2009/3/10

”感謝”の気持ち  はなこ的考察―良いこと探し

私は人の話を聞くのが好きです。友人達との会話ではついつい喋りすぎてしまいがちですが(みんな〜、ごめんね!)、さまざまなメディアを通して見聞きする人々の話には熱心に耳を傾ける方だと思います。よくメモを取りますしね。それを、こちらでしばしば披露している次第です。

そうした人々のお話を聞いて最も印象的なのが、 「感謝の言葉」です。映像ではそれを述べる時の話し手の「表情」にも注目します。なんと言っても、他者への感謝を述べる人々の言葉や表情には幸福感が満ち溢れています。聞いているこちらまで心地良くなると言うか、幸福のお裾分に預かっているような気持ちになります。

なぜ、聞き手である私が、そのような気持ちになれるのか?それは、他者に感謝するという行為はそもそも「謙虚さは美徳」と言う日本の伝統的な価値観に適ったことだし、その話し手の「自分は孤立した存在ではない」と言う自覚が、その人の心に安寧をもたらしているのだろうと見て取れるからでしょうか?

人は誰しも、誰かに支えられて生きている存在なのに、それに気づけなければ苦境に立たされた時に、全ての責任が自分に降りかかって来るような錯覚に陥るのではないか?そうなれば精神的に追い詰められて、冷静な思考力も働かなくなり、解決の糸口さえ見つけられなくなってしまう。乗り越えられる壁も乗り越えられないでしょう。逆に常に他者の存在を意識し、感謝できる心づもりで生きていれば、他者の存在そのものが精神的な支えになり、自ずと周りから助けの手も差し伸べられるような気がします。

その意味で、他者の支えに感謝することは”幸福の鍵”のひとつだと思うし、素直に感謝できる人、感謝の言葉が口をついて出て来る人は自ら幸福を呼び込む人なんだろうと推察します。まずは「ありがとう」の言葉を出し惜しみせずに、日々口にして行きたいですね。


ここまで読んで下さって、ありがとうございます。
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2009/3/10

荒波を乗り越えて…  日々のよしなしごと

このブログを読んで下さっている皆さんには、このところ更新が滞りがちで申し訳ありませんでした。やはり親として、息子の人生においての一大イベントである高校卒業&大学受験をきちんと見守ることを最優先した、と言うか、自ずとそこに神経が集中してブログ更新どころではなかった、と言うのが正直なところです(ただし、受験のあまりの厳しさ、精神的プレッシャー〜本当は息子本人が一番それを感じていたはずですが〜から、私は映画へと逃避してしまいましたが(^^;)、その感想を逐一書けるほど心中は穏やかではありませんでした)

ご報告すると、受験の荒波に揉まれて時には挫けそうになりながらも、息子はその波を強い意志で乗り越えて(ホント、粘り強く頑張った!こんなに強い子だったとは知りませんでした)、4月から晴れて大学生になることが決まりました!

※少子化で大学全入時代になぜ荒波?と思われる方もいるかもしれませんが、現状は全国で約700校ある大学の内、所謂難関&有名大と言われる上位28校に受験生の半数が集中してしまうのだそうです。だから難関大への入り難さは相変わらずか、寧ろ全入時代だからこそ難関志向、首都圏志向が強まり、地方からの挑戦も増えていると聞きます。逆に残りの670校前後の学校は少ないパイの奪い合いで、推薦入試での学生確保に躍起になったり、それでも定員割れで、学生の質の低下や学校経営が危機に見舞われてしまうようです。今年は未曾有の不況で首都圏有名私立大への志願者が減った(地方学生が受験を諦めた?)と言われていますが、それでも息子が受験した学科は何れも志願者が1000人を超え、高倍率でした。

普段はちゃらんぽらんに自分の好き勝手に日々を過ごしていても、ひとりの大人として、親としての義務は、果たすべき時に果たさないと、きっと後で悔やむことになる。特にひとりの人間をこの世に生み出したからには、その人間を独り立ちさせるところまで責任を持って育て上げなければならない。特にこの日本のような成熟社会では、それが当然の責務だと思います。実際には子供を産んだら産みっぱなしで、子育てを放棄している人も少なからずいるようだけれど。

以前ここでも、食育に関する記事(”こ食”にもいろいろあることをご存じですか?)の中で言及しましたが、非行少年の多くが、物心ついた頃から、母親もしくは保護者の手料理の味を知らない、と言う悲しい現実があります。先日も、そうした少年が少年院のような更正施設から出所した時に引き取り手(本来なら保護者)がない場合、半年程度預かって社会復帰の手助けをする施設についてのレポートを、テレビの報道番組で目にしました。

そこの寮母さんが第一に心がけているのが、やはり心を込めて”おふくろの味”を食べさせてあげることでした。限られた予算を必死にやり繰りして大量の食材を確保し、毎日午後6時の夕食の為に3時から調理を始めると言う話には頭が下がります。その女性には、寮母という職務を超えた深い親心が感じられます。その施設で初めて”おふくろの味”のおいしさ、温かさを実感し、救われる子供達がいる。もちろん、それでも施設から旅立った内の何人かは挫折してしまうのですが、ひとりでも救われることに意味があると言えるでしょう。

私も親として大層なことはできませんが、せめて三度三度のごはんだけは作ってあげたいと心がけています。それから、どんな時でも見守ること(しかし、ついつい余計な口出しをしてしまうのが玉に瑕(^^;))。しかし、この”見守る”〜我が子を信じて見守ることが、結構難しいことなんだなあ…少子化のこのご時世、子だくさんだった昔なら否応なく目が行き届かなかったところにまで目が届いてしまう。それが子供にしてみたら、余計なプレッシャーや煩わしさであったりする。子供の自立の妨げにもなる。今の時代には今の時代ならではの、子育ての難しさがあります。それでも子育てから逃げずに、子供の自立の手助けをするのが親の務め。子供が高校を卒業したことで子育てもひとつ区切りがつき、我が子の巣立ちも近いと実感しますが、同時に最後の総仕上げを疎かにしてはいけないと身の引き締まる思いがします。

一方で、30歳、40歳を過ぎたいい大人が犯罪に手を染めた時にまで、その老いた親が責任を問われる社会には息苦しさを感じます(個人主義の徹底した欧米社会ではあまり見られない傾向?)。もちろん親の中には責任を問われても仕方のない親(上述のようなネグレクトな親)もいるのかもしれませんが、皆が皆そうとは限らない。懸命に育てたつもりでも、それが的外れで思いもよらない結果をもたらすことだってあるでしょう。しかし成人して親から巣立ったのなら、それ以後はどんなことであれ、子供本人の自己責任の部分が大きいと思います。親の預かり知らぬところで子供は自らの人生を築いて行く。

それなのに親が生涯子育ての事後責任を問われる、ある意味社会が親離れ、子離れを許さない風潮は「親」にとって酷なものだと思う。「親業」はひとりの人間の「一大事業」ではあるけれども、同時に「人生の一部分」でしかないとも思うのです。ひとりの人間の人生を「親」という立場で終生縛りつけるのは止めて欲しい。もちろん、懸命に子育てしたことは殆どの場合、老後に多くの果実〜幸せ〜をもたらすものだとは思います。

相互リンクをさせていただいている方々のブログへの訪問もご無沙汰でした。皆さんの近況をうかがうべく、近々訪問させていただきます。
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