2021/1/29 | 投稿者: pdo

荻窪の古本屋で大江健三郎の初期短編集の文庫を買って、『奇妙な仕事』、『動物倉庫』、『鳩』、『見る前に跳べ』、『鳥』まで読んだ。

『奇妙な仕事』について、小谷野敦は、「奇蹟の処女作であり、人間存在のざらりとした感触を、日本文学にかつてない表現で表していた」と書いている。小谷野は大江を高く評価しており、「大江健三郎は、今世紀に入って、近代日本最大の作家になった。前世紀までだと、せいぜいが戦後最大の作家だったが、伊丹十三を描いた『取り替え子』からあと、その達成は谷崎や川端、漱石を超えるにいたった」と書いている。

確かに『奇妙な仕事』はインパクトのある作品である。だがその衝撃の半分は作品が取り上げる文字通り「奇妙な仕事」の中身から来るものだ。とはいえ文体そのものが今読んでも新鮮な感じがするのはやはり才能だろう。これが東京大学新聞に載って平野謙などの目に留まり、作家としての道が始まった。

『動物倉庫』は小説ではなく演劇のシナリオで、よくできてはいるとは思うがどうということはない。『鳩』は少年院を舞台にした陰惨な話である。『見る前に跳べ』も娼婦のヒモである大学生(東大仏文科)を主人公にした陰鬱な話である。大江の初期作品について共通して言えることだと思うが、これらの作品は当時の時代背景を抜きにしては価値が十分に分からないだろう。

『見る前に跳べ』などは、そのインパクトのあるタイトルが有名だが、今読むと冗長で平凡な小説であり、これなら確かに同年代で書いた綿矢りさの方が小説家としての才能を感じさせる(大江は綿矢の『かわいそうだね?』という小説に「大江健三郎賞」を与えて対談を行い、綿矢の才能を褒めちぎっている)。『鳩』も少年の自己処罰に傾く心の動きに十分な納得をもって共感できなかった。そもそも14歳の少年の主観的な語りと言うスタイルに無理がある気がする。

『鳥』は、星新一のショートショート(というには長すぎるが)のような味があって面白いと思った。
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2021/1/28 | 投稿者: pdo

大江健三郎の『取り替え子』を読んでいて、大江作品によく登場する「批判的なジャーナリスト」が気になってネットで調べたら、本多勝一のことらしい。本多の執拗な批判は大江のメンタルに相当堪えたようだ。

本多勝一も大江健三郎も大きく括れば左翼の人なので、本多の大江批判は一種の近親憎悪か内ゲバのようにも思われる。

大江は自作の中で、大江に対する批判的なコメントを取り上げて再批判を試みることがよくある。先の本多勝一もそうだが、坂本龍一の大江の息子光の作曲活動に対する、音楽活動にまでPC(ポリティカル・コレクテッドネス)を持ち込まれたらかなわない、というコメントもきっちり取り上げている。

そして、『取り替え子』の中でも大江は、自殺した伊丹十三についてのビートたけし(映画監督北野武)のコメントを冷たく批判している。

……古義人は、吾良の死を映画の仕事の行き詰まりに帰している記事に納得しなかった。イタリアの映画祭で賞を得たコメディアン出身の監督が、受賞映画のプロモーションにアメリカへ出かけて、おおいに受けたという、
――吾良さんが屋上から下を見おろした時、私の受賞が背中をチョイと押したかも知れない、というコメントを読んだ時も、こういう品性の同業者かと思っただけだ。
(大江健三郎『取り替え子 チェンジリング』)


にもかかわらず、健三郎は2006年に『たけしの誰でもピカソ』という番組に息子の光と一緒に出演し、「『ソナチネ』は好きな映画だ」などと話しているのである。小説はあくまでもフィクションであり、明らかな私小説風の作品ではあってもそこに書かれた見解は作家の見解を反映しているとは限らないということなのだろうか。その後両者の間で和解のような出来事があったのだろうか。よくわからない。

そういえば、「よくわかんない」と乱暴に相手との会話を打ち切って笑いを取るという手法を最初にテレビで流行らせたのはビートたけしではないかという気がする。もちろんそういうやり方は昔からあったのだが、話している内に支離滅裂でしどろもどろになり始めた相手に対して「よくわかんない」と言う言葉を相手に対してというよりもその会話を見ている観衆に対して叩きつけて乱暴にコミュニケーションを打ち切る一種の暴力性はたけしが初めて導入したものではないのか。マイケル・ジャクソンの「ムーンウォーク」だってヒップホップ界隈ではすでに行われていた動きをマイケルがオリジナルのように巧みに取り入れたことによって爆発的に世界に広がったのであって、新しい表現の出現とは要するにそういうことだ。ビートルズが音楽を通して世界の意識を変えたように、ビートたけし(そしてより小さな程度ではあるがタモリやさんま)はお笑いを通して少なくとも日本人の意識をある程度変えたのだ。もっとも前者の変化が肯定的で進歩的なものと評価できるのに対して後者の変化は否定的であり後退を意味するものでしかない。そして、我々の意識は、この「ビッグ3」(これら三者間の微妙な質的差異はとりあえず無視する)が1980年代に構築し固定化させたコミュニケーションのスタイルに2020年代の今も固定化され縛られているのである。

今の大衆音楽(ロックやポップス)が基本的にビートルズの枠組みを超えるものではないのと同じく、「ビッグ3」によって確立された笑いの枠組み、広く言えばコミュニケーション形式を根本的に改めるような表現は未だ出現していないと断じてよいと思う。ダウンタウンの笑いが革新的だったと言われるのは、図式的には、ビートルズの音楽に対してソウルやR&Bのブラック・ミュージックがあり、そこからひいてはヒップホップやラップが出現したことに対置できる気がする。つまり、枠組み(パラダイム)そのものを改めるようなものではなく、別種の(異質な)表現を持ち込んだということである。21世紀に入ってからの加速度的な傾向としてテレビ番組のクオリティのみならず我々の社会一般の「コミュニケーション形式」が絶望的に退屈であり、目を覆いたくなるほど退化の一途をたどり続けている原因がここにある(民主主義の機能不全と言う凡庸な言葉で表現することもできるが)。その行きつく先がSNSという無限地獄である。SNSとは「魂を失った者たち(SOULLESS MEN)」の坩堝であり、精神的な亡者の集合体である。ここから何か我々の生活を刷新してくれるような新鮮な表現が出現することなど決して期待してはならない。

些か極論に走ってしまったが、要するにそういうことだ(と言って乱暴に議論を打ち切る行為そのものがコミュニケーション文化の退廃を示すものであるというくらいの自覚はある)。

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2021/1/27 | 投稿者: pdo

妻の蔵書の中から大江健三郎の著作集を承諾を得て引っ張り出し、『静かな生活』、『雨の木を聴く女たち』を読み始めた。この著作集(大江にはいくつかの全集が出ているようでこれが決定版と言う訳でもないようだ)には他に『新しい人よ目覚めよ』も入っていて、この小説は昔文庫で読んだ記憶がある。

『雨の木を聴く女たち』は短編連作で、最後に収録の『泳ぐ男』という作品が中々に過激である。私小説とマジックリアリズムを混ぜたような文体でえげつない話が淡々と記述されるスタイルには奇妙な中毒性を感じる。

小谷野敦が高く評価している『取り替え子』の文庫版を買ってきて読みはじめようとしているが、若い頃からの友人で妻の兄でもある伊丹十三の死(自殺)について書いた作品ということもあり、確かに冒頭から引き込む力がある。大江は1935年生まれというから僕の父の1つ上だ。今はどうしているのだろうか。長男の光さんもどうしているのか気になる。

「泳ぐ男」については、ひたすら奇怪な事件の成り行きと、青年を挑発する女性(30代半ば)が「外資系旅行会社に勤めるOL」であるという設定の巧みさが印象に残る。自分にはその女性の具体的な容貌までもが想起され、彼女から挑発を受けてもとてもそんな気になるどころか気持ち悪さと嫌悪感を覚えるという青年の気持ちが分かる気がする。もちろん青年は嫌悪感と同時に男としての情欲も駆り立てられた結果として、プール帰りの彼女を追いかけ、公園のベンチに(彼女の指示で)縛り付けるという行為に及ぶわけなのだが。この小説で感心するのは、最後に犯人とされ自殺した高校教師の妻が現れ、プールの上から青年を執拗に眺めつづける描写を入れたところだ。殺害されたOLとこの教師の妻と青年を三頂点として形成される三角形と、OLと妻と高校教師を三点として形成される三角形が、三角形を二つ並べた「ひし形」を形成する。では、語り手たる著者(作家)はどこに位置するのか。ひとつには、OLと青年と「僕」を三点とする三角形であり、OLと教師妻と「私」を頂点とする三角形である。すなわち、OLと私を結ぶ線分を垂線とすれば、右側には青年が、左側には教師が位置することになる。このうち、「僕」が直接の関係を持たないのは教師のみであり、逆に言えば、教師と現実的な関係を持つ(一方は可能性の領域に留まるとしても)のは教師の妻とOLのみである。自殺し、犯人とされた高校教師を神(キリスト)になぞらえる解釈をする人もいるようだが、もしそれが可能だとするならば、高校教師の妻はいかなる役割を果たすことになるのかが明らかでない。

教師の妻が青年を執拗に眺める動機と、OLが青年を挑発的な目で眺める動機にはもちろん何の共通性もない。だがその切実さ=強度のみを基準とするならば、そこに共通性が認められるのではないだろうか。ここで問題としなければならないのは、なぜ青年がそれほどまでに関心の対象となったかということである。彼こそが真犯人ではないのかという疑いに心の奥底で取りつかれてしまった教師の妻にとってそれは明らかである。ではOLにとってはどうか?若く筋肉質な男性ということに加え、挑発に乗ろうとしない頑なな態度がOLの好奇心を駆り立てたということは可能であろう。OLは海外旅行の際に二度も強姦の被害に遭ったという過去を持つ。彼女はそのことを幾分誇らしげにも思える様子で「僕」に語って聞かせるが、実際には青年に聞かせているのである。僕にはこのOLの顔が「妖怪人間ベム」のベラ(ベムの妻)に重なって仕方がない。OLは実際には色情狂いでも露出狂いでもなく、まるで死に場所を求めて彷徨っているようで、自分を殺してくれる相手として青年にロックオンしているようにも思える。これを青年の魂の救済の物語として読むことには無理があり、まだOLの魂の救済の物語として読む方が自然に思える。もちろん全てのベースには作者自身の魂の救済の問題が横たわっているのではあるが。
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2021/1/25 | 投稿者: pdo

高橋揆一郎『伸予』という小説を読んだ。

第79回芥川賞受賞作品で、小谷野敦が名作と呼び最高レベルの評価を与えていることから、図書館で借りて読んでみた。

確かに文体がきびきびしていて読み易く、引きこまれる。内容的にも名作短編と呼ぶに相応しい。

49歳の元女教師(主人公・伸予)が、30年前に恋した元教え子と再会する。その間、伸予は結婚し、二人の子供を持ち、成人している。夫は3年前に仕事帰りに脳出血で倒れ、そのまま亡くなっている。

全編が伸予のモノローグ(心の声)のようなものだが、主人公の心の動きが手に取るように伝わってくる。

作者はこれを50歳で書いた。芥川賞にしては遅く、内容も中年向けだが、それだけのものがあったということだろう。

ある種、小説のお手本のような作品だ。

小谷野は主人公を竹下景子のイメージで読んだらしいが、僕は最後まで明確なイメージが持てなかった。そこが個人的にはマイナスポイント(もちろん作品のせいではない)。
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2021/1/21 | 投稿者: pdo

第164回芥川賞を受賞した宇佐見りん『推し、燃ゆ』は是非読んでみたいが、「アイドル上野真幸を”解釈”することに心血を注ぐあかり。ある日突然、推しが炎上し――。」という話だから、家で読んでいるのがバレたらガチのアイドルヲタである娘は嫌がるだろうな…

小谷野敦はこの小説を「偏差値74、史上最高」と呟いているのだが、彼は『コンビニ人間』にも偏差値72をつけているから、一体どれだけのものか…

(ちなみに又吉直樹の「火花」は49、「蹴りたい背中」は44、中上健次「岬」58、李良枝「由煕」72、高橋揆一郎「伸予」72)

小谷野がすばらしいと言っていた勝目梓の「小説家」が面白かったので、彼の意見は参考にはなるが、中原昌也をまったく認めていないなど好みが合わない部分もある。
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