2019/8/18 | 投稿者: pdo

この週末は暑さのせいで一歩も外に出ず、ドストエフスキーを読んで過ごす。

新潮社の「ドストエフスキー全集 別巻・年譜」を一通り読む。これは、ドストエフスキーの先祖から没後の動きに至るまで、毎日の出来事をまとめたL・グロスマンによる1930年代の仕事に、訳者の松浦健三氏が補遺修正を加えたものである。

詳細な家系図もついている。

青空文庫の『地下生活者の手記』を読み返す。19歳のときにこの小説を読んで深刻な影響を受けた。その影響があまりにも強くかつ深かったために、その後約1年はドストエフスキーを読むこと以外は何も手につかなかった。

この小説は、今風に言えば、自意識過剰な陰キャオタが、劣情解消のためリア充に交わろうとしたけどまったく入り込めず、逆ギレしてエロゲで鬱憤晴らそうとしたらこちらでもバッドエンドにしか行けず、どうしようもなく絶望して終わるみたいな感じ(アマゾンレビューより転載)。

銃を乱射したり、無差別殺人を起こすような人間の内面をギリギリまで言語化すれば、このようなものになるのかもしれない。

ドストエフスキーはここで、自意識過剰な陰キャオタ(四〇代公務員、独身、趣味は風俗通い)の口を借りて、一五〇年以上も前に、「二二が四」の世界、つまりは2進法ですべてを解析して合理的利益に沿って運用されていくような人工知能の世界に謀反を起こしている。人間はピアノの鍵盤ではないのだ、と。

この小説は二部構成になっていて、第一部は「二二が四」に楯突きたい的なモノローグがえんえんと続くのだが、第二部は彼の二四歳のときの「実話」が語られていて、これがべらぼうに面白い。

よくもまあこんなにみじめで最低な話を思いつくものだと思う。学生時代にクラスから浮いていた筆者が、誘われてもいない同窓会に無理やり出席し、案の定浮きまくってドン引きされ、しまいにはガン無視され続ける。

置いてきぼりをくらって、腹が立ち、連中をビンタして復讐するために後を追う。連中がこの後に行く場所は知っているから。

その場所に着き、個室に通され、風俗嬢が入ってくる。たいして可愛くもないが、ことが終わった後、腹いせにネチネチと説教を始める。それが何ページにも渡って続く。

このくだりが特に圧巻。その後の展開もすごい。

神は存在するのか? ドストエフスキーの終生のテーマがこれであった。

神は存在するのか?というテーマを探求する後期の大長編8編のとっかかりになったのが、この最低男の痛話だったというところ。
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2019/8/13 | 投稿者: pdo

ドストエフスキーについては、21世紀になって亀山郁夫が「新訳」を発表し、たいへん売れたらしい(らしい、というのはリアルタイムでは知らず、ネット知識でしかないため)。

そして、この亀山「新訳」については、研究者からかなり批判の声があるようだ(ようだ、というのは、実態はよく知らず、ネット知識でしかないため)。

亀山氏による新訳は読んでいないので良いか悪いかは分からないし、そもそもロシア語が分からないので判断のしようがない。個人的には、原卓也や江川卓の翻訳で読んだものが自分にとってのドストエフスキーで、それでよかったと思っている。

「カラマーゾフの兄弟」はもともと二つの小説の前半部分で、後半がその13年後(当時のリアルタイム)の物語になるはずであったことは作者自身がまえがきで述べている。

作者は「カラマーゾフの兄弟」を書き終えてすぐ亡くなったため、後半は書かれずに終わった。後半のプロットについては作者によるメモ書きが残されており、前半(カラマーゾフ)の中にも後半の展開を示唆する描写が含まれているため、その筋書きを推理することはある程度可能だと考える人もいる。

もっとも、小林秀雄のように、「『カラマーゾフの兄弟』という小説は、続編の有無など問題にする余地もないほど完成された文学作品である」という声もあるし、その方が正しい気がする。

そして、池田信夫のように、「後編は20世紀に、ロシア革命という形で実現してしまったのではないか」と考える人もいる。それはそれで深く頷ける。

しかし、ロシア革命が終わった今も、なおドストエフスキーはアクチュアルな作家であり続けている。そのリアルさは、現在のいかなる作家をも凌駕している、と思う。

※上のを書いた後、亀山郁夫のカラマーゾフ解題を読んでみたが、なんとも浮ついた薄っぺらなものだったのでガッカリ。こんなものでは魂の糧にならない。
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2019/8/12 | 投稿者: pdo

暑いので、外に出ず、『カラマーゾフの兄弟』とその解説書を断片的に読みながら過ごす。

読むたびに、ドストエフスキーの作品の中には小説の中で表現できることのすべてが表現されていると感じる。最も高貴なことから最も卑俗なことまで。最も深刻なことから最も軽薄なことまで。

主人公(アレクセイ)の尊敬する教父ゾシマ長老が亡くなり、腐臭が漂い始める。

生前ゾシマを聖者だと思っていた人々は、彼から恩を受けた人々までが、あからさまにゾシマに不信と軽蔑を抱くのを見て、アリョーシャ(アレクセイ)の心は乱れる。

たまらなくなって呆然とするアリョーシャは、悪友の誘いで、売春婦のような生活をしているグルーシェニカという女のもとを訪ねる。

ついでに言えば、グルーシェニカは、アリョーシャの父親の愛人であり、兄からも求愛されている女である。

女は女で、昔の愛人が戻ってくるという知らせを受けて興奮し混乱している。アリョーシャが来たのを喜び、膝の上に乗って彼を抱きかかえる。純潔だが呆然状態のアリョーシャは抵抗する気も失せている。

友人から冷やかされた女は、興奮してこんな話をする。こんな話だ。

『昔あるところに、それはそれは意地の悪い女が住んでいて、ぽっくり死んでしまいました。

死ぬまでひとつとして美談がありませんでした。悪魔たちがその女をつかまえ、火の湖に投げ込みました。

そこで、その女の守護天使がそばにじっとたたずみながら考えました。

何かひとつでもこの女が行なった美談を思いだして、神さまにお伝えできないものだろうか、と。そこでふと思い出し、神さまにこう告げたのでした。この人は野菜畑で葱を一本引き抜き、乞食女に与えました、と。

すると神さまは天使に答えました。

《ではその葱を取ってきて、火の湖にいるその女に差しだしてあげなさい。それにつかまらせ、引っぱるのです。もしも湖から岸に上がれれば、そのまま天国に行かせてあげよう。でもその葱が切れてしまったら、今と同じところに残るがよい》。

天使は女のところに駆け出し、葱を差しだしました。さあ女よ、これにつかまって上がってきなさい。

そこで天使はそろそろと女を引きあげにかかりました。そしてもう一歩というところまで来たとき、湖のほかの罪びとたちが、女がひっぱり上げられるのを見て、一緒に引きあげてもらおうと女にしがみついたのです。

するとその女は、それはそれは意地の悪い人でしたから、罪びとたちを両足で蹴りおとしはじめたのでした。

《引っぱりあげてもらってるのはわたしで、あんたたちじゃない、これはわたしの葱で、あんたたちのじゃない》。

女がそう口にしたとたん、葱はぶつんとちぎれてしまいました。そして女は湖に落ち、今日の今日まで燃えつづけているのです。そこで天使は泣き出し、立ち去りました』。


アリョーシャは、女の部屋を出て、ゾシマ長老の棺が置かれている修道院に戻る。

祈祷が続けられている部屋の片隅に跪き、祈るが、いつの間にかウトウトしてしまう。

寝不足のところにもってきて、前日次兄のイワンと居酒屋で長々と、大審院がどうのこうの、キリストがどうのこうのと信仰に揺さぶりをかけるような議論をふっかけられ、疲労困憊していたのだ。

アリョーシャは夢うつつの中で、ゾシマ長老の姿を見、その声を聞く。ゾシマは、キリストと共に、カナの婚礼に出席していたのだ。

イエス・キリストが生きていた頃、貧しい家でつつましやかに開かれた婚礼の宴にイエスが招かれ、一緒に飲み食いしていたが、ワインが途中でなくなってしまった。

イエスの母親もその宴に出席していて、給仕する側にいたのだが、息子に、酒がなくなったことをこっそりと告げにきた。

息子は母に、こう答えた。「婦人よ。わたしと、どんなかかわりがあるのです。わたしの時は、まだ来ていません。」母はそれを聞いて、給仕する人々に言った。「この方の言いつけ通りにして下さい。」

その後、皆に高級なワイン(実は水)が振る舞われたのだという。

さて、夢の中でゾシマ長老の声を聞いたアリョーシャは、生まれ変わったように立ち上がり、修道院を出て、大地に接吻する。


彼はなんのために大地を抱擁したのか自分でも分からなかった。彼は泣きながら、声をあげて泣きながら大地に接吻した。そして自分は大地を愛する、永遠に大地を愛すると夢中になって誓うのであった。

いったいなんのために彼は泣いたのだろう? おお、彼は無限の中から輝くあの星々に対してでさえ、感激のあまり泣きたくなったのだ。そして、自分の興奮を恥じようともしなかった。

何かある観念のようなものが、彼の理性を領せんとしているような気がする―しかもそれは、一生涯、否、永久に失われることのないものであった。

アリョーシャはその後一生の間、この一瞬のことを、どうしても忘れることができなかった。『あのとき誰かが僕の魂を訪れたのだ』と、彼は後になってよく行った。そのことばに固い信念をいだきながら…


ドストエフスキーは、このような体験をしたのに違いない、そういう体験がなければ、こういうことは書けない。

『あのとき誰がが僕の魂を訪れたのだ』と。
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2019/7/7 | 投稿者: pdo

この週末に読んだ深沢七郎の小説は、

「白笑(うすらわらい)」★★

「揺れる家」★★★★

「東北の神武たち」★★★

「笛吹川」★★★★★

「甲州子守唄」★★★★

「みちのくの人形たち」★★★★★

「秘戯」★★★★

「アラビア狂想曲」★★★★

「をんな曼荼羅」★★

「『破れ草紙』に拠るレポート」★★

「和人のユーカラ」★★

「いろひめの水」★★★

「花に舞う」★★★

「変化草(へんげそう)」★★★

「いやさか囃子」★★

「南京小僧」★★

「枕経」★★★

「浪曲風ポルカ」★★


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2019/6/23 | 投稿者: pdo

深沢七郎『楢山節考』、『月のアペニン山』、『東京のプリンスたち』、『白鳥の死』、『深沢七郎集第8巻』、『深沢七郎ラプソディ』(福岡哲司著)、『深沢七郎、「楢山」と日劇ミュージックホール』(大谷能生)、『なんとなく(深沢七郎に関するエッセイ)』(中原昌也)を読む。

エルヴィスがききたくなって、昔買ったCDを引っ張り出し、図書館で初期の作品を借りて聴く。


「夜おそい」とか「遊び歩いてばかりいる」とか親は言うが、自分の行動は自分のしたいようにさせてくれなければ苦痛だ。学校へ行っているのだから夜遊ばなければ遊ぶ時はないのだ。学校は仕事で、毎日毎日仕事があるのだから毎日毎日遊ぶ時間も欲しいのだ。自分のしたいことはエルヴィスの唄をきくことで、「遊んでいる」と言うけど、それがなければ頭も身体もとんがってしまうのだ。暴力など振う奴はミュージックのない奴にちがいない。

公次はエルヴィスの「頭の堅い女」をかけて寝ころんでそんなことを考えていた。
(『東京のプリンスたち』より)



深沢七郎はギタリストで日劇ミュージックホールに出演してストリップショーの伴奏などやりながら、「都会人がハイキングに行きたがる、あの山の中の気分を味わうのと同じで」山の中の小説(「楢山節考」)を書いたのだという。

1956年、42歳で『楢山節考』によって第一回中央公論新人賞を受賞したことから、作家としての深沢の人生は始まった。

選考委員は、伊藤整、武田泰淳、三島由紀夫の三人で、三人一致してこの作品を推した。

この作品が当時の文学者に与えた衝撃は、70年以上経った今でも想像に難くない。

曰く、「民話のすごみというものをワクに、何かわからない無抵抗のような美しさがある」(武田)、「これが本当の日本人だったという感じがする、ストイックというか、個人よりも家族を大事にするというか、それよりも家族よりも伝統の規律に自分を合致させることによって生存の意義を味わう人間がいるというか、そういうことを改めて考えさせられる」(伊藤)、「父祖伝来貧しい日本人の持っている非常に暗い、いやな記憶のようなものがあり、全身に水を浴びたようにこわい。何か不定形で、どろどろしたものがあって、とても脅かすんだ」(三島)。

「近代文学の中での、人間の考え方ばかりが、必ずしもほんとうの人間の考え方とは限らないということです。僕ら日本人が何千年もの間続けてきた生き方がこの中にはある。ぼくらの血がこれを読んで騒ぐのは当然だという気がしますね」(伊藤整)

「人間の美しさというものが、今非常にあいまいになってきている、そういうことを肯定的に書くことがほとんど不可能になってきている。この作品では早く楢山に登りたいということを素直に主張する人物を出すことによって、それに成功している」(武田泰淳)

「ことしの多数の作品のうちで、最も私の心を捉えたものは、新作家である深沢七郎の『楢山節考』である。…私は、この作者は、この一作だけで足れりとしていいとさえ思っている。私はこの小説を面白ずくや娯楽として読んだのじゃない。人生永遠の書の一つとして心読したつもりである」(正宗白鳥)

『楢山節考』はベストセラーになり、何度も映画化され、彼の生涯の代表作であることは疑いないが、必ずしも深沢七郎にとっては本意ではない受け取られ方をし、いわば生涯の「誤解のもと」となった作品でもあった。

その「誤解」が頂点に達するのがのちの「風流夢譚」にまつわる事件であるが、ひとまず彼の作家としての本領が最も発揮された作品の一つは、1959年の『東京のプリンスたち』ではないだろうか。

大谷能生曰く、「深沢七郎が書いた『東京のプリンスたち』という小説は、ロカビリーとその音楽を愛した少年・青年を主人公として描いた、日本語で書かれた音楽を取り扱う小説のなかでもっとも美しい作品のひとつである。音楽と生活とが密接に結びついている人間たちの生を、彼らの生活のリズムを正確に辿りながら描くことに成功している、という点において、この作品は『楢山節考』と非常によく似た性格を持っている。」


階段の下からラジオが聞こえてきた。(聞いたことがある曲だ)と思ったらすぐ唄になった。ぼーっとしている頭にも(エルヴィスの声だ)とすぐに判った。「マネー・ハネー」だった。正夫は引き戻された様に我に返った。気がついたら立っている足が小さくゆすれていた。ハッと、正夫は足に力を入れてリズムに合わせてゆすりだした。歯切れのいいリズムで両足が切れてしまうように激しくゆすった。

(ちぇッ、いいなァ)

と舌打ちした。正夫は右手を大きく振って指を鳴らしながらエルヴィスの声と一緒に歌い出した。重苦しかった下半身が爽快になってしまったことなど知らなかった。テンコが目の前にいるけど、そこに掛けてあるカーテンや襖の模様の絵と同じようにしか思えなかった。



上の引用部分は、「押しつけられたように下半身が重苦しくてたまらなかった」田中が、早くこの苦しさを捨ててしまうために、テンコを誘って温泉マーク(今のラブホテル)に入ったところ、エルヴィスがかかっているのをきいた場面だ。

それから、下に引用するのは、この小説の最後の場面だが、以前、この部分だけが引用されているのを何かの評論で読んだことがあって、強烈に印象に残っていた。いったい何の評論だったのだろう?


「アイ・ニード・ユア・ラブ・トゥナイト」が激しく鳴った。“今夜はお前のラブが必要だ”とエルヴィスは騒ぐように歌っているが、題名だけが判れば、歌詞など判らなくてもいいのだ。破裂しそうなリズムに合わせて、思いきりの声をだしてエルヴィスが歌っているのを聞いていると、頭の中がカラッポになってすっきりするのだ。そして、手や足がこきざみにゆれて、押さえつけられた様な手や足の力がぬけて軽くなるのだ。

洋介はひょっと気がついて立ち上がった。うっかりレコードの横に腰かけていたのだった。疲れているから腰をかけてしまえば眠ってしまうのである。あしたは運送屋も休みだし、今夜はこの新曲を思う存分聞くのだから眠ってしまってはダメだと思った。「アイ・ニード・ユア・ラブ・トゥナイト」が激しく鳴った。(腰をかけてしまってはダメだ)と洋介はテーブルの方に寄って行った。片足をテーブルにあげたがすぐ瞼が重くなってきた。また、レコードの方へ行って壁に寄りかかった。ぐらっと倒れそうになって、ハッと気がついた。(ねむってはダメだ)と、肘でぐンと壁を突いた。

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