2009/6/28

自然礼賛〜プチトマト(7)栽培46日目  やさい栽培観察日記

クリックすると元のサイズで表示しますプチトマトに続々と実がつき始めた!

 天気予報では終日曇りだったはずが、雨がパラパラと降り始めました。プチトマトも雨露を戴いています。左の写真は、最初についた実。大きさも一人前(笑)のプチトマトになり、徐々にお尻の部分から色づき始めている気配が…ヘタも一丁前にピンと張って、”らしく”なっているのが嬉しい!早く食べたいけれど、一口でパクッと食べるのは惜しいような…複雑な気持ちです

クリックすると元のサイズで表示します さらに昨日気づいたのですが、いつの間にか新たに5〜6個の実がついています!これで計7〜8個、もしかすると9個ぐらいついているのかもしれません(日暮れ前に再度確認してみると、15個ほどに増えていました!)。苗を植え付けてから約50日。いよいよ実りの時が来たようです

 なにぶん携帯電話のカメラなので接写が苦手らしく、ピンぼけ写真になってしまいますが、一応実がついているのは判別できるから良しとしましょう。デジカメ写真だとサイズが大きくなってしまうのでメモリ容量の節約の為にも、携帯電話のカメラは重宝しています。

クリックすると元のサイズで表示します クリックすると元のサイズで表示します 

4

2009/6/27

混乱  はなこのMEMO

タイムトラベルもののSF映画って、所謂「卵が先か?、ニワトリが先か?」で、頭が混乱するんだよね。話が永遠にループする感じで。

映画史を遡れば、『猿の惑星』とかね。最近では『スタートレック』や『ターミネーター4』とか。『ターミネーター4』では、時制の異なる人物同士の関係性を巡って夫とケンカになりました。『スタートレック』では、従来タイムトラベルものでは禁じ手と言われていたことが平然と描かれていて違和感を覚えたし…映画の場合、オリジナルの好評により続編が次々と作られて行く過程で、タイムトラベルにおける時制の整合性がだんだん崩れて行くような印象。どんどん話に尾ひれを付けて行くから、よほどひとつひとつのエピソードに注視しないと、他のエピソードとの矛盾点をつい見落としてしまうよね。

それとも自分の理解力のなさが問題なのか?
0

2009/6/27

好きな人に嫌われて…  日々のよしなしごと

今日、映画を見た帰り、いつものように映画館と同じビルの階下にある大型書店に立ち寄った。比較的ゆったりとした間隔で、私の背丈以上の書棚が整然と林立している様は壮観だ。2つの書棚が背中合わせに置かれ、その側面にジャンル毎に書店オススメの本数種類が平積みされている。哲学のコーナーに、私の好きな哲学人池田晶子女史の、没後に出版された著書3冊がそれぞれ平積みにされていた。

その中から『人生は愉快だ』を手にとってみた。三章構成で、第一章は宗教・哲学の先達の死生観について著者なりの解釈を試みたもの、かな?第二章は人生相談に著者が答えるというもの。勿論、著者なりの切り口で人生を語ります。第三章は著者が自ら切り開いたジャンルである「哲学エッセイ」。哲学を難解な専門用語ではなく、平易な言葉で語ったのが彼女の真骨頂と言われている。立ち読みで字面をなぞっただけなので、大雑把な捉え方ではある。と言うか、最近とみに記憶力が落ち、読むそばから忘れてしまうので、記憶が心もとない。美術書についても同じ。人名が覚えられない。話の途中で思い出せない。困ったなあ…

話は池田女史に戻って。彼女、実はブログが大嫌いなのだ。エッセイにもその理由が書かれていたが…忘れた。考えること自体に意味があるのに、ブログなるものに手前勝手な主張を披瀝してどうするの?すごくみっともない。というような理由だったと思う。”言ったもん勝ち”の風潮を嫌悪しているように見える。誰もが納得する論理、主張でなければ、主張する意味がない、と言うことのようだ。しかし、この解釈も自信がないので、日を改めて読んでみます。繰り返し「ブログが嫌いだ」という主旨の文章を書いておられるので、よほどお嫌いなのだろう。しかし、嫌いだから読んだことはないらしい。読んだことがなくて、評価できるものなのかな?

私はブロガーの端くれなので、彼女のアンチ・ブログな意見に、ちょっぴりメゲる。おそらく現代日本の知性を代表するひとりである彼女の著作は面白くて好きなんだけれど、彼女はブログもブロガーも大嫌いなんだよね。好きな人に嫌われて…残念だ。

ってことをブログ上で披瀝すること自体を、たぶん彼女は嫌悪しているんだよね。
1

2009/6/26

マイケル・ジャクソンの死  気になったニュース

クリックすると元のサイズで表示します衝撃的なマイケルの死

―しかし、これでやっと彼の魂は安らかになれるのだろうね。

 今朝の6時半過ぎ、テレビの情報番組に、マイケル・ジャクソンが呼吸停止状態で病院に搬送された、と言う一報が飛び込んで来た。ロンドン公演開催発表会見での、頬のゲッソリ痩けたマイケルの顔に一抹の不安を感じてはいたが、まさかここまで体調が悪いとは思っていなかった。

 一瞬、父のことが頭をよぎった。父も夜就寝中、突然呼吸が停止して救急車で病院に搬送されたが、結局15分以上の心肺停止状態が命取りとなって低酸素脳症となり、3週間後に意識を回復することなく亡くなってしまった。

 80歳を越えて入退院を繰り返していた父と違って、マイケルはまだ50歳である。人生80年の時代にあって、50歳はまだこれからと言われる年代。私の夫より2歳も若い。

 第一報は彼が病院へ搬送されたことだけを伝えて、その後の病状の発表はなく、おそらくこのニュースを耳にしたファンは固唾をのんで、その続報を待ったことだろう。しかし、私も含め、世界中の多くのファンの回復の願いも虚しく、マイケルは1時間以上(最新の報道によれば42分間)に渡る蘇生措置にも関わらず、そのまま帰らぬ人となってしまった。

 私にとっては、1980年のジョン・レノンの死以来の衝撃である。自分の青春を彩ったアーティストの死は、心の一部が無理矢理削り取られたような、その傷口から血がドクドクと流れ出るような痛みで私を打ちのめす。午後にやろうと思っていた美術史の勉強も手につかない。頭の中はマイケルのことでいっぱいだ。

クリックすると元のサイズで表示します 私の高校時代、マイケルはジョン・ランディス監督演出による斬新で完成度の高いミュージック・ビデオ(以下、MV)と共にポップ・ミュージックの金字塔「スリラー」で世界を席巻していた。この映像と音楽の見事な融合はMVのレベルを一気に押上げ、歌唱、ダンス共に超一流であった彼のパフォーマンスは、エンターテインメント史上特筆すべき才能の賜物と言われている。この曲が収録されたアルバムは、全世界で1億400万枚も売れたと言う。彼が世に出したアルバムの総売り上げ枚数は7億枚とも言われている。

 私は、と言うと、当時も上述の父が病気で入退院を繰り返していた為、ビンボーな女子高校生だった。学費以外の諸費用を捻出するた為に週末や長い休みはバイトに明け暮れた。その稼いだバイト代で、定期テストが終わった日に友人と繁華街に繰り出して、映画を見、帰りに大型スクリーンを備えたカフェで飲食するのが大きな楽しみだった。そのカフェの大型スクリーンに映し出される見事なダンスと歌唱で私達を釘付けにしたのが、マイケルだった。おそらく、数あるMVの中でもマイケルのそれは圧倒的一番人気だったと思う。私にとってマイケルは、現実のつまらなさや惨めさを一時でも忘れさせてくれる、救世主のような存在だった。とにかくあの頃の彼は、その持てる限りの才能をあますことなく披露して、まさにキラキラと輝きを放つ星だった。

 しかし、当時はお金がないからレコード会社から出ているレコードやテープなんて買えない。それでどうしたかと言えば、高校の入学祝いに母が(おそらく無理して)買ってくれたラジカセでラジオ番組からエアチェックしたり、街のダビング屋さんでマイケルのアルバムをテープにダビングして貰ったりした。その録音テープを擦り切れるまで聴いた。

 おそらく、私や私より上の世代は、子ども時代や青年時代に、夢中になっても経済的な事情で手に入れられなかった物が、多かれ少なかれあった世代だと思う。少なくとも今の若い世代のように、物質的に恵まれているとは言えなかった。そしてそういう世代だからこそ、大人になって自ら経済力を得ると、幼い頃や青年時代を取り戻そうとするかのように、かつて夢中になったものを「大人買い」するのだ。私にとっての「大人買い」は、近年相次いで発売されたマイケルのDVDだ。

クリックすると元のサイズで表示します 先日も貴重なライブ映像が満載の「ライブ・イン・ブカレスト」を買ったばかり。92年、ルーマニアのブカレストで行われた「デンジャラス・ツアー」のライブを収録したもの。ここ暫くは、こうしたDVDを見て、ひとり彼の追悼会を開こうと思う。そして、その欠点さえ愛おしむ人間への深い情が込められた、彼の曲の歌詞の意味を改めて噛みしめたい。

 死者にむち打つような行為は慎むべきなのに、テレビのワイドショーは容赦なく、晩年の彼のスキャンダル報道を根掘り葉掘り蒸し返す。それで誰が喜ぶと言うのだ。多くのファンは彼が世に送り出してくれた素晴らしい作品の数々に感謝こそすれ、彼の欠点をあげつらったりはしない。彼もまたひとりの人間。人間に完全無欠などあり得ようか?
 
 50歳は一般的には若過ぎる死と言えるだろうが、彼のような天才は、すさまじいまでの才能をその前半生で放出し尽くして、一般の人間の何倍もの速さで人生を駆け抜けて行くものなんだと思う。彼の肉体は滅びてしまったが、彼の魂は彼の遺してくれた作品と共に、いつまでもファンの心の中で生き続けて行くと信じたい。最後に、心から冥福を祈ります。 
 
《マイケル・ジャクソン 現地時間2009年6月25日(木)午後2時26分(日本時間同年6月26日(金)午前6時26分)死去》

◆マイケル・ジャクソン公式サイトは→こちら
 

2

2009/6/25

もう少し頭を使おうよ、と思うこと  はなこのMEMO

クリックすると元のサイズで表示します これまでにも度々こちらで書いて来たことですが、大人だったら子どもの模範となるような振る舞いを心がけないとダメですよね。

 例えば、エレベーターに乗るとき。基本は、降りる人が先に降りてから、乗り込む、のはずだと思うのですが、エレベーターを待っている間、時々扉の前に人が群がって、出口を塞いでいることがあります(「いったいどこの話やねん?」って声が聞こえてきそうですが…住んでいる街の話です(^^;)。このような光景を目にする度に、こんな街に家を買うんじゃなかったと後悔します。便利で、比較的住みやすい街ではあるのですが…(-_-))

 先日もそう言う場面に遭遇したのですが、思わず「降りる人の為に、出口を開けなきゃダメですよ」って言ってしまいました。そもそも乗っていた人が降りない限り、外で待っている人は乗れないわけですし、早く乗りたいと逸る気持ちは分からなくもないですが、出口を塞いでしまったら、降りたい人が降りられなくて、結局乗れないでしょう?我先に乗ろうとするさもしい気持ちが、却って乗降効率を悪くしています。

 特に親子連れで、親が率先してそんなことをしているのを目の当たりにすると、親として、それはマズイんじゃない?と思う。

 それから、人からの感謝の言葉を期待しないまでも、もう少し気遣って欲しいと思うことがあります。それはエレベーターでたまたま操作盤の前に立って、開閉ボタンの操作をすることになった時。殆どの乗客が王様、女王様の態度で、さも私がエレベーターガールをするのが当然という態度で降りて行きます。降りるときに、せめて軽く会釈するとか、「どうも」くらいの一言があっても良いと思うのですが。誰でもタイミング次第で「エレベーターガール」役になるわけですし。”お互いさま”だからこその感謝の気持ちって大事だと思うんだけどなあ…もちろん、私は降りる時に軽く会釈しています。だって、見ず知らずの人の手を煩わせているんですものね。

 女子トイレの待ち行列でも、ただ前の人の後ろに並ぶのではなく、トイレ内の構造をよく見て、狭いトイレ構内で自分がどのように並んだら、個室から出て来た人の行く道を塞がずに、手洗い場へと誘導できるか考えてみることが必要なんじゃないかと思う。女子トイレは映画館や劇場やショッピングセンターで長い待ち行列ができがちで、その行列に並ぶ度に、何も考えずにただ並んで、人の進路を妨げたりしている人を見かけます。いつ、どんな場面でも頭を使わないと、頭はどんどん錆び付く一方だと思う。

 蛇足ながら、大勢の人が利用する施設で、利用者数に比して、トイレの数が圧倒的に足りない所がままありますが、これには設計者の見識を疑うし(そもそも手がけている建築物は、”人”が使うのが前提なんだし)、商業施設なら、できるだけ収入源となるテナント面積を広げようという、経営者の”金儲け主義”が透けて見えて幻滅します。とにかく先進国の仲間入りをしようと遮二無二頑張った高度経済成長期じゃあるまいし、これでは世界第2位の経済大国の名が泣きますよ(3位の中国に抜かれるのは、もはや時間の問題らしいですが)トイレの充実度は、その国の経済的豊かさを知る重要な指標だと、各国を旅して思います (たとえ外見をどんなに飾っても、トイレの貧相さでメッキが剥がれてしまう。トイレは設置者及び利用者の衛生観念が一目瞭然の場所ですから)

1

2009/6/24

このままで良いんだろうか?  はなこのMEMO

【例えばテレビ・マスコミ

皆様も既にお気づきかと思いますが、日頃から私なりに気になっていることを書き留めておきます。

1.類似事件を追いかける事件報道

例えば、母親の同居男性による幼児虐待事件が起きたとします。すると数日間、下手すると1週間位、似たような事件を全国から拾って来て、キー局のニュース番組で立て続けに報道します。そうすると、そうした事件があたかも全国で、同時期に頻発している、或いは、急増しているかのような印象(錯覚?実際、どう推移しているのか、統計的裏付けを明示して貰いたい)を視聴者に与えるのではないでしょうか?近年では「消防団員による放火事件」など。大半の真面目な消防団員はイヤな思いをしているのでしょうね。実際は、そうした事件はいつでも、どこでも、一定割合起きているのかもしれないのに。

地域特性は多少見られるのかもしれませんが(ある地域は全国平均に比べて多少事件発生が多いとか、少ないとか)。

季節特性といったものもあるかもしれません。例えば、真夏の炎天下にパチ▲コに夢中になった両親に、パチ▲コ店の駐車場で密閉された乗用車に置き去りにされた幼児が熱中症で死亡、とか。これはもう随分前から繰り返し報道されているのに、なぜか毎年のように起きる事件です。ニュースさえ見ない親がいるのか、或いは、それだけパチ▲コへの依存症状が深刻なのか?「親のネグレクト」「真夏の炎天下」「密閉された乗用車内」と言う悪条件が重なっての、幼児が被害者となる悲惨な事件です。冬にも起こりうる事件なのでしょうが、はやり真夏に多いんでしょうね。報道が、「事件や事故の抑止力」になり得ていない、残念なケースです。


2.土日のローカル報道の取材は、各支局持ち回りで

土日のお昼のニュースはNHKをもっぱら見るのですが、関東版ローカルだと、週によって群馬のローカルニュースが殆ど、茨城のローカルニュースが殆ど、と言うように、どう見ても各支局に持ち回りで取材を担当させているフシがあります。その間、他の支局の記者は休んでいるのでしょうか?どうもテレビ局側の都合で、ニュースの内容が決まっているような気がします。他の支局の管轄区域でも、報道に値する”ニュース”は常にあるでしょうに。「これって手抜きだよなあ〜」と思いながら、見ています。ニュースは記者が取材しない限り、ニュースにはなり得ないのに。私達視聴者は知り得ないのに。


3.季節の風物詩を伝える報道は、日付が変わるだけで、言っていることは毎年変わり映えがしない

例えば、盆正月の高速道路の渋滞状況や新年の一般参賀の風景や、体育の日のスポーツイベントの紹介や、GWの成田空港での出国ラッシュなど。判で押したような表現で、「もっと他に言い方はないの?」って思いながら、見ています。それを毎年飽きもせず見ている私も私だけれど。記者はおそらく何も考えずに機械的に原稿を書いているんだろうな、もしくは「盆暮れの渋滞用」「一般参賀用」と言った具合に、予め定型の原稿や映像が準備されているのかしらね。

それから朝や夕方のニュース番組のワイドショー化にもウンザリです。忙しい時間帯に、ドキュメンタリー・テイストの報道を見る余裕のある人が、果たしてどれだけいるのか?殆どの人は、この時間帯のニュース番組を時計代わりに使っているのではないかしら?それを自覚してか、時刻表示を大きくしているテレビ局もあったような…テレビには早々に見切りをつけて「私はラジオ派」と言う人もいるでしょうね。

視聴率競争下で各局がこぞって長時間化を進めた結果、肝心のコンテンツ=「ニュース」が不足して、今のようなありさまになってしまったと思うのですが、こうなったら余分なものを削ぎ落として、シンプルなニュース報道に徹した方が、視聴者に好感を持って受け入れられるような気がするのですが…

そもそも日本は、放送時間が長過ぎるのかもしれません。放送すべき内容が思いつかないのなら、いっそのこと放送時間を短縮すれば良いのに。しかし、民放は営利企業なので、一度大きくなった企業規模を縮小することに繋がる時間短縮化は難しいのでしょうか?

【追記 09.06.25】

広告収入の激減?でテレビ局はなりふり構わぬ営業活動を行っているのか、最近はやたらとパチ▲コ機器のCMが多いような気がします。パチ▲コ・メーカーも、よくもまあ、あれだけの種類の商品を開発するものです。(キャラクターとでも言うのでしょうか?)懐かし系が多いようですが、つまりパチ▲コの顧客層も高齢化しているのでしょうか?しかし、それにしても歌手の石川さゆりが名曲「天城越え」を歌いながら人間砲弾を演じるCMはいただけない。金儲けの為なら、自らのイメージも名曲の尊厳もかなぐり捨てるのでしょうか?大好きな歌手、曲だけに、この件では、石川さゆりに幻滅です。確かに「天城越え」は石川さゆりの持ち歌だけれど、だからこそ、歌い手として、曲のイメージをぶち壊すような軽率な行為は慎んで欲しかった。名曲が可哀想です。本当に残念です。
0

2009/6/24

自然礼賛〜プチトマト(6)栽培42日目  やさい栽培観察日記

クリックすると元のサイズで表示します   今朝は。一昨日の夜は嵐を思わせるような強風でした。翌朝には折れた枝も見つかりました。こうした強風を避ける為にベランダの壁際にプチトマトの木を置いているのですが、そうしたらそうしたで、当たりすぎると病害虫の原因になると言われている雨が避けられない。ベランダ栽培ならではの悩みでしょうか?それでも葉の上で光る雨露はきれいだなあと思う

 最初についた実は未だ赤く色づかず、正直やきもきしていますが、気長に待つしかないですね。他に実はついていないのかなあ…とプチトマトの木を眺めていたら…クリックすると元のサイズで表示します見つかりました! 小さな青い実が!ヨッ、期待の2番手!現在、ところどころの枝に黄色い花が咲いています。受粉がうまく行けば、これらが実になるのですよね。楽しみだなあ…クリックすると元のサイズで表示します 
 
背丈もグングンとまでは言わないけれど(ちょっとペースダウン?)、伸びています。前回「つる性」ではないと書いたのですが、今朝見たサイトの解説によれば、「半つる性」のようですね。

 そう言えば、ズボラな私は支柱を立てたものの、未だ主茎を支柱に結わえていなかったのですが、嵐の翌朝、プチトマトのことが心配になって見てみたら、プチトマトの木自ら、支柱に上手に絡まっているのに気がつきました。そうか「半つる性」だからなせる技なんだ!収穫はまだですが、プチトマトには、現時点でも十分楽しませてもらっています

 今日は一日中、みたいですね(←朝刊の天気予報では午後9時頃まで雨のマークでしたが、昼過ぎに雨は上がりましたね)。ところで、梅雨の憂鬱な気分を吹き飛ばすかのように、今年は色柄さまざまな長靴、もとい、レインブーツが発売されて、女性の間で人気を博しているようですね。

2

2009/6/23

今日もトークで美術館へ  携帯電話から投稿

ひと仕事終えて、自分へのご褒美に、お気に入りのカフェでひと休み。

今日は名古屋からの修学旅行で来館した、中学3年生のグループ6人と、作品を一緒に見て回りました。皆さん、一を見て十を知る、と言う感じで、利発な印象でした。

新型インフルエンザの発生で、修学旅行の中止や延期が相次いだ今年ですが、最近やっと騒ぎも落ち着き、上野の森にも修学旅行生が戻って来ました。

イマドキの修学旅行はバスを連ねての団体行動ではなく、小グループ単位で思い思いの場所を訪ね歩く形なんですよね(関東地方への修学旅行だと、グループ毎に別行動の後、夕刻にTDR(東京ディズニー・リゾート)へ全員集合、と言うのが定番のようですが)。

その方が機動力は優れていますが、学年全体で思い出を共有することが難しくなって来ているのではないかな、と思ったりします。『修学旅行』と言っても、それぞれに思い出す情景が違う…というような。良し悪しは別として、『個人主義』の時代なんだなと。

いつの頃から、変わったのでしょう。時代の変化を端的に表す事例として、とても興味深いです。

クリックすると元のサイズで表示します
0

2009/6/22

息子の近況〜まあ…順調みたいです(^_^)  家族のことつれづれ

…って、ここで逐一報告するほどのものでもないのですが

掛け持ちで体調管理が懸念されたサークル活動ですが、ほぼ毎週のように続く飲み会の誘いの上に、年会費15,000円を請求される?に及んで(このサークルが特段ヒドイとは思いませんが…)、息子は軽音楽サークルは自分には続けて行くのが無理だと観念したのか、先輩に「お金がないので続けられません」と言ってやめたそうです。今はロボ研1本に絞って、本人も正直ホッとしたようです。バンド活動は高校時代の友人達と続いているわけですし。また、高校を卒業して、それぞれの道を歩み始めたクラスメイト達との親交も相変わらず続いているらしく、今月末に早くも同窓会が開かれるようです。

そして、多忙な大学生活にも慣れて来て、精神的に余裕も出たところで、息子は自らバイト探しを始め、学業に支障の出ない拘束時間と言うことで、家庭教師の職を見つけて来ました。斡旋業者に登録したのですが、ほどなく生徒も見つかりました。なんと我が家から徒歩圏に住む、地元公立中学の1年生で、部活との両立を図りたい為に週2回、苦手な数学と英語を指導して貰いたいらしい。数学と英語は息子の得意科目。しかも息子は高校時代にお世話になった先生に感化されて、教員免許取得を希望しているので、児童生徒に勉強を教えることは、彼にとって貴重な経験となるでしょう。

早速、明日から仕事が始まります。最初の4回はお試し期間と言うことで、無料指導扱いになるようですが、本人も納得の上でのことなので、外野(笑)は静観すると致しましょう。生徒が女の子、というのがやや不安材料ではありますが、息子本人はやる気満々なので、うまく行くと良いなあ…
0

2009/6/22

住宅ローンの繰り上げ返済  はなこ的考察―良いこと探し

私は美術館でボランティアなどをしておりますが、我が家の社会における階層属性は中の下だと思います。夫は大手企業勤務なので全国平均を上回る収入がありますが、住宅ローンを抱えていますし、年に1〜2回の帰省費用も馬鹿にならない金額(盆、正月の帰省となると航空運賃がピーク料金)で、元々首都圏や首都圏近県出身の方に比べたら、余裕のない家計だと思います(実際、美術館のボランティア仲間は富裕層が多い印象ですが、私のような庶民でも受け入れて貰えています。しかし、米国のボストン美術館のボランティアは、それこそ名士夫人の務めなんだそうです。それは美術館経営に欠かせない企業や個人からの寄付を募る為に、彼女達の豊富な人脈が重要だかららしい)

「では、どうして地方から上京なんかしたの?」と言われそうですが、地方にはそもそも就職口が少ないし、就職するにも、本人の実力や努力とは関係のない力(親の経済力、政治力)が働く余地が大きい。私も地方のその閉塞的な状況にウンザリして上京したと言えます。一方、首都圏には数多くの企業が集中し、常に労働力を必要とする状況なので、私たちのようなコネのない地方出身者にも、より良い条件の職場への就職のチャンスがある。だから、首都圏に全国から人が集まるのは当然ですね。生活面でも地方には地方なりの良さがあるのは当然ですが、私が求めている生活は首都圏にこそある。だから夫がリタイアしたとしても、出身地には戻らないだろうなあ…

さて、我が家が現在住んでいるマンションを購入したのは14年前。バブルの終わり頃でした。海外から帰国した頃は、会社が社宅として用意してくれた分譲マンション(海外赴任中の社員の持ち家。新築分譲価格は8000万円を超えたそうです。床面積は80u弱)が中古価格でも6000万円台でした。だから我が家が購入したマンションの分譲価格は比較的値頃だと思いました。しかし、その後、周辺の新築マンションの分譲価格が大幅に下落したことを考えると、まだまだ高めだったのですね。今なら自宅周辺で同額出せば、それなりの一戸建てが買えます。近所の新築戸建てを見るたびに、ため息が出てしまう。まあ、見るだけ→ヨソと我が身を比較するだけ、無意味ですが…

就職にしても、住宅購入にしても、時の運がありますね。

特に就職できるか否かは、本人の能力以上に、その時の経済状況に左右される。一昨年は団塊世代の大量退職と好況感で就職は売り手市場だったのに、昨秋以来の世界的な経済不況で就職戦線は一変しました。現在の30代もバブルが弾けた頃に就職期を迎えた世代で、世代別では最も正規雇用率が低く、「失われた世代」と言われていますね。最も失われたものは何か?おそらく、個人の「尊厳」だと思います。就職活動でそれまでの努力が報われず、自己否定を余儀なくされた、辛い体験を経た世代。逆に打たれ強い、逆境に強い世代とも言えるのかもしれませんが。

一方、住宅購入はある程度、個人にタイミングの選択は委ねられているわけですが、それでも住宅ローンを組む以上、”買い時”は狭められる。70歳、80歳の年金生活の時まで住宅ローンを払い続けるなんて現実的に無理です(おそらく、多くの人は定年退職時に退職金を住宅ローンに充当するのでしょうが、貴重な老後資金である退職金には手をつけたくないものです)。しかし、ある程度の頭金を貯めるには、親からの援助や遺産相続等がない限り、それなりの年月が要る。我が家は自力で買わざるを得ない状況だったし、地方や海外転勤もあったので、自ずと30代後半になってしまいました。

マンション購入時、頭金は2000万円ほど用意しましたが(とにかくそれだけの金額を貯めるまで節約しました。その経緯を家計簿体験談にまとめて、日銀内にある貯蓄広報委員会<旧称>主催のコンクールに応募したら、県で1位の奨励賞を受賞しました)、それでも私達サラリーマン家庭にとっては多額の負債が残ります。これだけの金額を生活しながら返すとなれば、長期ローンを組むしかありません。当時はあまり深く考えもせずに、雑誌の記事等を鵜呑みにして、35年ローンを組みました。

しかし、夫は35年という気の遠くなるような年月の間、住宅ローンを払い続けることに、不安と圧迫感を持ったようでした。それで私なりに調べて夫の負担を軽減する方法として選んだのが、繰り上げ返済です。住宅ローンを始めて1年後には最初の繰り上げ返済。それから数回繰り返し、今月も200万円余り繰り上げ返済を実行しました。これにより返済期間は16年短縮し、残り5年となりました。おそらく支払い利子の負担軽減もそれなりの額になったとは思いますが、計算はしていません。また途中で夫の会社の業績不振でボーナスが半減したのを機に、当初組んでいたボーナス返済をやめて月々の返済のみに。その際に月々の返済額が増えてしまいましたが、それに合わせて生活を見直すしかなかったですね。とにかく夫が定年までに住宅ローンの返済を終えたいと希望しているので、家計を預かっている妻としては、その希望を叶えてあげたい。その為には私の健康が回復したら、「外に働きに出る」と言う選択もありますね。年齢的に見て、職種を選べる状況ではないのでしょうけれど。

それにしても、昨今の不況で月々の給与もカット、ボーナスも(あるだけ恵まれてはいますが)半減。それでいて、息子の私立大理系の学費は年間200万円近く…入学時は子ども保険で100万円を手当てできましたが、2年目以降は夫の給与か貯金で賄うしかない。貯金がなかなか増えないどころか、減る一方ですね。今年は年明けの息子の大学受験(予備校で直前対策講座を受講させたり、数校の受験料やホテル宿泊代等)や父の容態急変と死去による何度かの帰省で、さらに出費が嵩みました。どちらも避けようのない出費だから納得は行きますが(世の中には、何人ものお子さんを育てておられる方もいますしね)、ボーナス支給前に計画していた夏休みの旅行はどうしたものかと、考えあぐねています。それ自体、贅沢な悩みなのかもしれませんが…
0

2009/6/20

驚くほどの甘み  「食」についての話題

家庭菜園を楽しんでおられるボランティア仲間のMさんから、よく獲れ立ての野菜をいただく。これまでにトマト、スナップえんどう、ピーマン、春菊、レタス等をいただいた。

先日も、美術館へと出かける忙しい朝に摘んで来たと言うレタスと春菊をいただいた。いつも「見た目は悪いけれど、すご〜く甘いのよ。おいしいのよ」と言いながら、野菜を差し出されるMさん。仰る通り、朝摘みの野菜はその日のうちに食べれば絶品だ。とにかくすべて市販のものとは糖度が違う。

さらに先日の春菊の香りと言ったらない。味噌汁に入れたが、味噌汁の香ばしさが格段にアップし、わかめと豆腐の味噌汁に春菊の甘みが際立っていた。別の方はサラダでいただいたそうだ。なるほど、それも春菊の香りや食感が楽しめそう。

レタスは、いつだったか歌手の梓みちよがテレビで紹介していたレシピ(と言うほどでもないシンプルな味付けだけれど)で、ごま油と白コショウ、黒コショウで軽く和えた。ごまの風味と黒コショウのピリッとした辛みがポイント。それでレタスの甘みが引き立つ。

しかも、これらはすべて、Mさんご夫妻が日頃から草むしりや虫とりに勤しみ、丹精こめて育てた無農薬野菜だ。

いつも「見た目が…」と謙遜されるMさん。見てくれなんてどうでもいいんですよ。自然のものだからこその個性の発露が、曲がった形や一様でない巻きであるはずですから。いつも感謝しながら、おいしくいただいております。ありがとうございます。
1

2009/6/20

子どもたちに助けられ、励まされ…  ボランティア活動のこと

クリックすると元のサイズで表示します 「考える人」の右手が顔のどの部分に当てられているか、ご存じですか?顎だと思っている人!顎じゃないですよ。是非、ホンモノで確認してみましょう!そうすれば、どうしてこの作品が「考える人」というタイトルなのか、納得できるかも♪ 

 昨日は、新館がリニューアル・オープンして以来、私としては初のスクール・ギャラリートーク(コース自体は改装工事前に何度も担当済)。江戸川区の小学校5年生の子ども達が来てくれました。総勢60人余り。7人のスタッフで各人9〜10人の子ども達を引き受けました。

 最近、テレビの番組やCM等で「考える人」もどきが頻繁に登場するせいか、子ども達の間で、ロダン作「考える人」の認知度は極めて高い。私が担当したコースにはちょうど「考える人」が組み込まれており、最初にこれを見ると知った子ども達から歓声が上がりました。持参したワークシートも、たまたまこの作品が表紙を飾っていたんですね。

 いつものように、皆で作品を見るに当たっての3つの約束(1)作品をよ〜く見ること。何が表現されているのか?どのように表現されているのか?今ではテレビや本やパソコンでも作品は見られるけれど、本物を間近に見るとやっぱり違うよ。目をこらしてよ〜く観察してみようね。(2)作品を見て、感じたこと、思ったこと、考えたことを言葉にして、口に出してみること。そして、同じ作品を見ても、感じることは人それぞれ。だから(3)友達が作品を見てどんなことを感じたのか、思ったのか、考えたのか、友達の発言にもきちんと耳を傾けよう。

 ギャラリートークに参加する子ども達は言わば”ナマモノ”。当日フタを開けてみるまで、どんな子ども達なのかは私たちスタッフには知る由もありません。最初から活発に発言が飛び交うこともあれば、恥ずかしがり屋さんでなかなか言葉が出ないこともあります。中にはつまらなさそうにひとりグループの輪から外れて、斜に構えている子どもだっています。もちろん様々な個性があって当たり前。「さてさて今日はどんな子ども達かな?」―始まりの挨拶は、緊張と期待で胸が高鳴る瞬間です

 果たして、昨日の子ども達は、こちらが嬉しくなるくらい好奇心旺盛で、感情表現が豊かで、結構長い行程(自由時間も含めて1時間半近く!)にも集中が途切れない、素晴らしい子ども達でした。久しぶりに短縮バージョンからフルバージョンに戻り、多少抱いていた不安も吹き飛ばすような、子ども達の好反応に助けられました。素直でのびのびとした感性に、普段の学校生活や家庭生活が忍ばれます。

 「まだ見足りないなあ…もっと見たいなあ…」「美術館って楽しいねっ」と言う子ども達の言葉に、私も励まされる思いです。こうした子ども達の直向きな眼差し、子ども達から発せられる、キラキラ光るような生命力が、何にも増してボランティア活動の活力になるような気がします。


1

2009/6/14

本当は嫌だけれど…  日々のよしなしごと

昨日、駅に向かうバスの中でのできごと。

途中で、見たところ70歳前後の女性が3人、バスに乗り込んで来た。周囲に響き渡るような大声でしゃべり、笑いながら。優先席に並んで腰掛けても、そのけたたましさは変わらない。他の乗客は静かにしているのに。中には具合のすぐれない人もいるかもしれないのに。私は、その女性達とは通路を挟んだ反対側の席に、夫と並んで腰掛けていた。

何度か視線を送ったが、件の3人は周囲を気遣う様子が一切ない。堪らず(勇気を振り絞って)、直接注意した。

「すみませんが、もう少し小さな声で話していただけますか?」と。

こちらもそれほど強心臓ではないから、3人を一瞥するとすぐに視線を逸らした。すると、

「あ〜ら、ごめんなさい」と言う言葉に次いで、もうひとりの声で信じがたい言葉が聞こえて来た。

「変な人がいるものね」

いったい、どちらが変なんですか?
どちらの方が常識外れなんでしょうか?


ココはドコですか?あなたの家ではありませんよね?
ご自宅なら、大いにしゃべって、笑って結構。
もちろん、それも時間によりけりだけれど。

70歳前後と言えば、私の母と近い世代。実はこの世代は、常識をわきまえた人とそうでない人の個人差が激しい。後者は子育てを終え、社会からリタイアした夫との力関係にも微妙な変化が訪れたことが引き金になって、心を律していた「タガ」でも外れてしまったのだろうか?

とにかく遠慮がない。視野が半径50cm程に狭まって、その範疇を外れたら無関心なのだ。だから自分のテリトリー以外の人に対しての気遣いが全くなくなってしまう。生き様に緊張感がなくなって、自分が他人にどう見られているのかの意識が皆無と言ってよい。でも、それが周囲に不快感を与えたり、迷惑をかけているんだよね。山奥にたった一人で住むならともかく、袖振り合うも多生の縁、いっときでも空間を共有する他者に、もう少し気を遣ってもらいたいな。

彼女達の傍若無人な振る舞いに対して、結局、周囲の人間も我慢強くて、内心不快に思っても誰も注意しない。それが彼女達のお行儀の悪さを冗長させている。

いいオトナなんだから内と外では、立ち居振る舞いを変えるべきだと思う。本来ならば、それは人に注意されるまでもなく、自分で気づくべきだよね。

私だって、自分の親ほどの年齢の人達に注意するのは気後れする。もちろん、注意と言っても、目くじら立てて「ダメでしょっ!」ではなく、あくまでも「お願い」する形を取っている。それでも上述のような逆襲?に遭う。その時の落胆はいかばかりか?この人達が日本をダメする元凶だとさえ思う。そのお行儀の悪さは子や孫に伝承される恐れ大だから。

特に都会の公共交通機関は常時混雑しており、大声でのおしゃべりは迷惑だ。自分も含め、少なからずの人がイヤフォンで音楽を聴いたりするのは、そうしたおしゃべりを聞きたくないというのも理由のひとつだと思う。

本当は人に注意するなんておこがましいし嫌なんだけれど、少しでも世の中が暮らしやすくなるよう、勇気を振り絞って、”明らかに”非常識な人達には「お行儀の悪さ」を改めるよう「お願い」して行くつもりです。

いやはや、なかなかスリリングな日常でありますとは言っても、ここまでの人々には滅多に遭遇はしませんけれど
0

2009/6/13

自分の立ち位置  はなこ的考察―良いこと探し

私は今から20年近く前に中東に3年間赴任しました。海外赴任と言えば、欧米諸国への赴任が圧倒的に多く、その意味では中東は非主流と言えます。ところが、それが私には良かった。

今日、米メトロポリタン・オペラの新人発掘オーディションのドキュメンタリー映画を見て来ました。帰宅後、気になった出演者についてググってみたところ、ヨーロッパのオペラ通と思われる人のブログに行き当たりました。その人の言葉を借りれば(スカラ座批判を展開する米国人若手オペラ歌手に対し)「米国人は自分を中心に世界が回っていると思いがち。米国のオペラのレベルはヨーロッパでは通用しない」。あくまでも長い歴史を有するヨーロッパは、文化的にも米国に優ると言うことでしょうか?ことオペラに関しては、ヨーロッパが発祥の地でもあります。米国は必死に追いつき追い越そうという立場。しかし、その差はなかなか縮まらないぞ、という自負が、ヨーロッパの側には見え隠れする。

逆に、米国の側から見れば、古い歴史を持つがゆえの見栄やしがらみを、ヨーロッパに感じるのかもしれません。実力だけでは頭角を現せないアンフェアな雰囲気も。その文化の底に階級差別や人種差別や民族差別を感じ取るのかもしれません。

しかし、両者共、国際舞台の主流です。実際にはそこに中国(中華圏)が加わるのですが。実はそうした「主流」の中に身を置かないことで、世界を実効支配する主流の考え方にある一定の距離を置き、それを客観的に見ることができるような気がします。

人間は誰しも、身を置いた場所には愛着を覚える。自らそこに同化しようとする。その思想・価値観に染まろうとする。それが「主流」なら、なおさらです。しかし、その時点で、それが正しいのか否か(厳密に言えば、普遍的価値を有するものなのか否か?)「疑うこと」を止めてしまいがちかもしれない。さもなくば、そこで生活すること、生きて行くことは困難を伴うでしょうから。

ただし、「主流」自体も多数の「亜流」「傍流」(=非主流?!)を内包しており、そのどこに身を置くかで、また違った見方、感じ方が生まれて来るものでしょう。さらに自身の(日本人なら日本人としての)アイデンティティとの葛藤もあるに違いない。その辺りも考慮しないと論は不十分でしょうね。

「主流」即ち「多数派」は、全てにおいて、数と力にものを言わせて(←数は力、ですね(>_<))自分達の思い通りにしようとします。そして、その殆どが叶う。さらに「多数派」は、自らの思いが叶った時点で、「少数意見」を顧みることは殆どありません。常に「多数派」が正しいとは限らないのに。

逆に「非主流」に身を置いた場合、その主張はなかなか通らないが故に、常に「主流」を意識せざるを得ません。そこで常に「非主流」と「主流」の主張のどちらが正しいのかを自問自答することになります。常に自分の中で葛藤があるのです。必然的に「考えること」を強いられるのです。

私のような「怠惰な者」は、「非主流」に身を置いたおかげで、「疑うこと」「考えること」を忘れずにいられるようになったのです。中東からは、西欧もアフリカもアジアもよく見えます。逆に「主流」の中に身を置いた場合、「非主流派」以上に意識的に、自らの「誤謬性」を常に問い続けて行く努力が必要なのだろうなと思います。
0

2009/6/12

流れる雲を背に  携帯電話から投稿

スパイダーマンの如く 宙を舞いながら
窓を磨くひと。

クリックすると元のサイズで表示します
0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ