2017/9/30 | 投稿者: pdo



面白かった。

上品な罵倒表現の勉強になった。
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2017/9/25 | 投稿者: pdo

北川景子さんが大河ドラマ「篤姫」に先駆けて、勉強のため鹿児島に行ってきた。

その模様を日記形式でブログにアップしてくださっている。

拝むような気持ちで読ませていただいている。

涙が出た。


もしもの話この僕が

お宅の娘を見たさに来たのであったなら

おばさんあなたはなんとおっしゃるか


もしもそれゆえはるばると

旗が岡には来るのであると申すなら

なおさらなんとおっしゃるか


もしもの話この話

もしもの話がもしものこと

真実だったらおばさんあなたはなんとおっしゃるか


きれいに咲いたあの娘

きれいに咲いたその娘

真実みないでこの僕がこんなにゆっくりお茶をのむもんか


「来意」山之口獏

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2017/9/24 | 投稿者: pdo



実家に帰ったついでに、高校時代に背伸びして読んでいた吉本隆明の著作群(『言語にとって美とは何か』、『共同幻想論』、『世界認識の方法』など)に数十年ぶりに目を通してみた。

帰りの電車の中で、たまたま駅の本屋で目についた呉智英『吉本隆明という共同幻想』を購入して一気に読了。

今から思えば、吉本隆明は本質的には詩人であり、彼の思想の中身というよりも、彼の発する言葉の言霊力(ことだまりょく)のようなものが、当時の政治状況や時代の熱狂みたいな要素と相まって、当時の若者を強力に感化したのだと思う。

呉も指摘しているが、吉本隆明という人は平易に話し出すと、あまりにも取るに足りない内容が露出してしまう。理解困難な難解な文章でのみそのカリスマ性を維持していたに過ぎない。

僕が最初に「おやっ?」と思ったのは、ソ連が崩壊したときに吉本が新聞に連載していた(記憶がある)文章だった。平易に書かれていたが、驚くほど内容がなく、そんなことなら誰でも言えるよ、これがあの思想的巨人の言葉なのか? と思ったのを覚えている。

その後、オウム事件の後にも明らかに不適切なコメントをして慌てて撤回したりしたという話はリアルタイムでは記憶にない。もう既にどうでもよい存在だったのだろう。

呉がその一端を明らかにしている、2000年以後に乱発された「平易な」書籍群には目を通したこともないし、ただただ哀れだなあという感じしかなかった。

いつのまにか娘のばななの方が有名になり、最近は彼女もあまり目立たなくなっている印象がある。

ここまで吉本隆明をボロクソに書いた上で、なお、僕は吉本隆明を尊敬している。

彼の文章を構成している、何を言っているのかまるで分らないのに思わず引き込まれてしまう呪術的なリズムのようなもの、大衆的な情念をもっともらしい言語で精緻な思想めいて表現するその文体の魔力を、どうやったら獲得できるのか。

吉本隆明の文章の行間からは、人間がつねに意識の裏がわに抱え込んでいる、可視化できず論理化しえない隠されたエロス的情動が立ちのぼってくる。それが一見して緻密な論理的衣装をまとっており、しかも暗号のように入り組んだ謎に包まれているため、ある程度の教養をもった読者の知的好奇心をどうしようもなく擽るのである。

今ぼくの手元にある、吉本としては初の文芸時評である『空虚としての主題』(1982年4月)でも、隆明はその魔力をたしかに保持している。

眠れない夜にでも読むにはちょうどよい。
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2017/9/20 | 投稿者: pdo

金融貴族が法律をだし、国家行政を指導し、組織された公的権力の全部を思うままに行使し、既成事実と新聞によって世論を支配していたので、上は宮廷から下はあいまい飲み屋にいたるまでのあらゆる領域に、同じ身売り、同じ恥知らずの詐欺、生産によらず既存の他人の富をごまかしとって金持ちになろうとする同じ病的欲望が、くりかえされた。とくにブルジョア社会の最上層では、ブルジョア法律そのものに絶えず抵触しながらも、不健康で放埓な欲望を、無制限に貫く傾向が滔々として生じた。そこでは、賭博から生じた富が、その欲望充足を求めるのは、その性質上、自然のことであり、享楽は淫蕩となり、金と汚物と血がまじりあって流れるのである。金融貴族は、その営利の方法でも享楽でも、ブルジョア社会の上層に再生したルンペン・プロレタリアート以外のなにものでもない。

カール・マルクス『フランスにおける階級闘争』(中原稔生訳)


日本で左翼革命が起こらないのは日本がやはり神の国だからで、神はどうしても天皇陛下を通して働くことになっているから、フランスやロシアのようにはならない。日本で革命を起こしたければ右翼にならねばならぬ。戦前に出口王仁三郎というのが右翼革命をやろうとして失敗した。226事件よりも大本事件の方が日本にとっては重大事件である。連合赤軍もオウム真理教も外国の観念に頼って革命をやろうとしたから失敗する運命にあった。

そんなことをまた考えながらフラフラ歩いていたら気が付くと西武秩父の駅にいた。駅の隣にスーパー銭湯みたいな温泉ができていて、ひとつのレジャーランドのようで見回す限り皆観光旅行気分で一杯ひっかけながら何やらワイワイ騒いでいる。

そういうことには巻き込まれたくない性分だから、つい余計な口を挟んで、「この会場の中で、わたしを選んで殴ろうとする奴は誰だ」と叫ぶと、大理石のポールがある一角でダボシャツや黒い背広のヤクザめいた人間が五人ほど退屈そうに身体を揺すっていた。

そういうときには何があっても黙っているしかない。やり過ごす能力が大人と大人になり切れないアダルトチルドレンの境界でもある。ふとした偶然で自殺した人のスマホを手に入れ、何気なくでたらめにパスワードを入れたらあっけなく入れた。中にあったのはエグいエロ漫画本の電子書籍で、ダウンロードした日付を見たら自殺したちょうどその日の推定時刻の直前であった。

とてもご両親にお伝えできないと思いながら画面をスクロールしていると、自殺の方法を事細かに解説したHPがお気に入りに登録されていた。彼が採ったまさにその方法が図解入りで解説されていた。何とも言えない気分になった。

自殺というのはよほどのことがない限り犬死でしかない。だが例外もある。たとえば、第二次大本事件における控訴審の審理中に、出口王仁三郎は高野裁判長にこんな禅問答をしかけた。

「もし人が虎の穴に落ちたとき、そこに飢えた大きな虎がいたとしたらどうするか」

裁判長は答えに窮したことを誤魔化して逆に王仁三郎にその問いを返した。

そこで王仁三郎はこう答えたという。

「私だったら、すすんで虎に食われてやります。逃げようとすれば喰われるでしょう。刃向っていっても、じっとしていても同じことです。どっちにしても助からないのなら、こちらから喰われてやるのです」

「・・・・・・」(裁判長)

「逃げようと思うと恐怖と恨みだけが残る。しかし、自分の方から喰われてやるなら、そこには愛と誇りが残ります」

ここでいう虎とは、狭い意味で言えば裁判長であるが、大きく取れば当時の日本国家、もっといえば世界戦争という人類のカルマそのものである。同様に虎の穴に落ちた人というのは狭く取れば王仁三郎自身であるが、大きく言えば逃れられない運命に囚われた人類一般をさす。

精神力が尽きて絶望から自殺することとは違って、虎に自分を食わせてやることは厳密にいえば自殺とは言えないのかもしれない。それは則天去私と言って晩年の漱石が理想としたまま果たせずに亡くなった境地のことだ。

敢えて言おう、自殺することは人間の生来の権利の一つであると。

だがショウペンハウエルが言うとおり、自殺はこの悲哀の世界からの真実の救済の代わりに、単なる仮象的な救済を差し出すことによって、最高の倫理的目標への到達に反抗することになるのである。これが自殺に反対すべき唯一の適切な倫理的根拠である。

純粋に病的な深刻な憂慮によって自殺へと駆られる人は、何らの克己も必要とせず、自殺のための心構えすら必要ではない。酷い肉体的苦悩が他の一切の心配事をどうでもよくするように、深刻な精神的苦悩は肉体的苦悩に対して我々を無感覚にするからである。

自殺は一種の実験であるともいえる。すなわち、現存在と人間の認識とが死によってどのような変容を被るかという、人間が自然に向かって投げかけてそれに対する解答を強要する類の試みである。だがこの実験は不完全である、なぜなら肝心の解答をしりうべきはずの意識の同一性をこの実験じたいが殺してしまうのであるから。

もっとも、我々の真実の本質は死によって破壊されえないものであるという点については、ショウペンハウエルの同名の小論を読めば明らかになるであろう。



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2017/9/19 | 投稿者: pdo

「打ち上げ花火 上から見るか 下から見るか」のアニメ映画版が公開中であることは知ってますよ、もちろんね。

でも僕には好きな女の子がレイプされるのを観に行く趣味はないので。

僕の中ではなずなは永遠に奥菜恵さんなので

それ以外ありえないんで。

無理っす。

申し訳ないっす。

むしろ広瀬さんに申し訳ないっす。

大根さんが悪ノリしちゃったのがいけないんスかね


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