「宗方姉妹」  

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古い道徳の伝統に忠実であろうとし、ニヒリストを気取っているものの、求職中の身でありながら酒に溺れる毎日の夫に献身的に尽くし寄り添う姉の節子と、英語が得意で奔放な妹、満里子が対比的に描かれている。

公開された1950年代前後の時代背景もまた、新しい価値観と、古い価値観が交錯し、時に対立しながらも、日本という国が自らのスタンスを模索していた時期なのだろう。

古さとは何か、新しさとは何かを、大きなテーマとして投げ掛けている。

特に、姉妹のこのやり取りは、それを直接的に表現している。


節子
「あんたの新しいことってどういうこと?」

満里子
「お姉さん、自分では古くないと思ってらっしゃるの?」

節子
「だから、あんたに聞いてんのよ」

満里子
「お姉さん、京都に行ったって、お庭見て歩いたり、お寺廻ったり」

節子
「それが古いことなの?それがそんなにいけないこと?私は古くならないことが新しいことだと思うのよ。ほんとに新しいことは、いつまでたっても古くならないことだと思ってるのよ、そうじゃない?」

「あんたの新しいってことは、去年流行った長いスカートが今年は短くなるってことじゃないの?みんなが爪を赤くすれば、自分も赤く染めなきゃ気が済まないってことじゃないの?明日古くなるもんだって、今日だけ新しく見えさえすれば、あんたそれが好き?」

満里子
「だって世の中がそうなんだもの」

節子
「それがいいことだと思ってんの?」

満里子
「だってしょうがないわよ。いいことかわるいことか。そうしなきゃ遅れちゃうんだもの。満里子みんなに遅れたくないのよ」

節子
「いいじゃないの、遅れたって」

満里子
「嫌なの。そこがお姉さんが私と違うとこなのよ。育った世の中が違うもの。私はこういうふうに育てられて来たの。悪いとは思ってないの」

「私行って、お父さんに相談して来る」

宗方忠親(父)
「そりゃ姉さんは姉さん、お前はお前さ。どっちがいいとかわるいことではないよ。まぁお前はお前のいいようにやるさ」

「ただ、間に長い戦争があったからね。まぁ段々に良くはなろうが。人がやるから自分もやるっていうんじゃつまらないね。よく考えて、自分がいいと思ったらやるんだよ。自分を大事にするんだね


日本人は常に新しいものを求めて来たからこそ、ここまで発展して来たわけであり、その恩恵を受けて私達はこの世に生きていられる側面もある。

しかし戦後の日本人が失ってしまったのは「自分で物事を考えたり、発見する」目線であると思う。「新しい」という価値観が常に自分以外の手に委ねられ、操作されているのだ。自分で発見したかのように感じている「新しい」価値観は、それが「新しい」ものだという社会や他者からの押し売りや、受け売りなのだ。そして「新しい」ものに飛びついているという安心感の傘の中にいれば、自分があたかも社会に参画しているという満足感と優越感に浸る事ができ、社会の一構成要素であることに存在意義を感じなければ、生き甲斐を見出せなくなってしまっているし、そう仕向けられている側面もあったりする。

古い価値観を通して、今の自分を見つめ直したり、その中にひと際輝いている普遍的な精神性や美しさを発見出来る目線こそが、今の若い世代には求められている。無論、小津映画もそうだろう。

節子の夫である三村亮助は横暴な夫ではあるし、その「古さ」の中には歪さや刺々しさしか伺えない。だからこそ、新しい価値観で生きる妹、満里子の「あんな男とは別れなさい」という助言を聞き入れるまでもなく、節子は夫と別れる決意をする。

しかし、映画の後半では、夫の「古さ」の中にある悲哀や不器用さが表出される。節子が別れる決意をして、かつての恋人である田代宏の元に相談に行ったところ、夫の三村が突然やって来て「仕事が見つかった」と言う。田代はこの場で三村に、節子と一緒になることを告げようと考えている。しかし、ひとまず三村の仕事が決まったことを祝おうと酒を頼もうとするが、三村自らが席を立ち「私が持って来る」と言って部屋を出てしまう。しかし酒を持って来たのは女中で、三村は帰ったと言う。三村はそのまま行きつけの酒場で泥酔するまで飲み明かす。

三村は、節子の田代への想いを分かった上で「自分は仕事を見つけたから安心して、自分の道を歩みなさい」というメッセージをその行動によって表しているのだ。そして祝いの酒は、自らの就職祝いではなく、節子と田代への餞(はなむけ)の杯でもあったのだ。「古さ」というものの中にはそうした精神性も込められているのだと思う。

三村は、泥酔したまま雨に打たれて帰宅をし、自室で心臓発作で亡くなってしまう。これでようやく心置きなく節子は田代と一緒になれるはずなのに、田代に別れを告げる。三村のそのメッセージがしっかり届いていたからだ。きっと仕事は見つかっていなかったのだろう、私の田代への気持ちを知って背中を押したのだろう、それならば・・・

節子が経営するバー「BAR ACACIA」の閉店を前に、満里子に三村が語るかける言葉は実はとても深い言葉だと思えた。そのバーに掲げられているのはドン・キホーテの台詞。

『I Drink Upon Occasion Sometimes Upon No Occasion - Don Quixote』
「私は理由があって飲む。時には何の理由もなくて飲む」


自分の中にある「古さ」そして「新しさ」について再考してみる機会が、この映画を観ることで持てるかもしれません。

また高峰秀子(満里子役)のキュートな演技も、この映画の魅力です。
若い人にほど小津映画をたくさん観て欲しいと切に願います。


こちらで全編観れます。

1950年・日本
小津安二郎監督
8



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