2021/10/23 | 投稿者: pdo

湯川れい子さんの自伝『女ですもの泣きはしない』(角川書店)が面白く一気に読んだ。

ジャズ評論家としてデビューし、エルヴィスにもビートルズにも会って、インドのカリスマ聖者にも会って、二十世紀日本の生んだ最高のミーハー少女なのだと思った(もちろん賞賛を込めて言っている)。

この人の元夫のダイヤモンドについての本を九十年代前半に読んだことがあり、その後どうなったのか気になっていたのだが、この本に書かれていた。

あと二十年後にこの本の第二部が出版されたらぜひ読んでみたい。そのときまで僕が生きているだろうか。


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2021/10/16 | 投稿者: pdo

5年前に脳梗塞で倒れたというのを知らなかったのだが、「ロッキン・オン」の最新号に松村雄策の文章が載っているというので、近くの図書館で彼の本(「僕を作った66枚のレコード」)を借りた後で本屋に寄ったら「ロッキン・オン」がなかった。宮本浩次が表紙の「ロッキン・・オン・ジャパン」は何冊も置いていたのだが。

松村雄策の本に書いてあることはいつも同じで、その同じなのが半世紀以上変わらないというのがすばらしい。「ビートルズの曲の中でカヴァーされた回数が一番多いのはイエスタデイだとずっと言われていたのだけれど、最近ではそれがノルウェーの森になったという。菊地成孔が粋な夜電波で言っていた」(44頁)という箇所を読んでなんだか嬉しくなった。たぶんビートルズ特集(2011年10月14日放送の「ビートルズにたかったジャズミュージシャンたち」)を聴いたのだろう。それとも毎週聴いていたのだろうか。

この本に載っているアルバムで、まだ聴いたことのないやつをサブスクで全部聴いてやろうと思ったのだが、早速スパイダーズで躓いた。

松村雄策とは一回り半違うので、自分が同じことをやったらだいぶ違うラインナップになるはずだが、半分くらいは被っているような気がする。
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2021/10/15 | 投稿者: pdo

松本清張は『昭和史発掘』の中で、二・二六クーデターが失敗に終わった最大の理由は、宮城(皇居)を占拠しなかった(できなかった)ことにあると考察している。

蹶起計画の中に宮城占拠の計画があったのでは、と最初に指摘したのは松本清張であった。

青年将校たちのバイブルであった北一輝の『日本改造法案大綱』には、以下のような経済制度が描かれていたらしい(Wikipedia参照)。

資本主義の特長と社会主義の特長を兼ね備えた経済体制へと移行する。

一定の限度額(一家で300万円、現在の30億円程度)を設けて私有財産の規模を制限し、財産の規模が一定以上となれば国有化の対象とする。

私有地の限度(一家で10万円、現在の1億円程度)を設け、都市の土地はその発達により価値が高騰するので全て公有地とし、これらを正当な賠償を与え実行する。

私業の資本金を1千万円(現在の100億円程度)に制限し、これも正当な賠償のもとに実行し、超過分はすべて国家経営を行う。

国有地になる農地は土地を持たない農業者に有償で配布する。

労働者による争議・ストライキは禁止し、労使交渉については新設される労働省によって調整し、労働者の権利を保護する。

会社の利益の2分の1を労働者に配当する。また労働者に対して、株主としてもしくは代表者を選んでその会社の経営に関して発言する権利を認める。農地労働者にも同様の保護を与える。


これだけ見れば共産主義(社会主義)とたいして見分けがつかないが、天皇による戒厳令の下で軍がこの制度移行を強制するという意味では、国家社会主義(ナチス)と基本的には同じ発想である。

北一輝は若い頃にこの本を書いた後はまとまった著作を記しておらず、晩年(といっても死んだときは五四歳にすぎなかったが)は法華経にハマり、毎日読経でトランスして、奥さんにも神がかりのようにさせて「霊告」を語らせていたというから、エセスピリチュアリストの一面もある胡散臭さのカタマリのような人物であったようである。

二・二六クーデターが成功したら、日本はポルポト政権下のカンボジアのようなことになっていたかもしれない。
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2021/10/11 | 投稿者: pdo

『文學界』の最新号に西村賢太の創作が載っているのを読んだ。連載小説以外の読み切り中編は久しぶり。ここ数年の生活状況を交えつつ、ライフワークである藤澤清造全集発刊への決意を改めて表明。コロナ禍における苦労話や腰痛話、芥川賞後に七年間連れ添っていた女性がいたこともカミングアウト。愛読者だったのが半同棲するようになり、2019年に向うから愛想尽かされて切られたというから、この女性のことは今後作品のネタになるのだろう。小谷野敦の『東十条の女』にも書いてあるが、世間には本を出していて少しは名の知られた男に関心や欲情を抱く女というのが一定数いるらしい。ちなみにこの小谷野の小説には「男女が旅行をするとたいてい喧嘩するもので、成田離婚もそのためなのだが、それなら結婚前に一度旅行しておいたらいい」とか「ネットお見合いで会う人、ないしロクシィ(註:ミクシィのことだろう)で知り合って会う女は、精神を病んでいることが多かった」などの役に立つ名言が散りばめられている。

ミスティーンジャパングランプリの石川花(はんな)というのがマンガやアニメに出てくる美少女キャラそのもので驚愕する。ロシア人とのハーフで身長163センチ、十頭身くらいあるのではないかというような顔の小ささなど、まさに「顔面の天才」。TWICEやらチェリバレのジウォンやらヨチン解散後再デビューの決まったウナやらGidleのミヨンやらの〈顔面国宝〉たちに見慣れた眼にも新鮮に映る。しかも14歳とは……。
だがこうした事態に直面すると、極度の面食いで美人好きの自分も、もういい加減行き過ぎたルッキズムには反対せざるを得ない。女は(もちろん男も)顔ではない(リンカーンは「男は四十過ぎたら自分の顔に責任を持て」と言ったが、そういう意味の顔ではない)。美人で男にもてる女というのは「人生勝ち組」などと言われるが、3−7くらいの割合で不幸な人の方が多いという説を支持している。これは決して負け惜しみではなく、顔が綺麗すぎる女とは付き合いたいと思わない。そういうのはデコレーションとして飾っておく価値しかない。自分も結婚は顔で決めたのではない。外面的な美は人間の価値にとって殆ど意味をもたない。フランシス・ベーコンはそれについてこう言っていなかったか。


美徳は宝石のようなもので、簡素な台の上に据えるのが一番いい。そして確かに美徳は美しい身体に宿るのが最良である。美しいというのは姿形が繊細であるというのではない。見た目の美しさよりも、全体として堂々とした存在感がある方がいい。見目麗しい人が大きな美徳を持っているということはめったにない。それはあたかも、自然は卓越性を生み出すよりも間違いを犯さないことに忙しいためであるかのようだ。だから彼ら(見目麗しい人々)は洗練されてはいるが偉大な精神は持たず、研究するのは美徳よりも態度である。しかしそれは必ず当てはまるわけではない。アウグストゥス・カエサル、ティトゥス・ウェスパシアヌス、フランスのフィリップ美貌王、イングランドのエドワード四世、アテネのアルキビアデス、ペルシャのソフィーのイシュマエルは皆高貴で偉大な精神の持ち主であり、同時に当時の最も美しい人間であった。顔立ちの美しさは、皮膚の色の美しさにまさる。そして顔立ちの美しさよりも、端正で優雅な動作の美しさがまさる。それは美の最高の部分であり、絵画では表現できない。実物を一目見ただけでも分らない。美は乱調にあり。アペレスとアルブレヒト・デューラーのどちらが優れていたと言えるだろうか。一方は幾何学的な比率で人物を描いた。もう一方は、さまざまな顔の最良の部分を取り入れて優れた顔を描いた。だがそのような人物は、それを描いた画家以外の誰も喜ばせないだろう。私は画家がこの世ならぬ美貌を描いてはならないと考えているわけではないが、画家が優れた顔を描くためには、規則によるのではなく、ある種の幸運(ミュージシャンが優れた曲を作るときのような)によって創造するべきである。美しい顔でも部分部分はそれほどでもない。だが全体としてみれば美しい。美の主要部分が端正な動作の中にあるとすれば、年を重ねた人の方がはるかに愛すべきものであることはもっともである。ラテン語の諺に「美しい人の秋は美しい」とあるとおりだ。若者が美しくあるのは、若さが美しさの一部であると考えることによって初めてそう感じられるのである。美しさは夏の果物のようなもので、腐りやすく、長持ちしない。そしてほとんどの場合、美は放埓な若者を生み、老年の面目を失わせる。だが確かに、所を得た美は美徳を輝かせ、悪徳を赤面させる。
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2021/10/10 | 投稿者: pdo

松本清張『昭和史発掘』の中に書かれている「スパイMの謀略」を読み返し、その後日談が「『隠り人』日記抄」という作品に書かれていると藤井康栄の本にあったので、昨日図書館で借りて読む。昭和三十三年ころ、北海道のうらぶれた長屋で芸者女と暮す凋落した姿を描いている。藤井の調査に基づいて書かれたそうだ。松村のことは立花隆『日本共産党の研究』にも書かれていて、これは文庫が松本の家に今もあって何度か読んだが内容はほとんど忘れてしまった。なぜが大学時代に友人(そいつの頭文字もM)と松村のことをネタにして冗談を言い合っていた記憶が微かにある。名前がお笑い芸人の松村と同じなのが可笑しかったのかもしれない。

ネットを見ると小林俊一/鈴木隆一『スパイM』という本が最も詳しく、「著者二人が調べ上げた晩年の飯塚の生活は松本清張が「『隠り人』日記抄」で描き出したものとは大分異なる」とのことなので、これを図書館で予約した。

小林 峻一,鈴木 隆一「スパイM 謀略の極限を生きた男 (文春文庫)」を図書館で借りて読む。これを読んだ後は他のものを読む気になれず、昨夜は寝る前に頭がどんよりと重くなった。松本清張「隠り人日記抄」に描かれた晩年はここで明らかにされたイメージから離れていないように感じた。

スパイMこと松村昇こと本名飯塚盈延については松本清張「昭和史発掘」と立花隆「日本共産党の研究」の中で取り上げられている、戦前共産党における最大のスパイである。

没落士族の家で赤貧の少年時代を過ごし、上京して青年期に共産党関係組織に入り、武闘派として積極的に活動する。渡辺政之輔の手引きでモスクワのクートベ留学生として約三年を過ごすが、これがスターリンが権力闘争により党を掌握した時期に当たり、現地で共産党に幻滅したらしい。後日自分の娘に、「共産主義はいいが、人がよくない。やり方がよくない。こんなものが存在していると世の中はよくならない」と語ったという。

日本に戻ってすぐ田中清玄の家を訪ねたときに検挙され、そこで特高課長毛利に口説かれてスパイになる。「非常時共産党」(その実態は毛利とタッグを組んだ官製共産党)を作り上げ、党の活動を取り仕切り、党員に銀行強盗をさせるなどの謀略によりそれを壊滅させた詳細は前掲書に描かれている。

スパイとしての活動を終えた後もしばらくは東京で暮していた。その後兄の家族と一緒に北海道から満州に渡り、終戦は満州で迎えた。スパイ後に二度結婚しそれぞれ子を設けたが自らの戸籍は隠し通し、変名で住所登録し、子供にも戸籍を明らかにしないまま北海道の闇市がそのまま商店街になった長屋の借家で昭和四十年に死んだ。晩年は「空間論(精神と物質)」という論文を書いて大手出版社に送ったが相手にされなかった。

生涯に愛した女性は八人、と娘に語った。北海道で十八歳の芸者を見初め、満州から帰国して昭和三十五年に先立たれるまで共に過ごした。「自分は過去を知られたら生きて行けない人間だ」と話していた。戦後、共産党の雑誌に本名を載せた記事が出たときには「よく調べたなあ」と感心していた。死んだときには戸籍がないから火葬許可証が出せないと言われた。

カメラに凝っていたそうで、小林鈴木の本には、昭和十年(スパイ引退は昭和七年十月)に自ら撮影した全身座像が載っている。怜悧な知性の持ち主というより、町工場の親父といった風情である(実際に後に北海道で工場を経営した)。だがその眼は内面的なものを感じさせる。

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