2021/9/3 | 投稿者: pdo

文学のイロハからいえば、私小説の〈私〉も作家の〈私〉とは別人格である。小説の世界を日常の世界から切断し、作品の内部で、他のひとつの人格に化身して他人の生を生きる―その試みのなかでのみ、ひとは初めて小説家でありうる(三好行雄)

先に、朝日新聞の文芸時評の記載に作者が抗議したことで話題になった桜庭一樹「少女を埋める」について、「これは私小説というよりはエッセイ(随筆)であり、一個の私小説作品としては弱すぎて成立していない」と書いた。

その理由として、「この〈小説〉は作者が小説の主人公〈わたし〉を十分に突き放しておらず、ほとんど完全に同化してしまっている」ことを挙げたが、上に掲げた三好行雄の言葉はその見解を補強するものである。

だが、いくら私小説の名に値しない作品であるとしても、小説として発表された以上は、一個のフィクションとして自由な解釈に委ねられるべきである。その解釈の中には当然、作者の眼から見た〈誤読〉も含まれる。

今回、作者が抗議したのは、そのような解釈(誤読)の自由に反対する意図ではない、と桜庭(作者)はいう。ではなぜ抗議したのか。それは、(1)「朝日新聞」という巨大な読者層を持つメディア上で、(2)自作の小説の内容として、(3)「主人公(作者)の母親が父親を虐待していた」と作者の意図に反し事実でもないことが書かれたからである、という。

(1)仮にこの時評が「朝日新聞」ではなく、マイナーな文芸誌に掲載されたものであったとしたら、作者は抗議しなかったと言えるか。それはたぶんいえるだろう。例えば、一日の読者数が一桁からせいぜい数十人に満たないこのようなブログに書きこまれたものであったなら、作者が抗議することはあり得ない(そもそも作者が読むこともあり得ない)。

作者はこれを「報道被害」であるとさえ言っているが、それは次の部分に関わる事であろう。

(2)問題の時評では、確かに、解釈の余地のないものとしてこの小説の客観的内容(あらすじ)が書かれているとも読める。しかし、この時評の冒頭では、サン・テクジュペリの「星の王子様」という小説は、「ヤングケアラー問題」についての一種の介護小説とも読める、と提示されていることから、この時評の読者は、この評者が作品を特殊な観点から読み解く傾向があるということをある程度勘定にいれて読むことが想定されているともいえる。

要は、この点については、この時評の読者、つまり朝日新聞の読者(しかもわざわざ文芸時評の欄に目を通すような読者)の知的水準をどう評価するかによって、結論が分れる問題であり、そう単純なものではない。

(3)たとえば葛西善蔵の小説では、主人公が同棲相手の子を流産させ、死産させたことになっている。西村賢太の小説では、主人公が同棲相手に殴る蹴るの暴行(虐待)したことになっている。どちらも〈私小説〉である。

しかし、これらの作品について〈主人公は相手の女性を愛していた〉と書いたとしたら、それは誤読だろうか?

自分の見解は、評者は「作者の意図とは異なることを書いたこと」で責任を問われるいわれはないし、「主人公(作者)の母親が父親を虐待していた」ことが客観的事実と異なる、という証明が出来ない以上(畢竟「虐待はなかった」というのも作者による〈解釈〉にすぎないのだから)、評者が「事実とは異なることを書いた」と非難されるいわれはない、というものである。

そして、今回の件については、(1)評者が自分の見解に引き寄せるために作品に意図的に不自然な解釈を加えたか、(2)単に斜め読みして不注意に書いたかのいずれかだと思うが、いずれにしても責任を問われるというのはおかしい。後者の場合は、評者自身の能力が疑問視されるというだけである。作者が不当な批評と感じたことに対しては反論する権利はもちろんある。ただし批評の訂正を求める権利はない。
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