講演会「児童文学者 瀬田貞二のまなざし」に行ってきました。申し込んでおいて当日まで忘れていたんですが、思い出してよかった!午後でよかった!
講演者:斎藤惇夫/福音館書店で長く編集に携わる/『冒険者たち ガンバと15ひきの仲間』の著者
自著にまつわる思い出、そこに深く関係していた瀬田さんのエピソードを交えつつ。おふたりの人柄が伝わってくるとともに、とても面白いお話でした。
※以下はメモを元に書き起こしです。曖昧な点もあると思うので他所へ転用等はご遠慮ください。
■平凡社で『児童百科事典』の編纂
瀬田さんが編纂した平凡社『児童百科事典』1920年代出版。「ダントツに優れている」。戦後、アメリカの干渉による教科書が程度の低いものになると危惧した瀬田さんは、学校教育に頼っていてはいけないという思いで(教師を辞め)、平凡社に企画を持ち込んだ。
瀬田さんは「河童は生きています」と書いてしまっている。編集部の一人が「事典に載せるのにこれはまずい」と指摘したが、瀬田さんはこれでいいと貫いた。
■日本で初めて「ファンタジー」という言葉を使った
「ファンタジー」という言葉が日本にない時代、(おとぎ話とか空想物語と言われた)瀬田さんが初めてファンタジーという言葉を使った。「リアリズムでは捉えきれない人間の深層」を表すものとして。
・ハーバード・リードの言葉「空間と時間からの自由な恣意性、目に見えるように捉える合理性」
・トールキンの言葉「世界は神が作りたもうたものではあるけれど、人間にはサブクリエイトする権利が与えられている。(ファンタジーをつくるのは)人間の本能から来ている。空間と時間の深みを探りたい。動物と会話したい、という欲望」
■瀬田さんとの出会い『子どもと文学』
瀬田さんとの出会いは、20歳のころ読んだ新書『子どもと文学』でした。
[1967年刊行] (著者:石井 桃子, いぬい とみこ, 鈴木 晋一, 瀬田 貞二, 松居 直 , 渡辺 茂男 )
これまでの小川未明、坪田譲治などが「湿り気が多く、情緒的」と否定され、新美南吉、宮沢賢治が評価された本。私たちの世代にとって衝撃だった。少年のころ宮沢賢治を愛読していたので、書いてあることに納得した。宮沢賢治の作品を、学年別のおすすめで紹介している(1〜2年は『オッペルとぞう』など)。
■「ナルニア国物語」の版権を福音館書店が取り損ねた話
ナルニアの版権を取りたくてエージェントに連絡を取ったところ、既に別のところに決まったという。守秘義務があるというのを無理やり聞きだして、岩波であることを知る。岩波のいぬいとみこさんに電話して悔しがると、普段とても上品な人なのに「ざまあみやがれ」と言われた。訳者を誰にするかたずねると、「瀬田さんに決まってるじゃない。ばかね」と言われた。
■1970年 初の自著「グリックのぼうけん」の出版裏話
つがいのシマリスを飼っていたが、オスのほうが逃げてしまった。随分慣れて「親しかった」ので、「彼が」逃げてしまってショックが大きかった。そのころ、東京を出たい気持ちが強かったが、そうすぐに出られるものでもなく、感情が高まり勢いで殴り書きし始めた。(物語が自分の中からこみ上げてきて感情にまかせて書いた)。
生意気にも、瀬田さんに最初に読んでもらった。(北杜夫が、自分が最初に書いたものは自分のいちばん敬愛する人に読んでもらうべきと書いていたので。北杜夫が読んで貰いたかったのはトーマス・マン。つまり一番敬愛する人に向って書くと、それだけ誠実なものになる)
瀬田さんのお宅に夕方うかがうと、奥さんがいらして瀬田さんは不在だというのでほっとした。原稿を渡してくると、翌朝8時半の会社が始まってすぐに瀬田さんがいらして、にこにこして「面白かったよ。本にするべきです」と言ってくれた(少し添削もしてくれていた)。24、5歳のころ。そう言われてどれだけ嬉しかったか。誰もいなかったら飛び上がって踊り出しただろう。
岩波のいぬいさんも瀬田さんから話を聞き、「岩波で出したいけれどナルニアが忙しくて他の本に関わっていられない」と詫びを入れられた。当時、福音館書店の社長・松居直さんにも乞われて原稿を渡したが、1年後、「一行も読んでいない」と言われた。当時福音館は給料が安くて私は労働組合長もやっていた。他社から出したいと電話があったとき即決。絵は、薮内正幸。
出来上がった本を瀬田先生に持っていくと喜んでくださり、すぐに絵を見て「これは図鑑の絵、これはふつう、これはファンタジーの絵。動物たちの表情がいきいきと語っているでしょう」などと評された。3分の1くらい図鑑の絵で、ふつうと、ファンタジーの絵があるということだった。
ファンタジーの絵とは、「ファンタジーの絵は、物語を語るものでなければならない」とおっしゃった。
■瀬田さんが亡くなる直前のこと
「指輪物語」を訳しているとき、瀬田さんは信州の猟師小屋を少し改築したところで執筆されていた。疲れると周囲を散歩していた。そのとき出会った炭焼きのおじさんが「人間に身をやつした天狗に見える」「最後の天狗の話を書いてみたい」とおっしゃっていた。
ご病気が悪くなりお見舞いに行ったとき、「天狗の話」をせがんだが、「これだけ自然が荒らされた日本では天狗は無理。この話は斎藤さんにゆずる」と言われた。とんでもないと断った、その2日後に亡くなられた。
■私の感想
『児童百科事典』を編纂したという話は初めて知りました。展示してあったので、実際に読んでみるとなるほど面白い。細かい字だけれど子供にわかるよう平易な文章で、でも誤魔化しなしで誠実に書かれていることがわかります。「アイスクリーム」の項も面白かったけれど、「アカンボウ」が良かった。ものすごくまっとうに、まず 、赤んぼうを自分と同じように尊重するように、と書いてあるのに感動しました。
<[抜粋:平凡社『児童百科事典』アカンボウ より>
君たちの弟や妹である赤ん坊は、いまでこそ小さいが、君たちとおなじに、お父さんお母さんの子どもである。すこしあとからうまれたというだけで、君たちにおとっているところはちっともない。赤んぼうをお人形のように、おもちゃにしてもいけないしやっかいもののように、ばかにしてもいけない。(中略) ときどき、君たちがあそんでやると、赤んぼうのこころが育つのをたすける。
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この後、噛んでふくめるように赤ちゃんとの接し方、遊び方、事故や病気の予防、早産で生まれた子どものことまで書いています。
(林達夫などの)若い学者たちに原稿を書かせたそうで、「当時の日本の優れた人たちが、戦後の子どもたちに何を伝え、何を否定しようとしていたのかよくわかる。さいたま中央図書館で閲覧できるので是非読んで下さい」とのことでした。
中央図書館は浦和駅東口を出てすぐのパルコの8階です。読むコーナーが、大人も子供のところも広くてきれいでした。
そのほか、ユリ・シュルヴィッツの「よあけ」や、斎藤さんの他の3冊の著書についても長々書き起こしましたが、長すぎるのでここまでにしておきます。