2008/2/28

第80回アカデミー賞授賞式を見ての感想  映画(今年公開の映画を中心に)

クリックすると元のサイズで表示します 英英仏西、演技賞は欧州勢が独占

 WOWOWで授賞式を見ました。振り返れば昨年の第79回は、マーティン・スコセッシ監督の長年の映画界への貢献を称える論功賞的意味合いが強かった。始まる前から「『ディパーテッド』で【作品賞】は決まり!」というような出来レースの様相を呈していて、『ディパーテッド』自体にあまり魅力を感じなかった私には些か納得の行かないものでした。その意味で今年は予想外の展開(下馬評を覆しての受賞等…)もあって、昨年より面白かったですね。コーエン兄弟の『ノーカントリー(原題:NO COUNTRY FOR OLD MEN)』は日本未公開(3月15日日本公開予定)ですが、監督のネームバリュー、魅力的なキャスティング(トミー・リー・ジョーンズ、ハビエル・バルデム他)、公開されている断片映像等から、期待大の作品です。まあ犯罪サスペンス(バイオレンス・ムービー?)というのが少々気になりますが…

 例年そうですが、俎上に載せられている作品の大半は日本未公開です。よって日本の視聴者はどの作品が受賞するのかの予想もままなりません。まさに”蚊帳の外”。授賞式会場はもちろん、番組司会者やゲストらの盛り上がりから、”置いてけぼり”を喰らったのような寂しさを感じつつの視聴ではないでしょうか?それともそんなことはとっくに納得づくで”品定め”に余念がないのかな?

 個人的には作品賞にノミネートされた全作品に興味津々です。特に『JUNO/ジュノ』は見逃せませんね。『ハード・キャンディ』での小悪魔ぶりが印象的だったエレン・ペイジ(やっぱり見れば見るほどカナダの大竹しのぶ!)が頭角を現し早くも主演女優賞にノミネートされるとは予想だにしなかったこと。今後も目が離せません。『マイ・レフトフット』(これも熱演だったなあ。役柄になり切っていた)以来の主演男優賞受賞であるダニエル・デイ=ルイスの『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』も楽しみです。ゴシップ記事には「寡作の人(過去10年間で出演作は4本のみ)で大工仕事は玄人はだし」と書かれていましたが、もっともっと活躍して欲しい俳優の一人ですね。

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 マリオン・コティヤールの主演女優賞受賞は嬉しい誤算?でした。彼女自身予想していなかったのか、受賞スピーチで喜びを爆発させていましたね。母国語でない英語でのスピーチだったからか、かわいらしい表現だった(「LAにはやっぱり天使がいるんですね!」)のが印象的。彼女に関しては『エディット・ピアフ』に先だって、『南仏プロヴァンスの贈り物』で、特殊メイクなしの本来の伸び伸びとした表情と肢体を見ていたので、あえて醜くしたピアフ役にはビックリでした。やっぱり美女が見てくれを敢えて悪くしての熱演には、アカデミー会員も弱いのかしらね。

 あ、そうそう、助演男優賞のハビエル・バルデムは作品中の”ダサイ”髪型(長髪の七三分け)で撮影中はずっと憂鬱だったらしいですが、実際の彼はスペインの伊達男。授賞式では格好良く決めていましたね。彼を初めて認めたのは『海を飛ぶ夢』。これからはこれまで以上に引く手あまたなんだろうなあ…。クリント・イーストウッドもそうでしたが、母親と一緒に授賞式に出席するスタイル、息子を持つ母親からしたら胸キュンものですね。聴衆に向けての英語のスピーチの後、母親の為に早口でまくしたてたスペイン語のメッセージ。あれは素敵でした。あんな親孝行な息子を持ったら、母親冥利に尽きるでしょう。

 感激の面持ちのマルケタとグレン クリックすると元のサイズで表示します

 他に【歌曲賞】に『ONCE ダブリンの街角で』の“Falling Slowly”が選ばれたのが嬉しかったですね。主演二人(グレン・ハンサードとマルケタ・イルグロバ)のステージ・パフォーマンスは清々しさに溢れ、マルケタの無名ミュージシャンへ向けた励ましのスピーチも感動的でした。

 80周年と言うことで、過去の受賞作品、受賞者の映像もふんだんに披露され、永久保存版と言っても良い内容でした。追想コーナーでヒラリー・スワンクが「これからという人も」と表現したのはヒース・レジャーを指してのことでしょう。最後に『ブロークバック・マウンテン』のイニス役の彼が映し出された時には胸が詰まりました。

 今回、日本人では俳優の浅野忠信氏や特殊メークアップ・アーティストの辻一弘氏(2年連続)のノミネートが話題になりましたが、残念ながらお二人とも選に洩れました。しかし、科学技術部門(本授賞式に先立って2月9日に、ジェシカ・アルバの司会で授賞式が行われた)で、弱冠28歳のRyo Sakaguchi氏(Digital Domain社)が、『デイ・アフター・トゥモロー』等の津波シーンで活用された流体シミュレーション・システム(the development of the fluid simulation system)の開発により受賞を果たしています。拍手!

 主な賞のノミネートと受賞は以下の通りですね。★が受賞者。赤字は既に見た作品。
【作品賞】
「つぐない」“Atonement” (Focus Features)
「JUNO/ジュノ」“Juno” (Fox Searchlight)
「フィクサー」“Michael Clayton” (Warner Bros.)
★「ノーカントリー」“No Country for Old Men” (Miramax and Paramount Vantage)
「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」“There Will Be Blood”
                 (Paramount Vantage and Miramax)

【監督賞】
ジェーソン・ライトマン「JUNO/ジュノ」
トニー・ギルロイ「フィクサー」
★ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン「ノーカントリー」
ポール・トーマス・アンダーソン」「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド
ジュリアン・シュナーベル「潜水服は蝶の夢を見る」

【主演男優賞】
ジョージ・クルーニー「フィクサー」
★ダニエル・デイ=ルイス「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」
ジョニー・デップ「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」
トミー・リー・ジョーンズ「告発のとき」
ヴィゴ・モーテンセン「イースタン・プロミセズ(原題)」

【主演女優賞】
ケイト・ブランシェット「エリザベス:ゴールデン・エイジ」
ジュリー・クリスティ「アウェイ・フロム・ハー 君を想う」
★マリオン・コティヤール「エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜」
ローラ・リニー「ザ・サヴェッジズ(原題)」
エレン・ペイジ「JUNO/ジュノ」

【助演男優賞】
ケイシー・アフレック「ジェシー・ジェームズの暗殺」
★ハビエル・バルデム「ノーカントリー」
フィリップ・シーモア・ホフマン 「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」
ハル・ホルブルック「イントゥ・ザ・ワイルド(原題)」
トム・ウィルキンソン「フィクサー」

【助演女優賞】
ケイト・ブランシェット「アイム・ノット・ゼア」
ルビー・ディー「アメリカン・ギャングスター」
シアーシャ・ローナン「つぐない」
エイミー・ライアン「ゴーン・ベイビー・ゴーン(原題)」
★ティルダ・スウィントン「フィクサー」

 アカデミー賞と言えば、やはり受賞者のスピーチが楽しみですね。
◆主要部門の受賞者スピーチ(一部抜粋)&現地レポートはこちら(WOWOWより)
 英語版ではスピーチ全文が、受賞者名をクリックすると別ウィンドウで見られます。
OSCAR.COM
 ノミネート作品の解説や俳優陣のプロフィール紹介は参考になります。
アカデミー賞受賞結果(WOWOW)

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2008/2/27

こんな話もある  はなこのMEMO

最近聞いた話には心境複雑になった。

★C型肝炎訴訟もひとつの区切りがついた。と言っても、患者団体にとっては製薬会社という最後の壁が残っている。それに関して、元製薬会社勤務の友人が思いがけないことを言った。
「確かに製薬会社の責任は大きいけれど、もし、あの場で血液製剤を使っていなかったら、彼女達はほぼ確実に出血多量で死んでいたと思うよ」
もしあの場で血液製剤を投与されることなく死んでいたら、20年間をC型肝炎で苦しむことはなかったのか?それともC型肝炎という厄介な荷物を抱えつつも、20年生き長らえたと解釈すべきなのか?人によっては暴言と受け止められかねない発言ではあるが、医療技術の発達によって昔ならその場で失われていた命が救われたケースであることは否定できまい。しかし人間が関与することに万全はない。命を預かる仕事では他の仕事以上に慎重さと正確さが求められる。携わるひとりひとりの自覚はもちろん、何重ものチェックで出来る限り危険を排除するシステムの構築が必須なんだろう。そこで陣頭指揮を取るべきは、もちろん行政機構である。厚労省にその自覚がなかったからこその”事件”なのだと思う。

【追記】
今朝(28日)の報道によれば、製薬会社が投与患者全員を特定できるデータを持っていることが判明したそうだ。おマヌケなことに厚労省はそのデータの存在を知らなかったそうだ。人の命に関わる(感染の有無を知ること、治療は一刻を争う)重要事項なのに、それをひた隠しにして来た製薬会社の誠意を疑うし、厚労省の監督官庁としての能力にも疑問符が付く実態である。

☆中国ギョーザの中毒事件を機に国産志向が急激に高まったことを受けて、農業の盛んな北関東出身の友人が言った。
「国産野菜は安全だとか、有機農法野菜を有り難がっている風潮があるけど、近所の農家の人が『曲がったキュウリも有機栽培と言えば高く売れる』と言っていたのを聞いたことがあるよ。」
従来なら見た目重視から「できそこない」(←もちろん作物としてはそんなことはない)として市場に出回らなかったはずの曲がったキュウリが、自然な形=有機農法作物として高値で取引される。全ての有機栽培野菜が「看板に偽りあり」と言う訳ではないけれど、一部ではそんな不正もまかり通っているのだろうか?もしそうだとすれば、消費者もバカにされたものである。

2008/2/24

東近美の『わたしいまめまいしたわ』展  文化・芸術(展覧会&講演会)

東京国立近代美術館『わたしいまめまいしたわ―現代美術に見る自己と他者』展

 昨日は家族で竹橋にある東京国立近代美術館へ行って来た。現在、『わたしいまめまいしたわ』という軽妙な回文のタイトルがチョット気になる展覧会を開催中である。カテゴリーは現代アート。展示作品は絵画、彫刻、ポスター、版画、写真、インスタレーション、ビデオアートと盛り沢山。

 近代に至るまで、美術の担い手はアーティスト本人の意識は別にしても、社会的認識は「職人」であり、アーティストはパトロンや注文主のオーダーに応じた作品作りをせざるを得なかった側面がある。例えば画家が自ら描きたいものを描き、それが絵画市場で流通するようになったのは19世紀以降ではないか?現代に至っては、アーティストは強烈なアイデンティティを誇示して初めてアーティストとして認知されるような気がする。だからこそ現代アートにおいて、自己と他者の関係性がことさら意識されるのだろうか?自己と他者は対立する関係であったり、自己を映し出す鏡であったり、自己分裂の一部であったりする。私は一連の作品群を見て、強烈な自己愛を感じたけれど…表現活動は自分の感じていること、考えていることを他者にアピールすることですからね。「私(=作品)を見て!見て!」という作り手の熱情を感じて、めまいを覚えたはなこです。

 最も印象に残ったのは高嶺格(ただす)のビデオアートかな?タイトルは《God Bless America》。ちょうど私達鑑賞者の立ち位置にカメラは固定された形か?画面中央に巨大な粘土の塊があり、それを男女(カップルだったり数人?がかりだったり)がいじくりまわして、さまざまな人物像を作っては崩し、崩しては作るを繰り返す。その粘土像の背後にはベッドとソファ。照射する光が刻々と変化しているので何日間かかけて作り上げたのでしょうね。それを早回しして8分余りの作品に仕上げている。途中で男女の絡み合うシーンもあってちょっぴりエロチック。特に女性の大胆さが目を引く。見られている意識があるからこそ、なのか?BGMには作品タイトルにもなった"God Bless America"がエンドレスに流れている。中央の粘土像の変化が楽しい。歌に合わせて粘土像の口も動く。あたかもクレイアニメを見ているかのよう。

 キューレーターが何やら哲学的な文言をキャプションに連ねているが、あまり深く考えずに見ても楽しい作品が並んでいる。何でもアリの現代アートの楽しさを満喫できた。

 常設展示では横山操の富士二景が印象深かった。高村光太郎の《手》や上村松園作品はいつ見ても惚れ惚れする。

 六本木の国立新美術館で開催中の『横山大観』展はいかんせん人が多過ぎて、絵を「鑑賞する」というより、人波の間を縫って「見物する」と言う感じだろうか?とかく企画展は気忙しく、作品とじっくり向き合う時間を持てないのが辛い。作品をじっくり味わうなら、やはり常設展に限る!

2008/2/21

人間が関わる限り事故はなくならない  日々のよしなしごと

 「あってはならない事故」と言うけれど、残念ながら人間は過ちを犯してしまうものだと思う。一瞬の気の緩みやちょっとした不注意(そう、ひとつひとつは本当に”ちょっとした不注意”)の重なりが事故を招く(だからこそ、できるだけ事故を未然に防ぐ為の「失敗学」のような学問も生まれたのだろう)。後から次々と明るみになる”新事実”は、当事者の自己保身から来る迷いが事実の隠蔽を招いているのか?

 昨夜の三浦友和主演の松本清張ドラマ『不在宴会』(テレビ東京系)では、事務次官ポストがいよいよ射程圏内に入った高級官僚が、自身の火遊びから思わぬ事件にまきこまれ右往左往する姿を描いて興味深かった。ラスト近くで彼の娘が言った「”身から出た錆”ってパパのことだと思った」は痛烈だ。転落して全てを失った彼は苦笑いするしかなかったけれど。どのチャンネルも似たり寄ったりの今朝のニュースを見ながら、夫と二人で「やっぱり今頃、どうしようかと(自己保身の為に)右往左往しているキャリアがいるのかなあ」という話になった。

 どんなに最新鋭の技術を用いても、最後は使う人間の資質が問われる。もしかしたら技術の発達が、(それに頼るあまり)使う人間の意識を緩慢にし、油断を招いてしまうのかもしれない。

2008/2/17

(5)君のためなら千回でも(原題:The Kite Runner)  映画(2007-08年公開)

クリックすると元のサイズで表示します 絶妙なチームワークを見せるハッサンとアミール

 今月は『アメリカン・ギャングスター(American Gangster)』『ラスト、コーション(Lust,Caution)/色・戒』、そして表題の『君のためなら千回でも』と、立て続けに見応えのある作品に出会い、映画ファン冥利に尽きる。

 どの作品もそれぞれに印象深く、自分なりに思うところがあるが、今日は録画で見たペドロ・アルモドバル脚本・監督、ガエル・ガルシア・ベルナル(『モーターサイクル・ダイアリーズ』)主演の『バッド・エデュケーション(原題:LA MALA EDUCACION、英題:BAD EDUCATION、2004、スペイン)』と絡めて、表題作品について感じたことを書こうと思う。

 まず表題作でアフガニスタンのここ30年の歴史を、私は作品に登場する少年達の辿った運命を通して見ることになったのだが、見終わると悲しくてやり切れない気持ちでいっぱいになった。冒頭、大空を舞う無数の凧(互いの凧の糸を絡ませ、相手の糸が切れるまで戦う勇壮な凧揚げのシーンは見もの!”ケンカ凧”と言うそうな。二人一組で戦うこの”ケンカ凧”。ひとりは巧みにたこ糸を操り、もうひとりは敗者の切れて落ちて行った凧を走って取りに行く。後者を”カイトランナー”と呼ぶらしい。)に、30年前のアフガニスタンの自由の伊吹を感じるのだが、それも長くは続かない。ソビエトの侵攻、イスラム原理主義グループ、タリバンの台頭は、かつて「中央アジアの真珠」と呼ばれたアフガニスタンの様相を一変させたのだ。

 主人公アミールは裕福な家庭の子で、使用人の子ハッサンとは身分差を越えて友情を育んでいた。しかし、異なる民族(パシュトゥーン人とハザラ人)でもある二人の仲睦まじい関係をやっかむ者も中にはいて、そうした者達は民族の優劣を言い立てては、特にハザラ人であるハッサンに辛く当たるのだった。そしてある日、二人の間に決定的な亀裂をもたらす事件が起きる。その後関係修復の機会もないまま、アミールは父と共にソ連軍侵攻のアフガニスタンから米国へと脱出する。

 それから20年以上の歳月が流れ、亡命先の米国で作家としての一歩を踏み出したアミールの元へ、アフガニスタンの隣国パキスタンから一本の電話が入る。「アフガニスタンに戻って来い」…20年ぶりの故国への旅は、アミールにとって懺悔と償いの旅である。故国に残して来た”大切なもの”を取り戻す旅。かつてのひ弱で卑怯な自分と対峙し、決別する旅でもあった。

 さて、『バッド・エデュケーション』は現代スペイン映画界を代表する映画監督ペドロ・アルモドバルの自伝的作品らしく、彼が少年時代に過ごしたミッションスクールが舞台のひとつとなっている。何年か前に米国でカトリックの神父による少年への性的虐待が問題となったが、本作でもそれが重要なモチーフとなっている。監督の実体験をベースに虚実入り交じった物語なのだろうが、登場人物の痛々しさに心苦しくなることがしばしばだった(もちろん人によって、見方、感じ方はさまざまだろうけど) 。

 神の御名において人間の正しい生き方を説く立場にある聖職者の、人道にもとる行為。それだけに衝撃的で倫理的に許し難い。それは『君のためなら千回でも』に登場するイスラム原理主義グループ、タリバンとて例外ではない。劇中、サッカー・スタジアムで衆人環視の中、姦通の罪に問われた男女の内、女性だけが石打ちの刑に遭い殺害されるシーンがある。ことさらイスラムの戒律に厳しいタリバンが、一方で少年少女に性的虐待を加える。彼らの中でこのふたつは矛盾しないのか?神の前に恥じることはないのか?考えるだけで腹が立つ。

 人はなぜ信仰を持つのか?より良く生きたい、人として正しく生きたいと思うからではないか?生き方の規範として神仏の教えを信じ、それに則って日々を過ごすことで精神的充足を得られるはずが、現実には、教義は宗派によりいかようにも解釈され、それが原因で宗派間の対立を招くことがある。行き過ぎた原理主義は人々を教義でがんじがらめにし、人々からあらゆる自由を奪う。世界各地の紛争原因の中にも宗教的対立が見え隠れしている。人々は信仰によって心の平安を得るどころか、苦しみ苛まれることも少なくない。でもこんなことを書くと、信仰の目的は現世的幸福の追求ではないと指摘されるのだろうか?

 『バッド・エデュケーション』、『君のためなら千回でも』のニ作品を見て、どうしても宗教に対して懐疑的になってしまう自分がいる。宗教そのものより、それを信仰する人間の問題ではあるのだが、神により近いはずの人間がなぜ堕落するのか?神はなぜそれを止められないのか?

 邦題は劇中に二度登場する台詞。アミールとハッサンの固い絆を物語る言葉だ。「君のためなら千回でも」と叫んで、敗者の凧を取りに行く”カイトランナー”のハッサン。その後の”過酷な運命”を受け入れるしかなかった彼の生い立ちが哀しい。おそらく今も世界のどこかで、無数の”ハッサン”が苦難の人生を強いられているのだ。本作は”彼ら”の物語と言えるのかもしれない。

 報道によれば、本作はアフガニスタン本国では上映禁止となったらしい。出演した少年達も、描かれた内容が内容だけにアフガニスタンにいづらくなり、米配給会社の保護の下(彼らが18歳になるまでの生活費を全額補助)、家族帯同でUAEへの移住を余儀なくされたと言う。映画出演によって結果的に故国を追われることになった少年達の行く末を思うと心が痛む。それともこの展開は彼らに幸運をもたらすのだろうか?  

『君のためなら千回でも』公式サイト
eiga.com

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2008/2/14

ミッション(英国、1986年)  発掘名画館

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 以前WOWOWで放映されたのを録画していたのだが、ずっと見ないままになっていた。先の連休中にやっと見た。1986年カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作品。

 18世紀半ばの南米が舞台。イエズス会宣教活動にまつわる悲劇を描いた作品。まず、南米奥地のイグアスの滝上流にあるインディオの村にも、イエズス会の宣教師が布教に訪れていたとは驚き。宣教師らはそこで苦心惨憺の末、インディオらと共に理想郷を築いたのだが、その平安も束の間、当地を巡るスペイン・ポルトガル両国の領有権争いに巻き込まれてしまう。

 そもそもヨーロッパのキリスト教勢力が、遠い南米まで赴いて土着のインディオ達をキリスト教に改宗しようとしたことに彼らの傲慢さを感じる。インディオ達は彼らなりのルールと智慧でジャングル生活を生き抜いていたのだから。劇中、インディオが3人目の子供を殺すことをヨーロッパ人が「野蛮極まりない」と断罪するシーンがあるが、これは危険が迫った時に両親で抱きかかえて助けることのできる子供の数、ということから編み出された彼らの智慧であって、けっして部外者になじられるようなことではない。彼らインディオの平和を乱したのは、他ならぬ外部(ヨソ)から来た侵略者なのだ。徒に流されたインディオらの血が気の毒でならない。

 末端の宣教師らは信仰に殉じる覚悟で布教に真摯に取り組むが、組織の上層のローマカトリックは国家権力と分かち難く結びついている。宣教師らは結果的に侵略者の先兵としての役割を担わされているに過ぎない。そう言った非情な事実を今更のように突きつけられて、見終わった後には暗澹たる気持ちになった。

 映像的にはイグアスの滝が圧巻。登場人物らは、その上流に向かって時には絶壁を滑り墜ちそうになりながら、山肌を泥まみれになりながら、そして激流に流されそうになりながら上って行く。撮影は出演者、スタッフ共にさぞかし大変だったことだろう。

 キャスティングも見応えがある。ロバート・デ・ニーロにジェレミー・アイアンズ、そしてリーアム・ニーソン。彼らの熱演は時間を追うごとに輝きを増して行く。

 苦い後味を残す作品だが、素晴らしい作品だと思う。

映画『ミッション』データ(allcinema onlineより)

2008/2/13

考えさせられる事件  はなこのMEMO

沖縄の置かれた状況が問題なのか?大人は子供を守ることはできないのか?

 沖縄で中学生の女子生徒が米兵に暴行されたとして、沖縄県はもとより国もこの事件を重大視している(と言っても政府は、米軍基地再編問題に支障を来すことを恐れてのことだろう)

 第一報では、見知らぬ男性に誘われるままバイクに同乗した女子中学生の軽率さを訝った。もしかしたら、読んだ新聞記事(日経)のニュアンスに誘導された印象だったのかもしれない。因みにサンケイエクスプレスでは13日付に小さな囲み記事で取り上げられただけである。(沖縄の過重負担を含めての?)米軍基地容認派のサンケイらしい。以下緑色部分は、第一報を受けての私の感想である。

 事件の詳細を見てみると、事件が起きた時間は午後10時半。そもそも見知らぬ米兵に「家まで送ってやる」とバイクで誘われて、被害者少女は同乗したとのこと。今回はたまたま米兵が犯人だったが、日本人男性が犯人でもおかしくない事件である。

 なんて無防備なんだろう?見知らぬ男性のバイクに気易く同乗するなんて。だいたい女子中学生が夜遅くまで街を徘徊しているのが非常識ではないか?一体被害者の親はどんな教育をしているのだ?そんな疑問が沸々とわき上がってくる。

 こんな事件、何も沖縄に限らず、全国どこでも起こりうる事件だと思う。そして被害者の良識ある判断によって避けられたかもしれない事件だと思う。それがたまたま犯人が米兵だったから大きく取り上げられている。

 報道によれば、沖縄県基地対策課には「基地は減らせないのか?」「米兵を外出禁止にして欲しい」(*1)という県民からの抗議の電話が寄せられた中で、「夜間に少女が外出しないよう学校でも指導すべき」という意見もあったらしい。

 しかし、ここでもまた私は疑問を感じる。夜間に少女が外出しないよう指導すべきは、まず親の役目である。何でもかんでも学校任せなのはおかしい。特に女の子は性的被害に遭う危険性が高いのだから、親は口酸っぱく不要不急の夜間外出を咎めるべきである(←これは何も沖縄に限った話ではない)。それが我が子を想う親のあるべき姿だろう。そのことが一連の報道から欠落しているのが、私はどうも解せない。

 もちろん、米兵の犯した罪がこれによって軽くなるなんて言っていない。許し難い犯罪であることは間違いない。

(*1)
過去10年の統計によると、沖縄県内で米軍人・軍属、その家族が起こした刑法犯の検挙人数は2003年の133人を最多に4年連続減少しており、昨年は46人だった。(中略)米海兵隊は若年兵の深夜外出を制限し、犯罪の減少を強調してきたが、今回の容疑者は38歳で対象外だった。米軍の管理が及ばないところで起きた犯罪は、問題解決の難しさを浮かび上がらせた。(2008年2月12日付日経夕刊19面より)


 若年兵は基地内の宿舎で寝泊まりしているので外出を規制できるのだろうが、一定年齢以上の米兵は基地外で家を借りて住むケースもあるので米軍も管理が難しいのだろう。夜間の米兵絡みの犯罪を阻止したいなら、米兵は全員基地内に寝泊まりさせ、夜間外出は一切禁止するくらいの措置を取らないと駄目だろう。現実問題、それは難しいのだろうけど。

 今朝、改めてネット等で続報を読んでみた。それによれば被害者少女が友人二人と共に繁華街を歩いていたのは午後8時半頃で、犯行が行われた10時半まで米兵は少女を連れ回したらしい。少女は途中友人に携帯電話で助けを求め、通報を受けて緊急配備を行った警察によって午後11時頃保護されたようだ。

 1995年に小学生女児が3人の海兵隊員によって暴行監禁された事件では、不平等な地位協定の下(もと)3人の米兵逮捕が叶わなかったことが、県民の反基地感情を爆発させた。その時の被害者女児も午後8時頃に商店街で買い物中のところを狙われている。私は沖縄に住んだこともあるのでわかるが、沖縄県民は一般に宵っ張りなところがあって、特に暑い夏など夜遅くまで家族連れや児童生徒らがショッピングセンターや繁華街に繰り出している姿が見られる。そんなこともあって、都市部を除く他府県とでは時間感覚が違うのかもしれない。

 今回の被害者は三連休の中日だから遊びに出かけていたのか?友人二人と一緒にいながら、ひとり米兵に誘われるままバイクに同乗したのが理解できないし、取り返しのつかない行為だったと思う。親は友人と一緒だからと安心していたのか?しかし、夜間外出を普段から許す家庭環境(門限がないor緩い)は、やはり教育上好ましくない。それだけ我が子を危険に晒すことになるのだから。口うるさい親だと思われても言うべきことは言うべきだし、時には厳しく注意する必要もあると思う。

 危険な状況を生み出す世の中はもちろん悪い。それを改善して行く努力(沖縄の場合、基地の過重負担を早期に解消すべき。これは特に国の責任大)は常に必要だ。しかし、残念ながらそれは沖縄県だけで解決できる問題ではない(日本全土で負担を分け合う策は、国の「アメとムチ」によっても一向に進展しないのが実情だ)。そこに住み続けるからには(県民が希求する全面返還?が実現するまで)現実的な対応として、×米軍により一層の綱紀粛正(→【訂正】地位協定の見直し)を求めると共に自衛策を講じるしかない。特に過去の事例を知る大人は、過去から学習して子供達を守らなければならない。家庭にいるべき時間には、子供を自宅に留めるべきだと思う。そうしなければ、今回のような痛ましい事件は繰り返されるばかりだ。

2008/2/8


 何やら歌手の倖田來未の失言が物議を醸しているようだ。新アルバムの販促キャンペーンの一環で、1日パーソナリティを務めた深夜ラジオ番組での失言らしい。

 確かに「35歳以上の妊婦の羊水は腐っている」という発言自体は思慮を欠くもので、少なからぬ人々を傷つけたのかもしれない。しかし彼女位の年代の女の子の認識は、程度の差こそあれこんなものじゃないのって感じがしなくもない。普段の生活環境からして正しい医学知識を得る機会は殆どないだろうし、まだ遊びたい盛りで結婚や出産について深く考えることもないのだろう。

 飛ぶ鳥落とす勢いの(個人的にはもうピークを過ぎたんじゃないかとは思っている)歌手倖田來未が、電波上(公の場)で言ってしまったのがマズかっただけの話だと思う。街中で同世代の女の子達が同様の話をしたとしても、それを耳にした大人は「何バカなことを言っているんだか…まったく」と一笑に付すだけではないか?(仮に自分が今35歳以上の妊婦だったり不妊治療中なら、内心グサッと来るかもしれない。しかし同時に「こんな小娘に何がわかる」と毅然としたいとも思う。無知蒙昧から来る失言に振り回されるのはやっぱり悔しいから。一方で次のような意見も⇒「羊水は腐らないけど…リスクは高まる(産経新聞ゆうゆうlife編集長)

 よくよく話を聞いてみれば今回の失言は、「最近結婚したマネージャーにできるだけ早くお子さんが授かりますように」という文脈の中で語られたもの。それがアフターケアの不味さもあって失言だけが一人歩きした形だ。まあ、政治家をはじめとする公人、有名人の失言問題は大抵それが語られた「文脈」から離れて、「失言」だけが取り沙汰されるものではあるけど。ただし、政治家と倖田來未とではその重みが違う。前者のケースでは「根本の思想」が垣間見えるのに対し、後者は単なる「認識不足」が露呈したに過ぎない。

 そもそも「エロかっこいい」を標榜する倖田來未に、誰が「知性」や「見識」を期待しているのだろう?私がもし今回の失言をリアルタイムに聴いていたとしたら、「またバカ言っているねえ」とやり過ごしたと思う。とは言え、倖田世代、特に彼女のファンには影響が大きいかもしれないから(その話を真に受ける可能性も否定できない)、ラジオ局はきちんとフォローすべきだったと思う。聞けば生放送ではなく録音放送だったらしいから、編集段階で失言部分もカットできただろうに。その意味では今回の騒動はラジオ局側の責任も大きい。

 今回の一件も例によってマスコミが騒ぎ過ぎ。これだけ騒がなければ深夜ラジオを聴かない私など、この件について知る由もなかった。どうやら一部ネット上で取り沙汰されたのがきっかけらしいが、例えば「脳内メーカー」のような楽しい話題ならともかく、こうした個人攻撃のようなネガティブキャンペーンもどきに煽られるのは馬鹿馬鹿しくないかい?結局「我が世の春」を謳歌する倖田來未(見方によっては舞い上がった状態?、浮き足だった状態?)に冷水を浴びせようという意図がミエミエだもの。ただ彼女は今回の一件で、自分の立ち位置を冷静に見つめ直すことができたのではないかな?災い転じて福となすか否かは、彼女の今後の生き方次第だろう。

 しかし、こんなバッシングのパターンが常態化したら、日本は「物言えぬ不自由な国」になってしまうかもしれない(誰だって失言のひとつやふたつあるよね。結局一部ネット人は自分で自分の首を絞めているようなものではないか?)。私は何よりそのことを恐れる。

2008/2/7

人の命の儚さよ…  日々のよしなしごと

昨日の夕方、何気なくマンション1階の掲示板を見たら、訃報の貼り紙が。なんと同じ階の奥様。急なことに驚いた。前日5日に亡くなられたらしい。しかし死因は不明。今年度、私は町内会の役員の当番で、度々その奥様とは玄関先で募金のお願いなどのやりとりがあった。昨年12月にも普段と変わりないご様子で、明るく応対しておられた。その奥様の訃報にただただ驚くばかりだ。まだ61歳の若さ。上品な雰囲気を湛え、いつ、どこでお会いしてもにこやかに接する素敵な奥様だった。ご主人にとってはさぞかし自慢の奥様であったことだろう。

夫がマンションの理事長を務める友人にメールで問い合わせてみると、その奥様は昨年の8月の時点で末期癌であったと言う。そんなこととはつゆ知らず、私は何度もその方と言葉を交わしていた。病気の影など微塵も感じさせない明るい笑顔とユーモアを交えた語り口だけが思い出される。奥様はご自分の余命をご存知だったのだろうか。今となってはご冥福を祈るしかないのだが、「もうお会いできない」という実感が、今はどうしても湧かない。

人の命のなんと儚いことよ。とても他人事とは思えない。いつまでも新しい朝を迎えられるなんて保障は誰にもないのだ。明日は我が身かもしれない。だからこそ、今更のように1日1日を大事に生きなければと思う。未だ心は混乱しているが、奥様の為に合掌。

2008/2/6

フランスとグルジアの意外な関係〜『やさしい嘘』  発掘名画館

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『やさしい嘘』―その背景を知る

 一般の日本人には馴染みの薄い旧ソ連の小国グルジアとフランスを舞台にした映画です。私自身がグルジアという国の名を耳にしたのは何年か前のオリンピックの開会式だったかな?英語では「ジョージア」って言うんですよね。皆さんはこの国についてどの程度ご存知ですか?ちなみにグルジアの国民は自国のことを「サカルトヴェロ」と呼ぶそうです。首都はトビリシ。

 一見してあまりにも馴染みの薄い国なので、ここで映画プログラム中の情報を基に、グルジアについてご紹介したいと思います。それを踏まえてこの映画を見ると、映画の中で描かれたことがより深く理解できるのではないかと思ったので。

グルジアの位置(周辺地図)

 グルジアは黒海に面し、トルコ、アルメニア、アゼルバイジャン、ロシアと国境を接する小国です。国土面積は日本の約5分の1。そこに430万人が暮らす。旧ソ連時代はワイン、お茶など豊かな農産物と長寿の国(私達には「コーカサス地方」という方が馴染み深い)として知られていた国。最近では、グルジア・ワイン、カスピ海ヨーグルト、大相撲の黒海関の活躍などが、一般の日本人には知られるところでしょうか。91年のソ連崩壊後は一転して民族紛争と内乱による流血の舞台と化し、解体された旧ソ連の共和国の中で最も政治的混乱の被害を受けた国らしい。

 一向に回復しない経済に見切りをつけて、働き手の多くは国外へ。その行き先のひとつが今回の映画のもうひとつの舞台となったフランスというわけです。旧ソ連のゴルバチョフ政権下で外務大臣を務めたシェワルナゼ大統領も2003年には失脚。その後弱冠36歳で選出されたミヘイル・サアカシュヴィリ大統領を中心に平均年齢30代の内閣が国内外で山積する難問に果敢に取り組んでいる最中だそうです。

 映画の中では国家制度の混乱の象徴として描かれている郵便事情。窓口で手紙をポイッと投げ渡す職員の横柄さにはびっくりしますが、日本以外の国では案外珍しいことではないかもしれませんね(中国の国営商店の店員の横柄さも有名な話ですし。今は多少改善?)。私がいた中東の国でも、手紙の紛失はしばしばあったし、小包はダウンタウンの中央郵便局まで受け取りに行かねばならず、しかも窓口では他の人がいる前で小包の中身をひとつひとつ「これは何だ」と確認されてプライヴァシーも何もあったもんじゃなかったです(泣)。

 日常会話やテレビ・新聞などでは一般的にグルジア語が使われている。ただし、ソ連の一部であった名残や国内の少数民族との関係から、共通語としてロシア語の役割も無視できないらしい。近年グルジアでは、英語や独語の学習熱が高いとのこと。フランスには第一次世界大戦後、グルジア亡命政府が樹立されたこともあり、仏語は旧貴族層や学者の間で需要があるらしい。現在フランスの外務大臣を務めるズラビシュヴィリ女史は亡命グルジア人の子孫という話からも、グルジアとフランスの浅からぬ縁を感じます。そう言えばロシア文学を読んでいると、ロシア貴族が教養語として仏語をたしなむ、というくだりがよく出てきたと記憶していますが、昔から東欧圏の人々にはフランスへの憧れがあったのでしょうか?

 宗教はギリシャ正教の流れを汲むグルジア正教が主流。4世紀以来の古いキリスト教遺跡は観光地としても名高く、古都ムツヘタは世界遺産にも指定されている。

 文化的にはアジアとヨーロッパが交差する地として、民族音楽や民族舞踊が盛ん。狭い国土ながら、踊りも歌も地域色が極めて強い点が特徴的。衣装、合唱方法、踊りの仕草が各地域で異なり、全体で独特なグルジア文化を築いているという。これは、古くから東南アジアとの交流が盛んで、「チャンプルー文化」とも称される沖縄の民俗芸能の豊穣さに通じるものがあると言えるのではないか?異なった文化が交差する地域は、歴史的に周辺の列強に翻弄されるという側面を持ちながらも、巧みにさまざまな文化を取り入れ、混合し、独自の文化を築きあげる逞しさとしなやかさを持っていると言えるのではないでしょうか?

 映画はグルジアを舞台としながらも、監督・脚本は仏人女性のジュリー・ベルトゥチェリ、主演の3人はベラルーシ、グルジア、ロシア(サンクト・ペテルブルク)生まれと出自は多彩。

 祖母役のエステール・ゴランタンはベラルーシ生まれの御年91歳(!)。両親が東欧のユダヤ系出身なのでイディッシュ語を話し、生まれ育ったのがベラルーシなので近隣ではロシア語が交わされ、生まれ故郷町が当時ポーランド領だったので学校教育は高校までポーランド語で受け、18歳からは歯科医師を目指してフランスのボルドーに移住したのでフランス語を学びと、4つの言語を操ります。そして今回はグルジア語にも挑戦。85歳で女優デビューして以来、出演作は本作で7本目を数え、その後新作2本が続く。凄い人です。自然体の演技がとても良い。この人を見ただけでなんだか得した気分になります。

 その娘役のニノ・ホスマリゼは生粋のグルジア人。だから映画の中でお湯の止まったシャワーや度重なる停電に悪態をつくのは迫真の演技というより、彼女のグルジア人としての本音なのかも。孫娘役のディナーラ・ドゥルカロヴァは14歳で映画デビュー。童顔なので若く見えますが、1976年生まれの28歳。90年に出演した映画がカンヌでカメラ・ドール賞を受賞したことにより一躍注目を浴び、現在はフランスに住んで幅広く活躍中らしい。

 前半は淡々と進むのが少し眠いくらいですが、グルジアを取り巻く悲惨な状況、そんな中での家族・親族・近隣住民の深い絆、人々を慰め励ます音楽と踊り、女性の逞しさと男性の所在なさと…最後には未来への晴れやかな展望と一抹の不安(でも冒険に不安は付き物だし)を見せてくれる。そして「やさしい嘘」はけっしてひとつだけじゃない。私はこの映画結構気に入りました。

※注 書かれている政治状況は映画公開時(2004年現在)のものです。グルジア共和国に関する最新の情報は以下のサイトをご覧ください。

グルジア共和国データ(外務省HPより)
映画『やさしい嘘』データ(allcinema onlineより)

2008/2/1

日本の食卓の60%は海外頼み(>_<)ヽ  日々のよしなしごと

 巷では中国産冷凍食品の安全性を巡る問題で大騒ぎだ。某テレビ局の緊急調査では68%の人が「もう中国産の食品を買いたくない」と答えているらしい。しかし日本の食卓の中国依存度を考えたら、現実問題として、それは無理な話のようである。野菜や鶏肉と言った食材の中国からの輸入量は増加の一途を辿っており、今回問題になった調理済み食品の70%、輸入野菜の59%は中国産なのだから。特にネギ、ゴボウ、サトイモに至っては輸入品の全てが中国産らしい。

主要先進国における食料自給率の推移(農林水産省公式HPより)

 リンクの折れ線グラフの推移を見ると、広大な国土を持つ米国、フランスの自給率の高さは羨ましい限りだ。両国は「高め安定」と言ったところ。70年代にはドイツ、日本、英国は殆ど自給率に差がなかったのに、その後日本は(途中小さな反発はあるものの)下降の一途を辿り、77年前後には英国に逆転され、2002年時点でドイツ91%、英国74%に対し、日本40%と大差をつけられてしまった。工業立国、技術立国を推進する中で第一次産業がなおざりにされた結果と言えるのかもしれないが、同時に経済成長の後押しを受けて日本社会では「効率優先主義」がまかり通り、効率の悪い農林水産業が切り捨てられたと言えるだろうか?経済成長が見込めず国体が斜陽化しつつある日本で、この自給率の低さは今後食糧事情に深刻な事態を招きかねない。

 最近は原油高、食用穀物品不足等が食料品の値上げラッシュを招いている。政府の無策で少子高齢化は一向に止まる気配はなく、財政改革も既得権益者らの抵抗によって進まない為、国民の税金、社会保障費負担は増える一方なのに収入は増えないから可処分所得は減る一方。そんな中での値上げラッシュは家計を直撃し、国民は家計防衛に走らざるを得ない。特に手っ取り早く節約効果の高い食費の抑制を多くの人は考えているはずだ。ところが、国産は品薄で価格も高いと来ている。このような現状で果たして食卓の「中国離れ」は可能なのか?

 やっぱり無理だよね(>_<)ヽ。私が利用しているパルシステム(生協)は今回の農薬混入食品こそ取り扱ってはいなかったものの、例えば冷凍の魚など、「ノルウェー産」を「中国の工場」で加工していたりする。商品製造コストに占める人件費のことを考えたら、中国の工場に頼らざるを得ない現状がある。「食の安全」を標榜する生協でさえそうなのだ。食品の安全性を問うならば、かねてから取りざたされていた農産物生産現場における多量の農薬散布やその取り扱い(散布後の容器をきちんと処分せずに畑に放置→土壌や地下水の汚染)の問題だけでなく、食品加工工場の衛生管理の問題も見逃せないはずだ。今回の「農薬?混入事件」も加工工場に中国当局の立ち入り調査が入っている。

 おそらく多くの国民は「食の安全」を気にしつつも、「家計防衛」の為「価格重視」にならざるを得ず、「中国産食品」を選択することになるのだろうか。それ以前に食卓の食材の履歴を辿れば、中国が何らかの形で絡んでいるのが現状だろう。現在は中毒事件で一時的に中国食品アレルギーを起こしているが、日本が食料自給率を高めない限り、日本の食卓が否応なく中国産に依存しなければならない状態が続く。消費者に対して適正な供給価格を実現しつつ食料自給率を高める為には、他国に比べて生産コストが高い現状をどうにかしなければならないだろうし、流通(高速道路料金等〜高速道路なんて1億円で僅か22メートルしか作れないそうだ。せいぜい路線バス2台分の長さ。このコスト高はそのまま通行料金に跳ね返ってくる。他の先進国のような無料化は夢のまた夢だろう。コスト高を招いているのは誰なのか?言うまでもなく権益に群がる輩である)の問題もある。

 結局のところ現在の日本が抱えている問題の多くは、これまで国民本位の政治がなされていなかったツケが、経済力の衰えによって露見したに過ぎないのだと思う(→今までは経済成長で何とか誤魔化して来られたのだろう)。政治を三流にしたのは(政治家を地縁・血縁・利害関係で選んでしまった)私達国民の責任でもあるが、国政を託された政治家の責任はそれ以上に重い。いつまでも権力闘争に明け暮れず、党派を超えて本当に国や国民のことを思う政治家が力を結集して、八方塞がりの現状を打破して貰いたい。他国なら暴動が起きてもおかしくないくらいの国になっていると思うんだよね。今の日本は。日本人はどうも「お上には逆らえない」と言う卑屈根性が徹底的に叩き込まれているみたいだ。寧ろ現代人は、かつて一揆を起こしたご先祖様より、無気力&卑屈になっているのかもしれない。



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