2017/9/24 | 投稿者: pdo



実家に帰ったついでに、高校時代に背伸びして読んでいた吉本隆明の著作群(『言語にとって美とは何か』、『共同幻想論』、『世界認識の方法』など)に数十年ぶりに目を通してみた。

帰りの電車の中で、たまたま駅の本屋で目についた呉智英『吉本隆明という共同幻想』を購入して一気に読了。

今から思えば、吉本隆明は本質的には詩人であり、彼の思想の中身というよりも、彼の発する言葉の言霊力(ことだまりょく)のようなものが、当時の政治状況や時代の熱狂みたいな要素と相まって、当時の若者を強力に感化したのだと思う。

呉も指摘しているが、吉本隆明という人は平易に話し出すと、あまりにも取るに足りない内容が露出してしまう。理解困難な難解な文章でのみそのカリスマ性を維持していたに過ぎない。

僕が最初に「おやっ?」と思ったのは、ソ連が崩壊したときに吉本が新聞に連載していた(記憶がある)文章だった。平易に書かれていたが、驚くほど内容がなく、そんなことなら誰でも言えるよ、これがあの思想的巨人の言葉なのか? と思ったのを覚えている。

その後、オウム事件の後にも明らかに不適切なコメントをして慌てて撤回したりしたという話はリアルタイムでは記憶にない。もう既にどうでもよい存在だったのだろう。

呉がその一端を明らかにしている、2000年以後に乱発された「平易な」書籍群には目を通したこともないし、ただただ哀れだなあという感じしかなかった。

いつのまにか娘のばななの方が有名になり、最近は彼女もあまり目立たなくなっている印象がある。

ここまで吉本隆明をボロクソに書いた上で、なお、僕は吉本隆明を尊敬している。

彼の文章を構成している、何を言っているのかまるで分らないのに思わず引き込まれてしまう呪術的なリズムのようなもの、大衆的な情念をもっともらしい言語で精緻な思想めいて表現するその文体の魔力を、どうやったら獲得できるのか。

吉本隆明の文章の行間からは、人間がつねに意識の裏がわに抱え込んでいる、可視化できず論理化しえない隠されたエロス的情動が立ちのぼってくる。それが一見して緻密な論理的衣装をまとっており、しかも暗号のように入り組んだ謎に包まれているため、ある程度の教養をもった読者の知的好奇心をどうしようもなく擽るのである。

今ぼくの手元にある、吉本としては初の文芸時評である『空虚としての主題』(1982年4月)でも、隆明はその魔力をたしかに保持している。

眠れない夜にでも読むにはちょうどよい。
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