2010/8/27
行って来ます♪ 携帯電話から投稿
おはようございます!
これから飛行機に搭乗です。
昨日はバタバタと慌ただしく、せっかくヌマンタさんやかえるさんからコメントをいただいたのにブログにアップできませんでした。申し訳ありません。
お二人の心使いには感謝申し上げます。ありがとうございました。当座は湿布薬と痛み止めでしのぐつもりです。取り急ぎ、お礼まで。
来週には戻って来ます♪それでは!
これから飛行機に搭乗です。
昨日はバタバタと慌ただしく、せっかくヌマンタさんやかえるさんからコメントをいただいたのにブログにアップできませんでした。申し訳ありません。
お二人の心使いには感謝申し上げます。ありがとうございました。当座は湿布薬と痛み止めでしのぐつもりです。取り急ぎ、お礼まで。
来週には戻って来ます♪それでは!

2010/8/26
1週間ほどお休みをいただきますm(_ _)m お知らせ
再開したばかりのブログですが、夫の勤続30周年の記念に旅行に行くため、1週間ばかりお休みさせていただきます。
もう8月も終わりかけていますが、まだまだ厳しい残暑が続いています。皆様、くれぐれもご自愛くださいませ。
もう8月も終わりかけていますが、まだまだ厳しい残暑が続いています。皆様、くれぐれもご自愛くださいませ。
2010/8/26
よく転ぶ(>_<) 日々のよしなしごと
昔、地元の子供会の役員をしていた頃、月に1回、町内をトラックの先導で練り歩いて、廃品回収するのが仕事のひとつだった。その時、トラックの荷台上の回収された新聞を並べる作業の後、荷台から降りた際に右足首を捻挫した。もちろん病院で治療を受けたが、それからというもの歩行中、些細なことで捻挫を繰り返し、今では所謂「関節が緩くなった」状態にある。
そのせいか道を歩いていて、ちょっとした窪みに足を取られたり、路肩の傾斜でバランスを崩したりしては転倒することが多くなった。春先の股関節痛も、結局はこの右足首を庇う為に、自分でも気づかないうちに股関節に無理な力をかけているのが原因と思われる。
先月は買い物帰り、両手に荷物を抱えて自宅近所を歩いているときに、窪みに足を取られて転倒した。その時は左膝を強か打って、派手なかすり傷を負った。それ以外にも咄嗟に地面についた両手の小指から手首にかけての側面がしばらく痛くて湿布をしていた。
左膝にはこの年(齢)にして醜い傷跡が残ることになったが、その傷が漸く癒えたと思ったら、一昨日にも道路の傾斜でバランスを崩して、転倒してしまった。前回は転ぶまいと踏ん張った為か左膝を地面に強打したので、今回は転ぶに任せてみた。右手に持っていた日傘が2mは飛んだだろうか?結構赤面ものの派手な転びようだったと思う。その時、来る道、往く道に通行人が何人もいたが、皆見て見ぬふりをして通り過ぎてくれた。
それでケガの状態はと言うと、見たところ前回のような流血はない。地面についた両手の小指から手首にかけてが赤らんで、少し痛い。右肘から右手首にかけては地面の砂がこびりつき、かすかに痛い状態。前回と比べたらケガもたいしたことはないようだ、と安心したのも束の間、2,3時間経った頃から、やはり転倒する際、瞬間的に身体全体の筋肉が強ばったのか、全身のあちらこちらに痛みを感じるようになった。特に右の二の腕の上腕筋?が痛くて、右手を挙げようとすると鋭い痛みが走る。さらに腰痛と左膝に痺れ痛い感覚が走った。
その痛みは2日近く経った今も続いていて、特に具合の悪い腰と左膝に湿布をし、昨晩には痛み止めの薬も服用した。夫は出張であいにく不在だし、近々旅行の予定もあるのに、この状態は困ったものだ。
そのせいか道を歩いていて、ちょっとした窪みに足を取られたり、路肩の傾斜でバランスを崩したりしては転倒することが多くなった。春先の股関節痛も、結局はこの右足首を庇う為に、自分でも気づかないうちに股関節に無理な力をかけているのが原因と思われる。
先月は買い物帰り、両手に荷物を抱えて自宅近所を歩いているときに、窪みに足を取られて転倒した。その時は左膝を強か打って、派手なかすり傷を負った。それ以外にも咄嗟に地面についた両手の小指から手首にかけての側面がしばらく痛くて湿布をしていた。
左膝にはこの年(齢)にして醜い傷跡が残ることになったが、その傷が漸く癒えたと思ったら、一昨日にも道路の傾斜でバランスを崩して、転倒してしまった。前回は転ぶまいと踏ん張った為か左膝を地面に強打したので、今回は転ぶに任せてみた。右手に持っていた日傘が2mは飛んだだろうか?結構赤面ものの派手な転びようだったと思う。その時、来る道、往く道に通行人が何人もいたが、皆見て見ぬふりをして通り過ぎてくれた。
それでケガの状態はと言うと、見たところ前回のような流血はない。地面についた両手の小指から手首にかけてが赤らんで、少し痛い。右肘から右手首にかけては地面の砂がこびりつき、かすかに痛い状態。前回と比べたらケガもたいしたことはないようだ、と安心したのも束の間、2,3時間経った頃から、やはり転倒する際、瞬間的に身体全体の筋肉が強ばったのか、全身のあちらこちらに痛みを感じるようになった。特に右の二の腕の上腕筋?が痛くて、右手を挙げようとすると鋭い痛みが走る。さらに腰痛と左膝に痺れ痛い感覚が走った。
その痛みは2日近く経った今も続いていて、特に具合の悪い腰と左膝に湿布をし、昨晩には痛み止めの薬も服用した。夫は出張であいにく不在だし、近々旅行の予定もあるのに、この状態は困ったものだ。
2010/8/23
第2開花期突入か?〜たくさんのつぼみ(4)パプリカ栽培111日目 やさい栽培観察日記




このところの暑さで、毎日たっぷり水遣りしないと、すぐに元気がなくなってしまうパプリカ(わかりやすいくらい、水遣りのビフォー&アフターで葉の張りが全然違います


2010/8/21
通訳します… 日々のよしなしごと

ミーンミーンミーーン(今日もオイラ朝から頑張るよー♪)
ミーンミーンミーーン(今日も暑くなりそうだねー♪)
(ちょっと一休み)
ミーンミーンミーーン(エーッ、鳴き声が暑苦しいって?)
ミーンミーンミーーン(そんなこと言わないでよー♪)
ミーンミーンミーーン(なんたって短い命だからさー♪)
ミーンミーンミーーン(鳴き競って命を燃やし尽くすよー♪)
ミーンミーンミーーン(それがオイラの宿命なのさー♪)
ミーンミーンミーーン(まあ、みんなもせいぜい頑張ってやー♪)
ミーンミーンミーーン(もちろん!熱中症には気をつけろよー♪)
2010/8/19
地方の進学校 日々のよしなしごと
九州の甥っ子の1人は幼稚園の頃から毎日、習い事でスケジュールがビッシリと言う子だった。日によっては2つ掛け持ちだったりする。彼の母親(義妹)曰く、「本人がやりたい、と言ったことはとりあえずさせてみる。いつまで続くか親は様子見しているが、結構続いている」。
別に親が率先して習い事をさせているわけではないようだった。ただ、彼女は教育熱心な母親だと思う。子供に「勉強しろ」とガミガミ言うタイプではなく、日々の生活の中で子供の興味・関心をうまく引き出し、物心両面でしっかりサポートすると言うタイプか。これは「孟母」だな。
やっぱり彼女のエピソードで、私の脳裏に強烈に焼き付いているのは、甥っ子が木登りをして、いざ降りる段になって怖くなって母親に助けを求めたところ、すぐさま手を差し伸べることはせずに、「登ったように降りなさい。」とだけアドバイスしたこと。「登れたんだから降りられる。大丈夫。ゆっくりね」と促されて、甥っ子はちゃんと自力で降りたそうだ。
子供が親に助けを求めた時に、すぐさま助け船を出したりせずに、まず自分の頭で考えさせる。幼い頃から、そう教育して来たようだ。その成果か、甥っ子はその後難関を突破して国立大付属中に入学した。その中学受験も、小6の春に甥っ子自ら受験したいと言い出して、小3,小4から塾通いしている子供が大多数の中、進学塾の一番下のクラスからスタートして、徐々にレベルを上げ、見事合格を果たしたのだ。一方、義妹は我が子の塾代捻出の為に働き始めた(因みに弟夫婦は2人共大学には行っていない)。
その甥っ子が今年、県下公立高校トップの進学校に入学した。文科省のスーパー・サイエンス・ハイスクールの指定も受けた理科教育に定評のある学校だ。私がまず驚いたのは、成績上位50位以内の生徒を対象に、夏休みに研修旅行と称して上京させ、東大のオープンキャンパスに全員参加させる、と言う学校側の取り組みである。
マンガ「ドラゴン桜」でも似たようなエピソードがあった。阿部寛演じる「東大合格請負人」弁護士が、底辺私立高校の特進クラスの生徒を、東大本郷キャンパスに連れて行き、そこで学ぶ東大生の姿を実際に見せて、東大進学を明確な目標へと意識づける、と言うもの。
私が知らなかっただけで、どうも最近、特に地方の進学校では、こんなことは珍しくないらしい。こうした強気(積極的)な取り組みが奏功してか(→地方の生徒にとっても、東大はけっして遠い存在ではなくなった)、近年は地方公立高校の東大合格者が増加傾向にあると言う。因みに甥っ子の学校では上位50位以内は東大を、50位以下100位以内は九大を目指せとハッパをかけるらしい。現状、この学校の進学実績は、例年、現役・過卒生合わせて東大合格者は一桁台ではあるが、目標を高く掲げることは、生徒のモチベーションを高め、今後、好結果に繋がるに違いない。
そもそも地方の公立進学校は、公教育機能と予備校機能を併せ持ったところが多い。私学の雄と言われている進学校でさえ予備校通いが多い首都圏に比べたら、教育コストが低く羨ましい限りだ(最近は都立日比谷等の公立名門の復活もあるが)。とは言え、地方から県外、ましてや首都圏の大学へ進学させるとなったら、その経済的負担は大きい。地方の向学心溢れる生徒が、より高いレベルの教育を受けられるよう、国がバックアップしてあげないといけないんだろうな。
ところで、今日オンラインで読んだ雑誌記事によれば、米国の一流大学では週に1000ページの文献資料を読んだ上でレポートを書かせる課題が当たり前で、多読を続けることで学生は自ずと速読や、大量の情報から必要な情報を効率的に読み取る術を身につけるらしい。日米両方の大学で教えた経験を持つ教授から見れば、日本の大学教育はまだまだ手ぬるいそうだ。そして、日本のアカデミズムは政治や経済と言った実務への影響力が弱すぎて、それが日本低迷の要因のひとつにもなっているとあった。
アカデミズムのレベルアップは、やはり国力に密接に関係する(→だから国内高等教育のレベルアップを図るべく、産油国のUAEはその潤沢な"オイルマネー"に糸目をつけず、欧米の名門大学を次々と誘致している)。日本の場合、個の突出より全体の調和を重んじる国民性が、独創性に富んだ俊英の輩出の足枷になっているとの指摘もあるが、全国津々浦々の優秀な頭脳に活躍の場を与え、そのパフォーマンスを最大限引き出すことが、これからの日本には今まで以上に重要なんだろうなと思う。
別に親が率先して習い事をさせているわけではないようだった。ただ、彼女は教育熱心な母親だと思う。子供に「勉強しろ」とガミガミ言うタイプではなく、日々の生活の中で子供の興味・関心をうまく引き出し、物心両面でしっかりサポートすると言うタイプか。これは「孟母」だな。
やっぱり彼女のエピソードで、私の脳裏に強烈に焼き付いているのは、甥っ子が木登りをして、いざ降りる段になって怖くなって母親に助けを求めたところ、すぐさま手を差し伸べることはせずに、「登ったように降りなさい。」とだけアドバイスしたこと。「登れたんだから降りられる。大丈夫。ゆっくりね」と促されて、甥っ子はちゃんと自力で降りたそうだ。
子供が親に助けを求めた時に、すぐさま助け船を出したりせずに、まず自分の頭で考えさせる。幼い頃から、そう教育して来たようだ。その成果か、甥っ子はその後難関を突破して国立大付属中に入学した。その中学受験も、小6の春に甥っ子自ら受験したいと言い出して、小3,小4から塾通いしている子供が大多数の中、進学塾の一番下のクラスからスタートして、徐々にレベルを上げ、見事合格を果たしたのだ。一方、義妹は我が子の塾代捻出の為に働き始めた(因みに弟夫婦は2人共大学には行っていない)。
その甥っ子が今年、県下公立高校トップの進学校に入学した。文科省のスーパー・サイエンス・ハイスクールの指定も受けた理科教育に定評のある学校だ。私がまず驚いたのは、成績上位50位以内の生徒を対象に、夏休みに研修旅行と称して上京させ、東大のオープンキャンパスに全員参加させる、と言う学校側の取り組みである。
マンガ「ドラゴン桜」でも似たようなエピソードがあった。阿部寛演じる「東大合格請負人」弁護士が、底辺私立高校の特進クラスの生徒を、東大本郷キャンパスに連れて行き、そこで学ぶ東大生の姿を実際に見せて、東大進学を明確な目標へと意識づける、と言うもの。
私が知らなかっただけで、どうも最近、特に地方の進学校では、こんなことは珍しくないらしい。こうした強気(積極的)な取り組みが奏功してか(→地方の生徒にとっても、東大はけっして遠い存在ではなくなった)、近年は地方公立高校の東大合格者が増加傾向にあると言う。因みに甥っ子の学校では上位50位以内は東大を、50位以下100位以内は九大を目指せとハッパをかけるらしい。現状、この学校の進学実績は、例年、現役・過卒生合わせて東大合格者は一桁台ではあるが、目標を高く掲げることは、生徒のモチベーションを高め、今後、好結果に繋がるに違いない。
そもそも地方の公立進学校は、公教育機能と予備校機能を併せ持ったところが多い。私学の雄と言われている進学校でさえ予備校通いが多い首都圏に比べたら、教育コストが低く羨ましい限りだ(最近は都立日比谷等の公立名門の復活もあるが)。とは言え、地方から県外、ましてや首都圏の大学へ進学させるとなったら、その経済的負担は大きい。地方の向学心溢れる生徒が、より高いレベルの教育を受けられるよう、国がバックアップしてあげないといけないんだろうな。
ところで、今日オンラインで読んだ雑誌記事によれば、米国の一流大学では週に1000ページの文献資料を読んだ上でレポートを書かせる課題が当たり前で、多読を続けることで学生は自ずと速読や、大量の情報から必要な情報を効率的に読み取る術を身につけるらしい。日米両方の大学で教えた経験を持つ教授から見れば、日本の大学教育はまだまだ手ぬるいそうだ。そして、日本のアカデミズムは政治や経済と言った実務への影響力が弱すぎて、それが日本低迷の要因のひとつにもなっているとあった。
アカデミズムのレベルアップは、やはり国力に密接に関係する(→だから国内高等教育のレベルアップを図るべく、産油国のUAEはその潤沢な"オイルマネー"に糸目をつけず、欧米の名門大学を次々と誘致している)。日本の場合、個の突出より全体の調和を重んじる国民性が、独創性に富んだ俊英の輩出の足枷になっているとの指摘もあるが、全国津々浦々の優秀な頭脳に活躍の場を与え、そのパフォーマンスを最大限引き出すことが、これからの日本には今まで以上に重要なんだろうなと思う。
2010/8/15
『没後25年 鴨居玲 終わらない旅』展 感想 文化・芸術(展覧会&講演会)
弊ブログ読者は、鴨居玲(かもい・れい)と言う画家をご存じだろうか?
今年は彼の没後25年に当たり、現在、横浜そごう美術館で彼の回顧展が開催されている(会期は8月31日(火)まで)。首都圏では15年ぶりの回顧展だそうで、油彩、素描80点と、彼の創作風景や作品の主題となった人物等を活写した写真を併せて、彼の画業の一端を展覧している。
私はたまたま新聞販売店からその招待券を2枚貰い、通常はなかなかスケジュールの合わない息子も「是非、見てみたい」と言って同行したので、今回は久しぶりに家族揃っての美術鑑賞となった。
鴨居玲は1928年、石川県生まれ。戦後創設された金沢美術工芸専門学校(現・金沢美術工芸大学)に入学し、宮本三郎(←10年位前に世田谷美術館で回顧展を見た)に師事。在学中に二紀会に出品し褒賞を受けるなど、若くしてその画才の片鱗を見せていたものの、後年油彩制作に行き詰まり、一時筆を置いたこともあったようだ。
41才で、具象画家の登竜門である「安井賞」を受賞。受賞作《静止した刻》(1968,東京国立近代美術館蔵)は、サイコロを放った瞬間を捉えた作品で、画面右半分を占める黒々とした色彩の中で、テーブルを囲む4人の男の表情やポーズ、放たれて空中に静止したままのサイコロが描かれている。黒々とした中に、テーブル中央の明度のある緑色の円が鮮やかな対比を見せている。4人の男の造作が殆ど一緒なのが興味深い。
実は以後の鴨居作品の殆どは人物画において、《わたしの村の酔っぱらい》等、同じモチーフが繰り返し取り上げられ、モデルを誰と特定するでもなく、同一人物を一貫して描いているかのような人物造型で、様々なバリエーションが描かれている。それは、レンブラントが画家として自己の内面を見つめ、その心象変化を繰り返し自画像の中に描き続けたことと相通ずるものを感じる(事実、作品解説では、画家自身が投影された自画像的作品の多さが指摘されていた)。また、自宅の庭の睡蓮の、外光に照射される1日の中での、さらには季節が移ろう中での印象の変化を、飽くことなく描き続けたモネの探求心にも似ているように思う。(右上写真は【参考作品 レンブラントの自画像】)
【参考作品 ジャック・カロ作】
上述したように繰り返し描いたと言われる「自画像」にはレンブラント※を、「酔っぱらい」「楽士」「傷痍軍人」には仏の版画家ジャック・カロが想起された(実はレンブラントも、カロに感化され、同様のモチーフや乞食像を多数の銅版画に残している)。特に後者のモチーフは、ジャック・カロの一連の銅版画による人物像を油彩画にしたら、こんな風になったのではと思わせるテイストだった。さらに師である宮本三郎やスペインのゴヤ、仏のドガ、画家自身も言及しているように仏のドーミエの影響も、その自画像や裸婦像に見てとれた。さらに「道化師」には、そのモチーフを好んで描いたとされるピカソやルオーが想起されたのだが、結局のところ、画家が渡航し、腰を据えて創作に取り組んだ、スペイン、フランス両国出身の画家の影響(近代以降の、理想美ではなく、自然主義的なあるがままの人間の姿を描く。醜さも弱さもみっともなさも人間のあるべき姿と受容し、アウトサイダーへの共感・愛情も滲ませたモチーフ選びと造型表現)が色濃く投影された結果なのだろうか?(※レンブラントはオランダの画家)
鴨居玲は、その才能を十分に認められていたにも関わらず(日動画廊オーナー夫妻との交流を示す彼らの肖像画もある)、極端に内省的な性格なのか、画家として苦悩し続けた挙げ句晩年は体調を崩し、57才の若さで急逝している。しかし、その病質的なまでの繊細さが、暗い色彩を基調とした、人間の内面に深く斬り込んだ凄みのある、時に鬼気迫る独自の作品世界を構築したと言えるのかもしれない。
展覧会で作品を概観しての個人的な印象なので、必ずしも的を射た見方ではないのかもしれないが、何らかの感想を書き記したいと思うほど、その作品に感銘を受けたことは確かだ。
晩年の自画像《1982年 私》では、画面中央のまっさらなキャンバスが物語るように、創作に行き詰まった画家の絶望が描かれているが(白い地を晒したキャンバスを背景に、土気色の生気を失ったような画家の姿が痛々しい)、画家自身が、それまでの画業の試行錯誤の中で、魅力ある作品を数多く生み出したことに気づいていない、或いは認めていない点が、画家の没後、その作品に接して心を動かされた美術ファンのひとりとしては至極残念なことだ。絵にはチョットうるさい息子も「期待した以上に凄かった。良かった」と感想を漏らしていた。そうした声が、生前の彼の心には届かなかったのだろうか?
【追記】
眼を描かないのは何を意味するのだろうか?人物を特定できる肖像画以外は、何れの人物像も眼窩に落ちる深い影を描いただけで、作品によっては、かさぶたのような絵の具の厚塗りも見られる。「目は心の窓」と言うが、あえて絵の具を厚く塗り込め、目の輪郭さえ眼窩の影に埋没させたことに、画家の苦悩の叫びが(どこにも?誰にも?)届かないことへの深い絶望感を、私自身は見てとったのだが…
そんなに苦しかったら、かつて一度はそうしたように絵筆を置けば良かったものを、彼は自身の命を断つことで、描くことに終止符を打った。その壮絶な生き様に、苦しくとも描かずにはおれない画家の業(ごう)ようなものを感じて、同様の生き様を歩んだ(であろう)幾多の画家の自画像が心に浮かんでは消えた。
今年は彼の没後25年に当たり、現在、横浜そごう美術館で彼の回顧展が開催されている(会期は8月31日(火)まで)。首都圏では15年ぶりの回顧展だそうで、油彩、素描80点と、彼の創作風景や作品の主題となった人物等を活写した写真を併せて、彼の画業の一端を展覧している。
私はたまたま新聞販売店からその招待券を2枚貰い、通常はなかなかスケジュールの合わない息子も「是非、見てみたい」と言って同行したので、今回は久しぶりに家族揃っての美術鑑賞となった。
鴨居玲は1928年、石川県生まれ。戦後創設された金沢美術工芸専門学校(現・金沢美術工芸大学)に入学し、宮本三郎(←10年位前に世田谷美術館で回顧展を見た)に師事。在学中に二紀会に出品し褒賞を受けるなど、若くしてその画才の片鱗を見せていたものの、後年油彩制作に行き詰まり、一時筆を置いたこともあったようだ。


【参考作品 ジャック・カロ作】

鴨居玲は、その才能を十分に認められていたにも関わらず(日動画廊オーナー夫妻との交流を示す彼らの肖像画もある)、極端に内省的な性格なのか、画家として苦悩し続けた挙げ句晩年は体調を崩し、57才の若さで急逝している。しかし、その病質的なまでの繊細さが、暗い色彩を基調とした、人間の内面に深く斬り込んだ凄みのある、時に鬼気迫る独自の作品世界を構築したと言えるのかもしれない。

晩年の自画像《1982年 私》では、画面中央のまっさらなキャンバスが物語るように、創作に行き詰まった画家の絶望が描かれているが(白い地を晒したキャンバスを背景に、土気色の生気を失ったような画家の姿が痛々しい)、画家自身が、それまでの画業の試行錯誤の中で、魅力ある作品を数多く生み出したことに気づいていない、或いは認めていない点が、画家の没後、その作品に接して心を動かされた美術ファンのひとりとしては至極残念なことだ。絵にはチョットうるさい息子も「期待した以上に凄かった。良かった」と感想を漏らしていた。そうした声が、生前の彼の心には届かなかったのだろうか?
【追記】
眼を描かないのは何を意味するのだろうか?人物を特定できる肖像画以外は、何れの人物像も眼窩に落ちる深い影を描いただけで、作品によっては、かさぶたのような絵の具の厚塗りも見られる。「目は心の窓」と言うが、あえて絵の具を厚く塗り込め、目の輪郭さえ眼窩の影に埋没させたことに、画家の苦悩の叫びが(どこにも?誰にも?)届かないことへの深い絶望感を、私自身は見てとったのだが…
そんなに苦しかったら、かつて一度はそうしたように絵筆を置けば良かったものを、彼は自身の命を断つことで、描くことに終止符を打った。その壮絶な生き様に、苦しくとも描かずにはおれない画家の業(ごう)ようなものを感じて、同様の生き様を歩んだ(であろう)幾多の画家の自画像が心に浮かんでは消えた。
2010/8/15
いただきました(*^_^*) 日々のよしなしごと

おそらく売り物にならない規格外の小ぶりのタマネギだと思うのですが、数えてみると22個もありました。私はタマネギが大好きで、殆ど毎日料理に使うので大助かりです。ちょうど先週買ったタマネギも使い切ったところだったし、タマネギは常温保存がきくので大歓迎!
おかげさまで、息子の家庭教師のバイトは1年以上続いています。家庭教師先のお宅は、温泉旅行に行ったと言っては、ご当地のお菓子を、中華街に行ったと言っては、有名どころの中華菓子を、お土産に下さいます。親切なご家族に巡り会ったものです。感謝

2010/8/14
「立つ鳥跡を濁さず」を忘れた女 映画(今年公開の映画を中心に)

件の女は、館内も既に暗く、そろそろ本編上映が始まろうとする頃に遅れてやって来た。座るやいなや、持ち込んだ食べ物を食べ始めた。食べ物の容れ物であるビニール袋が、暫くガサガサと耳障りな音を立て続けた。
2時間あまりの長尺の映画は、主演のジェイディン・スミス君とジャッキー・チェンの好演もあって、(リメイクなので結末は知っていても)感動的なフィナーレを迎えた。その余韻に浸りながら最後までエンドロールを見た後、館内が明るくなり、帰ろうと立ち上がった私達夫婦の目に飛び込んで来たのは、エンドロールが始まるや、館内が暗いうちにそそくさと立ち去った件の女の席の足下にある、口が結ばれたゴミの入ったビニール袋だった。
オイオイ、せっかくの余韻もぶち壊しじゃないか?自分の持ち込んだゴミくらい、自分で責任を持って持ち帰ろうよ。少なくとも、席に放置して帰るなよ。私なんか、こぼしたポップコーンもちゃんと拾ってカップに戻し、出入り口に設置されたゴミ箱に捨てるぞ。30代と思しき女。日頃の生活も推して知るべし。
ゴミを席に残したまま帰るのは10代、20代の若いカップルに多い(とは言え、殆どの若者はマナーを心得ていて、ごく一部が悪目立ちするだけ)。まさか、いい年した大人が、こんなことをするとは思わなかった。
結局、目にしてしまった以上放置できなくて、私達のゴミと一緒にゴミ箱に捨てた。なんで、マナー知らずの、どこの誰かも知らない女の尻ぬぐいをしなきゃいけないんだと思いながら…
映画館で映画を見るなら、最低限のマナーは心得て欲しいな。映画に対しても失礼だ。
2010/8/12
3度目の収穫〜黄パプリカ(3)パプリカ栽培100日目 やさい栽培観察日記

今までで一番大きかったのは最初の黄パプリカでした。あれは形も良かった。段々小さくなっているのが気になります。今、唯一、黄色く熟すのを待っている実も、かなり小さい。何がいけないのでしょうか?背丈も低くて、60cm足らず。やはり鉢が小さいせいなんでしょうか?6月に大発生した虫のせいで、木が十分育たなかったのでしょうか?
昨日、3週間ぶりに追肥しました(指南書通り)。昨日、今日と台風の影響でかなり風が強くて、折れてしまうのではと気が気でなりませんでした。しかし、今回のパプリカは虫害が多いので、室内に避難させるのも躊躇してしまいます。室内に虫を呼び込んではまずいし…
プチトマトに比べるとパプリカは育てるのが難しい、と言うのが、この3カ月育ててみての感想です。家庭菜園で沢山の種類の野菜を育てておられるボランティア仲間のMさんも、パプリカの苗だけが枯れてしまったと言っておられたし。
しかし、まあ、今のところ数は少ないながらも収穫はできているし、今朝見た限りでは10個近くのつぼみもついていました。第2期生と言ったところでしょうか。花が咲いても実になる前に落ちてしまったり、実がついても実の重さに茎が耐えられなくて途中で茎ごと落ちてしまうこともあり、収穫までけっして気は抜けないのですが、やっぱり最後はパプリカの生命力を信じるしかないですね。
がんばれ、パプリカ

2010/8/10
LA半日観光(ハリウッド) LA旅行(2009年初秋)

かの有名なハリウッドサインだ。ハリウッドの目抜き通りから見えるんだね。元々は1923年に不動産広告として建てられた巨大看板らしいが、今や映画の都ハリウッドを象徴するモニュメントになっている。
2008年にサイン周辺の土地が売りに出される話が出て、景観保護の為にスピルバーグ監督や俳優トム・ハンクス等の著名な映画人が土地購入費の募金運動を展開し、今年4月には買い取り額1,250万ドルを上回る寄付が集まったらしい。それを会見で誇らしげに発表したのがアーノルド・シュワルツェエネッガーカリフォルニア州知事。ハリウッド映画人の見識や行動力、集金力には舌を巻くばかりだ。日本で同様の事態が起きた時、誰が声を上げ、行動を起こすのだろう?セレブリティの彼我の違いを感じるエピソードではないだろうか。


受賞式当日は、名だたるスター達が、レッドカーペットの敷かれたこのシアターの階段を一段一段踏みしめながら上って行くんだね。階段脇の柱に取り付けられたライトには、歴代の作品賞受賞作品の名前が掲示されている。上写真は、ベトナム戦争従軍兵の悲劇を描いた、マイケル・チミノ監督、ロバート・デ・ニーロ主演の第51回アカデミー賞作品賞授賞作「ディア・ハンタ−」。高校生の頃、映画館で見て深い感銘を受けた作品。主題歌「カバティーナ」の物悲しい旋律は今も耳を離れない。

その前庭には、ハリウッドで多大な功績を残したスター俳優らの手形や足形とサインを刻んだブロックタイルが敷き詰められている(一言付け加えると、スターは生身の人間とは限らない。誰もが知るキャラクターも、その栄誉に与っている)。

私はハリソン・フォードやクリント・イーストウッド、ジャック・ニコルソンのタイルを見つけた。息子はアクション・スターのブルース・ウィリスやアーノルド・シュワルツェエネッガーが目当てだったようだ。

ブルース・ウィリスは彼を一躍世界的スターダムへと押し上げた「ダイ・ハード」シリーズで、彼が演じるジョン・マクレーン刑事の決まり文句”Yipee Ki Yay!”(←クリックすると、解説にジャンプします)を、そしてアーノルド・シュワルツェエネッガーは同じく代表作「ターミーネーター」シリーズで、ターミーネーターを演じる彼がかっこよく言い放った”I'll be back.”を署名と共にしっかり刻み込んでいる。ファンには何とも嬉しい、粋な図らいだ。

マダム・タッソ−・ハリウッドは、まだオープンして間もないハリウッドの新名所。私はロンドンの本店には15年位前に行ったことがある。そこの目玉は、何と言っても英国のロイヤル・ファミリー。当時、既に皇太子夫妻の不仲は伝えられていたが、マダムタッソ−では、現実のゴタゴタをよそにロイヤル・ファミリー勢揃いで、英国連邦率いる王室の威厳を示していた。
蝋人形は本物と見紛うほど精巧な作りで、工房と思しき部屋も公開されていて、頭部や手足等が陳列されているのが一種異様な雰囲気を醸していたのを覚えている。
マダム・タッソー・ハリウッドでは、悩殺ポーズでマリリン・モンローがお出迎え。


プレートは焦げ茶色の正方形のタイルの中央に、真鍮で縁取りされたテラゾ製(砕いた大理石とセメントを混ぜた物)のピンクの星形と言うデザインで、星の中に人物の名前と、その人物が活躍した分野を表したシンボルが添えられている。1959年にハリウッドの商工会議所により始まった顕彰制度だが、今やプレートの数は2,000個を超えていると言う。
今年ガン闘病の末亡くなったデニス・ホッパーも死の直前その栄誉に浴し、病をおしてセレモニーに出席したのが記憶に新しい。
写真は、昨年急逝したマイケル・ジャクソンのプレート。音楽業界を意味するレコードがシンボルとして付されている。昨年も今年も、彼の命日前後には、このプレートに沢山の花が手向けられたのをテレビで見た。普段は人通りの絶えない歩道である。そこが、マイケルの死を悼む場として、花で埋め尽くされたのだ。

2010/8/9
忘れ難いサンタモニカの青空 LA旅行(2009年初秋)

私はいろいろな国に行く度に、空を仰ぎ見るのが好きなのだが、LAサンタモニカで目にした青空は、その青さに心を打ち抜かれたような感動を覚えた。どこまでも高い空に、日本ではついぞ味わったことのない開放感もあって、自分がアメリカに来たことを強く実感した。しかも空気がカラッとして、9月下旬と言うのに日差しはジリジリと肌を焦がすように痛いほどだった(しかし、サンディエゴ在住のちいちゃんによれば、カリフォルニア沿岸は寒流が通っていて水温は低いそうだ。だから夏の終わりは意外に早い?)。

では、お言葉に甘えて、テクテクと…あれぇ〜、結構遠いぞ!結局往復だけで持ち時間の30分を使いきってしまった。ビーチも日本とはスケールが違うぜ!それにしても桟橋の幅も広々。そこでストリート・ミュージシャンが演奏していたり。遊園地もあるんだよね。

広大な砂浜。照りつける太陽。しかし、人影はまばら。

来て、来て、来て サンタモニカァ〜♪(by 桜田淳子)

2010/8/9
2度目の収穫〜今度は赤パプリカ(2)パプリカ栽培97日目 やさい栽培観察日記

ネットで他の方の観察日記を見てみると、実が熟す前に虫食いにやられて収穫できない(せっかく沢山実がなったのに全滅とか…)ケースもあるらしく、6月に次から次へと発生する虫と悪戦苦闘した私としては、数こそ少ないものの、比較的順調に収穫できていることが嬉しいです。いまだにパプリカやその周辺で、様々な虫が目にはつくのですが、パプリカに目立った悪さ(実に穴を開けるとか)をしない限り、気にしないことにしています。次から次へと現れる虫達にいちいち目くじら立てていては、私も疲れてしまいますから。毎朝の手入れとしては、水遣りの後、枯れた葉を摘み取って行くことぐらいでしょうか。昨年と同じく、農薬は使いません。




2010/8/6
結局、人生は因果応報 気になったニュース
都内最高齢男性と認定されていた男性のミイラが、家族も同居する自宅で見つかった事件が、全国的に大きな波紋を呼んでいる。
いくら本人が「即身成仏になりたい」と宣言して自室に引き籠もったからと言って、30年もの間、同居する家族が一切関知しないって話、常識的に考えてあり得ないだろう?自宅でミイラと同居なんて、想像するだに「ホラー」だよ。しかもその間、支給された年金も引き出されていたとあっては、同居家族が男性の死を知りながら、それを秘匿し、年金を不正受給していたと疑われても仕方ない。
続いて最高齢女性についても所在不明が発覚し、その身内は「親の生死を知らない」だの、「もう何十年も親兄弟に会っていない」だの、やはり驚くべき発言を重ねている。この家族の過去にいったい何があったのか、首を傾げざるを得ない、何とも不可思議な話だ。
もちろん、この世にはごまんと家族がいるのだから、家族の形は千差万別。いろいろな家族関係があるとは思う。しかし、最高齢と認定された男女の家族が揃いも揃って、その生死について関知しないって、やはりその裏に、日本の社会システムの虚を衝いた犯罪の匂いを感じてしまう。たとえ積極的な悪意はなく、成り行きで不正受給に至ったとしても、自分を産み育んでくれた親の生死に無関心な時点で、人としてはアウトだろう。そこまで親に関わりたくない一方で、その年金にはちゃっかり手を付けると言うのだから、ご都合主義も甚だしい。
日本の社会システムは、性善説を前提に構築されていると言われるが、その前提を逆手にとって狡賢く立ち回る人間が(昔から、どんな時代にも一定割合いたのかもしれないが)、(システム運用の)許容範囲を超えて増え続けたら、日本社会は早晩崩壊すると思う。
モラル・ハザード(特に「人様に後ろ指差されるようなことをしたら恥ずかしい」と言う”恥の文化”の消失)がここまで日本社会を蝕んでいたなんて、今更ながらショックだ。
ただし、こうした不正を働く人々は、たとえその不正行為が表沙汰にならなくとも、様々な形で天罰が下っているものなのでは?人間として社会生活を営む限り、「良心の呵責」(罪の意識)がブレーキとなって人生の行く道を妨げ、結果的に不幸になっているのではないだろうか?
不正に手を染めた人は自問自答してみたら良い。「自分は今、本当に幸せなのか?」と。
人間、目先の金、利益に惑わされることなく、多少遠回りしても良いから、誠実に、地道に生きるのが、幸福への着実な道筋だと思うんだけれどなあ…
いくら本人が「即身成仏になりたい」と宣言して自室に引き籠もったからと言って、30年もの間、同居する家族が一切関知しないって話、常識的に考えてあり得ないだろう?自宅でミイラと同居なんて、想像するだに「ホラー」だよ。しかもその間、支給された年金も引き出されていたとあっては、同居家族が男性の死を知りながら、それを秘匿し、年金を不正受給していたと疑われても仕方ない。
続いて最高齢女性についても所在不明が発覚し、その身内は「親の生死を知らない」だの、「もう何十年も親兄弟に会っていない」だの、やはり驚くべき発言を重ねている。この家族の過去にいったい何があったのか、首を傾げざるを得ない、何とも不可思議な話だ。
もちろん、この世にはごまんと家族がいるのだから、家族の形は千差万別。いろいろな家族関係があるとは思う。しかし、最高齢と認定された男女の家族が揃いも揃って、その生死について関知しないって、やはりその裏に、日本の社会システムの虚を衝いた犯罪の匂いを感じてしまう。たとえ積極的な悪意はなく、成り行きで不正受給に至ったとしても、自分を産み育んでくれた親の生死に無関心な時点で、人としてはアウトだろう。そこまで親に関わりたくない一方で、その年金にはちゃっかり手を付けると言うのだから、ご都合主義も甚だしい。
日本の社会システムは、性善説を前提に構築されていると言われるが、その前提を逆手にとって狡賢く立ち回る人間が(昔から、どんな時代にも一定割合いたのかもしれないが)、(システム運用の)許容範囲を超えて増え続けたら、日本社会は早晩崩壊すると思う。
モラル・ハザード(特に「人様に後ろ指差されるようなことをしたら恥ずかしい」と言う”恥の文化”の消失)がここまで日本社会を蝕んでいたなんて、今更ながらショックだ。
ただし、こうした不正を働く人々は、たとえその不正行為が表沙汰にならなくとも、様々な形で天罰が下っているものなのでは?人間として社会生活を営む限り、「良心の呵責」(罪の意識)がブレーキとなって人生の行く道を妨げ、結果的に不幸になっているのではないだろうか?
不正に手を染めた人は自問自答してみたら良い。「自分は今、本当に幸せなのか?」と。
人間、目先の金、利益に惑わされることなく、多少遠回りしても良いから、誠実に、地道に生きるのが、幸福への着実な道筋だと思うんだけれどなあ…
2010/8/4
今年はパプリカ♪(1)パプリカ栽培92日目 やさい栽培観察日記

昨年の楽しさに味をしめて、今年は新たに、デルモンテ社が供給しているパプリカの栽培セット(苗2本と土)を生協で購入し、育ててみることにしました。
写真は最新のパプリカの姿。艶々とした赤い実がなっています。市販されているパプリカの半分程の大きさで、商品名も「パプリコット」。着果してから1カ月程かけて緑から赤へと変化しました。
今年は前半、私自身がブログの更新を怠ってしまったので、これまでの生長の軌跡を一気にお見せしようと思います。





今回の害虫騒ぎも、今となっては農業を生業としている農家の方々の苦労が偲ばれる貴重な経験だったと言えるでしょうか。そして私が虫との闘いに明け暮れている間にも、健気にパプリカは生長し、花を咲かせ、実をつけていました。偉いぞ、パプリカ。さすがにこのところの猛暑では、朝の水遣り前は葉がダラリと垂れ下がり、グッタリした様子。頑張れ!パプリカ!!
昨夜のニュースでも、猛暑で特に葉野菜がダメージを受け、価格が高騰していると伝えていました。一方で、昨今は天候に左右されない工場生産の野菜も、市場に大分出回っているようです。工場生産の野菜なんて、まるでSF映画の世界ですね。


上写真は初収穫のパプリカ。一番最初につけた実(正確には4番目?実の着きをよくする為に、最初についた花から3輪目まで摘み取ってしまうものらしい)が、いつの間にか黄色く色づいていました。艶々として鮮やかな色とバランス良い形。嬉しさのあまり収穫するのを躊躇っていたら、気づいた時には右写真の通り、表面がしなびていました。慌ててもぎって、その日の夕飯の食卓に。肉厚で甘みが強く、小ぶりながらも結構食べ応えがありました。夫に「これ、私が育てたのよ。今日が初収穫」と言ったら、「また、凝りもせずに」と夫は笑って、細切りパプリカのソテーをパクリ。
しかし、着果したのは今のところ、7個のみ。昨年のプチトマトが合計200個余りだったのに比べると、ちょっとコスト・パフォーマンスが悪すぎるかしら…もしかして私の育て方が間違っている?!
