2021/1/6 | 投稿者: pdo

バックパッカーのバイブルと言われる沢木耕太郎の『深夜特急』を読んだが、旅に出たくなることはなかった。

海外一人旅への危険な誘惑に晒されることを恐れて今まで読まずに来たのだが、ひとつの読み物として普通に楽しめた。

この本が爆発的に受けたのは、当時このような旅行をする人がほとんどいなかったということがあるのかもしれない。この本の影響を受けて日本でもバックパッカーが大量に出現するようになったとか。

しかし東洋を放浪する西洋のヒッピーたちは当時からたくさんいて、この本にも数多く登場する。しかし沢木は彼らに対して常に一定の距離を置いて、自分のはヒッピー旅行とは違うことを強調している。

ヒッピーと沢木との違いは、社会からドロップアウトしてしまったかどうか、ということだろう。

沢木の意識の中では、たとえ一時的に日本社会の流れから離れたとしても、仕事を放棄するつもりはなく、事実、旅を終えた後にノンフィクション作品を量産している。

旅の途中で沢木も何度か、底なし沼の旅行者となる誘惑に駆られるが、その度にそれを振り払って新たに出発している。

また沢木は、旅の中で何度も買春の誘惑を受けるが、それを全て断っている。沢木の、この誘惑をきっぱりと撥ねつける態度が、この旅行記に一種の清々しさを与えている。

『深夜特急』がそれまでの旅行記と違ったのは、この清冽な印象であろう。決して楽しいことばかりでなく旅の辛さもたくさん描かれているにもかかわらず、沢木の文章から滲み出る明るさと肯定感が、読者に自分も旅に出たい、という憧れを抱かせる。

彼がこの旅行記を執筆したのは、実際の旅から何年も経ってからである。その割に描写が詳細なのに驚かされるが、当時旅先から送っていた手紙と、旅行中につけていたノートの記載のおがげだという。

また『深夜特急』は、旅の目的地であったロンドンから「旅はまだ終わっていない」という電報を打つ場面で終わっているが、沢木はこの後にも旅を続けている。

しばらくヨーロッパを回った後で、いよいよ日本に帰ろうという空港での場面が、後日書かれた『深夜特急ノート」』の中に出て来る。

そこでは、パリの空港で藤圭子に遭遇したことが記されており、『流星ひとつ』の中でそのエピソードが効果的に使われることになるのだが、それが読者の目に触れるのは2013年に『流星ひとつ』が出版された後のことである。

これほど「おいしい」エピソードを、永久に封印することを一旦は決意したところに、沢木の深い思いを感じる――

と書いたのだが、実はこのエピソードを含む冒頭部分のインタビューは、沢木耕太郎ノンフィクション集のあとがきでそっくり引用されていたのだった。

さすがにここまで見事な運命の悪戯を完全に葬り去るには忍びなかったのであろう。
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2021/1/4 | 投稿者: pdo

年末年始は予定通り引き籠って沢木耕太郎『深夜特急』を一気読みした。

『深夜特急ノート』と『246』も読んでみたところで、『深夜特急』とは全然関係のない、ちょっとした下世話な好奇心が頭をもたげてきた。

沢木が初めて海外の土地を踏んだのは1973年の韓国だが、『深夜特急』に描かれているユーラシア横断バス旅行を行ったのは1974年から1975年にかけてである(彼は自分が旅に出た時の26歳という年齢を繰り返し強調している)。沢木は旅先から主に4人の知人に向けてこまめに手紙を書いていたというが、その中には当時付き合っていた恋人も含まれていたと思われる。タイで彼女からもらった根付を盗まれたことを手紙に書いた旨の記述がある(この恋人が後の妻かどうかは分からない)。
沢木が結婚したのはこの旅から戻った1975年から1979年の間である。というのは、引退する藤圭子へのインタビューが行われたのが1979年で、その時点で沢木は既に妻帯者であったからだ。

沢木は、『一瞬の夏』を朝日新聞に連載していて。その仕事が済んだらニューヨークに行ってコロンビア大学に留学すると藤圭子に告げていた節がある。
沢木が『一瞬の夏』の執筆を中断し、藤圭子とのインタビュー原稿を一気に仕上げたのが1980年5月である。

アメリカの大学は9月からスタートするので、藤圭子は8月30日までにニューヨークに着けばいいと1980年7月付の沢木宛の手紙に書いている(『流星ひとつ』あとがき)。結局沢木は行かず、失恋した(?)藤圭子は歌手に復帰する道を選んだ。しかも芸名を改名するということまでして。喉を手術して声が変わったので以前の藤圭子ではないという証だろう。『流星ひとつ』の中で藤圭子は、声が変わってしまったことを引退の理由に挙げている。

沢木が書いた日記風のエッセイ集『246』を読んで引っかかったのは、沢木の娘が生まれたわずか5日後に、仕事でどうしても必要があったわけでもないのに、日本を離れ、ヘルシンキ、パリを経てニューヨークに行き、フロリダを周って10月に帰国したと書いていることだ。旅行中にアメリカで娘が生まれたばかりだという話をしたら、必ず「家に帰ったら誰もいなくなっているぞ」とか「娘の一番いいときを見ないのか」と言われたらしい。

このときの旅行は、ロバート・キャパの取材ではなかったかと思われるのだが、まだ確認できていない。(※下に追記)しかし、沢木が1983年の夏から秋の間にニューヨークに立ち寄り、どこに行き何をしたかには興味がある。

沢木の娘は、現在ラジオの仕事をしたり声優や児童書作家などとして活動しているが、所属事務所のプロフィール欄には7月20日生まれとなっているものの生まれた年の記載はない。1986年に書かれた『246』の中に「3年前に生まれた」と記述があるので、1983年生まれと思われる。1月19日生まれの宇多田ヒカルと同じ年だが、日本の学年で言うと宇多田は1月生まれなので1年先輩になる。この二人が同じ年に生まれたということにも因縁めいたものを感じる。

『246』でもう一つ引っかかったのは、彼がCMに絶対に出ない理由として、自分のことを許せないと憎んでいる人に自分の姿を見せるのはその人に対して無神経すぎるという旨のことを書いているのだが、その筆致が珍しく感情的なものに思えたことだ。彼が例に挙げているのは、たとえば妻子のあるタレントが離婚し、再婚して新たに子供を設けた後で、その家族の姿をCMで流すことは許されないという。想像をたくましくすれば、沢木が今の妻や娘と一緒に家族でCMに出演しているのを藤圭子が見たらなんと思うだろうか、とも読めてしまう。

ちなみに沢木と藤圭子の関係については「噂の眞相」1999年11月号が記事にしており、新宿御苑に程近い雑居ビルの壁際で、カップルのように親しげなムードで内輪もめを起こしている様子を見たというマスコミ関係者のコメントや、藤が突然引退して渡米したのは、沢木とニューヨークで暮らす約束をしていたからだとする関係者からの証言を紹介している。

写真評論家・大竹昭子のエッセイ集『旅ではなぜかよく眠り』(新潮社/95年)では、「歌姫」と題された文章で、「歌手」と呼ばれる女性が、「著名な作家」が書いたノンフィクション作品の本をぎゅっと抱きしめ、「この作家のことは知らなかったけれど、本人に会ったらとてもステキな人で、たちまち好きになってしまった。もうすぐニューヨークに来るので会うことになっている」と打ち明けたとの記述がある。

大竹は、ニューヨークに来たばかりの藤をしばらく居候させていた。「噂の真相」の記事には、80年代初頭にニューヨークで藤と付き合いがあったという人物が、藤がいつも沢木の話をし、沢木が書いた幻の原稿をいつもうれしそうに持ち歩いては周囲にそれを見せていたこと、そしてニューヨークで沢木と同棲する計画があることを話していたと書かれている。

藤圭子の自殺後に発表されたこの幻の原稿(『流星ひとつ』)に関し、藤の元夫でヒカルの実父である宇多田照實は、ツイッターのフォロワーから「沢木耕太郎さんの『流星ひとつ』は読みましたか?」と質問され、「厚かましく本を送って来ました。許諾もしてないし、30年以上前に発行予定だった本。藤圭子は怒っていると思います」と返信している。「藤圭子さんが生前に出版する事を快く了承しています」と反論する別のフォロワーには、「僕はNYで原稿を受け取った藤圭子の怒りを目の当たりにしました」と書いている。

実際には、藤はニューヨークで原稿を受け取ったのではなく、ニューヨークに移り住む以前に沢木より原稿を受け取り「自分は出版してもいいと思うが、沢木さんの判断に任せる」と返事している。

しかし、照實が藤の「怒りを目の当たりに」したのが、沢木がニューヨークに来ないことを藤が知った後だったとすれば、腑に落ちるものがある。

ちなみに、藤は、沢木に送った手紙には
「私は8月15日に学校が終わったら、16日の(カルフォルニアの)Berkeleyでのボズ・スキャグスのショーを見て、それからニューヨークに行くつもりです。最初は一人で旅をしようと思っていたのですが、クラスメートのまなぶさんという人が友達と車でボストンまで行くというので、一緒に行こうと思っています。車で行く方が、飛行機で行くより、違ったアメリカも見られると思うし、8月30日頃までにニューヨークに着けばいいのですから……。」

と書いているが、出産後の雑誌(平凡社「Free」創刊号、萬田久子によるインタビュー)では、ニューヨークに住んでいる理由を聞かれて以下のように説明している。
「私がN.Yに住んでいるわけ?そうね、偶然なの。バークレーに住んでいた頃、友達と4人で大陸横断の旅に出たの。その途中、ソルトレイクシティーのモーテルで、こんなことしててもなんにもならない。よし次の場所へ行こうと思い立って―」それで空港へ行ったら、N.Y行きの飛行機が最初の便だった、と。

後者が後付けの理由であることは疑いないだろう。実際には、藤は8月30日まで(コロンビア大学の授業が始まるまで)にN.Yに着くつもりでバークレーから友人の車で大陸横断の旅に出たのだ。

『日刊サイゾー』2013年11月7日付記事は、「『流星ひとつ』については、出版業界からも「きれいごとで片付けすぎではないか」という指摘もある」と書かれている。沢木と藤の関係性がきちんと描かれていないからだ。例えば、沢木は「あとがき」の中で、オリジナルの原稿に付した「あとがき」は「残っていない」として、執筆ノートに記されていたという“あとがきの断片”だけを公開している。

「本当のあとがきには、“沢木から藤へのラブレター”が書かれていたはず。沢木さんはわざと残ってないとして隠したんじゃないでしょうか。それ以外にも、『流星ひとつ』は肝心な部分をことごとく避けて通ってる気がしてならない。そもそも2人の恋愛関係は、沢木さんが途中で逃げ出して終わった可能性が高い。別れの時にもいろいろあったはず。それをああいう“美しい物語”仕立てにしてお茶を濁すというのは、どうなんでしょう」(大手出版社のベテラン編集者)

照實氏が目にした「藤圭子の怒り」とは、NYで一緒に住むことを匂わせながら遂に来なかった沢木に対する怒りであったろう。沢木が『246』の中で「自分も人に憎まれるような酷いことをしてきた」と書いた時に念頭にあったのは、藤圭子に対する裏切りのことではなかったか。

他人の人生については徹底した取材を通して見事なノンフィクション作品を仕上げてきた沢木耕太郎だが、自らの人生については、優秀なノンフィクション・ライターに取材してもらう以外に明らかにする方法はないのだろうか。もっとも、藤圭子との顛末を「私ノンフィクション」のスタイルで書いたら、『一瞬の夏』以上の作品になるような気もするのだが―


追記

この旅の目的はローバート・キャパの取材ではないかと書いたが、少なくともその目的の一部が明らかになった。というのは、沢木が「カウント・ダウン ヘルシンキからの手紙」と題して、ヘルシンキでの第一回世界陸上選手権を取材した文章が『象が空を』というエッセイ集に収められているからだ。この文章は1983年10月に発表したものとなっている。この大会は1983年8月7日から8月14日まで開催され、沢木はこれの取材のためにヘルシンキに飛んだことが分かった。

この「ヘルシンキ便り」という文章は、雑誌Sports Graphic Number 84(1983.10/5号、文芸春秋社)に掲載されている。雑誌からの依頼を受けての取材旅行だとすれば、たまたま娘の出産直後の時期に重なってしまったのかもしれない。ちなみに、まあ当然のことではあるが、このエッセイはそうした事情には一切触れていない。

フィンランドに来た理由として沢木は、「スペインに行くついでに、今までまったく足を踏み入れたこともない北欧の、それもフィンランドに立ち寄るのも悪くないと考えた」と書いている。この書きぶりからは、旅の本来の目的はスペインで、フィンランドの世界大会には依頼というより自らの意思で見に来たようにも思われる。ところが、沢木はこの後パリを経てニューヨーク、フロリダを周って帰国しており、スペインには行っていない。途中で予定を変更したということかもしれない。スペインで取材しようと考えていたが、相手が急に都合がつかなくなったとか、理由は色々と考えられる。

しかし、この時期にニューヨークに行ったというのがどうしても気になるのだ。沢木は藤が宇多田照實氏と再婚し、1月に長女を出産したことを知らなかったとは考えられない。
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2020/12/21 | 投稿者: pdo

ぼくは、島尾敏雄という作家の、「死の棘」という小説を読みました。

しんちょう文庫で600ページ以上あるぶ厚さなので、最後まで読めるかどうか不安でしたが、読み始めると面白くて一気に読んでしまいました。

主人公は、トシオという作家で、奥さんと子ども2人の四人家族で、東京の小岩という所に住んでいます。子どもは、上の伸一が5、6歳、妹のマヤがその一つか二つ下で、小学校に行く前の年です。

ものがたりは、トシオの浮気が奥さんにバレて、奥さんがトシオを問いつめるところから始まります。そして、小説の最後まで、奥さんはトシオに怒ったままです。その怒り方と問いつめがあまりにしつこいので、トシオも頭がへんになりそうになって、最後は奥さんがせいしん病院に入院することになったところで終わります。

最初から最後まで、えんえんと夫婦げんかしているだけの小説なのですが、どんどんエスカレートしていくので、一体どうなっちゃうんだろうという好奇心から、ついつい読みふけってしまいました。

でも、一言でいえば、この二人(トシオと奥さんのミホ)はクズだと思いました。

なぜなら、まだ学校に行く前の小さな子どもを完全に放りっぱなしにして、自分たちだけでじゃれ合っているようにしか見えないからです。

トシオは、ミホの発作におびえながらも、ミホの様子が少しよくなると、わざとけしかけるようなことを言って、発作を起こそうとしています。ミホはミホで、死ぬとか出ていくとか言いながら、ぜったいにそうしないし、トシオが死ぬとか出ていくとか言ったら、泣いて止めようとするばかりか、伸一が夜中にぐっすり寝ているのを叩き起こして、トシオを止めようと手足を押さえつけるのを手伝わせたりしています。

こんな両親の様子を毎日見せられている子どもがあまりにもかわいそうで、親の都合で何度も引越し、伸一は小学校に入って3日で転校させられたり、具合が悪くて学校に行きたくないというと、トシオに持ち上げられて尻をぶたれ、さらには木の板を使って力いっぱい尻を叩かれるのを読んで、かわいそうでなりませんでした。

妹のマヤはもっとかわいそうで、ろくにごはんも食べさせず何日も放置されたり、兄の伸一から暴力を振るわれたり、外で遊んでも近所の悪ガキ連中に囲まれいじめられたりしているのに、トシオもミホも自分たちの夫婦げんかごっごに夢中で、ぜんぜんかまってやろうとしません。

小説の最後に、ミホとトシオの二人で、せいしん病院に入ることになり、子どもたちが親戚にあずけられてミホの生まれた沖縄の方の島に行くことになるのですが、子どもたちはこんなクズ親から離れて本当によかったし、親と離れる寂しさよりも、どうしようもない大人たちから解放されてせいせいしたのではないかと思いまいした。

ミホは、トシオの前では気がくるったようになりますが、お客さんが来るとかんぜんにまともになり、買い物にいくときも普通にしゃべっています。要するに、くるった芝居をしているのだと思いました。トシオがミホの芝居につきあわされるのは自分がまいた種だから仕方がないと思います。トシオはミホと結婚してから10年の間、好き勝手な生活をして、何日も家に帰らないことはザラで、あちこちに愛人をつくって、子どもたちはひもじくてボロボロのみなりをしているのに、自分は愛人と温泉に行ったり、年末年始も家を空けて愛人の家に泊まったりするじょうたいが続いていたのですから、ミホがばくはつしたのもとうぜんだと思います。

でも、自分を愛人の名前で呼んでほしいとか、トシオが愛人に買ってあげたパンティーの柄を全部教えろとか、愛人たちに送った手紙を全部取り戻してくれとかいうミホのしつこさもちょっと異常だと思いました。何よりも子どもたちの前で首を絞め合ったり家具をめちゃくちゃにして夫婦が暴れまわったりするのは子どもたちへのぎゃくたいだと思いました。

小説というのはこういうくるったような人たちが自分たちのメチャクチャな生活をありのままに書くことが正しいのだという考え方があるという話も聞いたことがあるし、じっさいぼくもこの小説を面白く読んでしまったのでちょっとうしろめたさも感じてしまいました。

でも、こんな小説をとても崇高(すうこう)な芸術作品だとかいって持ち上げるのはどうかと思います。ぶんこ本の解説を書いている山本健吉という人の文章を読んでぼくは口をあんぐりしてしまいました。

前に読書感想文を書いた島崎藤村の「新生」もそうですが、こんなきたない小説のタイトルを聖書から引用して、さも高級な作品に見せかけ、芸術ぶるのは、くだらないと思いました。

さいごに、この小説で「あいつ」と呼ばれている、浮気相手の女の人は、小説の中で、書いてもいない電報の濡れ衣をきせられ(おんなの人が送ってきた電報がミホのでっちあげだということは明らかだと思います)、ミホに暴行され、トシオはその暴行を腕を組んでみているばかりか、ミホといっしょになって女の人のスカートと下着を脱がせようとまでしており、なんでそこまでされないといけないのかかわいそうになりました。

梯久美子の『狂うひと』というノンフィクション作品をよむと、この浮気はそもそもトシオが仕掛けたもので、浮気のことを書いた日記をミホにわざと読ませ、あきらかに気がへんになったミホを何カ月も医者に見せようともせず、ミホの発作をけしかけ、子どもの養育も放棄して、ミホと一緒に入院してしまったトシオ(=島尾敏雄)がいかにクズな人間かよくわかりました。

この浮気相手の女の人は、島尾敏雄がこの小説を短編の形で小出しにして文芸誌に発表し(ミホはその全部の清書をしていました)、酷い書かれ方をしていたことを気に病んでいたそうです。そして最後は自殺してしまったようです。

島尾敏雄とミホの両親から虐待を受けたマヤは、言葉を発することができなくなり、障がい者として暮らし、一時は東京の自立施設に通っていましたが、最後はミホと同居するよう言われ、ミホの家で亡くなりました。

長男の島尾伸三さんは、敏雄とミホが亡くなってから、こんな風に語っています。

今にして思えば、4歳か5歳くらいの時に線路に首を載せて並んで「死ぬ」ってお母さんが言ったときに、すごく悩んだんだけど「まあ死んでもいいや」と思ったんですね、子供心にね。その「死んでもいいや」と思った理由は、自分は両親のためには何もできないですからね、死ねと言われたら、死ぬことしかお役に立てないんです、子供だから。

子供のころ、母と父の諍いで、母がお皿投げて割ったりするんですけど、いいお皿パッと持たせると、投げませんからね。私はそれを割るんです。母は怒るの。パッと正気の自分に戻って、子供を怒り始めるの。と、物語のテーマが変わるわけですよ。舞台が違う場面になるわけです。そうすると、私の父は救われるんですよ。今までは、父に対して怒ってたのに、大事なお皿を割った子供に物語が転換するわけです。と、彼女の中で、夫とのつらいテーマはどうでもよくなって、空中に消えているわけです。私は、自分の子供にはそんな理不尽なことできません。私の場合は、もっと他のよい方法があるはずなのに、という風に考えた、ということでしょうね。自分の問題解決を暴力や狂気へもっていかなかった。

妹は、凄い元気な子供だったんです。もうすごく元気で、頭もいいし、なんでもサッとやるし。・・・で、私が逃げたら、妹は即病気。ところが妹は逃げる方法を知らなかったんですよ。それまで自由だったから。私が防波堤になっちゃってたから、自分の身を守る方法を知らないから、モロに被ってどんどんどんどん、ひどくなっていった。

両親が不安定な環境の子供は、つかむべき藁がないんですよ。溺れかけているのに、溺れさせられて、船からポイと海に出されて、藁もなんにもないの。溺れていくっきゃないんですよ、あとは死ぬしか。「ああ、じゃあもういいや」、死ぬときってすることを諦めるわけです。溺れちゃえって思って溺れても、なんか生きてたんですね、私の場合は。それだけですよ。

小学校二年生の夏休みまで、一年生で字を覚えた時から、毎日、日記を書いていたんですよ。几帳面だったんです。学校から帰ってくると、お母さんが怒っているの、すごく。なんでかというと、私の書いている日記見て怒っているの、あんなことを書いてあった、こんなこと書いてあったと怒るの。それが何度もあった。それで、小学校二年の夏休みだったと思いますけど、焼きましたよ、泣きながら。一生、日記は書かないと誓った。・・・そんなこと経験してしまった子供は、大人を許せなくなってしまうんじゃないですかねえ。もう私はその頃から人格が分裂しているんですよ、小さい時から。

たぶん私の父が受けた災難は、ヨブの受難のようなものだったと思うんですね。だから、父はそれを試みと受け止めて、その試練に耐えるという手段を取れたんです。・・・でも、妹と私にとっては、そのようなことを理解できませんし、これはもう人災なんです。災害ですから、その中で泳いで生きていかないと死ぬんです。・・・しかも、この災害を乗り越えたからといって、二人の子供が救われたり、浄化されたりすることはないんです。

父は自分に関心が向くのを避けるために、母の関心を子供に向けさせるんです。妹は、だんだんと心身ともに弱っていく。両親の元に残されて、救いのない世界に取り残されて、中学生になる頃にはすでに口がきけなくなったり、手が動かなくなったりして。
私もしゃべりたくない。何も。小学校二年ぐらいのときから、学校でしゃべるの嫌だった。ずーっとね。お喋りが好きだったはずなんですが、後で自分が嫌になる。・・・嘘ばかり聞かされていると、言葉を聞くのが嫌になるんですよ。

子供を育てると、親のありがたさがわるるよって言うけれど、私は育てていて、こんなかわいくておもしろいものに対して、あんなにひどいことをやっていたんだと思うと、腹が立つ。

妹と私が味わった苦しみを奴らに味わわしてやりたいと思っちゃう。父のような人に対しても疑問を持っています。殴れるものだったら殴りたい。父は優しい人でもありますよ。それは言葉遣いが優しかったり、きついことあまり言わなかったり。こんな小さい歩けるか歩けない奴にも、大人として付き合う。そういう風にしか付き合えないのです。だけど、それは無関心だからです。苦しんだふりしてるだけだから。父の骨を金槌で割りたいくらいですよ。砕いてそのへんに放って墓の名前も削りたいくらいです。

(島尾伸三『魚は泳ぐ』より)


「死の棘」は未だ島尾敏雄とミホの魂に食い込んだままです。



追記:

上野千鶴子・小倉千加子・富岡多恵子の3人による対談本『男流文学論』(筑摩書房、1992年)の中で『死の棘』について論じられていて、おもしろかった。

ここではすでに、吉本隆明らの「ミホ=巫女と島尾隊長との出会い」という神話が突き崩され、夫が妻の病を「治さないように、治さないようにしている」こと、小説のために二人が一種の「共犯関係」にあったこと、ミホの中にも打算とナルシシズムがあったことなど、後に梯久美子によって『狂うひと』の中で裏付けられたことが指摘されている。
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2020/12/12 | 投稿者: pdo

東浩紀『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)をとても興味深く読んだ。

読みながらところどころ声を出して笑ってしまったが、決して軽蔑や冷笑ではない。

誠実で正直な人は時に滑稽に見えるものだが、それは愛すべき人間である証でもある。

印象深い言葉がたくさんあるので、感想は改めて書きたいが、取り急ぎ言いたいのは、この本がここまで面白いものになったのは、東浩紀の哲学の語り口もさることながら、インタビュアーであり編集構成を行った石戸論(さとる)氏の手腕によるところが大きいと思う。

石戸氏は、先日沢木耕太郎のインタビュー記事を読んだばかりで印象に残っていた。

その記事の中で、沢木から、しっかりした作品を書き続けるようにエールを送られたと書いていたが、この本はその一つだと思った。
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2020/12/10 | 投稿者: pdo

沢木耕太郎の本を読むのが好きだが代表作ともいえる『深夜特急』には未だ手を出していないのは、自分が旅行(ましてバックパッカーの一人旅)には縁のない人間だからだろう。読んだところで「俺も旅に出よう!」という気にならないのは分かっているし、本を読んで旅したような気分になるのも虚しい。でも、そろそろまとまった時間のある年末にでも読んでみようかなと思う。沢木耕太郎風の気障な言い方をすれば、心の中で旅に出てみるとしよう。

沢木耕太郎の本を読むのは好きだが読んだ後はなぜかまったく印象に残らない。『テロルの決算』も内容を完全に忘れた。『一瞬の夏』は面白く何度も読んだ。藤圭子とのインタビュー『流星ひとつ』はその発表の経緯も含めて感動的な作品だった。彼が追いかけているロバート・キャパには関心がないのでそれについての本は読もうと思わない。エッセイも面白いが内容は覚えていない。川の水が流れるようなさらさらした自由で淡白な感じが気に入っている。人としての品格のようなものも感じる。憧れる人の一人だ。

沢木と藤圭子がインタビューを通じて惹かれ合い、恋仲になった(なりそうになった?)というエピソードも興味深い。宇多田ヒカルの実の父親は沢木ではないか、などという下世話な噂も飛び出したりして(当然本人は否定している)、藤圭子との仲について直接問われたとき、沢木はこんな風に答えている。

──少なくとも当時、藤さんは沢木さんのことが相当好きだったはず。男女関係になったから(インタビューを)発表しなかったのではないんですか?

沢木 うーん、当時は深く取材していたからね‥‥。その辺の兼ね合いは難しかった。(中略)あの時、彼女がどういう想いで僕にあそこまでしゃべってくれたのか、それは何となく分かったし、僕ももともと彼女には好意を持っていた〉

──(中略)彼女は沢木さんへの想いを断ち切るために宇多田照實氏へと走った、そう思いませんか?

沢木 いや、まあ、そんなことはないんでしょうけど‥‥、ただ、取材のプロセスで確かに彼女は僕に好意を抱いていたし、僕も好意を抱いていた。これは間違いありません〉


一方、歌手を引退した藤がニューヨークで暮らしていたとき、彼女と3か月一緒に暮らしていたというライターの田家正子がこう話している。

「私が『なぜ、ニューヨークに来たの?』と彼女に尋ねると、『実は、沢木耕太郎を待っています』と、答えたんです。(中略)
 沢木さんが彼女について書いた、300枚くらいのインタビュー原稿を大事に持っていたのを覚えています。当時連載していた新聞の連載が終わったら『コロンビア大学のジャーナリズム科に通う予定だった』そうで、このアパートで一緒に暮らすために待ち続けていたようです」


当時アメリカで彼女に会っているライター大竹昭子氏の著書にはこう書かれている。

1980年「女性カメラマン(大竹昭子)のアパートに1人訪ねて来た歌姫は、小柄で、小リスのような少女のあどけなさを持っていた。初対面の女性カメラマンに、芸名ではなく本名を名乗って「早く英語がしゃべれるようになりたい」とバッグから、ウォークマンを取り出して耳に当てた。そして、日本の著名な作家の書いたノンフィクションの本(沢木耕太郎)を開いた」。

「この作家のことは知らなかったけれど、本人に会ったらとてもステキな人で、たちまち好きになってしまった。もうすぐニューヨークで会うことになっている。そういって、その本をぎゅっと抱きしめ、作家の名前を小さく叫んだ」

「手を洗わせて下さいと言って、歌姫はキッチンに立つと彼女は手を洗いながら、ヒット曲を口ずさんでいた。少女のような人なのに、その口からはあの暗い歌声がこぼれ出ていることに女性カメラマンは、はっとして息を飲んだ。しかし、歌姫の待つNYに、妻のいるその作家は、結局、表れなかったのである・・・」


沢木は、2015年に出版した『流星ひとつ』のあとがきの中で、1980年7月、彼女がアメリカから沢木に送った手紙を紹介している。

お元気ですか。今、夜の9時半です。外はようやく暗くなったところです。窓から涼しい風が入ってきて、どこからか音楽が聞こえてきます。下のプールでは、まだ、誰か泳いでいるみたい。ここの人達は、音楽とか運動をすることの好きな人が多くて、私が寒くてカーディガンを着て歩いているとき、Tシャツとショートパンツでジョキングしている人を、よく見かけます。勉強の方は相変わらず、のんびりやっています。(中略)私は8月15日に学校が終わったら、16日の(カルフォルニアの)Berkeleyでのボズ・スキャグスのショーを見て、それからニューヨークに行くつもりです。最初は一人で旅をしようと思っていたのですが、クラスメートのまなぶさんという人が友達と車でボストンまで行くというので、一緒に行こうと思っています。車で行く方が、飛行機で行くより、違ったアメリカも見られると思うし、8月30日頃までにニューヨークに着けばいいのですから……。体に気をつけてください。あまり無理をしないように。
沢木耕太郎様 
竹山純子

追伸「流星ひとつ」のあとがき、大好きです


これらの証言や手紙から想像できるのは、藤圭子がインタビューを通じて沢木のことを好きになり、引退したらニューヨークで一緒に暮らしたいと迫ったが、妻帯者であった沢木はその誘いに応じることはできなかった、ということだろう。藤圭子はその後、アメリカで知り合った宇多田照實と結ばれ、1983年に娘の光が生まれる。光は両親の望み通り歌手デビューし、「宇多田ヒカル」として日本のポップス界に旋風を巻き起こすことになるのだが、母娘の関係は決して幸福な物とは言えなかった。

2013年8月、藤圭子の自殺が報じられ、娘の宇多田ヒカルや元・夫のコメントが発表され、藤圭子は精神を病んでいて奇矯な行動を繰り返したあげくに投身自殺した、という説明が世の中にひろがった。昔の藤圭子を知る沢木にとり、晩年の不幸だけが報道されるのは忍びなかった。もう一度、インタビュー原稿を読み返してみると、そこには、輝くような精神の持ち主が存在していた。

『流星ひとつ』のあとがきに、沢木は次のように書いている。

彼女のあの水晶のように硬質で透明な精神を定着したものは、もしかしたら『流星ひとつ』しか残されていないのかもしれない。『流星ひとつ』は、藤圭子という女性の精神の、最も美しい瞬間の、一枚のスナップ写真になっているように思える。

二十八歳のときの藤圭子がどのように考え、どのような決断をしたのか。もしこの『流星ひとつ』を読むことがあったら、宇多田ヒカルは初めての藤圭子に出会うことができるのかもしれない……。


しかし皮肉なことに、「藤圭子という女性の精神の、最も美しい瞬間」を引き出すことに成功したこの男性と彼女が、もしも結ばれていたとしたら、宇多田ヒカルはこの世に誕生しなかったことになるのだ――
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