもう数ヶ月が経過しているのだ。

我が子を失った哀しみは、それほどまでに深いのだろう。でも、自分を責めないで欲しい。もう十分に苦しんでいるのだから。天国の息子さんも、そんなお母さんの姿を見るのは何より悲しいはずだから。

周りの人も、彼女が立ち直るまで支え続けて欲しいと、切に思う。
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2012/7/26

リーダーシップについて  はなこのMEMO

クレジットカードのアメリカン・エクスプレス・インターナショナル日本(以下、アメックス日本)社長ロバート・サイデル氏が、リーダーシップについて語っていたのが面白いので、ここにメモしておきます(7/23付日経夕刊7面)。

・日米の書店にはリーダーシップに関する本が驚くほど沢山並んでいるが、日本の場合、部下を持った悩める上司向けに書かれたものが多い
しかし、部下の指導や育成能力はリーダーシップのひとつの特性に過ぎず、リーダーシップは部下を持つ上司だけに求められるものでもない

アメックス日本では、新入社員を含め、全社員にリーダーシップの発揮を求めている。人事評価でも「どのようなリーダーシップを発揮したか」がポイントのひとつ。

リーダーシップの定義

アメックス日本では、リーダーシップによって成果を生み出す行動を以下の4つに分類し、それらを率先して行動に移すことを求めると共に、具体的な行動事例を示している。

@未来を創造する
A社員を鼓舞する…(例)焦点を明確にして理解を深めるように会話を導く、など
B顧客を感動させる
C約束を果たす

延べ18年の在留経験から、私はいかに日本人が優秀で、想像力に富み、誠実であるかを知っている。リーダーシップを明確に定義し、それを発揮する上で必要なアクションを具体的に整理できれば、日本人はますます国際舞台でリーダーとして活躍できるはずだ。

【感想】

入社当初から、会社がリーダーシップに関して明確な指針を社員に与えれば、社員は常にそれを意識して行動することが習慣づけられ、成果を上げることで自信を得、次第にリーダーシップが発揮できるようになるのだろうか?

リーダーシップを意識するとは、上司や先輩の指示を鵜呑みにせず、常に自分の頭で考えることを習慣づけると言うことなのだろうか?。これを入社当初から実践することの意義は大きいと思う。日本の企業は果たして新人教育で同様のことをしているのだろうか?

そもそもデキル人は、会社に促されなくても、入社当初から自分で考えて上記の4つのことを実践しているのだろうなあ…

因みに、最近伝記映画も作られたマーガレット・サッチャー元英国首相は、雑貨商を営んでいた父から

考えは言葉になり、行動を生み、習慣となる。習慣はやがて人格となり、そして人格はその人の運命をつくる

と言う信念を受け継いだのだそうだ。これは正しく、リーダーシップを発揮する生き方なのではないだろうか?

リーダーシップは生まれながらのもの(=ギフト)とは必ずしも言い切れないし、一朝一夕で身につくものでもないのだろう。
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2012/7/23

糞害×憤慨=飼い犬税  気になったニュース

財政難に悩む大阪・泉佐野市が、道路や公園に放置された犬の糞の処理費用を、愛犬家から「飼い犬税」を徴収することで賄おうと検討しているらしい。もちろん、すぐに法制化するのではなく、まずは糞害の深刻さを市民、特に糞を放置している心ない愛犬家に周知し、自らの飼い犬の排泄した糞をきちんと処理するよう促すことが、今回の告知の目的のようだ。

この犬の糞害は我が家の近隣でも深刻で、最近は歩道の至るところに糞が放置されていて、おちおち歩道も歩けない。不覚にも2度、踏んでしまったことがある (まあ、旅先で、モスクの入場口に棄てられていた剥きだしのチューインガム〜まさか、神聖なモスクの入場口に棄てられているとは思わなんだ〜を踏んでしまったのも、同様に不快で腹が立ってしまったが…しかも、糞はお湯で洗い流せるが、靴底の溝に詰まったガムはこびりついて取れない)

昨日など、歩道のど真ん中に排泄ホヤホヤの丸い糞を3個発見し、犯人(犬?)は誰かと、思わず周囲を見回してしまった。つい数分前にすれ違った2匹のダックスフンドなのか、それとも50m先を行く柴犬なのか?

もちろん犬には罪はない。飼い主のモラルの問題である。飼うなら、飼い主としての責任を持て、と言いたい。何でもそうだろうが、"ブーム"になると、本来参入すべきではない人間が参入し始め、全体のモラルが低下するように思う。そして、ブームに乗って参入した者は飽きるのも早い。このテのタイプの飼い主が、安易に犬を棄てたりもするのだろう。

さる経済評論家の試算では、ペット(ここでは主に犬猫)一匹を飼うのに、低く見積もっても総額250万円くらいかかるとのことだ。それはペットが自宅に来て、亡くなるまで〜購入費用、各種予防接種費用、避妊手術費用、治療費、餌代、葬儀代〜の費用を指しているのだろうか?

それだけの費用をかけてでもペットを飼いたい、ペットを家族同然と思うなら、ペットの排泄物の処理まで責任を持って行うのが飼い主の務めだと思う。だいたい親は自分の赤ちゃんのウンチの始末は、当然のようにするでしょう?(しかし、最近は公共トイレのゴミ箱に、使用済みの紙オムツを棄てる親がいて、これもまた問題になっている。公衆衛生上、ウンチはトイレに流し、オムツはビニール袋で密閉するなりして、自宅に持ち帰るのがマナーでしょうに)自分で糞の処理をできない飼い犬は人間の赤ちゃんと同じであり、飼い犬にとって飼い主は親同然のはず。

最近の傾向なのか、それとも昔からそんなものだったのか、今回のような件に限らず、一部の不逞の輩のせいで、全体が迷惑を被るケースが多いような気がする。

例えば、電車やバスなどの公共交通機関での乗車マナーにしても、本来、「同一空間内にいる者同士が、互いを不快にさせない為の心遣い」のはずなのに、自分の”快”や利便性を最優先して、周りを不快にさせても平気な、マナーを端っから無視する人間が少なからずいる。

そういう人間の周りにたまたま居合わせた者は、不快に思いながらも表だって注意することも憚られ、結局、我慢するしかない(だって、マナーは本来、各個人の良心や良識に委ねるものだから。それに、注意するにも結構勇気とエネルギーが要るものだ。その勇気とエネルギーの注力に見合うだけの効果が得られるかと言えば、残念ながら疑わしい)

現状は、マナーをきちんと守る人が我慢を強いられ、マナー違反者はやりたい放題の「マナー違反をしたもん勝ち」状態と言える。だからと言って、乗車マナー遵守を厳格にルール化すれば、全体が息苦しい思いをすることになるだろう(それは例えば、宗教戒律が絶対的な社会規範となっている社会の息苦しさにも似ているように思う)

そもそも、どうして自己中な人間が、常に一定割合存在するのだろう?そして、少数派であるはずの彼らに、多数派の良識派が振り回される現実。この不条理に、残念ながら解決策はないようだ。おそらく、この不条理にも何らかの意味(神や御仏の意思?人類社会発展の原動力?etc…)があるのだ、と思うしかないのだろうか?
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2012/7/21

深夜のつぶやき  はなこのMEMO

梅雨明け後に土砂降りとは、これいかに〜


はてさて、思いつくだけでも…

EU経済の地盤沈下が止まらない。
EUの右傾化、移民排斥の動きが止まらない。
インド・中国、新興国の労働争議が止まらない。
新興国のバブル崩壊の動きが止まらない。
先進国の多くで、社会保障制度の後退が止まらない。
先進国の多くで、階層間格差の拡大が止まらない。
日本の民主党政権の迷走が止まらない。
日本のマスコミの迷走も止まらない。
日本国民の政治不信、年金不信が止まらない。
円高・ユーロ安・ドル安・株価下落が止まらない。
日本の産業の空洞化が止まらない。
日本の税収減、借金増が止まらない。
日本の少子高齢化が止まらない。
日本の国際競争力低下が止まらない。
日本国民への負担増が止まらない。
日本の世代間経済格差が縮まない。
日本の斜陽化が止まらない。
日本の右傾化が止まらない。
中国の中華思想が止まらない。
中国の周辺諸国への挑発が止まらない。
韓国の反日活動が止まらない。
ロシアの日本に対する高圧的な態度が止まらない。
世界各地で国境や領有権を巡る争いが止まらない。
世界各地でイジメや自殺や殺人が止まらない。
世界各地で爆弾テロや銃乱射事件や飲酒運転がなくならない。
世界各地でカルトの勢いが止まらない。
世界の独裁国家で、独裁者の迷走が止まらない。
シリアの動乱と殺戮が止まらない。
イランとイスラエルの非難合戦が止まらない。
アフガンの名誉殺人など、タリバン回帰が止まらない。
中東アフリカ地域の民主化の動きが止まらない。
中東アフリカ地域の民主化に伴う混乱が止まらない。
唯一の超大国米国の世界への影響力低下が止まらない。
国連常任理事国(=65年前の戦勝国)の不可解な拒否権発動が止まらない。
国連の紛争解決能力の低下が止まらない。
国連の権威失墜が止まらない。
世界各地の異常気象・天変地異が止まらない。
世界各地の穀物の不作が止まらない。
世界各地で乱獲が止まらない。絶滅危惧種の増加が止まらない。
世界人口の増加が止まらない。
世界各国の資源争奪戦が止まらない。
戦争ビジネス屋の暗躍が止まらない。
何だかんだで、世界中で、多くの無辜の民の死が止まらない。

…今、人類は、第三次世界大戦へと直走る暴走列車に乗っているような気がしてならない

…逆に、悪い方向への道筋を一個一個地道に断って行けば、暴走列車はその速度を緩め、いつか暴走が止まるか、方向転換するかの可能性も残されているのだろうか?
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2012/7/20

『苦役列車』(2012、日本)  映画(今年公開の映画を中心に)

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 先日、久しぶりに息子と2人でファミレスでランチを食べていたら、隣の席の40代と思しき2人組の女性が、ババアがドータラコータラと大声で喋っていた。細かな内容までイチイチ聞いてはいないが、何度もババアを連呼しては下品な笑い声を上げるので、せっかくのご飯も不味くなるほどだった。
 延々と人の悪口をサカナに食事なんて…言葉には何の罪もないが、使い手の使い方によって、その品性は著しく損なわれるものなのだと、よ〜く分かった。別に筆者には、誰からも尊敬を集める立派な人になろうなんて大それた考えは毛頭ないが、品性下劣な人間だけにはなるまい、と思う。

クリックすると元のサイズで表示します 表題の映画『苦役列車』を見て来た。作家、西村賢太が芥川賞を受賞した自伝的小説が原作の映画である。
 筆者は西村氏を何度かテレビで見かけたことがある。子どもも見るかもしれない時間帯の生放送で、臆面もなく「女を買う」とか「フーゾク通い」を公言するあたり、私が苦手とするタイプの男性である。(独身中年男の開き直りなのか?、それともわざとワルぶっているだけなのか?)女性を性的対象としか見ていないような気がして、お会いするのは御免被りたいタイプの男性である

 その彼の若き日を描いた自伝的小説なのだから、おそらく私が苦手とする人物像が主人公だろうとは思ったが、主演が若手でも注目のカメレオン俳優、森山未來クンなのだから見ずにはおれない(貫多の友人、日下部正二役で共演の高良健吾クンも、本来、変幻自在のカメレオン俳優なのだが、今回は実直な青年キャラで存在感が今ひとつ薄い。しかし、そういう役柄も引き受けてキッチリ演じるのが、高良クンなのである)

「ねぇ、ヤラせてくれよ」「イヤよ!」
クリックすると元のサイズで表示します で、期待の森山クンは、若き日の西村氏が投影されたであろう北町貫多を、見事に演じきっていたのである。
 15才から日雇い人足に身を投じ、浴びるように酒を飲んでは街で所構わずゲロと唾を吐き、日課のようにフーゾクに通い詰め、家賃を滞納しても悪びれず、プライドのカケラもなくすぐ土下座するもポーズだけ、臆面もなく友人には借金を申し込み、かわいい女性を見れば「ヤリたい」と言って憚らない。
 そんなどーしようもない北町貫多になりきっていた。しかし、森山クンの素の部分の清潔感で、19才にしてやさぐれた北町貫多は、ある種潔癖症の私でさえも辛うじて見るに堪える(笑)物語の主人公になっていた。

 貫多が小学生の時に父親が性犯罪を起こしたのをきっかけに一家は離散の憂き目に遭い、彼は両親が互いを愛し信頼しあい、我が子を慈しむ家庭の温もりに包まれることなく、15才で自活した。その生い立ちが、他者とマトモに信頼関係を結べない、友情や恋愛の何たるかを知らない、彼の情緒的欠落をもたらしたように思う。

クリックすると元のサイズで表示します 彼はけっして薄情な人間なんかではない。人の情に触れることなく孤独を抱きながら生きて来たがために、彼は人との関係を深める術をただ知らないだけなのだ。
 だから友情をじっくりと育み、互いに成長しあうことができない。それゆえに人は次第に彼から離れて行く。劇中、そんな一過性の出会いと離反を繰り返す貫多の姿は、見ていて痛々しかった。
 結局、「他者との距離感」や「関係性」と言ったものは、良き理解者の庇護の下、幼い頃から根気強く人と関わることを通してしか学べない、と言うことなのだろうか?不幸にも社会に出るまで「人と関わる術」を学べなかった人間は、何度となく心傷つき、孤独に直面しながら、自ら体験的に学んで行くしかないのだろう。

原作者、西村賢太氏
クリックすると元のサイズで表示します この貫多が作家自身の若き日の姿であるとするならば、後年、自身を顧みて、その生き様を私小説へと昇華できたのは、当時ただ欲望のままに動いていた西村氏にとって唯一の理性的な行為と言って良い「読書」の賜物なのだろう。
 愛すべきキャラクターではない主人公の、お世辞にも輝いていたとは言えない青春時代。 しかし、これもまた紛れもない青春の姿形なのである。人生なのである。それが作家、西村賢太によって小説という形で世に出たこともまた、人が生きることの意味を考える上で必然だったのだろう(つまり、価値のあるなしに関係なく、生まれた人の数だけ人生があると言うこと。これは紛れもない真実なのだ)
 そして、今また映画で、森山未來と言う希有な役者を得て、『苦役列車』と言う作品は新たな魅力を放っている。

 キッタナイ言葉と情けないシーンのオンパレードだけれど、私、嫌いじゃないです。この作品。

映画『苦役列車』公式サイト

【映画のオリジナル・キャラクター:桜井康子を演じたAKB48出身の前田敦子

クリックすると元のサイズで表示します 古書店でバイトする女子大生を演じた前田敦子。主人公貫多が恋して、足繁く古書店に通うきっかけとなった女性だ。
 小説には存在しない映画オリジナルのキャラクターらしいが、彼女の登場により、女性の気持ちにはてんでお構いなしの貫多の恋愛オンチぶりが鮮明となった。ともすればむさ苦しい男ばかりの物語に、華やかさも添えている。

 マスコミで、やれ「思ったより集客力ない」だの、やれ「存在感が希薄」だのと叩かれているが、今回の彼女は悪くない。寧ろ、女優業を始めて間もない(←確か、映画とドラマで出演4本目位だよね?)彼女の初々しさが、不器用な若者の青春ドラマにピッタリと嵌っている。
 映画の興行成績不振の戦犯扱いとすら受け止められる、マスコミの報道姿勢には悪意すら感じる。ひとりの若い女の子を寄って集ってイジメて何が面白いのだろう?そもそも、映画の質と興行成績は必ずしも一致しないのではないか?

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2012/7/20

猛暑下の体調管理  日々のよしなしごと

今朝の天気予報によれば、今日の最高気温は昨日より12度も下がって23度だそうだ。

私は真冬生まれなせいか、夏の暑さが苦手である。子どもの頃から、夏の間は死んだようにグッタリしていた。気温の乱高下は身体に負担が大きく体調を崩しがちだが、暑さが苦手な私としては気温が下がることは大歓迎。これで一息つけそうだ。

昨日は、その前夜に体調を崩し、39度近い発熱をした息子を、過保護かなと思いつつも私が持病で通院している総合病院まで連れて行った。かかりつけの近所のクリニックがたまたま定休日だったからだ。

いつもは大学から帰宅すると山盛りのご飯を平らげる息子が、珍しく半分も食べられずに自室に戻ってしまった。その日は午後に卒研の経過報告会があり、その前後から体調がすぐれなかったが、忙しくて昼ご飯も午後4時頃にやっとかけうどんを食べられただけらしい。

自室でベッドに横たわる息子に念のため体温を測らせたら、38.5度もあった。馬鹿じゃないの?こんなに熱が高いなら具合が悪いのは当然だ。しかも、腹痛の症状も出ていたらしい。なぜ、早々に帰宅しない?クソ真面目もたいがいにせ〜い

息子は春生まれだが、生後半年でアラビア半島にある国に両親と共に赴任し、3才半まで過ごした。人間の汗腺の数は生後3才頃までに決まると、何かの記事で読んだことがある。乾燥した気候で、猛暑の夏も日陰は比較的過ごしやすいその土地で3才まで過ごした息子の身体は、汗腺の数が通常の日本人より少なく、もしかしたら日本の多湿な気候に比較的適応しづらくなっているのかもしれない。つまり、日本の蒸し暑さは少し苦手?!しかも近年の日本(←世界的に?)の暑さは異常ですからね。このところの気温の高さに、体温調節がうまくできずにいたのかもしれない。

医師の診断では「急性腸炎」であった。薬を処方して貰い、自宅に戻ると、軽めの昼食を済ますやいなや、息子は深い眠りに入った。いつも時間に追われて、不足がちだった睡眠時間を取り戻すかのように8時間近く眠りこけた。そして、夕食の為に起こしたら、思いの外元気を取り戻していた。

やっぱり、人間には適度な休養が必要なんだな。特に、このところのような苛酷な猛暑の下では、通常より意識して休養と水分をこまめにとり、体力を維持することが大切なのだろう

我が家ではこの暑い時季も、最年長の夫が一番元気である。元々風邪も滅多にひかないほどの頑健さ。その秘訣は、母親が丈夫な身体に産んでくれたこともさることながら、やっぱり「快眠快食快便の規則正しい生活」と「適度な休養」のようだ。
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2012/7/12

現代の富豪って、篤志家精神に欠けている?  はなこ的考察―良いこと探し

昨日は何とはなしに国会中継を見ていた。

その中で、老人世帯が持つ資産の移転を促す案を、ある議員が述べていた。祖父母が孫の教育費用を出すなら非課税に、と言うものだった。

私なら、もう一歩進めて、この国の将来の為に、資産家の老人には自身の孫だけでなく、未来あるすべての子どもの為に、教育基金等への資産の一部寄付が促せないものか、と思う。

税制における寄付控除を充実させて、資産家が教育基金に資産の一部を寄付することが当たり前の世の中にする。教育基金から給付奨学金や無利子貸与奨学金を支給し、向学心に溢れながら、経済的な理由で進学を躊躇っている学生に、大学や大学院、或いは専門学校で学ぶ機会を与える。現在、奨学金財源も乏しいと言われる中、教育政策として、その財源をいかに税収のみに依存することなく増やすか、考えるべきではないのか?

そうでもしなければ、階級の再生産が行われるだけで、上位層は十分な教育を受けることができ、親と同等か、それ以上の生活レベルを維持できる一方で、下位層は、たとえ本人に向学心があっても十分な教育を受けることができず、職業の選択枝も限られ、結果、生活レベルの向上も望めず、いつまでも下位層でもがくだけである。少子化が止まらない以上、日本国民ひとりひとりの能力を最大限に引き出すような仕組みを構築しないと、社会の活力も失われて行く一方だろう。

美術館でギャラリートークをする度に、明治・大正期の富豪の篤志家ぶりには感心するばかりだ。今、日本にある名だたる美術館の多くは、当時の実業界で活躍した人々の篤志が礎となって出来たものだ。松方幸次郎氏の国立西洋美術館然り。大原孫三郎氏の大原美術館然り。石橋正二郎氏のブリジストン美術館然り。竹橋の東京国立近代美術館の建物も、確か石橋正二郎氏が寄付したものだったはず。彼らは、国民の豊かな文化生活の為に、私財を投じることを厭わなかった。

翻って、今の日本の実業界で、彼らに匹敵する社会貢献をしている実業家はいるのだろうか?米国に目を移せば、ビル・ゲイツ氏は自身がIT事業で築いた莫大な資産を元手に慈善団体を作り、米国のみならず世界的規模で社会貢献事業を展開している。それに引き換え、日本のIT長者や資産家は、その資産規模がビル・ゲイツ氏に遠く及ばないにしても、専ら自身の欲を充たすことに注力し、社会への関心が極めて低いように見える。明治・大正期の人々と比べても、人間的スケールが小さ過ぎる。どうしてなのだろう?

もし、実際は現代の資産家が社会貢献に積極的で、それが社会で周知されていないだけなのなら、そのことを社会に広く知らしめ、社会全体で顕彰する仕組みが必要だと思う。褒められて嬉しくない人は、そうそういないだろうから。

せめて大口寄付行為に対する税制上の優遇措置の拡充や、社会貢献に対する顕彰制度を充実させる等、資産家の社会貢献への関心を高め、それを促すような方策に、政治家も知恵を絞って欲しいと思う。国会中継を見て、政治家の発想のお粗末さに、そんなことを考えた次第だ。
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2012/7/12

小さな淑女  携帯電話から投稿

エレベーターが五階から一階にくだる。

「こんにちは。」

ドアが開くやいなや、可愛らしい挨拶が、耳に飛び込んで来た。


思わず声の主を探すと、ボブヘアにワンピース姿の小さな女の子が、
お母さんに手を引かれて、エレベーターの前に立っていた。

そして、再び元気な声で、

「こんにちは。」


覚えたての挨拶の言葉を、誰かにかけずにはいられない
彼女の嬉しさが伝わって来た。

その愛らしさに、私も思わず頬が緩み、

「こんにちは。」と返した。


思いがけない小さな淑女の登場に、昼下がりの気だるさも、一瞬にして吹き飛んだ


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(写真は三菱一号館美術館)
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2012/7/8

スープ(日本、2012)  映画(今年公開の映画を中心に)

昨日、主演の生瀬勝久らによる初日舞台挨拶付の上映回を見て来た。

映画&映画館大好きとは言え、映画鑑賞に出せるお金にはどうしても限りがあるので、見ようか見まいか迷った時には、ネットのユーザーレビューを参考にしたりするのだが(もちろん、その評価やコメントをそのまま鵜呑みにしているわけではないが)、この作品、私がユーザーレビューを見た時点で、12人のユーザーから、ほぼ5点満点に近い高評価だった。通常、どんなに見応えのある作品でも、4点以上獲得することはそう簡単なことではないのに。古今東西の名作が過去に獲得した得点を陵駕するような高得点に多少の胡散臭さを感じながらも、脇役では既に得難い存在感を示している俳優、生瀬勝久初主演映画と言うことで、私達夫婦には珍しく割引なしの一般料金で見て来た。

して、鑑賞後の感想は…それなりに面白い。キャストがベテラン、中堅、若手と充実していて、よくこれだけのキャストを集められたものだと思う。

物語は、妻に去られた生瀬演じる渋谷が、両親の離婚に傷ついた娘とのぎくしゃくした関係に悩んでいる最中に事故で死んでしまってからの葛藤を軸に描いている。今生に思いを残して死んでしまった渋谷の、娘の身を案じる姿が切ない。

展開が一風変わっている。前半は生瀬勝久と小西真奈美松方弘樹(←同じ見るなら、私は『十三人の刺客』で見たような本格時代劇俳優としての彼を見たい!)を中心に展開する"あの世"と"残された娘が生きる今生"を交互に描きながら物語は進むが、後半は登場人物も一新して、学園ドラマを思わせる展開である。1本で2本分のドラマを見せられたような転調である。特に後半に登場した広瀬アリス野村周平ら若手俳優の瑞々しい演技が印象に残った。成長した娘(伊藤歩がキレイだ!演技も巧い!)を巡るエピソードには、思わず目頭が熱くなった(ついでに言うと、今注目の美少女橋本愛の上前歯の歯並びの悪さが気になった。これは彼女の美貌が天然で、ヘンにいじっていない、と言う証拠でもあるのだが…せめて歯列矯正して欲しいところだ。しかし、安易な差し歯はご勘弁。口元が不自然になるから。)

だが、お世辞にもユーザーレビューで5点満点に近い点数を獲得するほどの傑作とは思えない。あの「サウンド・オブ・ミュージック」や「アラビアのロレンス」や「バック・トゥ・ザ・フューチャー」や「東京物語」を陵駕するような名作とも思えない。

今朝、再びユーザーレビューを見てみたら、28件に増えていた。5点が殆どの中に唯一、最低評価の1点が混じっていた。その人のコメントは「これはステマか?」

つい最近、レストランの口コミサイト「食べログ」における、企業による不正評価が問題になったばかりである。つまり、客を店に誘導する為に、店からお金を貰った会社の社員が高評価の口コミを書き込む、と言う手口である。そのことと同じではないのか?、と先のユーザーは指摘しているのだ。

私も気になって、試みにレビュー投稿者のユーザーIDで過去のレビュー投稿歴を調べてみたら、過去に投稿歴のある人は28人中、わずか6人であった。他は投稿歴が見られない1人を除き、なんと21人もが今回初投稿なのである。こんなに初投稿の割合が高いユーザーレビュー欄って他にあるのか?もしかして、先のユーザーの言うように、事務所ぐるみ?かシンパ?でステマまがいのことをしているのか?

仮にもしそうだとしたら、こんな残念なことはない。傑作とは言わないまでも、そこそこ見応えのある作品なのだから、余計な小細工で作品を徒に貶めて欲しくないものだ。映画ファンに対しても、出演者に対しても失礼だと思う。

因みに、私が敢えてこの作品に点数を付けるなら、3.5点である。
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2012/7/7

感謝その2  携帯電話から投稿

先月、ギャラリートークを担当した区立O小学校の子ども達から、トーク担当者のもとに、感想文が送られて来た。

グループごとに綴られ、各々が担当したグループの文集の表紙には、トーク中の担当者の写真まで貼られている。

もちろん、私の担当したグループの表紙には、私の写真だ。

最近、滅多に自分の写真等撮らないので、何だか気恥ずかしいが、子ども達からの直筆のメッセージはとても嬉しいし、今後の活動の大きな励みにもなる。

皆さん、どうもありがとう!(子ども達がこのブログを見ることはないだろうけれど、これは声を大にして伝えたい私の気持ちだ!)


「はなこさんが言っていた通り、本やネットで見るよりも、生で見る方がすごいことがわかりました。」

「わたしが一番良かったのは「考える人」です。「考える人」の手足がとても大きくてすごかったです。「じごくの門」の上に「考える人」がいて、とてもびっくりしました。」


感想文には、子ども達が子ども達なりにギャラリートークの意図を理解し、真摯に作品に向き合ったさまが、素直な言葉で綴られているように思う。その丁寧な筆致には、子ども達の一生懸命さが伝わって来て、感動的ですらある。


私が子ども達に向けてのギャラリートークで特に重視しているのは、「作品をじっくり見ること」だ。

美術館の醍醐味は、言うまでもなく「本物を間近で見られること」。これに尽きると思う。


何が表現されているのか?

どのように表現されているのか?


作品を間近で見ることで初めて、作品本来の色彩の美しさや、見る者に迫り来る力強さ、肉眼だからこそ捕らえられる質感、そして作家の表現の巧みさや創造性の豊かさ等が堪能できる。

細部をじっくり観察することで多くの発見や気づきもある。

作家名や作品名は、作品そのものをじっくり味わった後で確認しても、けっして遅くはない。


「その時に、その場所でしか出来ないこと」に集中する。

このことは、さまざまなことに当てはまるのではないだろうか?

今回のギャラリートークの限られた時間の中でも、このことの大切さを、子ども達は体験的に学べたと信じたい。こうした体験の積み重ねが、子ども達の今後の人生の礎になるのだろうから。


最後に、限られた時間を遣り繰りして、子ども達の美術館でのギャラリートーク体験に尽力して下さった先生方には、一ボランティア・ガイドとしてだけでなく、親の一人として、また、大人の一人として、感謝申し上げたい。

どうも、ありがとうございました。

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2012/7/2

『バーン=ジョーンズ展〜装飾と象徴』を見ての感想  文化・芸術(展覧会&講演会)

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 丸の内にある三菱一号館美術館で開催中の『バーン=ジョーンズ展〜装飾と象徴』を見て来た。

 フランスで生まれた「印象派」と並び、19世紀後半に起きた西洋美術における一大ムーブメントである英国「ラファエル前派」の系譜に連なる画家、エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones,1833-98)の全貌に迫る、日本では始めての個展だと言う。

 英国バーミンガム美術館のコレクションを中心に、国内外から集められた油彩画、水彩画、素描、貴重書、タペストリと、その数は約80点にのぼる。

 ヴィクトリア朝絵画の頂点を極めた画家であると同時に、オックスフォード大で出会って以来、その友情が生涯に渡って続いたウィリアム・モリスと共に、アーツ&クラフツ運動の創始者と言う一面も持つバーン=ジョーンズ。本展覧会は、その多彩な活動を展観する、またとない機会と言えるだろうか?


 とても興味深い展覧会だった。「描写の迫真性より、装飾性と審美性に優位」と言う解説の一文が、バーン=ジョーンズ作品全体を貫く作風を言い得て妙であり、印象に残っている。

クリックすると元のサイズで表示します とにかく美しい。「美は細部に宿る」とも言われるが、バーン=ジョーンズ作品はその真骨頂とも言えるだろうか?私は「人物の端正な横顔」や「優美な身体のライン」に魅了された。

 19世紀半ば、時代の変化の流れに沿った形で、当時の既成概念に反旗を翻した運動のひとつが、英国美術界における「ラファエル前派」の誕生であった。

 「ラファエル前派」は、当時の美術アカデミーで模範とされたルネサンス古典主義の完成者ラファエロ以降のアカデミックな芸術を否定し、ラファエロより遡るルネサンス初期や中世の絵画様式に美的価値を認めた画学生、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティウィリアム・ホルマン・ハントジョン・エバレット・ミレイらが中心ととなって立ち上げた芸術運動である。

 その後、3人は方向性の違い等から袂を分かつことになるのだが、ロセッティを慕って集まった若き画家達の中に、バーン=ジョーンズがいた。それゆえに、バーン=ジョーンズをラファエル前派の後継者と見なす説もあるようだ。

 その「ラファエル前派的」特徴は作品にも顕れていると言えるだろうか?例えば、《運命の車輪》(右上画像)に描かれた人間の運命を司る女神フォルトゥナのその端正な横顔は、初期ルネサンスの画家フィリッポ・リッピが描いた《聖母の戴冠》の中の聖母マリア像の横顔に酷似している(参考:下写真)。

 俯き加減のその横顔の憂いを帯びた表情、優美な弧を描く鼻のライン、甘美な唇の形、柔らかな丸みを帯びた顎のラインは、見れば見るほどソックリで、フォルトゥナを見て、すぐさまリッピの聖母マリアの横顔が頭に浮かんだほどだ。

クリックすると元のサイズで表示します クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します また、運命の車輪を挟んで右側に描かれた、(上から)奴隷と王らしき2人の男性の筋骨逞しい肉体美は、ミケランジェロ作品に登場する人物像を彷彿とさせる。その下に顔だけのぞかせているのは詩人らしい。

 同じくミケランジェロに私淑し、その作品の多くで裸体表現を採りながらも、同時代の自国の自然主義思潮の流れを受けて、のちに独自の表現に到達した「近代彫刻の父」オーギュスト・ロダンの肉体表現とは異なり、バーン=ジョーンズのそれは、ルネサンス期で時を止めたかのようだ(逆に彼の女性の裸体表現は、より時代に即したものとなっており、男性像とは異なる印象だ)

 身分差や職業に関係なく(何しろ、奴隷が戴冠の王を足で踏みつけているのだ)、運命の車輪の回転に抗うことができずに苦悶する人間の姿を、物憂げな表情で見つめる運命の女神フォルトゥナ。着衣姿のフォルトゥナと全裸の人間の対比もまた何やら象徴的で、見る者の想像をかき立てる。仮に、3人の人間が着衣姿であったなら、本作が与えるインパクトは今よりも小さかったのではないだろうか?

クリックすると元のサイズで表示します ※今回の見方:頭部から足先まで舐めるように見て、その女性美を堪能する(笑)

 それにしてもバーン=ジョーンズが描いた女性の身体の曲線美には、思わず目が釘付けになる。神話の中の女神を描く、と言う体裁を取りながら、実際は生身の女性の美しさを描いているからだろうか?しかし、その端正さゆえにエロチックな印象はない(果たして、男性目線ではどうなのだろうか?)

 例えば、《果たされた運命〜大海蛇を退治するペルセウス》(最上段の画像)に描かれた王女アンドロメダの裸身。

 その美しさを海のニンフに優ると親が自慢したが為に海神の怒りを買い、大海蛇の生け贄として鎖に繋がれてしまった王女アンドロメダ。

 無防備とも言えるその白肌も露わな後ろ姿は、荒々しい岩肌を背景にクッキリとその輪郭線を浮かび上がらせている。

 肩のラインから左腕、肩胛骨、背骨、ウエストのくびれ、(丸みを帯びた)臀部、太もも、ふくらはぎ、(引き締まった)足首と、女性の優美な肉体の曲線をあますところなく描き、その輝く美しさで見る者の目を釘付けにする。思わず、画面右側で繰り広げられるペルセウスと大海蛇の死闘を見忘れてしまうほどだ。

 色彩的にも、青を基調に描かれたペルセウスと大海蛇より、白肌のアンドロメダの方が前面に浮かび上がる効果が顕著だ。ペルセウスの活躍をテーマにしながら、その実、最も描きたかったのは、美しき王女アンドロメダだったのではないだろうか?そう思わずにはいられないほどの、アンドロメダの美しさなのだ。

クリックすると元のサイズで表示します さらに花の女神を描いた《フローラ》の、女神の二の腕から指先に至るラインのたおやかさと言ったら、ただただ見惚れるばかり。肘のくぼみさえ愛らしい。 

クリックすると元のサイズで表示します その白魚のような指先から撒かれる黄金色の種は、着地するやいなや色とりどりの花を咲かせるらしい。フローラの行く後に花々が咲き乱れる光景が、目に浮かぶようだ。

 赤いドレスの裾の部分と右肩に掛けた藍色のストールは風になびいているが、腰から裾に向かうドレスの身頃は女神の身体に密着し、衣に隠されたその身体の線をクッキリと浮かび上がらせている。豊かな肉付きを想像させる臀部の描写は、先のアンドロメダ像とは違って、少しエロチックですらある。風になびく藍色のストールさえ優美な曲線を描いて、手前の女神像の美しさを際立たせる小道具なのかもしれない。

 そして、ここでもまた、藍色と赤、のように「色のコントラスト」が効果的な使われ方をしているように思う。

 本展覧会では、こうした細部まで見応えのある作品の数々が、聖書・神話・物語等のテーマ毎に展示されている。


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 本展覧会はまた、バーン=ジョーンズのアーツ&クラフツ運動の創始者としての一面の紹介にも尽力していて、彼が手がけた本の装丁や挿絵、教会のステンドグラスの原画や、タピストリーの展示もあり、彼の作品の特徴である精緻な装飾性がいかんなく発揮されたこれらの作品群も見応え十分。その一部が、この日本にあることにも驚いた。


 そして、明治期の近代建築(あの河鍋暁斎の弟子、ジョサイア・コンドル設計)をほぼ忠実に復元した形の三菱一号館美術館の、さほど広くない部屋が細々と配置された空間構成の特徴が、本展覧会では作品に適した鑑賞環境を提供する上で功を奏しているようだ。つまり、作品をテーマ毎に閉じられた小空間で展示することで、鑑賞者がそれぞれの作品世界に没入することを容易にしている、と筆者は感じた。

 例えば、本展覧会が、もし、乃木坂の国立新美術館の、あの大空間での展示であったならば、作品に対する印象は大きく異なったに違いない。もちろん、この美術館の空間構成に合わせて、本展覧会の展示構成は考えられたとは思うが、本展覧会に対する鑑賞後の満足度の高さは、それぞれの美術館の特徴に合わせた展覧会の在り方を、改めて考えさせられたと言っていい。その意味でも、興味深い展覧会である。

 唯一の不満と言えば、代表作の《運命の車輪》の絵はがきが販売されていないことだろうか?(笑)

『バーン=ジョーンズ展』公式サイト

 下画像は《マリア・ザンバコ頭部習作〜ガラーテアT》。ギリシャ彫刻を思わせる端正な横顔が美しい。画家がモデルとなった女性に一目惚れして、道ならぬ恋に走ってしまったのも頷ける美しさだ。

 このような鉛筆画は、描画を趣味とする人には堪らない作品ではないだろうか?実際、似たような画風のイラストをネット上でもよく見かける。

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(記事中の画像は、公式サイトより転載)


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