2011/10/23

「映画小僧」な三池崇史監督♪  映画(今年公開の映画を中心に)

 今日、面白い記事を読みました。現在、ノリにノッテいる映画監督のひとり、三池崇史監督へのインタビュー記事です。まさに「映画小僧」な監督の魅力が詰まった内容となっています。これはインタビュアーの勝利かな? 

 インタビューの出来の良し悪しは、インタビュアーの入念な下準備に基づく、的を射た質問の投げかけで決まるのではないでしょうか?単なる「ヨイショ」ではなく、受け手の心の琴線に触れるような真摯な問いかけこそが、その内面奥深くに迫ることができる。受け手本人の内でさえ曖昧模糊としていた思い・考えが、優れたインタビュアーのひと言によってクッキリとした輪郭を顕す奇跡が起きるのも、インタビューの醍醐味なのかも。

 逆に最近、酷いなと思ったのは、東京MX『5時に夢中サタデー』内での逸見太郎による、向井理へのインタビュー。太郎クンは事前にちゃんと質問内容について考えていたのかな?インタビュー中、要領を得ない、的外れな逸見太郎の質問に、(利発で、少々短気なところがある)向井理がイライラしているのが見てとれたほどでした(特に今回は自身の主演映画の宣伝で、何十社からもインタビューを受けていたので、向井理はかなり疲れていたはずです)。

 太郎クンは人生初のインタビューで舞い上がってしまったのかもしれませんが、次回はもっと"考えた"インタビューをすべきでしょう。インタビューにも"戦略"が必要だと思います。



クリックすると元のサイズで表示します あと5〜6年で時代劇(映画・テレビ)の黄金期を支えた、時代劇のすべてを知る裏方スタッフが引退の時期を迎えてしまう。そのことに危機感を覚えた監督は京都に赴き、彼らの全面的サポートを得て、最新作『一命』を撮ったそうです。インタビュー中、監督の彼らに対する敬意が言葉の端々に顕れていて、読んでいるこちらも胸が熱くなりました。

 このところ、テレビからは次々と「時代劇」が消えていますが(あの長寿番組『水戸黄門』でさえ消え去ろうとしています)、そうこうしているうちに、作り手さえ現場からいなくなってしまう。この事態に、テレビ業界は何の危機感も覚えないのでしょうか?ケーブルテレビでは「時代劇チャンネル」で、過去の作品を見ることはできますが、作り続けることを現場が放棄してしまったら、その時点で制作ノウハウの継承は絶たれてしまいます。それはひとつの文化を失うことに等しい。失ってから、その損失の大きさを嘆いても遅いのに…


 その作品の持つ剛胆なイメージと、その風貌のワイルドさとは裏腹に、インタビューから見えて来る、監督の映画の作り手としての謙虚さ、繊細さが、私には新鮮な驚きでした。全編から、映画を愛して止まない監督の情熱がストレートに伝わって来ました。馴れ合いを嫌い、プライベートではスタッフや出演陣と一線を画す監督のクールな一面も。だからこそ、現場ではその一瞬一瞬が、プロとプロの真剣勝負たり得るのでしょう。「すべては最高の映画を世に送り出すために」〜この心意気が素敵です!

 また、プライベートと仕事を明確に区別している監督の目から見た、『一命』主演の市川海老蔵評も興味深い。昨年末プライベートで問題を起こしたがために仕事に穴を空け、一時謹慎していた海老蔵。その彼を、役者として高く評価している点が注目されます。

 インタビューの最後では3月11日の震災に触れて、「クリエイターとして、時代とどう向き合うのか」と言う命題に、監督なりの考えを述べていますが、常に奢ることなく、自らを省みる姿勢が素晴らしいと思いました。

 久々に読み応えのある記事でした。

計算ずくで撮ったものが、果たして「映画」と言えるのか?(『VOICE』2011年11月号より)   聞き手:五十川晶子氏

当ブログ内「三池崇史監督関連」記事:映画レビュー『十三人の刺客』


2011/10/19

明治神宮→東京オペラシティ→都庁展望台  散歩の記録

クリックすると元のサイズで表示します 左図は明治神宮境内図(明治神宮リーフレットより)で、今回の散歩ルートを付加してみました。

 IR原宿駅から神宮橋を渡り、南参道を歩く途中で左手にある御苑に入り、そこをしばらく散策した後、入場口に戻って御社殿に向かい、参拝後は北参道に出て、北池にかかる橋を渡った後宝物殿前の原っぱおにぎりを頬ばり、暫くそこで草原を渡る心地良い風に当たりながら休憩した後、次の目的地、東京オペラシティに向かうべく、小田急参宮橋駅を目指しました

 以前、三渓園で藤棚の下で、老夫婦が奥様手作りと思しきお弁当を食べている姿を微笑ましく見た記憶がありますが、もっと気軽に散歩に出かけたいのなら、駅にある(権兵衛等の)おにぎりのテイクアウト店でおにぎりを買うのがおススメです専門店なので具の種類は豊富だし、散歩コースには必ず含まれる公園のベンチに腰かけて、のんびり風景を眺めながら頬ばるおにぎりは格別のおいしさですよ。

 飲物は水筒に入れて自宅から持参するか、もし外で飲物を買うなら、明治神宮の場合、ペットボトルや缶飲料が買えるのが、南参道沿いにある休憩所か、宝物殿前の自動販売機だけで、しかも値段が少々高め(500mlで200円)なので、できれば駅の自販機で買った方がbetterだと思います。

クリックすると元のサイズで表示します 写真は国歌の「君が代」にも登場する「さざれ石」。さすが明治天皇ゆかりの地だけあって、さりげなく宝物殿前の広場に置かれてました。「さざれ石」自体は全国各地の石灰質の山にある、ありふれた石らしいのですが、ここの「さざれ石」は国歌発祥の地とされる岐阜県春日村から持って来たものらしい。

 石の脇にあった解説板によれば、「さざれ石」は学名を「石灰質角礫岩」と言い、以下のような段階を経て形成されるようです。

 1.石灰石が雨水で溶解する。
 2.その石灰分を含んだ水が粘着力の強い乳状体となって地下で小石を集結する。
 3.次第に大きくなった2が、写真のような形状で地上に出て来る。

 確かにこのような形状の石はどこかで見た覚えがありますが、これがあの「君が代」で詠われている「さざれ石」とは、解説がなければ知る由もなかったでしょう。因みに「さざれ石」は漢字で書くと「細石」。読んで字の如く、細かな石が集積した石のことを指すんですね。しかし、耳で聞いただけではどんな石なのかイメージしにくい。日本語って難しい(笑)。

 そこでふと思い出したことがあります。先日、NHKーBSの海外情報番組で、日本語における漢字使用に反対を唱える一橋大学名誉教授がゲストに招かれていました。その先生は、自身の長年に渡る留学生への論文指導経験から、「漢字によっては複数の読み方があり、それぞれが異なった意味を持っていることが、海外からの留学生の頭を混乱させ、日本語理解の障壁になっている。だからいっそのこと漢字使用はやめて、ひらがなとカタカナだけにした方が良い」との主張を展開していました。

 確かに先生の実体験に基づく懸念も一理あるのでしょう。しかし、既に発祥の地では改変してその原形を留めていないケースもある「漢字」と、漢字から一部を抽出して日本が独自に編み出した「ひらがな」「カタカナ」が、日本語の中で併存していることこそ、まさに長い年月の間に培われた日本独特の言語文化なのだと思いますし、上に挙げた「さざれ石」の例でも明らかなように、表意文字としての漢字の優れた長所は捨てがたいものです。このブログだって、すべて「ひらがな」「カタカナ」表記になったら、却ってどんなに読みにくく、理解し辛くなることか。そもそも、それぞれの国の文化の独自性は、汎用性や効率性を理由に破棄される謂われはないはず…


 ここで改めて「君が代」の歌詞を(ウィキペディアより)。「さざれ石」の実物を見たことで、歌詞の内容がより具体的にイメージできるようになったと思います。 

 「君が代」

 君が代は
 千代に八千代に
 さざれ石
 巌(いわお)となりて
 苔(こけ)のむすまで


 東大文学部でも教鞭を執った、19世紀後半から20世紀前半に活躍した英国人の日本研究家、バジル・ホール・チェンバレンは、「君が代」を英訳したようです。

 A thousand years of happy life be thine!
 Live on, my Lord, till what are pebbles now,
 By age united, to great rocks shall grow,
 Whose venerable sides the moss doth line.

 汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように
 われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが
 時代を経て、あつまりて大いなる岩となり
 神さびたその側面に苔が生(は)える日まで
 

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 国歌の「君が代」については、何かの式典で耳にしたり、歌ったりする程度で、実は詳細についてあまりよく知りませんでした。「君が代」と言うタイトルが示す通り、「天皇の時代が長く続くように、栄えるように」と言う歌であることを認識している程度(厳密に言うと、たぶん以前も調べたのだろうけれど忘れてしまった)

 今回改めて調べてみると、「君が代」の歌詞そのものは和歌として平安時代から存在し、「古今和歌集」を出自としていますが、西洋近代において国歌が外交儀礼上必要となったのに伴い、日本も西洋諸国との外交上必要に迫られた結果、明治13年に曲が新たにつけられ、以後国歌として扱われて来たようです。国歌として正式に定められたのは平成11年(国旗及び国歌に関する法律)と、まだ間もないのが意外と言えば意外。そこに至るまでにさまざまな議論があったことは報道で知っていますが、考えようによっては、日本人の国家意識(国としての在り方への関心)はその程度(この案件について歴代政権が先送りして来た=曖昧にして来た=優先順位が低いと見なした)のものなのかなと思いました。

 国歌としての「君が代」については、特に歌詞に関して、その意味するところに、作られた時代(平安時代)と現代とでは些か齟齬があり、国歌として正式に認められた今も、その是非についてさまざまな意見があるようですが、世界の国歌を見渡しても同様の議論はあるようですね。例えばフランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」(元々国歌として作られたものではなく、作られた時代が時代だけに)周辺諸国に敵意を剥きだしにした、戦意を高揚させるような過激な歌詞で、フランスでも「国歌として相応しいのか」度々議論が沸き起こっているのだとか。

 もし国歌を新たに制定するにしても、現代は明治時代以上に国民の合意形成が難しそうで、現時点で「君が代」に優る国歌を新たに作る(作詞作曲を誰に依頼するかでも一悶着ありそう)のは、革命でも起きて日本の国家体制が大きく変わり、国民の意識も大きく変わらない限り無理なんでしょうね。現状は、誰が詠んだかさえも分からない、千年以上も前に作られた歌詞」が「長い伝統を誇る国家」を象徴する意味合いで認識されていると見るべきでしょうか? 

 …なんてことを、宝物殿前の広場に鎮座していた「さざれ石」を見て、考えたりしたのでした。散歩道の途中には、このように予想だにしない興味深い発見が幾つもあります。そこから興味関心が広がって行くのも、散歩の醍醐味と言えるでしょうか。

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2011/10/17

若者よ、岡本太郎を読むべし!  読書記録(本の感想)

クリックすると元のサイズで表示します 岡本太郎はその著書『自分の中に毒を持て』(青春文庫)の中で、こう述べている。

 「成人式は文明社会では祝うべきものだけど、本来はただ祝って楽しんですむものじゃない。厳粛に、きびしく、「社会」と言うものをつきつける、イニシエーション(通過儀礼)であるべきだ。」

 日本では毎年恒例のように、マスメディアで「荒れた成人式」の模様が報道される。成人としての自覚に著しく欠けた幼稚な新成人の醜態を、ここぞとばかりに見せつけて、マスメディアは「イマドキの若者批判」を展開する。

 しかし、成人年齢に達した青年男女を、いつまでも子ども扱いしているのは、周りの大人や社会に他ならない(って書いている私はかなり自虐的)。若者批判の急先鋒に立つマスメディアだって、結局その片棒をしっかり担いでいるのではないか?

 成人式の式典や、その後に開催される同窓会用に、スーツや豪華な晴れ着を用意してあげることに、何の疑問も持たない大人達。大都市では式典も形骸化し、来賓の祝辞に、最初から最後まで真摯に耳を傾ける新成人は、果たしてどれだけいるのだろう?
 
 祝賀ムード一辺倒の先進国の成人式では、これから立ち向かう社会への畏れも、成人としての覚悟も、新成人に対して持てと言うのがそもそも無理な話なのではないか?

 太郎は昔取った杵柄で「民俗学(文化人類学的?)」的見地から、その対極にある南米アマゾンの成人式を紹介している。

 「南米アマゾンの奥地のある種族では、蜂をいっぱい袋にいれて、この袋を若者の皮膚にぱっと押しつけたりする。一匹に刺されても痛いのに、失神するほどの猛烈な苦痛だ。その痛みをもって、大人社会の〜生きていく責任とはこういうものだと教えているわけだ。またなかには深い森に若者を放って、若者はそこで自分ひとりの力と知恵で生きぬいて、帰ってこなければならないとか。奇怪なマスクをかぶった祖霊におどかされたり、恐ろしい儀式を課している種族もある。

 そのほかに入墨をしたり、割礼をおこなったりさまざまだ。入墨をされる若者はその痛さに耐えながら、成人のきびしさと誇りを知るわけだ。」


 そして、文明社会の成人式のふがいなさを嘆いている。

 「文明社会の成人式は、あまりにも形式的で、甘すぎる。はたちになれば、もう腐った大人だ。<中略> こんな形式的な儀式で大人としてきびしさに立ち向かっていく感動がわいてくるわけがないじゃないか。」

 岡本太郎の著作には、熱く鋭い芸術論に混じって、こうした辛辣な、(正直言って耳が痛いと言うか、マゾッ気が刺激されるというか…)しかしかなり的を射た、文明批評や人生訓が数多く散見される。私など、もっと早くに出会っていたなら、また違った人生を歩んでいたかもしれないと思わせられる、力強いメッセージがてんこ盛りなのだ。

 だからこそ、太郎の著作は是非、若者は読むべきだと思う。きっと自らの現状に納得が行かず、進むべき道に迷っている若者の背中を、力強く押してくれることだろう。


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2011/10/17

英会話力  はなこのMEMO

 ここでは良くも悪くも世界で最も幅を利かせている(使用されている)言語である英語を、自分の意思を伝える手段として使うことを前提に話そうと思う。マスメディア等での「これから始めたい趣味は?」と言う質問に「英会話」と答える人が多いことに関して、日頃、私自身が感じていることである。


 高額な受講料を徴収する英会話スクールは、淘汰もあってひところに比べれば数が減ったように思う。

 私は海外(英語もある程度通じるアラビア語圏)に住んでいた時に、現地の友人作りの為にBritish Council現地校(の中上級コース)に通ったことはあるのだが、日本ではそういう類の英会話学校には通ったことがない。振り返ると、初級会話レベルなら、既に高校生の頃からしゃべっていた。もちろん留学経験などなかったが、行く先々で出会う外国人に(もちろん相手を選んで)、自分から積極的に話しかけていたからだ。そんな私の個人的な印象では、少なくとも初級レベルで英会話スクールに高い受講料を支払って通うのは、お金の使い方としては、もったいないような気がする。

 そもそも英語を学ぶ機会のなかったお年寄りならいざしらず、それ以降の世代で中学校・高校と英語の基礎を学んで来て、初級レベルの会話もおぼつかないと言うのは、英語力の問題ではなく、コミュニケーション能力の問題なのではないか?或いは最初から完璧にしゃべらなければと言う無意味な呪縛に囚われ過ぎなのか?はたまた、現在、英語を全く必要としない環境にいると言うことなのではないか?

 それでも英会話スクールに高い受講料を支払ってまで英会話を学びたいのはなぜ?

 習い事をすることで日々の暮らしにハリが出るかもしれない。
 同じ志(趣味、嗜好、志向)を持つ人々との出会いが叶うかもしれない。
 弥が上にも英語を話す機会が持て、英語を話すことへの抵抗感が薄れるかもしれない。
 
 …にしても、受講料は高すぎないか?その高さに見合った効果は期待できるのか?

 例えば、旅行会話をひととおり覚えて英語圏へ旅をする。覚えた英語が旅先でネイティブの相手に通じ、買い物、食事のオーダー等、自分のやりたいことがある程度できたなら、その達成感が、さらなる学習意欲へと繋がるのかもしれない。

 しかし、旅行会話程度なら、書店に行けばその類の本は幾らでもあるし、ネット上でも役立つサイトは幾らでも見つかる。

 「英会話が苦手なので英会話スクールへ」は、その苦手さの程度が問題なのだと思う。

 中高校で英語を学んだ世代なら、旅行会話程度なら、本やネットで十分だろう。あとは"多少の間違いを恐れない"&"聞き取れなかった場合に相手に聞き返せる"度胸があるかどうか。自分の意思を相手に伝え、相手の意思を理解する。要はコミュニケーション能力があるかどうかにかかっている。つまり、英語力云々以前の問題だ。 

 例えば、この日本でも、どこかで出会った見知らぬ人と、物怖じせずに会話ができるか?もちろん日本語で。会話は所詮コミュニケーションの手段なので、他人に無関心な人は、母語であろうが、外国語であろうが、上達しないだろう。それに、外国語能力は母語の運用能力に確実に比例する。日本語でマトモに会話できない人が、英語でもマトモに会話できるはずがない。

 その次の段階としては、会話のロジックを学ぶことだろうか?例えば、一般的に日本語は「○○だ。だから(So,) ■■したい」と、まず原因・理由を述べてから、自分のやりたいことを述べるが、英語は「■■したい。なぜなら○○だから。」と、まず自分の意思を伝えることが先で、その後にbecauseで原因・理由を述べるロジックだ。英語圏の人と会話する時、このロジックに留意するのとしないのとでは、円滑なコミュニケーションの上で大きな違いが出て来ると思う(おそらく、日本語の論法で行くと、相手は「この人は一体何が言いたいのか?」と、もどかしく思うことだろう。下手すると、最後まで話を聞いてもらえないかもしれない)。とりあえず最も主張したいことをまず言う。そして"So"は使わないことだね。

 そもそも伝えたいことがあるかどうかも大事だろう。自分自身に、相手に何かを伝えたいという明確な意思がない限り、会話は始まらない。逆に言えば、海外の人々に何か切実に伝えたいものがあるなら、その為の手段として、人は英語を必死に学ぶものなのではないか?

 そして、そこからさらに会話のレベルを上げるには、母語でどれだけ教養を備えているかが重要になって来ると思う。特に自国の歴史や文化についての知識が欠落していては、海外の知識階級からは、教養のない程度の低い人間と見なされる。もちろん海外に赴くなら、日本語での知識をせめて英語に変換するくらいの準備が必要だろう。これは自身の海外赴任時に痛感したことである。

 その点、我が家の息子は"ゆとり世代"のド真ん中で、学校教育における歴史教育はお粗末なものだった。特に理系の場合、大学の受験科目に歴史を選択しないケースが多く、その素養のなさは尚更だ(←もしかしたら、息子や彼の友人だけの問題なのかもしれないがとにかく知らなさ過ぎる)。だから、息子には「今からでも遅くないから、大学にいる間に歴史をきちんと学んだ方が良いよ」と、ことあるごとに言い聞かせている。私達親世代以上に海外との接点が増えるであろう息子達世代には、英会話の前にまず自分の基礎(日本語運用能力&教養)固めが重要だと思う。 

2011/10/16

「働く」と言うこと  はなこ的考察―良いこと探し

 小学生か中学生の頃、担任の教師が「"働く"とは、ハタ(傍)をラク(楽)にすることだ」と言われた。子ども心に、印象に残った言葉だ。

 "自分の周りの人を楽にさせる為に仕事をする"とは、実に日本人らしい発想、労働観だと思う。世界を競争相手にしのぎを削る昨今も、体格差や体力差で大陸系の人々に劣る個々のスタミナや馬力を、日本人はチームワークの総合力で補うしかない。

 そして、「ハタをラクにする」と言う考え方に則って見るならば、"頑張り過ぎる"のは、周りをけっしてラク(楽)にはしていないのではないか?寧ろ、「どうして私はこんなに頑張っているのに、あなたはもっと頑張らないのか?」と、無言の圧力をかけているようなものではないか?

 徹頭徹尾頑張るのではなく、時にはペースダウンする。それぐらいのゆとり(隙?)は、あっていいはずだ。人間はロボットじゃないのだから。

 …と、ここまで書いて、「出る杭は打たれる」と言う言葉も連想されるのだが、これは個人の"外に向かって吐き出すエネルギー"や"能力"が、周囲とあまりにもかけ離れた状態であるがために起こる不幸だと思う。こういう場合は、自分により近い次元の集団を求めて、現在帰属する集団から離れるべきだと思う。


 基本的に頑張ることは悪くない。周りに程よい刺激を与え、互いに切磋琢磨する環境を整える要素とも言えるだろう。

 たぶん黙って頑張っている分には、周りも好感を持ってその頑張りを認めているはずだ。しかし、「私はこんなに頑張っています」アピールが目につくようになると、周囲の見方は違ってくる。そういう人、身近にいませんか?

 例えば会う度に「もう忙しくて忙しくて…」とか、「今日は朝からアレやコレやで…」と早口でまくしたてられると、正直言って、聞いている方は気持ちが萎える。

 もちろん頑張ることは大切だ。しかし、そこに自己顕示欲が見え隠れすると、周りを興ざめさせる。気構え次第では、自身の努力や頑張りが周りに認められないどころか、疎まれるだけのような気がする。

 本当に素晴らしい「働き」ならば、自らアピールせずとも、周りが認めてくれるものなんじゃないかな?つまり、『あなたのおかげで「ハタ」が「ラク」になった』と。

 自分でも気づかないうちに周りから認められる、感謝される。そんな働き方ができたら理想だ。逆に、周りからの評価も気にならないくらい没頭できる仕事に出会えたら、仕事人としては幸せなんだろうな。

2011/10/14

負うた子に教えられる〜ONE OK ROCK  はなこのMEMO

 子どもを持つと言うことは、子どもを通じて、新たな世界や価値観を知ることでもあると思う。子育ては楽しいことばかりではないし、今の日本では金銭的負担も大きいが、子どもを通じて、自分の世界も広がって行くことに、子育ての醍醐味を感じる。

 例えば、大学生の息子を通じて、この日本に新たに芽吹いている才能を知ることもある。以下に紹介するロックグループ、ONE OK ROCK(ワンオクロック)などもそうだろう。youtubeでPVを広く公開しているので、徐々に海外の音楽ファンにも知られて来ているようだ。youtubeのコメント欄には、日本語と共に世界各国からのコメントが並ぶ(一応、日英伊仏西葡中語で書かれている内容は、ある程度理解できる。「昔のロックの焼き直しに過ぎない」等の批判的なコメントも一部なくはないが、概ね好意的なコメントが多い印象。まだ発展途上なバンドと考えれば、先達の音楽の影響が大きいのは当然だろうし、自分達の音楽を創り上げて行くのもこれからだろう。まだ彼らの夢は道半ばだ)

クリックすると元のサイズで表示します ボーカルのTaka(写真左から2人目)は、デビュー以来自らの実力で勝負しているので敢えて言及されたくないだろうが、日本を代表する歌い手、森進一森昌子のDNAを引き継いだ(2人の長男)、まさに音楽の申し子とも言うべき人物。

 残念ながら両親は離婚してしまったが、我が息子が武道館ライブで、父親の森進一を見かけたそうだ。子息達バンドのパフォーマンスをとても楽しんでいた模様。

 当初、ジャニーズ事務所に所属していて、その時に父親の持ち歌をステージで歌うシーンをたまたまテレビで見たことがあるが、まだ声や歌唱のスタイルが完成していなかったのか、お世辞にも上手いとは言えなかった。しかし、このONE OK ROCKでボーカルを担当して以来、歌い込んだ成果なのか、新曲を出すごとに歌が上手くなっているように思う。小柄だが、声量も十分だ。英語圏への語学留学(遊学?)経験もあるようなので、英語の発音も違和感がない(←英語が国際語として世界で幅を利かせている以上、英語を世界進出の足がかりにするのも戦略として理解できる。ある程度知名度を上げてから、出自が日本であることも含め、自分達のカラーを前面に出して行けば良いのだと思う。海外公演では、現地のファンが日本語の歌詞もそらんじていて、歌詞の意味を理解したくて日本語の勉強を始める人も出て来ているようだ。その流れは自然で、彼らの日本語と英語を取り混ぜたスタイルが認知されるのも、そう遠くない話なのかもしれない)

 ライブで彼の生歌を聴いた息子曰く、「ライブの間あれだけシャウトしているのに、後半に入っても声に全然疲れが見えない。すごい声量で圧倒される」らしいから、その歌唱の迫力は聞きしに優るものなのだろう。まさに魂を込めた歌唱は両親譲りか(笑)。そして、彼のボーカルを支えるバンドメンバーの演奏テクも年々腕を上げて来ている。そして、勢いのあるノリノリの曲ではサウンドにだけ注目が行きがちだが、特にバラード曲では、彼らが自ら言葉を紡いだと言う歌詞もなかなか深く、心揺さぶられるものがあるらしい(←私はまだそこまで聴き込んでいない)

 最近の地上派の音楽番組は「大人の思惑」とやらで、私なんぞには見分けのつかないK−POPと呼ばれる一群ばかりが取り沙汰され、ONE OK ROCKのような実力派バンドは登場しない。今や、本物の日本の旬の音楽シーンを見たければ、YouTubeかBS/CSを見るしかないようだ

 日本の若者は頑張っているどこぞの国と違って、国のサポートなんかなくたって(←まあ、事務所の力はある程度必要だろうけれど。大手のアミューズ所属と言うのは彼らにとってかなりのアドバンテージになっているのは間違いない)、自らの実力で道を切り開いて行くだろう

 以下、曲名をクリックすると、YouTubeにリンクします。


じぶんROCK

No Scared

Liar

完全感覚DREAMER

RE:MAKE

アンサイズニア

YouTube Mix for ONE OK ROCK

Deeper Deeper

The Beginning

Clock Strikes

Mighty Long Fall(The theme song of the movie "Rurouni Kenshin: Kyoto Inferno",New Release★)

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 写真はデビュー間もない頃のONE OK ROCK。中央のALEX(アレク)は残念ながら不祥事を起こして脱退し、今は4人で頑張っている。

ONE OK ROCK Official Site


【2013.11.7追記】

 今日、息子が田園都市線の車内で、元メンバーのアレクを見かけたそうだ。息子がつり革につかまって立っていたところ、その背後を足早にアレクが通り過ぎて行ったらしい。ONE OK ROCK時代と全然変わらない風貌だったと言うから、脱退後も気持ちが腐ることなく元気に過ごしているのかもしれない。日本では、アレクに限らず、近年ではNHKの有名アナウンサー等、過度の飲酒が原因の電車内でのトラブルは少なくない。それで少なからず人生に狂いが生じてしまうことは、本当に残念なことだ。youtubeのコメント欄を見ると、未だアレクの脱退を悲しんでいるファンもいるのだから。



【2014.6.24追記】

 公開2日目に、ONE OK ROCK初のドキュメンタリー映画「FOOL COOL ROCK! ONE OK ROCK DOCUMENTARY FILM」を、息子と見て来た。

 昨年敢行されたヨーロッパ、アジアツアーを記録したもので、ステージはもちろん、楽屋での4人のやりとりも活写されている。ステージに関しては確かに公式の映像なので、youtubeで見たファンが撮った映像とは比較にならないほどの完成度だったが、だからこそ途中で曲をぶった切るのではなく、せめて数曲はフルコーラスで流して欲しかった気がする。曲名の字幕も欲しかったな。まあ、これはあくまでもドキュメンタリーで、プロモーションビデオではない、と言うことなんだろうが…数こそまだまだメジャーのグループには及ばないものの、既に「るろうに剣心」やyoutube効果で世界中にファンがいて、ONE OK ROCKのステージを生で見られないファンも多いのは確かだからね。
 

 インタビューで、メンバーのグループひいては音楽への熱い思いは伝わって来た。若くして自分の目指す道が見つかり、それに向かって直向きに走り続ける彼らは幸せだと思う。大半の若者はおそらく、自分が何をしたいのか、何ができるのかが分からず、将来、何者になれるのかにも確信が持てず、迷い、悩んでいるはず。夢や目標は必ずしも叶うとは限らないが、有名無名に関係なく、自分のやりたい事が見つけられたら、ひとりの人間として、それが一番幸せなこと。そして、それは簡単なことではなく、もしかしたら、一生かけて探しつづけるものなのかもしれない。それを体現しているONE OK ROCKの姿は、若者には羨望の的だろうし、励まされる存在でもあるのだろう。

 大人の私から見たら、彼らの楽屋裏でのふざけ合いには、かなり幼さを感じたが、プロとしてのステージを離れたら、年齢的にはあれがフツーなのだろうか?ステージで見る彼らと楽屋での彼らのギャップが面白いと言えば面白いし、これから個々が精神的に成長すれば、主張がぶつかることも出て来るだろうし、音楽の方向性に違いも出て来るのだろうな。その時にONE OK ROCKはどのような変貌を遂げて行くのか、或いは、もうONE OK ROCKではなくなるのか、興味がある。過去の有名バンドが辿った道筋を見てみると、未だに結束の固いThe Rolling Stonesなんて希有な例だものね。

"FOOL COOL ROCK! ONE OK ROCK DOCUMENTARY FILM" trailer


2011/10/4

明治神宮→東京オペラシティ→都庁展望台(2)  散歩の記録

クリックすると元のサイズで表示します 御苑の自然を堪能した後、入場した北門から出て、本殿へと向かいました。

 この日は折しも本殿境内で「人形(ひとがた)感謝祭」(←詳しくはコチラをクリック)が開催されていました。
 
 「人形には魂が宿る」と考え、それを大切にする風習がある日本では、人形をゴミとして処分することに罪悪感を持つ人も少なくないでしょう。そこで、そうした人々に代わって、「古くなったり壊れたりした人形の魂をお祓いして、感謝の気持ちをこめて納める(お別れする)」お祭りとして平成元年から明治神宮で始まり、以後、毎年10月に行われているようです。今年で23回目となる年中行事ですが、私は知りませんでした。

 初穂料3,000円を納めて、人形を引き取ってもらうようですが、私が本殿に到着した正午頃には既に本殿の回廊伝いに沢山の人形たちが並べられていました。立派な五月人形、豪華な雛人形一式から、各地の土産物と思しき人形、使い古したぬいぐるみまで、その表情はどこか寂しげと言うか、悲しげでした。昨年だけでも約39,000体もの人形たちが納められたようです。

 雛人形などは骨董的価値のあるものも含まれているのではと思ったのですが、やはり当日鑑定士の方が来られて、文化的価値、史料的価値があると認められた人形は保存され、「思い出人形展」で展示公開されたりするようです。

 偶然、その場に居合わせたとは言え、ぬいぐるみを愛好する私には身につまされる現場でした。写真を撮るのも憚られるような、物悲しい光景でした。
  
クリックすると元のサイズで表示します 境内では、本殿での挙式を終えて出て来た花嫁花婿と親族一同が、神妙な面持ちで歩いて行く姿も目にしました。それも1組や2組でなく、次々と。

 境内にいた大勢の観光客はその場に居合わせた偶然を喜び、ここぞとばかりにカメラのシャッターを切っていました。私もそれに紛れて1枚海外からの観光客には良い土産話になったことでしょう。

クリックすると元のサイズで表示します 本殿境内に鎮座する御神木。楠でしょうか?濃い緑の葉が繁茂して、堂々とした佇まいです。

 そう言えば亡き父が、若い頃この明治神宮の本殿で撮った写真をとても気に入っていて、何度となく自慢げに子どもの私達に見せていたのを思い出します。あの時の父も、この威風堂々とした楠の若き日の姿を、もしかしたら目にしたのかもしれません。

 散歩用ガイドブックに掲載の地図が数年で役立たなくなるほど変貌著しい東京ですが、一方で、この明治神宮の森のように、時が移ろい、訪れる人が代替わりしても変わらない姿があります。素敵なことだと思います。

2011/10/3

明治神宮→東京オペラシティ→都庁展望台(1)  散歩の記録

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散歩日和には、原っぱでおにぎりを頬張るだけでも、心がウキウキします
写真右下部分に、手にしたおにぎりでも写りこんでいれば、ウキウキ気分がもっとリアルに伝わったのかもしれませんね


クリックすると元のサイズで表示します 昨日は、夫のたっての希望で、夫婦で再び街散歩に出かけました。息子は今度はエコラン大会(ホンダ主催の、手作り自動車の燃費の良さを競う大会)の準備の為、日曜日だと言うのに大学へ。

 私達夫婦の今回の行く先は明治神宮。これまでに何度も訪ねた場所です。と言っても季節を変えて、間をあけての訪問なので、「また来た」感はありません。

 明治神宮は多くの人で賑わう原宿駅からすぐの場所にありながら、神宮橋を渡り、一歩参道(南参道)に足を踏み入れれば、鬱蒼とした参道の並木に街の喧噪はシャットアウトされ、瞬時にして別世界へと誘(いざな)われたような感覚に襲われる不思議な場所です。本殿へと続く参道を歩くうちに、自然に気持ちも厳かになります。

 明治神宮公式HPの「明治神宮・自然・見どころ」の項を見ると、意外や意外、今や東京ドーム15個分に相当する広大な明治神宮の森が、当地に元々あったものではなく、長い年月をかけて多くの人々の尽力で育てられ、守られて来たことが分かります。


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 明治神宮はその名の通り、明治45年に崩御された明治天皇と、その皇后で大正3年に崩御された昭憲皇太后天皇を祭った神社です。参道の途中には明治天皇と昭憲皇太后の御歌が掲示されており、それを背景に記念撮影をする海外からの観光客も少なくないようです。先の戦争とは直接関わりのない神社のせいかアジアからの観光客も多く、彼らは屈託なく、かつ興味深げに「日本の宗教文化」に見入っているようです。

 震災後、海外からの観光客が激減しているとメディアが伝えていますが、今回、明治神宮では、世界各国から訪れた数多くの老若男女を見かけました。その光景に何だかホッとしました。時節柄、七五三で訪れた家族連れの姿も多く見かけたのですが、その中には父親が外国人(白人)の子どもが和服を着ている姿もありました。


 ところで、話は脱線しますが、原宿駅へと向かう電車の中で、中学生くらいのお嬢さんを連れた、細身長身のキレイなお母さんを見かけました。同じ原宿駅で電車を降りた彼女の後ろ姿をふと見ると、残念なことに少し猫背ぎみ。もったいない。せっかくおキレイなのに、もったいない。

 年齢的には私に近い方だと思いましたが、男性も女性も40代に入ったら、それまで以上に意識して背中をピンと伸ばし、胸を張るようにしなければ、一気に見た目年齢が老けてしまうように思います。女性なら姿勢が悪いと胸も下垂してしまうだろうし、お腹もたるんでしまうでしょう。呼吸も浅くなり、内臓の働きにも悪い影響が出そうです。美容だけでなく健康の為にも、姿勢には気をつけたいものです。私の夫も元々猫背ぎみなので、いつも気づいたら注意しています。私は時々ショーウインドーに映った自分の姿で、姿勢をチェックしています。

 …というように、散歩中は景色だけでなく、いろいろと観察しています。人間観察、路上観察も含めての街散歩と言えるでしょうか?

クリックすると元のサイズで表示します 今回は本殿に向かう途中にある明治神宮御苑(←詳しくはコチラをクリック)  に、初めて立ち寄ってみました。

 入場時にいただいた解説書によれば、明治神宮御苑は、江戸初期以来、加藤家井伊家の下屋敷の庭園だったのですが、明治時代に宮内省所管となり、当初は代々木御苑と呼ばれていたようです。度々明治天皇ご夫妻も訪れたと言う由緒ある御苑らしい。

 広さは約83,000uあり、鬱蒼とした森は武蔵野の面影を留めて、まさに都心の喧噪から離れた別世界です。苑内には南池(みなみいけ)を望む茶室の隔雲亭(かくうんてい)、皇太后さまも釣りを楽しまれたと言う御釣台(おつりだい)、萱葺きが美しい四阿(あづまや)、初夏には美しい花を咲かせる菖蒲田(しょうぶだ)、そして今も湧き水を湛え、その水が菖蒲田を潤し、南池に注ぐと言う清正井(きよまさのいど) などがあります。

 大鳥居をくぐって暫く歩くと、左手に御苑の北門が見えて来ます。大人ひとり500円の入場料を支払って中へ。まずは両脇に熊笹の生い茂る小径が迎えてくれました。そして雑木林を抜けて視界が開けた先に、四阿がありました。

クリックすると元のサイズで表示します萱葺きが美しい四阿
クリックすると元のサイズで表示します四阿の屋根の内側。その造形美に見とれる。

 巧みな手仕事によって作られた物は須く完成度が高く、この四阿の構造もまた必要最小限の、一切無駄のない設いで、完なる美を見せています。そこが凄いと思う。

クリックすると元のサイズで表示します南池@
クリックすると元のサイズで表示します南池A
クリックすると元のサイズで表示します南池Bこの日のベストショット、かな?

クリックすると元のサイズで表示します菖蒲田に向かう小径@
クリックすると元のサイズで表示します菖蒲田に向かう小径A

クリックすると元のサイズで表示します清正井@間近で見る為に、行列に並ぶ。
クリックすると元のサイズで表示します清正井A
はヒンヤリと冷たく澄んでいるが、飲用には適さないらしい…

 今回、ブログに記事をUPする為に調べて初めて知ったのですが、この清正井はタレントがテレビで紹介して以来、都内有数のパワースポットとして人気が高いらしく、一時はこれを見る為に3時間もの待ち行列ができたのだそうです。因みに私達夫婦が行った時は、10分と待たずに見る事ができました

 これはテレビの影響の大きさを物語るエピソードなのか?それとも、ブームに乗せられ易いタイプの人々が、普段よくテレビを見ているということなのでしょうか?

クリックすると元のサイズで表示します鬱蒼とした森

そして、なんと…
クリックすると元のサイズで表示しますタヌキ発見!

 苑内を散策中、何度となくタヌキの姿を見かけました。動物園で檻の中のタヌキを見たことはありますが、自在に森の中を動き回る野性のタヌキを見るのは生まれて初めてです。しかも都心の中の森で?!その昔、NYのセントラルパークや、英国はロンドンのハイドパーク、はたまたエジンバラの駅至近の公園で、リスを見かけた時と同様の驚きでした。とは言え、タヌキは動きがすばしっこく、なかなかその姿をカメラで捕らえることができませんでした。

 体長はざっと見たところ30cmくらいでしょうか?鼻筋を貫く黒毛と、円らな瞳が印象的でした。一体、ここに何匹棲息しているのでしょう?

 苑内では他にツツジ、藤、山吹、サツキ、花菖蒲、睡蓮と四季折々の花が楽しめ、南池には多数の鯉や亀や水鳥が棲息しているようです。

 散歩の最後に昇った都庁の展望台からは、無機質な灰色のコンクリートジャングルの中に、美しい緑色の塊が何カ所か見えたのですが、そのひとつが明治神宮でした。それはあたかも砂漠のオアシスのように、渇いた都会を潤す役割を担っているかのようでした。都会のはなんて目に優しいのだろう、心を潤すのだろうと、下界を見下ろしながら改めて思ったのでした。


2011/10/1

大人だからって、何でも知っているわけじゃない  読書記録(本の感想)

 岩波ジュニア新書シリーズなどもそうだが、児童生徒向けに書かれている本は結構侮れない。各分野の専門家が専門的な内容を、子どもでも分かるようにと、できるだけ平易な表現を用いて書いているから、その質は確かだし、大人にも分かり易いものになっている。

 大人だからって、何でも知っているわけじゃない。寧ろ複雑多様化した現代社会は、個人の手に余るほどの情報で溢れ帰っていて、知らないことがあるのは当然とも言える(あまりにも無知なのは恥ずかしいけれど)

 
それに、ある事柄について知らないと言う点では、大人も子どもも関係ない。知らないことを知ったかぶって知らないままにしておくより、素直に知らないことを認め、「知りたいと思った時が学び時」と考えて、人から教えを請うなり本を読むなりして学んだ方が、自分にとっては有意義なはずだ。昔から「聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥」とも言われている。手始めに児童向けの本で学んでみるのも、何ら恥ずかしいことではないと思う。

 先日読んだ金子哲雄著『学校では教えてくれないお金の話』も、河出書房新社から出ている「14歳の世渡り術」と言うシリーズの中の1冊。情報量としてはそれほど多くはなく、大人の私にはあっという間に読めた。中学生でも分かるようにと、やはり著者自身の経験談や具体例を多く挙げて、分かり易い解説を心がけている印象の本だった。

 本書を読んでまず感じたのは、まさに著者の育った家庭環境が、現在の著者を形作っていると言うことだ。船会社に勤めていたという著者の父は、ことあるごとに「経済」の観点から世の中の仕組みを説いて聞かせ、著者に経済観念の基礎を植え付けたと同時に、「経済」を切り口に、常に自分の頭でよく考えることを促したように見える。

 だからこそ、著者は中学生にして、「自分の一生に、いったいどのくらいのお金が必要なのかを計算し」、「社会人になるということは、この費用を負担することなんだ。生きていくために必要な経費を稼ぐ能力を、大学卒業までに身につけなければならないんだ」と考えるに至ったのだろう。

 本書は「お金の本」と銘打っているだけあって、延々とお金にまつわる話が続く。しかし、だからと言って、もちろん著者は必ずしも金の亡者ではないのである(人より抜きんでて利に聡い印象はあるけれど・笑)

 以下に「なるほどね」と思った、著者の言を列挙してみる(実際の著書は「です。ます。」調で書かれている)

金銭感覚とは、先を見通す力。これから先の人生を生きていくために、どれくらいのお金が必要かを把握しておく能力。

金子流お金持ちの定義は「お金を回せる人」。僕に言わせれば、100億円貯金しているだけの人よりも、月給20万円の会社員であっても、砂糖の取引を担当し、10億円動かしている人のほうが金持ち。

 なぜなら、砂糖の取引はさとうきびの栽培から、砂糖工場、流通、販売まで、多くの雇用を生んでいるから。雇用されて賃金を貰った人はその資金で(中略)、さまざまな場面でお金を使う。(中略)みんなの資金が様々な場面で使われ、お金が(社会で)回ることになるのだ。

 つまり、「お金が回る」とは、みんながお金を使って、経済が活性化するということなのだ。(→著者はマネーゲームには否定的)

お金持ちには「お金をもうけるだけでなく、世の中に広くお金を回す」という義務がある。例)慈善活動に熱心なビル・ゲイツ

景気が悪くなる原因は「今日より明日のほうが悪くなる。将来、収入が減るかもしれない」という不安。資本主義社会の構造は「風が吹けば桶屋がもうかる」で、例えば収入不安で皆が貯金→コンビニでの弁当を買い控える→コンビニ弁当が売れない→弁当工場の人が失業→コンビニ売り上げ減でコンビニ店員も失業→国は多くの人に失業手当を支払う→公共事業の予算がなくなる→道路工事の人も失業(と言う負の連鎖反応を呼ぶ)

景気が良いか悪いかはゴミ集積所を見れば分かる→個人消費が落ち込めばゴミの量が減る=景気が悪い

少子化は不況のシグナル→子育ては個人消費を増やし、雇用を生み、税収の増加に繋がる。逆に少子化は個人消費が減り、税収が減り、国が困り、国民が困る。

自粛するより、お金を回そう→今回の震災の被害総額は約16〜25兆円と言われている。これを国の税金で賄わなければならない。だから被災地以外の人々はできるだけ普段通りの生活をして、お金を使い、1円でも多くの税金を納めた方が良い。

コンビニ弁当の価格が高めなのは、昼までに店に弁当が届いているという「時間保証」をしているから。→違う方面から2台の弁当配送車を出し、事故や渋滞などのアクシデントに備えており、そのコストが弁当代に上乗せされている。→「時は金なり」で、時間を守れない人は、自分の価値を下げてしまっている!

値下げにも良いものと悪いものがある。→市場拡大を伴わないコスト削減(人件費、さまざまな経費)による値下げは、業界全体の消耗戦となるだけで、悪い値下げだ。例)牛丼チェーンの値下げ競争。

絶対に「連帯保証人」になってはダメ。お金の貸し借りに関する「連帯保証人制度」は、日本の悪い習慣のひとつで、海外では殆ど見られない。「連帯保証人制度」は自分の人生だけでなく、周囲の人の人生まで狂わせてしまう恐れがある

「ケチ」とはお金を使わないことで他人に不快感を与えたり、迷惑をかけたりすること。お金を使わないのも「自分のため」。「節約」とは人に迷惑をかけずに、自分のできる範囲でお金をかけないようにする「賢い生き方」を意味し、「活きたお金の使い方」をするために無駄遣いをしないこと。

節約を身につければ、強く生きられる。→世の中にどのような変化が起こり、日本経済がどうなって行くか不確定である以上、収入減となっても生きてゆけるよう、普段から節約を心がけること。

お店の集客作戦の裏をかく→商品には、客を集めるために採算度外視で激安の価格設定となっている「集客商品」と、店の収益源となる「収益商品」がある。何もかも同じ店で揃えるのではなく、その店の「集客商品」だけを買えば確実に買い得。

商品は激戦区で買え。しかし、人生では激戦区を避けるべし。→激戦区では店舗間で価格競争が起きて安く商品が買える。逆に人生では競争相手の多いジャンルで生き抜くのは大変なので、競争相手のいないジャンルで勝負しよう!→著者は「流通ジャーナリスト」と言う職業を自ら考案した。

友達はお金に優る財産。「秀才」ではなく、「集才」を目指そう!→自分ひとりで全てに秀でる「秀才」になるには大変な努力が必要。しかし、さまざまな才能を持った人を集める「集才」なら簡単。ひとつでも得意分野を持って友達を惹きつけ、普段から互いに助け合い、いざとなれば全員の才能を集結させて事に当たろう。→自分が「窓口」になり、自分の周囲に人が集まるようになれば、現代社会の問題点や人々が求めているもの、世の中の流れが読めるようになる。才能を持った友達が多ければ多いほど、人生で苦労しない。

(これから自らの人生を切り開く中学生に向けた言葉として) やりたいことが見つからないうちは、とりあえず勉強!→大学全入時代では、大学生であること自体には殆ど価値はなく、どの大学に入学したかが重要。

教育ほど素晴らしい財産はない→工業製品は新製品が出れば価値が相対的に下がるが、教育によって身につけた知識や教養の価値が下がることはない。金のネックレスのように、国境を越えて、世界中どこにでも持っていける。しかも、これからは世界が活躍の場になる。そのために語学の習得は必要。


 著者は教育に関してもコスト意識が徹底していて、自らの進学先も「教育は投資だ」との考えを基本に、「最もコストパフォーマンスに優れた大学」を選んだらしい(正確には、"よりラク<確実>な方法として"付属高校からの進学"を果たしている)

 その彼の論法からすると、私なんぞ、コスパ無視で大学を選択してしまったおバカさんである世の中、お金だけでは測れない価値もあると思うが、現実問題、私は大学卒業後、進学にかかった費用に見合った利益を上げるどころか、大学で学んだことを生かして1円の利益を上げることさえ出来ていない。

 一方、一緒に卒業した若い友人達の多くは、学校教師としてのキャリアを着々と築いている。当時の私はと言えば、学業と家事との両立が必然であったので、夜間に授業のある教職科目を履修することには無理があった。何の制約もなければ、おそらく履修していたと思う。

 こと「職業選択」の観点から見れば、日本社会の現状では、「できるだけ若いうちに学ぶこと」は重要だろう。若いうちにシッカリ学んだ人には、目の前に幅広い選択肢と大きなチャンスが与えられるはずだ。まさに「鉄は熱いうちに打て」である。自分のこれからの人生を戦略的に見据えると言う意味で、本書は(もちろん既に自覚している人は除くが)中学生をはじめ、遅くとも社会へ巣立つ前の若者に、一読を勧めたい。



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