2009/11/30

上映作品50本決定!  映画(今年公開の映画を中心に)

一般投票で1位となった「ショーシャンクの空に」    
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 去る10月2日の記事で取り上げた「午前10時の映画祭、何度見てもすごい50本」企画で、一般映画ファンから見たい映画を募っていましたが、その投票結果を基に映画評論家が上映作品50本を選定したようです。

 いよいよ来年の2月から、全国25カ所のTOHOシネマズで上映が始まる予定です。残念ながら我が家最寄りのTOHOシネマズでの上映はないんですよね。しかし、できるだけ見に行きたいです。

「午前10時の映画祭、上映作品リスト」

 ちなみに投票結果は上位10作品が公表されており、その内4作品がニュープリントの入手困難等の理由で、今回の上映作品の選から漏れています。実は私が投票した「サウンド・オブ・ミュージック」も2位にランクインしながら、選から漏れました。残念です。上位10作品は以下の通り。

1.ショーシャンクの空に (上映します)
2.サウンド・オブ・ミュージック
3.ニュー・シネマ・パラダイス(上映します)
4.フォロー・ミー(上映します)
5.風と共に去りぬ
5.ローマの休日(上映します)
7.スタンド・バイ・ミー(上映します)
8.2001年宇宙の旅(上映します)
8.小さな恋のメロディ
10.E.T.


 「ショーシャンクの空に」が堂々1位を獲得。この作品は公開当時は他の話題作に押されて興行成績は今ひとつだったようなのですが、DVD化されてその良さが改めて評価され、今や押しも押されぬ名作の1本に数えられている作品です。本作を公開時に見逃してしまった人、公開時にはまだ幼くて、DVDで見て感動した人には、映画館の大きなスクリーンで見られる、またとないチャンスになりそうですね。

 因みに上記作品の中で、私が映画館で見たことのある作品は、5作品です。「風と共に去りぬ」は1939年作と古い映画ですが、名画座のリバイバル上映で、「ローマの休日」はニュープリントされたのを、「E.T.」は公開時も、最近のニュープリント版も映画館で見ました。

 特に映画館では見たことがない、自分が生まれる以前や幼い頃の名作を優先して見てみたいですね。その後余裕があれば、公開当時を懐かしむ意味で、昔見た作品をまた見てみたいと思います。

「午前10時の映画祭 何度見てもすごい50本」公式HP

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2009/11/28

ドバイ・バブルの終焉  気になったニュース

バブルは弾けるもの。

ブームは去るもの。

熱は冷めるもの。

何事も異様な盛り上がりは要注意。

狂乱とも言うべき盛り上げを見せて、

熱に浮かされている人々に、

冷や水を浴びせるかのように、
気がつけば足下に断崖が迫っているかのように、

はたまたグラフに喩えるならば、
折れ線グラフの頂点が急降下で底を打ち、

その厳しい現実を見せつける。

後に残るのは膨大な借金か、
累々たる金の亡者の屍か、
兵どもが夢の跡か…

世界の混乱か。

虚業に振り回される実業の悲劇。
政府の無策に悲鳴を上げる日本経済。

来年、世界はどうなっているのか?
日本は国の体(経済大国?技術立国?)を成しているのか?
果たして国民の暮らしは立ち行けるのか?

ドバイはアラブ首長国連邦に7つある首長国のひとつ。
石油依存脱却を目指して経済開発を積極的に進め、
中東の金融センターの地位を確立するも、
米国発の世界同時不況の波には勝てず、
大規模不動産事業は頓挫した。

アラブのオイルマネーを当て込んで、
金を出したヨーロッパの金融機関は真っ青だ。
$が売られ、ユーロが売られた。

世界同時株安に、世界は恐怖した。
さらに進んだ円高に、日本経済は悲鳴を上げている。

一方で、これはチャンスだ、と言う経済の専門家もいる。

欧米の白人支配は終わりを告げ、
これからは中国・インドを抱える、
アジアの時代になると。
そのインフラ整備に、
日本の技術が生かされる時が来たと。

できれば危機を、
チャンスに変えて欲しい。

そこで気懸かりなのは、
頼りない政府である。
くれぐれも国民の足を引っ張るでないよ。
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2009/11/27

繋がっている命  はなこ的考察―良いこと探し

クリックすると元のサイズで表示します 昨日たまたま「報道ステーション」を見たら、いつもは過剰に熱い男、松岡修造が、たまたまスポーツから離れた話題を披露していました。これが意外に面白かった。

 写真家アラーキーこと、荒木経惟氏へのインタビューでした。荒木氏は現在、全国各地を回って、一般公募から選ばれた人々の肖像写真を撮っているそうです。彼曰く、「顔は究極のヌードだ」〜つまり、その人の生き様が現れるのが顔で、顔は人間の内面を裸にする、と。モデルは全て一般市民です。

 今回は広島でしたが、母になる喜びに溢れた自分の妊婦姿を記念に残したい一心で応募した20代の女性や、夫の脱サラ後、マイペースな夫に振り回されながらも夫唱婦随を貫き、カメラの前で幸福感に満ちた表情を見せる弁当屋の夫婦(←荒木氏が今回一番気に入った表情らしい)、そして、幼い日に被爆しながら奇跡的に無傷で生き延び、今は穏やかに暮らす70代女性が、娘、孫息子と3世代で、と言うように、それぞれのモデルの人生が、1枚の印画紙に凝縮されたような素敵な写真が100枚ほどあったでしょうか。

広島市現代美術館20周年記念特別展「広島ノ顔」公式HP

荒木経惟 日本ノ顔プロジェクトHP

 被爆女性の娘さんは3世代の笑顔の写真を前にしみじみ「命の繋がりを感じるんですよねえ」と語る。「母が原爆から生き延びたからこそ、今、私がここに存在し、息子が存在している」〜心の深い部分に響く言葉でした。繋がっている命。その奇跡。

 私の母も戦禍を逃れて熊本に集団疎開をした時、腸チフスに罹り、危うく死にかけたそうです。しかし、就学前の幼い妹達を連れて宮崎の農村に疎開していた祖母に瀕死の母は引き取られ、一命を取り留めたらしい。父を亡くしてすっかり気弱になった母を気遣って頻繁に電話をしている中で、つい最近、母の口から初めて聞いた話です。

 なぜ今になって、その重い口を開いたのか。実際、疎開児童は慢性的な栄養失調状態で、本来なら死に至らないような病で亡くなった子もいたようなので、母にとっては幼い日の辛い思い出であったのかもしれません。祖母の献身的な看病があったとは言え、母の回復は、当時としては奇跡と呼べるものだったようです。

 あの時、母が腸チフスで命を落としていたら、私も(もちろん、妹や弟も)今、この世に存在していなかった。広島の女性の言葉で、そのことが改めて思い起こされました。そして、自分の中に繋がっている命に、今さらのように感慨を深くしたのでした。

荒木経惟公式HP

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2009/11/27

ショック〜(>_<)  日々のよしなしごと

今週は吉凶入り交じった週のようです。どちらかと言うと凶事が多いかなあ

先日、久しぶりに友達とおいしいイタリアンのランチを楽しみました。しかし、その帰りに足を挫いてしまいました

今日は自転車でクリーニング店に向かう途中、後ろの籠に載せてあった袋から、お気に入りのニットのポンチョを落としてしまったらしく、クリーニング店で気づいて、すぐさま探したのですが、見つかりませんでした。ものの5分の出来事です。一度来た道を戻り、自宅も念のため確認したのですが、やっぱりない。

その時自宅マンションの駐輪場に自転車を止めようと思ったら、一時両足スタンドの動作もおかしくなって、自転車が止められなくなったのには焦りました。なんたって自転車は15年物ですからねえ…最近はさすがにハンドル部分が錆びて来たので、そろそろ買い換え時かなと思っています。

近くの交番に遺失物届けは出しておきましたが、見つかるかどうか…日本製ですが、フランスのデザイナーによるデザインで結構高価な物。しかも夫に買って貰ったものなのでショックです。夫に申し訳ない

落ち込んでいるところへ、さらに追い打ちをかけるようなことが!先ほど新聞の集金人が来たのですが、インターフォンのモニターが映らず、通話もできない状態に?!新築当時から使用しているものであり、築14年を過ぎて他の設備もガタが来ているところなので、それなりに覚悟はしていましたが、このタイミングで壊れることはないだろう?と言う感じです(←もう駄目かあ…と思っていたら、夕方には又使えるようになっていました。所謂”接触不良”と言う症状のようです。この頻度が徐々に増えて、最後におシャカになるのでしょうね)

まあ、形あるものはいつか壊れる、失われるものなんですけれど…あ〜、でも凹む

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季節柄、街では、クリスマスツリーの装飾も始まりました…レストランにて。
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2009/11/24

(6)ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない  映画(2009-10年公開)

クリックすると元のサイズで表示します 昨日、夫と映画を見た。小池徹平主演の『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』と言う長たらしいタイトルの映画だ。中学時代に受けたイジメをきっかけに8年間自室に引きこもり状態にあった若者が、一念発起して就活したものの、よりによって労働基準完全無視の所謂「ブラック会社」に就職してしまった顛末を、面白おかしく描いている。原作者の実体験に基づく実話らしい(←どうも2ch発らしい)

 全編ブラックなユーモアに包まれているが、お笑いタレント品川ヒロシ演じるゴーマンなリーダーが、何かにつけ「バーカ」を連発するのが正直不快だった。お笑いタレントにゴーマン役を配して笑いを取る狙いらしいが、それで人を人と思わないそのゴーマンさが薄まるわけでもない。人を蔑ろにしている本質は変わらないのだ(ただし、常々書いているように、他人に対して威圧的な態度を取るのは、自分の自信のなさの裏返しだったりするものだ。「暴言」は自分の弱さをひた隠す為の鎧のようなもの?!)。「何が何でも納期を守ります」と言うリーダーの姿勢は、かつてのモーレツ社員の名残りなのかもしれないが、怒鳴って、脅して、人が動くわけがない。

 本作ではIT業界のピラミッド構造の底辺に位置するソフト製作会社の劣悪な就業環境が辛辣に描かれているが、ピラミッドのより上位に位置する発注会社の無謀な納期設定で、何日も続く徹夜作業を強いられる(←業界用語で”デスマ”=Death Marchと言うらしい)姿が気の毒だ。しかし、そんな中でも(半ばヤケクソで?!)仕事をやり遂げる主人公。

クリックすると元のサイズで表示します 劇中劇としてしばしば登場する戦場での戦闘服姿は、そのままIT業界の底辺で働く彼らの立場を表している。「ソルジャー」とは、仕事の前線で働く実動部隊要員を指す隠語で、管理部門の人間が実動部隊の人間に対して、ある種の侮蔑を込めた呼称である。主人公の仕事への直向きさは、そうしたソルジャーとしての立場を甘受してまでも、過去の弱かった自分と決別しようとする彼の覚悟のようなものが見えて、同じ年頃の息子を持つ身には感涙もの。

 「NEET」であろうが、「中卒」であろうが、本人に自分を変えたい、変わりたいと言う強い意志があれば、途中いろいろ困難はあっても人は変われるのである。逆に「NEET」や「中卒」を理由に人を侮蔑し、その努力を嘲笑う人間の方こそ、人の在り方としては醜悪だと思う。

 子ども社会にも、大人社会にもはびこる、こうした差別やいじめの構造には根深いものがある。同じグループに属するメンバーの中で、自らが少しでも優位に立ちたいと思う人間がいる限り、いじめはなくならないだろう。そういう人間は常に同じグループ内のメンバーの差異に敏感で、それをいじめの材料にするものだ。一方で、そうした人間のアグレッシブさは社会を活性化させるエネルギー源となるのも事実。「霊長類」と自負してみても、所詮人間も「弱肉強食の世界」に生きる動物と変わらないと言うことだろうか?となれば、「いじめられっ子」は自ら強くなるしかない(もっとも根っからの悪人や冷血人間は、そうそういないと思うが…自分の行いを時々省みる謙虚さは持って欲しい)

 本作で次々と主人公に立ちはだかる壁は、顧みれば彼の人間的成長を促す課題だった。そして壁の前で苦悩する彼を支えたのもまた、人であったのだ。良き先輩の励ましの言葉が彼を支え、前へ進むよう導いた。こうした人との出会いは、主人公が自室から外へ一歩踏み出して初めて可能だったと言える。とどのつまり、自分で動き出さなければ、状況は何も変わらないと言うことなのだろう。本作は、ブラック会社の実態を描いた暴露話の体裁を取りながら、その実なかなか一歩を踏み出せない若者への応援歌、とも言うべき作品なのかもしれない。

 「君はなぜ働くんだ?何の為に働くんだ?」〜その問いに対する答を、主人公は彼なりに導き出したようだ。

 
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2009/11/24

人を蔑ろにする行為への嫌悪感  気になったニュース

島根県で起きた女子大生の殺害事件は、島根と広島の県境にある山中で遺体の一部が発見されてから、残りの遺体の一部が徐々に発見されるという、被害者遺族を二重三重に苦しめるような残酷な様相を見せている。被害者女性をそれこそ手塩にかけて、精一杯の愛情を込めて育てて来られたご両親の心中は察するに余りある。さらに彼女がこの世に生を受けてから死ぬ直前に至るまで、彼女と関わった多くの人々の悲しみを思うと、彼女に対して惨たらしい行為に及んだ、今もどこかでのうのうと生きているであろう非情な加害者に、心の底から怒りがこみ上げて来る。

人の命を何だと思っているのか。どうすれば人間が、同じ人間に対して、こうも残酷なことができるのだろうか?日々平凡に生きている人間には理解し難いことである。想像もつかないことである。そんな平凡な人間でも、人ひとりの命は軽くないことぐらい分かる。人ひとりの人生はけっして軽くないのである。その人生は、ひとつの命がこの世に生を受けてから関わって来た人々すべてと繋がっているのだ。その意味で、殺人者は多くの人々の人生の、かけがえのない一部分を奪っているに等しい。

今もどこかで、人間の皮を被って潜んでいるであろう、もはや「人でなし」の加害者が、その本性を露わにして、白日の下に晒されることを願っている。祈っている。
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2009/11/24

2007年度ミス・ユニバース、森理世さんのこと  はなこのMEMO

私は漫画家でコラムニストの辛酸なめ子さんが好きだったするのですが、彼女でググったら、彼女が2007年度ミス・ユニバースの森理世さんにインタビューした記事があり、これがミス・ユニバース選出時に外見だけが何かと取り沙汰された森理世さんの内面に迫るインタビューでなかなか面白かったので、ここに紹介します。タイトルこそ軽いタッチですが、書かれていることはなかなかどうして、人としての在り方について真面目に語っています。この記事で、私の森理世さんへの印象は、かなり変わったかも。ミス・ユニバースに選ばれただけのことはあるな、と言う感じです。

辛酸なめ子のサバイバル女道【上巻】

辛酸なめ子のサバイバル女道【中巻】

辛酸なめ子のサバイバル女道【下巻】
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2009/11/21

ちょっとメモメモ  はなこのMEMO

■遺産相続なんて我が家には無縁なので、聞くだけ虚しいのだが、日本経済全体のことを考えれば、国としてどうにか対処して欲しい問題だ。

日本には国の借金約800兆円に匹敵するほどの個人金融資産があり、その総額は約900兆円に上るだそうだ。その60%を60代以上が保有し、しかも今や親世代の高齢化が進み、子ども世代が60代で遺産相続をする「老・老」相続が少なくないらしい。老人世帯は基本消費支出が少ないので市場にお金が出回らない。つまりこのままでは経済が停滞する一方なのだ。

世代別で見ると、最もお金を必要とする世代は「住宅ローン」「子どもの教育費負担」「親の介護問題」を抱えた40〜50代である。そこで世代間の富の不均衡を是正する為に民主党政府が考えているのは、相続税率の引き上げと、生前贈与を今よりも推進する為の法整備のようだ。特に後者は上述の40〜50代にお金を回すことによって、経済の活性化を図ろうとの目論みのようだ。せいぜい富裕層には国内でどんどんお金を使っていただき、消費税をたんまり納めていただきたい。さらに今朝のテレビでもチラッと出ていたが、寄付税制を整えて、企業や個人の寄付金を社会のさまざまな活動に役立てようとの意見もある。


□人が生きる為には夢や希望が必要だ

北海道に以前から過疎化に悩む音威子府(オトイネップ)と言う村があり、その村の救世主とも言うべき存在が、村立音威子府美術工芸高校だと言う。かつては廃校の危機にあった普通科の高校が、美術工芸を専門とする全寮制の高校に衣替えし、村民挙げての手厚いサポートで、今や全国から生徒を集めるまでの特色ある高校として注目を集めているらしい。生徒ひとりひとりの個性を尊重した教育姿勢が、個性豊かな才能を育んでいるようだ。展覧会で、ひとつとして傾向を同じくする作品がないことに、専門家も驚いていた。

「色鉛筆の画材としての可能性を追求したい」と300色以上の色鉛筆を使い、1年半かけて、海の中を泳ぐ種々の魚をリアルに描いた大作。
「私は温かい絵を描きたい」と言って、半年かけて、離れて暮らす幼い妹の姿を、丁寧な筆致で描いた作品。

村の豊かな自然が生徒達の感性を刺激し、村民や教師の熱意が生徒達の創作意欲を支える。取材した日は展覧会を控え、生徒達は寮で夕食を済ませた後、再び学校に戻って制作に励んだようだ。何より生徒達が創作に熱中する姿が頼もしい。この学校を巣立った生徒達の中から、将来素晴らしいアーティストが誕生するかもしれない。そんな夢があるから、過疎の村の人々の表情も明るいのだろう。言うまでもなく、未来への期待や夢は、人が生きる上でとても大切なものだと思う。

北海道おといねっぷ美術工芸高等学校公式HP


□草食系男子増殖の理由(ワケ)

かつては恋愛の教祖と言えば、漫画家の柴門ふみだった。今は作家(恋愛小説家?)の村山由佳のようである。彼女曰く「恋愛に消極的な草食系男子が増えたのは、充たされているからである」〜昨今の少子化で、親が子どもに密に関わるようになった。特に男子は母親が甲斐甲斐しく世話を焼く傾向が強く、愛情に充たされた状態にある。つまり現状に満足すると「種の保存本能」が退化して、異性を求めなくなる、と言うことのようだ。人間も適度な飢餓状態、渇望状態に置かれないと、狩猟本能が眠ってしまうらしい。それはあたかも動物園の野生動物が”野性”を失うように。息子を持つ母親のひとりとして、耳の痛い話である。
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2009/11/20

事故が発生して初めて知ったこと  気になったニュース

 日本人観光客も含め11人の死者を出した韓国・釜山の射撃場火災事故。この事故報道で、初めて釜山観光で「射撃体験」が意外な人気を博していることを知った。米国LA現地旅行社のオプショナルツアーで、射撃体験ツアーを見かけたことはある。しかし、まさか日本の近場にそんな場所があるとは…正直驚いた。世の中にはまだまだ知らないことが多いなあ…おそらく一生かかっても知り得ないことの方が多いのだろう。

 韓国は九州からは目と鼻の先だ。福岡からは釜山へフェリーで3時間弱で行ける。乗船料も往復2万円と手頃。九州の人間にとっては飛行機で東京に行くより、近い感覚ではないだろうか?私は2年前の旅行で空路釜山から韓国入りしたが、すぐに車で北上したので釜山観光はしていない(同じツアーに名古屋から参加したご夫婦は、私達家族より早めに釜山入りしたので、釜山半日観光を楽しめたらしい。ちょっぴり羨ましい…)。だから釜山の街自体はあまり知らないのだが、同様の射撃場は首都ソウルにもあるそうなので、今回の一件で改めて、今もなお隣国と国境を挟んで軍事的緊張の続く韓国と日本の違いを感じた。

 この射撃ツアーが女性の間でも人気と言うから、また驚いた。私なら近くで「射撃体験」が気軽にできると知っても行かないなあ…かなり保守的な考え方かもしれないが、女性は命を産み育む性だと思っているから、命を殺める射撃と言う行為は、女性性から最も遠い行為のような気がする。そんなことを言ったら、世界中の軍隊に数多いる女性兵士の存在を否定することになるかもしれないが、少なくとも日本人女性はそういう必要に迫られた状況にないのだから、たとえ「娯楽」と言う感覚でも、そういうことに手を染めて欲しくない。否、寧ろ、それを「娯楽感覚」で楽しむことが信じられない。

 街中の雑居ビルと言う立地で、防音重視の為か窓もない密閉空間で、出入り口もたったひとつ。別な避難経路も確保されていない、スプリンクラーさえ備えていない場所で、順番待ちの間、普段から利用客は喫煙していたと言うから、防災と言う見地からすればとんでもない状況にあったと言える。出入り口のドアは電子制御のロックだったらしいが、外からの侵入には対処していても、内からの脱出には配慮がなかったと言うこと。

 そもそもそういう場所に身を置いたのが、今回は致命的にリスクを高めてしまったのだろう。今回の事故は、普段からリスキーな条件の揃った場所に、管理者も利用者も予想しないようなアクシデントが重なって起きた。これまで利用した客は、ただ単に運が良かっただけなのだ。報道されている安全管理体制では、いつ今回の被害者と立場が入れ替わってもおかしくない現場の状況だったと言えるだろう。

 日本人が海外で事故や事件に巻き込まれたニュースを耳にする度に、海外を旅する時には「自分の身は自分で守る」意識を、日本にいる時以上に持つことの重要性を思い知らされる。海外旅行だとつい冒険心がくすぐられて、日本で体験できないことに挑戦しがちだが、日本でillegalなことは、海外でもやらない方が無難だ。未体験の状況に身を置く為、どこまでなら安全なのかの判断が自分では難しいからだ。まさに「君子危うきに近寄らず」の心がけが、我が身を守るのだと思う。私自身、かなり慎重派で気をつけているつもりだが、それでも危険とニアミスだった経験は1度や2度でない。

 今回亡くなられた長崎・島原の男性達は普段から地域の町興しに尽力するなど活躍されていたようで、ご遺族はもちろん、町の方々も深い悲しみの中におられると思う。亡くなられた方々のご冥福をお祈りする共に、今後このような事故に日本人が(日本では起こりえなかった事故と言う意味で)巻き込まれないことを願いたい。旅行社もツア−、もしくはオプショナルツアーを組む際に、利用する施設の安全管理体制を精査する姿勢が今後益々厳しく問われるだろう。

2年前の釜山。あいにくの雨空だった。 
クリックすると元のサイズで表示します 今回の事故を受けて、19日付サンケイエクスプレス紙は、韓国にある民間射撃場の知られざる一面を伝えている。日本の暴力団が射撃練習の為に、こうした施設を利用していると言うのである。昨年9月には約60人以上が大挙して釜山を訪れ、慶州観光の後、釜山の射撃場で射撃練習をしたとされる。これはレアケースだが、通常は1〜2人単位で観光客として釜山入りして、射撃練習をしているらしい。利用の際に身分証の提示は必要ないが、「暴力団員と見られる利用者の場合、本人が所持する拳銃と同じタイプの銃を選び、1回に何万ウォンもかけて射撃練習をしている」ことから、ゲームセンターの感覚で利用する一般の観光客との違いは歴然。現地の射撃場関係者、警察関係者の間では「公然の秘密」事項のようである。そのような人々との接点を持たない為にも、こういう場所に一般人は安易な気持ちで立ち入ることは止めた方が身のためだと思う。

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2009/11/16

理念なき国家に未来なし〜日本の未来は視界不良  はなこのMEMO

公開で行われている「事業仕分け」。私はたまに国会中継を見るが、「事業仕分け」も、国会中継のようにお茶の間で見られたら良いのにと思う。ニュースでの断片映像を見せられても、それは送り手のテレビ局の編集映像であり、その切り口にはテレビ局側の何らかのメッセージが込められている。それをそのまま鵜呑みにするのも何だかなあ…

「事業仕分け」のテレビ中継はないが、インターネット中継はあることを忘れていた。しかし、回線混雑の為か、なかなか繋がらないなあ…

行政刷新会議WGライブ中継サイト

私は常々、天然資源のない日本は人材こそが資源であり、その人材が活躍できるフィールドのひとつに科学技術があると思っている。それは日本人が世界に太刀打ちできる数少ないフィールドで、グローバルな競争において大きな障壁となっている言葉の壁も越えることができるだろうと期待している。

しかし、先週の「事業仕分け」の結果を見る限り、将来的な「科学技術立国」の芽を摘むような、「まず予算削減ありき」の査定が多いのに驚いた。事業仕分け人から「現時点で業績が具体的に可視化できないプロジェクトは意味がない」旨の発言があったが、そんなことを科学プロジェクトに適用させたら、将来的に革新的な技術を生み出すような基礎研究はできないし、長期的展望でプロジェクトを組むこともできないだろう。

さらに費用対効果を重視する余り運営損益に拘泥すると、毛利日本科学未来館館長も指摘していたように、日本の先端科学技術を国民に知らしめる未来館の啓蒙活動も、私が関わっている美術館や博物館の美術鑑賞教育普及活動も、すぐには効果が見えないだけに、「不採算」の一言で切り捨てられかねない。国が目指す方向性、理念〜例えば技術立国、文化国家〜を国民に分かり易い形で提示する事業は、国民の意識や士気を高める重要な事業のひとつだと思う。それを「不採算」と言う理由で否定するならば、何を以て国民は自国の未来像に期待を持ったり、芸術文化に対する理解を深めることができるのだろう?もちろん様々な手段があるにしても、その意義を否定されるほどのものではないはずだ。

民主党が目指す「日本という国の方向性」が、今回の「事業仕分け」では今ひとつ見えて来ない。密室で行われていた作業を白日の下に晒した功績は評価するが、その采配に国家の理念も未来像も見えないのが、国民のひとりとしては不安だ。


13日(金)の「事業仕分け」で”予算計上見送りに近い縮減”を言い渡された次世代スーパーコンピュータ開発。日経13日付夕刊記事によれば、現状の日本製スパコンの性能は世界22位。「次世代でトップに立つことで産業競争力の底上げや優れた研究者を引きつける効果」を狙い、2012年の完成を目指したが、このまま凍結となれば関係者は「米欧中などとの競争で出遅れは必至」と危惧する。「理化学研究所の理事長でノーベル化学賞受賞の野依良治氏は『(スパコンなしで)科学技術創造立国はありえない』と憤慨していた。」(サンケイ・エクスプレス、14日付)

皮肉なことにスパコン開発凍結が決まった同日の日経朝刊では、三浦謙一富士通研究所フェロー(64歳、国立情報学研究所リサーチグリッド連携研究センター長を兼務)の米学会賞「シーモア・クレイ賞2009」受賞を伝えていた。この賞はスパコン関連で最も権威ある賞のひとつであり、日本人としては2人目の受賞らしい。受賞理由は「ベクトル型スパコンのハードウエアとソフトウエアの基礎開発におけるリーダーシップ」。

実はスパコン開発は、今から約10年前の90年代後半にも、米国の圧力による開発妨害に遭っている。スパコンの軍事利用を恐れた米国(つまりは米国製以上の性能を持つスパコンが他国で開発され、第三国に輸出されるような事態を恐れた)が、スパコン開発を進めていた日本に対し、市場閉鎖性を衝いて自国のスパコンを輸入するよう圧力をかけたのだ(柴田治呂『もうアメリカ人になろうとするな 脱アメリカ 21世紀型日本主義のすすめ』pp55-58、ディスカヴァー携書 041)。

かつては外圧に抑え込まれ、現在は身内から支援を得られず、スパコン開発者は何度辛酸を舐めたら良いのだろう?一体どうやって(そのモチベーションを維持し)技術開発を進められると言うのだろう?

一方で、最近市場で急速に普及しつつあるネットワーク経由で多数のコンピューターを活用できる「クラウドコンピューティング」が、将来的には1台ですべてを担うスパコンに取って代わる可能性もある、と言う見方もあるようだ。

以下のリンク記事も、スパコン開発の重要性について、西和彦氏が専門家の立場から述べている。あの時、縮減判定をした事業仕分け人の方々に、是非読んでいただきたい記事だと思う。

『スーパーコンピューターを復活して欲しい 西和彦』(言論プラットフォーム、アゴラ)


ところで思うんだけれど、日本には今、幾つの独立行政法人があって、そこに何人の天下りが存在していて、その人達の給与の総額は1年でどれ位なんだろう。理事の数を絞って、理事長の給与を現状の半分にしたら、総額どれ位の節約になるのだろう?僅か数年の腰掛けなら退職金も要らないよね。

毛利衛日本未来科学館が暴露していたように、科学館運営にも二重三重に独立行政法人が絡んでいて、補助金の無駄遣いがありそうだ。また、厚労省の外郭団体では、嘱託職員の身分で役員待遇にしているケースもあることが最近発覚した。そう言う姑息な「天下り隠し」は他にも幾らでもありそうだ。税金は国民が政府に付託した貴重な収入の一部なのに、それを平気で無駄遣いする人々の気が知れない。
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2009/11/16

NHK昼番組のオノ・ヨーコ氏  はなこのMEMO

クリックすると元のサイズで表示します NHK昼の「スタジオパークからこんにちは」に、オノ・ヨーコ氏が出演していた。オノ・ヨーコ氏はどちらかと言えば日本ではジョン・レノンの妻として有名だが、今年6月に第53回ベネチア・ビエンナーレで生涯業績部門の金獅子賞を受賞したのをはじめ、これまで数々の受賞歴を誇る、世界的に認められた現代美術家である。寧ろ、彼女は20代から70代の今に至るまで、前衛芸術家として第一線で活躍して来たと言う意味で、ジョン・レノンを抜きにしても、歴史にその名を残すような日本女性のひとりだろう。交友歴を見ても、その華やかさに圧倒される。

 そんな彼女のインタビュー映像をこれまで何度か見る機会があったが、今日も見て改めて印象に残った口癖がある。それは「やっぱし」と言う言葉の多用である。30分かそこらの時間の中で、一体何度この言葉が彼女の口をついて出たことか。よほどお気に入りの言葉なのだろう。

 ところが、彼女の係累には錚々たる顔ぶれが揃い、彼女の経歴を見ても、その出自が上流階級であることは明らか。そうした出自もあって、若き日に日本を出て、海外在住通算40年を超える彼女の日本語は、あたかも今までタイムカプセルに保存されていたかのように、昔懐かしい貴婦人の優雅さを湛えている。

 だからこそ、全体的に上品で美しい彼女の日本語の響きに、頻繁に挟み込まれる俗語表現の「やっぱし」は"やはり"そぐわないし、違和感を覚える。なぜ、いつ、どこで、彼女の中で「やはり」ではなく「やっぱし」が定着したのか?彼女の語る言葉の中で、「やっぱし」は不可思議な存在感を放っている。(彼女と関わった)誰の置き土産なのだろう?

 今回のインタビューではもうひとつ印象深いシーンがあった。インタビュアーが彼女のファッションに話を向けた時のことである。今や彼女のトレードマークともなっている黒を基調とした服と帽子、そしてサングラス。天下の公共放送でも、そのスタイルは変わらない。

 「黒はニューヨークの色ですね。」と彼女。「ニューヨークの街を歩いていると、黒服姿の人、女性も男性も多いですね。」「帽子は幼い頃から被る習慣があり、今では幾つ持っているか、数えたこともないのでわからない」

 サングラスには…面白いエピソードがあるの、と言って、ジョン・レノンの死の1カ月前に、デパートでジョンに勧められたのだと、その愛用の経緯を明かした。「彼は(死ぬことを)わかっていたのか…ジョンの死後、ずっと泣いていたからサングラスは役に立ちましたね。今は街中で突然写真を撮られたりするので、protectionの役割を果たしていますね。」

 そう言った後、彼女の顔から笑みが消え、無防備に寂しげな表情を見せた。それまで76歳という年齢を忘れさせるほどの力強いオーラを終始放っていた彼女から、瞬時に生気が消え失せ、画面には放心した姿が映し出された。改めてジョンを失った悲しみが思い出されたのだろうか?あまりにも弱々しいその姿に私は少し驚いたが、同時に彼女のひとりの人間としてのありのままの姿が垣間見えたようで、親近感を覚えたのだった。

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2009/11/13

その背景にあるもの  日々のよしなしごと

ボランティア活動は、初めからいささかの損を覚悟すべきだし、あまり楽しくないほうが本物である。楽しくてたまらないボランティア活動には、どこか危険な匂いがする。

(「自分の顔、相手の顔」収録)

上記は作家、曾野綾子の言葉である。彼女はたまに禁忌な事柄に関する率直な物言いで物議を醸す。誰も触れたがらないことに敢えて触れるのは、彼女が正直な人だからだろう。自分なりに考えて、理に適うと判断しての発言ならば、別に「空気を読む」必要などないのかもしれない。空気を読むあまり、真実に口を閉ざすのは、それこそ不誠実な態度だと思う。

ボランティアにもいろいろあるが、私がこの5年ばかり取り組んでいる美術館のボランティアは、私にとって修行の一種である。一介の専業主婦が人前に出て、筋道立てて発言する機会なんて滅多にない(脈絡なく話す機会は多々あれど)。それは緊張感を伴い、聞き手からの反応がダイレクトに返って来る、刺激的な行為である。早起きと満員電車が苦手な私が、敢えてその両方に挑戦する機会でもある。

私が手がけるギャラリートークは対話形式を取っているとは言え、前準備として美術史全般の知識はもとより、担当コースの作品研究は最低限必要である。易きに流れがちな自分を叱咤して、勉強机に向かうのである(本当は寝転がりながら本を読んでいたりするんだけれど)。勉強するには本が要る。できるだけボランティア室や図書館の蔵書を利用するが、必要とあれば自腹で本を買ってしまう。それが結構な出費なのである(←それで家族に怒られる)

ボランティア仲間とは「美術が好き」「子どもが好き」「何か人の為に、社会の為に役立ちたい」など志を同じくして、互いに切磋琢磨しあう関係である。しかし、所詮お互い完璧な存在ではあり得ない(=人間だ)から、些細な行き違いで関係がぎくしゃくすることもある。もちろん皆大人だから、いつまでも引き摺ったりはしないが。

ボランティアとしては、参加してくれる児童生徒に、美術館でのひとときを楽しんで貰いたい。幾らかでも美術に親しんで欲しい〜そんな思いでギャラリートークに臨んでいる。しかし、学校行事で来ている以上、児童生徒の誰もが積極的に参加しようという意欲を持っているとは限らない。1グループ6人程度から、時には10人を超える児童生徒の内、グループから少し離れて斜に構えて、私の話に耳を傾けない子もいる(できれば耳を傾けて欲しいが、どうしても興味が持てないのならば、少なくとも自分なりに美術館の雰囲気を味わって、どれか1点でもお気に入りの作品を見つけてくれれば嬉しい)

ただし帰り際、私の「さようなら。気をつけて帰ってね」と言う言葉に、笑顔で「ありがとうございました」と応える子が大半ながら、無視を決め込む子もいる。ただ単に恥ずかしがり屋だからというわけでもなさそうだ。後者のタイプは反抗期だからと言ってしまえばそれまでだが、本当にそのような態度で良いのだろうか?「反抗期」を免罪符に何でも許してしまう昨今の風潮に、私は違和感を覚える。私が子どもだった頃、私が同様の態度を取ろうものなら、親や親類の年配者が容赦しなかった。

これは学校での指導云々と言うより、家庭の在り方に何か問題があるのではと、私など勘ぐってしまう。わずか1時間かそこらで心を開くのは難しいのかもしれないが、心を開かずとも、世話になった人に謝意を示すことは大切で、社会で生きて行く為のコミュニケーションの手段のひとつでもあるだろう。その重要性を認識していれば、たとえ言葉は出なくとも、会釈くらいはできるはずだ。それさえできない幼さに、それさえしようとしない心の荒みに、その背後にある子どもを取り巻く環境の危うさを感じるのだ。

別に感謝して貰えなくて悲しいと言っているのではない。感情論抜きに、一人の大人として、これから何年かすれば社会に巣立つであろう子ども達の内の何人かが、他者とまともにコミュニケーションも取れない状況を危惧しているのだ。そういう一見些細なことから、人は自立する段階で躓くのだと思う。

クリックすると元のサイズで表示します子どもには「世話になんかなっていない」と言う思いもあるのかもしれないが、では、その子はどのような場面で、人に世話になったと実感するのだろう?人は社会で生きて行く中で、様々な人の世話にならずにはおれないものだ。おそらく人間の情動の中で、「感謝すること」は最も重要なもののひとつだろう。それが欠けている人間は傲慢そのもので、他者と円滑な関係を結べないだろう。それは社会で孤立することを意味する。

生育過程で育つべき情動がちゃんと育っていないのは、(一部の生まれながらの障がい児を除き)保護者の責任に負うところが大きいだろう。愛情に満たされた子どもで、心の荒んだ子を私は見たことがない("満たされた子ども"の定義に関しては、"親の愛情がきちんと子どもに伝わっているかどうか"が重要。得てして親の子どもに対する愛情表現は、親の自己満足であることも多いから)

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2009/11/12

何かと気になる韓国  気になったニュース

今しがたのニュースによれば、今日から韓国は大学入試だそうだ。今年は韓国でも新型インフルエンザが流行しているが、入院している生徒までもが、入院先の病院で受験しているそうだ。韓国は日本以上に受験戦争が熾烈で、2年前の韓国旅行でガイドを務めた女性も「今は四当五落ではなくて三当四落です」と、その厳しさを表現していた。テレビのインタビューに答えていた少女も「12年間も頑張って勉強して来たから、大学には合格したい」と悲壮感たっぷりだった。

大学進学率も日本の50%に対し、韓国は80%。しかも、学歴、学校歴(どの大学を出たか)は一生ついて回るらしく(日本の現状はそうでもない)、親子共に血眼になって受験勉強に勤しむことになる。家計支出に占める教育費の割合は7割?!とも言われ(テロップにそう出ていたが、本当だろうか?因みにOECDが9月8日に発表した教育調査結果によれば、全教育費に占める私費<=保護者>負担の割合は調査対象28カ国中、韓国が1位で、次いで日本だそうだ。つまり国が教育にお金を出さないから、家庭の負担が増えるというわけね。そして親の収入格差がそのまま子どもの教育格差へと繋がる)、子どもの学校と塾代に膨大なお金をつぎこみ、その為に親は必死に働く。息子が出た中高一貫校の韓国の交流校も、宿泊設備完備の自習室があると、その学校を訪問した校長が驚いていた。学校の選りすぐりの生徒を、徹夜も辞さずそこで鍛え上げるのだそうだ。そうした現状が、日本を上回る勢いの「少子化」に繋がっているらしい。

さらに韓国の英語学習熱はつとに有名だし、今、日米の女子プロゴルフツアーを席巻している韓国パワーは、幼児期から始まる徹底した英才教育の賜物だと聞く。最近読んだ記事によれば、子どもの成功を当て込んで、親は先行投資として教育に金をつぎ込むので、その期待に応えるべく子どもも必死。その家族をあげてのハングリー精神が、米女子プロツアーで韓国人選手が賞金女王レースのトップを走っているように、韓国人選手の躍進の素となっている。若くして家族を養っている女子プロゴルファーも少なくないらしい。

クリックすると元のサイズで表示します韓国人のこうした熱情はしばしば”キムチパワー”と揶揄されるが、島国日本の”のほほん族”は圧倒されるばかりである。そのパワーが韓国国民の飽くなき上昇志向を後押ししているのは確かだ。しかし、その激烈な競争社会が、陰湿なネットいじめで死者を出すまでの高ストレス社会の要因になっているような気がする。これで韓国国民は幸せなんだろうか?それもあって、米国への移民が増えているのか?まあ、日本も別の意味で大変なんだけれど



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2009/11/12


私は常々言っているように、誰とでも当たり障りなく付き合えるタイプの人間ではありません。その為、友達は多くない。自分の人間としてのキャパシティの小ささから、心を砕ける人数が限られているので、こちらでも付き合う相手を絞り込むし、相手から自然に疎遠になることもあるようです。不遜かもしれませんが、こんな私でも良かったらお付き合い下さい、と言うスタンスです。そして、こんな私にも、構ってくれる奇特な友人が何人かいます。有り難いことです。

友人の殆どは、日中外に働きに出ています。だから連絡手段はもっぱら携帯メール。相手の都合の良い時に読んでもらい、返信してもらえたらOK。これは送る方としても気が楽です。郷里の友人などは親戚付き合いや近所付き合いが濃密なので、土日も法事やら会合やらで忙しいようで、返信が遅い(笑)。のんびりとした土地柄もあるし、普段こちらもご無沙汰なので、後回しにされるのは仕方ない。もちろん、緊急となれば、相手の都合構わず電話してしまいますが。それでも受け止めて貰える関係性は辛うじて?保っているつもりですが、果たして…

クリックすると元のサイズで表示します先日、ママ友からメールを貰いました。私もメールしようしようと思っていたところで、思いが通じたのかも(笑)。ランチのお誘いでした。彼女と他、数人とで、息子達が中高生の頃は、PTAの会合がある度に、また息子達の成長の節目に、横浜駅界隈で食事をしたものでした。その時は、今は亡きSさんも一緒でした。

今回は、Sさんを偲んで、皆で何度か行ったイタリアン・レストランでランチしようと言うことになりました。今回集まれるのは私を含めて3人だけですが、私以外は皆パートとは言え仕事を持っていて、全員の都合はなかなかつかないもの。メールをくれたKさんとは、比較的近所ということもあって、今でも月1の割合で映画を一緒に見に行ったりしているのですが、もうひとりのMさんとは息子達の卒業以来。楽しみです。

常に行動を共にするベッタリした友人関係は、ずっと生まれ育った土地に留まるならともかく、一旦高校、大学を卒業後、離ればなれになってしまえば、普段は別行動でも何かあれば集い、離れていた時間に関係なく、会えばすぐにかつて共に過ごした頃の自分達に戻れる関係に自ずと変化して行きますね。それは、ひとりひとりが独立した、成熟した大人に成長した証しでもあるような気がします。

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2009/11/11

被害者と加害者とその家族  日々のよしなしごと

事件が起こると、被害者、或いは加害者と自分との共通項を無意識のうちに探し出し、我が身と重ねてあれやこれや考える自分がいる。どうしても他人事とは思えないのだ。被害者、加害者と言う立場も紙一重のような気がして、場合によっては自分自身がそのどちらにもなり得る危険性に恐怖する。

事件発生(犯人逮捕)に色めき立つマスコミ関係者も、事件報道を目にして不快感と恐怖に眉をひそめる人々も、果たして、これから起きるであろう何らかの事件に、自身が絶対に無関係と断言できるのだろうか。単独では何の誘因にもならない要素の、或いは”ちょっとした不運”の、偶然(必然?)の重なりが、事件を誘発することもある。誰にも、将来的に事件と関わり合う可能性は否定できないのだ。

クリックすると元のサイズで表示します人生のどこかで掛け違えたボタンが(それが良かれと思っての選択であっても)、後々運命を思わぬ方向へと導いて行く。本人も、周囲の人間も気づかないうちに。被害者、加害者両者の家族の悲嘆の声に、そんなことを思う。


とまれ、罪は罪。加害者自身が自らの罪を認め、心から悔い改めなければ、被害者やその家族の心は救われない。加害者の家族も社会的制裁と悔恨の重荷に押し潰されるだろう。それなのに近年は罪悪感に乏しい加害者が少なからずいて、その存在が社会を暗澹とさせている。

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