2021/7/8 | 投稿者: pdo

小島信夫の『抱擁家族』という小説が、あまりにも好きで、好きすぎて、二週間くらい、空いた時間を見つけて、ひたすらワードに全文を打ち込む作業を行っていた。

ようやくそれは終了したので、これから、折に触れて、この名作の一部を引用しながら、好き勝手なことを備忘録的に書いて行きたい。

まず冒頭から。

『抱擁家族』

小島信夫

 三輪俊介はいつものように思った。家政婦のみちよが来るようになってからこの家は汚れはじめた、と。そして最近とくに汚れている、と。
 家の中をほったらかしにして、台所へこもり、朝から茶をのみながら、話したり笑ったりばかりしている。応接間だって昨夜のままだ。清潔好きな妻の時子が、みちよを取締るのを、今日も忘れている。
 自分の家の台所がこんなふうであってはならない。・・・・・・
 しかし、しぶい顔をして俊介が台所へ姿を現わしたときには、彼の声だけは優しかった。


この冒頭のフレーズだけで、何ともいえない気分になる。ぞわぞわする、といったらいいのか、ワクワクするといえばいいのか。

三輪俊介は、大学の英文科の教師である。知識人でありインテリである。それなりに立派な家で、家政婦を使うような、贅沢な暮らしをしている。

冒頭の文章だけで、この三輪俊介の、プライドの高さや、ある種の傲慢な性格が伝わってくるようである。

「家政婦のみちよが来るようになってから、この家は汚れはじめた。」

と俊介は<いつものように>思っているのである。

じつはこの書き出しにはもう一つのバージョンがある。最初に引用したのは、初出版の方であり(講談社文芸文庫はこれになっている)、単行本版では、

「三輪俊介はいつものように思った。家政婦のみちよが来るようになってからこの家は汚れている、と。」

となっている。

『抱擁家族』の主人公は三輪俊介だが、この家政婦のみちよは陰の主役のようなものだ。小説の最後にもみちよが登場する。それについては後に触れるとして、ここで早くもみちよは、「家の中をほったらかしにして、台所へこもり、朝から茶をのみながら、話したり笑ったりばかりしている」だらしのない家政婦(女)として俊介の眼を通して描かれている。

『男流文学論』の、『抱擁家族』を論じた鼎談の中で、富岡多恵子はこんなふうにいっている。

富岡 みちよっていう家政婦はいそうな女ね。下賤でさ、お金もらって働きながら、ぺしゃくしゃ、ぺしゃくしゃ、台所でつまらないことしゃべって用事しないような感じの女の人いるでしょ。ことば遣いだけは、旦那さま、奥さまとかいいながら。こういう家政婦さん。

「ぺしゃくしゃ、ぺしゃくしゃ」というのがいい。

とにかく俊介には、こういう家政婦のみちよが気に入らないのだ。昨夜からの応接間を片付けようともしない。しかし清潔好きなはずの妻の時子は、そんなみちよと朝からお喋りに興じて、取り締まろうとせず、好きにさせてしまっている。

そういう最近の汚れた家の様子が、俊介にはたまらなくいやなのだ。自分の家の台所が、こんなふうであってはならない。

そう思っている俊介は、渋い顔をして台所に姿を現わすが、声だけはヘンに優しいのである。

このわずか冒頭の数行で、この小説の基本的な骨組みのようなものが示されている。いつも僕はこの書き出しを読むたびにうっとりしてしまう。

だが、陽羅義光という作家は、この冒頭について、こんなふうに書いている。

ともかく気味の悪い厭な冒頭である。何か始まる、それも家政婦のせいで、という懐の浅い主人公の予兆がある。その主人公だが、「汚れ」とか「取締まる」とか、保守的で厭な発想をする。常識的に煎じ詰めれば、「弱い奴」ということになる。三島由紀夫は弱い主人公を毛嫌いしたが、小説とは弱い人間を書くものである。もしくは人間が弱いものだという認識から出発するものである。しかしながら『抱擁家族』の三輪俊輔は、太宰治の『人間失格』の大庭葉蔵とは違って、読者が共感できない弱さである。それがこの『抱擁家族』の、小さくはないマイナス点である。

人によって感じ方は違うと思うが、「ともかく気味が悪い」というのは誉め言葉ともとれるし、ぼくは「読者が共感できない弱さ」を主人公がもつという点をマイナスとは思わない。むしろ読者が共感できる弱さを持つ大庭葉蔵のような主人公の方がイヤラシイと思う。

登場人物に共感できず感情移入できないがゆえに読み進められない小説というものは確かにある。ところが、『抱擁家族』のすごいところは、登場人物の誰一人として共感できず感情移入できない(むしろ移入を拒絶するように描かれている)にもかかわらず、グイグイと引き込まれるようにして読み進まずにはおれない、という点にある。
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