2019/6/30 | 投稿者: pdo

認識は3秒あればいいのである。それはふつう直観と呼ばれているが、この直観を核にしない認識は、5年かけようと、15年かけようと無にひとしいということも正しいのである。なんのひらめきもなく、ただ現実過程の受動的反映にすぎないデータの束をかかえて恍惚としている者たちを「専門家」という。(平岡正明)

筋のいいキチガイとは、《極小と極大とがあってその中間のないもの》という思考形態をとる。過敏な自我が宇宙論と直結していて、中間の、国家、民族、階級、現状判断、主体性といったものがない。ユートピアの次のページが行動指針になっている。(平岡正明)



『平岡正明論』(大谷能生著)を読む。この本では平岡の思想的(?)評価が中心で平岡の人となりにはほとんど触れられていないので、平岡本人の著作が猛烈に読みたくなる。


しかし、いま、著者ははっきりとこう断言できる。あらゆる解釈が無益だ。ほんとうにそうなのだ。もしそれが青白い閃光のような懐疑の一瞬であったならば、それはそれにおいて充足しているだけのものである。それは、そのような内的体験を持つことで充足することに本質をもっているのである。そして、このような本質的な非条理はだれもがもっているものだし、むしろそれは実現された自己認識の世界よりも大きい。(『韃靼人宣言』より)







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2019/6/23 | 投稿者: pdo

深沢七郎『楢山節考』、『月のアペニン山』、『東京のプリンスたち』、『白鳥の死』、『深沢七郎集第8巻』、『深沢七郎ラプソディ』(福岡哲司著)、『深沢七郎、「楢山」と日劇ミュージックホール』(大谷能生)、『なんとなく(深沢七郎に関するエッセイ)』(中原昌也)を読む。

エルヴィスがききたくなって、昔買ったCDを引っ張り出し、図書館で初期の作品を借りて聴く。


「夜おそい」とか「遊び歩いてばかりいる」とか親は言うが、自分の行動は自分のしたいようにさせてくれなければ苦痛だ。学校へ行っているのだから夜遊ばなければ遊ぶ時はないのだ。学校は仕事で、毎日毎日仕事があるのだから毎日毎日遊ぶ時間も欲しいのだ。自分のしたいことはエルヴィスの唄をきくことで、「遊んでいる」と言うけど、それがなければ頭も身体もとんがってしまうのだ。暴力など振う奴はミュージックのない奴にちがいない。

公次はエルヴィスの「頭の堅い女」をかけて寝ころんでそんなことを考えていた。
(『東京のプリンスたち』より)



深沢七郎はギタリストで日劇ミュージックホールに出演してストリップショーの伴奏などやりながら、「都会人がハイキングに行きたがる、あの山の中の気分を味わうのと同じで」山の中の小説(「楢山節考」)を書いたのだという。

1956年、42歳で『楢山節考』によって第一回中央公論新人賞を受賞したことから、作家としての深沢の人生は始まった。

選考委員は、伊藤整、武田泰淳、三島由紀夫の三人で、三人一致してこの作品を推した。

この作品が当時の文学者に与えた衝撃は、70年以上経った今でも想像に難くない。

曰く、「民話のすごみというものをワクに、何かわからない無抵抗のような美しさがある」(武田)、「これが本当の日本人だったという感じがする、ストイックというか、個人よりも家族を大事にするというか、それよりも家族よりも伝統の規律に自分を合致させることによって生存の意義を味わう人間がいるというか、そういうことを改めて考えさせられる」(伊藤)、「父祖伝来貧しい日本人の持っている非常に暗い、いやな記憶のようなものがあり、全身に水を浴びたようにこわい。何か不定形で、どろどろしたものがあって、とても脅かすんだ」(三島)。

「近代文学の中での、人間の考え方ばかりが、必ずしもほんとうの人間の考え方とは限らないということです。僕ら日本人が何千年もの間続けてきた生き方がこの中にはある。ぼくらの血がこれを読んで騒ぐのは当然だという気がしますね」(伊藤整)

「人間の美しさというものが、今非常にあいまいになってきている、そういうことを肯定的に書くことがほとんど不可能になってきている。この作品では早く楢山に登りたいということを素直に主張する人物を出すことによって、それに成功している」(武田泰淳)

「ことしの多数の作品のうちで、最も私の心を捉えたものは、新作家である深沢七郎の『楢山節考』である。…私は、この作者は、この一作だけで足れりとしていいとさえ思っている。私はこの小説を面白ずくや娯楽として読んだのじゃない。人生永遠の書の一つとして心読したつもりである」(正宗白鳥)

『楢山節考』はベストセラーになり、何度も映画化され、彼の生涯の代表作であることは疑いないが、必ずしも深沢七郎にとっては本意ではない受け取られ方をし、いわば生涯の「誤解のもと」となった作品でもあった。

その「誤解」が頂点に達するのがのちの「風流夢譚」にまつわる事件であるが、ひとまず彼の作家としての本領が最も発揮された作品の一つは、1959年の『東京のプリンスたち』ではないだろうか。

大谷能生曰く、「深沢七郎が書いた『東京のプリンスたち』という小説は、ロカビリーとその音楽を愛した少年・青年を主人公として描いた、日本語で書かれた音楽を取り扱う小説のなかでもっとも美しい作品のひとつである。音楽と生活とが密接に結びついている人間たちの生を、彼らの生活のリズムを正確に辿りながら描くことに成功している、という点において、この作品は『楢山節考』と非常によく似た性格を持っている。」


階段の下からラジオが聞こえてきた。(聞いたことがある曲だ)と思ったらすぐ唄になった。ぼーっとしている頭にも(エルヴィスの声だ)とすぐに判った。「マネー・ハネー」だった。正夫は引き戻された様に我に返った。気がついたら立っている足が小さくゆすれていた。ハッと、正夫は足に力を入れてリズムに合わせてゆすりだした。歯切れのいいリズムで両足が切れてしまうように激しくゆすった。

(ちぇッ、いいなァ)

と舌打ちした。正夫は右手を大きく振って指を鳴らしながらエルヴィスの声と一緒に歌い出した。重苦しかった下半身が爽快になってしまったことなど知らなかった。テンコが目の前にいるけど、そこに掛けてあるカーテンや襖の模様の絵と同じようにしか思えなかった。



上の引用部分は、「押しつけられたように下半身が重苦しくてたまらなかった」田中が、早くこの苦しさを捨ててしまうために、テンコを誘って温泉マーク(今のラブホテル)に入ったところ、エルヴィスがかかっているのをきいた場面だ。

それから、下に引用するのは、この小説の最後の場面だが、以前、この部分だけが引用されているのを何かの評論で読んだことがあって、強烈に印象に残っていた。いったい何の評論だったのだろう?


「アイ・ニード・ユア・ラブ・トゥナイト」が激しく鳴った。“今夜はお前のラブが必要だ”とエルヴィスは騒ぐように歌っているが、題名だけが判れば、歌詞など判らなくてもいいのだ。破裂しそうなリズムに合わせて、思いきりの声をだしてエルヴィスが歌っているのを聞いていると、頭の中がカラッポになってすっきりするのだ。そして、手や足がこきざみにゆれて、押さえつけられた様な手や足の力がぬけて軽くなるのだ。

洋介はひょっと気がついて立ち上がった。うっかりレコードの横に腰かけていたのだった。疲れているから腰をかけてしまえば眠ってしまうのである。あしたは運送屋も休みだし、今夜はこの新曲を思う存分聞くのだから眠ってしまってはダメだと思った。「アイ・ニード・ユア・ラブ・トゥナイト」が激しく鳴った。(腰をかけてしまってはダメだ)と洋介はテーブルの方に寄って行った。片足をテーブルにあげたがすぐ瞼が重くなってきた。また、レコードの方へ行って壁に寄りかかった。ぐらっと倒れそうになって、ハッと気がついた。(ねむってはダメだ)と、肘でぐンと壁を突いた。

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2019/6/16 | 投稿者: pdo

深沢七郎「カタギの舌で味わう」

バーのホステスというのは職業だ。要するに、稼ぐということが目的だ。「あら、ちょっと私をそこへ座らせてよ」なんて言って座ると、もう座り賃がつく。それでまたすこしたつと、ほかの所へ行って座り賃を稼ぐ。ただ、一番重要なことは、そういう自分が楽しむんじゃなく、稼ぐということがひとつの職業になった場合、労働とちがうんです。こびを売ると昔の言葉は言うけど、好きでもない男の人にいいわねなんていうこと、それでなにかもらいたくてニヤッと笑ったり、そういうのをこびを売るというけど、それで金を稼ぐ職業だけど、それは、実際に働いたこととはちがう。春を売るというのともちがう。春を売るのは、肉体を提供して稼ぐことね。

ほんとに働くことと水商売のちがいは、たとえばここに、立派なお嬢さんがいて、そのお嬢さんがある期間、誰にも知られないように3か月だか1年水商売をやるわけです。立派な家庭のお嬢さんだから、だれにもわからないよ。そして、だれにも知られないうちに、お嫁に行く。ダンナも全然分からない。一生だれにもわからない。けれど、たったひとつ困ったことは感覚が狂っちゃうこと。いったん水商売をやってうまいぐあいに立ち回って稼ぐと、本当に働いた稼ぎでない金を手にすると、たとえば、神田から新宿まで切符を買うとする。水商売で感覚の狂った人の買った40円の切符と、1日1500円で働いた人の40円の切符とは、切符がちがってくる。彼女の切符と、働いた人の切符がちがうということは、ちがう道を行くわけです。今行ったお嬢さんが、水商売をしたことをだれにも知られずに一生を終わっても、感覚が狂っているから、切符を買っても、靴下を買っても、ネギを買っても、ちがった物になってしまっている。それは、どこかにほかのいいお嬢さんがいて、お父さんやお母さんにお金をもらって、銀座へ行っていい服を買ったりうまいもの食ってくるのと、水商売して感覚が狂ったのとはちがう。そこが、落とし穴みたいなもんなんだ。

水商売やった女(ひと)は、もう銭のこといえばすぐわかる。銭っていうのは50円とか100円とかいうのではなくてね。物でもバーンと気前良くしたり、かと思うといやに欲をかいたり。話がわかるような人から、うんととろうという考えがあったりする。大袈裟に言えば、そういう感覚が磨かれているからね。

そんなこと言っちゃ悪いけど、今川焼き屋してて、今川焼き買いにきた人が、銭を渡してくれるそれだけで、この人は水商売の人かな、カタギの人かなというのがわかるくらい。今川焼きの味まで違ってきてるわけだ。なにさこんな味っていうのと、これだけのお金ならこれくらいの味だろうっていうのと、もらった品物もちがう。うんと苦労して、砂漠の中で水を探して飲んだのと、水道の水を飲んだのとでは、同じ水でも、ちがう水の感じがする。それと同じ感覚で、今川焼きの味もちがうわけだ。

感覚によって、同じものでも味がちがってしまうっていうのは、おそろしいことですよ。だからオレは、なるべくカタギの舌で味わっていきたいと思う。



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2019/6/15 | 投稿者: pdo

つぶやきシローの書いた小説『私はいったい、何と闘っているのか』を読む。

若い世代は「つぶやきシロー」といってもピンとこないのかな。相当むかし、一番人気が出たころに「つぶやきシロカセ」というのを買ったことがあるくらい、彼のネタが好きだった。

2016年に出たこの小説は、彼のつぶやきネタの延長のようでありながら、ストーリーや構成もしっかりした、見事な作品だ。

それにしても芸人で文才のある人の多さには驚かされる。まあ面白いことを考えてそれを他人に伝わるように巧みに表現する仕事なのだから、その達人といってよい人たちの書くものが面白いのは当然なんだけど。

涙が出るほど笑わされ、最後には本当に涙が出る。

サラリーマンの悲哀という言葉で括るにはあまりに切ない、同時にめちゃくちゃに笑える、そしてたまらなく愛おしい。最初の数章は、変な人のぶっとんだ思考回路と行き切った行動を独白で表現する中原昌也的な世界を感じさせたが、途中から意外な展開を見せる。

ドラマや芝居にしても面白そうだが、こうやって小説の形で表現する方が深みと味わいがあるような気がする。

いいものを読ませてもらった。
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2019/6/14 | 投稿者: pdo

大友良英の震災後の活動記録『クロニクルFUKUSHIMA』(2011年10月)と翌年に出た対談集『シャッター商店街と線量計』(2012年12月)を読むと、その翌年のドラマ「あまちゃん」にダイレクトに結びついているのが分かって大変興味深い。

あの震災をきっかけに、というわけでもないが、2011年から動き出したものは色々とあって(TBSラジオ『粋な夜電波』が始まったのも2011年4月だ)、あの震災と原発事故の影響がまだ終わっていないように、それらの動きも現在進行形で展開している。

来年の東京オリンピックが新生日本の嘲笑的抽象的象徴的なイベントになるとはとても思えないので、2011年からの新しい運動(それは非常に分かりにくい形であちこちに存在している)を総括するような何か象徴的な出来事(できればポジティブなものであってほしい)がそのうち起こるに違いないとの確信めいた予感がないとやっていられない。

あらゆることはきっとよくなるという根拠のない自信だけがいかなる現実をも凌駕する。たぶん。きっと。私はいったい、何と闘っているのか。
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