2021/8/1 | 投稿者: pdo

『私の作家遍歴』から気になった箇所を引用。

彼の手になる天国も地獄も、個性を欠いているために退屈なものである。多様で複雑な人間関係はそこにはないのだ。現実の中に生きる人間がそれぞれに面白いのは、まちがっていると見えて実は正当であったり、逆に正当であるのにそれがまちがいになるためであり、独断を下したり分類したりすることはとてもできないほど、さまざまな斟酌や偶然の出来事や未来の出来事を考慮に入れなければならないためであり、悪徳を重ねた人間が力強く、徳の高い人間が、かえってしばしば無能であるためであるが、――このような面白さが、社会と人間の完全な一致の中に埋もれてしまっているのだ。そしてその欠陥は、もとはといえば、あの(筆者註:スウェーデンボルグによるの意味)世界構造の中心に由来するのである。
(エマソン『代表的人間像』の中の「スウェーデンボルグ」の章より、小島信夫『私の作家遍歴』の中での引用)


小島がエマソンに仮託して語ろうとしたことはよく分かる。スウェーデンボルグの世界観の中では面白い小説は書けないことが不満なのだ。


人間と世間とのかんけいをその人間の内側から見たときに、どうしても内側からしか見ることができぬ状態になっているときに、その人間の心の中を分析してみるとどんなふうになるか。
 
そのとき世間は仮面や符号に見えてくる。対話も話し合いも何もありはしない。


これは小島がドストエフスキーの『分身』を論じる中で書いたものだ。『分身』はデビュー作『貧しき人々』の次に書かれた作品で、『貧しき人々』がすぐに傑作として認められたのに対し、『分身』は失敗作とみなされ、若きドストエフスキーを落ち込ませた。ドストエフスキー自身はこの小説を書いた直後には、『貧しき人々』の百倍の価値があり、ゴーゴリの『死せる魂』に匹敵する傑作と考えていた。

僕はまだ『分身』を読んだことがないので小島信夫の解説を通じてしか知らないが、人の世の〈仮面舞踏会〉のような虚しさを描くところに狙いのある作品のようだ。

そうだとすれば、彼がシベリアに送られて『死の家の記録』を書いたことにはやはり大きな必然性があったのだと思える。



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