2011/3/29 | 投稿者: pdo

川崎大助著『フィッシュマンズ 彼と魚のブルーズ』を読む。

かなり初期のころからフィッシュマンズ、特に佐藤伸治に寄り添うように取材・活動してきたミュージックライター・『米国音楽』編集長による評伝・エッセイ。

フィッシュマンズのみならず、90年代の渋谷周辺の空気感を描写するという著者の意図は十分に伝わってくる。僕自身の体験とも重ね合わせて共感しながら読めた。

もっとも僕がフィッシュマンズの音楽と出会ったのはかなり遅く、2000年に入ってからだった。リアルタイムではむしろフリッパーズ・ギターや小沢健二やコーネリアスを聞いていた。

フィッシュマンズは、位置的には「渋谷系」に近いところにいたが、そのカテゴリーからははみ出す音楽をやっていた。『ロングシーズン』を出すまでは注目度もそんなに高くなかった。

初めて『ナイトクルージング』を聞いた時には僕もぶっ飛んだ。あんな音楽はこれまでになかったし、これからもないだろう。ジャンル名は「フィッシュマンズ」としか名づけようのないものだった。

フィッシュマンズの音楽は、日本のロックが生みだした宮沢賢治みたいなものかな、と思う。透明な普遍性をもつ、ある種の感受性を備えた人たちの心象風景を見事に表現した音楽。

フィッシュマンズと共通項を感じさせるバンドとしてスピッツがいる。僕は彼らの音楽も大好きで、草野マサムネと同時代に生きられただけでもこの時代に生まれてよかったと思うくらいだ。

しかしフィッシュマンズは、スピッツが表現しきれない、というか表現することを諦めた領域をとことん追究している。それが何かについて敢えて説明を求めるなら、この本を読むのが一番だろう。

全体として、著者の文体に誠実さを感じるし、かつてのロッキン・オンを読んでいた頃のように何の違和感もなくすいすい読めた。

ただ一つ、これは本書の欠点ではなく、仕方のない部分なのだが、あくまで著者の目から見たフィッシュマンズの記述に留まっているため、メンバーの脱退やレコード会社の移籍といった重大な出来事について、まったくその理由や事情が分からないままだ。

これらについては、別に書かれたものがあるのかもしれない。
とりあえず『公式版 すばらしいフィッシュマンズの本』というのを買ってみたので、ぼちぼち読んでいこう。




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2010/5/10 | 投稿者: pdo

日比谷夜音でのスチャダラパー20周年記念ライブに、オザケンがゲストで登場して『ブギーバック』を演ったらしい。

前日に日比谷公園に行ったばかりだった。何たるニアミス。外からでも歓声だけでも聞きたかったもんだ。

正直、オザケンの今の音楽にはあまり興味がない。復活ライブも、チケットは手に入ったけど、そんなに行きたいとは思わない。

かつての良き思い出の追体験というのは苦手だ。○○○復活ライブの類は、金の臭いばかりして近寄る気になれない。

僕に興味があるのは、オザケンの現在の心境だ。彼が今何に興味があるのかに興味がある。音楽に興味があるなら、それでいい。それをぜひ作品化してほしい。それを聴きたいと思う。
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2010/2/3 | 投稿者: pdo

オザケンは、『ライフ』の後も次々に素晴らしいシングルを連発した。その主なものは後発のアルバム『刹那』にまとめて収録されているが、ここに収録されていないシングルの中にも素晴らしい曲がたくさんある。『指さえも』なんかは、これ一曲で『ライフ』の次作『球体の奏でる音楽』に並ぶくらいの名曲だと思っている。

そして『ある光』という超名曲を最後に、オザケンは消息を絶つ。

やきもきしながら彼の新作を待ち焦がれるファンを尻目に、小沢は2002年に突如、NYからアダルトな雰囲気マンマンの『Eclectic』というアルバムを放つ。弾けるような楽曲は影を潜め、ひたすら囁くようなボーカルに、“大人っぽい”アレンジ。期待感が大きかっただけに、正直、僕なんかは当時よく分らないという印象を受けた。ただ唯一『今夜はブギーバック』のセルフ・カバーだけは不思議と心地よくて、今でもよく聴いている。

そして、さらなる沈黙のあと、2006年に出たインスト作品のみの『毎日の環境学: Ecology Of Everyday Life』は、ますますよく分らなかった。この頃にはすでにオザケンは“エコロジー”や環境開発問題に傾倒していて、このアルバムは彼なりのメッセージ・アルバムだといえるのかもしれないが、こちらにそれを受容する感受性が欠けていたのだろう(未だに欠けたままだが)。

2007年に、オザケンは、エリザベス・コールという女性と一緒に、南米の民衆運動などを取材したフィールドワークの成果を発表するため、聴衆の前で“ビデオ上映&楽器演奏プラス解説”という独自の表現活動を始める。大々的な宣伝活動もなく、オザケン自身が聴衆にインターネット上にその内容を書くことを禁じる旨の発言をしたため、どんなものだったのか詳細は明らかでないが、いくつかのブログなどからなんとなく窺い知ることはできる。

同時期に、彼は父・小澤俊夫の責任編集による季刊誌「子どもと昔話」で小説『うさぎ!』を執筆しており、「その内容は現代の資本主義末期の欺瞞に満ちた社会を風刺するもの」(ウィキペディアより)となっている。これは僕も何編か読んでみた。別の論文(「企業的な社会、セラピー的な社会」)と併せて、まとまった感想が書けそうになったら書いてみたい。

2000年代のオザケンの“社会派”ぶりについては、自分としては肯定する気も否定する気もない。ただ一つ言えるのは、多くのファンが共有していたであろう思いを僕も抱き続けてきたということだ。それは、彼のフィールドワークの成果が、『ライフ』とその後の一連のシングルで表現されたあのオザケンの世界のヴァージョン・アップという形で、再び「音楽作品」として発表される日が来るのだろうか(否、ぜひ来てほしい!)という思いである。

というのも、彼が志向しているエコロジカルな言説の文章による表現については、もちろん異論はあると思うが、オザケンよりもはるかにすぐれた作品がすでにいくつも存在しているからだ。

オザケンには、オザケンにしかできないこと(音楽!特にポップ・ミュージック!それも飛びきりハッピーな!)をやってほしい。それが多くのファンの思いだったに違いない。
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2010/1/26 | 投稿者: pdo

ああ、オザケンについて、色々書きたいのだけれど、時間もないし考えもまともにまとまらないしでちっともかけやしない。

彼は「ひふみよ」のインタビューの中で、「まず、『ああ、小沢健二、よく聴いたなー』みたいな人はぜひお越し下さい。たぶん何か、気持ちが高まる時間になると思います。」と言ってくれているので、ぜひライブには駆け付けたい! でもチケット取れるか?

『犬は吠えるがキャラバンは進む』に収録されている「天使たちのシーン」は当然ながら名曲との呼び声が高い。

これもカーティス・メイフィールドのTrippin' Outのコード進行をほぼそのまま浸かっているというのも有名な話だが、まったく憎めないくらいに曲としての完成度が高い。

そう、パクリをパクリだっていいじゃないかと思わせるくらいの完成度の高さがオザケンの曲にはあった。それは彼の言う「日本製の道具」に通じるものがあるんじゃないかと思う。



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2010/1/24 | 投稿者: pdo


オザワといっても、今話題の政治家のことではない。

食道ガンの治療に専念するため一時休業した「世界のオザワ」こと小澤征爾、の甥であり、「オザケン」こと小沢健二のことである。

僕がオザケンをちゃんと聴いたのは『ライフ』が最初だった。

「フリッパーズ・ギター」については知っていたが、「なんとなく生意気な奴らだなあ」という印象を持っていたくらいでそれほど気にしていなかった。

僕はオザケンの1個年下で、学生時代ニアミスしてもおかしくない環境にいたことから、個人的にオザケンの噂話をちょくちょく耳にする機会があり、その度に「明らかに住む世界の違う人だな」と思っていたので、フリッパーズ・ギターの世界には積極的に近づく気になれなかったというのもある。

大学を卒業し、就職してまもなく、いろんな壁にぶち当たったり人間関係がうまくいかなかったりして鬱々とした毎日を過ごしていたころ、開店したばかりの恵比寿ガーデンプレイスのTUTAYAでふと手に取ったのが『ライフ』のCDだった。

家に帰って、『ライフ』をCDプレーヤーにかけ、流れてきた1曲目の『愛し愛されて生きるのさ』のイントロを聴いた瞬間、なんともいえない気持ちになった。
ウズウズするというのか、ワクワクするというのか、久しく忘れていた感覚だった。

そして、2曲目の『ラブリー』冒頭の、明らかにBetty Wrightの『Clean Up Woman』が元ネタと分かる丸パクリのフレーズを聴いたとき、思わず笑ってしまいそうになりながら、僕はもうすっかりオザケンの『ライフ』の世界に引き込まれていた。

3曲目の『東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディ・ブロー』を聴きながら、僕は無性に外に出たくなった。そこでCDを止めて、CDをオートダビングしている間、散歩に出かけることにした。

つづく
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