2020/11/4 | 投稿者: pdo

『ばるぼら』は、手塚治虫の大人向け漫画である。『ビッグコミック』(小学館)で1973年(昭和48年)7月10日号から1974年(昭和49年)5月25日号まで連載された。『ビッグコミック』での連載としては、『奇子』の後、『シュマリ』の前となる。(ウィキペディアより)

手塚の生み出した女性キャラで、自分の中ではたぶん「ばるぼら」がベスト。今まではメルモだったのだが。

小説家・美倉洋介は、耽美派の天才として名声を得ていたという設定で、ずっと自分の頭の中では澁澤龍彥に変換されていた(作品後半には筒井隆康という作家が出て来る)。

この美倉は、異常性欲の持ち主であることに日々悩まされていた、、、という設定なのだが、異常性欲そのものをテーマにしているのは最初の数話だけで(マネキン愛と獣愛)、後の話は単発のエピソードを挟んで、ばるぼらの正体とは?みたいな話の流れになっていく。

ストーリー全体がやっつけみたいなところがあり(特に後半)、手塚作品の傑作とは呼べないのかもしれないが、「ばるぼら」という魅力的なキャラクターを産んだだけでこの作品の意義は十二分にあるといえる。

作中で言われているとおり、厄介この上なく、ろくなもんじゃないのに、いなくなると耐えられない。一緒にいるときは心の奥底まで洗いざらい話せる気楽な存在。芸術家にとっては霊感の源泉となるミューズ。天国と地獄を共に味わわせてくれるこういう存在に男は憧れるのだ。女もそうではないのか?

美倉は途中で、ばるぼらを追い出せなかったのは、彼が初めて書いた小説の主人公がばるぼらそっくりで、彼の潜在意識がバルボラを求めていたことに気づいたと告白する(第5話砂丘の悪魔)。

第6話では、かつてバルボラと一緒だったアフリカの作家から、バルボラの正体は芸術の女神ミューズ姉妹の末っ子であると説明される。美倉はそれを否定し、「バルボラは、のんだくれでグータラでうすぎたなくてあつかましくて・・・無責任で気まぐれでおせっかいで狂気じみてる」と言うが、作家は「それがミューズの性格であり、芸術とはもともとそういうものだ」と答える。

後半になると、美倉はばるぼらと結婚することを決意するが、結婚式は失敗に終わる。ピーター・ヘイニング著『魔女と黒魔術』を読んだ美倉は、バルボラが魔女であることを確信する。このへんからの展開はちょっとやっつけ感があり、手塚先生がいくつもの締め切りに追われ細部を詰め切れなかった感じは否めないのだが、まあ大団円は綺麗にまとまっていて、作品としてはきっちり完結している。

手塚先生がバルボラのような存在を切実に求めていたのだろうな、という読み方もできるが、彼は自分のマンガ表現を芸術と考えていたのだろうか? 彼の膨大な作品を見る限り、彼の周囲にはすでに何人ものミューズ(の精神)がいたとしか思えないのだが、それでも何か物足りないものを感じていたのだろうか?

ばるぼらは「新宿のフーテン」という設定だが、「フーテン」という言葉は今は完全に死語である。永島慎二の「フーテン」も読んでみたが、何ともいえず「時代」を感じた。「ばるぼら」は永島の「フーテン」からの影響が色濃く感じられるのだが、まったく違う作品になっているのはさすが。

しかしこの漫画を読んで泣いた自分のような読者は珍しいのではないだろうか?
(もちろん「ばるぼら」が愛しすぎて泣いたのだ)

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2020/11/2 | 投稿者: pdo

東京メトロの広告で、オフピーク通勤の宣伝に「ピークを知る男」と題してサンミュージックのタレント(小島よしお、髭男爵)が使われているのだが、鳥居みゆきも「ピークを知る女」として出てこないかなとひそかに期待している。

さて、週末に手塚治虫の「<黒手塚>の傑作」との誉れ高い『奇子』という作品を読んだ。

小学館『ビッグコミック』に1972年1月25日号から1973年6月25日号まで連載されたこの作品は、劇画ブームの台頭などによる手塚マンガの人気低迷、全共闘運動など反体制運動の雰囲気(あくまでも「雰囲気」)が盛り上がった60年代末からそれが急速に終焉していく70年代初頭の時代の空気感などを反映させた、手塚作品の中でも分かりやすく「大人向け」の内容となっている。

もっとも、手塚マンガが「子供向け」というのは一つの幻想であり、おそろしくシリアスなテーマと世界観がどの作品にも共通していて、世間一般のイメージはただ外観に騙されているだけなのだが、この『奇子』は、ストーリーや舞台設定自体がその外観を剥ぎ取っている。

というのも、この作品のアイディアには、戦後最大の謎事件の一つ「下山事件」と「犬神家の一族」と「カラマーゾフの兄弟」の要素が含まれており、そこに性的フェティシズムと官能性という要素をいかんなくぶち込んでいるものだから、「手塚治虫全集」の中でも子どもの目に届かない場所に置かれるという扱いを受けることが多かったのではないかと思われる。

松本清張と横溝正史とドストエフスキーを材料に、手塚治虫が自らの性的嗜好を存分に表現する漫画を書いたらどうなるのか。天才の想像力に読者は翻弄されっぱなしになるしかない。ついでに北野武のアウトレイジ的要素(当時で言えば『仁義なき戦い』か)も入っている。

『ばるぼら』という作品も読んでみたが、こちらはまもなく息子の手塚真の手掛けた映画化作品が公開されるという。この作品については次回に書くとして、

『奇子』を読んで思ったのは・・・

めっちゃ続きが読みたいっすね〜。

何でかって言うと、たぶん、この作品の続きは、奇子がその後の人生で「魔性の女」っぷりを存分に発揮する展開になると思うんですけど、手塚先生にぜひそれを書いてもらいたかったっすね。

それに近い作品ってあるのかな? 僕、手塚作品って実はよく知らないんすけど、あったら読んでみたいんで、知ってる方はコメントいただけたら嬉しいっす。

あと、この舞台設定は『カラマーゾフの兄弟』にヒントを得たと手塚先生がどこかで語っているらしいんですけど、確かにそうなんですが、最大の違いは、ここには「キリスト」(=神)がいないってことなんですよね。

で、その代わりに「奇子」がいるということなんだと思うんですよ。

つまり、ドストエフスキーは「カラマーゾフ」の中で二男のイワンや三男のアリョーシャを通して神の存在やキリストについて語っているわけですけど、それを戦後日本という文化の中で表現すると、「奇子」(=観音或いは巫女)になるんじゃないかと思ったんです。

だからこの作品は、手塚治虫による『カラマーゾフ』へのアンサーと捉えるのが一番僕の中でしっくりきました。

『カラマーゾフ』の続編がドストエフスキーの中では予定されていたのに遂に書かれないままだったのと同じように、『奇子』の続編も手塚先生の中では予定されていたと思うんですが、遂に書かれずに終わったという運命にも類似を感じます。

カラマーゾフの続編ではアリョーシャが革命家になって処刑されて(殉教して)終わるという展開を予想する人もいますが、それに倣えば、『奇子』の続編では、奇子は・・・とか想像するだけでも面白いっすよね。




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タグ: 奇子 手塚治虫

2020/10/14 | 投稿者: pdo

スペクテイターという雑誌のつげ義春特集を図書館で借りる。

冒頭の赤田祐一のつげ論にいたく共感。


私はつげ作品の“ヘビーユーザー”だ。つげ作品は、高度情報化社会という情報ジャングルの中で生きる自分にとって“治癒力”があり、読むと、効果が感じられる。読むと、昼間の仕事でザワついた神経を鎮静し、しみじみさせる。一種、デトックスのような作用が働くのだ。そんなことも手伝って、つげの本は“座右の書”として、大切にしている。

…つげ作品には、人の心の奥深い部分を揺さぶったり、エゴから解き放ったりする解毒作用があるのではないか。


赤田は、つげの作品の面白さを保証しているものはテクニックではなく「無意識」だと説明している。つげは作品の中で自己の無意識を表出している度合いが十分な強度を持っているから芸術足り得ている。赤田の言葉を使えば、「自分の内部にある風景が、自分に忠実に生み出されたことに感銘をおぼえる。」

スペクテイターに掲載されている初期の「おばけ煙突」もシンプルだが古典的で見事な作品である。

「ほんやら洞のべんさん」では娘の「とりッ!この鳥や」のコマで涙が溢れる。
この感覚は言葉では説明できない意識下の記憶と結びついている。
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2020/10/11 | 投稿者: pdo

1983年に発表されたものの、長らくお蔵入りとなっていた「つげ義春日記」が講談社文芸文庫から刊行されたので買って読む。

昭和50年から55年にかけて、長男が誕生し結婚して一家を構えたつげ義春が、妻の子宮癌の発見と入院、度重なる引っ越し、作品創作の苦しみ、生活の苦しさ、子育ての苦労、夫婦の葛藤といった生活苦の中で、不安神経症を発症し、文字通りもがき苦しむ様子が生々しく描かれている。

他人の日記や私小説を読むのが大好きと語るつげだが、この作品はそうしたジャンルの最高峰のものの一つといってよいのではないか。

不安神経症とうつ病に苦しむ描写はあまりにリアルで、菊池成孔が不安神経症を患った時期の日記の書籍化を控えているのと同じ理由から、取り扱い注意の書籍ともいえるかもしれない。

だが、今の時期にこの本を読む意味は小さくないのかもしれないとも思う。

今年の1月、フランスのアングレーム国際マンガフェスティバルで初の本格的原画展が開催され、人生初の渡仏を行い、息子の正助氏と共に、特別栄誉賞の授賞式に出席、健在な姿を見せたことは大きな励みになる出来事だ。

つげマンガの魅力については、もう語り尽くされている感があり、以前このブログにも書いたことがあるが、改めて稿を改めて個人的な感想をまとめてみたいと思っている。
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2019/10/20 | 投稿者: pdo

※『じゃりン子チエ』というマンガに興味のない方はスルーして下さい。

20年くらい前に、『じゃりン子チエ』について色々と妄想や考察めいたことを書き連ねたことがあるのだが、そのときに書き残したことを思い出したので忘れないうちにここに記す。

さて、ここで取り上げたいのは、『じゃりン子チエ』の中でも最も異質の挿話と言える、「レディー幕ごはん」のエピソード(単行本9巻)である。

レディー幕ごはんとは、チエのおバアはん、菊の幼馴染みの女性で、小学校の遠足でいつも幕の内弁当のような豪華な弁当を持ってきた彼女につけられたあだ名だ。実際の彼女の家庭は貧しかったのだが、親が見栄を張って豪華な弁当を持たせたのである。

彼女は少女の頃は菊らと一緒に不良のような生活を送っていたが、大人になって、日本舞踊やピアノやさまざまな技芸を身に着け、金持ちの世界に取り入るようになり、闇の世界に染まり、詐欺の罪で何度も服役するまでになる(その事実はエピソードの最後になって初めて明らかになる)。彼女は、『じゃりン子チエ』の世界の中でも、究極のアウトローであり、健全な市民社会を完全に踏み越えた存在である。

レディー幕ごはんは、数十年ぶりに西萩を訪ね、今度金持ちの男の金でハワイの別荘に移り住むことになったから、渡航記念パーティーを開くので菊やミツルの母に来てもらいたいと話す。

菊たちは、幕ごはんの過去の噂を知っており、躊躇しながらも、彼女の気持ちに応えようとパーティーに参加することを決める。チエも誘われてついていくが、花井やヨシ江に声がかかることはない。幕ごはんという人物に何となく異様なものを感じたチエは、ヒラメも誘わない。一方、テツは、幕ごはんに気に入られ、何度もホテルのレストランなどで食事をおごってもらうなど、かなり親しい仲になる。テツはカルメラ兄弟やお好み焼き屋のオヤジを引き連れてパーティーに参加する。

パーティーは、「今日は自分の好きなようにやらせてもらいたい」という幕ごはんの挨拶で始まり、テツたちの調子が出てくるにつれて、次第に常軌を逸したものになっていく。呆れた参加者たちは次々に帰っていき、最後に残ったのは、菊にミツルの母親、チエ、そしてテツの仲間たちだけだった。彼らが西萩小学校の校歌を歌いあげて、この奇妙なパーティーは幕を閉じる。

ミツルは、パーティーの冒頭に、幕ごはんから何かを耳打ちされ、ショックを受ける。彼はこの席には参加していないことにする、とチエに告げる。

パーティーが終わった翌日、幕ごはんこと咲村君代(前科24犯)が詐欺で逮捕されたと大々的なニュースが報じられる。グランドホテルで夢の大パーティーを開いていたところを、警察(ミツル)が踏み込んで逮捕したということになっていた。

このエピソードが、『じゃりン子チエ』の中でも異質な印象を与えるのは、レディー幕ごはんという、明確に一線を超えた反社会的な存在が、本質的に『じゃりン子チエ』の作品世界にそぐわない、という感覚を読者の中に呼び起こすからだろう。

『じゃりン子チエ』の作品世界にとって欠かせない「ヤクザ」という存在は、作品における「猫」と同じくらいに純粋なファンタジーであり、テツにいいようにどつかれ、金品を巻き上げられても、本気でドスや拳銃を持ってテツに復讐したり殺しに来たりはしない。つまり、『じゃりン子チエ』の世界では、ヤクザも最低限の社会性を踏み越えることのない存在として描かれている。

しかし、幕ごはんは、『じゃりン子チエ』の登場人物と関わりを持った、初めての「リアルな犯罪者」である。だから菊やチエは戸惑うしかなかったのだし、花井やヨシ江は関わることすらできなかったのである。テツと幕ごはんの関係性も、純粋なファンタジーであり、具体的に描写することも、作品の中で発展させることも不可能であった。

作者はなぜ、この異質なエピソードを描いた(描きたかった)のだろうか。一説によれば、レディー・マクグーハンという人物の実話を元にしたとか、そういう登場人物の出てくる物語があるとかないとか。ある種のオマージュだったのだろうか。

ともあれ、『じゃりン子チエ』の中で、真の「闇の世界」を垣間見せたのは、このエピソードだけだったといえるかもしれない。
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