2010/2/27

認識の変化  はなこのMEMO

つい数日前まで、男子のフィギュアスケートの結果に「やはり総合力か」と思ったのも束の間、女子フィギュアスケートの浅田真央選手の、前人未踏のトリプルアクセル3回への挑戦と成功には、「アスリートとして挑戦することの大切さ」を再認識させられた。

そして改めて、大怪我から復帰した高橋選手が、メダル獲得のかかったオリンピックの大舞台で、敢えて4回転ジャンプへ挑戦した「アスリートとしての心意気」が理解できたし、男子の採点方式に換算するとライサチェクやプルシェンコの点数を上回るキム・ヨナ選手の高得点に違和感を覚えたのだった。男子メダリストの演技を見るに付け、彼女のフリーの演技の技の難度とプログラム構成の密度で、あの点数はないだろう。

もちろん、想像を絶する重圧の中、ほぼ完璧な演技を見せたキム・ヨナ選手の優勝に異論はない。しかし、技のひとつひとつの「出来映え」で加点減点され、実力差以上に点差が開く傾向が否めない現行の採点システムには、甚だ疑問を禁じ得ない。これでは選手の挑戦意欲が削がれ、結果的にフィギュアスケートの発展を妨げることになるのではないか?これはひとえにフィギュアスケートを管理監督する連盟の問題だろう。

過去にアジアでは日本で2回開催されただけの冬季オリンピック。その開催地に名乗りを上げている韓国の思惑(誘致活動に”スター”の存在は不可欠)が、今回のキム・ヨナ選手の圧勝劇と何らかの関わりがあるのではとの噂もある。オリンピックを巡ってはとかく黒い噂も絶えない。その真偽のほどは定かではないが、今後、例えばフィギュアスケートで、(次回の開催地である)ロシアに有利な採点システムに改定されたら、大方のファンの「疑惑」は「確信」となり、白けさせることになるだろう。
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2010/2/26

女子フィギュア・スケートを見て思ったこと  はなこのMEMO

クリックすると元のサイズで表示します 女子フィギュア・スケートについて思うこと。マスコミは浅田真央選手とキム・ヨナ選手の対決構図を強調し過ぎ。浅田選手に過度なプレッシャーを与えることは否めず、他の選手に対しても失礼である。

 私も確かに同じ日本人として浅田選手には頑張って貰いたい。しかし、キム・ヨナ選手と競い、必ず勝って金メダルを、とまでは思わない。他にもジョアニー・ロシェット選手や安藤美姫選手など有力選手がいるのだから、誰が金メダルをとってもおかしくないはずだ。オリンピック経験者である安藤選手も記者会見で言っていた通り、「オリンピックでは何が起きるかわからない」

 ショート・プログラムではキム選手、浅田選手共にほぼ完璧な演技を見せたが、1位と2位の点差が5点近くあったことが、特に日本では物議を醸した。個人的には5コンポーネンツの中に「楽曲の解釈?」とか言う項目があるのが腑に落ちない。ショート・プログラムが特に選手のスケーティング技術を審査するのが目的ならば、全員同じ課題曲、同じ振り付けで審査すれば良いと思う。それなら優劣は一目瞭然だろう。選手の力量以外のところで審査されるのは、選手が気の毒である。

 メダルを獲るか否かや、メダルの色など関係ない。とにかく4年に一度の大舞台で、それぞれの選手が持てる力を出し切って、ベストのパフォーマンスを見せて欲しいと思う。そして選手達の真摯な挑戦に応えるべく、できる限り審査は公正を期するものであって欲しい。

 さきほどの鈴木選手の演技には、自然と涙がこぼれるほど感銘を受けた。トータル180点を叩きだして、もちろんパーソナルベストを更新である。鈴木選手の次に演技したレピスト選手の演技にも思わず拍手してしまった。彼女は自身のパーソナルベストを30点?以上更新したらしい。オリンピックという大舞台で見事に力を出し切った、彼女達の充実の笑顔には、こちらまで幸せな気分になれた。

 みんな、頑張れ! 

【追記 フリーを見終わって】

 キム・ヨナ選手が金メダルを獲得。韓国国民の過剰とも思える期待の重圧に打ち克って、大舞台でほぼ完璧のパフォーマンスを見せたことは賞賛に値する。しかし、浅田選手との点差が20点以上と言うのはどうなんだろう?浅田選手やロシェット選手、4位に入った長洲未来選手の技の難易度や密度と比べると、確実性を狙う余り無難な技の組み合わせのように見えて、私の目には(まあ、素人ですが…)クリーンだが、あまり印象に残らない、余韻の残らない演技だった(余韻が残る、と言う意味では安藤美姫選手の「クレオパトラ」も良かった。この4年間の成長の跡が窺える、叙情的で、ほぼ完璧な演技!)

 点数が彼女ひとりインフレ状態?解説者は「現行の採点システムの特徴を最大限生かしたプログラムで点を獲りに行って成功した」旨の話をしていた。大会開催地であるカナダで、カナダ人コーチの指導を受けることでホームタウンに準じた環境を作り、現行の採点システムに照準を合わせたプログラムを作った、「チーム・キム・ヨナ」の作戦勝ちとも言えるのかもしれない。それでも、250点超えと言う空前絶後の高得点に見合うパフォーマンスであったかどうかは疑問だ。

 一方浅田選手は、オリンピック史上、女子で初めて、しかも3度もトリプルアクセルを成功させた。そのチャレンジ精神もまた大いに褒め称えられていいはずだ。至高に挑戦し続けるアスリートとしての姿勢は、すべてのアスリートの手本とも言える。浅田選手のプログラムは、金メダルを狙ったと言うより、女子フィギュア・スケートの世界に新たな扉を開けるべく練られたプログラムと言えるだろうか?今回は2回のトリプル・アクセルと濃密な演技構成から後半ミスも出たが、浅田選手以外誰も踏み込めない領域でのパフォーマンスなので、現行の採点システムでは評価しえない部分もあるのではないか?

 それにしてもGOEと言う「出来映え点」は、素人目にもクセものだ。どうしても審査員の主観が入るのではないか?結局、採点競技は人間の主観が入る隙がある限り、誰もが納得できるスコアはあり得ないのだろう。過去に実績を残した選手が、「上手い」と言うイメージを審判員に刷り込み、高得点獲得に有利なのも、採点競技には否めないことだ。逆に人間の感情に訴える部分が大きい競技だから、機械で採点することも不可能ではあるのだが。

 しかし、「出来映え点」を重視するあまり、選手が無難な技に終始したり、ひとつひとつの技の確実性の追求に走って、新しい技の挑戦を避ける傾向が強まれば、アスリート(&競技種目)としてどうなのか、と思う。

 とは言え、協会として「出来映え点」を重視するのは、選手の身体のことを考慮しているとも考えられる。先日、プロ・スケーターが言っていたが、ジャンプ時の着氷の衝撃はやはり腰や膝に負担が大きく、スケーターの故障で多いのも腰や膝。競技生活を維持する為には多額の費用を要すると言われ、それを回収する目的もあって、競技引退後はプロに転向する選手も少なくない。そのスケーター生命をできるだけ長く、と言う観点から見れば、選手時代に腰や膝の故障を誘発するジャンプで、極限の技を追求するのはリスキーと言えるだろう。そういう選手側の事情もあって、「限界への挑戦」とも言うべきジャンプの難度の追求は、技の確実性より軽視される傾向が続くのかもしれない。

 先日読んだ記事によれば、キム・ヨナ選手の父は、彼女の競技生活を支える為に犠牲にしたものがあまりにも大きく、キム選手の引退後には家族揃って静かで平穏な生活をしたいと希望しているそうだ。たまたま5歳の時に通い始めたスケート教室でその才能を見いだされて以来、母はキム選手につきっきりで世話をし、家事や3歳違いの姉の世話は父が一手に引き受けて来たらしい。オーサーコーチの下についてからは、年に10ヶ月は母子でカナダに滞在。つまりキム家は、この15年近く家庭生活を犠牲にして来たと言える。

◆参考記事:「24時間」密着ママの献身(『AERA』誌)

 そうした事情もあってキム・ヨナ選手は今後プロに転向する噂もあるが、浅田選手はアスリートとしての道を極めるべく、次回のソチ・オリンピックを是非目指して欲しい。キム選手が競技界から去ったとしても、長洲未来選手(←彼女のフリーの演技「カルメン」は素晴らしかった!とても印象的なプログラムとパフォーマンス!今後が本当に楽しみな選手ですね)を筆頭に有力ライバルはひしめいている。彼女の闘志を燃やす相手は幾らでもいるのだ。

 浅田選手とキム選手の対決構図ばかりがクローズアップされるのに懐疑的だったが、キム選手と浅田選手や他の選手とのとんでもない点差には、スポーツ競技としてのフィギュア・スケートの在り方に、やっぱり納得の行かないものを感じてしまった。少し後味が悪いと言うか、心にモヤモヤが残ると言うか…

 ところで、オリンピック全体に言えることだと思うが、私達日本人は、選手にメダル獲得を期待するなら、口だけでなく、それ相当のお金も出さなくてはいけないだろう。現にお隣の韓国では、年に10カ月間練習が可能なナショナル・トレーニング・センターを設置し、スピードスケート選手が練習に専念できる環境を整えている。さらに金メダル獲得者には生涯に渡って、月8万円の年金を支給するらしい。

 一方、事業仕分けで、他の先進国に比べたら圧倒的に少ない選手強化費を容赦なく削減しようとする我が国は、国を挙げて選手を応援しているとはお世辞にも言い難い。しかもアマチュア・スポーツの管理運営の殆どが企業頼みでは、経済の好不況で選手の練習環境が左右され過ぎる。我が国の場合、現状でメダリストの引退後のメリットと言ったら、その知名度で自民党に声をかけられ、比例代表で国会議員に選出されることくらいではないだろうか?ただし、自国選手の活躍を国威発揚の道具に利用するのも、現在の日本には馴染まない。税金の使途には厳しい?国民性もあるから、費用対効果でどこに線引きするべきかも悩ましいところかもしれないが。

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2010/2/24

「古臭い」と言われても、言いたいこと  日々のよしなしごと

時代や土地柄もあるのだろうけれど、私は年長者を敬うよう厳しく躾けられた。年長者に対する言葉遣いや態度に気をつけ、その身体を労る気遣いをするのは、年少者として当然だと。

それでも人並みに反抗期はあったから、中学の頃、年長者に対してふざけた態度を取ったこともあった。その時は両親はもちろんのこと、当事者や親戚の伯父叔母から、こっぴどく叱られた。反抗期だろうが何だろうが、「年長者を敬う」と言う共同体のルールと言うか、社会通念を破れば、年長者から厳しい叱責を受けるのは当然と言う空気だった。

年長者を敬う、と言うのは、自分が突如この世の中に出現したのではなく、遥か昔から連綿と命が繋がって来た結果なのだと言うこと、ひいては現世においても誰との関わりもなく、誰からの世話にもならず生きていることはあり得ないことを意味するのだと思う。

もうニュースとしては賞味期限切れだろうけれど、私が国母選手の会見の態度に不快感を覚えたのは、根底にその思いがあるからだ。選手団ユニフォームを自分流に着崩したことに端を発した騒動だけれど、それ自体は今振り返れば、殊更荒立てる内容のものではなかった。結局、その後の彼の対応の仕方に多くの人はカチンと来たのだと思う。成人男性らしい大人の対応をしていれば、あそこまで騒がれなかっただろう。

私が彼の態度に不快感を覚えたのは、彼がオリンピックに出場するに当たり、末端の人も加えて、一体どれだけの人々が尽力したかの配慮が見られなかったからだ。一抹でもそうした人々に対して感謝の思いがあれば、あのような不遜な態度は取れなかったはずだ。たとえ、マスコミがしつこく挑発して来ても、癇癪を堪えて、大人の対応ができたはずだ。

普段、美術館のボランティアとして小中高生と関わっている中でも、生徒の態度に腹が立つことがある。特にこちらは無給のボランティアだからと言って手抜きをしているつもりはないので、生徒が作品を一緒に鑑賞中に、あまりにもふざけた態度を取ると、思わず叱りたい衝動にかられる。羞恥心で、こちらからの問いかけに答えられないのは別に構わない。ここで言うふざけた態度とは、鑑賞マナーを入室前に確認したにも関わらず、こちらの出方を窺うが如く繰り返し破ること、きちんと作品に向き合わず、私や他の生徒の発言の揚げ足とりをしたり、ふざけた発言を繰り返すこと等して鑑賞の邪魔をすることである(特に反抗期真っ直中の中学生にまま見られる)。そうした子ども達を惹きつけられない私の力量不足もあるのかもしれないが、こうした事態に遭遇すると、徒労感に打ちのめされる。

もし、私の子どもが同様のことをしたら、私は我が子を引っぱたいているだろう。人としての不作法や、貴重な機会を台無しにしていることに腹を立てて(他の人の邪魔をしているという意味では、授業中の私語と同じ)。そもそも教育上良かれと思って鑑賞プログラムを企画してくださった先生、受け入れて下さった美術館(←親の立場で発言しています)に対して失礼である。こうした機会を設ける為に、さまざまな人々が時間を割いて、知恵を絞って準備に当たっている。そのことへの感謝を忘れてはいけない。これはテストの点数を10点や20点上げること以上に大切なことだと思う。

人との出会いも、経験も一期一会。その機を逃さず、十二分に生かすことが大事だと思う。何事もできるだけ興味を持って(面白がって)取り組むよう心がけないと自分の血肉にはなり得ず、その積み重ねは後々、大きな差となって自分に返って来る。そのことを教えてあげられるのは、やはり何と言っても親や身近にいる大人なんだと思う。自分がこれから経験することのひとつひとつが誰かの助けなしには実現しないこと、そのことへの感謝の思いを持って、何事にも真剣に取り組むことの大切さを、特に親は幼い頃から子どもに粘り強く言い聞かせることが大事だと思う。

実は、それを地域全体で教え諭す方便のひとつが「年長者を敬う」だったのではないかと、今にして思うのだ。これは文化や価値観の違いと言ったものでは片付けられない、人間が人間として成長する為の普遍的な作法なのではないか?ひとりよがりな「自己中」では、いつまで経っても「身体だけ大きな”子ども”」でしかない。
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2010/2/19

4回転の呪縛  はなこのMEMO

クリックすると元のサイズで表示します 今、男子フィギィア・スケートのフリープログラムの演技を見ているけれど、順位下位の選手が果敢に4回転ジャンプに挑戦している。しかし、大技なだけにリスキーで失敗も多いし、たとえ成功したとしても、それで体力も気力もかなり消耗してしまうのか、それ以降の演技が大味になってしまう印象が拭えない。

 先日、ショートプログラム後の順位上位者による公式会見の席で、4回転には絶対の自信を持つ1位のプルシェンコ選手が、「4回転は男子フィギィアの未来だ。跳んで当然」みたいなことを言い、それに3位の高橋選手も呼応していた。私はこれはプルシェンコ選手の揺さぶり作戦だと思うんだけどなあ。これに乗ったらイケナイような気がする。高橋選手、大丈夫か?

 4回転。成功すれば9.8〜13.3の加点に対し、転倒や回転不足は容赦なく基礎点から減点される。殆ど点差のない上位者にとって、4回転ジャンプに挑んだ場合、その成否が勝敗を分けることになる。一方、ショートの演技では4回転を跳ばなかったにも関わらず、4回転を成功させた1位のプルシェンコ選手と3位の高橋選手には大きな点差はつかなかった。それが意味するところは、やはりさまざまな要素の綜合がフィギア・スケートだということなのではないか?

 今朝の公式練習で、高橋選手は4回転ジャンプに2回の挑戦で2回とも失敗した。4回転は確かに華やかで圧倒的なジャンプの大技ではあるけれど、4回転ジャンプ以外の演技はスケーティングにしろ、スピンにしろ、ステップにしろ、芸術的表現にしろ、プルシェンコ選手に高橋選手が十分対抗できると思うだけに、ここで敢えてリスキーな4回転は跳ばずに、自身の得意とするスケーティングや表現力でクリーンな演技を見せて欲しいな、と個人的には思う。メダルの色なんて、彼の華麗なスケーティングに魅了されている一ファンにとっては、この際どうでも良いのです…と言っても、高橋選手は攻めの姿勢で行くのかな?


【追記 試合後】

 高橋選手。シーズン当初から宣言していた通り、やっぱり4回転ジャンプに挑んだ!「挑んで失敗するも悔いなし」と高橋選手本人が納得しているとあれば、外野は何も言えない。解説の本田武史氏も、その勇気を称えていた。見る者は失敗のないクリーンな演技を期待するものだけれど、競技者とは敢えてリスクを冒してでも、より高みを目指して挑むものなのかな?4回転は失敗したけれど、それ以外のジャンプは完璧にクリアし、スケーティングもステップもスピンも素晴らしく、最後まで見る者を魅了した演技は、彼の今季ベスト・パフォーマンスと言って良いと思う。

 優勝した米国のライサチェク選手の完璧で圧巻の演技の前には、たとえ高橋選手が4回転ジャンプを成功させていたとしても、優勝は難しかったのかもしれない。プルシェンコ選手は、さしもの王者も緊張したのか、転倒こそしなかったものの(この8年転倒なしだそうだ)、辛うじて踏ん張ったり、軸がずれたり等、”らしからぬ”演技で、看板の4回転ジャンプは成功させたにも関わらず、ライサチェク選手に逆転を許し2位となった。かつて絶対的なフィギィア・スケート王国だったロシアが、今回のバンクーバーでは次々とその牙城を切り崩され、正直驚きを隠せない。ソ連崩壊後、ステート・アマ体制が崩れてしまったからなのか?結局、4回転ジャンプを回避して、ノーミスの演技に拘ったライサチェク選手が勝利したのは皮肉なものだ。

 演技途中に靴紐が切れて中断を余儀なくされた織田信成選手の無念を思うと涙が出た。試合直後のインタビューによれば、試合前に既に靴紐は切れていたのだが、とりあえず切れてしまった部分を結んだだけで、演技に臨んだと言う。直前に交換するよりも、靴紐の結び具合がいつも通り足に馴染んだ状態で臨むのが得策と判断しての応急処置だったが、結果は裏目に出てしまったようだ。頬を濡らすのは後悔の涙なのか、インタビュー途中で言葉が詰まってしまった織田選手の姿が痛々しかった。アクシデント発生までは素晴らしい演技だったので、本当に残念だったろうな。
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2010/2/18

オススメ・レシピ・サイト  「食」についての話題

クリックすると元のサイズで表示します 今から10年位前に、福岡経由で帰省した時に、福岡の友人に案内されて行ったキャナルシティ博多で、偶然栗原はるみさんに遭遇しました。実際に見る彼女は、テレビで見る以上に、とても小柄でかわいらしい女性でした。すれ違う直前に、栗原さんの方から会釈されたのでビックリしました。すごく謙虚な方なんだなあと、その時の私は感動すら覚えたのでした。

 その栗原さんの活躍は今や誰もが知るところ。その栗原さんが朝の番組で料理コーナーを担当されています。そこで紹介されるレシピが、これまた創意工夫に富んでいて感動ものしかも毎回、どの家にもありそうな調味料や食材を使って、ちょっと一手間かけるだけで、おいしさ百倍のアイディアを惜しげもなく披露してくれるのです。

 さらに、おいしさを追求する為に、時には従来の料理の常識から外れたこともやってのけてしまう彼女の大胆さが、私は好きです(還暦前後の女性に向かって失礼かもしれませんが)その愛くるしい笑顔でチャッチャッとやられると、もう何でも許せちゃう感じです(笑)。

 栗原マジックに興味のある方、下記のリンクをクリックしてみてください♪きっと試してみたいレシピに出会えるはずですよ。私も今日紹介のレシピ、「煮込みレンコンハンバーグ」に近々挑戦しようと思っています。

はるみキッチン(日本テレビ『スッキリ!』)


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2010/2/17

いろいろな感じ方、考え方があるもんだなあ…  日々のよしなしごと

国母(コクボ)とか言うスノーボードの選手。バンクーバー入りした時に選手団ユニフォームを着崩していたことが非難の的となり、その後の謝罪会見の態度の悪さが火に油を注いだ格好になっています。さらに2度目の謝罪会見以降、マスコミは面白可笑しく彼の動静をレポートしています。結局、ネタになれば何でもいいってことなのかなあ…

今回の一件を巡るネット記事のコメント欄をザッと読んでみたら、「(仮にも国を代表する人として)TPOを弁えていない未熟さ」や「公式謝罪会見時の人をバカにしたような態度」を非難する人が大多数の一方で、擁護派もチラホラといる。ホント、さまざまな考え方があるんですね。観点の違いから、いつまで議論しても噛み合わないであろう対立意見が見られたり、コメントを寄せた人自身の未熟さ(無知ぶり?)を感じるコメントもあるし、読んでいるこちらが「なるほど!」と感心するコメントもあるしで、なかなか興味深いです。

ただ、ネットで一般人が自由(ある意味、無責任に(^^;))に思っていることを公開できるようになって以来、騒ぎが拡大される傾向も否めないのは事実でしょう。騒ぎに便乗して、過激な言葉で有名人を非難して、自分の個人的な鬱憤を晴らしている人もいるように見える。

はなこ的に国母選手に対して思うのは、ゴルフや野球を除けば、アスリートの競技人生は思いの外短く、引退後の人生の方がずっと長いのに、あのコミュニケーション能力では後々苦労するだろうなあ、ということです。もし非難に対して納得が行かないのであれば、きっちりと言葉で反論することが必要でしょう。自分自身で納得していないのに、上から言われて表面だけ取り繕うとしたから、傍目には不遜な態度に受け取られてしまった。あれが拙かったと思う。あの場で自分なりの考え方をきちんと伝えられれば、また空気は変わっていたかもしれない。

もちろん大人になったら、どんなシチュエーションであれ、その場に相応しい態度で臨む(それは服装に関しても言える)ことって、必要最低限のマナーだと思うんですよね。マナーは処世術でもある。自分の競技に集中する為にも、無用な摩擦は起こさない方が得策なのは明らかでしょう。その点、国母選手は脇が甘いし、周囲のサポートにも問題がある。

そもそも今回はマスコミ報道によって、国母選手のある一面が大きくクローズアップされたに過ぎず、批判している人の多くはその部分に関して批判しているわけです。けっして彼自身を全否定しているわけではない(その意味では、「出場辞退」まで求めている人は殆どいないと思う)。

コメント欄には「メダルを取って、(非難している人を)見返してやれ」と言う意見がありましたが、メダルを獲得したら結果オーライ、「勝てば官軍」というわけではなく(メダル獲得はもちろん賞賛されるべきことですが)、やはり今後は大人として、人と接する時どのような振る舞いをすべきか考えることは大事だと思う。注目を浴びる(人々に夢を与える、後進の手本となる)トップ・アスリートだからこそ、無名の一般人以上に、いろいろな意味で高いレベルが求められるのは仕方ないですよね。”選ばれし者”の宿命なのかもしれない。
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2010/2/14

自然礼讃〜プチトマト(34)栽培278日目  やさい栽培観察日記

クリックすると元のサイズで表示します風前の灯火のプチトマト

 約3週間ぶりのプチトマト観察レポートです。このところ厳しい寒さが続き、私も縮こまっていましたが、ずっと屋外にいるプチトマトにとっては、より一層厳しい寒さだったことでしょう。

 そのせいか、2つあった葉の塊の内ひとつが先週の降雪の後、とうとう萎れてしまいました。残るは写真の塊ひとつ。それも、せっかく咲いた花は萎れてしまい、蕾も花を咲かせることなく枯れてしまいそうな状態です。プチトマトの実も、この寒さと日照不足では大きくなりようがありません。今日は久しぶりに青空が見えて、人間もプチトマトもホッと一息つけたところでしょうか?

クリックすると元のサイズで表示します 右写真は塊を別の角度から捉えたもの。小さな実が見えます。枝はすっかり黄変していますが、僅かながらまだ青々とした葉もあります。

 9カ月余り、我が家のベランダで命の輝きを見せてくれたプチトマトとも、刻一刻と別れの日が近づいているようです〜なんて書くと大袈裟に聞こえるかもしれませんが、プチトマト2本で随分と楽しませてもらい、愛着もひとしおなのです。ついつい感傷的になってしまう…

 私は生来、性格的に飽きっぽいところがあって、小学生時代は例えば朝顔の栽培&観察日記など、おざなりなものだったように記憶しています。観葉植物も何度か枯れさせてしまったこともあるし…そんな私がひとつの植物を、9カ月もの間、じっくり育て、観察できたことは奇跡に近い(笑)。これもひとえに、プチトマトの生命力にあると思うのです。その健気な生き様には感心させられ、随分と励まされもしました。小さな命の力も侮れないですね。

クリックすると元のサイズで表示します


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2010/2/12

意外に親より世話好き(*^_^*)  家族のことつれづれ

「大学に入ったらみんなで行きたい」と、かねてから願っていた高校時代の友人達との北海道旅行。息子はとうとう2月末に実現しそうです。意外にも息子が幹事役を買って出て、旅行会社及びツアーの選定、旅行会社への予約、友人3人からの旅費の集金、旅費の振り込みと言った一連の手続きを一手に引き受けました。

高校時代の友人3人は、住んでいる地域はもちろん、通っている大学も違うので、一堂に会することもままならない。まず息子が数あるツアーから予算とツアー内容重視で選んだツアーの承認を友人達にメールや電話で求め、ツアーをネット予約し(これも当初の希望の日が「催行人員に達せず催行なし」だったりで二転三転)、その後、3人それぞれの都合に合わせて、息子が友人達と自宅との中間地点まで出向いて集金し、内ひとりの旅費は息子が建て替えて、4人分の旅費をコンビニで振り込んだのです。私は旅行の段取りにかけては達人の域(笑)。息子からアドバイスを求められた時には、ちゃんと答えてあげました(笑)。

私から見れば、集金に出向く時の交通費も、時間も(同日の朝一にA線のB駅、5時間置いてC線のD駅に行く等)、それなりにかかっていて、「なんてお人好し!」。その印象を夫に言ったら、「本人が納得しているんだったら別にいいじゃないか」と意外にも大らかな反応が返って来ました。もちろん、これまでいつも旅行に関しては一切親任せだった息子が(出発当日までな〜んにも考えていない!)、今回自らすべてを取り仕切ったこと(しかも自発的に!)は、ある意味、驚くべきことではあります。改めて、息子の成長を感じました。これはちゃんと認めてあげなくてはね…

道中が無事で、楽しいものでありますように…
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2010/2/12

ぶれない「自分の物差し」を持つ  はなこ的考察―良いこと探し

人間、生きて行く上で、自分の物差しを持つことは必要なんだと思う。それは、つつがなく、或いは自分と言う存在を肯定的に捉えて、必要以上に苦しまずに、悩まずに生きて行く為の智慧や鎧と言っても良いものかもしれない。

では、自分の物差しとは何か?それは自分にとって何が本当に価値のあるものかの判断基準であったり、生きる上で迷いが生じた時に、けっして他人と自分とを比べたりせず、あくまでも自分にとって最良、もしくはより良い生き方を選び取る心の強さなのかなと思う。

価値観や、人生の上で求めるものは人それぞれだ。だから各人それぞれに自分の物差しがあるはずだ。自分の物差しは、それが他者を巻き込んで不幸にするような反社会的なものでない限り、他者に否定されたり、侵害されたりするものではけっしてないし、同時に自分の物差しで、他者を批判したり、否定する権利もなく、ましてや自分の物差しを他者に押しつけるべきではないと思う。

自分の物差しを持つ際に、ひとつの目安となるのが身の程なのだろう。身の程は一言で言うならば自分の器量だろうか?昔から「氏より育ち」と言う言葉があって、出自よりも、どう育てられたか、生きて来たかが大事だと言われているが、現実は「氏(出自)と育ちの両方」共大切なものだ。どんなに本人が努力しても、自分がいつ、どこで、どのような家柄に生まれ、どのような環境の下で育ったかは、一生ついて回る。その意味で、人間が生まれながらに平等なんてあり得ない。

だからこそ、自分の物差しを持つことは重要なんだと思う。生まれながらにして、人生のスタート地点は違うのだ。恵まれた環境の下で育って自分より1歩も2歩も先を行く人がいるかと思えば、後塵を拝している人もいるのだ。しかも家柄や財産や親の庇護と言った外的要素だけでなく、生体エネルギーともいうべき活力(=やたら元気な人からおとなしい人まで、外に向けて放出するエネルギー量)、容貌、能力(知力、精神力、体力、運動能力)と言った個人の内的要素も、人によって大きく異なる。さらに誰もが自分自身のそれまでの歩みは知っていても、他者のことまで、正確に把握できるはずがない。あくまでも他者のことは、現時点の状態しか知り得ないのだ。そんな状況下で、自分と他者を比べることに、何の意味があるのだろう。

人間の不幸は、他者と自分とを比較することから始まる。現時点での両者の差異に一喜一憂することは、上述のことからもナンセンスだと思う。比べるべきは、現在の自分と過去の自分だろう。その前提として、自らの器量を知ることは大切に違いない。

ところで、俗に言う「玉の輿」は、結婚によって自分の社会的地位を引き上げることだが、自分の器量(身の程)を超えるからには、それ相当の覚悟が要るはずだ。それまでの氏や育ちで体得できなかったことを、必死に学ばなければならないのだ。何かを得ることは、同時に何かを失うことでもある。「玉の輿」に乗った人も社会的地位を得ることで、確実に失うものがあるはずだ。ただし、その何かを犠牲にしてでも、自分を未知の厳しい環境に置き、グレードアップさせたい、と言う選択も、自分の物差し次第では「あり」と言える。

自分の器量(身の程)を知り、自分の物差しを持つこと。それは、自らの人生を肯定的に捉える上で、必要なことなのではないか。それが、結果的に自分を、自尊心を守ることになると思う。誰もが、マザー・テレサやオバマ米大統領やアンジェリーナ・ジョリーやマドンナと言った、偉人やリーダーやセレブを目指す必要はないはずだし、他者の目(評価)に絶対的価値を置く必要もないのではないか?自らが思い描く自らの理想像は、あくまでも生きる上での目標であって、自らを追い込む刃ではないはずだ。

世の中に、必要以上に自分自身の在りようを否定し、苦しむ人が少なくないことに、私は正直言って驚き、戸惑い、心を痛めている。自分を痛めつけてまで、そんなに頑張らなくても良いのに、そんなに立派でなくても良いのに。自分のあるがままを愛し、受け入れることは大切だよ。今の自分が好きになれずに苦しんでいる人には、結局、自分自身が、自分を一番理解し、愛せるのだと言うことに、早く気づいて欲しいと思う。

【追記:2010/02/13】

今日、クリント・イーストウッド監督、モーガン・フリーマン主演の映画『インビクタス(INVICTUS〜ラテン語で「征服されざる者」「不屈」と言う意味。主人公のネルソン・マンデラが長期にわたる収監中に、心の拠り所となった詩のタイトルでもあるらしい)』を見て来た。

反体制派として27年間にも渡って投獄された経験を持つ、ネルソン・マンデラ氏(1918〜 元南アフリカ共和国大統領)が大統領就任直後、長年に渡るアパルトヘイト(人種隔離政策)で、互いに憎悪感情を拭えない黒人と白人の融和を目指すべく、当時白人中心のスポーツであったラグビーを人種融和の象徴に据えた顛末を描く。奇しくも今年2010年2月11日(木)は、マンデラ氏釈放20周年に当たる。

クリックすると元のサイズで表示します何よりモーガン・フリーマン演じるマンデラ氏の、人間的スケールの大きさに圧倒された。過去にアパルトヘイトの下、黒人に対して白人によって行われた差別的行為、非人間的対応に対し、「憎悪ではなく赦しを」「復讐ではなく融和を」、「過去を振り返るのではなく未来を志向せよ」と説いたマンデラ氏。華奢な体躯の男性だが、思想の巨人とも言うべき人。27年間、様々な圧力に屈することなく、狭小な独房で自分自身と真摯に向き合い続けた結果、その思想は崇高なまでに結晶化し、その言動には悟りを開いた宗教家の風格さえ漂う(その個人的感情を超越した理想主義に、家族はついて行けず離れてしまったようだが…)

劇中、マンデラ氏は繰り返しこう述べた。”I am the master of my fate.”〜我は、我が運命の支配者なり。どんな状況にあろうとも、自分の運命(人生)を決めるのは自分自身である。とても印象的なフレーズだった。

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2010/2/5

アートについてのあれこれ  はなこのMEMO

この何か月かの新聞記事で印象に残ったことをメモします。全て日経新聞より。

■去る12月13日まで、茨城県立近代美術館で興味深い展覧会が開催されていたらしい。題して「眼を閉じて〜”見ること”の現在」。展覧会場で鑑賞や創作体験を通して、積極的な意思を伴う「見る」と自然に眼に入ってくる「見える」の違いや、通常「見せる」ことを目的としている美術作品を楽しむ為に必要な「見る」と言う積極性について考える〜「見る」と言うことに着目して、美術の役割を改めて問い直した展覧会と、記者(文化部 小川敦生氏)は伝えている(日経朝刊 2009.11.25 44面)。

「(画中の人物が眼を閉じた)作品の前に立ち、「見る」について考える。見る側も眼を閉じて、心の中でその絵を想像する。その時にも脳はしっかりその絵を見ている。」

「暗闇の中で絵を描く体験。自分が描いているものを「見ず」に、想像しながら描く。結果は想像もつかないし、明るみに出るまで「見えない」。頭の中で「見た」ものと光の下で「見た」もののギャップが面白く、そこには新たな創造の芽を見いだすこともできる。」

「日高理恵子の作品は、見上げる視点で木々を描きながら、その奥に、あえて何も描かないことで「空」を表現している。「見える」状態を抜け出し、その空を「見る」ことを始めると、脳の回路が切り替わり、果てしないかなたを見つめ始めるのを自覚できる」

なかなか含蓄のある言葉が並んで、印象深かった。

視覚障害者 脳裏に心眼〜「好きな色はクリーム色。暖かい印象があるから」「青は冷たく透明なイメージ」…視覚障害者の子ども達には大抵好きな色があると言う実際に眼で見た色の記憶がなくとも、「色について会話したり、色の描写のある小説を読んだりしているうちに色のイメージが育つ」らしい。記事の筆者はビジュアル作家、田嵜裕季子(たさき ゆきこ)氏(日経朝刊 2010.0114 36面)。ここ10年程、視覚障害者と晴眼者の間のコミュニケーションをテーマに映像作品を手がけて来たそうだ。お互いの世界を知ることで、新たな価値観の創出や多様性の尊重にも繋がると考えてのことだ。

その原点は英国エジンバラへの留学時代に遡る。偶然出会った現地の女子大生と、当時の拙い英語で驚くほど打ち解けられた、「異なる世界がつながった」思いがけない経験が、現在の「「世界」は人を通じて広がるものだということを実感する毎日」につながっている。

エジンバラでは「視覚障害者を取材し、好きな空間だという博物館で動物の剥製に触りながら、なぜ動物が好きなのか話してもらう映像作品を作った。言葉に熱心に耳を傾けることで相手の立場でものを考えるようになり、新しい世界を知る経験になる作品だ。」

「失明した後に「好きな絵が描けなくなった」と嘆くのをやめて彫塑を始め、迫真の作品を作る芸術家になった男性の人生に感銘を受けた。」

「視覚以外の感覚を全開にしてシャッターチャンスを狙う写真家、クロスカントリーをする女性、蓼科の自然の中で環境音楽を作った音楽家など(視覚障害者にも)多様な世界があり、取材した時の新鮮な驚きがいつも胸を去来する。」

「ギャラリーで作品を発表した時には、映像の静止画を、輪郭を立体化できるコピー機で刷って展示し、視覚障害者にも鑑賞してもらえるようにした。」

まず何より視聴覚障害者の色の認知能力の高さに驚いたし、知られざる映像作家の仕事の重みが胸にズシンと来た。

「眼」繋がりで…

「コレクターの眼」が主役の展覧会〜自分の感性だけを頼りにひとりのサラリーマンが収集してきた美術作品160点余りが並ぶ展覧会「山本冬彦コレクション展」(佐藤美術館・東京・千駄ヶ谷)(日経朝刊 2010.01.18 44面)。

画廊歩きが趣味だった山本氏は、一目惚れの日本画を29歳で初めて購入して以来30年間、「作品購入こそ若手作家への最高の支援」と言う信念の下、収入の範囲内で購入して来たと言う。その数、1,300点。油絵、日本画、版画とジャンルを問わず。

ユニークなのは、作品を作家の五十音順に並べ、一切の解説を排したこと。「美術館で解説を見ながらの鑑賞は、評価の定まった名所旧跡を追体験する旅みたいなもの。1点購入して自宅に飾るとしたらどれがいいか、先入観なしに本当に好きなものを選ぶつもりで見てほしい」とは山本氏の弁。

自分の鑑賞眼が試される展覧会に出向くのは中々勇気の要るものだけれど(と言っても第三者に鑑賞眼を評価されるわけでもない)、同時に純粋に作品と向き合える楽しさもある。

美術館ボランティアを数年していると、美術史を勉強してなまじ知識量が増えているせいか、展覧会場で作品を「情報」の集積として見ている自分にハッと気づいて、戸惑うことがある。いつの時代に、何と言う作家によって、どのような様式で描かれているのか、同時代の作品の中での位置づけは?云々…文中で山本氏が指摘しているように、まさに自分が、「評価の定まった名所旧跡を追体験する旅」の途上にいるのを自覚するのだ。しかし、心の眼〜感性を置き去りにして作品と対峙したところで、果たして鑑賞後に私の中には何が残るのか?その点では、作品に対して何ら偏見を持たずに、感性の赴くままに作品と向き合う子ども達に、教えられることが多いように思う。
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タグ: 文化 芸術 新聞記事

2010/2/4

NO MAN’S  LAND〜創造と破壊@仏大使館  文化・芸術(展覧会&講演会)

クリックすると元のサイズで表示します 大学で建築を学んでいると言う、息子の友人を通じて知った展覧会に、春休みに入った息子と行って来ました。南麻布にある旧フランス大使館(1957年にジョゼフ・ベルモンが設計)が取り壊される前に、その館内外を日仏アーティストの作品で埋め尽くした、最初で最後の展覧会。当初は11月26日(木)から1月31日(日)までの公開だったのが、好評につき2月18日(木)まで、会期が延長されたようです。

 下の写真、左が旧館(一部)の外観、右がすぐ隣に建てられた新館(昨年11月より使用)です。旧館は間もなく取り壊され、跡地には野村不動産のPROUDブランドのマンションが建てられるようです。土地の売却益で新館を建築したのでしょうか?もちろん、初めて入った旧フランス大使館。まさかこんなに古かったとは…意外でした。本国には築100年を超えた建築物がゴロゴロあるのでしょうけれど。

クリックすると元のサイズで表示します クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します ヴィジュアル・アート、ファッション、デザイン、建築、パフォーマンス(←今日はなかった)等、様々なジャンルの創作が館内外で展開されているのですが、その殆どが現地で制作され、今日も作品によってはアーティスト自身が現場にいて、まさに創作の最中でした。

 写真は、中島崇《the Beautiful,the Ugly -美しさと醜さ-》。「約2カ月の会期中に種が芽を出し生長、増殖、やがて枯れ衰退し、再び種を残す迄の過程を、紙を媒体にして表現するプロジェクト」とのこと。

 私達が見た時も部屋の隅で、ハサミと紙を手にしたアーティストが創作の手を休めて、自ら作品解説をしてくれました。今日の時点で、作品は部屋を飛び出し、屋外の壁にまで増殖していました。まさに現在進行形のアート。現在は生長、増殖の段階で、鮮やかで美しい色彩ですが、これが時間を経るにつれ変化して行くのでしょうか。私はもう足を運ぶことはないだろうけれど、誰かのブログを覗けば、その変化を目撃できるかもしれません。

クリックすると元のサイズで表示します フランスと言うと、色遣いが印象的。例えばペールカラーを主体とした子ども服の色遣いを見ると、この国がいかに色彩を重んじ、幼い頃から繊細な色彩感覚を育てることに心を砕いているのかがわかるような気がします。

 国旗の配色も、歴史的背景があるとは言え、フランスならではのセンスを感じる。写真の作品の部屋に入って、ふと頭に浮かんだ言葉。「トリコロール!トリコロール!トリコロール!」〜トリコロール!の三連打です(笑)。右の壁見て、左の壁見て、床を見て。

クリックすると元のサイズで表示します 上写真の細かな模様に見えるのは、おびただしい数のトリコロールの自転車。ツール・ド・フランスを連想させる。そして右写真の真ん中のトリコロールは、なんとバゲット。遊び心で、パンも国旗色に染めてしまう(笑)。「フランス万歳!」

クリックすると元のサイズで表示します アートにかかれば、何気ない階段もポップに変身。元々あった階段端の黒の縁取りに、今回加えたのコントラストが効いています。その色の取り合わせに、思い浮かんだのはスタンダールの「赤と黒」。

 写真には写っていませんが、窓には、なぜか「鼻血」とのネオンサイン(笑)。トリコロールもそうでしたが、館内外至るところに遊び心満載で、見ていて飽きませんでした。間もなくこの世から消え去ろうとする歴史ある建築物に、こんな形の餞(はなむけ)。文化大国フランスのエスプリと言えるでしょうか。

  私は新婚旅行で訪ねたのを最初に、これまで通算3回、フランス(正確にはパリとベルサイユのみ)を訪ねたことがありますが、毎回不快な経験をしたせいか、以来もう長い間行っていません。とは言え、知人の中には何十回とフランスを訪ねた程、フランスが好きな人もいるので、魅力的な国には違いないと思うのです。

 私自身、世界の超大国・米国に対して公の場で堂々と毒づく、フランスの矜恃とも言うべき強さや、自国の文化に誇りを持ち、積極的に保護する文化大国としての在り方に一目を置いています。また、手厚い少子化対策や、充実した医療保障制度、そして過去に多くのリーダーを輩出しているエリート教育等、日本が見倣うべき点を多く持った国であることも確か。でも、過去のトラウマで再訪には二の足を踏むんだなあ…だからと言ってはなんですが、フランス国外で、その文化の素晴らしさを、アートや文学や映画等を通して、満喫させて貰っています。


クリックすると元のサイズで表示します どこか懐かしく、楽しさで思わず口元がほころぶ。館内外を練り歩いていると、そんな気持ちになりました。そう、高校や大学の学園祭を見学しているような疑似体験なのです。

 写真の部屋には、美大時代が思い出されました。汚れた壁、油絵の具の匂い、描きかけの作品。描き疲れたら、外の景色をぼんやり眺めて一休み…そんな情景がフラッシュバックしました。

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 レトロな佇まいが懐かしい…久しぶりに母校を訪ねたような錯覚に陥りました。

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 開場は木、金、土、日のみ。午前10時より。入場無料です。

 「創造と破壊@フランス大使館―最初で最後の一般公開」に、足を運んでみてはいかがでしょうか?旧庁舎をアーティストの作品発表の場として提供し、一般の観覧者へ開放した、文化大国フランスの心意気が感じられると思いますよ♪

『NO MAN'S LAND』@フランス大使館公式サイト

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 この門をくぐると、その先にはNO MAN'S LAND…


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