録画していた「かぐや姫の物語」をやっと観ました。絵本などのお伽噺だと、自分が吹っ掛けた無理難題で死者が出ても苦しんだりする場面はないわけで、これはかぐや姫を生身の人間として描きつつ、男性社会での女性の生き辛さや男の身勝手さをあぶり出した意欲的な作品だと思います。これをおじいさんと言っていい年齢の男性が制作したということも興味深かったです。
ただちょっと長かった。もうちょっとテンポよくやってくれてもいいですよと言いたくなってしまったのですが、場面場面での思い入れはよく伝わってきました。TVCMを挟みながら観ているものがそんなに文句言う資格はないですね。息子は途中で飽きてしまいました。そもそも子供向けには作っていないことは見ていれば分かりますけれど。
親子の物語である側面
印象的だったのは、姫が初めて歩いた赤ちゃんのころ、「ひーめ!おいで!」と泣くほど感激しながら姫を呼ぶおじいさん。こんなふうに、ただ生きて、歩いて、自分に笑顔を見せてくれる事だけが幸せだった時期がある。たとえ親であろうとも、子どもにとっての幸せを勝手に決められるものではないし、そうしてはいけない、と言われているような気がしました。
そして、姫がなんのためにここに来たのか最後に自問自答する場面にもつながりました。虫や獣のように、「ただ生きるため」という言葉は、誰でも、誰にとがめだてされる事なく、人はただ好きなように生きていいはず、ということを感じさせました。
憎み切れないおじいさん
このおじいさんは、おばあさんの「こんな風に美しくなるからちゃんと育てなさいと言われてるんですよ」という言葉にすぐに「うんそうだな!」と同意する素直で単純な人柄です。女性にとっての幸せが「良い嫁ぎ先」という選択肢しかないと信じられていた1000年前、この人なりに「良縁」が姫の幸せだと固く信じていても仕方ありません。
そして、おじいさんにとってのダメ押しは、竹から金や高価な着物が出てくる「キセキ体験」を直に何度も経験してしまっていること。何かの御心に従って姫の行く末を取り計らわなくてはならないという考えは、「家族を養って、幸せにしなくてはならない」という「何か」からのプレッシャーと戦う男性像そのものでもあるような気がしてくるのです。
いっそ「私は月の住人」と思いたかったのか
それにしても、女にとっての幸せは1000年前には「良縁」しかなかったわけです。今でこそ無理やり見合い結婚させられるなんてことはありませんが、概念としてはまだまだ根強い部分が日本にはあり、ちょっと暗い気持にもなります。
この映画の解釈を見て、「竹取物語」は、女性であることのがんじがらめの閉塞感に世を儚んで「いっそ月へでも逃げたい」と思った人の作ではないかしら、という考えが自然に浮かんできました。
おまけ。息子のつぶやき。
都で畑のある庭をかぐや姫が喜ぶ場面で「おばあさんしかやさしい人いないんだね」
かぐや姫と飛び回った挙句、一緒に逃げる気満々だった捨丸が子供を抱き上げる場面を見て
「奥さんいるんじゃねえか!」