2010/9/29

【感想】十三人目の刺客?もとい『十三人の刺客』Ver.2  映画(今年公開の映画を中心に)

クリックすると元のサイズで表示します ベネツィア国際映画祭でも好評だった(上映終了後、7分間に及ぶスタンディングオベーションだったらしい)と言う三池崇史監督、役所広司主演の『十三人の刺客』を見て来た。今から47年前の1963年に公開された『十三人の刺客』(工藤栄一監督、片岡千恵蔵主演)のリメイクらしい。本作は、密かに集められた十二人プラス一人の刺客が、暴君の名を欲しいままにする、将軍の腹違いの弟で明石藩主の松平斉昭の暗殺を企てる、と言う物語である。

 私は過去の古い映画(特に邦画の時代劇)には疎いので、殆ど予備知識なしに本作を見て(オリジナル作品は未見)、感じたことだけを書き留めようと思う。

クリックすると元のサイズで表示します 男臭い映画だ。男性の雄々しさや躍動感を描くのが得意な監督なのだろう(『クローズ ZERO』もそうだし…)。一応役所広司が主演となっているが、他十二人の刺客をはじめ、味方・敵方の登場人物、それぞれの人物造型がしっかりと描かれており(←所謂、キャラが立っている、と言うヤツ?)、随所に各々の見せ場も用意された群像活劇と言った趣。

 素人目に、伊原剛志の剣豪ぶりは板についていたし、古田新太の槍遣いもなかなかのものだった。山田孝之は武士の世界に懐疑的な放蕩の剣士を若手演技派として手堅く演じていたし、バラエティ番組ですっかり三枚目キャラを印象づけた沢村一樹も、今回は二枚目に徹して良かった。高岡蒼甫も友情に厚い凛々しい青年武士を演じて好印象。眼鏡なしの六角精児は軽妙なキャラを演じて、全体としては重苦しい雰囲気に笑いを添えた。

 他の若手俳優の好演も、邦画の将来に期待を抱かせるものだったと思う。これだけ、それぞれのキャラクターが脳裏に焼き付いているということは、監督の的確な演出、俳優陣の健闘もさることながら、今回、脚本を手がけた天願大介(この人は高名な父親・今村昇平の七光りを嫌って、大学時代に出会った妻の姓を名乗っているようだが、現状、よほどの人気監督でない限り、映画製作のチャンスは中々巡って来ないのだろうか?全ての経験を血肉にして、いつの日か素晴らしい作品を作って欲しい)の、それぞれの俳優の個性を生かした台詞回しが奏功したと言うことなのだろうか?

 おっと!本作のキーパーソンとも言うべき十三人目を忘れちゃいけない。”十三人目の刺客”は特に個性が際立つ。本作は武士達の勇猛果敢な戦いを描きつつ、彼(→人間離れした存在感が意味深)の言葉を借りて、武士の硬直した死生観や世界観を嗤っているようにも見える。彼らの戦いはまさに、江戸幕府の終焉に向かうカウントダウンの最中(さなか)にあった。封建社会も、いい加減、制度疲労を起こしていたというわけか?

クリックすると元のサイズで表示します 個人的にニヤリとしたのは、時代劇俳優としては既に大御所の域にあるであろう松方弘樹の起用。このところ、外洋でマグロ釣りに励む太公望としての姿ばかり目にしていたので、彼の見事な殺陣を見たのは久しぶりだ。昨今のドラマ不況で、彼のような往年の時代劇スターの活躍の場は限られているが、彼の豪放磊落な佇まいと華麗な剣捌きは時代劇に華を添える。何より彼自身が水を得た魚のように活き活きと演じていた。まだまだ力はある。もっと出演機会があっていいはずだ。 

 逆に男性の格好良さ、華々しさに比べたら、女性は時代考証に忠実に基づく既婚女性のお歯黒に青眉(セイビ:明治の頃まで続いた既婚&子持ち女性が眉を剃る習慣)等、その描写があまりにもリアルで、現代人の美意識とは程遠いせいか、画面のザラザラとした質感も相俟って、気の毒なほど美しくない。さらに暴君に貶められる被害者としての側面を強調していることもあってか、時にグロテスクな描写もあり、神経の細やかな人には耐え難いものだろう。血しぶきの量も半端でない。

 それでも、50分に及ぶと言う戦闘シーンの迫力やスケールは一見の価値がある。

 役所広司演じる島田新左衛門は「斬って、斬って、斬りまくれ」と叫んで、闘いの口火を切った。

 13人の刺客(+斉韶の暴走を止めるべく立ち上がった無数の人々のバックアップ)に対し、敵方はオリジナル版53人の数倍に当たる300人!多勢に無勢の劣勢を跳ね返すべく宿場町に張り巡らされた数々の仕掛けと、命を賭した13人の凄まじい闘志。まさに目の前で繰り広げられる死闘に、緊張しっぱなしの50分間なのだ。

 人間誰しも、小が大を倒すのを見るのは小気味良いものだ。勧善懲悪の物語には溜飲を下げるだろう。ただ、本作が描いているのはそれだけではない。

クリックすると元のサイズで表示します 島田と、藩の学問所でも道場でも同門で、実力が拮抗していた鬼頭半兵衛は、その出自が下級藩士であるが故に、旗本の出である島田への対抗心もあって、今や敵方で立身出世を夢見て暴君に盲目的に仕えている。良心に蓋をして、鬼畜としか言いようのない主君に盲従する鬼頭の生き様は、哀れですらある。

 この鬼頭を演じたのは、誰あろうミュージカルスターの市村正親。私は彼が好きで、彼の舞台を何度か見ているが、その軽快なステップたるや、年齢を超越している。今回も役所広司との年齢差(61才と54才で7才差)を感じさせない力強い演技で、戦国の世にあらざる中、忠君を貫くことで武士としての生き甲斐を見い出す、サラリーマン武士の悲哀を見事に表現していた。

 ところで、今回、暴君を演じた稲垣吾郎の評判がすこぶる良い。勧善懲悪物語は悪役が光ってこそ主役が引き立つ。その意味では稲垣吾郎のキャスティングは大正解だったと言えるだろう。が、しかし、言われるほどの名演だろうか?寧ろ私は、彼の俳優としては欠点とも言うべき”表情の乏しさ””語りの抑揚のなさ”が、冷酷無比の暴君の体温の低さを表現するのにピタリと当て嵌まったのだと思った。悪辣非道の限りを尽くしても、一切表情を変えない暴君。その無表情と抑揚のない物言いが、暴君の内面への想像をかき立て、悪役・稲垣吾郎の存在感を観客に強く印象づけたとは言えないか?

 最後に、監督一流の遊び心なのかもしれないが、悪ふざけにも取れるシーンがあった(そこもタランティーノのオタク心をくすぐるのか?)。何と言うか、終始一貫ハードボイルドに徹すれば良いものを、敢えて緊張の糸を切るようなお下劣さ。別にそこで野卑な笑いを取らなくても良かったのではと個人的には疑問に思う。映画は監督のもの(=最終的に全ての責任を負う?)だから、まあ、いいんですけどね。なくても十分映画として成立したと思うので、それこそ”蛇足”ではないかと。少なくとも私は「なんじゃ、こりゃ?」と戸惑ったのは確か。


【追記 2010.10.10】ネタバレ注意!

 昨日、トム・クルーズ、キャメロン・ディアス主演の『ナイト&デイ』を見て来たが、劇中スペインの街中で繰り広げられる派手なチェイス・シーンがあった。そこで迫力を加味したのは、現地名物「牛追い祭り」で街中を爆走(笑)する牛達であった。さほど広くない街路で主人公が駆るバイクと敵方の車と牛の三つ巴。絵的にはかなり面白い。

 そこで思い出されたのが、本作でも登場した牛だ。同じ爆走でも、本作はCGの牛。しかもCGの予算をケチったのか、すぐに作り物とわかる完成度。これでは興ざめである。中途半端なCGの牛なら、はっきり言って要らない。本作鑑賞時も気になったのだが、比較検討できるシーンに偶然出くわして、改めて本作の粗が目立ってしまった格好だ


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2010/9/27

花は咲く、されど実はつかず(T_T)(5)パプリカ栽培146日目  やさい栽培観察日記

クリックすると元のサイズで表示します 今日は朝から雨模様。気温も昼で17度と肌寒い1日。つい数日前の猛暑が嘘のように、一気に秋めいて来ました。

 久しぶりのパプリカ観察日記です。8月下旬から9月上旬にかけては旅行に出かけていた為、大学の部活で家に残った息子にパプリカの世話を任せていました。まだまだ猛暑が続いていたので、毎日の水遣りはけっして怠らないよう強くお願いして。1日でも水遣りを忘れると、もう可哀想なくらい萎れてしまうパプリカ(実は何度か水遣りを忘れたことがあり…)

 旅行から戻ってみると、パプリカは青々とした葉を茂らせ、背丈も伸びていました。息子はきちんと約束を守ってくれたようです。相変わらず沢山の蕾を付けていました。が、咲いていたはずの花は、ことごとく鉢植えの土やその周りに落ちていました。

 実がならない

クリックすると元のサイズで表示します それから、さらに2週間が過ぎました。相変わらず次々と開花。しかし、花が枯れたら着果することなく地面に落下するか、蕾の段階で落下してしまう。私の困惑を尻目に、蕾は次から次へとついています。苗の供給元のデルモンテのサイトや他のサイトで調べてみたのですが、原因は釈然とせず。今のところ考えられるのは、肥料不足か、日照不足か、受粉がうまく行っていないか、猛暑のせいでおかしくなっているのか…

 今年は台風の直撃もなく、かなり期待していたのに、この有様です。他の方のパプリカ栽培に関する記事を拝見すると、一様に「パプリカ栽培は難しい」とありました。日本で消費されるパプリカの実に90%以上が輸入品ということからも、日本では栽培農家自体少ないのでしょう。それはイコール安定的に供給できる栽培方法が確立されていないと言うことなのでしょうか。

 う〜ん、今年のパプリカはかなりコスパが悪いですね

 昨年のプチトマトが沢山の実をつけてくれただけに、落胆は大きいです。とは言え、青々とした葉はきれいです。白い小さな花も愛らしいとりあえず、植物の負担を軽減する為に、一カ所に集中している蕾は適度に摘み取っています。繁茂し過ぎた葉も間引きしています。2週間に1度の割合で追肥も。やるだけやって、後はパプリカの生命力を信じるとしましょう。

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2010/9/26

面倒臭い話  日々のよしなしごと

どうも世界どこを見渡しても、隣国同士は仲が悪い。イスラエルVSパレスチナ然り。ギリシャVSトルコ然り。そして日本とその周辺諸国も。どれもこれも、ちっぽけな人間のエゴが絡んでいる。

あ"〜面倒臭えぇ〜

地球さまからご覧になれば、どの国も、どこの人間もただの間借り人じゃねえか?

人間が地球さまを自分の所有物だなんて思っているのは、傲慢以外の何ものでもない。

勝手に地球さまの表面に線引きして、勝手に取り分を争って、勝手に互いを殺し合って、しかも勝手に他の種を巻き込んで、挙げ句の果てに地球さまを痛めつけている 

これじゃあ、いつか大家さんである地球さま怒りを買って、ヒトという種は追い出されるぞ

それが遠からぬ未来のような気がしてやっぱり怖いし、同時に自分も傍迷惑なヒトの一員であることが、本当に恥ずかしい

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2010/9/24


クリックすると元のサイズで表示します 現在、東京国立近代美術館で開催中の『上村松園展』を見て来た。上村松園は、「東の鏑木清方、西の上村松園」と謳われた「美人画」の名手である。これまで日本画の展覧会で、彼女の作品を何点か見る機会があったが、初期から晩年までの作品が一堂に会した回顧展を見るのは今回が初めてだ。

 「画風の模索、対象へのあたたかな眼差し」「情念の表出、方向性の転換へ」「円熟と深化」の3章構成でその画業を展覧する、これまでにない大規模な回顧展は、女流画家、上村松園の孤高の歩みを伝えるものと言って良いだろう。当時画壇で女流画家の存在自体希有なものであり、他の画家を圧倒する力量を10代にして見せつけた松園は、嫉妬と羨望の対象であったに違いない。

クリックすると元のサイズで表示します 女性は若くして嫁ぎ、家庭に入る時代にあって、今で言う独身キャリアウーマンの走りであった松園は、それだけでも風当たりが強かったはずで、さらに画才において他を陵駕するとあっては、その才能に対する周囲の嫉妬もさぞかし深かったのだろう。信じ難いことだが、展覧会に出品した作品が会場で落書きされるという憂き目にも遭っている。

 その時、主催者が展示を取りやめる旨を打診したところ、松園は「これもまた現実。そのまま展示を続けて下さい」と答えたと言うから、彼女の内に秘めた闘志を示すエピソードと言えるだろうか?同様に、未婚の母となった世間体をものともしない生き様や、年下男性との失恋後に描き、転機の作とされる《焔》(謡曲「葵上(アオイノウエ)に取材、右画像、部分)の、解れ髪を食む口元に無念さを滲ませた女の情念顕わな作風に、写真の楚々とした(或いは、凜とした)佇まいからは想像もつかない、松園の意外なまでの激情を感じずにはいられない。

クリックすると元のサイズで表示します 私は、松園作品の気品溢れる人物像端正な画風にいつも感嘆して来たが、今回は清澄な色遣いにも改めて感銘を受けた。特に透き通るような白肌と、衣の青が清潔で目に染み入るようで、思わず見惚れてしまった。

 白肌にほんのり差された紅が女性美を端的に表現していて素晴らしい。それは顔に限らず、手や足の指先であったりする。それも白肌の透明感あっての美である。左上画像の《風》(今回、私が最も心惹かれた作品)も、風になびく着物の裾から覗いた足の先がほんのりと赤く色づいて、何とも言えぬ色香を漂わせている。そして画面の大部分を占める着物の清澄な青が、風になびく衣の軽やかさと女性の優美さを強調しているように私には見えた。

クリックすると元のサイズで表示します こうして松園作品のみを見ているとついつい忘れがちだが、その筆遣いに迷いのない線描の見事さは、他の追随を許さないと言っても過言ではないだろう。

 複数の画家の作品と並べて展示すれば一目瞭然なのが、例えば簾(すだれ)の葦の描写である。その1本1本があたかも定規で引いたような正確な直線で描かれている。冒頭写真のような前傾姿勢で、よくあれだけの美しい線を引けるものだと感心する。その陰に、一体どれほどの日々の鍛錬が隠されているのだろう。こと画業において妥協を許さない松園の姿勢が垣間見える、比類なき精緻な線描である。

 そして、松園後期に当たる64才の時の作、《草紙洗小町》(右画像、部分)では、その線描は洗練を極め、省略の美へと昇華しているようにも見える。極力、衣の皺を排し、文様も意匠的に描かれた大作は、松園美学のひとつの到達点を示す作品とは言えないか?描く対象の最も美しい瞬間を捕らえる、松園の眼力あっての線の省略だとは思うが、絶筆となった《初夏の夕》にも、そのミニマムな線描の洗練美が見て取れた。

クリックすると元のサイズで表示します ついでにもう1点。松園の一連の美人画で描かれる着物と帯と髪飾りの、色や柄の組み合わせが実にバラエティに富んでいて、日本の和服文化の豊かさに改めて気づかされるのも、思わぬ掘り出し物を見つけたような喜びに近いものがある。

 木と紙でできた家に住み、自然と一体感を持って暮らして来た日本人は、「衣」にも季節感を巧みに、そして繊細に取り入れて、独特の美意識を作り上げた感がある。時に大胆な色柄の組み合わせもあるが、それも「技あり」とも言うべきセンスで感心する。また、襟の開きや帯の結び等、着崩し方にも、現代とは違う当時の普段着としての着物の在り方が伺えて興味深い。しかも、ひとつひとつの細やかな描写は、松園の女性ならではの観察と拘りが感じられ、男性画家の描写とは一線を画している。そうした文化・風俗の伝え手としての魅力をも、松園作品は持っていると言えるだろうか。


 以上、私なりの感想をしたためてみた。私の拙い文章で松園作品の魅力をどれだけ伝えられたか自信はないが、もし興味を持たれたのであれば、是非ご自分の目で、松園作品の素晴らしさを確認していただきたいと思う。日本画の脆弱性もあって、会期は通常よりも短めで、東京では10月17日(日)まで。その後、京都展へと続く。(下画像は《鼓の音》)

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2010/9/21


クリックすると元のサイズで表示します 8月終下旬から9月上旬にかけて、8泊9日の旅程で、阪急交通社が催行するスペイン周遊ツアーに参加した。(右写真はコルドバメスキータ<スペイン語でイスラム教寺院モスクの意>内部)

 25才で初めて(←意外に遅い)イタリア・フランスを旅して以来、スペインで15カ国目の訪問になる(海外渡航回数は25回程)。英、仏、伊、米、トルコは複数回訪れているのに、ヨーロッパの中でも好きなアーティストが目白押しのスペインが今回初めてなのは、ひとえに日西間に直行便が無い為だ。日西間の移動だけでも3日を費やし、ツアー期間も通常10日前後と長いので、現役サラリーマンの夫にはなかなかそれだけの休暇は取りづらい。今回、旅行が実現したのは、夫が勤続30周年でリフレッシュ休暇が与えられ、いつもより長い夏休みが取れたからだ(我が家の海外旅行は個人旅行とパッケージツアーが半々と言う割合。今回は効率的に周遊したかったので、フルパッケージツアーを選んだ)

 「熱心に」とは、お世辞にも言い難いが、スペイン語をラジオ講座等で勉強している私にとっては、自分のスペイン語力を試すチャンスでもあった。本当は「試す」なんてレベルには程遠く、身振り手振り交えてのカタコトながら、旅の恥かきすてで、旅の途中に出会った人々に積極的に話しかけてみた。挨拶だけは上手いせいか (←いつもそう。発音はなかなかのものらしく、どこの国でも現地在住と間違われる)、相手は私がスペイン語を話せると思って、ペラペラとまくし立ててくる。そこですぐさま諸手を挙げて降参。

Disculpe, no hablo espan~ol.

すみません。私はスペイン語を話せません。

 それで相手は残念そうな顔をして、私にAdios さようならを告げる。殆ど、その繰り返しだったが、中には途中で英語で話しかけてくる人もいて、どうにかマトモな会話ができたりもした。それではスペイン語の勉強にはならないけれど、一応7年計画でスペイン語は勉強するつもりなので(夫の定年後にスペインを夫婦で再訪し、じっくり観光したい、という夢がある)、今回はこれで良しとしよう!ははは…

 ツアーは空路バルセロナに入って、その後は6日間各地をバスで巡りながらマドリッドまで移動と言う、俗に言う「強行軍のツアー」だった。しかし、バスの座席には多少余裕もあったので、それほど窮屈感を味わうこともなく、考えようによってはスペインの風景を車窓から存分に楽しめたと言っても良いだろう。とにかく、

 スペインにはオリーブの木が無尽蔵にあった。オリーブの林の中にスペインと言う国があるのかと錯覚するほど、ハイウエイの道沿いにはオリーブの林が続いた。その印象は強烈である。


 さて、私達夫婦が参加したツアーの旅程は以下の通りである(旅行社から配布された旅程表に基づく)。やっぱり誰の目にも強行軍?(笑)

第1日目:朝、成田空港集合。空路、ルフトハンザ航空機でフランクフルト経由バルセロナへ。バルセロナ郊外泊。

第2日目:バルセロナ市内観光<6時間>聖家族教会、グエル公園、カタルーニャ音楽堂、ピカソ美術館を見学。 バルセロナ郊外泊。

第3日目:タラゴナへ。ローマ遺跡郡、地中海バルコニーを見学<1時間>。昼食後、バレンシアへ。バレンシア到着後、ラ・ロンハ及び周辺を見学<30分>。バレンシア近郊のアルファルファール泊。

第4日目:ラ・マンチャ地方へ。着後、白い風車見学。昼食後、グラナダへ(夜間、オプショナルツアーあり)。グラナダ泊。

第5日目:グラナダ市内観光、アルハンブラ宮殿、ヘネラリーフェ庭園見学<2時間>。観光後、コスタ・デ・ソルミハスへ<30分>。観光後、セビージャへ。セビージャ泊。

第6日目:セビージャ観光。カテドラル、黄金の塔<1時間>。コルドバへ。昼食後コルドバ市内観光、メスキータ、花の小径<1時間半>。その後マドリッドへ。マドリッド泊。

第7日目:マドリッド市内観光、国立ソフィア王妃美術センター、プラド美術館、スペイン広場<4時間>。昼食後、自由行動(オプショナルツアーあり)。マドリッド泊。

第8日目:空路ルフトハンザ航空でマドリッドフランクフルト経由で成田へ。機中泊。

第9日目:朝、成田着。解散。

 実際は旅程表より多少長めに観光時間が取られた場所も多く、2時間歩きづめだったアルハンブラ宮殿を除けば、思ったより(←あくまでも想像していたよりは)ゆったりした行程だった。

 ネット上で「安かろう、悪かろう」の代名詞のように喧伝されている阪急交通社のツアーだが、ホテルの立地(スーペリアクラス以上だが、すべて街外れ)や食事内容(団体向けの効率優先のメニュー)が価格相応なのを除けば、他社のツアーと比較しても(クラブツーリズムやJTBの「旅物語」等、比較対象するツアーはもちろん限られる)何ら遜色ないツアー内容だったと思う。寧ろ、今回の「できるだけ多くの場所を見てみたい。美術館に行きたい(←比較検討した中で、このツアーがプラド美術館の滞在時間が最も長かった)」と言う私の希望に適った、コストパフォーマンスに優れたツアーだった。

 ツアーに求めるものは人それぞれ、各旅行社から提供されるツアーも様々なのだから、(予算が潤沢な人はともかく)予算に限りがある人は自分の財布と相談しながら、何を優先させ、逆に何を諦めるか自分の中で明確にしてからツアーを選ぶことが肝要だろう。そしてツアー中は身の安全が著しく脅かされない限り、多少の齟齬は笑ってやり過ごすくらいの大らかな気持ちで臨むことが、パッケージツアーを自分なりに満喫するコツなのではないか?ツアーを楽しめるか否かは、結局、自分次第なのだと思う。

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2010/9/16

『悪人』(日本、2010)  映画(今年公開の映画を中心に)

クリックすると元のサイズで表示します 深津絵里が先のモントリオール世界映画祭で最優秀女優賞を獲得して話題となっている映画『悪人』を見た。

 芥川賞作家、吉田修一の小説が原作で、今回は原作者自身が李相日監督(『フラガール』)と共に脚色を担当している。本作は原作者が作家生活10年と言う節目に手がけた初の新聞連載小説で、それまで書いた中で最も長編の意欲作。自他共に「代表作」と認める作品だけに、その思い入れも一入なのだろう。

 ポスター写真の対照的な2人の表情。どこか不安げな表情で視線が空(クウ)を泳ぐような祐一と、迷いのない真っ直ぐな視線を遠くに向ける光代。このツーショットに、2人の関係性や、それぞれの内面の実相が見て取れるようだ。「悪人」のイメージとはほど遠い祐一の弱々しく繊細なメンタリティに対して、光代の(普段の遠慮がちな態度からは想像もつかない)芯の強さと逞しさ。2人が見つめる先にはどのような風景が見えているのか?そして2人には、この先どのような運命が待ち受けているのか?―言葉以上に饒舌な二人の表情に、見る者は想像をかきたてられる。

 舞台は九州北部。博多で保険外交員として働いていた若い女性が、福岡と佐賀の県境の峠で絞殺死体で発見される。その殺人事件を巡る人間模様が、長崎、博多、久留米、佐賀を舞台に展開する。

 今年見た邦画の中ではダントツに見応えのある作品だった。シナリオ、キャスト、演出と三拍子揃った快作である。三者の力の籠もった合わせワザで冒頭からグイグイと作品世界に引き込まれ、濃密な2時間半の人間ドラマに酔いしれた。見終わった後は、そのテーマの重苦しさに胸が締め付けられると同時に、素晴らしい作品に出会えた感動で心が震えた。胸が締め付けられて、心が震えるなんて矛盾するようだが、そういう奇跡を起こしてくれるのが映画なのだ。まさに、私はこういう日本映画が見たかったんだあ!

 深津自身が女優賞受賞インタビューで述べていたように、彼女の受賞は相手役の妻夫木聡の熱演に因るところが大きい。原作小説に感動して自ら祐一役を買って出た妻夫木に対し、深津は監督直々の指名を受けての登板であったらしいが、妻夫木の熱い思いが深津に伝播して、化学反応を起こした結果とも言うべき名演だった。2人がそれまでの(清純な?)イメージをかなぐり捨てて、獣のように互いを求め合い、身体を重ね合い、破滅へと直走る逃避行に身をやつす汚れ役に徹した姿は、それまでの2人を知るフアンには驚きをもって迎えられたかもしれない。しかし此度の迫真の演技で、2人は確実に演技者として数段進化したと言えるのではないか?

 脇を固める俳優陣もベテラン、若手共に演技達者を揃えて、ドラマを盛り上げた。柄本明、樹木希林、宮崎美子、満島ひかり、岡田将生が、それぞれの役回りをキッチリと演じてくれたからこそ、主演の2人の演技も映えたと言えるだろう。

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 映画を見終わって改めて感じたこと、考えたことは2点。

 1.本当の「悪人」は誰なのか?そもそも「悪人」とは何なのか?
 2.人の人生を、本人以外の誰が知り得ようか?その生き様を一体誰が笑えようか?

 戦争状態にない社会において、その秩序を守る為に、基本的に「殺人行為」は絶対悪として法の下で裁かれる。本作でも、法的に裁かれるのは殺人を犯した人間である。しかし本作を見る限り、ひとりの人間を直接的に死に至らしめた人間と、被害者の周辺にいて、結果的に被害者をそうした状況に追い込んだ人間とは、倫理的に紙一重の違いしか感じられない。寧ろ「明確な悪意」と言う点では、後者の方がより罪深い人間に見えるのだ。

 しかも、こと殺人事件においては被害者自身にも重大な落ち度があり、「本来、出会うべきではなかった人々」の「負の部分」の「連鎖」が予想外の反応を呼び、本人達のみならず周囲の人々をも巻き込んで、それぞれの「運命を暗転」させた感がある。それが一番にやるせない。

 本作で、九州北部に点在する若者達を結びつけたのは、携帯電話上の出会い系サイトであった。この出会い系サイトを巡る犯罪の報道を少なからず耳にしたせいか、その印象は胡散臭さが拭えないのだが、意外にも真剣に異性との出会いを求めて利用している男女もいるらしい。現実の世界で人と人との繋がりが希薄になり、こうしたツールに頼ったり、「婚活」と呼ばれる積極的な働きかけをしない限り、異性との出会いさえ叶わない、現代人が抱える孤独感。それは真剣な出会いを求めている人々にとって、私が想像する以上に深く厄介なものなのかもしれない。


 そもそもひとりの人間の中で、善と悪は明確に区別できるものなのか?実際のところは誰もが自身の中に善意と悪意を内包し、さらにその善悪の間にはグレーゾーンが存在するのではないか?つまり、各個人が置かれた状況(そもそも生育環境の影響大!)、タイミング次第で、心の振り子は「善」にも「悪」にも振れるものであり、振り子がどちらにより大きく振れるかによって、人は「善人」にも「悪人」にもなり得るような気がするのだ。その意味で「悪人」「善人」とは、一般的に(←一部例外はあるのかもね)人間の「一時の状態、在り方」を指すのであって、人間としての「終生の本質」を指すものではないように思う。

 他人に嘘をつく、他人を欺く、他人を肉体的or精神的に傷つける、他人を死に至らしめる〜どれも、人間を「悪人」たらしめる「理由(要素?原因?)」であり、誰もがそれらと全く無縁に生きているというわけではないだろう。もし「自分は無縁だ」と言い切る人間がいるとしたら、その人は余程、自分の内に巣くう悪意に無自覚(鈍感)か、自らの誤謬性を一切認めない傲慢な人間なのではないか? 

クリックすると元のサイズで表示します ところで、対人関係において、人間は無意識のうちに相手との力関係を推し量り、相手が(肉体的or精神的or社会的に)自分より弱い(立場)と見るや強気に出て、時には悪意を剥きだしにすることさえ憚らない一面があるように思う。
 
 また、同質社会であればあるほど、少しでも他者より優位に立ちたいと言う意識が強く働き、他者との差別化に汲々とする傾向が否めないのではないか? (例えば、分譲の大規模集合住宅の居住者は、所得階層、家族構成、職種<自営業者よりサラリーマン世帯の数が圧倒的?>等の点で似通った人が多く、コミュニティ内で、<生活レベルや子どもの進学実績等>彼我の違いを競い合うようなところはないか?)

 そうした、人間の心の弱さの裏返しとも言える虚勢見栄が、結果的に人間を不幸にすることも少なくないように思う。


 人間は他者の一面を、自らの色眼鏡で見ているに過ぎない。目の前にいる人間の全てなど知りようがないのである。一見して風采の上がらない中年男性にも、個人としてのそれまでのかけがえのない人生があり、喜怒哀楽があり、大切にしているものがある。それを否定し、嘲笑し、踏みにじる権利など、誰にもない。


 人間は完全無欠では在り得ない。それゆえに人生で大小さまざまな過ちを犯しながら、恥をかきながら生きている。良かれと思ってしたことが、予想外に悪い結果を生むことがある。無自覚に他者を傷つけていることもあるだろう。

 人生は思うようには行かないものだ。信じた人に裏切られることもある。正しく、誠実に生きて来たつもりなのに、裁かれることがあるかもしれない。幸せになりたいと誰よりも切望していたはずなのに、不運に見舞われることさえあるのかもしれない。

 それでも命が続く限り、明日は来る。人生は続く。ならば心を強く持って、生きて行くしかない。

 連日の精神的暴力とも言えるマスコミ取材に追われ、いつしかうつむき加減だった樹木希林演じる祐一の祖母は、ある人の励ましの言葉で我に返る。以後の彼女の毅然とした態度は、言外に多くのことを語っていたように私には思えた。

 
 感想をもう少し簡潔にまとめられないものかと自分自身でも呆れているが、見終わった後、いつになく様々なことが想起されたので、とりあえず思いつくままに記録することにした。それだけ本作に心を動かされたと言える。映画ファンの1人として、できるだけ多くの人々に本作を見て貰い、日本映画の底力を感じて欲しいと切に願う。

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映画『悪人』公式サイト

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2010/9/12

流行り廃り  日々のよしなしごと

ブログと言う情報発信ツールが日本のネット上に登場してから10年にはなろうか?この「ブログ」も、誰もかしこもが手を染めたひところのブームは去ってしまったようで、私が懇意にしていたブログの中にも、もう更新が止まってしまったものや削除されたものがある。

私は2005年の11月末からブログを始め、始めた当初は新作映画レビューをブログの柱としていたせいか、できるだけ多くの人に読んで貰いたくて、そのきっかけ作りになればと他ブログへの訪問で知り合いを増やしたり、TB(トラックバック)に余念がなかった。

しかし、当初のプロバイダーのAOLのブログサービス停止をきっかけに、ブログサービスの基盤の脆弱さに今更のように愕然としてしまった。それまで築き上げたものが、サービスの停止によってあっけなく崩れ去ってしまうのを目の当たりにした(特に15万に届かんとしたアクセスカウンターがゼロクリアされた時の衝撃は忘れられない…)。一応、過去データを持って現在のプロバイダーに引っ越しはできたものの、自分の中で確実にブログ熱はいささか冷めてしまったし、ブログ・ブームが去ってしまったこともあるのかもしれないが、かつてのようなアクセス数は今や望むべくもない。

ただ、熱が冷めてしまったのは悪いことばかりでもなく、アクセス稼ぎの為にTBに汲々とすることもなくなり、付き合う人数を絞って交流をより深めることで、ゆとりをもってブログに向き合えるようになれたのは幸い。気心の知れた人、私のブログ記事をきちんと受け止めてくれる人との交流は大切にしたいので、コメント欄でのやりとりを以前よりも重視している。たまにイタズラ(嫌がらせ?)の意味不明のコメントをいただくが、ブログに係る時間を減らしている私から見ると、「なんとまあご苦労なことで」と思う。即座にゴミとして削除されるだけのコメントに時間を割いて何のメリットがあるのだろう?

昨年だったかツィッターなる新たな情報発信ツールも出て来たが(→しかし早くもブームが去りそう…)、ゆっくり考えて、推敲した上で発信するブログのスタイルが私は気に入っているので、ツィッターのような即興性の発信ツールに手を出すことはないだろう。

最近、ネット上で小池龍之介氏なる僧侶の文章を読んだが、その中で小池氏は、ブログやツィッターは無名の個人の自我肥大を助長するだけ、と批判的な意見を述べていた。しかし、イマドキ、ブログやツィッターで一旗揚げよう(名声を得よう)なんて野心を持った人なんて、ほんの一握りなのではないか?寧ろ大半のブロガーは、もっとささやかな個人的満足でブログを地道に続けているのではないかと思う。

何事も流行り廃りはあるが、一時のブームが去った後にこそ、その真価が見えてくるのではないか。流行りに乗っただけのものは淘汰され、本当に価値のあるものが顕わになるであろうから。ブログで言うならば、書き手の意志を感じる読み応えのあるブログである。少なくとも私の中では、書き手の無名有名など関係ない。大事なのはあくまでも書かれた内容だ。
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タグ: ブログ 雑感

2010/9/9

書きたいことは多々あれど、時間がない  日々のよしなしごと

台風9号は日本各地で被害と混乱をもたらしたようだが、我が家の周辺では何の問題もなかった。昨夜はニュース報道を見て心配した九州の母が電話をくれたが、何事もなかったと言う私の返答に、ホッとすると同時に拍子抜けしたようだった。

改めて振り返ると、今の場所に住み始めて15年近くになるが、自然災害らしいものに遭ったためしがない。近くに大きな河川はないし、山もない。海も遠くはないが、自宅から見える程近くもない。良くも悪くも自然から切り離された都市部だから、自然からの恩恵もない代わりに、災いもないのか。

怖いのは、いつ起こるとも知れぬ地震くらいだ。ずっと以前から「大地震が近い」と喧伝されているが、未だに起きないということは、いったいどれだけ地殻に地震エネルギーが蓄積されているのだろう?いざ起きた時には、それ相当の被害を覚悟しなければならないのだろうか?

場所柄、地震が避けられないのであれば、いかに被害を少なくするか?いかにして自分や家族の命を守るか?何もかも行政頼みで安穏と過ごすのではなく、日頃から自分自身で地震に対する備えをすべきなのだろう。極端な話、「”死”を覚えよ」。明日はもう来ないかもしれないと心して、今日という日を精一杯生きるしかないのかも。


書きたいこと;

■昨秋のLA旅行の続き
■スペイン旅行についての雑ぱくな感想〜特に宗教の影響力
■ルフトハンザ航空についての感想〜往・復でこんなに違う?!
■「午前十時の映画祭」について
■最近見た映画について
■パプリカの近況→なぜか蕾がいつまで経っても花を咲かせないのよ!
■現時点の自分だけを見て判断されることへの不満?みたいなもの
■民主党の出鱈目さに辟易している件


下写真は、スペイン旅行で移動中のバスの車窓から撮った風景。さすが世界一の生産量を誇るオリーブだけあって、時折、土漠やブドウ畑、ひまわり畑が挟み込まれる以外は、延々とオリーブの林が続きました。まさに「スペインの中にオリーブ林があるのか?それとも、オリーブ林の中にスペインがあるのか?」と言った状況でした

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