2021/6/10 | 投稿者: pdo

昨日のドストエフスキーつながりで思い出したのだが、先日お亡くなりになった俳優の田村正和さんの当たり役であった〈古畑任三郎〉が、「刑事コロンボ」シリーズに着想を得たものであることはよく知られている。

そして、「刑事コロンボ」が着想を得たのは、ドストエフスキーの「罪と罰」に出てくるポルフィーリー予審判事であることも、もはや定説となっている。

ポルフィーリーと真犯人ラスコリーニコフの手に汗握るやり取りは「罪と罰」の見所の一つであり、後のコロンボと真犯人の丁々発止のやり取りの先取りとも言える。

それで、ポルフィーリーの次の台詞を、亡くなった田村正和氏の口調で、さらに、亡くなった小池朝雄氏の口調で頭の中で再現してみた。

「・・・人を殺しておきながら、自分を潔白な人間だと思って、他人を軽蔑し、蒼ざめた天使のような顔をして歩き回っている—— なんの、これがどうしてミコールカなもんですか、ロジオン・ロマーヌイチ、これはミコールカじゃありませんよ!」

「では…… 誰が殺したんです?…」

彼(ラスコリーニコフ)はがまんしきれなくなり、あえぐような声で尋ねた。

ポルフィーリイは、まるで思いもよらぬ質問にあきれ果てたように、椅子の背へさっと身を反らした。

「え、誰が殺したかですって!……」

自分の耳が信じられないように、彼はこう問い返した。

「そりゃあなたが殺したんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ!あなたがつまり 殺したんです。」

彼はほとんどささやくような、とはいえ十分確信のこもった声で、こう言い足した。

* * *

「一体あなたはこれまでに、十分生活をしましたか? 十分物事がお分かりです か? 理論を考え出したところが、まんまとしくじって、どうもあまり平凡な結果になってしまったので、恥ずかしくなったんです!結果は俗悪だった、それ は事実です。しかし、あなたは望のない卑劣な奴じゃありません。決して、そんな卑劣な奴じゃない!少なくとも、あなたはあまり長く自己欺瞞をやらないで、一度に最後の柱へぶっつかったのです。

一体わたしはあなたを何と見ていると思います?わたしはあなたをこう見ています。あなたはただ信仰とか神とかを見つけさえすれば、よし腸を引き出されようと、じっと立ったまま笑みを含んで、自分を苦しめる連中を眺めている、そういう人間の一人だと思っています。だから、早くそれをお見つけなさい、そうすれば生きて行かれますよ。

あなたは、第一、もうとっくに空気を一変する必要があったんです。なに、苦痛もいいものですよ。お苦しみなさい。事によると、苦しみたいというミコールカの考え方が、あるいは本当なのかもしれません。そりゃわたしだって、容易に信じられないってことはよく承知しています——がまあ、あまり理屈っぽく詮索しないで、何 も考えずにいきなり生活へ飛び込んでお行きなさい。心配することはありません——ちゃんと岸へ打ち上げて、しっかり立たせてくれますよ。では、どんな岸 かと言えば、それはわたしにゃ分かりっこありませんよ。ただあなたはまだまだ 生活すべきだと、信じておるだけです。

あなたが今のわたしの言葉を、紋切り型の御説法のようにとっておられるのは、わたしも承知しております。しかし、また後で思い出されたら、役に立つことが あるかもしれません。それだからこそ言うのです。あなたがただ婆さんを殺した だけなのは、まだしもだったんですよ。もしあなたがもっとほかの理論を考え出したら、それこそ百億倍も見苦しいことをしでかしたかもしれませんよ!まだしも神に感謝しなきゃならんのかもしれませんて。

何のために神があなたを護って下さるのか、そりゃ、あなただって分かりっこありませんや。あなたは大きな心になって、もう少し恐れないようにおなんなさい。 目前に控えている偉大な実践を、あなたはびくびくしてるんですか?いや、 この場に及んでびくびくするのは、それこそ恥辱です。一旦ああいう一歩を踏み出した以上、歯を食いしばって我慢しなくちゃいけません。それはもう正義です。だから、正義の要求するところを実行なさい。あなたに信仰がないのは、わたし も承知しているが、 しかし大丈夫、生活が導いてくれます、やがて自分から好きになりますよ。あなたは今ちと空気が足りない、空気が、空気がね!」
(米川正夫訳)

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2021/6/9 | 投稿者: pdo

水村美苗『新明暗』を読んで思い出したのが、亀山郁夫『新カラマーゾフの兄弟』である。

言わずと知れた、ドストエフスキーの大作『カラマーゾフの兄弟』を、現代日本社会を舞台にリメイクした問題作だ。

『カラマーゾフの兄弟』は、ドストエフスキーの死により、構想されていた続編が書かれないまま終わったとされている。

亀山郁夫は、その未完に終わった部分を彼の推理と想像力で補完した『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』という本も書いている。

『続明暗』は、どちらかといえばこっちの方に近い作品であるといえる。

実は自分は『新カラマーゾフの兄弟』も『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』も読んでいない。

『新カラマーゾフの兄弟』の方は、図書館で借りて読もうとしたのだが、読みかけて早々に挫折してしまった。内容も覚えていない。

亀山郁夫は、東京外国語大学の学長であり、ドストエフスキーだけでなく、ロシア文学や広くロシアをテーマにした数多くの本を書いている。

『カラマーゾフ』以外にも、『悪霊』も翻訳しており、『謎解き『悪霊』」という本も書いている。


2019年には、NHKの「100分de名著」という番組に出演し、『カラマーゾフの兄弟』について視聴者に分かり易く解説するという役割も果たしている。

つまり、今の日本では、「ドストエフスキーといえば亀山郁夫」とされており、少なくとも今の日本の若い世代は、彼の存在を抜きにしてドストエフスキー作品に触れることはほとんど不可能な状態に置かれている。

で、何が言いたいかというと、これは非常に不幸な状態なのではないか? という気がするのである。

というのも、亀山郁夫のドストエフスキー作品の理解とその訳業については、専門家から、かなり厳しい批判が寄せられている。

これは専門家によるものではないが、以下に引用するアマゾン・レビューがその一例である。


新訳「カラマーゾフ」が評判になってしまったためにドストエフスキーというとこの方は必ず出てくるようになってしまいました。

私は「カラマーゾフ」がでたあとに講演会で直接話を聞いたこともあります。最近やっとこの「専門家」についてもやもやしていた思いがなんだったのかわかりました。

ある場所に書かれていた言葉を引用します。

『多くが思いつきと思い込み、または誤読にすぎず、その前に基礎基本をしっかりしてほしい』これに尽きます。

この新書(『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』)は「空想」と銘打ってあるので、それこそこの方の本領発揮、どこまでも「空想」が延長されていきます。

ですが、この訳者が空想しているのは、この本だけではないのです。ご自分が翻訳された悪評高い「カラマーゾフ」「悪霊」「罪と罰」の解説・解題、そして翻訳そのものにおいてすら空想・妄想が多分に入り込んでしまっているのです。

それらについて多くの識者からの指摘を読むとわかりますが、専門家の名を冠した訳者の妄想が原作そのものを侵食するような愚かなことが起きています。そしてそれをチェックする機能が出版社の編集においてまったく働いていません。

「亀山(誤)訳ドストエフスキー」は歴史の試練に耐えられないのはもちろんですので、早晩、どんなに遅くとも訳者の没後には誰にも顧みられることがなくなるでしょう。

ですがこうもおおぴらに誤訳とその放置、本来媒介者に過ぎない翻訳者の妄想が原作を侵食するという暴挙が発生したこと、そしてそれをチェックし、修正する機能を出版社が果たせなくなった端境期がまさに今であることが、後世からはよく理解されることと思います。


僕はロシア語が読めないので、彼の誤訳についての指摘がどこまで正当なものかを、直接判断を下すことはできない。

しかし、このサイトの検証を読むだけでも、過去の翻訳者、米川正夫、原卓也、江川卓の三人の翻訳と比較して、亀山郁夫の翻訳だけが際立って異なっているのが分かる。原文と照らし合わせた解説を読む限り、亀山のはどうも解釈の違いというよりは明らかな誤訳のようである。

そしてこれらの誤訳の根っこには、どうやら訳者である亀山郁夫にそもそも『カラマーゾフの兄弟』が全然理解できておらず、読み取れていないという問題があるということのようである。

このことについて、大部のテキストが存在する。僕はこれをすべて読んだわけではないが、この著者の主張にはかなり共感できるところが多かった。

僕自身、亀山郁夫の訳した『カラマーゾフ』と『悪霊』を読もうとしたが、違和感があって読めなかったという経験があった。そのときは、これらの批判の存在を知らなかったはずである。

僕は、新潮文庫のドストエフスキーを読んでいたので、『カラマーゾフ』は原卓也訳で、『悪霊』は江川卓訳で、『罪と罰』は工藤精一郎訳で読んだ。

その後、全集などで米川正夫訳も読んだ。それらはいずれも何の違和感もなく読め、ドストエフスキー体験の感動を深めることに大いに役立つものであったと感謝している。

だが、亀山郁夫の訳したものは、とても違和感があって読めなかった。誤訳とかそういうレベル以前に、頭と身体が受け付けなかったのである。

亀山新訳は、「今の若い人にも読みやすい」ということで、ドストエフスキー普及に大きく貢献するものとして高く評価されているようである。

ただ、自分は、初めてドストエフスキーを読んだのが亀山訳でなかったことを感謝している。

本当は『新カラマーゾフの兄弟』について書くつもりだったのだが、もうその気をなくしてしまった。



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2021/6/8 | 投稿者: pdo

『続明暗』を評して、作者が親しんできた日本近代文学、中でも菊池寛の『真珠夫人』のような通俗小説になってしまっている、という小論を読んだ(渡邊澄子『男漱石を女が読む』)。いくつかの具体的な個所について、漱石なら決してそんな書き方はしないという、その指摘には頷ける部分も大いにあった。しかし『続明暗』の著者(水村美苗)は、自分が漱石の『明暗』を漱石に成り代わって完成させたなどと主張しているわけではないのだから、批判としては的を外していると言わざるを得ない。

図書館で水村美苗『私小説from left to right』を借りて読んでみたが、いまひとつピンと来ず。十二歳の時にアメリカに一家で移住し、ちょうど二十年経った十二月の一夜、姉の奈苗と長電話しながら、そこに過去のさまざまな回想が絡まる。アメリカで日本人が生きるとはどういうことか。日本というイメージへの憧れと小説を書きたいという思い。テーマとしては切実で、小説の素材となるだけの深さもあると感じるが、こちらの気持ちの持ち方が、どうもそれをまっすぐに受け止める方へ行かない。テーマへの共感度合いが小説の面白さを決める一要素だとすれば、その点では初めから読者失格なのかもしれない。文体は日本語としてもちろん流暢で読み易く、そこに英語が混じるのも新鮮とはいえる。英語の混じり方も不自然な印象は与えない。著者の頭の中の忠実な再現といってもよいのだろう。

『私小説』というタイトルに惹かれるものがあったのだが、期待していたようなものとは違った。私小説と銘打ってはいても、純文学と通俗小説の違いというのはやはりあって、その区別はどこにあるのかと言われると言葉に詰まるのだが、たとえば先日読んでみた赤松利市『ボダ子』は私小説であるという人もいるのだが通俗小説にしか思えず(この作家の『藻屑蟹』という小説は面白かった)、この水村美苗の小説も、自分の評価基準からすると、通俗小説に限りなく近いところにあるような気がする。たとえば津島佑子の『光の領分』や『寵児』は、フィクショナルな体裁はあっても、私小説としてすぐれていると思う。

自分のことを書けば私小説になるのかというとそうではない。フィクショナルではあっても、その主人公に自分の深い部分にあるものが投影されていれば純文学だし私小説といえるのではないか。

大岡昇平は作家になろうと思うと小林秀雄に話したとき、「描写なんかせずに、魂のことを書け」と言われたという。そのエピソードが好きだ。
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2021/6/7 | 投稿者: pdo

小島信夫の『漱石を読む』という辞典のようにぶ厚い評論集(水声社)を読むために漱石の『明暗』を読み返し、さらに水村美苗『続明暗』というのも読む。

『続明暗』は、『明暗』の伏線をすべてきれいに回収するような形で、物語をうまくまとめてある。著者自身が「批判を覚悟して書いた」と述べるとおり、漱石の作品の〈つづき〉を書くというのは勇気のいる企てである。だがこの『続明暗』を読んで、これはこれで立派な作品だと認めない者はほとんどいないだろう。そのくらい上手く書かれている。仮に漱石が死んだ後で、これが残された原稿であると称して新聞連載を続けたとしても誰も気づかないのではないか、という位に漱石の文体もうまく模倣してある。

もちろん、穿った目で見れば、登場人物の扱い方などについて、ケチのつけ所というか若干の不満がないわけではない。個人的には、お延が温泉旅館に津田を追いかけていき、津田と清子が滝の傍で立ち話しているところに出くわすまではよかったが、そこからお延と清子の〈女の対決〉が是非見てみたい気がするし、津田と、清子の夫である関の〈対決〉も見たい気がする。それから吉川夫人が本当のところで何を考えていたのかを知りたい気がする。漱石作品の中でドストエフスキー的な雰囲気を最も湛えた人物である小林の言葉ももっと聞いてみかった気もする。それなら自分で書けばいいじゃないか、と言われたら、そんな文才があればなあ…と溜息をつくしかない。

『続明暗』を読んで、自分がその昔、漫画「じゃりン子チエ」のつづきを妄想してト書き小説みたいなのを書いたときのことを思い出した。この小説が作家水村美苗のデビュー作となったというのもまた興味深い。この人の別の小説も読みたくなった。

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2021/6/6 | 投稿者: pdo

小島信夫『漱石を読む』から水村美苗『続明暗』についてコメントしている部分を抜粋する。


『続明暗』という小説を、ある女の人が書き上げ、それが本にもまとまったので、読むつもりであるが、締め切りがきてしまったので、間に合わなかった。すくなからぬ人が、漱石は『明暗』のあとの部分をどんなふうに書いていくところであったかを空想してきた。大きく分けてそれは二色になるようであるが、あの作品を満足のいくものにするにはたいへんなことであると想像される。・・・

『明暗』の書かれてなかった部分のことを考えるのは、面白いことである。しかしじっさいに小説に書いて見せるということは、これまた別のことである。たしかに漱石はその『明暗』の中で相当の分を書いているので、それをもとにあとの部分を漱石の身になって書くことは、まんざら不可能のことではないように見える。といっても漱石は五十歳近い年齢であり、明治を生き大正五年に死んだ人であるのだから、現代の若い女性が続きを想像で書き上げるということは、出来そうにもないようにも見える。しかし、出来ないとはいえないし、現に書き上げてあるのだから、出来たのである。こういうことは実に興味深いことだ。私の記憶ではプルーストは若いときに文章、文体の勉強のためだったか、それとも別の意図によるものであったか忘れたが、あるスキャンダラスな事件が起きたとき、何人かの作家の文体で書いた。これは事件があって、問題は別だ。私がこの『続明暗』が雑誌『季刊思潮』に連載されはじめたとき、ちょっとのぞいてみたところでは、吉川夫人が盛んにしゃべっているところがあった。筆の運びもいかにも漱石ふうであったので、おかしくてしようがなかった。また先日この本をのぞいてみたとき、忘れかかっていた人物があらわれている模様なので、いよいよ興をそそられた。ことによったら新しい人物の名であったかもしれない。
・・・

さて、こんど『続明暗』という本が出たので、四、五日前か、あるいはもう少し前に読むことにした。この本のことを竜野に話すと、彼はテレビにこの女性作家があらわれて、インタビューを受けるのをみた、といった。それによると彼女はニューヨークかどこか、そういったアメリカに長らく住んでいて、家にあった改造社の文学全集ばかり読んでいたので、それらの小説を読んで、日本のことを知った、というより、それ以外の現実の日本というものを知らないのだ、といったそうだ(多少、私のききちがいがあるかもしれない)。それでもちろん漱石の作品などはよく読み、有島の『或る女』とか、谷崎の『痴人の愛』なんかも読んでいる。もっともっとたくさんのものを熟読した模様であるが、『続明暗』を執筆するにあたって、いまあげたようなものを参考にし、『明暗』の続きをどんなふうに書けばいいのか、考えたそうだ。結果においてメロドラマになってしまった、というふうにいっていたようである。

竜野は、彼女が『続明暗』を書き上げてショックを与えたことも面白いが、何よりも古い時代の日本の小説しか読めなかったので、その小説の世界が日本だと考え、そこで空想をはぐくんだ女性がこんどの本を書いたということが面白い、といった。そのことは、私もそうだと思う。私はこの『続明暗』の連載が開始したときから、興味を抱いていたが、後の楽しみに、読む機会を先に延ばしてきた。先だってあるパーティに必要上出席すると、顔見知りの女性雑誌の編集長が、「実に実に面白い」といった。私はいよいよ興味をいだくことになった。そのあと竜野に電話で話すと、さっきのようなテレビのことを話してくれた。

私は読後感を竜野に話した。竜野は読んだとも読んでいないともいわなかったが、テレビのインタビューでは、だいたい、どんなふうに運ばれているかは分かったようにも見えた。

・・・
小説は、下女が来て横浜から来ている例の女連れの客が、不動の滝へ一緒に行こうといっているといい、津田にも、同行をすすめるようになっている。彼はそこで彼女にいつまで逗留するか、というと、分からないが、夫の関から電報が来れば、今日にでも帰らなければならない、とこたえる。そこで彼は「そんなものが来るんですか」というと、彼女が、「そりゃ何とも言えないわ」といって微笑をもらしたので、その微笑の意味を一人で説明しようと試みながら部屋に帰った。読者にしてみると、その微笑の意味は、津田より以上に分かるとも思えないが、津田は夫の関と彼女とのことはどうなっているのであろうか、と、おそらくうまく行っていないのであろうと考えたであろうと想像はつく。しかし、それならば、どうしてそんな関という男を、自分を捨てて選んだのであろうか。まったく分からない! それとも、私のことにはかまわないで下さい、いつ電報が来るかもしれないが、だからといってそれは別にあなたにはどうでもいいことでしょう、という意味での微笑であろうか。

漱石の『明暗』はここで永久に終わっている。水村美苗の『続明暗』の清子は、問い詰めようとする津田になかなか答えようとしない。じっさいには彼は問い詰めるときがほとんどない。例の女連れの客がいつもそばにいるようになっているからである。そうして彼女が答えることは、こういうことである。

「いえとおっしゃったっていえないわ」ということである。どうしてそんなこときこうとなさるの、ということである。しかし彼は、いえないといったって、わけがなくて去っていくなんてことは、あなたみたいな、ちゃんとした女の人がするとは考えられないではないか、というような趣旨のことをいう。わけがないことはないけれどもいうことはできないわ、というふうに彼女はいう。こんなふうに進んで行く。

これは作者の水村さんがムリヤリに、あるいは意味ありげに引き延ばしているのではない。けっきょくのところ清子のいうことは、だいたいのところ、こんなふうのことである。

「ではいいましょう。あなたという方は、こんどはまた吉川夫人の世話で延子さんという人と結婚なさり、そうしてその夫人の見舞いの品をもって私の泊まっている宿へいらっしゃり、そうして私にこうして私があなたを離れた理由を問い詰めようとなさっていらっしゃる。あなたはそういう方なのよ。それは私の口からはいえないことだわ。今もいえないと思っていたし、あのときも、そうだったのよ」

私はいま自分の言葉にして、先日読んだ『続明暗』の記憶を頼りにこう書いた。いつそういったか、それまでにどういう情景があるか、ということは、ともかくとして、まずこのことを私は述べておくことにする。清子はこれだけいって東京へ帰っていく。津田が気が付いたときには、彼女が去ったあとである。彼女がいったことは、漱石の『明暗』、つまり百八十八章までの部分において、すべて読者の前に、さらけ出していたところの津田の性向である。延子と結婚したり、吉川夫人の世話になったり、吉川夫人のいうなりになったり、それから何もかもである。彼は聡明であると、作者のお墨付きをもらっておきながら、あることが分かっていない。そのことにはすこしも気がついていない。延子はそのことを感じていないというわけではないが、よくは分かっていない。分かるときが、もうすぐ到来するかもしれないが、そのとき、どんなふうに理解するであろうか。好男子で背が高くキメの細かい肌をした、この男はこの点では『それから』の代助みたいである。それで〈聡明〉ときている。みんなが見抜いているともいえることを、清子が見抜いていた、というだけのことにすぎない。そのことをきくために、こんなふうにして温泉に来ているということがそもそも問題なのだ、ということになるとすると、あまりのことに津田がすぐなっとく出来ることはむずかしいであろう。しかし清子のこのセリフは、確かに実に正確で妥当である。

私は滝野にまず、こう話した。
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