2021/10/4 | 投稿者: pdo

日曜日、朝から飼い猫が窓際でぐったりしていて、これはもういよいよだな、と思う。娘もそう感じたのかずっとそばにいた。自分もそばの机で土曜日に図書館で借りてきた松本清張『昭和史発掘』をずっと読んでいた。

妻が小さな段ボールに毛布を入れて寝かせたのを出て直接床に横たわっていた。食欲もなく、妻が買ってきた介護用流動食も顔を背けて受け付けない。土曜日には病院で点滴と注射を受けてきた。途中で何度か自分でトイレまで行ったが、出るものはほとんどなかった。娘が撫でるのも嫌がって、机の下に潜りこんで寝た。時々大きな声で三回くらいずつ鳴いた。身体の姿勢を変えるときに痛いのではないかと妻が言った。弱っているにしては大きなハッキリした声だった。老人が病床で「(身体が)痛い!痛い!」と叫んでいる感じに似ていると思った。もちろん人間の場合に付随する忌々しさや憎々し気な様子はまったくない。思わず声が出てしまうという感じだ。それだけに憐みが増す。

この一年くらい特にお喋りになって、よく鳴いて何かを訴えてきた。たいていは餌の催促だった。催促はするものの歯が駄目になっているので噛めず、胃袋に毛繕いの時に飲み込んだ自分の毛が溜まっていてあまり食べ物が入らず、いつもお腹を空かせているように餌の皿の前に坐りこんでいることが多かった。動物病院には一年半くらい前から週末に妻が連れて行っていて、すい臓と腎臓が弱っている、老猫にはよくある症状だと言われていた。下痢をして一日に何度も粗相をするので、家の床の至る所に排泄物が落ちていて、踏んづけることがよくあった。お父さん(僕)が踏んづけたときの不快そうな声が嫌いだと娘が言っていた。娘は踏んづけても黙って足を拭いてシャワーで流していた。

夜になっても机の下で身体を伸ばして横たわり時々姿勢を変えていた。動かなくなったので近づいて見るとお腹が微かに動いて呼吸しているのが分った。十時過ぎに就寝したが娘は長椅子で本を読みながら様子を伺っていた。夜中二時頃目を覚ましたら、妻が「(  )が死んだよ」と言った。起き上がって書斎に行き、妻と娘が交替で遺骸を抱いているのを眺めた。もう一匹の猫は気配を察しているのか、最後の日はいつものようにちょっかいをだすことはなく、今朝も遺骸の傍で大人しく坐っていた。

彼が我が家に来たのは2010年7月ころで(7月10日付の写真が残っている)、その時には生まれて半年くらいだったのではないか。ペットショップで売れ残っているのを妻が買ってきた。愛嬌のある顔立ちで、ベンガル特有の人懐こさがあってとても可愛かった。名付けたのは娘だった。若い頃は活発で、窓を開けたすきに外に飛び出したことが何度かある。妻がその度に捕獲しに行った。2011年3月11日の地震の時にも外に飛び出して向かいの家に行ったのを妻が捕まえた。捕獲用のネットも購入した。

それか半年くらいして、妻がまた猫を買ってきた(2011年2月19日付の写真が残っている)。今度はマンチカンで、マンチカンは犬でいうダックスフンドのように胴長短足の種だが、シードルはスタイルは普通の猫と余り違わなかった。大人しい性分で、彼がちょっかいを出すのに最後まで慣れない様子だったが、じゃれ合ったりよく身体をくっつけ合って寝た。こちらは数年で死んだ。元々身体が弱かったのと、家にある薬品のようなものを食べてしまったのが原因らしい。そのとき火葬したペット霊園に今日彼を連れて行き、その時と同じで、妻と娘が立ち会う。

彼のおかげで猫というものの可愛さ、美しさを知った。
存在しているだけで家族にとっての癒しだった。
今まで一緒にいてくれてありがとう。

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2021/9/24 | 投稿者: pdo

22日に息子と田舎の実家に行き、23日に帰ってくる。

一年以上ぶりだった。22日には近く(タクシーで15分くらい)の霊園に父の納骨をする。コロナのために、亡くなって十か月後にようやくお墓に納めることができた。息子は霊園に行くのは初めてだった。僕も前に来たのは妻と一緒だから何年前のことかもう分からない。
天気がよく、霊園からの見晴らしが抜群だった。

墓誌をスマホで写真にとる。
※※※居士 昭和十年十一月九日 ※※※※※ 五十一歳
※※※大姉 昭和二十三年五月十七日 ※※※※※ 六十五歳
※※※不退轉 平成一年五月十八日 ※※※※ 八十二歳
※※※不退轉 平成六年八月十六日 ※※※※ 八十二歳
※※※不退轉 令和二年五月三十日 ※※※※ 八十五歳

13時45分の切符を買う。表示板に空席が表示されるが、席はそこそこ埋まっている。そういえば新宿は東口の「みどりの窓口」がいつの間になくなっており、中央改札脇の券売機で買わされる羽目になった。

いつものように駅ビルの黒田寛一(革マル指導者)の全集が並んでいる特徴的な書店で少し時間を潰す。今回は本を買わなかった。車内で読む本は既に用意があったので。行きの車内で読んだ佐伯一麦『ノルゲ』の最終章と、松本の本棚から持ってきた山川健一『ローリング・キッズ』。

『ローリング・キッズ』を読み返すのは数十年ぶりだが、文章は全部覚えていた。

自分にとってミック・ジャガーのカリスマ性が最大値を記録したのは、この山川健一の本で読んだ「パリのホテルでエレベーターから出てきたミックが、インタビューのために待ちかまえていた山川健一ら四名のスタッフの胸を指さして〈ハイ、ハイ、ハイ、ハーイ〉と言った」場面だが、この時のインタビューはミックのソロアルバム『シーズ・ザ・ボス』のプロモーションのために行われたもので、山川健一は『週刊プレイボーイ』日本版の記事の担当だった。

僕にとってリアルタイムでのストーンズ体験(?)はこのミックのアルバムと、『ダーティ・ワーク』というアルバムである。これらのアルバムは彼らのキャリアの中でいえばそんなに名盤というわけではない。が、不思議な愛着がある。

ストーンズのアルバムは「ベガーズ・バンケット」から「メインストリートのならず者」までが頂点というのは衆目の一致するところだろう。僕も聴き返すとしたらそこだ。しかし60年代のR&Bのカバーをやっていた頃の演奏にも青臭い魅力がある。60年代末から70年代のストーンズのライブは本当に鬼気迫るといった感じがあって好きだ。

山川健一は最近どうしているのだろう、と思ってググってみたら、〈小説の書き方講座〉みたいなのを毎週有料で配信しているようだ。この人についての知識は、オーラが見えるようになったというような本を書いてスピリチュアルにハマったらしい、というところで終っていた。そういえばうちの息子は両親(僕と妻)が晩年怪しいスピリチュアルにハマるのではないかと警戒しているようだ、ということが帰り道の会話で分かった。
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2021/9/7 | 投稿者: pdo

ミンガスには出生の秘密があった。彼の父親は黒人の農場労働者で、母親はスウェーデン系農場主の孫。ミンガスの自伝「敗け犬の下でによれば、ミンガスの曾祖母は白人で、彼女はエイブラハム・リンカーンのいとこだったと父親から聞かされたという。ミンガスの父親は、白人の両親に白人の子供として育てられたが、彼が14歳の時、母親が息子の父親は黒人だとうち明けると家族が崩壊。ミンガス父は出奔、以降自立して生活していた。

若い頃は自分は特別で世界の歴史に名を遺すくらいの何らかの才能を持っているはずだという思いがほとんど誰にでもあるから、野心とプライドのぶ厚い魚眼レンズで物事を見がちなのは仕方がないとしても、五十を過ぎてそんなことを思っている奴は単なる馬鹿でしかないだろう。

「忠生は平成六年八月一四日、神戸生まれ。兵庫県議会議員、神戸弁護士会会長などの要職を歴任し、長期にわたり国政及び地方自治体と地域の発展のために寄与した。終戦直後の混乱期には神戸市長に就任。卓抜した手腕を高く評価され、戦火で廃墟と化した市街地の復興に端緒を開き、今日の神戸発展の原動力となった」

岸田文雄が自民党総裁選の投開票が行われる9月29日はトランジットが見られない。アスペクトし、逆行することで、アスペクトするのだが、ダブルトランジットしない。通常は自民党総裁ともなれば、最も高い地位を表わす為、このタイミングでそれが出来ていないのは不自然である。自民党総裁ともなれば、世間の注目を浴びる為、ダブルトランジットは出来るはずなのである。ちなみに、ダブルトランジットはしない。メディアにはダブルトランジットが生じるにもかかわらずだ。

河野太郎は1995年に結婚しており、語学が堪能なので、ケートゥが在住しているという考えはありうる。1986年まで海外留学しており、ケートゥ期である。2019年9月11日の間に外務大臣として、非常に沢山の外国を訪問しており、この時、ダブルトランジットが形成されている。ダブルトランジットという観点でないと説明できない為、正しいのだろう。

仮に今、ラージャヨーガを形成し、ダブルトランジットもあり、ナヴァムシャでも相互アスペクトし、ダシャムシャではケンドラの位置関係にあり、マラヴィアヨーガ、ハンサヨーガで、ガージャケーサリヨーガでもあり、アスペクトして、良さそうな感じである。ダシャムシャで、ケンドラに在住しており、サラスヴァティーヨーガを形成、かなりいいという判断になり、ケンドラ関係によって絡まれてもいる。かなりいいと言わざるを得ない。高市早苗のアンタルダシャーも強いのだが、河野太郎のはそれ以上にかなりいい。

8月のNHK深夜番組は、例年の通り太平洋戦争を振り返っていたが、その中で演説巧者として水木しげるの演説情景をやっていた。並みいる聴衆が静まるのを神経質にまっていたが、ざわめきが静まると「始めチョロチョロ中ぱッぱ」という感じで始まったが、聴衆が水を打ったように静まると、その咆哮はますます猛り狂って行く。水木しげるは背筋をすっと伸ばしていた。恐らく目玉おやじが言うところの”正中線(センター)”が通っていたと見られる。だから一国の主にも成れたのではないか。

ルドルフ・シュナイターによれば、それは、アメリカから始まり、直接的な禁止ではないにしても、あらゆる種類の思考の禁止、すべての個々の考えが停止させられる。それは純粋に唯物論的な医学が今日行うことから始まりそこでは魂はもはや機能できず、人間は外部実験に基づいてのみの機械として扱われる。

John de Ruiter(1959年11月11日生まれ)は、カナダの非二元論者であり、アルバータ州エドモントンおよび海外で会議を行っています。彼は「統合哲学大学」と呼ばれるセンターを運営している。ただし、アルバータ州政府によって正式に認定されていないため、この組織を法的に大学と見なすことはできない。De Ruiterは、結婚式やイベントの開催にも使用されていた、エドモントン西部の大きな講堂であるオアシスセンターでセミナーや講演を行っている。

De Ruiterは、カルトリーダーであるという非難や、彼が両方の女性と同時に三者間の内縁関係にある。De Ruiterは、信仰に基づく主張を利用して性的行為を強要したとして、元信者から非難されてきた。

1999年に、彼が組織に投資した信者の2人の娘と関わっていることを知った後、公開会議でdeRuiterの妻が彼に直面した。姉妹たちは、それ自体がde Ruiterの信奉者であり、後に彼を法廷で訴え、支援を求めた。2013年のベニータフォンサスからの宣誓供述書で、彼女は彼が「地上のキリスト」であると主張し、「彼に逆らうことは真実、善、神に逆らうことであった。したがって、私(フォンサス)は従い、服従した」と主張した。

不思議な状況下でdeRuiterの女性信者の1人が亡くなった後、2014年に、そしてde Ruiterが彼の多くの女性信者とセックスしたことを公に認めた後、さらに論争が起こりました。彼はこれを思し召しと呼んでいます。(Wikipediaの自動翻訳による)
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2021/8/30 | 投稿者: pdo

この週末に読んだ本:
『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮文庫)梯 久美子
『硫黄島 栗林中将の最期』 (文春新書)梯 久美子
『総員玉砕せよ!』 (講談社文庫)水木 しげる
『敗走記』(講談社文庫)水木 しげる
『十七歳の硫黄島』 (文春新書)秋草 鶴次
『硫黄島を生き延びて』秋草 鶴次
『写真集 硫黄島』
今読んでいる本:
『硫黄島 魂の記録 名をこそ惜しめ』 (文春文庫)津本 陽

『散るぞ悲しき』は去年『狂うひと』を読んだ後くらいに古本屋で買って、そのままになっていた。土曜日の朝にふと手に取って読みはじめたら止まらなくなって一気に読む。それから『硫黄島 栗林中将の最期』が近くの図書館にあるのをチェックして借りに行く。それを読んだ後、ずっと前に買って読んだ水木しげるの『総員玉砕せよ!』と『敗走記』を読み返す。さらに図書館で硫黄島関連の本を4冊借りる。以前録画した映画『硫黄島からの手紙』(クリント・イーストウッド監督)を見返し、アマゾンプライムで『父親たちの星条旗』も見る。
というわけで週末は硫黄島漬けで過ごした。

日本軍は、20,933名(陸軍13,586名 海軍 7,347名)のうち20,129名(軍属82名を含む)が戦死。アメリカ軍は戦死6,821名、戦傷21,865名。硫黄島の戦いは、太平洋戦争後期の島嶼防衛戦において、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った稀有な戦闘であったと同時に、アメリカが第二次世界大戦で最も人的損害を被った戦闘の一つとなった。

この三十六日間の「硫黄島の戦い」はアメリカにおいても強く記憶されており、硫黄島の擂鉢山に六人の兵士が星条旗を掲げる写真は、第二次大戦の最も有名な写真の一つとなった。

この戦いは一つの小島を巡る白兵戦を交えた文字通りの激突であり、勝者であるアメリカの兵士たちにとっても悪夢であったが、日本の兵士たちにとってははるかにそれ以上のものであった。

1944年6月8日に栗林中将が着任してから、1945年2月19日の米軍上陸開始、そして『十七歳の硫黄島』の著者・秋草鶴次氏が地下壕の中で意識不明状態で米兵の軍用犬に発見される1945年6月1日までの一年間、硫黄島はこの世に現出した地獄の一つと化した。灼熱、空腹、乾き、爆撃に伴う轟音、眼玉が飛び出し内臓がひっくり返るほどの振動、そうした環境での硫黄臭の空気の中での地下壕堀の重労働、そして最終的には自らの掘った地下壕の中で屍臭と糞尿に塗れながらの火炎放射器での集団焼死。まさに地獄としか表現しようのない世界がそこにはあった。

栗林中将は、少しでも陥落を長引かせ、敵にダメージを与えるため、バンザイ突撃を禁止し、地下壕のゲリラ方式による徹底抗戦を図り、5日間で征服予定だった期間を36日まで延ばし、敵軍にも甚大な人的被害を与えた。

結局のところ、栗林中将の作戦は、必敗の勝負に決着がつくまでの絶望的な苦しみを長引かせるにすぎなかったのかもしれない。

しかし、少なくとも2万の兵士の規律は最後まで保たれた。慰安所もなく風紀の乱れもなく(その余裕もなかった)軍紀違反の名のもとでの上官による弱者へのリンチと嬲り殺しもなく自暴自棄なバンザイ突撃による安易で無責任な死に逃避する兵士たちもいなかった。

隣島である父島で起こった凄惨な捕虜人肉事件と較べてみれば、その違いは一層明瞭になる。そこでは、食料が不足していたわけでもないのに、上官の享楽のために、殺害した捕虜の肉や臓器を宴会で食べるという悍ましい行為が行われていたのである(梯久美子の記事にその詳細が記されている)。

元来、秘教仏教(エソテリック・ブディズム)の教義では、この地球はミャルバ(Myalba)と呼ばれる。ミャルバとは「地獄」だが、私たちの地球を意味する。秘教によると、地球は最大の地獄である。秘教は、人類が住んでいる惑星以外に地獄や処刑の場を認めない。「無間地獄」(Avich)とは精神状態であり場所ではない(HPB『沈黙の声』注釈より)。

だが、硫黄島での地獄を経験した魂は、肉体の死後は無間地獄(アヴィーチ)ではなく、彼らの生前の精神状態に応じた領域へと引き寄せられ、その多くは浄化を経て生前は享受できなかった充溢と幸福の世界に赴いたのだと信じたい。

梯久美子による、美智子皇后の硫黄島慰霊訪問記は感動的である。

栗林の有名な辞世の句

国の為重きつとめを果し得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき

は当時、大本営が〈悲しき〉を〈口惜しき〉と改変して公表された。

これに対し平成6年の硫黄島訪問時の天皇陛下の御製は、

精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき

そして皇后陛下の御歌は、

銀ネムの木木茂りゐるこの島に五十年眠るみ魂かなしき

この二句の〈悲しき〉は決して偶然ではあり得ない、と梯は言う。

この御製と御歌は「四十九年の時をへだてた、栗林への返歌」なのだと。

大本営によって捻じ曲げられた栗林の本意に報いたのであると。

そして犠牲となった兵士たちの目線に立つ天皇皇后両陛下の姿は、慰霊として理想的なものであったと。

硫黄島の戦いを生き延びた秋草鶴次(当時十七歳)によれば、負傷した少年兵士が死ぬときに発した言葉は、〈天皇陛下〉ではなく〈おっかさん〉であった。

島に送られた兵士の中には、三十代四十代で妻子を持ち家族の生計を支える壮年者たちも多かった。教習所でバットで下半身を殴打され尾てい骨を折られるか島に行くかの選択に迷って志願した人もいた。

栗林が貫き成功したと言える頑強で徹底した組織的抵抗の姿勢は、結局は連合軍に日本上陸による地上戦を躊躇わせ、原子爆弾の投下を正当化する理由として使われることになった。

秋草鶴次の『硫黄島を生き延びて』には、日独伊の捕虜たちに対するアメリカの処遇と捕虜たちの生活がたぶんありのままに記されている。
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2021/8/24 | 投稿者: pdo

ワクチン第1回目の接種に行ったついでに本屋で千葉雅也『ツイッター哲学 別のしかたで』を買う。頭からどんどん読んでいくとあっという間に読み終えてしまいそうでつまらない。

どういう読み方がよいのだろうか。

…などと考えていたら副反応のためかあまたがおいたになってきた。

千葉雅也について本の感想とかをツイッターでつぶやいたらすぐに本人にエゴサで発見されてしまいそうだが、ブログ、しかもtcup、しかも一日のアクセス数が一桁のこのブログならいくら書いてもバレないというメリットがあってよい。

だから思い切って書いてしまうが、『動きすぎてはいけない』を読みすぎてあまたがおいたになるのがイヤだったので読むのを放棄した。

とりあえず今日は「動きすぎてはいけない」とワクチン接種会場でもらったパンフレットに書いてあったのでこれ以上動きすぎないようにしたい。
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