2007/11/29

今一度心に留めたい―「身の程を知る」「分を弁える」  はなこ的考察―良いこと探し

 今に始まったことではないかもしれないが、「金(かね)」と「欲」が絡んだ事件(の報道)がなんと多いことだろう。「金」を巡るトラブルの果ての事件、「欲」に眼が眩んだ挙げ句のエリートの転落。元々「金」は人間が生活を営む為の道具であったはずが、今や「金」を中心に人間社会が動く事態になっている。人間が「金」の奴隷と化している。「欲」は人間の諸々の活動の原動力だが、それも度を超せば人間を堕落させる。

 言うまでもなく、人間が現代文明社会において生活を営む上で「金」は不可欠のものだ。ある程度なくては困るし、逆にあり過ぎて困るという話も聞いたことはない。大富豪は別として、本来大多数の一般庶民にとっては、その”程度”が問題なのだろう。本来「自分の身の程に合った持ち分」〜日々の暮らしに事欠くことなく、自分のやりたいと思うことを”程々に”実現でき、かつ将来の不安を抱くこともない程度〜が確保できれば十分なはずだ。

 にも関わらず少なからぬ人々がその確保にさえ四苦八苦しているのはなぜか?たとえ資産ゼロからのスタートでも、例えば人生計画の中で最も大きな支出である「住宅取得」を諦め、定職に就き真面目に働いてさえいれば、健全な家計の下に家庭を営み、子供にも人並みの教育を施すことは可能なはずだ。現に夫の両親はそうして3人の子供を育て上げた(因みに夫の父は、幼い頃に下級官吏だった父親に帯同して満州に赴き、戦争末期に命からがら日本へ引き揚げて来た日本人のひとりだ。その後の人生は並大抵の苦労ではなかったらしい。それこそ貧しい生活の中で爪に火を灯す思いで、3人の内2人の子どもを県外の国立大学に進学させたようだ)

 「金」を巡るトラブルで事件に巻き込まれる人々の多くが「借金」にまみれている。病気等、何らかの事情で失職し収入が絶たれたのならともかく、定職に就いていながら、多額の「借金」抱えている人がいる。その原因は「ギャンブル」や「異性の歓心を得る」為の散財であったり、はたまた「投機」に手を出した挙げ句の借金が殆どだ。さらにそれらとセットで「酒やドラッグ」で身を持ち崩す人も少なくない。

 その人の人生にそれらは果たして本当に必要なものだったのか?それなしに生活できなかったのはなぜなのか?仮に「心の空虚さ」を埋める為の手だてとしての「酒・ドラッグ」であったなら、なぜそれ以外のことに手だてを求めなかったのか?求められなかったのか?異性の心を繋ぎ止めるのになぜ「金」だけを頼みにしたのか?手元にある「金」で十分生活を営めるはずなのに、なぜ確実性の乏しい手段でさらに「金」を増やそうと思ったのか?

 自らを破滅へと導く可能性を持ったそれらを、無節操に自らの生活の中に取込んだ人々に共通して見られる特徴は、「地道さ」を軽んじ、「面倒な道筋」を避けて、「安易な手段」を用いて結果を求める「怠惰な精神性(=心の弱さ)」と、心の充足を与えてくれる「良好な人間関係の欠如=孤独」、そして「”分を弁える”謙虚さの欠落」ではないだろうか?その為に本来「生活を営む上での道具」に過ぎないはずの「金」に必要以上に執着し、振り回され、結果的に自滅してしまう。こんな人生、情けなくないかい?

 自分の人生の主体はあくまでも「自分」であって、自分以外の何ものにも支配されるべきではないはずなのに。「金」と「欲」に絡め取られない為には「金」にあまり執着しないこと(そうすると「金持ち」にもなれないだろうけど(笑))、あまり「欲」張りにならないこと―そうせざるを得ない状況に我が身を置かないことに尽きると思う。その意味で、一見、封建時代の遺物のように思える「身の程を知る」「分を弁える」という考え方は、その実、「自らの人間としての誇りを守る」為に、先人が編み出した貴重な「人生訓」なのではないか。自戒を込めて、今一度このことを心に留めたいと思う。

 結局、心の在り方の問題なのかなあ…

【追記(2008.12.15)】

どうも「身の丈」と「身の程」を取り違えていたようで(^^;)、タイトルを「身の丈」から「身の程」に訂正しました。
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2007/11/22

文化講演会『フェルメールとオランダ風俗画』聴講記録(3)  文化・芸術(展覧会&講演会)

 オランダ風俗画が当時の社会的倫理観を反映したものとは言え、描かれている人物像に<メイド>が多いのはなぜか?

ヤン・ステーン《オウムに餌をやる女、バックギャモンをする二人の男と他の人物たち》
クリックすると元のサイズで表示します 
 例えばヤン・ステーンの描くメイドと思しき女性像には、胸の谷間も露わに男性を誘うような雰囲気を湛えたものもある。

 また、ヘーラルト・ダウの《タマネギを刻む女》で描かれている<タマネギ>は、当時「催淫剤」として認知されていた。

 しばしば風俗画に登場する<鳥かご>は「処女性」(大抵扉が開いた空っぽの状態→淫靡)、<鶏>は「つがい→男女関係」、<水差し>は前述の「浄化」の他に「女性の子宮」の意味も持つなど、数々のセクシュアルなイメージが画中に描き込まれている。

 特に<若いメイド像>は、家庭に「悪徳を持ち込む女」の表象として描かれ、彼女達は「社会不安のスケープ・ゴート的な役割」を押しつけられていたと推察される。

 酒宴での男女の乱れた様や、散らかった室内、愚かさの象徴である猫や鸚鵡に餌をやる(→無駄な行為)など、反道徳的な行為を描くことによって、見る側に自戒・自制を求める「教訓画」的意味合いを持っていたオランダの風俗画であるが、”厨房の女たち”に込められていたイメージは極めて作為的と言える(当時のオランダでは同様にヴァニタス画と呼ばれる静物画のジャンルも隆盛を極めていた⇒オランダ市民は、そうした絵画の寓意的表現の謎解きを知的遊戯として楽しんでいた)

◆【ヴァニタス画作例】(ヘーラルト・ダウ《シャボン玉を吹く少年と静物》国立西洋美術館所蔵)

5.17世紀リヴァイヴァル 

 17世紀に繁栄を欲しいままにしたオランダであったが、1799年には海運王国オランダの象徴でもあった「東インド会社」が解散し国力は急速に減退する。さらに1810年にはフランス・ナポレオンの支配下に置かれ、1814年にネーデルラント王国が成立するまで不遇の時を送ることになるのである。

 19世紀当時の芸術界では”17世紀The Golden Ageへの懐古”とも言うべき、17世紀オランダ風俗画を模倣した風俗画が数多く描かれた。The Golden Ageの終焉と共に忘れ去られたかに見えたフェルメールは、実はこうした模倣作品の中に、”構図”や”モチーフ(手紙を読む女性像など)”、”明暗表現”の借用という形で秘かに息づいていた。このことからも、ことオランダ美術界において彼は一度として忘れ去られたことはなく、ずっと高い評価を受けて来たと言えるだろう。

『フェルメールとオランダ風俗画』展公式サイト
展覧会情報(東京新聞)

◆絵画を読み解く面白さの指南書?としてオススメ:
 鈴木杜幾子『フランス近代絵画の「近代」 シャルダンからマネまで』(講談社選書メチエ,1995) 

【講演会の感想】
 小林頼子先生は、先頃亡くなられた若桑みどり先生と並んで、私にとっては憧れの研究者である。今回、講演会記録を書くに当たって先生の著書『フェルメールの世界 17世紀オランダ風俗画家の軌跡』を久しぶりに繙いたら、沢山の箇所に棒線が引かれていた。かつての自分がいかに熱心に読み込んだかが忍ばれた(笑)。講演会の内容そのものは、自分にとっては”復習”のようなものだが、間近にそのお姿を拝見しながらその肉声も拝聴するというのはファンとして格別の感慨がある。明瞭な発声と滑舌、論旨明快な解説はパフォーマンスとして優れていて、先生が研究者としてだけでなく、教育者としても優れた方であることが十分察せられるもので、曲がりなりにも人前に立って話をする機会のある自分にとっても大変参考になる講演会であった。大学時代から20数年、幾多の講演会を聴いて来たが、これだけの講演者はそうそう巡り会えるものではないと思う。今回の機会を与えられたことに多謝♪

★お断り:以上の講演会記録は、聴講時のメモを元に、筆者はなこが書き起こしたものです。それ故、筆者の判断で割愛した部分もありますし、聞き漏らした内容もあると思われます。  

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2007/11/19

見知らぬ母子に見る「幸せの種(2)」  日々のよしなしごと

この頃、外出先で見かける見知らぬ母子(ははこ)の姿に
感銘を受けることが多い。

特にお子さんが幼ければ幼いほど、
母親に向けるそのまっすぐな眼差し、
幼いながらも母親の手助けをしようとするその仕草に
母親への一途な思いが見て取れて、
胸に熱いものがこみ上げてくる。

あ〜、子供はこんなにもお母さんのことが大好きなのだなあ…

産まれる前から、へその緒で繋がっていた絆の強さは、
(申し訳ないけど)父親とは明らかに違う。
まだより広い世界を知らない分、
子供の眼には曇りもなく、母親への疑念も一切なく、
全幅の信頼を母親に寄せている。
それだけに、その愛は純度が高い。

子育ての只中にいる時には、
自分が我が子に精一杯の愛情を注ぐことに夢中で、
我が子から自分に注がれている愛情の純度と深さに
案外気付かないものなのかもしれないなあ
(気付いていたとしても、たぶん母親が感じている以上に
子供は母親のことを思っている。大好きなんですよ)

子供は産まれてからほんの数年の間に、
十分過ぎるほどの幸せを母親に与えているのだ。
それだけで、子供を産んだ甲斐があるというものだ
(ホント「生まれて来てくれてありがとう」という感じだ)

生意気盛りの我が子との衝突に腹を立てることも多くなった頃に、
見知らぬ母子の仲睦まじい姿が、
かつての我が子との蜜月時代を思い起こさせてくれる。
不思議な巡り合わせを感じると共に、
見知らぬ母子に感謝、我が子との”縁”に感謝せずにはいられない…

って思った翌日に、またケンカしたりするものだけど(笑)。

【追記】
親としての立場だけでなく、
自分もかつて「母親のことが大好きな子供だった」
遠い日の記憶が呼び覚まされるような…
そんな懐かしさもある。
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2007/11/17

文化講演会『フェルメールとオランダ風俗画』聴講記録(2)  文化・芸術(展覧会&講演会)

3.風俗画家フェルメール

 今や17世紀オランダを代表する傑出した風俗画家のフェルメールだが、(レンブラントを始めとする力量のある画家の多くがそうであったように) 、キャリアの出発点では歴史画(宗教画・神話画)を描いた。やはり一流の画家を目指すなら、まずはイタリア絵画を学ぶ、ということなのだろう。イタリア絵画と言ったら圧倒的に歴史画である。そして多くの画家は首都アムステルダムを目指した。

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2007/11/16

文化講演会『フェルメールとオランダ風俗画』聴講記録(1)  文化・芸術(展覧会&講演会)

クリックすると元のサイズで表示します フェルメール研究では日本における第一人者である小林頼子先生(目白大学社会学部教授)の講演を聴講した。以下はその講演内容の記録(筆記メモを元に、はなこが再構成。オレンジ部分は、はなこによる補筆)。現在国立新美術館で開催中の『フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展』の会期も残り1カ月となったが、今回の講演で学んだことを踏まえて再度鑑賞してみたいと思う。




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2007/11/15

少子化、貧困、負担増を問題視するなら、若者に仕事を  日々のよしなしごと

 行きつけのパン屋さんでは多くの若い男女が働いている。学生のアルバイトなのか?或いは、フリーターなのかもしれない。やる気のない態度でダラダラしている人は論外だが、キビキビ働いている人を見ると、この人の力が社会で十分生かされると良いのになと思う。

 昨日映画館で私のうちわを捨てずに取っておいてくれた若者も(館内の清掃担当者の判断もあったのだろう)、単にマニュアルに従うだけでない、想像力と判断力を持った人なのだろう。こうした若者達が、学生時代のアルバイトならともかく、卒業後就職を希望しながらそれが叶わず、時給1000円前後で、熟練を必要としない職場で働き続けることになったら気の毒だと思う。

 強烈な才能とパワーを持った一握りの天才はともかく、大多数の人々にとって、将来の展望を描くのに、安定した収入と社会保障のバックアップは欠かせない。その為には、まず何らかの仕事に就く必要がある。しかも正規雇用という形で、仕事を通じて何らかのスキルアップができる職場への就職。そうして初めて、人は自分の将来について安心してプランニングできるのだと思う。結婚も、その後に繋がる子育ても、安定した社会的立場の延長線上にあるものだろうから。

 果たして日本社会の現状はどうなのだろう?若者に活躍の場を与えているのか?真面目に働こうと願う若者の十分な受け皿になっているのか?そもそも少なからぬ若者を刹那的な行動へと向かわせているのも、日本社会全体に漂う無力感なのではないか?そのことについての議論なしに、晩婚化や少子化や貧困や負担増を問題視しても何の解決策も見出せないだろう。

 若者に明るい未来像が描ける環境を与えられない社会は、衰退する一方だと思う。特に政治の責任は大きい。このところの国会の動きを見ていると、国民生活との乖離ばかりが目立ってすごくもどかしい。どうにかならないものかなあ…
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2007/11/14

10年物と20年物  日々のよしなしごと

 私は暑がりなので季節を問わず小ぶりのうちわを持ち歩いている(折りたたみできる扇子の方が見た目エレガントなんだろうけど、扇子の風では物足りない私(^_^;))。外気温に合わせて服を着ると、移動で早歩きをして屋内に入った時、思いの外暑かったりするからだ。

 愛用のうちわは10年程前の夏に沖縄に行った時にANAの機内で貰ったものだが、これがイマドキのサービス品のうちわとは違って骨が強固で、かなりしっかりした作りになっている。さすがに貼り紙部分は色褪せているが、年季が入っている割には現役バリバリの状態なのである。

 それを不覚にも今日映画館の座席に忘れてしまった。20分後にそのことに気付いて、「映画館に戻って取って来ようか」「でも他人から見たら、くたびれたサービス品だからもう捨てられているかもしれないな」と一瞬迷ったが、やはり愛着があるので映画館に戻ってみた。

 ロビーでキビキビと働いていた若い男性スタッフに声をかけると、彼の肩越しに入場口のボックスに立てかけられているうちわが見えた。
「通常なら捨てるのですが、このうちわを見るとたぶん大事に使っているんだろうなと思って取っておいたんですよ」
とその青年が笑いながら、私に返してくれた。他人から見たら古びたサービス品のうちわを取り戻しに来たことに気恥ずかしさを覚えながらも、彼の気遣いが嬉しかった。もしかしたら、うちわの図柄が若き日の本上まなみの写真なので、彼女の熱狂的ファンのお宝グッズだと思われたのかもしれない(笑)。

 
 小学生の時、雑誌主催の作文コンクールに入賞した副賞に万年筆を貰った。小学生からしたら万年筆は随分と大人びた筆記用具で、使い始めはドキドキしたものだ。しかし安手のものだったからか、或いは私の使い方が悪かったからなのか、数年でペン先が潰れてしまった。

 その後大人になってから、自らの就職祝いに、初めての給料でドイツ・モンブラン社製の万年筆を買った。当時で1万円以上はしたと思う。大人になった記念に、きちんとした物をと思って選んだ品だ。ということで、これは20年物。独身時代は愛用していたが、結婚後は道具箱にしまったままになっていた。それが映画「クローズドノート」で万年筆が小道具として登場したことに懐かしさを覚えて、久々に取り出してみた。インクはとっくになくなっている。ペン先はまだ健在に見えるが果たして使えるかどうか。丸善の万年筆コーナーでカートリッジ(←この型が20年経っても不変と言うのも嬉しい。商品としての完成度の高さの証だろう。これがブランドの持つ力か。商品によってはモデルチェンジで旧型が使えなくなることが少なくないので、これは消費者にとって嬉しいこと。他にヨーロッパの陶磁器ブランドなどが定番商品を長年に渡って作り続けているのも、セット購入で一部が破損しても、いつでも新たに買い足せると言う利便性の面で素晴らしいと思う)を買って来て取り付けてみたら、最初はなかなかインクが出て来なかったものの、しばらくペン先を走らせるうちにインクがペン先からしみ出て来た。久しぶりの万年筆。運筆がぎこちない。でもワクワクする。小学生の時に初めて万年筆を手にした時の興奮が思い出された。

 それぞれに長い付き合いがあり、愛着がある。そんな品物のひとつやふたつ、誰にでもあるのでしょうね。

 そう言えば、愛用のブリジストン社製ママチャリも14年目。価格的には買った当時3万円前後の中級品。その後に2万円弱で購入した同じブリジストン社製の夫の自転車が使用3〜4年でハンドルが折れんばかりに錆びて使用不能になったのに、私のママチャリは(さすがに最近になってハンドル部分が錆び始めたものの)未だ現役である。理由は構造駆体がしっかりしているからだ。不思議なことにこの13年の間にちょこちょこ買い換えた部品〜ベルやタイヤや鍵など〜は持ちが悪くてすぐに壊れたり錆びたりしている。同じブリジストン社製でも、私のママチャリは日本の工場で作られた物だが、夫の安価な自転車や買い換えた部品(←店にそれしか置いていないのだ)はすべて中国の工場製品。今では自転車も4万円台後半以上の価格帯の商品でなければ、日本製にはお目にかかれないのだろう。

 ほんの10年前までは「安くて良い物」が当たり前のように手に入っていたはずなのに、今では「安かろう悪かろう」の日本になってしまった。モノ作りに誇りを持っていた日本が、他の国と同じになってしまった。日本が経済大国になり、高コスト国家になってしまったが故に、世界規模のコスト競争に勝ち抜くことに汲々として、モノ作りの原点がなおざりにされた結果なんだろう。
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2007/11/14

春風亭小朝師匠と泰葉さんの離婚  日々のよしなしごと

一報を聞いてビックリしました。
結婚後、裏方に徹していたはずの泰葉さんのメディアでの露出が
今年に入って急激に増えたのはどうしてだろう…
とは思っていましたが。

シンガーソングライターとしての才能を高く評価されていた泰葉さんが、
天才落語家と言われる小朝師匠との結婚を機に、
一線から身を引いた、その思い切りの良さにも当時は驚かされました。
お二人と同じ年に私自身結婚したので、なおのことお二人の結婚は印象深かった。
小朝師匠にはファンレターを送ったり、独演会に足を運んだりしたほどのファンなので、
自分とは直接関係のないこととは言え、やはり今回の離婚はショックです。

今朝、金屏風をバックに弟二人(林家正蔵師匠と林家いっ平氏)を従えての
夫妻の離婚会見の映像を見ました。
泰葉さんの妙にはしゃいだ姿と隣で戸惑いの表情を浮かべる小朝師匠の姿が印象的でした。
20年間育んで来たはずの夫婦関係が壊れたと言うのに、
そんなに明るく振る舞えるわけがないじゃない?泰葉さん、無理している?
何だか痛々しく見えました。

自分らしさを押し殺すことに疲れたのでしょうか?
「落語バカ」と言えるほど落語にのめり込んだ師匠との生活は、
たとえ一般の夫婦の何倍もの会話があったとしても、
それが必ずしも夫婦としての愛情を深めるものではなかったのでしょうか?
泰葉さんが夫としての師匠に求めていたものと、
師匠が考えていた夫婦の在り方(師匠は現状に満足していたと思われ…)のズレが、
泰葉さんを孤独感へと追い立てたのか?その孤独感が仕事へと彼女を向かわせたのか?

どんな業界であれ、「無私」で夫を支えることを求められる「おかみさん」業は大変なんでしょうね。
特に男女問わず「自己実現」が人生の大きな目標として価値を認められた現代において、
「無私」に徹することは、大変なことのような気がします。
夫妻の間に「落語」抜きで向き合える時間があったなら、また結果は違ったのかなあ…
「『カーテンの色は何色にする?』という会話ができなかった」という泰葉さんの言葉に
彼女のさまざまな思いが詰まっているように感じられました。

「常に全力投球」「全方位に死角なし」では、心が安まることはありません。
「緩み」や「遊び」や「隙」が必要だと思う。
人間関係において(それは夫婦関係に限らず)相手が「優しすぎる」のも「立派過ぎる」のも、
実は心の負担になるんですよね。相手に文句のひとつも言えない、と言うか…
結果的に自分自身を責めることになって「辛い」と思う。
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2007/11/12

(44)ボーン・アルティメイタム(最後通告)  映画(2007-08年公開)

クリックすると元のサイズで表示します 疾走感がたまりません!

 マット・デイモンは、彼の飛躍のきっかけとなった『グッドウィル・ハンティング』 (本作で米アカデミー賞脚本賞を受賞、主演男優賞でもノミネート)以来、注目している俳優だ。改めて調べてみたらスクリーン・デビューは17歳で、なんと若き日のジュリア・ロバーツ(まだ垢抜けないオネーチャンでした)が主演の『ミスティック・ピザ』らしい。全然気付かなかった!

 おそらく、記憶を亡くしたCIAの殺し屋「ジェイソン・ボーン」シリーズは、彼を一気にスターダムにのし上げた、彼の代表作のひとつになると思うが、掉尾を飾る本作でも彼は怒濤のアクションを披露してくれている。ドキュメンタリー畑出身のポール・グリーングラス監督も気合い十ニ分で(笑)、そのカメラワークは度肝を抜く斬新さ。

 通常アクション映画は1000カットと言われる中で、本作は4倍の4000カットを用いて、舞台もロシア→イタリア→フランス→イギリス→スペイン→モロッコ→アメリカと世界を駆け巡るなど、とにかく目まぐるしい。ロンドン、ウォータールー駅で披露する相変わらずの素早い情報処理&判断能力、モロッコでの目にも止まらぬ動きの格闘シーン、大都会ニューヨークでの無茶苦茶なカーチェイス。「普通の人間ならとっくに死んでいるぞ」という過酷な状況に何度も遭う中で、超人的なサバイバル能力を見せる。まさにボーン三部作の集大成と言った感じだ。と言うより、渡辺祥子さんも言われるように、スパイ映画の金字塔ですね。

 前2作をテレビ放映で一応”復習”したけど、『アルティメイタム』を見るに当たっての前準備にはなっても、作品としての迫力は今ひとつだった。本シリーズはやはり映画館で見なくては、その素晴らしさが堪能できないということなんだろう。映画ファンには、是非映画館で見て欲しい。東宝シネマズ辺りで、”三部作イッキ見”をやってくれないかなあ〜。今は無理でもいつか。かなり体力消耗しそうだけど(笑)。

 さらに本作は、既に誰かが指摘しているように「監視社会」の恐怖も描いている。例えば『世界を見る目が変わる50の事実』という本によれば、イギリスでは300万台近い有線テレビカメラが街を監視しているという。この設置台数は全世界の10%に当たり、ロンドン市民は1日に300回以上、この監視カメラで撮影されていることになる。本作の舞台のひとつとなったウォータールー駅には何と250台ものカメラが設置されているらしい。その尋常でない監視カメラの数から、ここが物語の舞台に選ばれた理由が分かるというもの。さらに本作ではエシュロンと呼ばれる世界規模の盗聴システムの使用の実態も描かれている。例えば電話で発した何気ない一言が瞬時に世界のどこかで解析されているのですよ。本作で描かれているのは、けっしてフィクションの世界の話ではなく、現実の世界で起きていることなのだと考えたら、ホント笑えない。

★後日、加筆の可能性あり。

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2007/11/9

(43)グッド・シェパード  映画(2007-08年公開)

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良き羊飼いの末路

 3時間近い長尺の作品だったが見応えがあったので時間の長さは気にならなかった。エドワード・ウィルソンという架空の人物を主人公に、映画の素材としては散々使い尽くされた感のあるCIA(大抵、悪者役)の草創期からキューバ危機に至るまでの経緯が緊迫感溢れる演出で描かれ、米国現代史の裏側を覗き見る面白さを感じたと同時に、組織に翻弄される人間の人生の苦さが胸を突いて印象的だった。

 米CIAは、第2次世界大戦時に諜報活動を行った米軍のOSS(Office of Strategic Services、戦略事務局)を前身として戦後発足された諜報機関だ。資料によれば、草創期の主たるメンバーはイェール大学に存在する秘密結社スカル&ボーンズ(Skull&Bones、頭蓋骨と骨、以下S&B)の会員から選抜されたエリート学生であったらしい。S&Bとは、米国の名家(と言ったら、やっぱり1620年にメイフラワー号に乗って米国に渡って来た初期の移民の子孫を指すのだろうか?)の出身者のみが入会を許され、将来は米国政財界のトップを目指すエリート集団のようである。ブッシュ大統領は祖父の代からこのS&Bのメンバーであり、大統領選でブッシュ大統領と戦った民主党のジョン・ケリー候補も同メンバーであったと言う(しかし「ブッシュ大統領もメンバー」となると、失礼ながら(..;)「能力」より「血筋」なのかなと思う。エリートをエリートたらしてめているのは、結局”身内”の助け合いなのでしょうか?)

 結局人間は自由な新世界を求めても、そこで新たな階層社会を築くものなのか。S&Bメンバーの祖先であるピューリタン(清教徒)も、英国国教会(教義的にはカトリックに近い)の縛りから逃れるべく米国に渡って来たはずが、新天地で自分達を頂点とする階級社会を作り上げたのである。こういうところに、人間の逃れられない業のようなものを感じるなあ。

 かつては詩を愛し、諳(ソラ)んじた情緒豊かな若者だったエドワードが、組織の中枢に身を置けば置くほど、人間としての心を失って行く。命令とあれば、新婚で身重の妻を置いて海外の戦地へ。生まれた我が子を数年もその手に抱くこともない。常に緊張を強いられる勤務状況下では、家族の孤独と不安を顧みる余裕すら持てない。

 主人公エドワードがCIAの過酷な任務に身を投じた原点には、父の不名誉な死があったのかもしれないが、その父の、我が子エドワードに託した真の思いに、彼はもっと早く気付くべきではなかったのか?彼のその時々の選択(軽率な行動とも言えるだろうか?それが愚かであるがゆえに人間的でもある)は、皮肉なまでに彼の人生の歯車を狂わせて行く。もう後戻りできないまでに、非情な組織のメンタリティに染まりきった彼は、自分が組織の人間である前に、夫として、父親として、そして人間として何をすることが最善なのかの判断さえつかなくなってしまう。

 (公式サイトでは「国民の」とあったが)「国家」の良き羊飼いたらんとして彼が人生で失ったものはあまりにも大きい。その人生は家族をも巻き込んだ自己犠牲の人生であり、私には到底理解し得ないものだが、キリスト教的価値観の文脈の下では肯定され得る生き方のひとつなのだろうか?

 ロバート・デ・ニーロ監督は当初、エドワード役にレオナルド・ディカプリオを想定していたようだが、レオのスケジュールの都合がつかず、マット・デイモンということになったらしい。レオならどんな風に演じたのだろう。個人的には知性派マットの抑制した演技は人物像にリアリティを感じさせ良かったと思う。彼のヨレヨレのコートの後ろ姿が、(”神”にも匹敵する権力を手中に収めたにも関わらず)悲愴な雰囲気を湛えた残像として、今も脳裏に焼き付いている。

 ◆『グッド・シェパード』公式サイト

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2007/11/6

日本はもっと「知的財産」を大事にした方が良いと思う  日々のよしなしごと

 先日、息子に付き合って、志望大学のオープンキャンパスに行って来た。講堂で入試説明会と銘打って、在学生の代表による学生生活全般の話や入試担当者による大学紹介があった。

 在学生の話の中で印象に残ったのは、「他の大学はどうか知りませんが、この大学では『しっかり勉強する』ことが学生の間では当然のこととして認識されています。」という発言。ほぼ9割近い生徒が大学院に進学すると言うから、勉強をしっかりするのは当然か。こんな大学なら親も学費を出す甲斐があるというものだ。しかし息子は…死に物狂いで勉強しないと、入学は到底無理だぞ。今日は「クラスで先日行われた学園祭の打ち上げだ」とか言って4時頃出て行った。

 受験するのも大学行くのも本人なので、親があれこれ心配しても仕方ないが…。親という立場を離れて見ると、私自身は親が教育に無関心で大学進学でも一切の(物心両面の)援助を得られなかった者として、恵まれた環境に安穏としている息子には正直苛立たされたりもする。世の中には恵まれない環境の中で必死に努力している人もいるのだから。

 入試担当者は、大学がいかに素晴らしいか、世界の理工系の分野でどれだけ画期的な成果を上げているのかを滔々と語った。例えば大学が開発した二酸化炭素排出量削減技術は世界有数のもので、その結果、日本の(総量ではなく単位当たりの)排出量は世界平均のなんと20分の1?(←200分の1?数値はうろ覚え。とにかくグラフを見る限り突出して少なかった)らしい。

 ところが、先日のニュースによれば日本の企業は「京都議定書」で定められた排出上限値を上回らないように、中国の企業から「排出権」をお金を出して買っていると言う。さらに無償で、上述の削減技術を中国企業に提供していると言うのだ。日本の国家が膨大な予算を投入し、研究者が苦心の末開発した、世界に誇るべき技術を。

 そのことを知ってか知らずか、入試担当者は誇らしげに大学の研究成果を喧伝していた。目先の利益の為に、研究者の血の滲むような努力の成果をライバル国にタダで手渡す日本企業は情けないと思った。こんなことをしていたら、技術立国日本の牙城はいとも簡単に崩されてしまうよ。広い国土も資源もない日本は「知的財産」を大事にしなければ他国には対抗できないよ。

 世界全体の温暖化問題を考えたら、日本の技術が世界に広まるのは意味があることだとは思うけど、その提供の仕方に納得が行かないのです。
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2007/11/6

労働組合…  気になったニュース

 米国で、映画やテレビ番組の脚本を手掛ける脚本家らの労働組合が、ストに突入したらしい。ネット配信やDVD販売による収益の、脚本家への配分が少な過ぎることが原因のようだ。どんな対立関係であれ、どちらが正しくどちらが誤りかという以前に、微妙なパワーバランスのもとに紛争は回避されているのだろう。そのバランス(必ずしもイーブンとは限らない)がどちらかによって破られた時、「対峙」は「対決」へと転換するように見える。19年前のストは5カ月も続き、業界に総額5億ドルの損失をもたらしたとされるが、労使のパワーバランスの目に余る不均衡は、結局労使双方の首を自ら絞めることになるわけだね。
 
米脚本家組合がスト突入、TV番組に早くも影響(ヨミウリオンライン)

 労使の利益分配を巡る対立は永遠に続くものなんだろうなあ。利益の大半を手にする者とほんの一部しか手にできない者。搾取する側と搾取される側。この関係は不変だ。

 最近、弟を通じてICLS(International Center for Labor Solidarity、国際労働者交流センター)と言う、アジア圏の労働組合の国際交流団体の存在を知った。労働組合は何らかの政党と繋がりがあるものだけど、その点については詳しくは知らない(知りたくもない)。

 弟は職域の代表として、タイのバンコクで開催された年次総会に出席したそうだ。総会では現地の労組による日系企業の傍若無人な行為も明らかにされたらしい。常軌を逸した長時間労働、駐在員による現地従業員へのセクハラ行為等、劣悪な就業環境の改善を訴えるべく現地労働者は労働組合を結成し、現地子会社では埒が明かないので日本の親会社へ代表を派遣したところ、全員有無を言わさず解雇されたそうだ。こんなことは日本のマスコミでは報道されない。

 熾烈なコスト競争に打ち勝つべく、数多くの日本の企業が生産拠点を海外に移転しているが、日本から遠く離れているのを良いことに、現地の従業員に対しては、かつての「女工哀史」さながらの人権を無視した仕打ちを平気でしている。海外の安い人件費によってコストパフォーマンスが飛躍的に向上し、そのおかげで企業の好業績はもちろん、日本の親会社で働く日本人従業員の世界的に高い賃金体系が支えられているのかと思うと、日本人として罪悪感、後ろめたい気持ちは否定できない。

 同時に労働組合だって誰の目にも清廉潔白で、諸手を挙げて正しいとは言い切れないだろう。どんな組織も時間が経てば初期の高い志は廃れ、腐敗する恐れを孕んでいる。労働組合も当初は組合員の地位向上を目指したはずが、いつの間にか権力闘争の具になったり、組織の体面が何よりも優先されるように変質することがあるのではないか?弟がどの程度労働組合に関わっているのかは不明だけど、そのまっすぐな志が折れることなく、仲間の為に正しいことが選択できる人で在り続けることを願っている。 
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2007/11/4

(42)ONCE ダブリンの街角で(アイルランド、2006)  映画(2007-08年公開)

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感じたのは音楽の引力とアイルランドという国の底力

 ダブリン一の繁華街グラフトン・ストリート。休日ともなればそこは多くの人で賑わう。その街角で、穴のあいた古びたギターを手に自作の歌を歌う、とあるストリート・ミュージシャンがいた。その彼がある日、ひとりの女性に出会う。彼女は花売り娘。東欧チェコからの移民である。その2人を結びつけたのは「音楽」。そう、この映画は「音楽」の存在なしに成立し得ない作品なのだ。全編を貫く楽曲の数々が素晴らしい。音楽を軸に展開する多彩な人々の関わりも痛快で、「音楽」の持つ計り知れない力を存分に見せつけてくれる。

 主演のストリート・ミュージシャンを演じるのは、アイルランドの人気バンドザ・フレイムスの創設者であり、ボーカルのグレン・ハンサード。とにかく彼の声が魅力的。その魅惑のハスキーボイスで、時に力強く、時に哀切を込めて歌いあげる。そして、花売りや清掃の仕事をかけもちしながらつましく暮す(実はピアノの名手である)移民女性を演じるのは、チェコで活躍するシンガーソングライター、マルケタ・イルグロバ。グレンとマルケタの2人は旧知の仲で、かつて「ザ・フレイムス」のベイシストを務めた本作の監督ジョン・カーニーの音楽映画作りに、グレンがマルケタを誘う形で実現したキャスティングらしい。本作はまさに音楽の魅力を知り尽くしたキャスト・スタッフによって作られた映画なのだ。これで面白くならないわけがない!

 アイルランドと言えば、今やU2、エンヤ、ケルティック・ウーマンを輩出し、堂々と世界の音楽シーンの一角を占める音楽文化大国である。本作ではその原点がさりげなく描かれていて興味深い。主人公行きつけの居酒屋で、酒宴もたけなわとなった頃(テーブルのボトルに注目!)、老若男女がごく自然に歌い出す。高らかに、大らかに。そして最後には大合唱。うん?こんなシーン、どこかで見たことがあるような?そうだ!NHK朝ドラ『ちゅらさん』や映画『ナビィの恋』(←劇中、アイルランド人楽士が登場し、島民と共に音楽を演奏している!)で描かれていた、ウチナ〜ンチュの酒席の様子にそっくりである!「ケルト音楽」と「島唄」は、その精神性に共通のものを見出せるのではないか?おそらく国を問わず、洋の東西を問わず庶民は集い、酒席を囲んでは歌い踊って、日々の暮らしの憂さを晴らし、互いを励まし、支え合って来たのだろう。「音楽」は常に彼らと共にあったのである。

 特に大国(=覇権国家)に隣接する小国や地域は、常に侵略支配の脅威に晒されているが故に、”自国のアイデンティティ”を様々な形で守り通して来た歴史的背景を共通して持っている。その産物としての”豊かで多様な文化”と言えるのだろうか。

 そう言えばグルジア人の絆を描いた映画『やさしい嘘』をきっかけに知ったグルジアという国の様相も興味深い。グルジアは、文化的にはアジアとヨーロッパが交差する地として民族音楽や民族舞踊が盛んらしい。狭い国土ながら、踊りも歌も地域色が極めて強い点が特徴的で、衣装、合唱方法、踊りの仕草が各地域で異なり、全体で独特なグルジア文化を築いているという。

 常に侵略の脅威に晒されると言うことは即ち「人が動く」と言うことであり、「人が動く」ことによって「文化が交差」する。異なった文化が交差する地域は、巧みにさまざまな文化を取り入れ、混合し、独自の文化を築きあげる逞しさとしなやかさを持っていると言えるのではないだろうか?アイルランドは、そうした特徴を強く持った国と言えるだろう。

 忘れてはならないのは、本作が「移民」の問題も描いていることである。かつては移民を「送り出す側」だったアイルランドが、今や東欧諸国からの移民を「受け入れる側」になっている(米国では最も後発のヨーロッパからの移民と言うことで、かつてアイルランド系移民は白人社会の中でも最下層に位置づけられていた。レオ主演の『ディパーテッド』はアイルランド系とイタリア系の対立を描いているが、その背景には移民間の微妙な格差意識が影響していたのだろうか?←あくまでも個人的な憶測)。EU経済圏の拡大は、人の往来を活発化させた。貧しい地域から豊かな地域への、人の移動は止まらない。そこで起きる文化的摩擦、社会の階層化、そして犯罪(つい最近イタリアでは、ルーマニア移民がイタリア人女性を殺害したとして、ルーマニア人排斥の動きさえ出ている)。本作では、そうしたヨーロッパにおける移民の現状も垣間見られるのだ。

 上映館が今のところ渋谷のシネ・アミューズと川崎のチネチッタのみ、というのがもったいない。特にミュージシャンを目指す人が見たら、きっと励まされることだろう。埋もれた才能が発掘される瞬間に立ち会えるのだから。

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以下はネタバレにつき反転表示で… 
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