2021/6/15 | 投稿者: pdo

小島信夫の『私の作家評伝』で近松秋江が読みたくなり、青空文庫で読める『別れたる妻に送る手紙』、『うつり香』、『黒髪』、『狂乱』、『霜凍る宵』を読む。

秋江のこれらのシリーズ物は、俗に「ストーカー小説」とも呼ばれるが、何か江戸以前の古典文学を読んでいるような独特の情緒もあって、単にスキャンダラスな効果のみを狙ったような小説とは明らかに違う趣きがある。

特に『黒髪』、『狂乱』、『霜凍る宵』の京都の芸者を追いかける話は、全編に遍満する京都弁からそのうち薄ら寒い空気が立ち込めてきて、過激な描写など一切ないにもかかわらず、終いにかけてこの世の冷ややかな一種の地獄のようなもの(kind of hell)を体験できる。

小島信夫が秋江の小説を好んだのはよく分かる気がする。
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2021/6/12 | 投稿者: pdo

小島信夫『私の作家評伝』は、漱石や鴎外はじめ日本の近代作家について論じたもので、とても読みやすく面白い。小島信夫本人がどこかで書いていたと思うが、「かゆい所に手が届くような」、玄人が読んでも唸るような(たぶん)内容になっている。

中でも興味深く読んだのが、島崎藤村についての評伝(「東京に移った同族」)で、これを読むと、小島信夫が藤村にある種のシンパシーを抱いていることが分かる。

一言でいえばそれは「偉大な山国出の気鬱な平凡人」としての共感であり、田舎から東京に出てきた人間の、都会風の人間からは「老獪」と評されるような生き方への、同じ山国(美濃)出身者としての理解といったものである。小島信夫は、同じようなシンパシーを、松山の山間の村から中央に出てきて、「防備のために一つずつ形容詞や副詞をつけてきた」大江健三郎にも寄せているように書いている。藤村の持って回った言い回しは、地方出身の山国の人が外国文学を受け入れると、ああいう具合になるので、大江の文体にもそれを感じるというのだ。

少し脱線したが、そんな小島信夫の視点から見れば、島崎藤村の問題作『新生』の理解もまた同情的なものにならざるを得ない。この小説については以前、このブログに冗談めかして批判的な感想を書いたことがある。その批判は、平野謙の『島崎藤村』の中に述べられている見解や、一般にも広まっている、島崎藤村を「老獪な悪人」と考えるような風潮に列を同じくするもので、要するに身勝手に自分の姪と肉体関係を結んだ挙句に妊娠したことが分かると、その事実から逃避するようにフランスに留学し、帰国してまた関係を続け、あまつさえそのことを新聞小説の中で公表するという態度を、厚顔無恥で相手に対する愛がまったく感じられない非人間の所業であると断罪するような書き方である。

借金の追及のきびしさと、こま子からの逃れるために暴露的な『新生』の筆を執ったのだという平野謙の見解に対して、小島は、「本当にそうだろうか。小説というものが、そういうことを目的にして書くことが出来るものだろうか、私には、それは、藤村のような作家のとれる態度ではないように思われる」と反論する。

藤村は、こま子との「芸術的生活」の中にこそ救いがあると本気で思い、こま子が救われるためには、藤村自身も渦中にとびこまねばならないと思っていた。そのような努力こそが、彼女に対するつぐないであると同時に、人間の、いかにも感動的な生き方だと、彼は思った。そしてそれを発表することは、文字通り新生できることだ、と信じようとしていたとして、どうしていけないだろうか、と小島信夫は書く。

私は、別れたり、借金の追及を避けるためというより、むしろ平凡だが、許されるために『新生』は書かれた、そしてそこに流れているのは、両手をついて詫びる、何もわざわざ詫びなくてもいいのに詫びるという精神であると思う。

しかしそれは芥川のいうように老獪なのではない(『或阿呆の一生』)。芥川は偉大な山国出の気鬱な平凡人を誤解している。気の利いた人は平凡な生き方を老獪ととる。都会的な人ほどそう間違える。こんなときに例を出して何だが、それこそ私のようなものの場合でも、ただ自分の道を歩き、自分のいい方をいっただけなのに、そしてそれが自然だと思っていたのに、老獪といわれたことがある。そういう趣味が都会風の評者や作家にはあるものと見える。自分の理解できぬものを老獪というのであり、買いかぶりであり、自分のコンプレックスのせいでもある。藤村をあがめたてまつる人にも、コンプレックスはあるが、裏返してみれば同じことともいえないこともない。


小島信夫ほどの作家がこのように言うのだから、信じたくもなろう。

実は、この小説には個人的な理由から複雑な感情を抱き続けてきた。私の祖父が、私の父に名付けたのがこの小説のタイトルと同じ言葉であり、この小説にちなんで命名したのではないかと思っている。祖父は若い頃に香川豊彦に心酔していたという話も聞いたことがあるので、その影響でキリスト教的な意味で名付けた可能性もあるが、祖父(そして父)の出身地が島崎藤村と同じ地方であることを思えば、やはり藤村の小説を意識しての命名と考えるのが自然だろう(父が生まれたのは、島崎藤村が「夜明け前」を完成させ、その作家としての名声が頂点に達した時でもあった)。

そうすると、自分の子供にその名前(名前としてはかなり特殊な部類に属する言葉)を与えた小説について、祖父が一体どういう見解を持っていたのかが、私が後年この小説を読んで以来、ずっと謎であった。若い頃に聞かされた祖父と祖母の結婚当時の逸話から、まさかとは思うが、不義の結果生まれた子かもしれないとの疑義が込められていたのでは、という嫌な思いが頭を過ったこともないではなかった。もちろん生前の父にそんなことを尋ねたことはない。

私は、藤村のこの小説に対し、長年批判的な見解を持ちながら生きてきたのだが、小島信夫の評価を読んで、救いを見出したように思う。

祖父もやはり、「山国出の気鬱な平凡人」として、文字通り「新生」への願いを込めて父を命名したのだと信じることにする。
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2021/6/11 | 投稿者: pdo

今読んでいる千石英世『小島信夫: 暗示の文学、鼓舞する寓話』という本の中で、小島信夫の息子がアル中になって記憶を失い、後妻となった愛子さんが健忘症になってしまった遠因は、小島信夫が私小説作家だったからではないか、と書いていて唸った。

青木健と小島信夫の対談の中で、青木健が、娘さんの「お父さんが再婚したことがすべての間違いだった」という訴えを小説にすれば、とすごいことを本人に言っていることにも驚いたが、千石英世はもっと根源的なところを突き付けている。もちろん、もう本人はいないのだが…

しかし、『うるわしき日々』という長編小説のラストで、小島はそれを乗り越えているのだという。このへんの論理展開はちょっとアクロバチックな気がしてついていけてないのだが、それよりは、保坂和志が「遠い触覚 第一回」の中で、彼が小島信夫の『寓話』という小説を個人出版した際に、特別おもしろい内容のメールがあり、「これをプリントアウトして小島さんに見せたら喜んだだろうな。」と思ったのだが、それから数分もしないうちに、「でも同じことなんじゃないか。」という風に考えが変わった。と書いていて、その理由が面白かった。

なんと言えばいいんだろう。「死ぬ前だったらこれを小島さんに見せることができたのに残念だ。」という風に思いそうなものを、私はそうは思わずに、「小島さんが死んでいても生きていても、こういう文章を書く人がいるかぎり、その言葉は小島さんに届くのだ(小島さんはそれを知るのだ)。」と思うようになっていたことだ。

それは小島さん本人も、そのメールを読んで喜ばなかったということはないだろうが、そのメールを読む小島信夫もまたメールとそれを書いた人と同じように、『私の作家遍歴』と『寓話』によって拓かれた言説空間を生きていた。小島信夫という人間の晩年が丸ごと『私の作家遍歴』と『寓話』に内包されていた。

さてようやく『別れる理由』を読む心の準備ができたような気がする。

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2021/6/10 | 投稿者: pdo

昨日のドストエフスキーつながりで思い出したのだが、先日お亡くなりになった俳優の田村正和さんの当たり役であった〈古畑任三郎〉が、「刑事コロンボ」シリーズに着想を得たものであることはよく知られている。

そして、「刑事コロンボ」が着想を得たのは、ドストエフスキーの「罪と罰」に出てくるポルフィーリー予審判事であることも、もはや定説となっている。

ポルフィーリーと真犯人ラスコリーニコフの手に汗握るやり取りは「罪と罰」の見所の一つであり、後のコロンボと真犯人の丁々発止のやり取りの先取りとも言える。

それで、ポルフィーリーの次の台詞を、亡くなった田村正和氏の口調で、さらに、亡くなった小池朝雄氏の口調で頭の中で再現してみた。

「・・・人を殺しておきながら、自分を潔白な人間だと思って、他人を軽蔑し、蒼ざめた天使のような顔をして歩き回っている—— なんの、これがどうしてミコールカなもんですか、ロジオン・ロマーヌイチ、これはミコールカじゃありませんよ!」

「では…… 誰が殺したんです?…」

彼(ラスコリーニコフ)はがまんしきれなくなり、あえぐような声で尋ねた。

ポルフィーリイは、まるで思いもよらぬ質問にあきれ果てたように、椅子の背へさっと身を反らした。

「え、誰が殺したかですって!……」

自分の耳が信じられないように、彼はこう問い返した。

「そりゃあなたが殺したんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ!あなたがつまり 殺したんです。」

彼はほとんどささやくような、とはいえ十分確信のこもった声で、こう言い足した。

* * *

「一体あなたはこれまでに、十分生活をしましたか? 十分物事がお分かりです か? 理論を考え出したところが、まんまとしくじって、どうもあまり平凡な結果になってしまったので、恥ずかしくなったんです!結果は俗悪だった、それ は事実です。しかし、あなたは望のない卑劣な奴じゃありません。決して、そんな卑劣な奴じゃない!少なくとも、あなたはあまり長く自己欺瞞をやらないで、一度に最後の柱へぶっつかったのです。

一体わたしはあなたを何と見ていると思います?わたしはあなたをこう見ています。あなたはただ信仰とか神とかを見つけさえすれば、よし腸を引き出されようと、じっと立ったまま笑みを含んで、自分を苦しめる連中を眺めている、そういう人間の一人だと思っています。だから、早くそれをお見つけなさい、そうすれば生きて行かれますよ。

あなたは、第一、もうとっくに空気を一変する必要があったんです。なに、苦痛もいいものですよ。お苦しみなさい。事によると、苦しみたいというミコールカの考え方が、あるいは本当なのかもしれません。そりゃわたしだって、容易に信じられないってことはよく承知しています——がまあ、あまり理屈っぽく詮索しないで、何 も考えずにいきなり生活へ飛び込んでお行きなさい。心配することはありません——ちゃんと岸へ打ち上げて、しっかり立たせてくれますよ。では、どんな岸 かと言えば、それはわたしにゃ分かりっこありませんよ。ただあなたはまだまだ 生活すべきだと、信じておるだけです。

あなたが今のわたしの言葉を、紋切り型の御説法のようにとっておられるのは、わたしも承知しております。しかし、また後で思い出されたら、役に立つことが あるかもしれません。それだからこそ言うのです。あなたがただ婆さんを殺した だけなのは、まだしもだったんですよ。もしあなたがもっとほかの理論を考え出したら、それこそ百億倍も見苦しいことをしでかしたかもしれませんよ!まだしも神に感謝しなきゃならんのかもしれませんて。

何のために神があなたを護って下さるのか、そりゃ、あなただって分かりっこありませんや。あなたは大きな心になって、もう少し恐れないようにおなんなさい。 目前に控えている偉大な実践を、あなたはびくびくしてるんですか?いや、 この場に及んでびくびくするのは、それこそ恥辱です。一旦ああいう一歩を踏み出した以上、歯を食いしばって我慢しなくちゃいけません。それはもう正義です。だから、正義の要求するところを実行なさい。あなたに信仰がないのは、わたし も承知しているが、 しかし大丈夫、生活が導いてくれます、やがて自分から好きになりますよ。あなたは今ちと空気が足りない、空気が、空気がね!」
(米川正夫訳)

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2021/6/9 | 投稿者: pdo

水村美苗『新明暗』を読んで思い出したのが、亀山郁夫『新カラマーゾフの兄弟』である。

言わずと知れた、ドストエフスキーの大作『カラマーゾフの兄弟』を、現代日本社会を舞台にリメイクした問題作だ。

『カラマーゾフの兄弟』は、ドストエフスキーの死により、構想されていた続編が書かれないまま終わったとされている。

亀山郁夫は、その未完に終わった部分を彼の推理と想像力で補完した『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』という本も書いている。

『続明暗』は、どちらかといえばこっちの方に近い作品であるといえる。

実は自分は『新カラマーゾフの兄弟』も『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』も読んでいない。

『新カラマーゾフの兄弟』の方は、図書館で借りて読もうとしたのだが、読みかけて早々に挫折してしまった。内容も覚えていない。

亀山郁夫は、東京外国語大学の学長であり、ドストエフスキーだけでなく、ロシア文学や広くロシアをテーマにした数多くの本を書いている。

『カラマーゾフ』以外にも、『悪霊』も翻訳しており、『謎解き『悪霊』」という本も書いている。


2019年には、NHKの「100分de名著」という番組に出演し、『カラマーゾフの兄弟』について視聴者に分かり易く解説するという役割も果たしている。

つまり、今の日本では、「ドストエフスキーといえば亀山郁夫」とされており、少なくとも今の日本の若い世代は、彼の存在を抜きにしてドストエフスキー作品に触れることはほとんど不可能な状態に置かれている。

で、何が言いたいかというと、これは非常に不幸な状態なのではないか? という気がするのである。

というのも、亀山郁夫のドストエフスキー作品の理解とその訳業については、専門家から、かなり厳しい批判が寄せられている。

これは専門家によるものではないが、以下に引用するアマゾン・レビューがその一例である。


新訳「カラマーゾフ」が評判になってしまったためにドストエフスキーというとこの方は必ず出てくるようになってしまいました。

私は「カラマーゾフ」がでたあとに講演会で直接話を聞いたこともあります。最近やっとこの「専門家」についてもやもやしていた思いがなんだったのかわかりました。

ある場所に書かれていた言葉を引用します。

『多くが思いつきと思い込み、または誤読にすぎず、その前に基礎基本をしっかりしてほしい』これに尽きます。

この新書(『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』)は「空想」と銘打ってあるので、それこそこの方の本領発揮、どこまでも「空想」が延長されていきます。

ですが、この訳者が空想しているのは、この本だけではないのです。ご自分が翻訳された悪評高い「カラマーゾフ」「悪霊」「罪と罰」の解説・解題、そして翻訳そのものにおいてすら空想・妄想が多分に入り込んでしまっているのです。

それらについて多くの識者からの指摘を読むとわかりますが、専門家の名を冠した訳者の妄想が原作そのものを侵食するような愚かなことが起きています。そしてそれをチェックする機能が出版社の編集においてまったく働いていません。

「亀山(誤)訳ドストエフスキー」は歴史の試練に耐えられないのはもちろんですので、早晩、どんなに遅くとも訳者の没後には誰にも顧みられることがなくなるでしょう。

ですがこうもおおぴらに誤訳とその放置、本来媒介者に過ぎない翻訳者の妄想が原作を侵食するという暴挙が発生したこと、そしてそれをチェックし、修正する機能を出版社が果たせなくなった端境期がまさに今であることが、後世からはよく理解されることと思います。


僕はロシア語が読めないので、彼の誤訳についての指摘がどこまで正当なものかを、直接判断を下すことはできない。

しかし、このサイトの検証を読むだけでも、過去の翻訳者、米川正夫、原卓也、江川卓の三人の翻訳と比較して、亀山郁夫の翻訳だけが際立って異なっているのが分かる。原文と照らし合わせた解説を読む限り、亀山のはどうも解釈の違いというよりは明らかな誤訳のようである。

そしてこれらの誤訳の根っこには、どうやら訳者である亀山郁夫にそもそも『カラマーゾフの兄弟』が全然理解できておらず、読み取れていないという問題があるということのようである。

このことについて、大部のテキストが存在する。僕はこれをすべて読んだわけではないが、この著者の主張にはかなり共感できるところが多かった。

僕自身、亀山郁夫の訳した『カラマーゾフ』と『悪霊』を読もうとしたが、違和感があって読めなかったという経験があった。そのときは、これらの批判の存在を知らなかったはずである。

僕は、新潮文庫のドストエフスキーを読んでいたので、『カラマーゾフ』は原卓也訳で、『悪霊』は江川卓訳で、『罪と罰』は工藤精一郎訳で読んだ。

その後、全集などで米川正夫訳も読んだ。それらはいずれも何の違和感もなく読め、ドストエフスキー体験の感動を深めることに大いに役立つものであったと感謝している。

だが、亀山郁夫の訳したものは、とても違和感があって読めなかった。誤訳とかそういうレベル以前に、頭と身体が受け付けなかったのである。

亀山新訳は、「今の若い人にも読みやすい」ということで、ドストエフスキー普及に大きく貢献するものとして高く評価されているようである。

ただ、自分は、初めてドストエフスキーを読んだのが亀山訳でなかったことを感謝している。

本当は『新カラマーゾフの兄弟』について書くつもりだったのだが、もうその気をなくしてしまった。



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