2016/8/4 | 投稿者: pdo


宗教の修行においては、たとひ教祖の命令通り跳び込まなくとも、『修行が足りない、まだ心境がそこまで達していない』位で許されるだけに、それは修行の『型』をやっているだけである。また、その命令者が教祖という個人である。しかし戦争においては否応はない、言葉通り肉体の生命が放棄せられる。そして軍隊の命令者は天皇であって、肉体の放棄と共に天皇の大御命令に帰一するのである。肉体の無と、大生命への帰一とが、同時に完全融合して行われるところの最高の宗教的行事が戦争なのである。戦争が地上に時として出て来るのは地上に生れた霊魂進化の一過程として、それが戦地に赴くべき勇士たちにとっては耐え得られるところの最高の宗教的行事であるからだと観じられる。

(『谷口雅春選集』 潮文閣、1941年)



8月3日の記事のつづき

ある日、正治が静坐合掌瞑目して真理の啓示を受けるべく念じていると、ふと仏典の「色即是空」という言葉が思い浮かんだ。と、どこからともなく、大波のような低いが幅の広いやわらかで威圧するような声が聞こえてきた。

「物質は無い。無より一切を生ず。一切現象は心の表れにして本来無し。本来無なるが故に、無より一切を生ず。有より一切を生ずと迷う故に、有に執着して苦しむ。有に執着せざれば自由自在也。供給無限、5つのパンを5千人に分かちてなお余りあり。無より百千億万を引き出してなお余りあり。」

「では心はあるのか?」と正治が訊ねる。
「心も無い」
「心が無ければ何もないのか」
「実相がある」
「無の姿が実相であるか。皆空が実相であるか」
「無の姿が実相ではない。皆空が実相ではない。皆空なのは現象である。五蘊が皆空である。色受想行識ことごとく空である」「衆生を殺し、仏を殺し、心を殺し、一切を無いと抹殺したときに実相の神、久遠実成の仏が出てくるのだ」

正治は目の前に燦爛たる光を見たように感じ、心、仏、衆生三無差別の心というものが本来無いものであるということがハッキリわかったのだという。迷う心もないから、悟って仏になる心もない。迷う心が進化して悟って仏になると思っていたのが間違いだった。ただ初めから仏であり神である実相の心があるだけである。

この日を正治は「生長の家」の啓示を受けた日であるとしている。正治はこの悟りの歓びを人類に発表することが自分の使命であると感じた。

しかしまだ会社勤めの身であり、健康状態も貧弱で、会社の仕事を終えて帰宅するとフラフラに疲れ切ってしまい、その上雑誌など執筆する能力は残っていなかった。かといって会社を辞めると収入がなくなってしまうので雑誌を出すこともできなくなる。

迷った正治は、毎月の給料を積み立て、退職金と併せて定年後に雑誌を出そうと思った。金がなく念願をかなえられない嘆きを会社の机上で上司の目を盗んで書き、上司のにらむ目を感じるとまたいそいそと機械のマニュアル翻訳の仕事に取り掛かるのであった。

正治は内面では世界救済の大導師の役割を演じているつもりでありながら、妙に印刷物の校正には、どんなに丹念に校正しても、数字が間違っていた。翻訳しても数の単位が一桁違っていて、致命的な間違いを犯していた。

そういう失敗を重ねた日は家でも機嫌が悪かった。食事をしながら「会社を辞めたい」とブツブツ独り言を言い始める正治に妻はきまって不快な顔をした。胃腸も悪くなってイライラに拍車をかけた。

早く立って人類を救わねばならぬという焦燥の思いに苦悶する間に、会社の執務時間が終わると、上司は社員たちを相手にひとしきり取り留めのない猥談を始めるのであった。

イライラがピークに達し、「お先に失礼します」と言って逃げるように会社を出た翌日には、校正刷りにあらわれた数字の誤植で上司からガツンとやられるのであった。

その後、娘が大病したり、自宅が盗難に遭ったりして、「今のほかに時は無い」という声が聞こえてきたため、会社勤務の片手間に書いた記事を集めて「生長の家」という雑誌を出版したら、雑誌を読んだら病気が治ったなどという口コミが広まり、雑誌が爆発的に売れ始め、売り上げだけでやっていけるようになったため、会社を辞めて雑誌に専念するようになる。

かつての貧乏な奉仕生活に懲りて、「生長の家」の記事を集めて出版する聖典の出版会社を資本主義時代に対する応現形態として資本主義の最高形態たる株式会社組織にし、献金を聖典出版社に対する出資として扱い、出資に対しては半期ごとに配当を支払い、献労者を社員とし、各支部の献労者に聖典頒布の手数料を支払うこととした。

正治が去った後の大本教はご存じの通り戦時中に軍部による大弾圧を受け神殿はダイナマイトで爆破されたが(※)、谷口雅春(正治から改名)の生長の家は戦時中どんどん右傾化して、イケイケドンドンと戦争礼賛で煽りまくり、国家の手厚い庇護を受けた。

敗戦後雅春(正治)は公職追放になったが、雅春(正治)はGHQに押し付けられた日本国憲法を廃止して明治憲法を復活させることを死ぬまで一貫して提唱し続け、学生たちを組織して左翼学生活動へのカウンターとして右翼学生活動を企てた。その当時の活動家が今の「日本会議」のコアとなって現政権を支えているのは承知の通り(先に述べたとおり、「生長の家」という教団そのものは今は政治活動から手を引き、日本会議に対して批判的である)。

雅春(正治)は死ぬ前にこんなことまで言った。
「…時期が来ます。キリスト再臨の時が! 天皇に実相が天降りたまひて、人の王であつたところの天皇が王の王であるところの実相をあらはし給ふ時が!それは 今上天皇御在生中に来るか、それよりずつと後になるかは、イエスの云つた通り『天の使も誰も知るものなし』であります。」

これを狂人の戯言としてではなく、本気で信じている人々が今の政権の中枢にいることをぼくたちわたしたちは自覚しておいた方がいいだろうね。

ちなみに今度の内閣改造で防衛大臣に就任した自民党政調会長・稲田朋美氏は、「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」という教えを説いた谷口雅春を「ずっと自分の生き方の根本」においてきたと公言しているみたいだよ。

これまで述べてきた正治の半生からも分かる通り、元々この谷口正治という男は、根が暗い思いに苛まれがちな、オンナにだらしない、神経衰弱の文学青年だったのである。教祖になってからの自伝の中でここまで赤裸々に心情を明らかにしているという点に誠実さを感じなくもないが(とはいえかなり修飾された美化と正当化が含まれているのも確か)、現実世界と折り合いがつかず鬱屈した内面の反動として過激で勇ましい政治的主張を噴き上げるという正治の心情は、昨今の「ネトウヨ」と呼ばれる者たちの心的傾向と奇妙に合致するのではないかと言うのは私の妄想であろうか。

おわり。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

※ 大本教の出口王仁三郎は、『霊界物語』の中で、谷口雅春(当時はまだ正治と名乗っていた)を「鰐口曲冬(わにぐちまがふゆ)」という名前で登場させており、観念信仰に過ぎぬとボロクソに貶している。

 <第一二章 三狂>

赤『その方の姓名は何と申すか』

男『ハイ、私は鰐口曲冬(わにぐちまがふゆ)と申します』

赤『其方(そのはう)は何か信仰をもつてゐるか』

男『ハイ、別にこれと云ふ信仰もございませぬが、神儒仏三教を少し計りかぢつて居ります』

赤『そのうちで何教が一番お前の心に適したか、否徹底して居たと考へたか』

曲冬『ハイ、初めは一生懸命に仏教を研究致しました。さうした処が一つ拠る所がないので止めまして厶います。要するに仏教は百合根の様なもので、一枚々々皮を剥いて奥深く進みますと、何にも無くなつて了ひます。いはゆる仏教は無だと思ひます。能書ばかり沢山並べ立て、まるで薬屋の広告見た様なものですからな。売薬の広告ならば「この薬は腹痛とか、疝気(せんき)とか、肺病に用ゆべし。又日に何回服用とか、湯で飲めとか、水にて飲めとか、食前がよいとか、大人(おとな)ならば何粒、小人(せうにん)ならば何粒、何才以下は何粒」と御丁寧に服用書が附いて居ますが、仏教の経典は只観音を念じたら悪事災難を逃れるとか、阿弥陀を念じたら極楽にやると書いてあるのみで、八万四千の経巻も何処にもその用法が示してないので駄目だと思ひました』

赤『お前は霊界の消息を洩らしたる仏教に対して尊敬帰依の心を捨て、なまじひに研究等と申してかかるから、何にも摑めないのだ。霊界の幽遠微妙なる真理が物質界の法則を基礎として幾万年研究するとも解決のつく道理がない。暫く理智を捨て、意志を専らとして研究すれば神の愛、仏の善、及び信と真との光明がさして来るのだ。仏教がつまらない等と感ずるのは、所謂お前の精神がつまらないからだ。仏の清きお姿がお前の曇つた鏡に映らないからだ』

曲冬『さう承はれば、さうかも知れませぬが、如何も分り難うございます』

赤『人間の分際として仏の御精神を理解しようとするのが間違ひだ。仏は慈悲其ものだ、至仁至愛の意味が分れば一切の経文が分つたのだ』

曲冬『ア、さうで厶いましたか。それは、えらい考へ違ひをして居りました。之から一つ研究をやつて見ませう』

赤『駄目だ。二つ目には研究々々と口癖の様に申すが、お前の云ふ研究は犬に炙(やいと)だ。ワンワン吠猛る計りが能だ。やめたらよからう。左様な心理状態では到底仏の御心を悟る事は出来ない。それから次は何を信仰したのだ』

曲冬『ハイ、別に信仰は致しませぬが、ヤハリ聖書を研究致しました』

赤『旧約か、新約か』

曲冬『勿論旧約で厶います』

赤『何か得る処があつたか』

曲冬『ハイ、売る処も買う所も厶いませぬ。これもヤツパリ私の性に合ひませぬので五里夢中にさまよふ所に、ある人の勧めによつて三五教(あななひけう)に入つて、可なり真面目に研究して見た所、どうも変性女子(へんじやうによし)の言行が気に喰はないので、弊履(へいり)を棄つる如く脱会し、今は懺悔生活に入つて居ります』

赤『その方は霊界物語の筆写迄やつたぢやないか。直接に教示を受け乍ら、分らぬとはさても困つた盲(めくら)だな。やつぱり研究的態度を以てかかつて居るからだ。結構な神の教を筆写し乍ら、ホンの機械に使はれたやうなものだ。さうして幾分か信ずる処があつたのか』

曲冬『ハイ、女子(によし)の方は幾分か信じて居りましたが、しかしこれはいい加減なペテンだと考へて居りました。それよりも変性男子(へんじやうなんし)の神諭に重きを置いて居つた所、その原書を見てあんまり文章の拙劣なのに愛想をつかし、信仰が次第に剥げて了ひました』

赤『馬鹿だな。神の教は文章の巧拙によるものでないぞ。文章なんか枝葉の問題だ、その言葉の中に包含する密意を味ふのだ。目はあれども節穴同然、耳はあれども木耳(きくらげ)同然、舌はあれども数の子同然、鼻はあれども節瘤(ふしこぶ)同然、そんな事で三五教が善いの、悪いの、男子(なんし)がどうの、女子(によし)がどうのと云ふ資格があるか。よくも慢心したものだのう』

曲冬『別に慢心はして居りませぬ。世界の人間に宣伝しようと思へば信仰も信仰ですが充分研究を遂げ、これなら社会に施して差支へないと云ふ所まで調べ上げねば社会に害毒を流しますからな。云はば社会の為に忠実なる研究ですよ』

赤『お前はまだ我執我見がとれぬからいけない。異見外道、自然外道、断権外道と云ふものだ。そんな態度で何処迄も神様は心理を悟らして下さらぬぞ。神様は愚かなるもの、弱きもの、小さきものをして誠の道を諭させ玉ふのだ。決して研究的態度を採る様な慢心者には、密意はお示しなさらぬ。お前は大学を卒業してひとかど学者の積りで居るが、その学問は八衢(やちまた)や地獄では一文の価値もない。いや却って妨げとなり苦悩の因となるものだ。お前の両親も困つた事をしたものだな』

(以上引用おわり)
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2016/8/3 | 投稿者: pdo

Say, がんばれ私!
がんばれ今日も
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
Happy Lucky Sunny Day

行け!行け!私! 
その調子、いい感じ!
がんばれ私! 
がんばれ今日も

「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
Happy Lucky Sunny Day

偉いぞ私 負けるな 焦るな くじけるな
そうやって今日だって
一生懸命生きてるから

I Say, Have a nice day

(西野カナ「Have a nice day」より)



8月2日の記事のつづき


神戸の市会議員の自宅で実験会があり、霊媒である後藤氏はフラリと町へ出て行って、英字新聞に包んだ5個の梨を持ち帰った。「これは自分が四次元世界へ行って神様からアメリカのカリフォルニアの梨だといってもらった」と言うのだった。市会議員が調べてみた所、英字新聞は神戸発行のジャパンクロニクル紙で、その梨と同じものが神戸の市場に売っていて、主人に聞いてみたら岡山産だとのことであった。

しかしこの霊媒はおそろしく座談が巧みで、自在無礙に話し、嘘でも何でもスラスラ喋っているうちに聞く人の心に従って真理が見出されるのであった。「今のいわゆる善人は皆貧乏になる稽古ばかりしていて、自分が貧乏だから人を助ける力もなし、自分も苦しい、人も苦しい。これを善中の悪といいます」と言われて正治は唸った。

正治は誰かが経済的に犠牲になったり、そのために家庭が不和になるような奉仕生活は間違いであるとの認識に至った。そんなある日、古本屋で買ったホルムスの「心の活動の法則」の原書本を読んで、アメリカ式ポジティブシンキングに啓発される。正治はこれを訳して出版してもらう。この手の「自己啓発本」はその後腐るほど(それこそ1年に何百冊も)量産され続けており、日本でもいまだに大人気であるが、その先駆けとなったのが谷口正治のこの翻訳書であったと言うのは興味深い。

正治は毎日二階に上がって静かに坐して自分にとって適当な職業がすでに与えていることを念じた。1か月位して、たまたま目にした新聞に翻訳係の求人があるのを目にして、係主任に面接に行ったら、月給100円と書いてあったのを170円にしてくれた。会社勤めをするようになり経済的に余裕ができた正治は養父母と別居して阪神沿線の住吉村に移転する。

実家との関係もよくなり、万事は好都合にいったが、家族の健康問題はかえって悪化した。
恵美子(娘)が麻疹になって内攻して肺炎になったり、正治がまさかのために保険に入ろうとしても診察の結果断られたり、妻が瀕死の大腸カタルを患ったりと、不思議なほど病気が絶えないのであった。

仏教風に言えば、三界は唯心の所現であり、ポジティブシンキング風に言えば、思考は現実化する。そこまでは分かる。しかし、心(思考)が思うように支配できなければ、心そのものがかえって恐怖の原因となるのであった。悪を思うまいと思えば思うほどかえって悪を思い、心配すまいと思えば思うほど心配し、怒るまいと思えば思うほど腹立たしくなってくる心はこれをいかにせん。

正治はまだ心の汗馬をどうやって乗りこなしていいかが分からなかった。子供が重病だといって会社に電話が来ると顔色が真っ青になり、会社を早退して帰る電車の中でブルブルと震えが止まらなくなるのであった。

正治は思索を重ね、沈思黙考すれど、安住の境地には達し得なかった。

つづく


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2016/8/2 | 投稿者: pdo

I say, がんばれ私! がんばれ今日も
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
Happy Lucky Sunny Day

行け!行け!私! その調子、いい感じ!
がんばれ私! がんばれ今日も

「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
Happy Lucky Sunny Day

偉いぞ私 負けるな 焦るな くじけるな
そうやって今日だって
一生懸命生きてるから

I Say, Have a nice day

(西野カナ「Have a nice day」より)



7月29日の記事の続き

正治の出した『聖道へ』という論文集は一部では好評であったが、初版1500部の印税は生活費の足しにはならなかった。正治は大本教を脱退した浅野和三郎の『心霊研究』という雑誌に寄稿して、毎月50円の生活費を心霊科学研究会から支給された。しかし正治の心は晴れず、神経衰弱と慢性下痢に悩まされる毎日であった。

そんな中で妻の妊娠が分かり、予定日は10月であった。9月1日に関東大震災に遭う。身重の妻と命からがら逃げのびた上野公園で焼け野原になった東京全市を眺める。厳格な菜食主義者であった正治は、避難所で出されたパンにバターがついているという理由で拒絶。浅野和三郎に相談して、日暮里から信越線で妻の郷里の高岡へ避難することに。10月10日に長女が生まれる。神戸からは養父が若干の金と着替えをもって高岡までわざわざやって来てくれる。

正月を神戸の親元で迎えるため神戸の養父母の元へ帰る。しかし育児法をめぐって父母と対立。育児の本を読み漁って近代的育児法を信奉していた正治は、父母が赤ん坊を抱くことを禁じ、赤ん坊がいくら泣いても一定時が来なければ乳を与えず寝床に放置するのであった。ある日、正治の目を盗んで赤ん坊をあやしていた父母を見つけると、正治は父母を叱りつけて子供を奪い取った。

「衆生救済」を唱える一方で恩を受けた養父母に仇をもって報いるような正治の態度は養父母をひどく傷つけた。まして正治は就職もせず生活費を養父母に頼りながら心霊研究などに没頭している。養父母と厳しく対立するのもやむを得ないことであった。

心霊科学研究会は今井楳軒氏の私財で成り立っていた。正治は仲人でもある今井氏を訪ね、月々の生活費40円の援助を貰い受けることに成功する。正治はその半分を養父母に渡すことにするが、向こうはそれを互いの生活に干渉することを拒絶されたように受取り、家庭内の不調和は増すばかりであった。

そういう心の争いの集積がある飽和点になって形の世界に現れるときが来た。赤ん坊が食べた物を吐いて乳を受け付けなくなったのだ。医者にやる金もなく、関係が悪化している養父母に無心するわけにもいかなかった。胃腸をマッサージして悪い溜まりものが出てしまうと何とか収まったが、排出物には養父母が与えたと思しき多数の小豆が混じっていた。

経済的に自立することを切望した正治は、それまでの恥を棄てて心霊科学研究会の浅野に親子三人の生活費を請求する手紙を書いた。4,5日後に来た返事には、震災のために会も大打撃を被り、遺憾ながら支払いはできない、入用に関しては今井氏に相談してほしい旨が記されてあった。

正治はこの返事に激高し、こう返事を書き送った。
「わたしは抵抗することや請求することを今まで浅ましく思っていましたが、それは自分の捉われた姿だと分かりました。…あなたからは震災直前の8月分の支給をまだ頂いておりませんから、当然あなたに請求してもいい額です。これを至急送り下さるようにお願いいたします。わたしはもう真の無我無想の境涯に立ち、必要なものを自由自在に請求しうる自由を手に入れたのです。」

浅野から返事はなく、たいぶたって今井氏から手紙が来た。
「君から浅野さんへの手紙を見たが、遺憾に思う。震災前の残金を浅野さんに請求する等は実に穢い態度だと思う。君は浅野さんが君を奉仕させて利用されて馬鹿を見ているように思っているようだが、われわれは浅野さんに奉仕しているのではなく、いっそう大なるものに奉仕しているのだ。浅野さん自身がわれわれの奉仕しているいっそう大いなるものにある意味では使われているのだ。君が要求する額はわたしが喜んで払おう。別居することには自分も賛成だ」

正治は結局今井氏にいっそうの負担をかけるだけの結果になったことを心苦しく思った。正治は大空に向かって生活必需品をくれと叫んでみたい気がした。

ちょうどそのころ、浅野氏のところに物品引き寄せの霊媒である後藤氏というのが来ていた。物品引き寄せといっても、遠方のものを引き寄せるのではなく、四次元の世界からいろいろの物品を取り寄せてくるというのであった。それが本当ならば正治もまた四次元の世界から生活必需品を引き寄せてもらいたいものだと考えるのであった。

正治は後藤氏の記事を書くために、浅野氏と共に霊媒の実験立ち会いに出かけて行った。

つづく
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2016/7/29 | 投稿者: pdo

俺がどう感じているかなんて関係ない

だって俺は大丈夫だから

自分でも何で心配しないんだろうって思うけど

まぁ、俺は変わらないから

(ドレイク「オーヴァー・マイ・デッド・ボディー」)


7月22日の記事の続き


丹波綾部に鎮魂法を実践する皇道大本という宗教集団があることを知人から聞いた正治は、大本の説く「世界立替え説」に感銘を受ける。

それは、いっさいの罪びとと罪業が神の力によって焼き滅ぼされ、清浄無垢の新天地が創造される時期がいよいよ到来した、と高らかに宣言していた。

当時罪悪感に囚われながら、罪業を消去する道を求めて焦慮していた正治は、この福音に心を打たれ、ある朝思い切って綾部行きの汽車に乗ってしまう。

そこで正治が見たものは、鎮魂帰神による憑依霊の除去というある種の心霊療法の実践であった。最初は半信半疑だった正治も、やがてのめり込んでいって、その分析的知性と文筆の才能でメキメキと頭角を現し、ついには『皇道霊学講話』という本を書いて、大本の心霊療法に思想的裏付けを与えるようにまでなる。

同時に、世界の建て替えを予言した大本教の筆先と、『仏説弥勒下生経』や聖書のキリスト再臨論などを対照させて、その世界立替え説にいっそう確実らしい傍証を与えたのも正治であった。

資本主義制度の工場に働き、資本家がいかに女工を搾取しているかを現実に見て来た正治は、この弱肉強食の世界が終わるという大本の宣言に胸を打たれずには入れられなかったと記している。

大本教がそのころ人心を引き付けたのは、世界の建て替えが起こる最後の審判の時期を明瞭に指示したことによる。教祖の出口なおが憑依状態で書いた、カナ書きで意味がどうとでもとれる「お筆先」を、もう一人の教祖出口王仁三郎が解釈して信者に発表したところによると、明治25年から明治55年(大正11年)までに建て替えが完了することになっていた。

信者は皆それを信じ、ここ数年の間に迫る最後の審判の日に焼き滅ぼされないために、神様の御用をしたいという人が続々と綾部に移住してきて、その頃の綾部の町は常にお祭りのような狂奔状態であった。

しかし正治の自伝によれば、彼自身はキリスト再臨論の権威と教団内で目されていたにもかかわらず、このような騒ぎには懐疑的な目を向けていたのだという。一方で立替えは近いと信者たちを煽りながら自身の内面では信者たちの狂信ぶりを見下すというこの偽善としか思えない態度について正治は自伝の中で何ら自己批判していない。

正治は教団の中で二人の女性と関係を持ち始めた。一人は15歳も年上で、高等女学校の教諭をしていたが、大本教の世界立替え説に引き付けられて綾部に移住してきたK女史であった。その女性は40歳を超えているのにまだ処女であった。暇さえあれば「谷口先生、谷口先生」といって彼の家に来るようになったのを、最初は気に留めないで対応していたが、次第に、痩せた、しだれ柳のような彼女の態度にほだされていくようになる。

もう一人は、大本の出版局長をしていた今井楳軒氏の住居にハウスキーパーとして出入りしていた江守さんという女性である。正治は江守と話しているうちに以前神殿のあたりで見かけて気になっていた女性であることに気づき、思慕するようになっていく。

江守さんから例の年上女性との関係について問い詰められた正治は江守さんとの結婚を承諾する(自伝ではさも純愛の成就の如く文学的に修飾して書かれているが真相はそんなところであろう)。教団内で出口王仁三郎も参列してかなり盛大な結婚式を挙げた。

次第に正治の目にも教団の穢い面が目につき始めた。信者どうしの食事の配給を巡る諍い、いつのまにか門前に吊り下げられた「献金取扱所」の大看板、信者から集めた金で神々しい神殿をいくつも建設し、信者から金を借りて借用書には「建て替えが無ければ支払う」という意味で支払期間を立替予定日の大正11年以後ということにして大正日日新聞を買収したことなど。

正治は新婚早々にもかかわらず常にイライラしていた。結婚3か月後に妻が病気になって床から起きなくなった。しばしば狭心症の発作に襲われる妻を医者に見せると、心臓弁膜病で一生治らないと言われた。

不敬事件で起訴されてその後保釈になった出口王仁三郎が『霊界物語』の口述筆記を開始し、正治も速記者の一人として筆記した。

正治はその頃「一燈園」という宗教団体の創始者西田天香のもとに通うなどしており、大本を去ろうと決意していた。ところが、正治は西田天香の人格と教えの中にも偽善的なものを見出す。

結局大本を飛び出し、「一燈園」の無我の奉仕の中にも我執を認めて相容れず、雑誌社で働こうとするも経営者と対立して辞めてしまう。

そのドン詰まりの中で正治が書いた「救いは創造主から来るか」という論文が、『生命の実相』(自伝編)第19巻と終わりと第20巻冒頭に転載されているが、この論文こそ谷口正治の書いたものの中で最も鋭く評価に値する文章であろうと思う。正治はこの『聖道へ』と題する論文集の中で、彼特有の装飾に溢れた論述によって「創造主とは迷いを擬人化したものにすぎない」という結論を導き出し、こう喝破することによって、彼自身の内面において大本教から完全脱却を果たしたのだった。

つづく
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2016/7/22 | 投稿者: pdo


ブログ!書きます!!!

でも話題ないです。

適当でもいいから更新してほしいものですか?それとも適当なら更新いりませんか?


参院選にも圧勝し目下絶好調、改憲に向かってまっしぐらの安倍総理の強力な支持母体である「日本会議」の影の主役は「生長の家」の教祖谷口雅春である。

菅野完著『日本会議の研究』でも指摘されているとおり、現在、宗教団体としての「生長の家」は「日本会議」とは対立的な関係にある。だが、「日本会議」のメンバーは、我らこそが谷口雅春聖師の教えを正統に継承するものであると信念をもって活動しているに違いない。そういう意味で、安倍総理の強力な支持母体である「日本会議」の影の主役は「生長の家」の教祖谷口雅春であるといえるだろう。

では、谷口雅春とは、どんな人物なのか。

谷口雅春は生前、膨大な量の著作を発表しているが、「生命の実相」というシリーズに詳細な自伝(第19巻、第20巻)が含まれている。

それによると、彼は神戸の烏原村で生まれた。明治26年11月22日の明け方6時であった。生まれて間もなく、実父母から養父母に預けられて、そこで育った。

市岡中学では直木三十五の1年下級生であった。中学では先生によく反抗し、「お前は虚無党だ(ロシアの革命党派)」といって叱られたりもした。親の反対に遭うも、文学がやりたくて早稲田の文科に入学した。彼はそれからの学生時代を自伝の中で「芸術至上主義時代」と名付けている。

夏休みに故郷の家に帰っていたとき、鈴木三重吉の『千鳥』という作品に影響を受けて、戯れで近所の娘にラブレターを渡したら、相手が本気になって一緒に上京することになった。娘を言い含めて1週間だけ付き合い、また東京に送り返した。

それから1週間くらいたったある日、娘が東京の下宿にやって来て、自分は前科者だと告白した。娘は14歳で芸者に仕込まれるためにお茶屋に出され、そこで同輩の衣服を盗んだことが二度に及び、少女囚として1年半収監されていたのであった。

正治(雅春は後に改名したものであるので以下この表記にする)は戸塚にささやかな家を借りて二人で移り住んだが、次第に正治の心は同棲中の17歳の房江から筋向いに住む中年夫婦の10歳の娘久子に惹かれていく。やがて房江は雅春との子を流産し、看護代や治療費に金がかかったため金策に追われる。

親からも縁を切られ、学校も退学し、数か月たっても就職口も見つからず、房江と二人で死のうと思って金もないまま宿に泊まり、金を作ろうとして出て行った房江が警察に捕まって、新聞沙汰となる。結局正治は房江と別れさせられ、実家に引き取られる。房江に再び一緒に逃げようと促されるも、復学したいからと言って断り、房江は借金のカタに台湾芸者に売られていった。正治は結局養母に金を出してもらえず復学はできず。

中学の同級生の伝手で紡績工場に就職、非正規社員として勤務をし、内職で外国の紡織雑誌の記事を翻訳した。昇進のため大阪高等工業を受験したものの身体検査で不合格となり、前途に希望を失って生活が乱れる。

「そのころわたしは二人の女を同時に知った。一人はその紡績会社の上役の姪であったし、その一人は、ある色町の一人の遊女であった。一人と一人の関係よりもその構図が三角形になる方が絵画においては落ち着きがあるように、わたしは意識してその恋愛を三角形にことさらに構図したのであった。」

「ね、わたくし、こんな稼業をしていましても、あなたのほかに誰にも身をまかせません」という「高尾」という源氏名をもつ女と遊んだ後に、悪性の症状に悩まされる。正治がいろいろ医学書を漁り始めたのはこれが動機であった。神経衰弱にもかかり、不眠に苦しんだ。そんなある日、人づてに「高尾」がどうしても男の肌に触れないと評判であると聞き、疑っていたことを恥じた正治が詫びの手紙を書いたとき、全身を苦しめていた痛みが不思議にすーっと軽くなった。

女工の哀れな工場生活を監視する仕事に嫌気がさして辞職。女との縁も切れた。実家に戻って心霊療法の本や国訳大蔵経を読み漁った。知人から当時流行っていた大本教について聞かされ、綾部を訪れる。

つづく
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