長〜い春眠をむさぼっておりました。
さて。一時は放射能、放射能と騒いでいた香港も、ここ最近は地震や原発のニュースはかなり減ってきました。その代わりに、ウィリアム王子の結婚式や中東の紛争やアメリカの竜巻のニュースなどなど、本当に世界は慌しい。
ところで、以前政府が急に6000香港ドルを香港永久居民のみんなに配りますよ案を発表し、永久居民の申請資格をクリアしているにも関わらず、面倒くさくて放置していたワタシも、さすがに重い重い腰を上げて、マッハで申請をしてまいりました。
申請から1ヶ月ほど経ち、イミグレーションからお手紙が来まして、指定された日時にパスポートを持って行ったところ、すでに申請は通ったということで、めでたく永久居民になりますた。
今回のオフィサーはものすごく優しい感じのおじさんで、まるでアメリカのグリーンカード当選オメデトウ、くらいの喜びムード。まるで「歓迎光臨」と言いながら、レイを贈られそうな感じだったので、照れながら小声で「多謝晒」と感謝の意を表明してみた。
振り返る、この9年間。
2002年に香港にやって来て、気がつけば、もう2011年なんだねぇ。うんうん。長いようで、あっという間やったねぇ。
香港では北京語が話されているというガセネタのもと、しかも香港の位置がイマイチよくつかめていないままやってきて、連れて行かれたのが、西環の魚くさい街のはずれのホテル。香港では英語が普通に通じるとか言ってたくせに、誰も英語を話さない。広東語は一言も話せないし、本当にきつい1年やった(遠い目・・・)。アキコ26歳くらい。
それに追い討ちをかけるようにSARSの到来。まるで今の日本のように外国人がみーんな香港から逃げて行った。ホテルも無給休暇を強制的に取らされ、ヨーロッパに旅行したり、日本に一時帰国したり、毎日同僚とBBQやカラオケして遊んだり。非日常な半年だったわ。
そして、ホテルを転々としながら、このブログをはじめたわけですね〜。あのころの香港のブロガーの勢いはんぱなっかたです。ランキングの上位10位すべて香港ブログなんて当たり前。その流れに乗るように、香港イラスト日誌(現・東京イラスト日誌)のなおきんさんと香港ブロガー会なるものを立ち上げ、活発に活動して、いろんな人と出会えて、とにかく楽しい毎日でした。今のワタシの大切なお友達は、このころにブログを通じて知り合った人たちばかりです。ほんと、感謝。感謝。
あのころから、インターネットの環境は変わって、ツイッターとかFacebookとか、mixiとか、いろんなコミュニケーションツールが増えて、ブログを閉じてしまう人も増えましたね。日本に帰国した人たちも多いし。
ところで、IDのステータスが変わったから、IDカードも再発行してもらうため、連休初日に早速、湾仔のイミグレーションタワーに行ってまいりました。せっかく、髪の毛も30分かけてきれいにきれいにセットしたのに、外に出たら土砂降りの雨・・・。ノーーー。
結局、右の髪の毛がはねた状態の写真になりますた。
IDの申請に行った後、ランチを食べようと大家楽に行った。キャビンクルーのお化けみたいな黄色い制服を着た大家楽のレジのお姉さんに、ちゃんと広東語でオーダーした。なんてったて、永久居民だからね★
そしたら、通じなかった。
そして、北京語でしゃべられた。北京語はわからないので、広東語か英語でしゃべってください。って、英語で言った。
そしたら、「はっ?!」と言われた。
殺意を覚えた。
なんとか、オーダーを終えて、食べ物取って、席でご飯を食べながら、軽く落ち込んだ。なぜ、なぜ、9年間も香港にいて、大家楽でオーダーも満足にできない?ダメじゃん、ワタシ。
家に帰って、相方にワタシの発音がおかしかったか、もう一度メニューの名前を言ってみたけど、相方はちゃんとわかるといってくれた。改めて、殺意を覚えた。
その後、ボンジョールに化粧水を買いにいった。レジでお会計をしていると割り込みしてきたババァに体当たりされて、横に飛ばされた。
見たら、店員だった。店員が、自分の客のために会計をしようとレジにやって来たらしかった。ほかのお客さんだったら、マナーのない人なんだな、とあきらめもつくけど、お金を払っている客を押しのけて、自分の客の会計を割り込むって、どうよ。
害虫を見るような目で、思いっきりにらんでみた。そうしたら、笑顔で返された。つ、つよい。完敗。
そして、また落ち込んだ。ダメだ・・・ワタシはまだこの街と人には慣れない・・・。永久居民の申請のときに、香港を永久の居住地とします宣言の書類にサインをしたけれど、ここを永久の居住地にするには、ワタシはまだまだ未熟すぎる。
はあ、いつになったら、この街と一体化できるのやら。(ま、望んでないけどね)

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