2019/10/14 | 投稿者: pdo

福田勝美著『ドストエフスキー 転回と障害』(論創社)という本を買って読む。

今年の7月に出たばかりの本だが、今までに読んだドストエフスキー論の中で一番しっくりくる部分が多かった(もっとも、当たり前のことだが、すべての箇所に同意できたわけではない)。

著者独特の用語(「霊的存在」とか「転回」とか「障害」といった)が却って論旨を解りにくくさせている部分もあると思う。著者によれば、「ドストエフスキーはシベリア流刑で<転向>したのではなく<転回>したのだ」というが、単なる言葉の言い換えではないのか。

ドストエフスキーが「転向」したのだという阿保な評者にはそう言わせておけばいいではないか。彼に「転向作家」のレッテルを貼って満足できる程度の知能の持ち主に今更何を言っても無駄なことだ。

本のタイトルにもなっている「転回と障害」の「障害」の意味がこれまたよく分からない。
しかし、分からなくとも、著者の読解に共感するさしたる障害にはならないと思いたい。

『白痴』を論じた箇所、そして『悪霊』のスタヴローギンを論じた章は、出色だと思う。

ただ、わたしは、ナスターシャ・フィリポヴナとアグラーヤが同程度の造型を与えられているとは思わない(ナスターシャの方がはるかに深い)し、スタヴローギンの造型に聖パウロの使徒書簡の大きな影響があったとも思わない。

『カラマーゾフの兄弟』を論じた箇所は、端的に何を言っているのかよく分からなかった。彼は何故か小林秀雄の批評が気に入らないらしく上から目線で再三貶しているが、彼自身もよく分からない断定を結構している(スメルジャコフがイワンに対して下僕意識しかもっておらず、主人から追放されたから自殺するしかなかったとか。まあそういう解釈もあり得るが、スメルジャコフに関してはそんなに単純に割り切れる話ではない。ただし登場人物のうちドミートリイの造型が最も優れていることには同意する。もっともそんなことには誰もが同意するだろう)。

批判が先行したが、全体的には、本を置くこともできず一気に読了するほど大変興味深い内容だった。これほど重厚なドストエフスキー論を発表してくれた著者と、この本を出版してくれた出版社には感謝の念しか起こらない。
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2019/9/29 | 投稿者: pdo

この数週間は『悪霊』にすっかり憑りつかれていて、今は米川正夫訳と江川卓訳と亀山郁夫訳を頭から順番に読み比べを開始した。

どの翻訳も一長一短だが、今のところ(第1部の途中)米川正夫訳が一番しっくり来る。

江川卓訳はいいのだが、ステパン氏のフランス語をカタカナニシテイルノガイタダケナイ。

ネクラーソフの詩を引用した、<ステパン先生が知識人としてスクヴォレーシキ村で祖国のために果たしていた役割>については、

「譴責の権化」(米川正夫訳)

「生ける良心」(江川卓訳)

「血肉と化した非難」(亀山郁夫訳)

の三種三様だが、やっぱり「譴責の権化」がカッコいい。

「譴責の権化(あるいは生ける良心、血肉と化した非難)」として祖国の前に立っているのに、疲れてすぐ寝転んでしまうのがステパン氏。

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2019/9/22 | 投稿者: pdo

車中で『貧しき人びと』を読む。最後の頁だけは読んでいると号泣しそうで怖かったので読まなかった。あとで独りになって読んだらやっぱり号泣した。

世間から侮蔑の目で見られている小心で善良な小役人マカール・ジェーヴシキンと薄幸の乙女ワーレンカの不幸な恋の物語。往復書簡という体裁をとったこの小説は、ドストエフスキーの処女作であり、都会の吹きだまりに住む人々の孤独と屈辱を訴え、彼らの人間的自負と社会的卑屈さの心理的葛藤を描いて、「写実的ヒューマニズム」の傑作と絶賛され、文豪の名を一時に高めた作品である。(新潮文庫裏表紙より)

当時の文壇の大物ネクラーソフがこの作品の朗読を聞いて感動し、夜中にドストエフスキーの自宅に押し掛けて激賞したというエピソードがあるが、この作品を朗読するには少なくとも日本語訳では3時間はかかると思われ、当時のロシア知識人は我慢強かったのかと思う。あちこちで朗読会と言うのがしきりに催されていた様で、この小説の主人公マカール・ジェーヴシキンもちょっとした作家ラタジャーエフの作品の朗読会に参加して、そのことをワーレンカに自慢げに手紙に書いている。一方のワーレンカにとってはそんなことはどうでもよく、マカールの情熱は完全に上滑りしているのだが。

このドストエフスキーの処女作では早くも、小娘に馬鹿にされながらも傅く中年男という永遠のモチーフが確立している。主人公のマカールは47歳だが、当時のドストエフスキーはまだ20歳を超えたばかりだ。この精神的成熟は何なのだろう。

ロゴージンとナスターシャ、ラスコリーニコフとソーニャ、『賭博者』の主人公とポリーナ、ミーチャ・カラマーゾフとグルーシェンカ、などなど、この関係性はドストエフスキーの性的嗜好そのものといってよい。そんな彼にとって、45歳になって巡り合った20歳のアンナとの結婚がどんなに幸福なものだったかは想像に難くない。

ツンデレとか寝取られとか、今のコミケや同人誌に出てくるような萌え要素が極端な形で具現化されているのがドストエフスキーの小説だ。『永遠の夫(万年亭主)』なんて究極の寝取られ小説だ。

さて、『貧しき人びと』だが、


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2019/9/19 | 投稿者: pdo

『悪霊』の登場人物の中で、最もよく描けているのは、スタヴローギンや他の人物よりも、ステパン氏であるという説は有力だ。

西欧(フランス)かぶれのリベラリストだが、偽善的で腰の座っていない姿勢を、自らの教え子である、より過激な自由思想をもつ下の世代から突き上げをくらう、という様子が、実にリアルに描かれている。

ステパン世代も、その息子であるピョートル世代も、大地とか民衆とのつながりを欠いている、という点では共通している。

実はそのことは、日本のリベラルや左翼にも言えることではないか。彼らは、民衆の中に真の基盤を持っていないから、彼らの志向する改革や革命は敗北を運命づけられている。

ロシアで成功した共産主義革命が20世紀最大の悪夢であったこは歴史が証明している。

ステパン氏のキャラクターには、ワルワーラ夫人との20年以上にわたる友情、というもう一つの側面もある。

二人の関係はプラトニックなもので、ステパン氏の死に至るまで二人の友情は高潔なままであった。

しかし、ほんの一時期、二人の関係が一線を越えそうになったことがあった。

ワルワーラ夫人の夫であるスタヴローギン中尉が死去したという知らせを受け(夫婦は既に4年間別居していた)、ふさぎ込んでいた時期、ワルワーラ夫人を慰め、大切な心の友となったのは、ステパン氏であった。

このとき、ワルワーラ夫人は、「わたし、このことはけっして忘れませんからね!」という名セリフを吐いている。

「このこと」とは一体何なのか?
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2019/9/18 | 投稿者: pdo

キリーロフは、自分は既に救われたと信じている。

なぜなら、究極の真理を悟ったから。あとは、その具体的実践の問題が残るだけだ。

オウム真理教の内部にカメラを持ち込み、信者たちの姿を曝け出した「A」「A2」というドキュメンタリー作品(森達也監督)がある。

キリーロフという人物は、そこに出てきたオウムの修行者の姿と被って仕方がない。

これは決して彼らを馬鹿にしているのではない、いや、馬鹿にしているのかもしれない。

なぜなら、それはあの頃の自分の姿でもあるからだ。

オウムにこそ入信しなかったものの、20代の自分は、「永久調和の瞬間」を垣間見たと思い込んで、「すべてはすばらしい」と思い込んでいた。

キリーロフは語る。

「人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないから、それだけです。これがいっさい、いっさいなんです! 知る者はただちに幸福になる。その瞬間に。あの姑が死んで、女の子が一人で残される―すべてすばらしい。」

「すばらしい。赤ん坊の頭をぐしゃぐしゃに叩き潰す者がいても、やっぱりすばらしい。叩き潰さない者も、やっぱりすばらしい。すべてがすばらしい。すべてがです。すべてがすばらしいことを知る者には、すばらしい。もしみなが、すばらしいことを知るようになれば、すばらしくなるのだけど、すばらしいことを知らないうちは、ひとつもすばらしくないでしょうよ。僕の考えはこれですべてです。これだけ、ほかには何もありません」


ドストエフスキーは仏教の悟りや禅の教えについては何も知らなかっただろうが、いわゆる禅の悟った人たちの言うことはまさにこんな感じだ。

世界が不幸に見えるのは、あなたが世界がすばらしいことを知らないからに過ぎない。

悟りを開けば、すべてはうまくいく。そんな題名の本が今も売れている。

キリーロフは、ある意味で悟りを開いた男だ。

だから、自殺するのもしないのも自由だが、人間がゴリラの段階から進化したように、人間を「人神」へと進化させるために、自殺することによって、人間自らが神であることを示し、すべての人々に扉を開くのだ。

それで、彼がやったことは何か。

「組織の裏切り者」であるシャートフを殺害することを黙認し、遺書の中で自らが殺人者であることを認め、ピストルで自殺した。

遺書は自分で書いたのではなく、ピョートルに書かされた文章だ。

キリーロフは、なかなか自殺できなかった。業を煮やしたピョートルが部屋に入ってきたときには、部屋の隅の戸棚の陰に隠れ、ピョートルの顔に噛みつき、ピョートルに拳銃で頭を殴られ、「いますぐ、いますぐ!」と十回も叫び続けた挙句、右のこめかみに弾丸を発射した。

通風孔を開け放してある窓のそばに、足を部屋の右側に向けて、キリーロフの死体が横たわっていた。弾丸は右のこめかみに撃ちこまれ、頭蓋骨を貫通して、左の上端から抜けていた。血と脳味噌のしぶきが散っていた。ピストルは床の上に投げ出された自殺者の手に握られていた。

このおそろしく無惨な自らの死もまた、キリーロフは「すばらしい」と言い切れるのだろうか。

キリーロフが「永久調和の瞬間」を経験し、「すべてはすばらしい」という境地を味わったことがあることを自分は疑わない(それが癲癇の症状だったにしても)。

だが、キリーロフのように自殺できなかった自分は、かつて自分も確かに実感していた「永久調和の瞬間」は所詮ドラッグによる高揚感のようなものでしかないのだと今は考えている。
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