2020/11/30 | 投稿者: pdo

『誰が音楽をタダにした? 巨大産業をぶっ潰した男たち』(スティーヴン・ウィット、関美和訳)という本を読んだ。

2016年に出た本で、当時菊地成孔が激賞していたのだが、今まで読む機会がなかった。

mp3を発明したオタク技術者、田舎の工場で発売前のCDをひたすら盗み続けた労働者、インターネットに発売前の音源を上げることに生き甲斐を見出すネットジャンキー、業界を牛耳る大手レコード会社のCEO、これらCDが売れない時代を作った張本人たちの強欲と悪知恵、才能と友情の物語――たしかに一気に読み通してしまう程の面白さではあった。

映画化も決定しているとかいう話もあるようで、どんな感じの映画になるかなんとなく想像できてしまう(その通りだと実につまらない映画だけど)。

この本の言う「音楽がタダになった」というのは、mp3が開発され、ナップスターのようなファイル交換ソフトを利用するサイトが閉鎖されるまでの90年代末から21世紀初頭までの数年間の話で、今は有料によるストリーミングサービスという仕組みにより、厳密にはタダとは言えなくなっている。

これは時代の必然的流れと言えるのだろうが、この本に的確に描かれているように、90年代末のP2Pサイトで一気に時代が変わったと言えるのだろう。90年代前半からネットによる音楽配信を考えていたのがプリンスだったが、少し時代を先取りしすぎた。

結果的にCDを買う時代よりも消費者の出費とレコード業界の売上が激減したことは確かであろう。ストリーミングだとミュージシャンに入る金もCDより激減することになる。

並行して「ナップスター狂騒曲」という本も読みたくなったが、図書館に置いてなかった。

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2020/11/26 | 投稿者: pdo

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ぼくは魔法使いじゃないよ。ぼくはフィオリートで生まれたディエゴだ。でも、魔法使いとはフィオリートに住む人びとをさすと言っても間違いじゃない。彼らは1か月を1000ペソ(ほとんど最低限の生活しか賄えない額)で暮らしているんだから。

―ディエゴ・アルマンド・マラドーナ(1960−2020)



国内外問わず、プロのサッカーの試合をリアルタイムで追いかけなくなってからもう久しいが、ぼくにとってマラドーナは常にサッカーの代名詞だった。いや、サッカーだけではなかった。

アルゼンチンの人々やイタリアのナポリの人々やその他大勢の人々にとって、マラドーナはサッカー選手以上の存在であり、自分の感覚もそれに近い。だが、ここはやはりサッカーについて語るべきだろう。

ぼくは、小学生4年から6年まで、親に勧められて、地元の少年サッカークラブに通っていた。

田舎の、特に強豪でもないチームだったが、ぼくの運動神経では一軍でのプレーは叶わず、二軍のチームで地元の大会に出ては1回戦で負けていた。

それでも、何も練習していない子供よりは多少ボールが扱えたので、小学校のサッカーチームではそこそこ活躍でき、それがぼくにとってスポーツで楽しかった唯一の思い出だ。

その頃、日本はJリーグができる前で、サッカー少年がプロのサッカーの試合が見れる機会は、テレビで毎週土曜日に45分だけ海外のサッカーリーグの試合を放映する「ダイヤモンドサッカー」という番組があるだけだった。

その番組で、当時アルゼンチンのボカ・ジュニアーズというチームでプレーしていて、ワールドユース大会のため来日するディエゴ・マラドーナという注目選手の特集をしていた。

強烈なドリブルが武器で、一人でゲームを支配できる決定的な才能は、もはや全世界が注目していた。1978年のアルゼンチン・ワールドカップには出場しなかったが、今アルゼンチンで最も期待されている選手ということだった。

当時ワールドユースの試合は見ていないが(後日、埼玉県営大宮公園サッカー場でのアルゼンチン代表の試合のNHK中継(解説岡野俊一郎)のビデオを入手して観た)、『サッカーマガジン』の記事を切り抜いて、部屋にマラドーナのポスターを貼っていた記憶はある。

それは、舌の先をチョロっと出しながら全力でドリブルしているマラドーナの写真で、こんなポーズで走っていたら転んだ時に舌を噛み切るから危ないので真似しないように、と親だかサッカーのコーチだったかに言われたのを覚えている。

ぼくにとってのマラドーナとの本格的な出会いは、1982年のスペイン・ワールドカップだ。そのためにVHSのビデオデッキを親が購入して、日本では真夜中に行われる現地の試合の生中継を録画し、リアルタイムでも夜中に起きて観ていたと思う。

うっすらと覚えているのは、二次リーグのアルゼンチン・ブラジル戦で、マラドーナが相手選手の腹に蹴りを入れて退場をくらったシーンである。

十字を切りながら天を仰いでフィールドを後にしたマラドーナの髭の顔が一瞬イエス・キリストのイメージとダブった。明らかに反則を犯したたのはマラドーナの方なのに、何だか殉教者に見えて同情することしかできなかった。

マラドーナはその前の試合(イタリア戦)で、「殺し屋」とも呼ばれたディフェンダーの激しいマークを受け、プレーを封じられて苛立っていたという話もあった。後にマラドーナは、スペインのF.C.バルセロナに移籍してからも、マンツーマンの執拗なディフェンスによるファウル攻撃に苛立ち、試合中に大乱闘を演じたこともある。

マラドーナの黄金期は、言うまでもなく1986年のメキシコ・ワールドカップと、その後のイタリアのナポリ移籍後の活躍である。

メキシコのワールドカップをリアルタイムで体験できたことは(もちろん現地に行ったわけではなくテレビ越しに観ただけだが)、ぼくの最も幸福なサッカー体験の一つである。

このときのマラドーナの活躍は、まさに魔法使いのようだった。

ボールを持つたびに、信じられないプレーをした。

有名なイングランド戦の「5人抜き」、準決勝のベルギー戦の2得点、そしてあのイングランド戦の「神の手」ゴールと、すべてが伝説になっている。

それ以外にも、マラドーナがこの大会で見せた人智を超えたようなプレーは無数にあって、今でもユーチューブなどで見れると思う。

マラドーナは、イタリアのセリエAではあまりパッとしない弱小チームのナポリに移籍し、そこでチームを二度スクデット(優勝)に導くという奇跡のような御業を行った。ナポリでの活躍は、残念ながら日本には中継がなかったので、リアルタイムではほとんど見れていない。時々「ダイヤモンドサッカー」で放映していた程度だ。

このナポリ時代のプレーを見たくて、大人になってから、何十枚もの輸入DVDを購入した。そこでもマラドーナは魔法としか言いようのないことをしていた。

だが、彼の身体はこの時点で既にコカインをはじめとするドラッグに汚染されていた。夜通し酒やドラッグをやった後で、ろくに練習もせず試合に臨んで、このようなプレーをしていたのだから、彼は神から与えられた無限の才能を濫費し続けていたとしか言いようがない。

あるいはアルゼンチン国民やナポリの人々、世界の貧しい恵まれない大衆に喜びを与えるために特別な許可を神から与えられていたと言うべきか。マラドーナは、「ぼくは髭づら(キリスト)とホットラインでつながっている」と豪語していたという。

マラドーナの死去を報じるにあたって、ほとんどすべてのメディアが「神の子」という表現を使ったのが興味深い。

実際、全盛期の彼のプレーは神がかりのように見えた。あれほどの執拗なマークとファウルすれすれ(今の基準なら明らかにファウル)のタックル攻撃を浴びながら、数少ないチャンスの中で試合を決める決定的なプレーをした。あのオランダの名将ヨハン・クライフの「トータル・フットボール」がチームワークの賜物とすれば、彼の作る試合は、個の力による芸術作品のような感動を与えた。

神がかりの威光に陰りが見え始めたのは、1990年のイタリア・ワールドカップだった。

ここでマラドーナは、満身創痍になりながら、決勝まで進んだ。

準々決勝のブラジル戦では、猛烈なドリブルからのキラーパス一本で試合を決め、準決勝では、開催国イタリアと戦い、ナポリのファンたちを複雑な思いにさせた。マラドーナはここでヒール(敵役)を演じる不幸な巡りあわせとなった。

1994年のワールドカップ以降の、「お騒がせセレブ」のようになってしまったマラドーナについてはよく分からない。それでも、彼の奇跡を体験したアルゼンチンやナポリやその他のサッカーファンの多くと同じく、ぼくも彼を責めたり、非難したり、軽蔑したりする気にはなれなかったし、口幅ったい言い方をすれば、愛することしかできなかった。

彼が亡くなった今も、それは変わることはない。

彼は自分の影響力を使って常に、権威者たちの欺瞞を告発し、同類たる社会的弱者たちへの愛情の籠った労りの言葉を発していた。

彼が第三世界の貧しい人々から圧倒的な支持を受け続けた理由がそこにある。

ディエゴ・アルマンド・マラドーナを地に遣わしてくださったサッカーの神に感謝。

彼の魂がいまやそのみもとで安らかにあらんことを。





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2020/11/25 | 投稿者: pdo



NiziUのデビューシングル「Step and a Step」のMVが公開された。

NiziUのデビューに向けたメディア露出は、絨毯爆撃のような勢いで、どれだけ資本投下されているのかと半ば呆れるほどだ。

まだ本格デビュー前なのに紅白歌合戦の出場も決定し、まるで国民的ブームのように持ち上げられているが、正直自分には「本当にそこまで人気なのか?」という疑いの念もある。

僕はTWICEのオーディション番組「シックスティーン」を見て、これの日本バージョンをやるというので期待して見ていたという経緯があるが、その前提がなければ、Niziプロジェクトを見ることもなかっただろうし、日テレの『スッキリ!』でやたらとゴリ押ししているのも胡散臭い目でしか見れなかっただろうと思う。

プレ・デビューシングル『Make You Happy』もどうってことのない曲だし、「縄跳びダンスが大流行り」というのもなんだか取って付けた感じしかしない。

とはいえ、さすがにメンバーは皆それぞれに光るものを持っていて、もうすっかり成熟したTWICEとは違って、各人の成長ぶりを微笑ましく見ていられる。

ひたむきで努力家で天然で愛すべきリーダー、マコ

大人びた表情と、母性を感じさせる豊かな表現力を持つ、マヤ

プロのダンサーからアイドルへと見事に脱皮してみせた、リオ

ビジュアル担当、ふわふわした性格ながら押さえるところはきっちり抑える、アヤカ

グループ随一の個性的外見を纏いつつ、控えめな性格で好感度の高い、マユカ

元気がよく気の強そうな関西娘だが、愛嬌たっぷりの、リク

天性の美貌と才能という意味ではグループ一番かもしれない、Zeebraの娘、リマ

一番年下(マンネ)ながら、目立つ顔立ちと傑出した歌声を持つ、ニナ

そして、これらのメンバーの中でも、オーディションの段階から特に大きな可能性と将来性を感じさせていたのが、「ミイヒ」だった。

全ての決定権を持つプロデューサー、パク・ジニョン(JYP)も、当然ながらミイヒのアイドル性には当初から注目し、高い評価を与えていた。

東京合宿を終え、韓国合宿での、メンバーがソロで曲を披露するステージで、ミイヒはWonder Girlsの「Nobody」という曲を見事なアレンジで歌い上げ、JYPを驚愕させた。

ところが、このころから、ミイヒは心身の調子を崩してしまったらしく、次第に精彩を欠くようになっていく。

最終メンバーに選ばれた際にも、JYPから体調を気遣われ、「しっかり食べるように」と助言されるほどであった。

それでもプレデビューまでは皆と一緒に活動していたが、本格デビューを前に、活動休止が報告された。

9人のNiziUは、日本に来て8人で活動することになった。

そして、本日公開されたデビュー曲のMVは、まるでミイヒのために作られたような内容になっている。

ミイヒも登場し、座り込んでいたところをマヤに発見され、手を引かれて、メンバーの元に駆け寄るという場面で終わる。

このパターンは、TWICEの「Feel Special」でも使われていた。そのMVの中では、活動休止中のミナにチェヨンが手を差し伸べ、インスタでの発言が元でバッシングを受けたサナにダヒョンが手を差し伸べるという場面がある。

「フィルスペ」の歌詞も、落ち込んでいてもあなたがいるから頑張れるといった励ましの歌になっている。

同じように、この「ステステ」の歌詞も、

Step and a step 私の歩幅で
Step and a step 私だけのペースで
ゆっくり行ってもいい休んでみてもいい
歩いていく自分らしく
Just believe yourself

というサビになっていて、ミイヒを励ますかのような内容にも取れる。

このことについては、事務所が十分な体調管理を怠ったせいで活動休止に追い込まれたミイヒの話を美談にするな、という批判の声も上がっているようだ。

また、このようなMVは、ミイヒが復帰しなければならないというプレッシャーとなり、彼女にますます負担を与えるのではないか、との声もあるようだ。

個人的には、JYPという事務所は、パク・ジニョンの考え方を反映して、韓国芸能界のドロドロした前近代的な因習からはかなり免れている(枕営業はさせないなど)と感じているが、他の事務所と同じく所属アーチストに過重な負担をかける傾向がある。ただしその結果心身の故障が生じた場合には割とすぐ休ませるような柔軟な印象がある。

このMVはミイヒの活動休止の発表がある前に撮影されたということだし、現在のミイヒの実際の状態がどうなのかは分からないが、JYPが、ミイヒがこのような形でMVに出演しても大丈夫だという判断を下したのであれば、今後のミイヒの活動について希望的な観測が許されるのではないかと思う。

ネットで毎週放映されている、NiziUの日常の様子を撮影した体のバラエティー番組でも、ミイヒの姿がしばしば捕らえられていることを見ても、彼女の復帰の目途は立っているのだろうと思われる。

ミイヒが戻ってくる日がもう視野に入っているのだとすれば、今回のようなMVはミイヒ復活の機運を盛り上げるには絶好の構成だったといえるのかもしれない。


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2020/11/23 | 投稿者: pdo

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ウラジミール・イリイッチ・レーニン(1870〜1924)と言えば、鋼鉄のような意志をもって革命事業を遂行し、革命に殉じた人物という印象が一般的だと思うが、ソ連崩壊後、彼がイネッサ・アルマンドという女性に充てた手紙と彼女の返信が公開され、レーニンがこの女性を深く愛しており、彼の生活に美と彩りを添えていたことが明らかになった。

イネッサ・アルマンドは、レーニンより4つ年下で、2人が出会ったときにはレーニンは39歳、イネッサは35歳だった。

当時レーニンは、パリで妻のクルプスカヤと二人でまるで棺桶の中にいるような陰鬱で味気ない亡命生活を送っていた。

イネッサは、19歳で実業家と結婚し、5人の子供を設けたが、夫の弟と駆け落ちし、その男性を病で失った直後であった。彼女はすでにマルクス主義に目覚めており、ボルシェビキの熱心なメンバーとなっていた。

イネッサがパリのロシア亡命者グループに加わると、たちまち崇拝者たちが彼女を取り囲んだ。だが彼女は芸術と自由恋愛の信奉者である一方で献身的な革命家の素質もあった。彼女は革命グループの指導者レーニンを遠巻きに畏れながら見つめていたが、彼女が開設した青年たちのための教育施設にレーニンが講師としてやって来るのを手伝ったり、彼の論文のフランス語への翻訳を手伝ったりしているうちに、徐々に親しみのある関係になっていった。

イネッサの敬意は好意からやがて恋に代わっていたが、レーニンはまだイネッサのことを見込みのある同志としてしか見ていなかった。彼はイネッサをある秘密活動のためロシアに派遣するが、それは当然ながら大きな危険を伴うものだった。案の定イネッサはセントペテルスブルグで逮捕・投獄され、1年余りで脱獄し、ヨーロッパへと戻ってきた。

スイスで生活していたレーニンたちのもとにイネッサが帰還したことは、レーニンにとって嬉しい驚きであった。ここでレーニンとイネッサの親密度は一気に増すことになったが、奇妙なことに、イネッサはレーニンと妻クルプスカヤとその母親とも大変親しく交際した。

レーニンとクルプスカヤとイネッサはしばしば三人で自然の中を散策し、さまざまなことを語り合った。レーニンは、歩きながらレールモントフの詩編を暗唱し、彼がベートーヴェンの音楽をどんなに愛しているかについてイネッサに熱弁した。

イネッサは卓越したピアニストでもあった。彼女は革命家の道を選ばなければヨーロッパで一流の音楽家になることもできただろう。彼女がスイスの家でベートーヴェンのソナタを弾くのをBGMにしながら、レーニンは猛烈な勢いで革命論文を執筆した。レーニンは絶え間なくイネッサにベートーヴェンの曲をリクエストし、自分の愛する音楽をこれほど身近に楽しめる幸運に感激した。

クルプスカヤは後年、この時期のことを、イネッサについてたいへん好意的な思い出と共に回想しているが、その真意は分からない。ただ確かなことは、クルプスカヤは、イネッサが1920年に死に、レーニンがその4年後に死んだ後も、イネッサの子供たちを自分の子供のように庇護し続けたことである。

1917年4月、レーニンがドイツからロシアに送られた「封印列車」には、イネッサとその子供たちも同乗していた。その年の10月にレーニンとボルシェビキはロシアの政権を奪取した。

革命後ロシアの動乱の中で、重責を担い、オーバーワークに疲弊したイネッサは、レーニンの勧めでロシア郊外に休養に出かける。だが、そこでコレラに罹患して死んでしまう。

イネッサの死を知らされたレーニンは、休養を勧めた地が危険でイネッサの衰弱した肉体が耐えられる場所ではなかったことを悔いたが、後の祭りであった。

イネッサの葬儀に臨むレーニンは、クルプスカヤに支えられてやっと立っている状態であり、憔悴しきっていた。それ以来彼は魂が抜けたようになってしまい、脳梗塞の発作に倒れ、言葉を話すことができなくなり、そのまま死んだ。

イネッサは革命の純粋な大義に殉じた高貴な魂の一人であった。彼女のような無数の人々によって革命は成し遂げられたのであり、レーニンは彼らの力を結集し、体現するための焦点であった。

後の歴史が示す通り、その後の革命の歴史は粛清と流血と虐殺と無数の無辜の罪からなる人類史上最悪の悲劇となった。

だがその出発点には、このような人間の血の通ったドラマがあったのである。
イネッサ・アルマンドの生涯とその悲劇は、後世に語り継ぐべき物語の素材を多く提供している。
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2020/11/17 | 投稿者: pdo

『プリンス回顧録』には、1982年頃にプリンスが書いた映画『パープル・レイン』の手書き草稿が載っている。

『1999』がヒットしていた頃で、その時点ではまだ「パープル・レイン」という曲はできていなかった。

この草稿に書かれたストーリーは、完成した映画にかなり近いものだが、映画よりもずっとダークで、設定も若干異なっている。

草稿の中で、彼がサウンドトラックに想定していたのは、次の曲たちだ。

Baby I'm a STAR
I would die for U
Moonbeam Levels
I can't stop this feeling I got
Too tough
Wouldn't U love to love me
I just wanna be rich
Bold Generation


これは「3人の夢と野心の物語」であるとプリンスは冒頭に書いている。

一人目の登場人物は、モーリス・デイ。容姿端麗でクールな22歳。音楽、金、女性を愛し、この3つの悪習の中で、ゲットーにはまりこみ、抜け出せずにいる。

二人目は、裕福な家庭の出身で、非常に魅力的な女性、17歳のヴァニティ。あまりに美しく、裕福で、潔癖なために、周囲の仲間に溶け込めずにいる。どこに引っ越しても、見せかけだけの「RICH BITCH」だと思われているが、「心根は愛情深い人物である。誰も彼女を手なずける辛抱強さを持っていないだけなのだ。」

三人目の登場人物は、プリンス―この物語の主役だ。彼は幼くして両親と死別した。彼が6歳か7歳の頃、彼の目の前で母が父を射殺し、自分も銃で命を絶ったのだ。この出来事は、彼の中で時折フラッシュ・バックし、狂気じみた行動を取らせる。彼は3人の医師から統合失調症と診断されている。

プリンスはステージの上でしばしば錯乱状態に陥り、バンドを動揺させる。それが演技なのか計算なのかは誰にも分らない。プリンスは成功を渇望している。名声と富を手に入れたいと思っていると同時に、音楽を通じて人々を助けたいと思っている。彼は何よりもまず、生きている間に何か価値のあることをしたいと思っていた。「つまり、神から点数を稼ぎたいのだろう。(Scoring points with God I guess.)」

この映画は、3人の登場人物が、人生の現実に直面する時期を描いている。

「何か欲しいものがあるなら、つかみ取りに行け! 寝ているだけの者には、夢しかやって来ない。(If there's something out there that U want--Go for it! Nothing comes to sleepers but dreams.)」

映画の基本的な筋書きは、プリンスのバンド(プリンス・アンド・ザ・レヴォリューション)とモーリス・デイのバンド(ザ・タイム)のバンド合戦と、ヴァニティを巡るプリンスとモーリス・デイの駆け引きだ。

クライマックスのバンド合戦では、ザ・タイムが勝利するが、これはプリンスがステージで錯乱状態に陥ったためだ。しかしヴァニティはプリンスのもとに駆け寄り、二人は結ばれる。

ラストはピストル自殺しようとしたプリンスが発砲音と共に目を覚ますという夢落ち。


このオリジナルストーリーのままでは、『パープル・レイン』の大ヒットはなかっただろう。完成された映画の方がはるかに洗練されており、大衆受けの良いものになっている。

草稿からは、プリンスが両親と自分との関係をいかに重要視していたかが伝わってくる。

優れたミュージシャンで、頑固者だが、信心深く、怒ると妻(プリンスの母)に暴力を振るう父親。

享楽的で、パーティーや派手な振舞いを好み、酒とセックスに溺れる母親。

両親はプリンスが幼い頃に離婚したが、プリンスは父と母を同じくらい愛していた。

両親との問題は死の直前まで彼の心を捕らえていた。2016年4月17日、亡くなる4日前に、自伝の共著者ダイ・パイペンブリングの携帯に真夜中に連絡してきたプリンスは、「細胞記憶と親の因果の関係」についてダンに詳しく語って聞かせた。

自分の血の中を流れる父と母の矛盾した性質の葛藤を眺めることが、生きるジレンマの一つだ、とプリンスは語った。

草稿の中では、プリンスはフラッシュバックによって精神錯乱に陥ると、父親と母親の両方の人格が乗り移ったようになり、回想シーンではプリンス自身が父と母の二人を演じることになっている。

80年代の後半にプリンスと付き合っていた女性の一人であるデビン・デバスケスは、回顧録の中で、プリンスは父親を愛していて、父のことについてたくさん話してくれたが、母親については何も言わなかったと書いている。

未完に終わった自伝の中では、プリンスは母に焦点を当てる予定だった。自伝の書き出しは、プリンスが生まれて初めて目にしたのが母のまなざしだったことについての記述から始まっている。

映画の草稿では、フラッシュバックの最中、プリンスは自分とヴァニティを自分の父と母だと思い込むという設定になっている。

彼がこれを書いたときに映画の相手役として心に描いていたのがヴァニティだったことは明らかだが、プリンスとヴァニティは別れ、結局、アポロニアが相手役を演じることになった。

デビン・デバスケスは回顧録の中で、ヴァニティとプリンスは瓜二つの人格だったと書いている。ヴァニティが2016年2月15日(ちょうどプリンスが亡くなる2か月前)に亡くなったとき、プリンスは「ピアノ・アンド・ア・マイクロフォン」の公演中に彼女を追悼している。

ヴァニティは90年代に腎臓病で余命3日を宣告されたが、イエス・キリストのビジョンを見て救済されたと信じるようになって以来、熱心なキリスト教伝道者として生涯の最後の20年余りを送った。

プリンスが2016年4月のアトランタ公演のときにジュディス・ヒルに「最近は死んだ友人たちと夢の中で会っている」と語ったのは、ヴァニティのことだったかもしれない。
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