2020/4/5 | 投稿者: pdo

FM東京の「サンデー・ソングブック」の中で山下達郎が志村けんについて「決して文化人になろうとしなかった点を尊敬する」と追悼の言葉を述べていた。

僕は小学生の頃は「8時だよ全員集合」、中高生は「俺たちひょうきん族」、大学以降は「ごっつええ感じ」で育った世代なので、コメディアンとしての志村けんについてはザ・ドリフターズの黄金時代しか知らず、「バカ殿」などについてはほとんど知らない(そういえばうちの祖母はバカ殿のコントが大好きでよくゲラゲラ笑っていたのを思い出した)。

志村けんの笑いは、極力捻りや知性やウイットを排した、たけし以降の笑いからすると素朴で幼稚とも思える種類のもので、子供のころにドリフの黄金時代を体験できたことは贅沢な体験だったのだなあと今になると思う。

そう考えると、山下達郎のラジオをリアルタイムで毎週聴くことができるというのも贅沢なことだ。

何事も、失ってみて初めてそのありがたさが実感されるものなのかもしれない。


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2019/7/22 | 投稿者: pdo

吉本が東京に進出して、日本の芸能界を席巻するようになったのは、ほぼダウンタウンの東京進出と軌を一にしている。

その頃のDTのマネージャーをしていたのが、今の吉本の経営陣だ。

今の吉本は、DTファミリーの力が絶大過ぎて、若手の間には息苦しさもあったのだろう。

世代交代が進まない今の芸能界全体の問題でもある。

だいたいお笑いが偉くなりすぎた。

それはテレビ局が一番悪い、とか悪者探しも虚しい。

もっとそれぞれの生活を楽しく充実させれば、お笑いなんてこれほど必要ではない、はず。
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2018/9/2 | 投稿者: pdo



今日は本屋で見つけたこの本を読んだ。

解説をオードリー若林が書いている。

テレビもラジオも縁遠くなっている自分は、山里亮太について余りよく知らないのだが、この本を読む限り、若林も解説で指摘している通り、タイトルとは違って彼は「天才」である。

「天才とは努力し続けられる才能のこと」と言ったのは羽生善治だ。この定義に山里はきっちりと当てはまる。

嫉妬や他人から傷つけられた体験による負の感情を「努力」へのガソリンに「変換」するという覚悟と決意が繰り返し語られている。

ルサンチマンを根源的なモチベーションとする成功というものは、究極的にはそれによって得られたエゴのプライドの満足度合いに比例する虚無感を生み出すものだと思っているが、この本を読む限り山里亮太はそのようなダークゾーンには落ちていない。

それはあくまでも自己を客観視できる「自己凝視」の能力が身についているからだと思った。

オードリーの若林もそうだが、自虐や自意識の痛みを「芸」にまで高めるためには、どうしてもこの一切の自己幻想や願望的思考を取り去ったリアルな「自己凝視」の視線を潜り抜けなければならない。

山里がこの本の中で赤裸々に告白している周囲への怒り、憎悪、そして相方にすら向けられる嫉妬などの負の感情は、この「自己凝視」の視線に晒されることで浄化され、変態(メタモルフォーゼ)を遂げた。その過程が、ラジオやテレビにおける山里のトークを彷彿とさせる巧みな筆致で鮮やかに描き出されているから、読者は彼の毒と屈折した愛を含んだ独白にぐいぐいと引きこまれる。終章にかけての、相方のしずちゃんとの関係性を含んだくだりは感動すら呼び起す。

いいものを読んだ、という爽やかな読後感を味わった。
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2016/9/23 | 投稿者: pdo

「君たちが10人束になってかかってきても、僕一人にかなうかい?」

(『信仰は力なり』(佐藤正忠著、経済界)より


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昭和45年の夏、佐藤正忠のもとに、東京ゆかた社長の河合幸之助から電話がかかってきた。

「浅草に、それはもう百発百中の霊能者がいるんですよ。すばらしい人ですよ。一度会われたらいかがですか」

当時佐藤は、衆議院選挙に敗れ、選挙違反で逮捕され、不遇をかこっていた。

河合幸之助は新興宗教の教祖にのめり込んでいくタイプで、白光の五井昌久にも河合の紹介で会っている。一時期かなり親しくしていたが、佐藤の選挙出馬に対して「100%当選しますよ」と予言していたが敗れたことから疎遠になっていた。

浅草の駅ビルを訪ねると、一見宗教家というより電気工事人といういでたちの高橋信次がいた。

その事務所は、ビルの4階にあり、開け放した窓からは隅田川の濁った水からのプーンとする臭いが生ぬるい風に乗って入って来るのだった。

初対面の挨拶をすませるやいきなり高橋信次は、

「佐藤さん、あなたは私をためしてやろうと思ってきたんでしょう…」と言った。

「あなたは、選挙違反で秋田刑務所に入っていた時に、こんな心境だったでしょう」と言って、そのときの佐藤の心境を話し出した。その指摘は真実であった。あとから聞いたところでは、高橋信次は佐藤の「守護霊」と話をしていたのだと言う。

「もう政治なんかやめた方がいいですよ。あなたは雑誌で必ず成功なさいますよ」と言った。

道場破りに行った佐藤だったが、逆に高橋信次のとりこになっていく。

佐藤は最後までGLA(高橋のつくった新興宗教教団)の会員ではなく、信者でもなかった。心の中では近づいていても、形の上では友人という立場を離れることはなかった。

当時の教団名であった神光会なんて新興宗教のような名前を変えてGLA(ゴッド・ライト・アソシエイション)にしたらどうかと勧めたのも佐藤だった。

謄写版のような本を出版しようとしていた高橋信次に、「こんな本ダメですよ。もっと本格的なものを出さないと」と助言すると、「よろしくお願いしますよ」と言ってきた。それで佐藤が出版したのが「縁生の舟」という本であった(後に改題し「心の発見」となった)。

高橋はもともと技術屋で、文章は苦手だった。口述筆記に頼った。

「原説般若心経」という本を出した時は、「僕はね、仏教書なんか一冊も読んだことが無いんです。メチャクチャですよね」と笑っていた。

高橋の本はベストセラーになり、印税を払うと、高橋は小切手を手にしながら、「こんなにいただいて、いいんですか」と言うのであった。バーやクラブに一緒に行くと、高橋は酒は飲まず、ホステスの話に静かに耳を傾けていた。

そのうち口述筆記ではなく自分で書くようになっていたが、文字が読みにくく解読するのだが大変だった。高橋の自宅にもビルにも宗教書の類は一冊もなかった。すべて霊感に頼って書いているのだった。

高橋は、個人で話しているときは、なんの変哲もない、どこにでもいるオッサンという感じだが、演壇に上がって演説を始めると、まったく別人になっていく。火を噴くような激しい演説をした。ぐいぐいと聴衆を引き付けていく。それは人間ではなく、神か仏がこの人に乗り移っているという感じだった。

佐藤は仕事(経済ジャーナリスト、雑誌編集者)で悩むことがあると高橋に相談した。松下幸之助に会せようともした。高橋の死後もいろんな新興宗教を渡り歩いている。

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菅原秀という人が、「誰も書かなかった高橋信次」という本の中で、等身大の高橋信次について書いていて面白い。

彼によると、「高橋信次はすぐれた宗教家であったと同時に、ごくノーマルな人間であった」という。

菅原氏自身は高橋信次と交流があったのは5年に満たず、彼の教団のメンバーでもなかった。信者ではない立場から、信者にしか分からない言葉を使うことなしに客観的な筆致で書かれている。

彼によると、高橋信次のまわりには「生長の家」という宗教団体(教祖谷口雅春)を遍歴してきた人が多かったという。彼らは、修行や教義による悩みというよりも、女性問題や人間関係などの世俗的な失敗の経験の解決を高橋信次にゆだね、個人的な問題をウダウダと話すことが多かった。

高橋信次は、「宗教関係者というのは、人に間違ったことを教えることが多いので、ほとんどが地獄に行く」と言い、他人の何倍も心を磨く努力をせよと言った。彼のやり方は、「○月×日にあなたはこんなことをしましたね」とか、「こういうふうに思いましたね」「そのとき・・・さんがいましたね」などと相手に言い逃れを許さず畳み掛けていく。「生長の家」やその他の団体の幹部クラスの帰依者が多かったが、彼らは心の中に隠していることを容赦なくあらいざらいにさせられていた。菅原氏はそういう光景を傍らで見ながら、宗教団体の幹部の人間が心に抱えている毒と闇がどれほどおぞましいかを見せつけられたという。

宗教家はおおむね指導的立場にあることで傲慢になっていて自分は特別な人間であるという特権意識から抜け出せていない。他人の心を分かりもしないのに、相手を「心が未熟な人」と決めつけ、「導いてやろう」という傲慢さを捨てきれない。

高橋信次に生前反省の行をさせられた幹部の多くは結局、信次の死後、次々に自分を教祖とした団体を作っていった。信次自身が、晩年は太陽系の霊団がどうのこうのというわけの分からないことを言い出し(晩年は極度に衰弱していたというから精神を病んだのかもしれない)、娘の佳子が「大天使ミカエル」と名乗るなどの狂気の沙汰を引き起こしていることから分かる通り、宗教などと言うものは所詮人間を過たせ、いっそう業の深い道に引きずり込むのがオチなのだということをよく肝に銘じるべき。

高橋信次のところには、精神と肉体に不調和を抱えた人が続々とやって来たが、「病気の80%は憑依霊によるもの」と言って、取り除くことを行っていたから、大本教につながる心霊治療の流れを汲んでおり、同様に大本教から派生した生長の家と縁があったことも頷ける。

死んでいく人への「引導わたし」もやった。平安時代の「往生要集」にもあるように、死者を導くことは仏教の重要な役割の一つである。現代においても仏教やカトリックの葬式はそれが目的である(ただし聖職者の多くは訳が分からないままお経をあげたり戒名を書いたりしているだけだ)。ちなみに娘の佳子にも「引導わたし」の能力はあったと菅原氏は書いている。

高橋信次の名前を有名にした過去生の「異言」パフォーマンスについても語られている。菅原氏自身もやってみたくて、信次の前でムー大陸の「キワワカ語」で喋った様子が描かれているがコントみたいで面白い。信者たちの夢の中でドラマを作り人間関係のテストをする「夢テスト」というのもあってその話も超面白いのだが割愛する。

高橋信次は、1927年9月21日に信州佐久高原に生まれた。家は貧しい農家で10人兄弟の次男であった。(男3人、女7人の真ん中に生まれた。)父は黙々と働く人で、華やかなものは何一つない地味な生活を送り75歳の生涯を終えた。

信次が10歳の時、不思議な現象が起きた。10歳の9月3日の夜8時頃、原因不明の病気にかかり何度か死線を越える状態に陥り臨死体験のようなものをした。

ある時、成田山へ詣でた時、黒染衣を着て顔を深く隠したまんじゅう笠姿の旅僧に行き会い「病気のことは心配するな。近々に治る。お前の目は二重孔であるので、一生懸命勉強すれば必ず霊力をもつようになろう。」と言われた。そのあと、先に出会った旅僧と同じ姿の方が近寄ってきて正しい心のあり方を教えてくれるのであった。

「神とは何者だろうか?祈りとは何であろうか?」疑問は何一つ解決することなく時は過ぎていった。軍国主義の日本において中学を中退して軍人志願に踏み切ってしまった。軍隊では躾が厳しく規則正しい生活であり、中学時代不勉強だった信次も日が経つにつれ要領を得、学問も理解できるようになった。それは、父母のため、天皇のため、国家のためという儒教的思想であり思考一筋という教育であった。

貧乏人の子せがれにとって国から給料をもらいながら学ぶのであるからありがたい環境であった。上級学校に行くに従って飛行機乗りに必要な電気工学、磁気学を学んだ。

1946年に人生の大転機が訪れる。敗戦のショックは神国日本、不敗の日本精神を叩き込まれた信次が初めて体験する人生航路の衝撃だった。復員の時渡された2300円、それに父から貰った牛一頭が全財産であった。信次はもう一度勉強しようと科学書や物理学書を紐解き、大学入試の認定試験も受けた。

25歳の時、電気関係の仕事をするため小さな工場を借りて5〜6人の従業員とともに生活のためにスタートを切った。製造品目は自動卸御装置が主体であったが学校は仕事の暇などに行き、神仏の話ばかりするので理科系の人とは話が合わなかった。学友の間では全くの気違い扱いであった。学友と女性のことやセックスについてよく話をし、それが心を占領して悩むようになったと語っている。

1954年12月に結婚。この年、事業に失敗して一文無しになる。アパート暮らしであったが、身軽なもので近隣との付き合いにも親しみがあった。この頃から不思議な現象が始まり、予言めいたことも行い、相談に来る人が狭いアパートいっぱいに溢れることもあった。なぜ予言が当たるのかは答えられなかった。この頃妻の兄弟たちが創価学会の熱心な信者となり、折伏攻撃にあって問答を繰り返している。

再び生活のために大森に100坪ばかりの工場を建て、昔の得意先の協力を得て電気会社を設立。事業は順調に伸び神奈川と長野に小さな生産工場を設備した。現在のコンピューターの原型にあたるアナログ型の各種の制御装置や磁気記録装置、脳波計、新幹線の自動制御装置まで手掛けていたという。

浅草で自社ビル(八起ビル)の建設が始まり、電気事業だけでなくサウナ風呂や超音波温泉などの風俗事業にも進出しようと事業は着々と進んでいった。そして1968年7月3日に「霊的現象」が始まる。

1968年2月3日に灯明の炎の高さが25cmになり、灯明の炎の光が二つに割れて生きているように燃えた。これが霊的現象の始まりとされる。そして1968年7月3日に義弟の口を通して「この者が昭和40年2月に自動車事故を起こして7日間意識不明になっていた時、この者を助けたのはわしである。」と重大なことを語りだした。(確かに義弟は中学3年の3学期に自動車とオートバイの正面衝突という事故に見舞われ頭部を打って意識不明のまま5日間を過ごし、生死の境をさまよったことがあった。)1968年7月7日の夜、義弟を通してワンツースリーといわれる外人の霊が信次の心の中を全て見通しているようなことを言った。7月8日の夜、ワンツースリーから今日一日の心の動きをすべて指摘され、信次の守護霊と称するワン・シン・フワイ・シンフォーから「今日から3日間で悟れ」と言われる。信次は3日間苦しんだが何も分からず、約束の7月12日が来てしまった。信次は「独りよがりな考え方、欲望のとりこ、確かに今までの自分はそうであった。もう地位も名誉も捨てよう。死んでもいい。今義弟を支配している霊は悪魔かもしれない。もし彼らが悪魔であるならば私が善に変えてやろう」と決心すると、信次の心の中からシンフォーの声がした。「今のような心を忘れるな。謙虚な心、執着を捨てた心、そして自分というものは中道を心の物差しとした自らの智慧と勇気と努力の中から生まれるのだ」と語りだしたのである。ワンツースリーが義弟の口を通して「今晩は、お前の心が正しく変わったことで実世界(天上界)では光に満たされ、お祝いがある。こちらでもお祝いをしよう」と語った。信次41歳であった。

高橋信次は1976年6月25日に死去したが、その3ヶ月前に「真のメシアの悟りを開いた」と言い始めた。信者の間では「太陽系霊団の系図」と呼ばれている。その中身はとてもここに書くに忍びない妄想物語であり中二病メルヘンであるが、信者はこれを真に受けて、信次の死後に娘の高橋佳子を担ぎ上げてSF作家の平井和正がブレーンとなって「大天使ミカエル」教という宗教を作り上げたとさ。その際に彼女はこんなことを言っていた。

「わたしは大天使ミカエルである。神はミカエルにこの世界を委された。釈迦、キリストは人類が幸福になる道を説かなかった。仏教、キリスト教はローカル宗教であり世界宗教ではない。釈迦、キリストを指導したのは、わたしミカエルである。高橋信次先生の教えは必要ない。五年後には全世界の人類はみなミカエル佳子の前にひざまずくのである」

はいはい、チャンチャン。



ところで、能年玲奈のファン達は今後どうすればいいのだろう?

僕たちは能年玲奈をどうしたいのだろう?

能年玲奈はどうしたらいいのだろう?

ひとつ、真剣に考えてみないだろうか。

とりあえず、「のんちゃんねる Line Live」を全部完璧に書き起こすところから始めないか?

誰かやってみないか?

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2016/7/9 | 投稿者: pdo

選挙で何かが変わるなんて1ミクロンも考えちゃいないけど、投票には行くつもり。

現時点の分析などを見ると、東京は民進党の小川とおおさか維新の田中が当落線上で争っているとか。

個人的には田中支持であり民進党や小川氏に入れる義理もシンパシーもないのだが、仮に田中当選の場合、改憲議席を一つ増やすことになると考えざるを得ない。

自分は護憲絶対派でもないが自民党の改憲草案は20世紀の地獄を通過してきた人類には到底許容できるものではない。

田中康夫は自民党の改憲案には明確に反対を表明しているが、「おおさか維新の一兵卒として働きたい」と申し入れた人間が党の方針に逆らうことができるとは思わない。そしておおさか維新が自民党との協議の際に自民案に妥協する可能性は非常に高い。

したがって田中個人が何と言おうが、田中の議席は現政権に対する賛成票を意味する。

以上の理由から、消去法により、東京選挙区は民進党の小川氏に入れようと今は考えている。

一晩寝たら結論が異なる場合もありうる。

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