2021/8/3 | 投稿者: pdo

大庭みな子の『風紋』という小説を読んだ。

最後の短編という。小島信夫が脳梗塞で倒れて危篤状態にあるという知らせを聞いて書かれた。

二人の対談などの様子から、大庭みな子が小島信夫に好感以上の思いを寄せていることは何となく分かっていたが、最後の最後になって、こんなに明け透けにストレートに思いを表現しているのを知って驚いた。

ナコは信さんを何十年も好きだったが、抱き合ったこともなければキスしたことさえなかった。今になってあんなに何度も会ってもっと近付く機会はいくらもあったはずなのに、そうしなかったのはどういうわけだろう、と不思議に思う。ナコはいつでも思い立つとのこのこ出かけてゆき「もっと強く抱き締めて頂戴」と言いたがっていた。けれど一度もそんなことを実際に言ったことはなかった。しかし、いつでも思ってはいた。できることなら男と女の絡み合いをと夢見ていたに違いなかったが、夢見ていたことは何一つしなかった。そして今ではもう信さんは意識が無いという話だ。…
(大庭みな子『風紋』より)


ナコというのはもちろん、大庭みな子のことである。

ナコは夫である利雄のことをトシと呼んでい、晩年の作品はナコが口述したのをトシがキーボードを叩いて入力していた。

トシはこういっている。

みな子の最後の短編「風紋」が発表されたとき、どこからか「こういう小島信夫氏へのラブレターを口述で文字化した夫の利雄はどういう気持でキーボードを打ったのだろう」という声が聞こえてきたが、そういう疑問は利雄にはピンと来ないほど、二人の間は世間の常識を離れた、馴れ合った夫婦関係になっていたようだ。みな子は何をはばかることも、はにかむこともなく小島氏への想いを口に載せたし、利雄は何の心のざわめきもなくキーボードを叩いていた。
(大庭利雄『おかしなおかしな夫婦の話』より)


ナコはこういっていた。

ナコはいつでも自分の方からのこのこと信さんのところへ出かけて行き、「抱いて頂戴」というふうに身体を押し付けていたが、現実にはやはり何もしないで離れたところにぼんやり突っ立っているだけだった。いつもいつもただ突っ立っているだけのナコにナコ自身腹を立てていて、帰ってくるとトシに抱きついて何度も何度も身体を絡ませて子供のように遊んだ。砂遊びや泥遊びを子供が飽きもせずにするように、日が暮れるまで、いや、夜が明けるまで繰り返した。飽きるということはなかった、トシと遊んでいて飽きるということはついぞなかったのに、信さんとはそういうことはしなかった。ただ彼の姿の後にはいつもいつも高原の花野が続いていて浅間の煙がなびいていて、尾花とオミナエシが見渡す限り続いていた。…

信さんは、ナコに電話をかけて、施設に入っている妻(アイ子)のことを話し、「妻のところに行ってきました。何も分からなくなっていて、ただ、分らないということだけは分っているようでした。“分らないの”と彼女は繰り返して言いました」と報告した。

そして、「オミナエシやフジバカマがきれいな花野でしたよ」といった。

ナコは、「アイ子さんは植物のことなど関心のない人だったのだろう」と書いている。

どういうわけだか信さんのことというと必ずあのアイ子さんがいて、アイ子さんが大分前に置き忘れた黄色いハンカチが草むらの中にふわりと落ちていて、信さんは自分の忘れた野球帽のようなつばのある帽子をそのハンカチの上に被せていた。…

こんな風に書くと、まるでナコがアイ子さんをにくんでいたかのようだが、事実ちょっとしたヤキモチはあったのだろう。

大庭みな子は、小島信夫がこの世を去った半年後に、利雄の手を握り、利雄に手を握られて、利雄の腕の中で死ぬという永年の望みを叶えながら、あの世にいる多くの先輩たちのところへ旅立った。
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