「家族の庭」  

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どこまでも「優しい」映画。

きっとこの映画を観る人は、トムとジェリー夫妻の立場で観るか、女性であればメアリーの立場か、男性であればケンの立場で観るかに分かれるのかもしれない。

地質学者のトム、そしてカウンセラーをしているジェリーは長年連れ添った夫婦。

普段は互いに仕事をこなし、休日には市民農園で野菜を育てる穏やかで幸せな暮らしをしている。

そんなトムとジェリー夫妻の元には、夫婦の人柄もあって友人達がいつも訪れて、自分の身の上話をする。

そんな友人達の悲喜交々の人生に夫妻は、いつも黙って耳を貸し、そして寄り添い、肩を抱き、時に抱き締める。

ジェリーの同僚で病院で秘書をしているメアリーは20代で結婚に失敗して、30代で男に逃げられてからというもの、とことん男にツイていない。意中の男性にはいつも彼女がいて、その度に酒に溺れる。そんな彼女は恋愛で行き詰まった時にはいつも夫妻の家を訪れる。夫妻が彼女の思いを受け止め、話を聞いてくれるからだ。

長年の友人ケンは親友夫婦を亡くし、馴染みのパブに顔を出せば若者達が騒がしく行けなくなったと、我が身の孤独さと老いに嘆く。やはり夫妻は突然泣き始めるケンを優しく抱擁する。

トムの兄ロニーは妻のリンダを亡くし、夫妻と息子のジョーが葬儀に駆け付ける。ロニーの息子のカールは2年間も音沙汰なしで、母の死を聞いて葬儀に遅れて駆け付けるも間に合わず「何故俺が来るのを待てなかった」と父を激しく罵る。そんな息子の言動に狼狽える兄ロニーをトムは抱き締め「うちに来てくれ」と自宅へ連れ帰るのだった。

どれも、私達の身近で起こりうる、そして自分の身にも十分起こりうる人生の物語。

幸せそうなトムとジェリーの姿を、自分の情けない哀れな人生と比べて落胆するメアリーだが、この映画が伝えたいメッセージは、そのどちらの人生も本当は輝きに満ちていて意味のあるものだということ。

メアリーはポツリとこう言う「人と話せるのっていいわね」

そう!その自分が話したい、聞いて欲しいと思える相手がこの世に存在しているという事実も、自分の人生が大きな意味を持っているという証拠だし、自分の個性や感性の賜物なのだ。

人の記憶の中に、自分という存在があるという事実さえも、もうそれだけで大きな意味を持っている。情けなくても、哀れであっても、いつだって人生は有機的に動いているんだから。

今自分の思いを話せる相手がいなくても、いずれそういう人は貴方の元に、貴方の話を聞く役割を持ってそっと現れるはず。そんな時に、心を開いて委ねられる様に、今を精一杯生きるべきだ。

この映画を観ていて「男はつらいよ」を思い出したりもした。いつも辛い時は「男はつらいよ」を観るとホッとしたものだった。

寅さんを始め、おいちゃんや、おばちゃんや、さくらは見ず知らずの人でも、いつも笑顔で「とらや」に招き入れて笑顔で相手を労り、その相手の心を慮ろうとする。夜になるとごちそうを振る舞って、2階の寅さんの部屋に泊めたりもする。相手が複雑な心情を心の奥に仕舞い込んでいて作り笑顔でその場に座っていても、その気持ちを推し量って、核心には触れずとも相手の心にそっと優しく寄り添おうとする。

そんな「とらや」の人達を見ていると「僕もスクリーンの中に飛び込んで、このくるまやの団欒に加わりたい」そう思えたものだった。そして「くるまや」の人達に話を聞いてもらったり、一緒に些細なことで笑い合えたら、もうそれできっと十分なのだろうと思えた。

形は少し違うが、そんな手触りがこの「家族の庭」にはあった。

僕もいつかそんな「庭」を提供して、人を包容力一杯に包み込める人になれたらと思う。



2010年・イギリス
マイク・リー監督
原題:Another Year
13

 

「人生、ここにあり!」  

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きっと僕の心に一生残る映画かもしれない。

優しさと、温かさに溢れ、笑いもあり、そしてほろ苦く
時に強烈に胸を締め付ける。

そんな映画です。

ネッロは正義感の強い労働組合員。
熱血漢のあまり取った型破りな行動から、異動を命じられてしまう。

そこは何と精神病院。
新しく制定されたパザリア法により、精神病院は閉鎖を余儀なくされ
行き場のない元患者達は病院付属の「共同組合180」に属して
"切手張り"などの単純作業にあたり、無気力な生活を送っていた。

ネッロはそれぞれの症状、病状を持つ元患者達を一つの素晴らしい個性
だと捉え、彼らの言動を何一つ否定せず、認め受け入れて行く。

自閉症で口の聞けないロビーはその威厳のある風貌から理事長に。

虚言癖のあるファビオには営業と会計を。

嫉妬深い彼が日に20回も電話をしてくるという妄想を持つミリアム
は電話番に。

組合員会議の結果「床張り」の仕事をすることに決まる。

しかし精神障害者に自分の家や店舗の床を張らせてくれるところなど
見つからず、練習代わりの現場での作業の報酬を彼らに自費で支払いながら
仕事をさせてくれる現場を必死で探すのだった。

ある日ようやくありついた仕事の現場で寄木が足りなくなったが
廃材を星形に張り合わせて納期に間に合わせた。
これにネッロは愕然とするのだが、施行主のアートディレクターは
「コンセプチュアル・アート!」だと大絶賛する。

それ以来「共同組合180」には仕事がひっきりなしに舞い込むのだった。

しかし精神病院の医師デル・ヴェッキオに大量の薬を処方されている元患者達は
薬の副作用によって眠気が収まらなかったり、物覚えが悪くなり、仕事に支障を
きたす様になる。

そこでネッロはもう1人の医師、フルラン医師に相談する。

フルランは

『精神病なんて精神科医のでっちあげさ
そもそもは些細なことで、ほっときゃ忘れるはずなんだ
なのにデル・ヴェッキオとかが事なかれ主義で薬漬けにする。
彼には関係ないからね。薬は半分以下に出来るさ』

とアドバイスをする。

そしてネッロは組合員を集めて提案をする。

『第1に組合員は精神医療センターから離れ、新たな拠点に移る』

『第2に協同組合180は投薬の半減を唱えるフルラン医師の処方を選択する
従って組合員は労働者として必要に応じて精神疾患患者とみなされる』

『第3に組合員は補助業務から手を引き、自らの労働 犠牲 能力をもって
市場に立ち向かうものとする』

『第4に議会は、デル・ヴェッキオ氏に感謝し、組合員から新理事長を
選出する』

アクシデントをチャンスに変え、そしてまたもやって来た窮地から
「全てを分かち合う」ことによって脱して行く元患者達。

それぞれが個性を認め合い、社会に蔓延っている誤解や偏見に立ち向かって行く。

そこには人の心を想像出来る優しさがあった。
誰かが誰かに寄り添い、背中を押す、そして手を携える。

働く喜び、自分という個性を謳歌し、それが社会に還元されて行く素晴らしさ。

思いっきり泣いて、笑える、これぞ人間讃歌!!

映画の最後にはこのような字幕が流れる。

『本作は元精神患者の雇用のため
80年代に生まれた社会連帯共同組合の実話をもとにしている。
"ノンチェッロ"協同組合では寄木張りが行われ
合言葉は"やればできる"だった。

今日のイタリアでは2500余の社会連帯組合が存在し
約3万人の異なるかたちで能力を持つ組合員が働いている。
本作は彼らすべてに捧げられる』

デル・ヴェッキオ医師は後半で自分の行いを悔いて
組合を辞めたネッロにこう言う「罪悪感はなんの役にも立たない」と。

自分の不遇ばかりを嘆き
不幸の数を数えてばかりではなく
既に自分が持っているものの数を数えてみよう。

自分の人生は全て生産的に使え
自分の個性は誰かを支え、社会に還元出来るのです。



2008年・イタリア
原題:Si può fare
ジュリオ・マンフレドニア監督
14

 

「人生はビギナーズ」  

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38歳のオリヴァーは独身で奥手。必ずしも人生を楽しんでいるとは言えない。
幼い頃の記憶には仕事で家に寄り付かない父は存在せず、母との味気ない暮らしばかり。
そんな母ジョージアも5年前に亡くなった。

ある日オリヴァーは突然父ハルから
「私はゲイだ。これから本当の意味で人生を楽しみたいんだ」
とカミングアウトされる。

美術館の館長であり美術史家だったハルは厳格な父親だったがカミングアウトを契機に
若いアンディという恋人に巡り会い、パーティに出かけたり、映画を観る会を開いたり
読んでいなかった本、袖を通したこともない派手な洋服を買い漁ったりとゲイの友人達に
囲まれて活き活きと人生を謳歌する様になる。

オリヴァー自身はといえば友達は仕事と犬。
ゲイと告白されたものの、その父と母との愛情、そしてその間に生まれた自分という
存在に確信が持てず、戸惑い、混乱していた。

父ハルはその後、末期がんの宣告を受けるが、カミングアウトした後の父はあらゆる人に
心を開き愛を振り撒き、また人もハルに信頼を寄せ愛を送るのだった。
どんな時も前向きに「今」を楽しもうとしたハルもついに亡くなってしまう。

父の死後、オリヴァーは女優のアナと出会う。
そんなアナも父親との関係は複雑で様々な葛藤を抱えていることを知る。
家族を亡くしたオリヴァーにとって掛け替えのない女性との出会いであったが
オリヴァーはそんな出会いも自ら手放してしまう。
アナはオリヴァーの家を出てNYへ帰ると告げる。

アナ「なぜいつも別れを告げるの?」「なぜ私を去らせたの?」

オリヴァー「たぶん、いつもうまくいくと思えなくて、うまくいかないようにしてしまう」

オリヴァー「僕たちこれからどうなるの?」

アナ「わからない」

オリヴァー「ためしてみよう」

そう!人生とは大いなる実験なのだ。試すことにこそ価値がある。

そして僕らは誰しも人生という名の舞台のビギナー。

何度でもやり直しが可能で、何歳になっても人生のスタートを切ることが出来るのだ!




原題:Beginners
2010年・アメリカ
13

 

「アジャストメント」  

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スラム街の出身で元バスケットボール選手のデヴィッドは上院議員選挙に出馬していたが、他愛もないスキャンダルによって落選してしまう。しかし、敗北宣言をする直前にダンサーのエリースと運命の出会いを果たす。

選挙参謀が事前に考えていた敗北宣言のスピーチではなく、この運命の出会いからヒントを得たスピーチは結局有権者に好評を博すことになる。

その後エリースとバスの中で偶然再会するが、「運命調整局」と名乗る謎の集団に拉致をされてしまう。彼らは時空を自在に移動し、人の運命が決められた通りに進行するように「調整(アジャストメント)」する組織だったのだ。しかし、組織の一員であるハリーの不手際によりデヴィッドとエリースが再会してしまったため、決められた運命の軸に戻す目的で二人を引き離そうとする。デヴィッドは自分の運命を自分の手に取り戻すために立ち上がる。

『人は定められた道を歩く。迷うのが怖いからだ。だが障害を克服して自由意志を貫く人間もいる。人は命がけで自由意志の大切さを知るのだ。議長が真に望むのは人類が自ら運命を書く、そんな日が来ることだ。君には書ける』

自分の今の望まない状況を「運命」だと自分以外に責任の所在を置き、責任転嫁し、言い訳をし、そして諦めてしまっている貴方。人は一本のレールの上をただ単調に歩いている訳ではない。運命はなぞるものではなく、勝ち取るものだ。そして自らが自由に筆を走らせ描くもの。自分の人生にこそ、積極的に関わり、そして命がけで取り組まなければならない。貴方というオリジナルの人生のストーリーを謳歌しよう!



2011年・アメリカ
原題: The Adjustment Bureau
3

 

「聖者の眠る街」  

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心に染み入る美しい映画。

自称写真家のマシューは住んでいたジェファーソンアームズ・ホテルを追い出される。行き場のないマシューはホームレスになってしまう。マシューは幻聴に悩まされ17歳から20歳までの間、精神分裂症(統合失調症)で入院していた過去を持つ。

ホームレスのための簡易宿泊所であるフォート・ワシントンへ向かうバスを待っている時にマシューはホームレスの黒人ジェリーと出会う。マシューはカメラでジェリーを撮ろうとして咎められてしまうが、そのカメラにフィルムが入っていないことを知ってジェリーは困惑する。

宿泊所フォート・ワシントンは乱暴者の巣窟。寝ている間に身ぐるみを剥がされることもしばしば。ジェリーは新参者のマシューに宿泊所で無事に朝を迎える為の心構えを教える。

翌日、フォート・ワシントンを牛耳る屈強な黒人リーロイにマシューはからまれてしまうが、ジェリーは「こいつは俺の息子だ」と言って助ける。

自分の身の上を語ろうとしなかったマシューに「誰にでも物語はある」と自分の身の上話を話して聞かせるジェリーに次第に心を許していく。

人の声が聞こえ、分裂症の診断をされ入院していたことをジェリーに打ち明けるマシュー。ジェリーはマシューにこう語りかけるのだった。

『声が聞こえて何が悪い?
 ジャンヌも声を聞いた。
 ジャンヌ・ダルクは神の声を聞いた。
 モーゼも。
 声を聞いた。
 神の声を。
 だからこの世にキリスト教が生まれた。
 モーゼは山を下り、民衆に神の声を告げた。
 "なんじ殺すなかれ"
 "姦淫するなかれ"
 もし民衆がモーゼを変人扱いして
 鎮静剤をしこたま飲ませたら
 俺たちは今でも異教徒だったろう。
 小羊や人間の犠牲(いけにえ)を捧げてたはずだ。
 俺もお前も人身御供だ。
 お前は分裂症じゃない。
 きっと"聖人"なのさ』
 

この言葉にマシューは、勇気付けられ生きる希望を見出すのだった。

やがてジェリーの勧めで共にラッシュアワーで信号待ちをしている車の窓拭きをして毎日の糧を稼ぐ様になる。最初の儲けは16ドル50セント。そんな時ジェリーはマシューに車の窓拭きで稼いでアパートを借りて一緒に住み、友人から車を借りて商売をしようと提案する。

仕事が終わってバーでその日稼いだ金を数えるシーンがある。ジェリーに今日いくら稼いだか数えてみろと言われたマシューだが「数え方を忘れた」「聞こえて来る声が邪魔して数えられない」と告げる。するとジェリーは「俺がそいつが来ないように見張っててやるから数えろ、きっと数えられる」と言うと席を立ち上がってバーの店内を見渡す。このシーンはジェリーがマシューの分裂症をしっかりと理解しようとし、相手の懐に入りながらも自立心を芽生えさせようとする姿勢が現れている印象的なシーンだ。

リーロイとのトラブルによってフォート・ワシントンに戻れなくなった二人は、ジェリーがかつて商売で使っていた廃車になったワゴン車に寝泊まりをするようになったが、このワゴン車も奪われてしまう。公園のベンチで寝ていたが車の窓拭きの仲間ロザリオの住む廃屋に泊まることになる。そこで起こる奇跡。マシューが"ホームレスの守護聖人"となるのだ。

物語の続きは映画を観て頂きたい。

夢や希望は叶うことだけが全てではないし、むしろその本質は叶うことにはない。夢や希望がないと嘆いたり、自分に幸せはこないと落胆する前に「今」をどう生きるか、どう純粋に、どう人に優しくあれるかを考えよう。

マシューだって、ジェリーだって、境遇がホームレスだからといって、自分の中にある善意や気高さは失っていない。傷つきながらも懸命に、自分らしく今を生きようとしているからこそ、自分を肯定してくれるパートナーに巡り会えるのだし、自分も相手のためになってあげられるのだ。今辛い状況にあったとしても、貴方の経験は自分のためばかりか、誰かのために有効に使えるのだ。

貴方だって"聖人"なのです。
貴方の"物語"だって美しく光り輝いている。

私自身ホームレスを経験し、母親が分裂症(統合失調症)であったことから、とても心揺さぶられる映画だった。


*予告編

*英語版フルムービー

1993年・アメリカ
ティム・ハンター監督
原題:The Saint of Fort Washington
15

 

「ヤング・ゼネレーション」  

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この映画は台詞を抜き出す必要はない。

映画全体にほとばしるエネルギーを感じ取って欲しい。
きっと何かに打ち込みたくなるはずだ。

今の自分の境遇に不満を持ち、くさっていたり、歯痒い思いをしているなら、この映画の主人公達に心を寄せられるはずだ。そして彼らを自分の仲間や、理解者や戦友のように思えるだろう。映画を観終わる時、きっと新しい人生に踏み出す勇気、果敢に挑みかかる精神を彼らに教わって前を見て歩けるだろう。

インディアナ州のブルーミントンに住む主人公のデイヴは自転車が趣味。いつもマイク、シリル、ムーチャーと4人でつるんでいる。4人は高校を出たものの職にも就かず、大学にも進学出来ず、時間を持て余し、集まっては溜まり場になっている石切り場の跡にある池で泳いだり、話したりしていた。

ブルーミントンにある大学は全米の各地から裕福な家庭の生徒達が集まっていて、4人のリーダー格であるマイクは特に大学の生徒達を気に入らず反目し合っていた。マイクとシリル、ムーチャーの父親は石切り場で働く労働者。デイヴの父も元は同じ石切り場で働いていて今は中古車屋を営んでいる。就職も出来ず、大学に通う経済的な余裕もない現実に劣等感を抱き、大学の生徒達に対抗意識を剥き出しにするマイク。

デイヴはそんなマイクをよそに、趣味である自転車に打ち込み、そして大学の女子生徒キャサリンに恋をしてしまう。

ある夜デイブはダニエルを伴って、キャサリンが寄宿している大学の寮へ行き、窓の下でイタリア語でセレナーデ(女性を称える歌のこと)を唄い、キャサリンに強い印象を与えることに成功する。しかしこの一件がキッカケで大学のクラブの食堂でマイク、ダニエル、ムーチャーの3人と男子生徒達が乱闘騒ぎを起こしてしまう。これを知った大学側は地元のブルーミントンで開かれる恒例の「ブルーミントンミニ500レース」にお互いがチームとして出場して競うように勧める。

大学生達から「原住民(カッターズ)」と罵られていたデイヴ、マイク、ダニエル、ムーチャーの4人がそれぞれの挫折感を胸に団結して立ち上がる!

そして感動のラストへ。

1980年第52回アカデミー賞脚本賞受賞、アメリカ映画協会選出「感動の映画ベスト100」8位の傑作。



1979年・アメリカ
ピーター・イェーツ監督
原題:Breaking Away
10

 

「ハロルドとモード / 少年は虹を渡る」  

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アメリカン・ニューシネマの歴史的傑作にしてカルト的人気を誇る作品。

裕福な家庭で育った19歳のハロルドは母親からの愛を十分に感じられず、母親を振り向かせる為に自殺を演じることを趣味にしていた。

かつて寄宿学校の化学実験で誤って爆発を起こし死にそうな目に遭うが、その場からこっそり家へ逃げ帰った。警察が後から家に訪ねて来て母親に「ハロルドが死んだ」と告げた。その報せを聞いて母親は"右手をおでこにあて、左手を助けを求める様に伸ばし"警官の腕の中に崩れ落ちた。その様子が唯一母親からの愛を実感出来た瞬間だった。それ以来「死」に魅せられてしまうのだ。

ハロルドは母親からせっかくプレゼントされた車まで霊柩車に改造してしまい、その車に乗って他人の葬儀に参列するのが日課になっていた。

一方のモードは79歳。彼女もまた他人の葬儀に参列することを趣味にしていた。ハロルドとモードはある日の葬儀で運命の出会いを果たすのだった。

モードは街路樹が車の排気ガスで死にかけているからと白バイを盗んで山に植え替えに行くといった奔放で常識外れの行動を繰り返すが、モラルに縛られず自由に生きるモードに惹かれて行く。

映画が作られた70年代初頭に蔓延るベトナム戦争や冷戦構造の中での社会全体の焦燥感と相まって「如何に生きるか」ということへの迷いと、愛を実感出来ずにいる苛立ちをハロルドという青年を通して描き出している。その対極でいつも自由に人生を謳歌しようとする79歳の老女との結び付き、芽生える愛情が救いをもたらしている。

「人生から逃げ腰になってるだけ、当たって砕けなさい。時には傷つくことも。でも、思いっきりやるのよ。懸命に生きるの! LIVE(生きがい)を求めて!でなきゃ、面白みのない人間になる」

ハロルドへ、そう言い聞かせるモードの言葉が胸に染みる。

とても印象に残ったシーンがある。
夜の遊園地でデートをするハロルドとモード。ハロルドがモードへ贈り物を渡す。贈り物に喜ぶモードだったが、モードはその贈り物を海へ投げ捨てる。

「これで、どこにあるのか忘れない」

この言葉はとても深い。人は執着心を持つからこそ物事の本質や、真の美しさから離れて、最終的には自分が雁字搦めになって傷ついて行く。執着から離れたところに本当の愛があり、その手触りを、ありありと感じられるのだ。

生き方に迷っている人。愛を感じられずにいる人に是非観て欲しい。
そして観た後には自由に羽ばたいて欲しい。


*予告編

*英語版フルムービー
9

 

「パレルモ・シューティング」  

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世界的な名声を手中にして活躍する写真家のフィン。彼は写真をデジタル処理することによって新たな現実を創出していた。しかし、日々仕事に追われる彼は疲れ果て、いつも「死」の夢を見ていた。そんな時、撮影で訪れたパレルモの街にすっかり魅せられた彼は撮影後も滞在することに決める。

パレルモでの休日を満喫していた彼だが、矢で彼を射ろうとする謎の男に追われるのだった・・・

フィンはパレルモの街で羊の番をする男にこう言われる。

『母親に最後に会ったのは?
 最後の散髪はいつ?
 何事にも最後はあるが、人は気付かない
 いつも これが最後だと思うことだ
 最後の羊の番 最後に目にする他人 君の涙を見るのも最後
 すべてを正面から受け止めるんだ』

今日目にするものが人生で最後だと思えば、その対象に優しくなれるし、その時間を愛おしめる。自分の目の前に広がる世界をしっかりと受け止めることの大切さを教えてくれる言葉だ。

フィンはやがて謎の男と対峙する。その男の正体とは「死神」そして「死」そのものだ。

「死神」はフィンにこう語りかける。

『フィン 君は人生を敬っていない

『別に写真に恨みはない。
 見事な発明だと思う。
 私の仕事に役立つ。
 "死の発現"写真とは本来そういうものじゃないか。
 "生"の捕捉だ。"ネガ"というものは人生 そして光りの反対面だ』

『今のカメラは違う デジタルの時代だ』とフィン。

『それが問題なのだ。
 デジタルは実在を保証しない
 好き勝手に手を加えられる
 すべてが混乱し、いい加減なものになり
 本質は失われる
 それこそまさに君が失ったもの
 君は世界を恐れている
 本当の光 本当の闇を わかるか
 君は現実を飾り さらには再生しようとする
 それが死の恐怖だ』

『生がわかるのか』(フィン)

『私の本質を知らぬな
 私は生を愛しているのだ
 私なしには生は理解出来ない』

『うんざりだ 悪人を演じるのはつらい。
 私は優しいのに。
 皆 私を残虐だと思う。
 私は始まりだ。
 行き止まりなんかじゃない。
 唯一の出口なのだ。

 なぜ これほど 私を誤解する。
 誕生の手助けは感謝される。
 だが私も同じなのに忌み嫌われる』

『俺に何か出来ることは?』(フィン)

『今何と?』

『あんたを助けたい』(フィン)

『そんな言葉を!
 初めて聞いたよ。君にやってほしいことは・・・』

『何だい?』(フィン)

『恐怖をすべてなくすこと。
 つまり・・・わかるかな?
 私を敬え』

『どうやって?』フィン

私の本当の姿を示すのだ。
 私は彼らの内側にいる。
 私自身の顔は己自身の顔。
 醜い死神は人々の思い込みだ


つまり、死というものへの価値観とは、私達の生への取り組み、考え方、心の在り様とイコールであるということだ。

私は常々こう考えている。

日本人は「死を忌む」文化を持っている。

死を忌まわしいものとして捉え、仏教のほとんどの宗派では通夜や葬儀の帰りには塩を撒いて穢れを祓う。『死』という穢れを家の中に持ち込まないためだ。

まるで『死』というものを擬人化し、自分自身と切り離そうとしている。『死』とは自分自身であるにも関わらずだ。

死は徹底的に秘匿され、垣間見てはならないものとされてもいる。

死と面と向かうのは近親者やペットの今際の際(いまわのきわ)か、映画やドラマのフィクションの世界だけ。死と分離した、いや隔絶された世の中だ。事件や事故、災害のニュース映像でも倫理という見えないルールによって死は隠されている。しかし厳然と死は存在し、むしろ私達そのものが死を内包して存在しているのだ。

この映画で死神も言う様に、赤子の誕生は祝福を受けるが、『死』はおぞましいもの、汚いもの、哀れなもの、無、恐ろしいものという連想によって我々には容易くは受け入れる事が出来ないし、直視することも憚れるものとして取り扱われる。

こうした『死』を忌む文化は、『生』の弱体化を加速させる。

この世が辛ければ「死」を選択する10代の若者達もいる。
ゲームのリセット感覚で、まるでワープツールのように「死」を選択したりもする。

小学生や中学生の時代から、日本人は確固たる「死生観」を育み『死』と『生』が一体のものであること、「如何に死ぬかということを考えることは、如何に生きるかを考えることである」ということを教えて行かなければならない。

今の日本人の心の闇には、この「死生観の欠落」がハッキリと影を落としている気がしてならないのだ。

戦中、戦後すぐには図らずも『死』というものが今よりも身近にあった。昭和の古き良き時代は、それらがやもすればストッパーとなっていた部分もあるのだろうか。現代は個と個が分離し、自分の目先のことしか考えられない侘しい世の中だ。人を平気で愚弄したり貶めたりもする。人の心を想像出来ない社会になってしまった。

つまり『今』という時間軸をどう捉えるかという感受性をことごとく喪失させてしまっていて、それはすなわち『死生観』とも直結してくる問題なのだ。

この「パレルモ・シューティング」でデニス・ホッパー演じる死神フランクがフィンに語りかける様に『死』とは私達の顔だ。つまり如何に生きているかの姿勢を示しているからだ。

今日、貴方が出会う人々、景色、風、匂い、それらが人生最後のものだと思って、毎日を生きてみよう。きっと全てが自分を祝福してくれているかのように感じるだろう。そして『死』とは忌むべきものではなく、抱き締めるものなのだということを心の片隅において生きてみよう!

最後に・・・

フィンは死神との対峙を果たして目を覚ます。

『どのくらい時が経った?
 数日?1〜2週間?永遠のようだ。
 そして長い時を経て ようやく"今"がある。
 この瞬間は続いてゆくだろう。
 知るために。
 だから君も・・・』

 『あなたも・・・』(フラヴィア)



2008年・ドイツ=イタリア=フランス
ヴィム・ベンダース監督
22

 

「マルタのやさしい刺繍」  

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スイスのエメンタールという山深い村に住む80歳のマルタは、9ヶ月前に夫に先立たれてからというもの生きる気力を失っていた。

そんなある日、エメンタールで開かれる合唱祭で使用する旗の補修を引き受けることになる。マルタは若い頃にパリのシャンゼリゼに手刺繍のランジェリーショップを開くことを夢見ていたのを思い出し、自分の中に眠らせていた夢と創作意欲に駆り立てられ、友人のリジーの助けを借りて村にランジェリーショップを開店させるのだった。

しかし、保守的な村であるエメンタールの住民達は村に突然開店したランジェリーショップに拒否反応を示し、マルタに何とか店をやめさせようと迫るのだった。

友人のリジーは「渡米したことがある」が口癖で、いつも明るく大らかな性格。しかし1人娘の誕生に関わる問題で葛藤を抱えている。

フリーダは介護施設に入所しているが、施設での交友関係はほとんどなく自分の殻に閉じこもっている。

身体が悪く、往復3時間の場所にある施設に通う夫と二人暮らしのハンニはいつも息子の運転する車に同乗して施設に夫を送り届けるが、息子には「僕は送迎係じゃない。つまらんことに時間を取られたくない」と言われる。

マルタの大切な友人は、何かしらの問題を抱えているが故に、マルタの新しいことにチャレンジするひたむきで、純粋な姿に心打たれ、影響を受けて行く。

フリーダは介護施設にあるパソコン教室でインターネットの使い方を学び、マルタの作ったランジェリーをネット販売しようとする。そして周囲にも心を開き恋もする。

ハンニは息子に頼らず自分で夫を施設に送り届けるために運転免許の取得を目指す。

保守的な小さな村で批判や妨害を受けながらも、自分を駆り立てた夢を信じて歩みを止めようとしない老女達が奇蹟を起こす。

誤解や偏見、古めかしい習慣に屈服するのではなく、自分の心の赴くままに「今」という時間を謳歌することの尊さと素晴らしさ。

自分に言い訳ばかりをして、躊躇したり、歩み出せない貴方。何かを諦めて過去に生きてしまっている貴方。新しい一歩を踏み出してみませんか?この映画を観て心を揺さぶってみましょう。

『夢みるパワーとは、あきらめない心』



2006年・スイス
ベティナ・オベルリ監督
10

 

「チェルノブイリ・ハート」  

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『生きることについて』



生きることは笑い事ではない
あなたは大真面目に生きなくてはならない
たとえば生きること以外に何も求めないリスのように
生きることを自分の職業にしなくてはならない

生きることは笑い事ではない
あなたはそれを大真面目にとらえなくてはならない

大真面目とは
生きることがいちばんリアルで美しいとわかっているくせに
他人のために死ねるくらいの深い真面目さのことだ

真面目に生きるとはこういうことだ

たとえば 人は70歳になってもオリーブの苗を植える
しかもそれは子どもたちのためでもない
つまりは 死を恐れようが信じまいが
生きることが重大だからだ



この地球はやがて冷たくなる
星々の中のひとつでしかも最も小さい星 地球
青いビロードの上に光り輝く一粒の塵
それがつまり
我らの偉大なる星 地球だ

この地球はやがて冷たくなる

星々の中でひとつでしかも最も小さい星 地球
青いビロードの上に光り輝く一粒の塵
それがつまり
我らの偉大なる星 地球だ

この地球はやがて冷たくなる
氷塊のようにではなく
ましてや死んだ雲のようにでもなく
クルミの殻のようにころころと転がるだろう
漆黒の宇宙空間へ

そのことをいま 嘆かなくてはならない
その悲しみをいま 感じなくてはならない
あなたが「自分は生きた」というつもりなら
このくらい世界は愛されなくてはならない

  ナジム・ヒクメット

9

 

「光りのほうへ」  

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明るい方へ
明るい方へ。

一つの葉でも
陽(ひ)の洩(も)るとこへ。

やぶかげの草は。

明るい方へ
明るい方へ。

はねはこげよと
灯(ひ)のあるとこへ。

夜とぶ虫は。

明るい方へ
明るい方へ。

一分もひろく
日のさすとこへ。

都会(まち)に住む子らは。

金子みすゞ


コペンハーゲンの片田舎に住むニックと弟は酒浸りの毎日を送る母親の代わりに生まれたばかりのまだ小さな赤ん坊の弟の世話を甲斐甲斐しく焼く。しかし兄弟は夜な夜な酒を求める母親によって暴力を受けていた。そこにあるのは暴力と貧困、そして母親の愛を受けることのなく寄り沿い育った兄弟が汚れを知らずにこの世に生を受けたまだ赤ん坊の弟に自らの生きる希望を重ねる姿だった。

しかし突然赤ん坊の弟は亡くなってしまう。成長した兄弟は離ればなれになってしまっていたが母親の葬儀の席で再会する。兄のニックは交際していた彼女に振られた腹いせに人を殴って刑務所に服役していたが出所したばかりで簡易宿泊所暮らし。弟は妻を不慮の事故で亡くし失意の果てに幼い息子を育てながらも、麻薬に溺れた生活を送っている。

描かれるのは直視するのも痛々しいくらいの過酷な兄弟それぞれの生活。タイトロープを渡る様な絶望と苦悩の日々。これは紛れもなく悲劇である。しかし人はどんなに過酷で押し潰されそうな日々を送っていたとしても、明るいほうへ、明るいほうへと、いずれは歩み始める生き物なのだ。映画のラストシーンで、その光りの在り処が示される。最後の最後で、幼き頃の兄弟に一時の希望を見出させた赤ん坊の弟と、ニックの弟の溺愛する一人息子との結び付きが、この映画に目映いばかりの「光り」を救いとしてもたらしてくれる。誰しもに訪れるであろう「光り」の存在を見失ってはならないのだ。どんなに今が辛くあろうとも。強烈に心を揺さぶる名作。

2010年・デンマーク
トマス・ヴィンターベア監督

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「エターナル・サンシャイン」  

幸せは無垢な心に宿る 

忘却は許すこと 

太陽の光りに導かれて

陰りなき祈りは運命を動かす

<アレキサンダー・ポープ>

恋人、夫婦、親子、友人、同僚、周囲の人達との関係に疲れ、愚痴や憤りや不満で疲れ果ててしまった時にこそ観てみましょう。

貴方という存在が、誰かの記憶の中にあるという事実。それこそが奇跡でかけがえのないもの。その奇跡に気付き、愛おしめた時に人生は輝きを放つ。

16

 

「未来を生きる君たちへ」  

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アントンはデンマークに住む医師でアフリカの過酷な紛争地域でキャンプに批難している住民達への医療活動を行っている。毎日紛争の犠牲になった罪のない人々の治療にあたりながらも、この暗澹たる現実を憂いていた。デンマークには残して来た妻と息子がいる。妻マリアンとはかつての浮気が原因で離婚寸前、現在は別居中、息子エリアスは学校で執拗なイジメにあっていた。

クリスチャンは母親を癌で亡くし、住んでいたロンドンから祖母の住むデンマークへと父親と共に移り住む。クリスチャンは転校生としてアントンの息子であるエリアスの通う学校へと登校する。するとクリスチャンはエリアスがいじめられているのを目撃する。放課後にクリスチャンと一緒にいたエリアスはいじめっ子のソフスに絡まれ、クリスチャンもその巻き添えになってしまう。

翌日、クリスチャンはソフスに報復。エリアスに二度と手を出すなとナイフを持って警告する。しかしソフスが怪我をした為に事態は表沙汰となりクリスチャンの父親クラウスは呼び出される。しかしこの一件を機にクリスチャンとエリアスは大の親友となっていく。

ある日帰国したアントンは息子エリアスとその弟、そしてクリスチャンを連れて遊びに出掛けるが、その帰りにエリアスの弟が公園で喧嘩をしていた。アントンは息子と相手の子供を引き離すが、相手の子供の屈強な親がアントンを殴ってしまう。この光景に動揺したクリスチャンとエリアスはアントンに何故殴り返さないか、警察に連絡しないかと必死に問うた。クリスチャンとエリアスは殴った相手の車から名前と住所を突き止めて殴りに行く様に説得する。これに応じたアントンは二人を連れて相手の働く場所に行くが、相手を殴らず逆に殴らせてしまう。これに失望したクリスチャンとエリアスにアントンは「殴ることで相手を支配しようとしてしまうことは愚かなことで、私が彼を殴ると彼と同じ愚か者になってしまうんだ」と説明する。しかし、納得の行かないクリスチャンは殴った相手への新たな報復をエリアスに提案するのだった。

母親を癌で亡くしたクリスチャンは父親が母を殺した、死んでもいいと思っていたんだと責める。彼の心は母を亡くしたことでやり場のない憤りと苦しみの感情の矛先をいつでも見つけようとしていたのだ。

生と死という問題の間で揺らぎ翻弄される少年の心を見事に描き、それが癒されて行く様子を丁寧に表現している。

紛争地域で無垢な人々が何の罪もないのに虐殺され、傷付けられていく様子を医者として見続けなければならないアントンの苦悩と、クリスチャンの苦悩がクロスし、映像とともにリンクされていく。

命とは何なのか、死とは何なのか、生きることとは・・・そして残されたものは如何に生きて行くべきかを問い掛ける。

そして「赦す(ゆるす)」ことの尊さを。

アントンは最後にクリスチャンにこう語りかける。

『生きている者と死者の間には、見えない”幕”がある。愛する人や親しい人を失った時に、その幕は取り去られる。死を見るんだ。とてもはっきりと。でもほんの一瞬だ。その後、幕は元の場所に戻り、私たちは生きて行く。以前と変わらずに』

スザンネ・ビア監督(2010年・デンマーク)
(原題:HÆVNEN/英題:In a Better World)


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「リトル・ランボーズ」  

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人は大人になり自分の身に起こる出来事を複雑怪奇に捉えて苦悩してしまっている。物事はもっとシンプルできらめいているはず。子供の頃の貴方は今よりも一日一日が長く、太陽は明るく、森は巨大で、学校の廊下はどこまでも果てしなく続いているように見えたではないか。大人になることで失った「想像力」を取り戻すことで今日を「人生最高の日」に出来るのだ。日常の捉え方次第で人生は如何様にも変わる。人間にとって「想像」することの尊さを教えてくれる映画。現実に振り回され、自分を見失ってしまっている貴方へ贈ります。

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「ナルニア国物語 / 第3章:アスラン王と魔法の島  

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ファンタジー映画は子供が観る単なる娯楽作品、大人が現実逃避するためのもの...ではなく、深い示唆やメッセージを備えた作品が数多い。

この「ナルニア国物語」はイギリスの小説家であり文学者であり、神学者でもあるC・S・ルイスの書いた「ナルニア国ものがたり」が原作になっている。神学者でもあるC・S・ルイスの手による作品のため、キリスト教を下地に描かれているが、その他にもアイルランド童話や、ギリシャ神話の要素も含まれている。

ウォルト・ディズニーが第1作、第2作を配給しヒットしたため、このブログで紹介している他の映画よりも観たことがある人は多いはずだ。一度観た人は、爽快な冒険活劇という側面から、二度目に観る機会があれば主人公の子供達を自分に重ねて一つの人間ドラマとして観て頂けたらと思う。

現実の世界からナルニア国にやって来る子供達は、皆今の自分の境遇を悲観し、不満を持ち、自分に自信を持てないでいる。しかし、ナルニア国に一歩踏み込めば、王や王女として民衆はひれ伏し、剣を持てば向かうところ敵なしなのだ。

この作品の大きなメッセージは二つある。それを表した顕著な台詞を紹介したい。

ペベンシー兄弟の次女ルーシーは自分の容貌や幼さを恥じ、姉であるスーザンの様に美しくなりたいと願っていた。ある島で魔法の書の1ページを手に入れ、姉のスーザンの美しさを手に入れようとする。

そこにナルニア国の創造主アスランが現れて、ルーシーを諭す。

『自分から逃げるな、自分の価値を知りなさい』と・・・

もう一つはラストシーン。闘いを終えたエドマンド、ルーシー、ユースチス、そしてネズミのリーピチープとカスピアン王子はようやくアスランの住む島への入口に立つ。その島にはカスピアン王子の父もいる。アスランは島に渡ればもう戻れないと伝える。カスピアン王子は歩を進めるが、また戻って来て言う。

『奪われた物を欲しがらず、与えられた物を守る』

自分の価値を見失い、自分や自分を取り囲む現状を悲観し恨み、そこから逃避して、自分とはかけ離れた対象に価値を置いてみても、その対象は自分を幸せにすることはない。幸せを感じたとしても、それは幻想であり、麻薬のようである。

”自分という世界の王は自分自身なのだ”

自分の価値をまだ知っていないだけだ。その価値を発見して行く旅こそが人生なのだ。こんなワクワクする旅を放棄してはいけない。幻想や麻薬に溺れ盲目になっては本当の人生の「マジック」は味わえないのだ。

そしてもう一つの台詞。これも深い示唆を与える。人は自分の手から零れ落ちた物や人や出来事にばかり囚われ、フォーカスを定めがちだ。自分の手から去ったということは、その対象を”失った”のではなく、その対象から自らが”離れた”のである。意味を持って離れ、そして次なる領域へ自分を連れ出そうとする動きに何故逆らおうとするのだろう。自分の手から零れ落ちて失ったものに視線を向けることにだけ没頭していれば自分を傷付け、時間を消費してしまうだけだ。それよりも今自分の手許に残っているものを愛おしみ、守ることの方こそが自分の使命であり、人の人生を美しく輝かせるのだ。

どうぞ、そうしたメッセージをこの映画で感じて下さい。貴方のこれからの人生もナルニア国のように冒険とワクワクに満ちています。

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