2020/12/28 | 投稿者: pdo

西寺郷太著『噂のメロディ・メイカー』という本を読んだ。

マイケル・ジャクソンの教科書やプリンスについての著書で知られる著者が、「ワム!のジョージ・マイケルにはゴーストライターがいて、『ラスト・クリストマス』を書いたのは日本人だった」という噂を追いかける過程が、沢木耕太郎『一瞬の夏』ばりの私ノンフィクションのスタイルで記述された、ノンフィクションぽいフィクション(小説)。

もともと水道橋博士のメルマガ『メルマ旬報』に連載していたエッセイをまとめたもので、連載時に読んでいた記憶がある。

キャッチーなメロディーを生み出す才能のあるミュージシャンから曲のアイディアを買い取り、ビッグなアーチストに提供して報酬を得るというビジネスが実際に行われているのかどうか知らないが、もしそんなことがあるとしても、自身がミュージシャンである西寺郷太がそれを本に書くなどと言うことがありえないことは分かっていたので、ぼやかした結末に特に意外性も失望も感じなかった。

今のSNS時代には、誰でも自作曲を手軽にアップロードして全世界に公開することができ、そういうものに目を光らせているレコード会社の目利きがいるとしても何ら驚きはない。

だが、西寺がこの本で指摘する通り、ジョージ・マイケルは彼自身が天才的なメロディ・メイカーであり、そのような「ゴースト」の存在を必要としなかったことは事実であろう。

「ラスト・クリスマス」がバリー・マニロウの「I just can't Smile Without You」のパクリであるといって訴えられたエピソードは当時から有名で知っていた。確かに似ていると言えば似ているが、裁判ではマニロウの主張は退けられたようだ。

僕がジョージ・マイケルの才能を一番感じたのは、日本でも一世を風靡した「ケアレス・ウィスパー」という曲で、郷ひろみか西城秀樹もカバーしたような歌謡曲っぽいメロディーを持つ、彼の作品の中でも異色な一曲ではないかと思う。

ソロになってからは、「Faith」という見事なアルバムを出し、その音楽性を存分に開花させた。僕が曲を聴きながらこんなのを作れるのは本当に天才だと感動したのは、実はプリンスではなくジョージ・マイケルの「Fastlove」を聴いたときだけだったりする。

その豊かな才能にもかかわらず、ジョージ・マイケルの評価は欧米では不当に低かったような気がする。デビュー時のアイドル的な印象や、大衆受けを狙ったスタイルがウルサ型の音楽評論家の好みに合わなかったのだろう。

やがてセクシュアリティやスキャンダルで格好の芸能ネタになり、お騒がせタレントとしてのイメージが先行するようになってしまった。

『噂のメロディ・メイカー』は小説としては残念な出来と言わざるを得ないが、西寺郷太のような理解者を極東の島国に得たことは、ジョージ・マイケルにとって不幸中の幸いと言える出来事だと思った。
0

2020/12/24 | 投稿者: pdo

第8話

歯科助手として働きながらお笑いを勉強するために渋谷にある養成所に通っていました。週に一度ビルの一室で講師に向けて塾生が作ってきたネタを披露し駄目を出され、成績がよかった人はライブに出場できるという感じです。

渋谷には109やらPARCOやら、買い物するのにもってこいの有名デパートばかりありました。その中でもしょっちゅう行っていたのが東急百貨店です。なぜ駆け出しのお笑い芸人が金持ちマダムの行きそうな高級デパートに行っていたかというと、目的は買い物ではありません、当時ここは、屋上に遊園地がありました。

毎週月曜日になると決まって東急百貨店東横店の、東館の屋上に行く。その理由は自主稽古するためでした。ベンチに座り、乗り物にまたがる子供たちの笑顔を見ながら「私も人を笑顔にしたい」と思い、ぶつぶつと念仏のようにネタを練習したものです。コンビであればネタの練習してるんだな、とはたから見てもわかるのでしょうが、私はピン芸人という一人でやるスタイルだったので「大きい声で独り言を言っている危険人物」と見なされ親御さんが子供を連れて帰ってしまう、という光景をよく目にしました。

東急東横店の屋上遊園地は、東館の閉館とともに無くなってしまったそうです。ここ最近では屋上遊園地がどんどんつぶれていっているらしく、それは年々、子供が寄り付かなくなっていったからだそうです。今考えると、東急の屋上に子供が来なくなっていった原因は私だったのかもしれません。


鳥居みゆきの一人芝居ネタは、渋谷の東急東横店の東館屋上で練り上げられていたのだということを知る。

近所の公園などで二人組が漫才の練習をしている光景にはよく出くわすが、たしかにピン芸人の練習はあまり見たことがない。確かに独りで大きい声で練習などしていたら不審者に思われても不思議ではない。おまけに当時の鳥居みゆきのような若い女性のそんな様子を見たら、ほろ酔い加減のサラリーマン集団なら喜んで眺めながら囃し立てたりなどするかもしれないが、子ども連れの親が連れ帰ってしまうのはやむを得ない。

確か時期、僕も東急東横店あたりでよくブラブラしていたので、これも一つの縁かもしれないとひっそりと感じることにした。
0

2020/12/21 | 投稿者: pdo

ぼくは、島尾敏雄という作家の、「死の棘」という小説を読みました。

しんちょう文庫で600ページ以上あるぶ厚さなので、最後まで読めるかどうか不安でしたが、読み始めると面白くて一気に読んでしまいました。

主人公は、トシオという作家で、奥さんと子ども2人の四人家族で、東京の小岩という所に住んでいます。子どもは、上の伸一が5、6歳、妹のマヤがその一つか二つ下で、小学校に行く前の年です。

ものがたりは、トシオの浮気が奥さんにバレて、奥さんがトシオを問いつめるところから始まります。そして、小説の最後まで、奥さんはトシオに怒ったままです。その怒り方と問いつめがあまりにしつこいので、トシオも頭がへんになりそうになって、最後は奥さんがせいしん病院に入院することになったところで終わります。

最初から最後まで、えんえんと夫婦げんかしているだけの小説なのですが、どんどんエスカレートしていくので、一体どうなっちゃうんだろうという好奇心から、ついつい読みふけってしまいました。

でも、一言でいえば、この二人(トシオと奥さんのミホ)はクズだと思いました。

なぜなら、まだ学校に行く前の小さな子どもを完全に放りっぱなしにして、自分たちだけでじゃれ合っているようにしか見えないからです。

トシオは、ミホの発作におびえながらも、ミホの様子が少しよくなると、わざとけしかけるようなことを言って、発作を起こそうとしています。ミホはミホで、死ぬとか出ていくとか言いながら、ぜったいにそうしないし、トシオが死ぬとか出ていくとか言ったら、泣いて止めようとするばかりか、伸一が夜中にぐっすり寝ているのを叩き起こして、トシオを止めようと手足を押さえつけるのを手伝わせたりしています。

こんな両親の様子を毎日見せられている子どもがあまりにもかわいそうで、親の都合で何度も引越し、伸一は小学校に入って3日で転校させられたり、具合が悪くて学校に行きたくないというと、トシオに持ち上げられて尻をぶたれ、さらには木の板を使って力いっぱい尻を叩かれるのを読んで、かわいそうでなりませんでした。

妹のマヤはもっとかわいそうで、ろくにごはんも食べさせず何日も放置されたり、兄の伸一から暴力を振るわれたり、外で遊んでも近所の悪ガキ連中に囲まれいじめられたりしているのに、トシオもミホも自分たちの夫婦げんかごっごに夢中で、ぜんぜんかまってやろうとしません。

小説の最後に、ミホとトシオの二人で、せいしん病院に入ることになり、子どもたちが親戚にあずけられてミホの生まれた沖縄の方の島に行くことになるのですが、子どもたちはこんなクズ親から離れて本当によかったし、親と離れる寂しさよりも、どうしようもない大人たちから解放されてせいせいしたのではないかと思いまいした。

ミホは、トシオの前では気がくるったようになりますが、お客さんが来るとかんぜんにまともになり、買い物にいくときも普通にしゃべっています。要するに、くるった芝居をしているのだと思いました。トシオがミホの芝居につきあわされるのは自分がまいた種だから仕方がないと思います。トシオはミホと結婚してから10年の間、好き勝手な生活をして、何日も家に帰らないことはザラで、あちこちに愛人をつくって、子どもたちはひもじくてボロボロのみなりをしているのに、自分は愛人と温泉に行ったり、年末年始も家を空けて愛人の家に泊まったりするじょうたいが続いていたのですから、ミホがばくはつしたのもとうぜんだと思います。

でも、自分を愛人の名前で呼んでほしいとか、トシオが愛人に買ってあげたパンティーの柄を全部教えろとか、愛人たちに送った手紙を全部取り戻してくれとかいうミホのしつこさもちょっと異常だと思いました。何よりも子どもたちの前で首を絞め合ったり家具をめちゃくちゃにして夫婦が暴れまわったりするのは子どもたちへのぎゃくたいだと思いました。

小説というのはこういうくるったような人たちが自分たちのメチャクチャな生活をありのままに書くことが正しいのだという考え方があるという話も聞いたことがあるし、じっさいぼくもこの小説を面白く読んでしまったのでちょっとうしろめたさも感じてしまいました。

でも、こんな小説をとても崇高(すうこう)な芸術作品だとかいって持ち上げるのはどうかと思います。ぶんこ本の解説を書いている山本健吉という人の文章を読んでぼくは口をあんぐりしてしまいました。

前に読書感想文を書いた島崎藤村の「新生」もそうですが、こんなきたない小説のタイトルを聖書から引用して、さも高級な作品に見せかけ、芸術ぶるのは、くだらないと思いました。

さいごに、この小説で「あいつ」と呼ばれている、浮気相手の女の人は、小説の中で、書いてもいない電報の濡れ衣をきせられ(おんなの人が送ってきた電報がミホのでっちあげだということは明らかだと思います)、ミホに暴行され、トシオはその暴行を腕を組んでみているばかりか、ミホといっしょになって女の人のスカートと下着を脱がせようとまでしており、なんでそこまでされないといけないのかかわいそうになりました。

梯久美子の『狂うひと』というノンフィクション作品をよむと、この浮気はそもそもトシオが仕掛けたもので、浮気のことを書いた日記をミホにわざと読ませ、あきらかに気がへんになったミホを何カ月も医者に見せようともせず、ミホの発作をけしかけ、子どもの養育も放棄して、ミホと一緒に入院してしまったトシオ(=島尾敏雄)がいかにクズな人間かよくわかりました。

この浮気相手の女の人は、島尾敏雄がこの小説を短編の形で小出しにして文芸誌に発表し(ミホはその全部の清書をしていました)、酷い書かれ方をしていたことを気に病んでいたそうです。そして最後は自殺してしまったようです。

島尾敏雄とミホの両親から虐待を受けたマヤは、言葉を発することができなくなり、障がい者として暮らし、一時は東京の自立施設に通っていましたが、最後はミホと同居するよう言われ、ミホの家で亡くなりました。

長男の島尾伸三さんは、敏雄とミホが亡くなってから、こんな風に語っています。

今にして思えば、4歳か5歳くらいの時に線路に首を載せて並んで「死ぬ」ってお母さんが言ったときに、すごく悩んだんだけど「まあ死んでもいいや」と思ったんですね、子供心にね。その「死んでもいいや」と思った理由は、自分は両親のためには何もできないですからね、死ねと言われたら、死ぬことしかお役に立てないんです、子供だから。

子供のころ、母と父の諍いで、母がお皿投げて割ったりするんですけど、いいお皿パッと持たせると、投げませんからね。私はそれを割るんです。母は怒るの。パッと正気の自分に戻って、子供を怒り始めるの。と、物語のテーマが変わるわけですよ。舞台が違う場面になるわけです。そうすると、私の父は救われるんですよ。今までは、父に対して怒ってたのに、大事なお皿を割った子供に物語が転換するわけです。と、彼女の中で、夫とのつらいテーマはどうでもよくなって、空中に消えているわけです。私は、自分の子供にはそんな理不尽なことできません。私の場合は、もっと他のよい方法があるはずなのに、という風に考えた、ということでしょうね。自分の問題解決を暴力や狂気へもっていかなかった。

妹は、凄い元気な子供だったんです。もうすごく元気で、頭もいいし、なんでもサッとやるし。・・・で、私が逃げたら、妹は即病気。ところが妹は逃げる方法を知らなかったんですよ。それまで自由だったから。私が防波堤になっちゃってたから、自分の身を守る方法を知らないから、モロに被ってどんどんどんどん、ひどくなっていった。

両親が不安定な環境の子供は、つかむべき藁がないんですよ。溺れかけているのに、溺れさせられて、船からポイと海に出されて、藁もなんにもないの。溺れていくっきゃないんですよ、あとは死ぬしか。「ああ、じゃあもういいや」、死ぬときってすることを諦めるわけです。溺れちゃえって思って溺れても、なんか生きてたんですね、私の場合は。それだけですよ。

小学校二年生の夏休みまで、一年生で字を覚えた時から、毎日、日記を書いていたんですよ。几帳面だったんです。学校から帰ってくると、お母さんが怒っているの、すごく。なんでかというと、私の書いている日記見て怒っているの、あんなことを書いてあった、こんなこと書いてあったと怒るの。それが何度もあった。それで、小学校二年の夏休みだったと思いますけど、焼きましたよ、泣きながら。一生、日記は書かないと誓った。・・・そんなこと経験してしまった子供は、大人を許せなくなってしまうんじゃないですかねえ。もう私はその頃から人格が分裂しているんですよ、小さい時から。

たぶん私の父が受けた災難は、ヨブの受難のようなものだったと思うんですね。だから、父はそれを試みと受け止めて、その試練に耐えるという手段を取れたんです。・・・でも、妹と私にとっては、そのようなことを理解できませんし、これはもう人災なんです。災害ですから、その中で泳いで生きていかないと死ぬんです。・・・しかも、この災害を乗り越えたからといって、二人の子供が救われたり、浄化されたりすることはないんです。

父は自分に関心が向くのを避けるために、母の関心を子供に向けさせるんです。妹は、だんだんと心身ともに弱っていく。両親の元に残されて、救いのない世界に取り残されて、中学生になる頃にはすでに口がきけなくなったり、手が動かなくなったりして。
私もしゃべりたくない。何も。小学校二年ぐらいのときから、学校でしゃべるの嫌だった。ずーっとね。お喋りが好きだったはずなんですが、後で自分が嫌になる。・・・嘘ばかり聞かされていると、言葉を聞くのが嫌になるんですよ。

子供を育てると、親のありがたさがわるるよって言うけれど、私は育てていて、こんなかわいくておもしろいものに対して、あんなにひどいことをやっていたんだと思うと、腹が立つ。

妹と私が味わった苦しみを奴らに味わわしてやりたいと思っちゃう。父のような人に対しても疑問を持っています。殴れるものだったら殴りたい。父は優しい人でもありますよ。それは言葉遣いが優しかったり、きついことあまり言わなかったり。こんな小さい歩けるか歩けない奴にも、大人として付き合う。そういう風にしか付き合えないのです。だけど、それは無関心だからです。苦しんだふりしてるだけだから。父の骨を金槌で割りたいくらいですよ。砕いてそのへんに放って墓の名前も削りたいくらいです。

(島尾伸三『魚は泳ぐ』より)


「死の棘」は未だ島尾敏雄とミホの魂に食い込んだままです。



追記:

上野千鶴子・小倉千加子・富岡多恵子の3人による対談本『男流文学論』(筑摩書房、1992年)の中で『死の棘』について論じられていて、おもしろかった。

ここではすでに、吉本隆明らの「ミホ=巫女と島尾隊長との出会い」という神話が突き崩され、夫が妻の病を「治さないように、治さないようにしている」こと、小説のために二人が一種の「共犯関係」にあったこと、ミホの中にも打算とナルシシズムがあったことなど、後に梯久美子によって『狂うひと』の中で裏付けられたことが指摘されている。
0

2020/12/18 | 投稿者: pdo

※ネタバレ全開のため、映画鑑賞後に読まれることをお勧めします


新宿テアトルで公開初日を見に行った。夕方の部で、客の入りは半分くらい。

明日は土曜日で、舞台挨拶もあるので、満員御礼となろう。

僕が映画を見た個人的な意見として、結論から言えば、非常に微妙な作品だった、というのが今の率直な感想だ。

このブログの過去記事を読んでいただければわかると思うが、私はのん(能年玲奈)の信奉者であるといっていいくらいの熱烈なファンである。彼女は芸能界のみならず今の日本の宝だと思っているし、今後も彼女の活動に熱い視線を送り続けることは疑いない。それだけに、彼女の関わった作品を全て無条件に称賛するのではなく、時には不快なことも率直に語らねばならないと思う。

彼女のファンの方は、どうか怒らずに最後まで読んでほしい。

この映画『私をくいとめて』は、もともと綿矢りさの同タイトルの小説を映画化したものだ。

当初は原作小説を読まずに見るつもりだったが、映画公開初日に、ホームページで原作が期間限定で全文公開されていたので、少し迷ったが、それを読んでから見に行った。

結果的に、原作を読んでおいてよかったと思う。もし読んでいなかったら、映画を見ながら頭の中に浮かんだ疑問符がさらに拡大されていたことだろう。

映画のチラシの「ストーリー」には、こう書かれている。

「おひとりさまライフを気ままにエンジョイするみつ子、31歳。みつ子が一人で楽しく生きているのにはワケがある。それは脳内に生まれた頼れる相談役=A。人間関係や身の振り方に悩んだときは、Aがいつでも正しい答え(アンサー)をくれる。Aと一緒に平和でゆるゆるとしたおひとりさまの毎日が続くと思っていたある日、うっかり!年下の営業マン多田くんに恋をしてしまった!おそらくは両想いだろうと信じて、20代と30代の恋愛の違いを痛感しながら、みつ子はAと共に勇気を振り絞り、失敗したら立ち直れないダメージを負ってしまう31歳 崖っぷちの恋愛に踏み出そうとする…。」

この要約は、決して間違いでも不適切でもないのだが、微妙に表現に問題がある。その微妙さがそのままこの映画のもつ微妙さにつながっている気がする。

まず、これは原作自体の問題でもあるのだが、「脳内相談役A」というのが何なのかがよく分からない。映画はみつ子と「A」の対話場面から始まり、もちろん映画のシーンではAの声が聞こえるのだが、それに声を出して答えているみつ子は客観的に見れば虚空に向けて独り言を発しているだけである。

みつ子は自分の部屋の中だけでなく、外でも同じような調子なので、周囲からおかしな目で見られるシーンもある。

前知識のない観客には、「A」がみつ子の無意識(深層心理)の声なのか、脳内対話の相手方としてみつ子が作り上げた妄想の産物なのか判然としない。

しばらくすると、Aはみつ子とは別人格を持っているが、みつ子自身でもあるということが明かされる。ではみつ子は統合失調症ではないかということになるのだが、Aは常時存在するわけではなく、みつ子が悩んだ時の「相談役」として出現することになっている。この設定に普通の観客なら違和感を持ち戸惑うだろう。しかし映画を見続けるためには、まあそういうものだとしてとりあえず不問にするより仕方がない。

みつ子が恋に落ちる相手方の男性・多田くんは、みつ子より2歳年下の設定である。みつ子は、原作では33歳だが、のんが余りにも若く見えるので、映画では31歳と言うことになっている(この点については後述する)。

多田くんはみつ子の会社の取引先の営業マンで、多田くんにお茶を出すみつ子とは面識がある。多田くんが商店街のコロッケ屋に並んでいるのをみつ子が通りがかりに声をかけ、二人は近所に住んでいることが明らかになる。初めてコロッケ屋の前で会話した後、多田くんからの依頼で、彼がみつ子の部屋におかずをもらいに来るようになる。

多田くんが部屋に入ることを許さなかったみつ子が、葛藤の末、多田くんを部屋に上げて一緒に食べるようになったのが1年後というのは、いくらなんでも長すぎだし、初対面の会話から多田くんがみつ子にただならぬ好意を寄せているのが明らかなので、みつ子の葛藤が愚かにしか思えない。ついでに言えば、多田くんを演じる林遣都の演技が舞台役者みたいに大袈裟なのも気になった。

みつ子の職場の同僚ノゾミさん(臼田あさ美)は役相応で好演していた。ノゾミの憧れるカーター(若林拓也)は原作ではすごいイケメン(でも性格が変)設定だが映画ではただの変な奴にしか見えない。まあそれはそれでいい。問題はカーターの出てくる場面が全然面白くない(笑えない)こと。

片桐はいり演じるイカした女上司・澤田は原作ではほとんど存在感がない(出てきてない)が映画でも出番が多い割にはたいして効果的で印象的な場面がない。またこの映画は全体的に意味不明なカットが多く、そのたびに注意が妨げられる。

一番期待していた橋本愛との絡みは個人的に不満が残った。イタリアに嫁いだ親友・皐月(橋本愛)のもとへみつ子が訪ねるのだが、行きの飛行機の場面が余りに謎すぎて、何を見せられているのだろうと感じた。予算の都合だろうが、イタリアロケはしておらず、そのことがバレバレなシーンがうら寂しさを感じさせた。そして橋本愛は原作とは違い、妊娠しており、イタリアに来たことを後悔するセリフがある。二人して涙して語り合う場面は、「あまちゃん」を知る者からすれば感涙シーンのはずなのだが、映画の文脈からは浮いていて、どうも素直に感動できない。

そして、観客が戸惑うのは、コメディとしてのテンポが悪いことと並んで、時折やって来る、みつ子がシリアスな感情を爆発させるシーンが、映画にとっては過度といえる緊張感をもたらすことだ。

例えば、みつ子がイタリアに行く前に、心の準備(?)として一人で温泉に日帰り旅行に行く場面がある。そこで余興で芸人のショーがあり、女芸人がセクハラを受けるのを見て、みつ子が不快になり、それがネガティブな感情を次々に呼び起こして爆発するシーンがあるのだが、みつ子の感情の吐露が映画のムードを超えてシリアスに過ぎ、僕などは引いてしまった。

そもそも、この映画が設定しているリアリティラインやシリアスとコメディ(ユーモア)のさじ加減が最後までつかめない。その違和感が頂点に達するのが、映画の終盤、Aとの訣別(?)が起こる、ホテルでの場面に唐突に挿入される海辺のシーンである。ここは原作でも唐突に感じられるところだが、小説なのでかろうじて許される飛躍だろう。しかしこれをそのまま映像化してしまうと、完全に意味不明なものにしかならない。もし僕が原作を読まずに映画を見ていたらポカーンと口あんぐりするしかなかったと思う。

〜〜〜〜〜〜〜

ここまでは映画そのものへの感想で、小括すれば、脚本、演出ともに限りなく失敗作に近いという評価になる。

では、肝心の主演女優のん(能年玲奈)の演技はどうだったのか。

まず、演技以前の問題として、この映画の主人公みつ子は30歳を過ぎ、婚期を逃して恋人も見つからない地味なOLという人物であり、20代後半に差し掛かったとはいえ、透明で無垢なオーラを保ち続けている彼女が演じるのは不自然さを否めないということがある。

「おひとりさま」ライフを満喫する女性という意味では彼女のイメージとも被る部分もあるが、一方で恋愛に憧れる「女」の部分が彼女(の演技)からは感じられない。

今回もっとも新鮮だったのは、「A」を相手に赤裸々な感情をぶつけまくる「ぶっちゃけ」トークの演技だったと思うが、何だか「逞しさ」(それは彼女が過去数年の実生活上の経験で身に着けたものだと思う)が伝わってくるばかりで、恋人が欲しいと焦るプチお局様の切実さよりも、むしろ私は男なんか必要としないよ、という強さを感じさせた。

そして先にも指摘したように、何度かの感情を爆発させるシーンは、この映画の許容範囲を逸脱するレッドゾーンの域に達していたため、観客を感動させるというよりも、不必要に緊張させ、戸惑わせるものになっていた。

ファンの贔屓目でいえば、彼女はこの映画のスケールに収まりきるような女優ではなく、言葉本来の意味で、役不足であったという感が否めない。

橋本愛とのシーンで感じられたチグハグさについては前述したとおり。


さて、これまでネガティブなことばかり書いてしまったので、不快になられた方も多いと思う。

しかし、最後に言わなければならないのは、一ファンとして、彼女を映画のスクリーンで存分に見られたことは至上の幸福であったということである。僕はこの体験を何年待ち続けたことか。

これほど酷評すべき映画であったにもかかわらず、僕は映画館を去るときに途方もない幸福感に満たされていたのである。

この映画のヒットを祈願するとともに、再び近いうちにスクリーンで彼女の姿を拝めることへの希望を糧に明日から生きていこうと思う。
3

2020/12/18 | 投稿者: pdo

セルゲイ・ロズニツァ監督『国葬』を見た。

スターリンの葬儀に参列する群衆の表情をひたすら映し続けるドキュメンタリー。

資料映像としての価値。

梯久美子『狂うひと』を読んだ。

『死の棘』の作者島尾敏雄とその妻・ミホの神話に楔を打ち込む傑作文芸ノンフィクション。

今日は、『私をくいとめて』を見に行きます。

※見てきた(テアトル新宿16:00〜の部。客入りは半分くらい。)

感想は後程。
0




AutoPage最新お知らせ