2010/11/29
「ゴッホ展」(国立新美術館)の感想 文化・芸術(展覧会&講演会)

ひと月以上前に新聞店から招待券を貰っていたのだが、私がずっと体調がすぐれなかった為に延び延びになっていた。昨日も咳がまだ出る状態だったが、会期末に近づくにつれ混雑が酷くなることを予想して、思い切って行ってみた。今年は前半のオルセー展を、これまた股関節の故障で見逃してしまったので、少しくらい無理をしないと殆ど見ず終いで1年が終わってしまいそうなのが何とも悔しかったのだ(咳は最小限に留めたつもりだが、会場でご一緒した方々、お許しを)。
ゴッホは大好きな画家のひとりだ。その作品は何度見ても飽くことがない。見る度に新たな感動がある。発見がある。国内外で何度、彼の作品との出会いを、或いは再会を喜んだか知れない。



今回の展覧会は、ゴッホの母国であるオランダの、ゴッホ・コレクションの中核を成す2つの美術館、「ヴァン・ゴッホ美術館」と「クレラー・ミュラー美術館」からの出品が核となっている。実は両美術館へは、20年近く前に訪れている。前者はアムステルダム市内に、後者はアムステルダムから列車で1時間ほどの街の広大な国立公園の中にある。
特に後者は最寄り駅から車(自転車で行けないこともないかな?)でないと行けないような奥まった場所にあり、少なくとも私が訪ねた当時は個人で行くにはアクセスが良くなかった。それでもその時行けたのは、夏季に期間限定(2週間)で、列車のチケットと駅からのバスの送迎と公園内のレストランでパスタランチがセットになったものが、アムステルダム中央駅で販売されていたからだ。今は世界的に人気も高まっているので、そういったサービスチケットが常時販売されているかもしれないので、興味のある人は調べてみたら良いと思う。


今回は残念ながら思い出の《アルルの跳ね橋》も《古靴》も出展されていない。しかし、ゴッホのオランダ時代の初期の作品から、フランス時代の晩年の作までを万遍なく揃え、並々ならぬ情熱を持って画家としての10年間を駆け抜けたゴッホの、かけがえのない遺産を目にすることができる展覧会となっている。
《サン=レミの療養院の庭》(1889、クレラー・ミュラー美術館蔵)

美術館の照明に照らされて、なぜかひと際キラキラと輝き、画中の多彩な色がさんざめいていた《サン=レミの療養院の庭》(左画像)。PCのモニターで、その素晴らしい色彩の競演を再現することは到底不可能。種々の庭木の葉を巧みに描き分けた筆触の妙は、実物の絵の具の厚みを見てこそ堪能できるもの。とにかく本物を目にしたら、目が釘付けになるような美しさだった。この絵に魅了されたのはどうも私だけではないようで、会場の作品の前で暫く佇む人が少なくなかったし、ショップでも絵はがきを買い求める人が多かった。
ここで改めて考えるのは、作品を美術館で見ることの意味だ。夫の選んだ1枚は《草むらの中の幹》だが、草むらの中で堂々と立つ二又に分かれた幹は茶、赤、黄、青、白と様々な色で彩られている。夫はそこが気に入ったらしく「画家の眼って変わっているんだよ。一般の人間には見えないもの、色が見えるらしい」と笑った。

そうした実物とのギャップは印刷画像でも顕著だ。例えば、ルオーの厚く塗り重ねた絵の具の質感や、そのボリュームがもたらす迫力は、実物を目の前にしてこそ感じられるもので、そこで初めて、なぜ彼がそこまでして絵の具を厚く塗り重ねたのかが、鑑賞者には納得できるものなのではないだろうか?表面がつるんとした画集では、ルオー作品の何十分の一の魅力も伝えることはできまい。
会期も後半に入って、休日のゴッホ展の会場内は作品の前に人波が2重3重にできる混雑ぶりだったが、そんな中で小学生の姿もチラホラと見られた。案の定、大人達の高い壁に阻まれて、せっかくの素晴らしい作品も、子供達には見づらい状況だった。こういう時は、彼らが視界を遮ることは殆どないのだから、大人は大人らしい懐の深さを見せて、子供達を作品の前に立たせてあげて欲しいと思う。
さらに言わせて貰えば、ゴッホの絵は子供達にこそ見て貰いたい。子供達には、エネルギーのほとばしるゴッホの作品から彼が絵に傾けた情熱を、夢中になれることに出会えた彼の人生から生きることの素晴らしさを、是非、感じ取って欲しいと私は思っている。その為には、新宿の損保ジャパン東郷青児美術館のように、休館日に子供達だけの鑑賞日を設けるのもひとつの方法だろう(その際は、学校の校外学習としての位置づけで、引率教師の管理の下、ボランティア等の助けを借りて見学して貰う)。混雑必至の企画展では今後、そういった美術館側の配慮も必要なのではないか?
生前、僅か1枚しか売れなかったゴッホの作品。ゴッホは失意のうちにこの世を去ったのかもしれないが、彼の作品が大量にまとまって遺族(弟テオの妻)の元に残されたが故に、それらは個人蔵として散逸することも、個人宅に秘匿されることも殆どなく、クレラー・ミュラー美術館創設者夫妻をはじめとする、”画家ゴッホの発見者”の尽力もあって、今日では美術館で日々多くの人々の目に触れられ、感動を与えている。彼の人生に思いを馳せながら、彼が多くの作品を遺してくれたことに感謝しながら、ひとつひとつの作品を見てみるのも、良いのかも知れない。
会期は12月20日(月)まで。火曜日定休。
◆国立新美術館 ゴッホ展公式サイト
以下のリンク記事は、ゴッホやクレラー・ミュラー美術館、及びオランダにまつわるエピソードを綴ったもの。興味があれば。
◆「オランダと私」(はなこのアンテナ@ココログ)
もし時間があれば、改めて《アルルの寝室》や2枚の自画像についても言及してみたい。
2010/11/28
炊飯器でふかし芋♪ 「食」についての話題


先日、はとバスツアーを利用して、北関東へ紅葉狩りに行って来ました。
その時、お土産にいただいたのが、さつま芋。22cmほどの立派な芋を3個も

どうやって食べようかと思って、ネットでレシピを検索。そこで見つけたのが、炊飯器でふかし芋です。
基本のレシピは、中サイズの芋2本に水100ccと塩小さじ1/2で、普通にご飯を炊くように炊飯スイッチを押す、というものなのですが、我が家の芋は特大サイズなので、水は150cc 、塩は小さじ1/2より少し多めを入れて、炊いてみました。
(水分量は芋の品種で微調整を。例えば紅あずまに比べて安納芋は水分を多めに含んでいるので、レシピより若干水を少なめにするなど…)
出来上がりは写真の通り。ほくほくして、ものすごく甘く仕上がっています。





何でも芋は長い時間をかけてじっくり加熱すると、甘味が最大限に引き出されるのだそうです。つまり、炊飯器で炊くのは理にかなっているわけですね。このレシピを最初に考え出した人の発想力と勇気には、ただただ感心するばかりです



※ただし、私はこの方法で何度も作って、これまで炊飯器に特に問題はなかったのですが、少しでも"故障"が心配な人は、従来のやり方で作った方が無難でしょう。
2010/11/27
もしかして??? 日々のよしなしごと
先日、病院の帰りに駅前のバスターミナルでバスを待っていたところ、待ち行列の先頭に立っていた私は、斜め背後から声をかけられた。
「すみません。ここは○○行きのバス停ですか?」
振り返るとメガネをかけ、杖をついた30代くらいの小柄な男性で、視線を空に向けていたので視覚障害者に見えた。
確かにそこは○○行きのバス停だったので、「そうですよ」と私が答えると、「次は何分のバスですか?」と聞いて来た。時刻表によれば2,3分後にはバスが来る予定だったので、その通りに答えた。すると件の男性は、
「それじゃあ、乗るときに肩を貸して貰えますか?ボクは△△で降りたいのですが、そこを通りますよね」と言うので、私はバスの出口に最も近い優先席に彼を案内すれば良いと解釈して、「ええ、肩ですね。良いですよ」と請け合った。
それからバスから来るまでの間、件の男性は「今、外はどれくらいの明るさですか?」とか「暗くなったら全然見えなくなるんですよ」と、今にして思えば、自身の障害の程度をアピールするような話ぶりだった。
ほどなくバスが来て、肩を貸し、段差への注意を促し、バスの中程にある優先席へ案内すると、「いや、そこは嫌だ。二人席で一緒に座りたい」と言う。バス後方部分の二人席ゾーンに行くには段差があるし、どう考えても優先席の方が出口に一番近く、ゆったりとしたスペースで乗り降りには便利だ。そもそも住宅街の中を走るミニバスの狭小で窮屈な二人席が嫌いな私は(本当に横幅も奥行きもとんでもなく狭くて、長身の夫は足が収まらないし、タイヤハウス上の席なんて座るのも立つのも一苦労)、家族と一緒でも一人席に座るのが常。ましてや見知らぬ男性と一緒になんて、立っていられないくらい体調が悪い状態でもない限り、絶対嫌だ。
あまりにしつこいので、「私はひとり席にいつも座りますので」と私がきっぱり断ると、その男性は何やらブツブツ言いながら慣れた足運びで段差を跨いで、私の席のすぐ後方の二人席にひとりで腰かけた。そして、私の座席とその人の座席の間にある仕切り壁に、L字型に折りたたんだ杖の持ち手を引っ掛けた。前方に大きくはみ出した、その杖の持ち手が、バスの走行中、前後に大きく揺れて私の後頭部を何度も直撃した。何だか、彼の言葉に従わなかった私への悪意が感じられたのだが、考えすぎだろうか?
内心少し腹が立っていたし、バスの車内アナウンスもあったが、バスがその男性が降りると言うバス停に着いた時には、一応「△△に着きましたよ」と声をかけた。男性は「どうも」と言って降りて行った。
一連の出来事に何となく釈然としなかった私が、この一件を帰宅した夫に話したら、何と夫はバス停で同じような場面に何度か遭遇したことがあると言う。その時は女子高校生だったらしいが、しつこく言い寄る男性を、女子高校生は巧くかわしていたらしい。夫の目にも、男性の態度は奇妙に見えたそうだ。「新手のナンパなんじゃないの?はなこも女子高校生に見えたのかね」と夫は笑っていたが、私は笑えなかった。いつも利用しているバスなら、他人の手助けなんて要らないのでは?
もしかしたら、件の男性は話し相手(しかも異性の?)が欲しかったのかもしれないが、常識的に見て、一般の女性は、初対面の見知らぬ男性と気易くおしゃべり等しないだろう。
私は普段、老若男女関係なく困っている人を見かけたら、自分のできる範囲で手助けはするよう心がけている。しかし、振り返ってみると、その親切心?につけこまれて、変な人につきまとわれたことが過去に何度かあった。それはバイト先のファーストフード店のお客さんだったり、学園祭に来た他大学の学生だったり、たまたま電車で乗り合わせた外国人だったり。そういう不快な事態に遭遇すると、親切心は仇になるのかと心が萎える。本当に助けを必要としている人にも疑いの目を向けてしまうようになるのではと危惧する。
とは言え、一部の悪意?(下心?)を持った人のせいで、誰も信じられなくなったら哀しい。相手がどんな人かの見極めは難しいかもしれないが、その場でサポートを必要としている人(本当に困っている人)がもしいたなら、今後も自分ができる範囲で手助けはして行きたい。
「すみません。ここは○○行きのバス停ですか?」
振り返るとメガネをかけ、杖をついた30代くらいの小柄な男性で、視線を空に向けていたので視覚障害者に見えた。
確かにそこは○○行きのバス停だったので、「そうですよ」と私が答えると、「次は何分のバスですか?」と聞いて来た。時刻表によれば2,3分後にはバスが来る予定だったので、その通りに答えた。すると件の男性は、
「それじゃあ、乗るときに肩を貸して貰えますか?ボクは△△で降りたいのですが、そこを通りますよね」と言うので、私はバスの出口に最も近い優先席に彼を案内すれば良いと解釈して、「ええ、肩ですね。良いですよ」と請け合った。
それからバスから来るまでの間、件の男性は「今、外はどれくらいの明るさですか?」とか「暗くなったら全然見えなくなるんですよ」と、今にして思えば、自身の障害の程度をアピールするような話ぶりだった。
ほどなくバスが来て、肩を貸し、段差への注意を促し、バスの中程にある優先席へ案内すると、「いや、そこは嫌だ。二人席で一緒に座りたい」と言う。バス後方部分の二人席ゾーンに行くには段差があるし、どう考えても優先席の方が出口に一番近く、ゆったりとしたスペースで乗り降りには便利だ。そもそも住宅街の中を走るミニバスの狭小で窮屈な二人席が嫌いな私は(本当に横幅も奥行きもとんでもなく狭くて、長身の夫は足が収まらないし、タイヤハウス上の席なんて座るのも立つのも一苦労)、家族と一緒でも一人席に座るのが常。ましてや見知らぬ男性と一緒になんて、立っていられないくらい体調が悪い状態でもない限り、絶対嫌だ。
あまりにしつこいので、「私はひとり席にいつも座りますので」と私がきっぱり断ると、その男性は何やらブツブツ言いながら慣れた足運びで段差を跨いで、私の席のすぐ後方の二人席にひとりで腰かけた。そして、私の座席とその人の座席の間にある仕切り壁に、L字型に折りたたんだ杖の持ち手を引っ掛けた。前方に大きくはみ出した、その杖の持ち手が、バスの走行中、前後に大きく揺れて私の後頭部を何度も直撃した。何だか、彼の言葉に従わなかった私への悪意が感じられたのだが、考えすぎだろうか?
内心少し腹が立っていたし、バスの車内アナウンスもあったが、バスがその男性が降りると言うバス停に着いた時には、一応「△△に着きましたよ」と声をかけた。男性は「どうも」と言って降りて行った。
一連の出来事に何となく釈然としなかった私が、この一件を帰宅した夫に話したら、何と夫はバス停で同じような場面に何度か遭遇したことがあると言う。その時は女子高校生だったらしいが、しつこく言い寄る男性を、女子高校生は巧くかわしていたらしい。夫の目にも、男性の態度は奇妙に見えたそうだ。「新手のナンパなんじゃないの?はなこも女子高校生に見えたのかね」と夫は笑っていたが、私は笑えなかった。いつも利用しているバスなら、他人の手助けなんて要らないのでは?
もしかしたら、件の男性は話し相手(しかも異性の?)が欲しかったのかもしれないが、常識的に見て、一般の女性は、初対面の見知らぬ男性と気易くおしゃべり等しないだろう。
私は普段、老若男女関係なく困っている人を見かけたら、自分のできる範囲で手助けはするよう心がけている。しかし、振り返ってみると、その親切心?につけこまれて、変な人につきまとわれたことが過去に何度かあった。それはバイト先のファーストフード店のお客さんだったり、学園祭に来た他大学の学生だったり、たまたま電車で乗り合わせた外国人だったり。そういう不快な事態に遭遇すると、親切心は仇になるのかと心が萎える。本当に助けを必要としている人にも疑いの目を向けてしまうようになるのではと危惧する。
とは言え、一部の悪意?(下心?)を持った人のせいで、誰も信じられなくなったら哀しい。相手がどんな人かの見極めは難しいかもしれないが、その場でサポートを必要としている人(本当に困っている人)がもしいたなら、今後も自分ができる範囲で手助けはして行きたい。
2010/11/22
ちょこっと美術について 文化・芸術(展覧会&講演会)
表題通り、ちょこっと美術についてのお話。
■今日、ボランティア仲間から、以下のような問い合わせのメールが。
「突然ですが映画『ハーブ&ドロシー』を見られましたか?興味があるのだけれど、なかなか行くのが億劫な為、誰かのひと押しが必要な私」
スミマセン。その映画について、私は不勉強で知りませんでした。早速ググッてみたところ、これがアート・ファンや、多くの善意で支えられている美術館の"成り立ち"に思いを馳せる人間にとっては、必見とも思える、良質なドキュメンタリーと思しき作品でした。ぴあ誌でも評判な位ですから、知らない私のアンテナ感度が鈍っているということなのでしょう。アート好きなんて、恥ずかしくてとても言えない
ハーブ&ドロシー夫妻のような、対象に寄せる純粋な愛情や、私利私欲に囚われない謙虚さは、今の世の中で影響力を行使できるであろう立場にある人々に、(全員とは言わないけれど)最も欠けている資質なんじゃないかと思う。そういう立場にない(権力や名声に程遠い、市井の人々と言う意味では、ハーブ&ドロシー夫妻に近い?)大多数の人々には、勇気を与えるご夫妻の生き方ではないかしら?
残念なことに、日本のマス・メディアではアート作品と言えば、投機的価値で語られることが多いような印象があります。元はイギリスの美術品鑑定番組を下敷きに作られたであろうテレ東の人気番組「開運なんでも鑑定団」も、いろいろ蘊蓄を披露してくれるのは有り難いのですが、鑑定対象の品々の着地点は結局、「どれだけの市場価値があるのか?」〜鑑定依頼者の大半は金銭的価値にばかり関心を寄せて、作品自体に愛着を持たない人があまりにも多いのは何だか哀しいですね。作品の素晴らしさに敬意を持てない人の手元にある作品は不幸だと思います。さっさと、それを持つに相応しい人(作品を心から愛でてくれる人)の手に渡して下さい。

◆映画『ハーブ&ドロシー(原題:Herb & Dorohty)』公式サイト
■修復最前線?!
去る9月に美術館のボランティアの定例研修で、美術修復家として活躍されているM先生のお話を伺いました。
そこで目からウロコが落ちたのが、修復作業では対象が油彩画でも、水彩絵の具で修復が行われるという話。塗りやすく、落としやすいと言うことでしょうか?
さらに考えてみれば当然のことなのですが、何百年も前の作品なので、作品の創作当時の作品の色は誰も知る由がない。つまり、完全な再現は不可能ということです。もちろん、修復家は作品が書かれた当時の文献や描画技術の指南書に当たる等して、当時の色に出来る限り近づける努力はしますが、現実問題として現代に生きる私達は、創作された時代にタイムトラベルでもしない限り、創作当時の色を誰も見ることができないのです。
と言うことは、今、私達が目にしている作品は、画家の想像もしなかった色に変化している可能性が大きいのです。
では、描き手である画家は自身の作品について、何百年も残すことを意識して、例えば使用する絵の具選びに注意を払っていたのかと言うと、中にはそういう画家もいたらしいとのこと。
そもそも修復作業自体、時代によりその意味づけが違い、それにより修復の手法もさまざまなので、絶対的なものではない。現代の修復は極端な言い方をすれば「できるだけ、何も手を加えない」のがベストのようです。これ以上、劣化させない、現状維持を旨とする、と言うことでしょうか?
ところで、映画「真珠の首飾りの少女」では、スカーレット・ヨハンソン演じるメイドの少女が、コリン・ファース演じるフェルメールの絵の具作りの手伝いをしているシーンがありました。しかし、先生のお話によれば、お金を取って弟子入りさせていた(←画家の貴重な収入源)時代に、メイドに絵の具作りをさせることはあり得ないとのこと。実在の人物を描く映画の場合、実話の中にフィクション(創作)のエピソードが巧みに散りばめられていることに留意しなければと、今更のように思いました。
◆当ブログ内関連記事:「美術館の役割〜保存・修復」
■今日、ボランティア仲間から、以下のような問い合わせのメールが。
「突然ですが映画『ハーブ&ドロシー』を見られましたか?興味があるのだけれど、なかなか行くのが億劫な為、誰かのひと押しが必要な私」
スミマセン。その映画について、私は不勉強で知りませんでした。早速ググッてみたところ、これがアート・ファンや、多くの善意で支えられている美術館の"成り立ち"に思いを馳せる人間にとっては、必見とも思える、良質なドキュメンタリーと思しき作品でした。ぴあ誌でも評判な位ですから、知らない私のアンテナ感度が鈍っているということなのでしょう。アート好きなんて、恥ずかしくてとても言えない

ハーブ&ドロシー夫妻のような、対象に寄せる純粋な愛情や、私利私欲に囚われない謙虚さは、今の世の中で影響力を行使できるであろう立場にある人々に、(全員とは言わないけれど)最も欠けている資質なんじゃないかと思う。そういう立場にない(権力や名声に程遠い、市井の人々と言う意味では、ハーブ&ドロシー夫妻に近い?)大多数の人々には、勇気を与えるご夫妻の生き方ではないかしら?
残念なことに、日本のマス・メディアではアート作品と言えば、投機的価値で語られることが多いような印象があります。元はイギリスの美術品鑑定番組を下敷きに作られたであろうテレ東の人気番組「開運なんでも鑑定団」も、いろいろ蘊蓄を披露してくれるのは有り難いのですが、鑑定対象の品々の着地点は結局、「どれだけの市場価値があるのか?」〜鑑定依頼者の大半は金銭的価値にばかり関心を寄せて、作品自体に愛着を持たない人があまりにも多いのは何だか哀しいですね。作品の素晴らしさに敬意を持てない人の手元にある作品は不幸だと思います。さっさと、それを持つに相応しい人(作品を心から愛でてくれる人)の手に渡して下さい。

◆映画『ハーブ&ドロシー(原題:Herb & Dorohty)』公式サイト
■修復最前線?!
去る9月に美術館のボランティアの定例研修で、美術修復家として活躍されているM先生のお話を伺いました。
そこで目からウロコが落ちたのが、修復作業では対象が油彩画でも、水彩絵の具で修復が行われるという話。塗りやすく、落としやすいと言うことでしょうか?
さらに考えてみれば当然のことなのですが、何百年も前の作品なので、作品の創作当時の作品の色は誰も知る由がない。つまり、完全な再現は不可能ということです。もちろん、修復家は作品が書かれた当時の文献や描画技術の指南書に当たる等して、当時の色に出来る限り近づける努力はしますが、現実問題として現代に生きる私達は、創作された時代にタイムトラベルでもしない限り、創作当時の色を誰も見ることができないのです。
と言うことは、今、私達が目にしている作品は、画家の想像もしなかった色に変化している可能性が大きいのです。
では、描き手である画家は自身の作品について、何百年も残すことを意識して、例えば使用する絵の具選びに注意を払っていたのかと言うと、中にはそういう画家もいたらしいとのこと。
そもそも修復作業自体、時代によりその意味づけが違い、それにより修復の手法もさまざまなので、絶対的なものではない。現代の修復は極端な言い方をすれば「できるだけ、何も手を加えない」のがベストのようです。これ以上、劣化させない、現状維持を旨とする、と言うことでしょうか?
ところで、映画「真珠の首飾りの少女」では、スカーレット・ヨハンソン演じるメイドの少女が、コリン・ファース演じるフェルメールの絵の具作りの手伝いをしているシーンがありました。しかし、先生のお話によれば、お金を取って弟子入りさせていた(←画家の貴重な収入源)時代に、メイドに絵の具作りをさせることはあり得ないとのこと。実在の人物を描く映画の場合、実話の中にフィクション(創作)のエピソードが巧みに散りばめられていることに留意しなければと、今更のように思いました。
◆当ブログ内関連記事:「美術館の役割〜保存・修復」
2010/11/20
たわわに実る(10)パプリカ栽培200日目 やさい栽培観察日記

我が家のパプリカ、たわわに実っております。数にして20個前後?…今頃?栽培指南書によれば、着果から赤や黄に熟す収穫まで約55日かかるそうです。越年できるのかな?これから日毎に寒くなるのに








パプリカや 小さな自然に 教えられ 励まされ
2010/11/20
『第2回午前十時の映画祭』開催決定! 映画(今年公開の映画を中心に)
今年の日本での映画に関するトピックで特筆すべきなのは、やはり「午前十時の映画祭」開催でしょう
今年の2月から始まった映画祭の開催も、残すところ1カ月半となりました。
私はメルアドを登録したので、毎週金曜日、映画祭事務局から上映スケジュール等のお知らせメールが配信されます。今回はイレギュラーにお知らせメールが着信。なんと
、来年2月より第2回午前十時の映画祭の開催が決定したのです!!
事務局のメールによれば、
「第二回 午前十時の映画祭」では、50本ずつ2つの作品群が全国を回ります。
■今回新たに選ばれた50本(Series2/青の50本)を、1年目からの25劇場で上映。
■1年目に上映し好評の50本(Series1/赤の50本)を、新たな25劇場で上映します。
とのこと。詳しくは下記のリンクサイトまで!
◆第2回午前十時の映画祭
私も今年の第1回で、(上映館へのアクセスの不便さ、自分の体調や日程の都合もあって)本数的にはけっして多くはありませんが、古今の名作を、映画館の大きなスクリーンと最新の音響システムで、堪能させて貰っています。
第2回の嬉しいところは、私が昨年の一般への作品選定募集で推した
「サウンド・オブ・ミュージック」
の上映が決まったこと、そして、新たに上大岡の映画館での上映が決まったことです。我が家から上大岡は鴨居よりはアクセスが便利。しかも映画館は駅の目の前らしい。上大岡では第1回上映作品のリバイバル上映となりますが、おかげで今年見逃した作品を見るチャンスができたのです
もちろん新たに上映が決まった50作品の中にも見たい作品は目白押し
来年の楽しみができたことで、体調不良ぎみの私
も少しは元気が出るかな

上の写真は、文化の日に夫婦で散歩した横浜みなとみらいの風景。水辺の木の葉が色づき始めていました。
ちょうどAPEC前の厳戒態勢の最中で、秋田や岩手の県警からの応援部隊が当地を巡回警備していました。当地が全国的に有名で人気の観光スポットであり、ポカポカ陽気の散歩日和であったことも相俟って、警官の表情も緊張と言うより、心なしか楽しそうでした(笑)。
また、某新興宗教?の一斉行動?の日だったのか、歩道の至る所で黒スーツ姿の老若男女が一心に祈っている姿を見かけました(地元の駅前でも見かけた)。多くの人が青空の下、笑顔でのんびり行き交う風景の中では、違和感大でした。自分が正しいと思う道を突き進むのは、その人の自由ではありますが…やはりあの世間を震撼させた大事件以来、自分を無くして何かを盲信すること、何かに拠りすがることには、個人的に抵抗があります。どんなに欠点だらけでも、自分は無くしたくない。

私はメルアドを登録したので、毎週金曜日、映画祭事務局から上映スケジュール等のお知らせメールが配信されます。今回はイレギュラーにお知らせメールが着信。なんと

事務局のメールによれば、
「第二回 午前十時の映画祭」では、50本ずつ2つの作品群が全国を回ります。
■今回新たに選ばれた50本(Series2/青の50本)を、1年目からの25劇場で上映。
■1年目に上映し好評の50本(Series1/赤の50本)を、新たな25劇場で上映します。
とのこと。詳しくは下記のリンクサイトまで!
◆第2回午前十時の映画祭
私も今年の第1回で、(上映館へのアクセスの不便さ、自分の体調や日程の都合もあって)本数的にはけっして多くはありませんが、古今の名作を、映画館の大きなスクリーンと最新の音響システムで、堪能させて貰っています。
第2回の嬉しいところは、私が昨年の一般への作品選定募集で推した




来年の楽しみができたことで、体調不良ぎみの私



上の写真は、文化の日に夫婦で散歩した横浜みなとみらいの風景。水辺の木の葉が色づき始めていました。
ちょうどAPEC前の厳戒態勢の最中で、秋田や岩手の県警からの応援部隊が当地を巡回警備していました。当地が全国的に有名で人気の観光スポットであり、ポカポカ陽気の散歩日和であったことも相俟って、警官の表情も緊張と言うより、心なしか楽しそうでした(笑)。
また、某新興宗教?の一斉行動?の日だったのか、歩道の至る所で黒スーツ姿の老若男女が一心に祈っている姿を見かけました(地元の駅前でも見かけた)。多くの人が青空の下、笑顔でのんびり行き交う風景の中では、違和感大でした。自分が正しいと思う道を突き進むのは、その人の自由ではありますが…やはりあの世間を震撼させた大事件以来、自分を無くして何かを盲信すること、何かに拠りすがることには、個人的に抵抗があります。どんなに欠点だらけでも、自分は無くしたくない。
2010/11/7
最近印象に残った言葉 映画(今年公開の映画を中心に)
私はテレビ番組の中で比較的トーク番組が好きだ。インタビュー番組の場合、大抵がゲストのヨイショに終始するものの、気をよくしたゲストがポロッと漏らす言葉に、その人の本音や思想・信条が垣間見えたりするのが興味深い。対談番組なら、複数のゲスト同士の会話が弾むうちに、意外な発言が引き出されて、発言者に対する認識が改まることもある。
私の夫のように「作品がすべて。作品が面白いか否か、素晴らしいか否か。それだけだ。その作り手には興味なし」と言う人にはどうでも良い類のものなのだろう。しかも殆どが録画番組であり、編集済みと言う点で、番組制作者の意図するところ(着地点)に視聴者が導かれるきらいもあるが、私は作品はもとより、作者の”創造の源泉”にも興味津々なので、飽きずにこの手の番組を見てしまう。
直近の1週間に見聞きしたトーク番組で印象に残った言葉を以下に記したい。
■長塚圭史 「『アバター』のような情報の多い作品は、あまり小さな子供には見せない方が良いと思うんです」(『ボクらの時代』フジテレビ、2010/11/07放送)
長塚圭史氏は今最も活躍が期待される劇作家・演出家のひとりだ(と言っても、彼の作品は未見。機会があれば是非見てみたいが、チケットは入手困難らしい)。2008年9月から1年間、文化庁・新進芸術家海外留学制度でイギリスに留学し、帰国直後に人気女優の常盤貴子と結婚して世間を驚かせた(と、思う)。
彼は言う。「(舞台)演劇の可能性を信じたい」 つまり、演劇の場合、同じ舞台を見ても、観客の受け止め方は人それぞれで、観客に想像(観客が、その頭の中で独自に想像力を働かせて作品を補完すると言う意味では”創造”とも言えるか?)の余地が与えられている。観客は舞台が終わった後も感動の余韻に浸って、人間の創造力の素晴らしさにしみじみ感じ入ると言うか…
一方、3D作品である『アバター』の場合、作品の中にあまりにも多くの情報が盛り込まれている為に、情報過多な為に、観客はその情報量に圧倒され、それを受け止めることに精一杯で、そこから想像の翼を広げることは難しいのではないか?同席した松たか子は、舞台はナマモノで、ひとつとして同じものはない。演じ手にとっても、観客にとっても毎回が新しい、見る度に違うのが舞台の魅力だ、と言うようなことを述べていた(松たか子の主演舞台を生で見たことがあるが、確かに舞台で演じることの面白さも怖さも楽しんでいるような余裕すら見える、堂々とした役者ぶりだった。まさに演じる為に生まれて来たような、天才肌の女優だと思う。天は一人に二物も三物も与えることが稀にあるが、彼女もその一人だろう)。
だから、幼い頃から、その(『アバター』)ような大量の情報に晒されると、想像する楽しみ(ひいては想像する力)を奪われることになるのではと思うんだよね、と長塚氏は言った。
あ〜、確かに。私も『アバター』は映像表現の著しい進歩に驚きはあったが、作品への感動がなかったんだよね。登場人物に感情移入することはなかったし、作品からさらに想像を膨らませるワクワク感もなかった。皮肉なことに、長塚氏は『アバター』上映前の、同じく3D映画である『アリス・イン・ワンダーランド』の予告編でその3D映像に驚いたが為に、『アバター』の3Dに改めて驚くことはなかったと言う。
残念なことに、人が技術の高さに驚くのは初見のみ。1回限りなのだ。ハリウッドがドラマ(物語)作りに行き詰まり、見てくれ(映像技術)の目新しさに走れば走るほど、観客の心に残る作品は生まれない。観客が何度でも見たいと思える名作は生まれ難い。結局、3D映画も、2回目、2本目以降は凝った映像表現よりも、従来の「物語としての面白さ」「登場するキャラクターの魅力」が問われることになる。
個人的には3D映画はメガネ・オン・メガネが負担。長時間の視聴は脳の疲労度も大きい。だから、よほどの作品でない限り(つまり3Dで見る事の有意性が見出せない限り)、追加料金を払ってまで見たいとは思わない。脳への負担という意味では、イタリアで幼児の鑑賞が禁止されたのは納得である。
どの道、観客を物語の面白さに引き込むことができなければ、ハリウッドは映画作りに行き詰まることになるのだろう。実際、最近は非ハリウッドの、プロット勝負、アイディア勝負の低予算映画で、面白い作品に出会うことが多くなった。
昨日見たスペイン映画(総製作費、破格の2.5億円
ハリウッドのトップ・スターのギャラは1本20億円ですからねえ…)『リミット(原題:Buried)』は、手がけたのがスペイン人監督ロドリゴ・コルテス・スペイン人スタッフながら、キャストはカナダ人(ライアン・レイノルズ、あのスカーレット・ヨハンソンの夫)、物語はイラクに派遣された民間人(トラック運転手)の拉致問題、そして全編英語の台詞と、国境の垣根を越えた作品となっている。
大胆かつシンプルな状況設定と、効果的な小道具としての携帯電話の使い方(バッテリーの持ちなどツッコミどころもあるが)、物語が進むにつれ浮かび上がってくる軍需で利益を上げる企業の冷酷さと階層社会の悲哀(海外でトラブルに巻き込まれた時に誰が自分を守ってくれるのか、と言うシチュエーションは身につまされる。残酷だが、自分が値踏みされることになるのだから)に、思わず引き込まれた。見終わった後も、各々のシーンを振り返って、その意味を反芻するような楽しみがあった。
一緒に見た息子は「DVDで十分かな?」と言っていたが、私は映画館の暗闇の中で見てこそ、本作の主人公が味わった恐怖や絶望感を、観客は追体験できるのだと思う。真偽のほどはともかく、実際にありそうな話で、この作品がイラク戦争への痛烈な皮肉であることは間違いないと思う。米国では公開されたのだろうか?
◆『リミット』公式サイト
私の夫のように「作品がすべて。作品が面白いか否か、素晴らしいか否か。それだけだ。その作り手には興味なし」と言う人にはどうでも良い類のものなのだろう。しかも殆どが録画番組であり、編集済みと言う点で、番組制作者の意図するところ(着地点)に視聴者が導かれるきらいもあるが、私は作品はもとより、作者の”創造の源泉”にも興味津々なので、飽きずにこの手の番組を見てしまう。
直近の1週間に見聞きしたトーク番組で印象に残った言葉を以下に記したい。

長塚圭史氏は今最も活躍が期待される劇作家・演出家のひとりだ(と言っても、彼の作品は未見。機会があれば是非見てみたいが、チケットは入手困難らしい)。2008年9月から1年間、文化庁・新進芸術家海外留学制度でイギリスに留学し、帰国直後に人気女優の常盤貴子と結婚して世間を驚かせた(と、思う)。
彼は言う。「(舞台)演劇の可能性を信じたい」 つまり、演劇の場合、同じ舞台を見ても、観客の受け止め方は人それぞれで、観客に想像(観客が、その頭の中で独自に想像力を働かせて作品を補完すると言う意味では”創造”とも言えるか?)の余地が与えられている。観客は舞台が終わった後も感動の余韻に浸って、人間の創造力の素晴らしさにしみじみ感じ入ると言うか…
一方、3D作品である『アバター』の場合、作品の中にあまりにも多くの情報が盛り込まれている為に、情報過多な為に、観客はその情報量に圧倒され、それを受け止めることに精一杯で、そこから想像の翼を広げることは難しいのではないか?同席した松たか子は、舞台はナマモノで、ひとつとして同じものはない。演じ手にとっても、観客にとっても毎回が新しい、見る度に違うのが舞台の魅力だ、と言うようなことを述べていた(松たか子の主演舞台を生で見たことがあるが、確かに舞台で演じることの面白さも怖さも楽しんでいるような余裕すら見える、堂々とした役者ぶりだった。まさに演じる為に生まれて来たような、天才肌の女優だと思う。天は一人に二物も三物も与えることが稀にあるが、彼女もその一人だろう)。
だから、幼い頃から、その(『アバター』)ような大量の情報に晒されると、想像する楽しみ(ひいては想像する力)を奪われることになるのではと思うんだよね、と長塚氏は言った。
あ〜、確かに。私も『アバター』は映像表現の著しい進歩に驚きはあったが、作品への感動がなかったんだよね。登場人物に感情移入することはなかったし、作品からさらに想像を膨らませるワクワク感もなかった。皮肉なことに、長塚氏は『アバター』上映前の、同じく3D映画である『アリス・イン・ワンダーランド』の予告編でその3D映像に驚いたが為に、『アバター』の3Dに改めて驚くことはなかったと言う。
残念なことに、人が技術の高さに驚くのは初見のみ。1回限りなのだ。ハリウッドがドラマ(物語)作りに行き詰まり、見てくれ(映像技術)の目新しさに走れば走るほど、観客の心に残る作品は生まれない。観客が何度でも見たいと思える名作は生まれ難い。結局、3D映画も、2回目、2本目以降は凝った映像表現よりも、従来の「物語としての面白さ」「登場するキャラクターの魅力」が問われることになる。
個人的には3D映画はメガネ・オン・メガネが負担。長時間の視聴は脳の疲労度も大きい。だから、よほどの作品でない限り(つまり3Dで見る事の有意性が見出せない限り)、追加料金を払ってまで見たいとは思わない。脳への負担という意味では、イタリアで幼児の鑑賞が禁止されたのは納得である。
どの道、観客を物語の面白さに引き込むことができなければ、ハリウッドは映画作りに行き詰まることになるのだろう。実際、最近は非ハリウッドの、プロット勝負、アイディア勝負の低予算映画で、面白い作品に出会うことが多くなった。


大胆かつシンプルな状況設定と、効果的な小道具としての携帯電話の使い方(バッテリーの持ちなどツッコミどころもあるが)、物語が進むにつれ浮かび上がってくる軍需で利益を上げる企業の冷酷さと階層社会の悲哀(海外でトラブルに巻き込まれた時に誰が自分を守ってくれるのか、と言うシチュエーションは身につまされる。残酷だが、自分が値踏みされることになるのだから)に、思わず引き込まれた。見終わった後も、各々のシーンを振り返って、その意味を反芻するような楽しみがあった。
一緒に見た息子は「DVDで十分かな?」と言っていたが、私は映画館の暗闇の中で見てこそ、本作の主人公が味わった恐怖や絶望感を、観客は追体験できるのだと思う。真偽のほどはともかく、実際にありそうな話で、この作品がイラク戦争への痛烈な皮肉であることは間違いないと思う。米国では公開されたのだろうか?
◆『リミット』公式サイト