2019/8/24 | 投稿者: pdo

ドストエフスキーのラスコーリニコフの内面を一度でも追体験した者は、父殺しの次の夜のミーチャ・カラマーゾフの訊問を追体験した者は、あるいは『死の家の記録』を追体験した者は、もはや、かたつむりのように俗物根性と自己満足のエゴイズムの殻の中へ隠れることは、絶対にできない。
(ローザ・ルクセンブルグ『ロシア文学のたましい』)



およそ30年ぶりに『罪と罰』を最初から最後まで読み返す。

ソーニャがラスコリーニコフに福音書(ラザロの復活)を朗読する場面は、30年前は涙が枯れるくらいになって読んだ。後世の批評家の中には、この場面が「メロドラマ的」として否定する者もあると今回知った。メロドラマでいいじゃないか、と思う。小説が無味乾燥な哲学論文のようなものでいいはずがないじゃないか。但し、今読み返すと、意外なほど感動しなかった。いやもちろん感動はするというか、読み始めてから最後まで感動しっ放しではあるのだが、かつては自分の中でクライマックスだったこの場面で、思ったほどに心を動かされなかったのだ。

ドストエフスキーがこの小説を書いたのは、45歳のときだから、ラスコリーニコフよりもスヴィドリガイロフの年齢に近い。今読み返すと、作者のガイストが乗り移っているのは前者よりもむしろ後者のように思える。

今回読んで一番グッときたのは、スヴィドリガイロフがドーニャを部屋に呼んで、彼女に兄の犯罪を暴露するところであった。ドーニャはスヴィドリガイロフの魂胆が判っているが、兄の犯罪の証拠を知りたい思いから敢えて一人で彼の部屋を訪れたのである。

部屋の鍵を閉め、譫言を口走りながら、ドーニャに迫ろうとするスヴィ。
ドーニャはスヴィの家から持ち出してきた拳銃を彼の顔面にぶっ放すが、弾丸は彼の髪を掠めただけで外れる。

(ここからは、米川正夫の翻訳が本当に素晴らしい。ちなみに言えば、ドストエフスキーの翻訳には何種類もあるが、場面場面でイマイチのものや最良のものがある。マニアなら読み比べるのも一興だろう。)

ドーニャは絶望して拳銃を投げ捨てる。

「捨てたな!」とスヴィドリガイロフはびっくりしたように言って、息を吐いた。何かあるものが一度に彼の心から離れてしまったような具合だった。しかも、それは死の恐怖の面にばかりではなかったかもしれない。それにこの瞬間、彼はほとんどそんなものを感じていなかった。それは恐らく彼自身も完全に定義できない、もっと痛ましい陰鬱な別な感情からの解放であった。

彼はドーニャの傍らへ寄り、片手を静かに彼女の腰に回した。彼女は抗おうとしなかったが、全身を木の葉のようにおののかせながら、祈るような眼で彼を見た。彼は何か言おうとしたが、ただその唇がゆがんだばかりで、ひと言も発することができなかった。

「帰して!」とドーニャは祈るように言った。

スヴィドリガイロフはびくっと身震いした。この敬語を抜いた言葉遣いには、どこやら前のとは違った響きがあった。

「じゃ、愛はないの?」と彼は小声で訊ねた。ドーニャは否定するように頭を振った。

「そして…愛することもできない?…どうしても?」と彼は絶望したように囁いた。

「どうしても!」とドーニャも囁いた。

スヴィドリガイロフの心の中では恐ろしい暗闇の一瞬間が過ぎた。名状し難いまなざしで彼は彼女をみつめていた。突然彼は手をひいてくるりと背を向けると、すばやく窓の方へ離れて、その前に突っ立った。



スヴィドリガイロフはテーブルに鍵を置いて、「早くして! 早くして!」とドーニャに出ていかせ、拳銃をポケットに押し込むと、部屋を出ていき、あちこちを彷徨った後に自殺する。

ラスコリーニコフは、ソーニャに自らの犯罪を告白し、愛をもって応えられたのだが、スヴィドリガイロフは、ドーニャに彼女に必要なもののすべてを提供しながら、愛を拒絶される。

スヴィドリガイロフは既にいくつもの犯罪(少女への凌辱、召使への虐待、妻の毒殺)により少なくとも3人の人間を死に追いやった人間である。こんな人間はやはり地獄(永遠の虚無)に堕ちるしかないのだろうか。

ラスコリーニコフのような若者には、まだ更生の新しい物語が可能だが(ポルフィーリー検事の言うとおり)、スヴィドリガイロフのような中年の男がいくら善行を重ねたところで(実際この物語の中で量的に最も善行を施しているのはスヴィドリガイロフである)、田舎の家の風呂場の蜘蛛の巣のような永遠しか待っていないのだろうか?

改めて読み返してみると、このスヴィドリガイロフという男は、本当に悪魔的人物と言えるのか? という疑問が生じたので、少し念入りに読んでみた。

細かく書くとかなりの量になってしまうので、簡潔に述べる。

スヴィドリガイロフが最初に登場するのは、ラスコリーニコフの母親からの手紙の中である。それは、妹ドーニャが家庭教師として働いているスヴィドリガイロフ家で主人から無作法な仕打ちを受けたというエピソードである。

スヴィドリガイロフがドーニャと密通していると疑った妻のマルファが怒り狂ってドーニャを追い出した。しかしその後、スヴィドリガイロフがドーニャの潔白を証明する手紙をマルファに見せたために、名誉が回復したという。

その後マルファの世話でルージンという弁護士がドーニャに求婚し、ドーニャはそれを承諾し、ペテルブルグに母娘が来ることになる。

この手紙を読んだラスコリーニコフはスヴィドリガイロフ(そしてルージン)に汚らわしい卑劣漢という印象を抱くのだが、そもそも母親の記述は伝聞を含むもので真相をどこまで反映しているか疑問である。

スヴィドリガイロフと家庭教師ドーニャとの関係がどんなものであったのかは、後の描写からもある程度推測ができるのだが、どうやら「エロ親父のセクハラ」という単純なものではなかったようなのだ。

時間とスペースの関係で逐一引用することはしないが、この二人の間には一時期はかなり親密な絆があったことを窺わせる描写がある。最も端的なのが、最後の二人の敬語抜きのやり取りだ。この場面は、カラマーゾフの兄弟で、カテリーナがアリョーシャの前でイワンに敬語抜きで話しかけた場面と同じことの示唆だ。

そもそも、スヴィドリガイロフの妻マルファは、彼が借金で投獄されていたのを身請けして救い出したので、当初から夫は妻に頭の上がらない関係だった。マルファは5歳年上で、ドーニャが来たときにはもう50を過ぎていた。大変嫉妬深く、スヴィドリガイロフの女関係について6つの条項からなる約束をさせている(死んだ後も幽霊になって現れるほどの執着ぶりだ)。

スヴィドリガイロフは7年間「村から一歩も出ずに」暮らした。要は、マルファの男妾のような存在だったわけだ(ドストエフスキーはわざわざマルファの酷い口臭について言及している)。

若い頃から放蕩に耽り、元々情欲の強いスヴィドリガイロフにとって、マルファとの婚姻生活が拷問のようなものだったことは想像できる。

そんなところに、22,3歳くらいの「絶世の美女」ドーニャが家庭教師として住み込むようになったわけだ。なぜマルファがそれを許したのか不明だが、マルファには色々な特殊性癖があったことを匂わせる描写もある(鞭を3回使ったというくだりなど)。

スヴィドリガイロフは当初ドーニャを無視するよう努めた。彼女の方を見ることもせず、むっつりと黙り込んで、関わりにならないようにしていた。一方で、マルファは日がな一日ドーニャとおしゃべりをして、夫についてのあらゆる事柄を聞かせた。

スヴィドリガイロフによれば、最初は彼女の方から彼に近づいてきたのだという。ちなみに言えば、スヴィドリガイロフは狡猾な男ではあるが、事実においてはあまり嘘をつかない正直な性質であると考えてよいと思う。

ドーニャが近づいたのは、恋愛というよりも、「伝道者」としての熱意によるものであった。世を拗ねたニヒリストのような男を神の真善美の世界に目覚めさせたいという、若者の情熱からのアプローチであった。

スヴィドリガイロフの方でドーニャと近づきになることに異存のあるはずもない。20過ぎの小娘が一生懸命に清純な理想論を語るのを、彼は微笑みをもって耳を傾けただろう。

だがもちろん、スヴィドリガイロフはそれだけで済ませるわけにいかなかった。

ドーニャの魅力の虜となったスヴィドリガイロフは、二人で逃亡することを提案する。それに対する拒否の手紙が後にマルファに対して彼女の潔白を証明することとなった。

マルファはドーニャの名誉を回復した後、彼女とルージンとの結婚を画策する。ドーニャはそれを承諾する。ラスコリーニコフが見抜いたようにそこに愛はなく、金に目が眩んだと彼女自身が後に認めている。

スヴィドリガイロフにとってはマルファの画策が耐えがたいものだった。まもなくマルファは死ぬが、スヴィドリガイロフが毒殺したのだと噂が立つ。

ドーニャがスヴィドリガイロフに書いた手紙の具体的な中身は書かれていない。しかし、マルファがそれを読んで大感激し、村の家を一軒一軒回って朗読会を開いたという。そこには、マルファ様という妻がありながら、という文句が明確に書かれていたのだろう。

スヴィドリガイロフにしてみれば、ルージンでいいんなら何で俺が駄目なんだ? 妻帯者であることだけが障害なのか?という思いだったろう。要は、少なくともスヴィドリガイロフから見れば、ドーニャは、スヴィドリガイロフを心底から拒絶したのではなかったということなのだ。

ドーニャは、最後の拳銃の場面で、スヴィドリガイロフを罵倒し、ずっと憎かったと言い放っている。

でも注意して欲しい。ドストエフスキーにとって、憎悪とは愛と表裏一体なのだ。ラスコリーニコフはソーニャに犯行を告白する直前、彼女に対する激しい憎悪を覚えたのではなかったか。

もちろん、ドーニャはスヴィドリガイロフを愛していない。正確に言えば、兄への愛に優先することは絶対にない。だが、彼女がスヴィドリガイロフよりもルージンを愛していたということも絶対にない。もっと言えば、ラズミーヒンとの愛がどれほど深いものかも予断を許さない。

スヴィドリガイロフを恐れていた、とは言えるかもしれない。20過ぎの若者が、スヴィドリガイロフのような怪物と関係することに恐怖を感じずにおれるだろうか?

ドーニャが拳銃を捨てたのは、スヴィドリガイロフへの愛故ではない。スヴィドリガイロフを撃ち、殺人を犯すことへの恐怖が、暴行されることへの恐怖を上回ったからだ。冷静さがあれば、ドーニャはスヴィドリガイロフの足か肩を撃てばよかったのだが、後知恵だ。ああでも鍵がないのか。

ドーニャが拳銃を捨てた時、スヴィドリガイロフは強い憐れみを感じた。その瞬間、彼の中の何かが情欲を打ち負かした。彼はそこに愛の不在を見た。虚無だけが残された。それは田舎の湯殿の蜘蛛の巣と真っ暗な曖昧宿のベッドを走り回る鼠達というおぞましい深淵。

どんな善行やどんな富によっても変わることのない絶望。



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タグ: 罪と罰




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