2019/8/31 | 投稿者: pdo

「この小説(『白痴』)は、その価値を知る者にとっては、何千ものダイヤモンドと同じ価値がある」

―レフ・トルストイ


トルストイは当然知ったうえで言っているのだが、この小説には数千のダイヤモンド以上の価値があり、それは比較になり得ない。

10万ルーブルを火の中に投げ込んだナスターシャ・フリポヴナはそのことを知っている。

30年前と同じように、ムイシュキンが百姓女マリイについて語る場面では声を上げて泣いた。

ラストの、殺人者と狂人が聖処女の躯を挟んで寝ころびながら語り合う場面の、限りなく重く澄んだ情緒を味わうためには、忙しない現代社会生活を3日くらい犠牲にして読み通す価値はあるだろう。

『罪と罰』を読み返した時には、ラスコリーニコフよりもスヴィドリガイロフに惹きつけられたのだが、『白痴』はなんといってもナスターシャ・フィリポヴナである。

スヴィドリガイロフが『罪と罰』でそうであったのと同じ意味で、人間としての<段位>が明らかに違う。彼らに比べれば、他の登場人物がいかに薄っぺらで単層な存在に見えることか。

以下は個人的な強引な読みだと思うが、「本物の文学作品とは多様な解釈を許容するものである」(『俺語録』より。究極はシェイクスピアの『ハムレット』だ)から許してちょ、ということで。

幼児虐待、わけても少女に対する性的虐待と言うテーマを半ば強迫神経症的に追及するドストエフスキーにとって、少女のときに孤児となり、地主貴族のトーツキイの庇護を受け、囲い込まれ、性的な意味でも<教育>されたナスターシャ・フィリポヴナ(以下、N・Pと記す)は、『罪と罰』でスヴィドリガイロフが弄び、自殺した少女(たち)が自殺しなかった場合の「なれの果て」の姿だといえる。

ナスターシャは、トーツキイの慰み者になった自分を恥じ、「何度も何度も池に身を投げて死んでしまおうかと思った」とムイシュキンに告白している。

第一篇のクライマックス、N・Pの夜会の場面における彼女の言動は、えげつないほどの輝きを見せていて、まさに「狂ったダイヤモンド」である。

自分のためのパーティなのに、何か手持無沙汰で退屈そうなN・P。

お調子者のフェルデシチェンコが提案したパーティを盛り上げるための「今までで一番恥ずべき行為をみんなの前でカミングアウトする」ゲームに興じながら、頃合を見計らって、このえげつないセリフを放つ。

「ねえ、公爵。わたしのパトロンたちがわたしを若い男に売り飛ばそうとしてるんですけど、わたし結婚した方がいいかしら? あなたの言うとおりにいたしますわ」

ムイシュキンはトチ狂って、思わずN・Pにプロポーズしてしまう。

(「だ、だれと?」と聞き返すところからの、誠実そのものの公爵のセリフにはグッと来ざるを得ない)

そこにロゴージンが手下のガラの悪い若い衆をゾロゾロと引き連れて入ってくる。

(この完全な場違い感が最高)

ロゴージンは必死になってかき集めてきた10万ルーブルをテーブルにドン!と置いて、「これでどうだ!」と一世一代の見得を切る。

それでもムイシュキン公爵は求婚をあきらめない。「もし僕たちが貧乏なら、僕は働いて稼ぎます」とまで言い放つ。その心に偽りはない。が、ムイシュキンは、実際には莫大な遺産(150万ルーブル以上)を相続するという手紙を受け取ったばかりであったことが発覚。

それを聞いたN・Pは、

「じゃ、もう公爵夫人だ!」

「と彼女は嘲笑するようにひとりごとを言った。」

(このくだりも最高としか言いようがない…

そして、そこからの…)


長椅子から立ち上がり、呆然としているロゴージンに、「行きましょう! ロゴージン、進め!」と檄を飛ばし、10万ルーブルを火の中に投げ入れて、反グレ連中とドヤドヤと立ち去っていく(結局焼けていなかったのだが)。

(このカッコよさで読書快感はマックスに達する)

日本人は、恥辱を与えた相手の目の前で腹切りをするそうだ。それと同じことを、N・Pは彼女を弄び、恥辱を与えた男たちの前でやってみせたのである―

もちろんN・Pはこの時点で公爵にベタ惚れしてるのだ。だってN・Pの頬には「大きな涙のしずくが光っていた」し、

そして極めつけのこのセリフ。

「さよなら、公爵。この世ではじめて人間に会いましたわ!」

公爵は泣きながら後を追いかける。

(当然読者である俺も号泣)

いやあ、このあたりの息を呑むようなドライブ感を表現するためには、全文まるまる引用するしかないのだが。

この第一篇の終わりまでに何度か霊的エクスタシーに達したという人でないと、ドストエフスキーの世界にとことん付き合うのは無理だろう。

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2019/8/30 | 投稿者: pdo

『白痴』を読み始めた。

自分の中では、ナスターシャ・フィリポヴナはナスターシャ・キンスキーのイメージだったのだが・・・

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実際彼女の名前は父親(クラウス・キンスキー)が『白痴』にちなんでつけたのだとか。

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彼女の姉は父親から性的虐待を受けていたらしい。怪優で名を馳せたクラウス・キンスキーだが、私生活でもメチャクチャな男だったようだ。

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2019/8/28 | 投稿者: pdo

自分がドストエフスキーを初めて読んだのは18歳のときだが、当時のノートにはこう書きつけてある。

とにかく圧倒的におもしろく、最後までぶっとおしで一気に読み通した。とにかく圧倒的におもしろい。つべこべ言う前に、とにかくおもしろい。小説とはこんなにおもしろいものだったのか。知らなかった。これ以上つべこべ言いたくない。おもしろいものはおもしろいのだ。それで充分だ。彼についての、思い込みたっぷりの評論など必要ない。彼の他の作品も強烈に読みたくなってきた。読んでやる。

確かに、ドストエフスキーの小説の主人公はぼくとあまりに酷似している。
しかし、彼に対する評論などどうでもいい。とにかく、掛け値なしに「おもしろい」のだ。日本にはこんなおもしろい小説はない。(と断言していいものかどうかよくわからんが)
リアリズムとはまさに彼の作品のことだ。「人間」が、ありのままに、本当に驚くほどありのままに描かれている。思想小説? 怪奇趣味? 全然違う。
例えば、宇宙人がぼくに地球の人類とは一体何物であるかを尋ねたら、まず「罪と罰」を読ませよう、それくらいの小説だ。


彼の作品に「人間」がありのままに描かれている、と断言できるのかどうか、今の自分にはそう言い切る自信はなくなっているが、当時は主人公のラスコリーニコフに完全に感情移入しながら読んでいたのは確かだ。

30年ぶりに読み返して、今はラスコリーニコフではなく、スヴィドリガイロフに感情移入していることに気づく。

それが正しい読み方だとか、ラスコリーニコフは所詮青二才だとか(それはそうなのだが)、今の自分が無為淫蕩の生活に堕した中年男だとかいうことが言いたいわけではない。
ただそういう風に今の自分は読んだというだけだ。

秋山駿という評論家が、『私の「罪と罰」』という本の中でドストエフスキー体験について語っていて、自分も含めて共感する人は多いのではないだろうか。


それは、時が停っているような、薄暗い、陰気な古本屋の書棚の前であった。私は別にどうという訳もなく、ただ題名につられたのか、本のページを開いて読み始めると、そのまま30分以上も立ち読みした。それは内田魯庵訳の『罪と罰』であった。ページの中で、ラスコリーニコフが、下宿の部屋を出て街へと歩き出していた。その歩行の音調が私の胸にひびいた。

…たちまち、徹夜して読み、私は興奮した。翌日は何もしないでただ部屋に籠っていたように思う。頭に血が昇ったような感覚だったことを、いまも覚えている。本を読んだ、というより、自分が生きているということを意識しつつものを考える、それを、初めて経験したのだ。だから、本を読むというより、本を読みながら自分が思い感じたことが、まるで子供が白紙の上に初めて描く絵のように、すべて胸に刻まれた。

…実は、と、ここで打ち明けるのだが、私はこの数十年、『罪と罰』という本を読み返したことはなかった。なぜか。ここらが自分でも思う私の病者的な傾斜なのだろうが、私は、最初に読んだときの感動が、あまりにも大切だったので、後に生きて動揺する心の触手がそれを傷つけぬようにと、封印してしまったのである。(『神経と夢想 私の「罪と罰」』秋山駿 より)



自分は、正直に言って、この数十年、他人がドストエフスキーを語っているのを読むのさえ嫌いだった。自分にとって神聖とさえいえる大切なものを他人の触手で汚されるような感覚を覚えるからである。

ちなみに、この秋山駿が『私の「罪と罰」』の中で語っている内容はほとんど自分と見解を異にしていると言わなければならない(特にスヴィの部分)。

それでも、ほとんど共感できた箇所がひとつあったので、後日それを引用する。
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2019/8/25 | 投稿者: pdo

図書館で『「罪と罰」を読まない」という本を読んで中々面白かった。

作家4人が「罪と罰」を読まないまま想像でああだのこうだの喋っている本なのだが、最終的に読んだ後のスヴィドリガイロフ(スビ)についての分析が自分とほぼ同じだったので共感した。

しかし、「罪と罰」を読まないで小説家になった人がけっこういるというのが驚きだった。

こだわるようで申し訳ないが(誰に)、スヴィドリガイロフは、もしかすると作者が考えている以上の人物なのではないか、と思ってきた。

スヴィドリガイロフについて他人が言っていることは当てにならないとすれば、

スヴィドリガイロフが自分で語ったことが概ね事実で、嘘や歪曲がないとすれば、

スヴィドリガイロフは、「絶望的なニヒリスト」ではあっても、悪辣な卑劣漢ではない。

それは原作を忠実に読めばそうなる。

以下は個人的な備忘録。

スヴィドリガイロフが過去に行った犯罪的行為は何か?

・いかさま師 ○ 理由:本人が認めている
         債務を負い投獄されるとことをマルファに救われる

・妻マルファ毒殺 おそらく× ドーニャは最初否定、後断定 どちらを信じるか?
               本人は否定(医師の診断)
               鞭打ちとの関係は? 真相は不明 幽霊

・下男殺害(自殺に追い込む) × ドーニャが否定 但し周囲にはそう見えた 幽霊

・少女凌辱(自殺に追い込む) ○ 最後の悪夢に潜在意識の罪悪感が浮き出る 幽霊は?
  
  レスリッヒ夫人の世話(飽きたら別の男に回す魂胆)

  最後の夜に娘に1万5千ルーブリ渡したのは贖罪の意味

マルファに債務を救われ、少女の件を揉み消してもらい、二重に負い目があるため逆らえない。村を7年間一歩も出ずに過ごす。

しかしスヴィドリガイロフは、敢えて逆らう気もなかった。少女への罪意識(表面意識ではそれほど深刻には感じていない。だから召使には手を出し、上流階級の夫人とも不貞)に加えての虚無感(スタヴローギン的退屈、永遠の蜘蛛の巣)

そこにドーニャ出現。情欲の対象であると同時に、魂の救済(ソーニャ的)も求めていた?
          表面意識では情欲のみ
          魂の救済は最後まで明確に自覚できず
          (もしかしたら彼女は叩き直してくれたかも)

「狂う程好きに」
駆け落ちを提案するも拒絶 ドーニャの潔癖主義、ラスコリーニコフ同様淫蕩への嫌悪


「かわいそうなパラーシャにかまわないでくれ」とのドーニャからの要求
⇒ 駆け落ち拒絶の後、パラーシャ含む召使たちとの「ソドム」=ドーニャへの愚弄

「哲学が苦手」 ラスコリーニコフとの違い

神秘主義的傾向 オカルト(降霊術)、催眠術等への興味(ラスコリーニコフへの暗示) 
     (「本を取り寄せるとマルファが怖がった」ドーニャの感じた恐怖の一因? )

死への恐怖はあるが、生への執着もない(憎悪や復讐心の欠如)

淫蕩は情欲からというよりむしろ退屈からの逃避という意味合いが強い

 自殺する前の夜、アドリアノポールで女を要求せず(ぼろ服の男の不満)

ラスコリーニコフが告白の相手にソーニャを選んだのは、共に「踏み越えた」者だから

ドーニャは、スヴィドリガイロフが理解できないので、許すことも受け入れることも、まして愛することもできない

ドストエフスキーは明らかにスヴィドリガイロフに移入している。

この小説だけでは解決できず、その後の長編にテーマ持越し

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タグ: 罪と罰

2019/8/24 | 投稿者: pdo

ドストエフスキーのラスコーリニコフの内面を一度でも追体験した者は、父殺しの次の夜のミーチャ・カラマーゾフの訊問を追体験した者は、あるいは『死の家の記録』を追体験した者は、もはや、かたつむりのように俗物根性と自己満足のエゴイズムの殻の中へ隠れることは、絶対にできない。
(ローザ・ルクセンブルグ『ロシア文学のたましい』)



およそ30年ぶりに『罪と罰』を最初から最後まで読み返す。

ソーニャがラスコリーニコフに福音書(ラザロの復活)を朗読する場面は、30年前は涙が枯れるくらいになって読んだ。後世の批評家の中には、この場面が「メロドラマ的」として否定する者もあると今回知った。メロドラマでいいじゃないか、と思う。小説が無味乾燥な哲学論文のようなものでいいはずがないじゃないか。但し、今読み返すと、意外なほど感動しなかった。いやもちろん感動はするというか、読み始めてから最後まで感動しっ放しではあるのだが、かつては自分の中でクライマックスだったこの場面で、思ったほどに心を動かされなかったのだ。

ドストエフスキーがこの小説を書いたのは、45歳のときだから、ラスコリーニコフよりもスヴィドリガイロフの年齢に近い。今読み返すと、作者のガイストが乗り移っているのは前者よりもむしろ後者のように思える。

今回読んで一番グッときたのは、スヴィドリガイロフがドーニャを部屋に呼んで、彼女に兄の犯罪を暴露するところであった。ドーニャはスヴィドリガイロフの魂胆が判っているが、兄の犯罪の証拠を知りたい思いから敢えて一人で彼の部屋を訪れたのである。

部屋の鍵を閉め、譫言を口走りながら、ドーニャに迫ろうとするスヴィ。
ドーニャはスヴィの家から持ち出してきた拳銃を彼の顔面にぶっ放すが、弾丸は彼の髪を掠めただけで外れる。

(ここからは、米川正夫の翻訳が本当に素晴らしい。ちなみに言えば、ドストエフスキーの翻訳には何種類もあるが、場面場面でイマイチのものや最良のものがある。マニアなら読み比べるのも一興だろう。)

ドーニャは絶望して拳銃を投げ捨てる。

「捨てたな!」とスヴィドリガイロフはびっくりしたように言って、息を吐いた。何かあるものが一度に彼の心から離れてしまったような具合だった。しかも、それは死の恐怖の面にばかりではなかったかもしれない。それにこの瞬間、彼はほとんどそんなものを感じていなかった。それは恐らく彼自身も完全に定義できない、もっと痛ましい陰鬱な別な感情からの解放であった。

彼はドーニャの傍らへ寄り、片手を静かに彼女の腰に回した。彼女は抗おうとしなかったが、全身を木の葉のようにおののかせながら、祈るような眼で彼を見た。彼は何か言おうとしたが、ただその唇がゆがんだばかりで、ひと言も発することができなかった。

「帰して!」とドーニャは祈るように言った。

スヴィドリガイロフはびくっと身震いした。この敬語を抜いた言葉遣いには、どこやら前のとは違った響きがあった。

「じゃ、愛はないの?」と彼は小声で訊ねた。ドーニャは否定するように頭を振った。

「そして…愛することもできない?…どうしても?」と彼は絶望したように囁いた。

「どうしても!」とドーニャも囁いた。

スヴィドリガイロフの心の中では恐ろしい暗闇の一瞬間が過ぎた。名状し難いまなざしで彼は彼女をみつめていた。突然彼は手をひいてくるりと背を向けると、すばやく窓の方へ離れて、その前に突っ立った。



スヴィドリガイロフはテーブルに鍵を置いて、「早くして! 早くして!」とドーニャに出ていかせ、拳銃をポケットに押し込むと、部屋を出ていき、あちこちを彷徨った後に自殺する。

ラスコリーニコフは、ソーニャに自らの犯罪を告白し、愛をもって応えられたのだが、スヴィドリガイロフは、ドーニャに彼女に必要なもののすべてを提供しながら、愛を拒絶される。

スヴィドリガイロフは既にいくつもの犯罪(少女への凌辱、召使への虐待、妻の毒殺)により少なくとも3人の人間を死に追いやった人間である。こんな人間はやはり地獄(永遠の虚無)に堕ちるしかないのだろうか。

ラスコリーニコフのような若者には、まだ更生の新しい物語が可能だが(ポルフィーリー検事の言うとおり)、スヴィドリガイロフのような中年の男がいくら善行を重ねたところで(実際この物語の中で量的に最も善行を施しているのはスヴィドリガイロフである)、田舎の家の風呂場の蜘蛛の巣のような永遠しか待っていないのだろうか?

改めて読み返してみると、このスヴィドリガイロフという男は、本当に悪魔的人物と言えるのか? という疑問が生じたので、少し念入りに読んでみた。

細かく書くとかなりの量になってしまうので、簡潔に述べる。

スヴィドリガイロフが最初に登場するのは、ラスコリーニコフの母親からの手紙の中である。それは、妹ドーニャが家庭教師として働いているスヴィドリガイロフ家で主人から無作法な仕打ちを受けたというエピソードである。

スヴィドリガイロフがドーニャと密通していると疑った妻のマルファが怒り狂ってドーニャを追い出した。しかしその後、スヴィドリガイロフがドーニャの潔白を証明する手紙をマルファに見せたために、名誉が回復したという。

その後マルファの世話でルージンという弁護士がドーニャに求婚し、ドーニャはそれを承諾し、ペテルブルグに母娘が来ることになる。

この手紙を読んだラスコリーニコフはスヴィドリガイロフ(そしてルージン)に汚らわしい卑劣漢という印象を抱くのだが、そもそも母親の記述は伝聞を含むもので真相をどこまで反映しているか疑問である。

スヴィドリガイロフと家庭教師ドーニャとの関係がどんなものであったのかは、後の描写からもある程度推測ができるのだが、どうやら「エロ親父のセクハラ」という単純なものではなかったようなのだ。

時間とスペースの関係で逐一引用することはしないが、この二人の間には一時期はかなり親密な絆があったことを窺わせる描写がある。最も端的なのが、最後の二人の敬語抜きのやり取りだ。この場面は、カラマーゾフの兄弟で、カテリーナがアリョーシャの前でイワンに敬語抜きで話しかけた場面と同じことの示唆だ。

そもそも、スヴィドリガイロフの妻マルファは、彼が借金で投獄されていたのを身請けして救い出したので、当初から夫は妻に頭の上がらない関係だった。マルファは5歳年上で、ドーニャが来たときにはもう50を過ぎていた。大変嫉妬深く、スヴィドリガイロフの女関係について6つの条項からなる約束をさせている(死んだ後も幽霊になって現れるほどの執着ぶりだ)。

スヴィドリガイロフは7年間「村から一歩も出ずに」暮らした。要は、マルファの男妾のような存在だったわけだ(ドストエフスキーはわざわざマルファの酷い口臭について言及している)。

若い頃から放蕩に耽り、元々情欲の強いスヴィドリガイロフにとって、マルファとの婚姻生活が拷問のようなものだったことは想像できる。

そんなところに、22,3歳くらいの「絶世の美女」ドーニャが家庭教師として住み込むようになったわけだ。なぜマルファがそれを許したのか不明だが、マルファには色々な特殊性癖があったことを匂わせる描写もある(鞭を3回使ったというくだりなど)。

スヴィドリガイロフは当初ドーニャを無視するよう努めた。彼女の方を見ることもせず、むっつりと黙り込んで、関わりにならないようにしていた。一方で、マルファは日がな一日ドーニャとおしゃべりをして、夫についてのあらゆる事柄を聞かせた。

スヴィドリガイロフによれば、最初は彼女の方から彼に近づいてきたのだという。ちなみに言えば、スヴィドリガイロフは狡猾な男ではあるが、事実においてはあまり嘘をつかない正直な性質であると考えてよいと思う。

ドーニャが近づいたのは、恋愛というよりも、「伝道者」としての熱意によるものであった。世を拗ねたニヒリストのような男を神の真善美の世界に目覚めさせたいという、若者の情熱からのアプローチであった。

スヴィドリガイロフの方でドーニャと近づきになることに異存のあるはずもない。20過ぎの小娘が一生懸命に清純な理想論を語るのを、彼は微笑みをもって耳を傾けただろう。

だがもちろん、スヴィドリガイロフはそれだけで済ませるわけにいかなかった。

ドーニャの魅力の虜となったスヴィドリガイロフは、二人で逃亡することを提案する。それに対する拒否の手紙が後にマルファに対して彼女の潔白を証明することとなった。

マルファはドーニャの名誉を回復した後、彼女とルージンとの結婚を画策する。ドーニャはそれを承諾する。ラスコリーニコフが見抜いたようにそこに愛はなく、金に目が眩んだと彼女自身が後に認めている。

スヴィドリガイロフにとってはマルファの画策が耐えがたいものだった。まもなくマルファは死ぬが、スヴィドリガイロフが毒殺したのだと噂が立つ。

ドーニャがスヴィドリガイロフに書いた手紙の具体的な中身は書かれていない。しかし、マルファがそれを読んで大感激し、村の家を一軒一軒回って朗読会を開いたという。そこには、マルファ様という妻がありながら、という文句が明確に書かれていたのだろう。

スヴィドリガイロフにしてみれば、ルージンでいいんなら何で俺が駄目なんだ? 妻帯者であることだけが障害なのか?という思いだったろう。要は、少なくともスヴィドリガイロフから見れば、ドーニャは、スヴィドリガイロフを心底から拒絶したのではなかったということなのだ。

ドーニャは、最後の拳銃の場面で、スヴィドリガイロフを罵倒し、ずっと憎かったと言い放っている。

でも注意して欲しい。ドストエフスキーにとって、憎悪とは愛と表裏一体なのだ。ラスコリーニコフはソーニャに犯行を告白する直前、彼女に対する激しい憎悪を覚えたのではなかったか。

もちろん、ドーニャはスヴィドリガイロフを愛していない。正確に言えば、兄への愛に優先することは絶対にない。だが、彼女がスヴィドリガイロフよりもルージンを愛していたということも絶対にない。もっと言えば、ラズミーヒンとの愛がどれほど深いものかも予断を許さない。

スヴィドリガイロフを恐れていた、とは言えるかもしれない。20過ぎの若者が、スヴィドリガイロフのような怪物と関係することに恐怖を感じずにおれるだろうか?

ドーニャが拳銃を捨てたのは、スヴィドリガイロフへの愛故ではない。スヴィドリガイロフを撃ち、殺人を犯すことへの恐怖が、暴行されることへの恐怖を上回ったからだ。冷静さがあれば、ドーニャはスヴィドリガイロフの足か肩を撃てばよかったのだが、後知恵だ。ああでも鍵がないのか。

ドーニャが拳銃を捨てた時、スヴィドリガイロフは強い憐れみを感じた。その瞬間、彼の中の何かが情欲を打ち負かした。彼はそこに愛の不在を見た。虚無だけが残された。それは田舎の湯殿の蜘蛛の巣と真っ暗な曖昧宿のベッドを走り回る鼠達というおぞましい深淵。

どんな善行やどんな富によっても変わることのない絶望。



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