2021/8/12 | 投稿者: pdo

「時子、お前はあの日、子供達やあの男といっしょに酒をのみ、さあベッドへ行こうというように誘ったそうじゃないか。それから子供をこの僕の部屋に寝かせ、それからあの男のいる子供の部屋へ入り、自分で電気を消したそうじゃないか。僕はもっともっと細かいことまできいたんだ」
 俊介はたたみかけるようにいった。
「大きな声しないでよ」と時子は声をひそめ、咎めるようにいった。「子供にきこえるわよ。いい? これからあんたは、何度もこのことをむしかえすと思うけど、大きな声をしてはダメよ」
「そんなことは知っているお前が、どうして子供のベッドでそんなことをしたんだ」
 と俊介は悲しそうな声を出した。
「・・・・・・・・・」
「おい。何を考えているんだ」
「おかしいわね」
 と時子はフトンの衿に首をうずめて呟いた。
「どうしてそんなうそをつくんだろう」
「誰がだ」
「ジョージよ」
「・・・・・・・・・」
「ねえ」
「僕がお前はおれのものだ、といったのは、お前は大事な女だ、子供の母親だ、おれの妻だ、という意味なんだ」
 すると時子は突然わめいた。
「そんな大事なものを、何故なぐったりなんかしたんだ」
「大きな声を出すな」
と、こんどは俊介の方がいった。そして彼の方も息をはずませながら、
「何がおかしいのかいって見ろ。おれは見てはいないがおかしいとは思わない。お前が最初おれとああなったときだって、電気を消したのはお前の方じゃないか。お前は同じことをしたのだ。そうと気がつかず、同じことをしたんだ」
 時子は考えこむ様にいった。
「おかしいわね。どうして彼がウソをつくんだろう」
 俊介は、この女はとぼけているのではない。それが困るのだ、と思った。


俊介がみちよからどんな話をされたのか小説の中で具体的には明らかにされていないが、俊介の言い方からすると、かなり細かいところまで話をされたことがうかがえる。

みちよはジョージから聞いた話をそのまま伝えているのだという風に話したに違いないので、ジョージがみちよに事細かに説明したことになる。そして時子は、ジョージがみちよにそんな話をしたことを訝しく思い、ジョージの話は〈ウソ〉だと俊介に対して断定している。

時子は俊介の前でただトボケているのだ、という見方もできると思うが、少なくとも俊介は「この女はただとぼけているのではない」と考え、「それが困るのだ」と思っている。

それよりも、ここは時子の「そんな大事なものを、何故なぐったりなんかしたんだ」というセリフがいい。

しかも俊介に「大きな声しないでよ」と念を押した後で“わめく”のがいい。

つづく俊介の「お前が最初おれとああなったときだって、電気を消したのはお前の方じゃないか」というセリフもいい。

この「抱擁家族」には書かれていないが、「うるわしき日々」の中では、時子と俊介の「最初にああなったとき」のことが書かれている。時子の方が俊介の蒲団に入ってきたりして、かなり積極的だったようだ。そのことがあるから、俊介に思いあたる節があったのだろう、とまで書くとテキストを無視した行き過ぎた解釈になってしまうが、それが私小説のダイゴ味でもある。


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2021/8/5 | 投稿者: pdo

「抱擁家族」は1971年に演劇作品化もされている。

その脚本と演出を手掛けることになった八木柊一郎が原作者の小島信夫を訪問した時の手記が残っていて興味深い。

八木は正直原作者に会うのが気が進まず、どうせ俺の小説をどんな芝居にするつもりなんだという気持をぶつけられるに違いないと予想し、それにたいする理論武装をしていったという。

ところが開口一番、小島がいったのはこうだった。

「『抱擁家族』は、もともと演劇的なところがあるんです。舞台の上の芝居の進行のように、表現がその場その場で相対的なんですね。」

八木は呆気にとられ、安心するよりいささかあわて気味に、彼の用意してきた「抱擁家族論」を一席ぶつ事になってしまった。

それをうけて小島も自作の作品論を展開していったが、その考え方は八木のものと不思議なほど一致していたという。

このとき、小島さんはただ、私の理屈に調子を合わせてくれたのだと思うことも出来たのだが、全部そういう風に話がすすんだのではないと、私は信ずることが出来た。小島さんの自作の解説は、透明で、いやみというものがなかった。といって、シニカルにかまえるのでもなく、私はたしかに、小島さんの肉声をきいていた。

…小島さんと話をしていると、何でもない普通のことが、いつの間にかするりと、それも短時間の間に、とても微妙で本質的な話に移行してしまうことに私は気づいた。それは、人生論というより文学論、文学論というより表現論といったほうがいいような、創作の根本姿勢についての話なのだが、言葉が急に難しくなるというわけではない。小島さんは、どこまでいっても易しい言葉しか使わない。だから、私としては気楽にきいたり答えたりしているうちに、ふと、小島さんが、ものを書く人間がものを書くにあたってもっとも苦労するところ、もっともつらいところの領域に話をすすめていることに気づき、はっとしてしまうのである。


1970年くらいの小島は、舞台の演出を手掛けたり(結局「抱擁家族」の演出は小島自身がやった)、熱心に舞台芸術に入れ込んでいて、『どちらでも』や『一寸さきは闇』などの戯曲も書いている。

ちょうど舞台の演出をつけている最中に、三島由紀夫の割腹自殺のニュースを聞いた小島は、ただ一言「ハタ迷惑な!」といって顔をしかめただけだったという。

小島さんの話し方には、論争や演説の調子は全くなく、教えり喧嘩を売ったりする調子はさらにないが、ただ淡々として語るというのでもない。つまり、小島さんの内なる情熱というものの在り方は、説明がはなはだ難しいのだ。誤解をおそれずにいえば、小島さんの話し方には、一種の愚痴っぽさというものがあり、但しその愚痴っぽさは、ひとに不快をあたえないものだといえば、すこし説明できたことになるだろうか。

――三島由紀夫というのはつまり、小説の上で大芝居を打つわけですよ・・・。

というような言葉で小島さんが話しはじめたとする。けれど小島さんは、三島の立場を真っ向から否定するわけではない。三島由紀夫のもっていたつらさ自体には十分な価値を与え、なおかつ、三島が大芝居を打つという方向にしか出口を見出し得なかったこと、いわば男々しさのなかの女々しさを糾弾するのに、小島さん独特の愚痴っぽさは極めて強い効果をもつのだ。小島さんのなかにある女々しさは、文学というようなものにかかわってしまった者が避けることのできないものに私には見え、三島のなかの女々しさは、ただの女々しさに思われてくるわけである。…

(八木柊一郎「現代の文学16」月報17/1972年12月より)
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2021/8/4 | 投稿者: pdo

 妙なところがずっと痛んで仕方がなかった。みちよがこの事件を洩らしたときにそうなった。彼の局部がはたかれたあとのように痛むのである。その痛さは下腹部から伝わり、その部分の中の方にこもっていた。下腹部にくる前に、心臓がしめつけられた。たとえば時子が往来に姿を現わしたとき、時子が、「これは私の家よ」といったとき、「私はあんたのものじゃないわよ」といったときなどに、そうなった。「痛い、痛い、これはどうしたことだ」と俊介は心中で叫んでいた。自分の部屋でじっとしていると隣りの部屋で時子が、いつものようにフトンを敷いてその上に坐りこみ雑誌をめくっているのがきこえる。「ああ、痛い」と彼は声を出した。時子はだまっていた。俊介はまた、
「ああ、痛いぞ」
 といった。時子のいる隣りの部屋との間のドアをあけると叫んだ。
「おれは痛いのだ」
 時子はちらっと彼の方を見た。そしてじっと俊介のぜんたいを眺めた。
「おれは、ここが痛くって痛くってしようがないんだ」
「見っともない!」
 と時子はささやくようにいった。
「ここが痛いのだ」
「向うをむいててよ」
「・・・・・・・・・」
「着替えするのよ」
「いいから僕の前でそうしろ」
「いやよ」
「向うをむいててやる。早くしろ」
 と俊介はいった。時子が横になると彼はふりむいた。時子は首だけ出してこっちを見ていた。


この箇所を読んでいるときに、自分も股間のあたりに痛みを感じているのに気づいた。ネットで調べたら、会陰部の鈍痛は慢性前立腺炎のうたがいがあるという。ストレスや緊張、冷えなどが原因になるそうで、コロナ禍で若い世代にこの症状を訴えるものが増えているというネット記事も目にした。

さて自分の話はこれくらいにして、俊介はみちよから事件を知らされた時から局部がはたかれたあとのように痛むようになったという。そして俊介は心中で「痛い、痛い、これはどうしたことだ」と叫ぶだけでなく、隣りの部屋に寝ている時子に聞こえるように「ああ、痛い」といい、しまいにはドアをあけて「おれは、ここが痛くって痛くってしようがないんだ」と時子に向って叫ぶ。

ここもなんともいえず不思議な描写で、どこまでがシリアスなのか分らない。とにかく俊介の抱えている心的ストレスが身体症状を引きおこすに至り、それが局部から始まるというのは象徴的に思える。

それに対する時子の反応は冷淡なまでに冷静でそれがリアルである。

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2021/8/3 | 投稿者: pdo

大庭みな子の『風紋』という小説を読んだ。

最後の短編という。小島信夫が脳梗塞で倒れて危篤状態にあるという知らせを聞いて書かれた。

二人の対談などの様子から、大庭みな子が小島信夫に好感以上の思いを寄せていることは何となく分かっていたが、最後の最後になって、こんなに明け透けにストレートに思いを表現しているのを知って驚いた。

ナコは信さんを何十年も好きだったが、抱き合ったこともなければキスしたことさえなかった。今になってあんなに何度も会ってもっと近付く機会はいくらもあったはずなのに、そうしなかったのはどういうわけだろう、と不思議に思う。ナコはいつでも思い立つとのこのこ出かけてゆき「もっと強く抱き締めて頂戴」と言いたがっていた。けれど一度もそんなことを実際に言ったことはなかった。しかし、いつでも思ってはいた。できることなら男と女の絡み合いをと夢見ていたに違いなかったが、夢見ていたことは何一つしなかった。そして今ではもう信さんは意識が無いという話だ。…
(大庭みな子『風紋』より)


ナコというのはもちろん、大庭みな子のことである。

ナコは夫である利雄のことをトシと呼んでい、晩年の作品はナコが口述したのをトシがキーボードを叩いて入力していた。

トシはこういっている。

みな子の最後の短編「風紋」が発表されたとき、どこからか「こういう小島信夫氏へのラブレターを口述で文字化した夫の利雄はどういう気持でキーボードを打ったのだろう」という声が聞こえてきたが、そういう疑問は利雄にはピンと来ないほど、二人の間は世間の常識を離れた、馴れ合った夫婦関係になっていたようだ。みな子は何をはばかることも、はにかむこともなく小島氏への想いを口に載せたし、利雄は何の心のざわめきもなくキーボードを叩いていた。
(大庭利雄『おかしなおかしな夫婦の話』より)


ナコはこういっていた。

ナコはいつでも自分の方からのこのこと信さんのところへ出かけて行き、「抱いて頂戴」というふうに身体を押し付けていたが、現実にはやはり何もしないで離れたところにぼんやり突っ立っているだけだった。いつもいつもただ突っ立っているだけのナコにナコ自身腹を立てていて、帰ってくるとトシに抱きついて何度も何度も身体を絡ませて子供のように遊んだ。砂遊びや泥遊びを子供が飽きもせずにするように、日が暮れるまで、いや、夜が明けるまで繰り返した。飽きるということはなかった、トシと遊んでいて飽きるということはついぞなかったのに、信さんとはそういうことはしなかった。ただ彼の姿の後にはいつもいつも高原の花野が続いていて浅間の煙がなびいていて、尾花とオミナエシが見渡す限り続いていた。…

信さんは、ナコに電話をかけて、施設に入っている妻(アイ子)のことを話し、「妻のところに行ってきました。何も分からなくなっていて、ただ、分らないということだけは分っているようでした。“分らないの”と彼女は繰り返して言いました」と報告した。

そして、「オミナエシやフジバカマがきれいな花野でしたよ」といった。

ナコは、「アイ子さんは植物のことなど関心のない人だったのだろう」と書いている。

どういうわけだか信さんのことというと必ずあのアイ子さんがいて、アイ子さんが大分前に置き忘れた黄色いハンカチが草むらの中にふわりと落ちていて、信さんは自分の忘れた野球帽のようなつばのある帽子をそのハンカチの上に被せていた。…

こんな風に書くと、まるでナコがアイ子さんをにくんでいたかのようだが、事実ちょっとしたヤキモチはあったのだろう。

大庭みな子は、小島信夫がこの世を去った半年後に、利雄の手を握り、利雄に手を握られて、利雄の腕の中で死ぬという永年の望みを叶えながら、あの世にいる多くの先輩たちのところへ旅立った。
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2021/8/1 | 投稿者: pdo

『私の作家遍歴』から気になった箇所を引用。

彼の手になる天国も地獄も、個性を欠いているために退屈なものである。多様で複雑な人間関係はそこにはないのだ。現実の中に生きる人間がそれぞれに面白いのは、まちがっていると見えて実は正当であったり、逆に正当であるのにそれがまちがいになるためであり、独断を下したり分類したりすることはとてもできないほど、さまざまな斟酌や偶然の出来事や未来の出来事を考慮に入れなければならないためであり、悪徳を重ねた人間が力強く、徳の高い人間が、かえってしばしば無能であるためであるが、――このような面白さが、社会と人間の完全な一致の中に埋もれてしまっているのだ。そしてその欠陥は、もとはといえば、あの(筆者註:スウェーデンボルグによるの意味)世界構造の中心に由来するのである。
(エマソン『代表的人間像』の中の「スウェーデンボルグ」の章より、小島信夫『私の作家遍歴』の中での引用)


小島がエマソンに仮託して語ろうとしたことはよく分かる。スウェーデンボルグの世界観の中では面白い小説は書けないことが不満なのだ。


人間と世間とのかんけいをその人間の内側から見たときに、どうしても内側からしか見ることができぬ状態になっているときに、その人間の心の中を分析してみるとどんなふうになるか。
 
そのとき世間は仮面や符号に見えてくる。対話も話し合いも何もありはしない。


これは小島がドストエフスキーの『分身』を論じる中で書いたものだ。『分身』はデビュー作『貧しき人々』の次に書かれた作品で、『貧しき人々』がすぐに傑作として認められたのに対し、『分身』は失敗作とみなされ、若きドストエフスキーを落ち込ませた。ドストエフスキー自身はこの小説を書いた直後には、『貧しき人々』の百倍の価値があり、ゴーゴリの『死せる魂』に匹敵する傑作と考えていた。

僕はまだ『分身』を読んだことがないので小島信夫の解説を通じてしか知らないが、人の世の〈仮面舞踏会〉のような虚しさを描くところに狙いのある作品のようだ。

そうだとすれば、彼がシベリアに送られて『死の家の記録』を書いたことにはやはり大きな必然性があったのだと思える。



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