2021/6/29 | 投稿者: pdo

週末に読んだ小説など

小島信夫『別れる理由3』
徳田秋声『新所帯(あらじょたい)』
佐伯一麦『渡良瀬』
佐伯一麦『鉄塔家族』
佐伯一麦『石の肺 僕のアスベスト履歴書』
和田芳恵『一葉の日記』
和田芳恵『暗い流れ』
綿矢りさ『インストール』
金原ひとみ『蛇にピアス』
保坂和志『生きる歓び』

小島信夫『別れる理由3』は、途中から、(1)作家が直接読者に語りかける、(2)作中人物が作者に電話をかけてくる、(3)実在の人物が登場して作中で延々と会話する、などの趣向が凝らされ、読者を飽きさせない。と言うのは嘘で、ウンザリしてとても読めたものではない。結局京子や絹子や恵子の話はどうなるのか。京子の息子のことはどうなるのか。肝心なことが何一つ展開せず放りっぱなしにされ、投げ出され、解決の兆しも見せられないまま終わる。これが小説だというのなら、適当に作家の頭に浮かんだことをダラダラダラダラと書き連ねていけばそれも小説だということになる。そして小島信夫のこういうやり方を流用して、それが小説の新しいスタイルのようだ、とでも主張したげな保坂和志によって書かれたのが『生きる歓び』という短編だ。谷中で拾った子猫を育てようとする話だが、身辺雑記に作者自身の世界観や人生観のようなものが挟まれながらいつの間にか始まりいつの間にか終わっているという作品で、これはこれで面白く読めた。こういう、言ってみれば「脳内ダダ洩れスタイル」とは対極にあるようなのが私小説家・佐伯一麦による長編『渡良瀬』と『鉄塔家族』である。『渡良瀬』は茨城の古河に住んでいた頃の電気工場に勤めていた生活が地味に描かれ、『鉄塔家族』では染物作家の女性と再婚して仙台の団地に住む生活が地味に描かれている。どちらも何かの文学賞を受賞している。地味だがよい作品である。そして電気工時代に曝されたアスベスト体験を交えたルポタージュが『石の肺』である。これも私小説と地続きの、佐伯読者にとっては必読書といえる。同じ〈日常系〉であっても保坂と佐伯のスタイルには歴然と違いがある。どちらが優れているという話ではない。スタイルを真似ても面白くないものは面白くないし、面白いものは面白い。

徳田秋声の『新所帯』は佐伯一麦が愛読するといっている作品である。若い夫婦の、ちょっとした波風ある生活が巧みに語られている。漱石は秋声の小説は高く評価する一方で「フィロソフィーがない」といって批判してもいる。確かにここにあるのは〈どリアリズム〉であって、読んだ後に何か生活の質が上がるような、「読んでよかった」と思えるような具体的なメリットがない。漱石の小説なら、読後に何か人生について深く考えさせるようなものがある気がする。しかし秋声はただありのままの人生をありのままに提示しているだけで、だから何?というものがない。しかしありのままの人生をありのままに提示するような小説が一体誰に書けるだろうか。和田芳恵の『暗い流れ』は限りなく私小説に近い形で、ひとりの少年の「イタ・セクスアリス」を描こうとしたものである。官能小説ではないのだがそれ以上の官能性がここには含まれている。心の深いところに作用するようなものだ。その点、綿矢りさの『インストール』や金原ひとみの『蛇にピアス』に描かれる官能性は浅い。心の表面にしか作用しない、ドンキホーテで売っている商品のようなもの(尤も綿矢は意図的にそう描いているのだともいえる)。両者とも文章は巧みだが、深いところに届いていないのは人生経験もあるから仕方がない、とばかり言えないのは、樋口一葉のような作家が存在するからである。樋口一葉(本名夏子、なつ)は24歳で人間の意識の奥に届くようなものを書いた。和田芳恵『一葉の日記』は、そんな作家の秘密に肉薄しようとした書物である。
0

2021/6/22 | 投稿者: pdo

小島信夫の事故物件のような小説に付き合うのがしんどくなってきたので、今週は佐伯一麦の『ショート・サーキット 佐伯一麦初期短編集』に手を付けている。

佐伯一麦は、「端午」と「ショート・サーキット」という作品で二度芥川賞の候補になっているが、受賞はしていない。

今から見れば、佐伯一麦に与えておくのが正当だっただろうと思うが、「端午」の前に「木を接ぐ」という作品で海燕新人文学賞を受賞しているし、「ショート・サーキット」は野間文芸新人賞を取っている。必ずしも芥川賞が正しい(?)わけではないということだ。

別にこんな賞のことにこだわる必要はないのだが、新人作家にとっては、これから作家として食べていくために、何かの賞を取るというのは大事なことだろう。

佐伯一麦を読んでいると、どうしても沢木耕太郎の顔がチラついてしまう。端正な文体が何となく似ている。二枚目っぽいルックスも共通する。女にモテそうだ。ていうかモテてる。

しかし佐伯一麦の初期の私小説を読めば明らかなとおり、彼の最初の結婚生活は決して幸福ではなかった。二十一のときに、スナックのアルバイトをしていた同い年の彼女と同棲し、
すぐに子供ができて入籍し、二十代前半で三人の子供ができる。

生活は苦しく、職を転々とするが、電気工としての定職を得る。そのときの生活が「端午」や「ショート・サーキット」に書かれている。

夫婦は諍いが絶えず、子供も病気を持ち、妻が夜中にガス栓をひねったりもする。相当に陰惨な生活が描かれているのだが、不思議とそこにはじめっとした怨念や負の感情がこびりつくことはなく、それこそ沢木耕太郎のようなスタイリッシュさが感じられる。

もっとも、当然ながら暗さ、侘しさはある。しかしそれは決定的に破滅的な方向には行かない。それはやはり、文学というものが支えになっていたからだろう。私小説を書き続けることが精神の均衡を保つための安全弁のようなものになっていたからだろう。

「木を接ぐ」を書いた24歳の当時は、毛筆で原稿を書いていた。

応募作は、仕事に出かける前の朝方に書き継いだ。前日長く振動ドリルを使った朝は、手の震えが止まらずペンがうまく握れない。そこで苦肉の策として慣れぬ筆を採用することにした。(これじゃまるで年寄りの写経の図じゃないか)と自分の姿に苦笑させられたものだが、今憶い返してみると、両者にさしたる違いはないような気もする。

この頃に、電気工の作業中に当時まだよく知られていなかった発がん性物質のアスベストを吸い込み、その後ずっと喘息に苦しむことになる。

佐伯一麦の作品を読んでいると、彼が小説を書くことでギリギリのところで正気を保っていたマラソンランナーのような精神に伴走しているような感覚を味わうことができる。これはなかなかスリリングな読書体験ではある。

「ショート・サーキット」には同郷の作家眞山青果の「南小泉村」の仄かな影響を感じた。
0

2021/6/16 | 投稿者: pdo

来年の3月でガラケーが使えなくなるとさんざん脅されて、とうとう観念してスマホに変えた。

とはいっても普段iPadを使っているので、iPhoneはそれまでのガラケーと同じ使い方しかしないつもり。

どうもああいうケイタイショップで職員の説明を聞いていると騙されているような気分しかしないので一人ではとても行く気になれず、家人に一緒に行ってもらわないととてもじゃないが店に入る気になれなかった。

小島信夫『別れる理由』を読み始めるが、『抱擁家族』の続編であることが文体からも明瞭で、ひじょうにおもしろい。

『別れる理由』の後妻・京子との関係はリアル。『抱擁家族』の妻・時子と同じくらいリアル。でも時子の方がリアル。「主婦を連れてきてくれよ」と言った長男は、若く官能的な京子がまんざらでもなく、バーのホステスのような目で見ている。自分の部屋が夫婦の寝室の隣にあるのがいやで地下室(永造の書斎)に移りたい、といい、やがてアパートで独り暮らししたいという。長女で高校生の光子は京子としょっちゅう甲高い声で言い合いをする。京子に再婚してくれと熱心にかき口説いたのは永造だ。「あなたは再婚すべきだ、そうでないと不幸になる」と上から目線で説得した。京子の前夫の友人内山から、「二人はアーサー・ミラーとマリリン・モンローのようだ」といわれる。内山は、京子と前夫(伊丹久、久ちゃん)の子で小学生の康彦がしばしば家出をし、京子の所へ行っているのではないか、と疑っている前夫の気を鎮め説得するために永造を連れて伊丹の家に行く。内山はブルー・フィルムの会を主催している。伊丹の家でも上映会をやったことがある。永造も参加したことがある。伊丹は写真家で、中学を出たばかりの百合子というモデルと深い仲になり、それを知った京子が離婚を申し出た。二人は離婚し、伊丹は百合子と再婚し、二人の間には早苗という赤ん坊ができた。康彦は伊丹が引き取ったが、ときどき家出をする。康彦は一度京子の働いていた外国人相手の不動産屋のオフィスに来たことがある。そのとき京子は不在であった。
永造と内山と伊丹の三人は伊丹の家で天丼を食べる。緊張感の中で面白くない会話を交わす。伊丹は、京子が康彦に決して会ったり近づいたりしないことの証文を書くことを求めている。永造はその代わりに伊丹と話に行く。その場はなんとなく収まる。
永造は康彦の小学校の担任の女教師に話をしに行く。喫茶店で話していると、教師が永造の愛読者であることが分かり、誘惑的なことを言われる。永造は京子の友人の会沢恵子とは子供の頃からの知り合いで、京子に出会う前、妻陽子に隠れて関係を持っていた。

いまのところ、そんなに小説的な破綻はみられない。

小島は、『残光』が出た頃のインタビューで、こんな風に語っている。

「今は、目が見えづらくなったせいもありますが、僕はもともと、書いた小説を読み返さず、手直ししません。この小説を若々しい作品と思っていただけるのは、昨年の半年間を『現在』として書いているからだと思う。要するに、急に頭をはたかれた感じで驚いたり、潜在的に隠れているもの、言いたいけれどいっぺんには出てこないことがあったり、そんなことが繋がって日常がある。全身で考えながら書いていると、自分と世の中との繋がりの部分が小説に現れてきます。日常的な繋がりが現れて変化する様子が、作者としては面白い」

「高等学校時代に、僕らは西田幾多郎の『善の研究』を読もうとして、なかなか難しかったんですが、その本には“純粋経験”について繰り返し語られています。個人をつくる一番のもとになるのは自然との関係で、知覚して自由に意志を持つ。僕は小説家だから、小説の場合も純粋経験から始まるところがある。いわば純粋経験の組み合わせが小説で、それもあって僕は書いたものを読み返さないのだと思う。これはうまく行ったということが書けても、舌なめずりして喜んでいるわけにはいかない。それはその時だけでね。さまざまな動きの中で出てきただけだから、改めてゼロから出発しなければいけない。書いたら終わり。書き足すこともなく、いつでも新しく出直しです」


「純粋経験の組み合わせが小説」という言い方がおもしろい。

思ったままを、正直に書く、というのは、すぐれた私小説に不可欠の条件で、志賀直哉はそういう文章だ。そしてそれは、〈自我を貫く眼差し〉を伴っていなければならない。どんなに巧みに書かれていても、自己正当化や自己憐憫、要するにナルシシズムがくっついていたり隠されていたりする文章は臭くて読めたものではない。太宰や三島の文章には、若干その香りが残っている。もちろんプロの小説家として、読者を捕らえて話さない工夫はされているから、面白く読める作品にはなっている。だが、彼らに真の意味での私小説は書けないだろう。

小島信夫は、たとえば『うるわしき日々』の、痴呆症の妻とアル中患者の息子を抱えて右往左往するような悲惨な日常を、自己憐憫などの感情からまったく切り離されたところから書いている。この彼の〈眼差し〉は先天的なものか、彼の人生経験の中で培われてきたものかは分からないが、その「エゴの突き放し度合い」は、他の現代作家と比べても突き抜けたものがあるように思える。だから、『抱擁家族』のような小説は、今読んでも、おそらく百年後に読んでも新しいままだろう。
0
タグ: 小島信夫

2021/6/8 | 投稿者: pdo

『続明暗』を評して、作者が親しんできた日本近代文学、中でも菊池寛の『真珠夫人』のような通俗小説になってしまっている、という小論を読んだ(渡邊澄子『男漱石を女が読む』)。いくつかの具体的な個所について、漱石なら決してそんな書き方はしないという、その指摘には頷ける部分も大いにあった。しかし『続明暗』の著者(水村美苗)は、自分が漱石の『明暗』を漱石に成り代わって完成させたなどと主張しているわけではないのだから、批判としては的を外していると言わざるを得ない。

図書館で水村美苗『私小説from left to right』を借りて読んでみたが、いまひとつピンと来ず。十二歳の時にアメリカに一家で移住し、ちょうど二十年経った十二月の一夜、姉の奈苗と長電話しながら、そこに過去のさまざまな回想が絡まる。アメリカで日本人が生きるとはどういうことか。日本というイメージへの憧れと小説を書きたいという思い。テーマとしては切実で、小説の素材となるだけの深さもあると感じるが、こちらの気持ちの持ち方が、どうもそれをまっすぐに受け止める方へ行かない。テーマへの共感度合いが小説の面白さを決める一要素だとすれば、その点では初めから読者失格なのかもしれない。文体は日本語としてもちろん流暢で読み易く、そこに英語が混じるのも新鮮とはいえる。英語の混じり方も不自然な印象は与えない。著者の頭の中の忠実な再現といってもよいのだろう。

『私小説』というタイトルに惹かれるものがあったのだが、期待していたようなものとは違った。私小説と銘打ってはいても、純文学と通俗小説の違いというのはやはりあって、その区別はどこにあるのかと言われると言葉に詰まるのだが、たとえば先日読んでみた赤松利市『ボダ子』は私小説であるという人もいるのだが通俗小説にしか思えず(この作家の『藻屑蟹』という小説は面白かった)、この水村美苗の小説も、自分の評価基準からすると、通俗小説に限りなく近いところにあるような気がする。たとえば津島佑子の『光の領分』や『寵児』は、フィクショナルな体裁はあっても、私小説としてすぐれていると思う。

自分のことを書けば私小説になるのかというとそうではない。フィクショナルではあっても、その主人公に自分の深い部分にあるものが投影されていれば純文学だし私小説といえるのではないか。

大岡昇平は作家になろうと思うと小林秀雄に話したとき、「描写なんかせずに、魂のことを書け」と言われたという。そのエピソードが好きだ。
0

2021/6/7 | 投稿者: pdo

小島信夫の『漱石を読む』という辞典のようにぶ厚い評論集(水声社)を読むために漱石の『明暗』を読み返し、さらに水村美苗『続明暗』というのも読む。

『続明暗』は、『明暗』の伏線をすべてきれいに回収するような形で、物語をうまくまとめてある。著者自身が「批判を覚悟して書いた」と述べるとおり、漱石の作品の〈つづき〉を書くというのは勇気のいる企てである。だがこの『続明暗』を読んで、これはこれで立派な作品だと認めない者はほとんどいないだろう。そのくらい上手く書かれている。仮に漱石が死んだ後で、これが残された原稿であると称して新聞連載を続けたとしても誰も気づかないのではないか、という位に漱石の文体もうまく模倣してある。

もちろん、穿った目で見れば、登場人物の扱い方などについて、ケチのつけ所というか若干の不満がないわけではない。個人的には、お延が温泉旅館に津田を追いかけていき、津田と清子が滝の傍で立ち話しているところに出くわすまではよかったが、そこからお延と清子の〈女の対決〉が是非見てみたい気がするし、津田と、清子の夫である関の〈対決〉も見たい気がする。それから吉川夫人が本当のところで何を考えていたのかを知りたい気がする。漱石作品の中でドストエフスキー的な雰囲気を最も湛えた人物である小林の言葉ももっと聞いてみかった気もする。それなら自分で書けばいいじゃないか、と言われたら、そんな文才があればなあ…と溜息をつくしかない。

『続明暗』を読んで、自分がその昔、漫画「じゃりン子チエ」のつづきを妄想してト書き小説みたいなのを書いたときのことを思い出した。この小説が作家水村美苗のデビュー作となったというのもまた興味深い。この人の別の小説も読みたくなった。

0




AutoPage最新お知らせ