2017/3/17 | 投稿者: pdo

シド・バレットはこう言った。若い連中がビートルズを好きなのは、…大部分は音楽のせいではなく、彼らがいつもしたいことをして、誰に対しても勝手気ままにふるまっているからなのだと。
「だから若いヤツらは彼らが好きなんだ―彼らはやりたいことをやってるからさ。若いヤツらにはそれがわかってるんだ」
(『メロディ・メイカー』1967年12月9日)




未だに「のん」という名前がしっくりこない、という元・能年玲奈ファンはどれくらいいるのだろうか。

僕個人について言えば、もはや「能年玲奈」という名前には「過去」の響きがある。それほど、この半年間くらいの間に、至る所で「のん」という呼称が繰り返され、すっかり定着し、安定した響きを持つようになってしまった。

これを彼女の「あーちすとぱわー」とでも言えばいいのか。

矢野顕子との対談の中で、「やりたいことを当たり前のように貫いていたら、周囲も諦めて助けてくれるようになる」と聞いて励まされたというのん。それは今ののんの軌跡そのもののように思う。

『創作あーちすとNON』のあとがきで、のんは、対談相手の鈴木心に「“素ののんさん”っていない」と指摘され、「誰も知らないのんを俺の手で引き出したい」というクリエイターが苦手だと認めている。

桃井かおりにはこんな風に言われている。

「きぐるみを着てないから、けっこう痛いんじゃない? 『貝殻の中に入って仕事すりゃあいいのに』って感じするよ(笑)。私たち、のんちゃん以外の人はみんなぬいぐるみ着てんのよ。だから、暑いし汗もかくけど、そんなに痛くないのよ。のんちゃんの場合、せっかく貝殻があるのに、ひとりだけ貝殻から出て仕事しているっていう感じがする(笑)。」

役者に限らず、社会人としての大人は誰でも、円滑な人間関係を築くために、無意識のうちに「社会的ペルソナ」を身に着ける。それは「傷つきやすい本当の自分(自我)」を守るための保護膜のような役割も果たしている。

社会的ペルソナを身に着け、社会の中で自分の役割を果たすことができるようになるのが、「大人になる」ということでもある。

しかしのんには、「素の自分」と分離した社会的ペルソナ(着ぐるみ)というものがなく、常にありのままの「のん本体」をさらけ出しているように見える、と彼女を知る人たちは感じているようだ。

それを、彼女と仕事をしたNHKのプロデューサーは「作為がない」と言い、宮藤官九郎は彼女を「空洞」と呼んだ。

そして、映像を通してのんを見るわれわれもまた、たしかにそのことを感じ取っている。

役者が演技するとは、与えられた役に応じて「社会的ペルソナ」を自在に変形して見せることだとすれば、のんの演技はそうしたものとは違う。

のんは自分の「演技」についてこんな風に語る。

「私の場合、自分の中の使っている部分が違う、っていう感じがします。自分のこの部分を強くした方が、観ている人が楽しいだろうなっていうか。そのまま自分の好きな部分だけで出たらドン引きされるなあっていう感覚があって、ちょっとここは隠しといてこっちの部分だけだそう、みたいな。」

この発言は、「劇団☆新感線」の主宰者いのうえひでのりによる、

「『この世界の片隅に』のすずさんもそうだけど、朴訥としているけど芯のあるキャラクターって、のんちゃん本人の中から出てくるものだと思うし、なかなかそういう感じの人っていないんで。本当、得難い才能だと思う」

との指摘にも通じている。

天野アキやすずさんの演技があんなにも「リアル」なのは、そこに「役者によって演じられた社会的ペルソナ」ではなく、「生モノ」である「のん」本体が表れてしまっているからだ。

桃井かおりは、あまちゃんの演技を見て、「その人の本質とか才能が枠からはみ出ていた」と感じたという。

「パターンにはまらないように型から逃げる女優さんはいっぱい出てきてるんだけど、逃げるも何も最初からはまってないっていう(笑)。こういう人って久しぶりに見たなあと思って(笑)」

「周りはテクニカルな芝居をやっているんだけど、ひとりだけポンと違う存在の仕方してたから『この人すごいなあ』って」


対談相手の中で、最ものんの本質に踏み込んだ発言をしているのは、同じ女優という仕事をしている桃井だが、矢野顕子もまた、芸術家の眼でのんの真価を正確に見抜いている。桃井かおりにしても、矢野顕子にしても、決して心にもないおべんちゃらを言うような人たちではないことは誰もが認めるだろう。その彼女たちが認めるのだから、のんはそういう存在だということだ。

だって、あの矢野顕子が、「伴奏が必要でしたら、私がやりますから」って言うんだぜ!!

どんだけ愛されてるんだよ!!

・・・すみません、ちょっと興奮しました。


『創作あーちすとNON』は、お仕着せの企画ではなく、のん自身の発案で制作されているという。

その意味では、能年玲奈による『ぐりぐりぐるみ』の続編という捉え方もできる。



この二つの本を読むと、そこに込められている一貫したメッセージに気づく。

女の子には色っぽさなんていらない。必要ない。
女の子のパワーっていうのは、もっと何ものにも動かされない強いものがある。
都合のいいだけの女の子なんて信じない。女の子はかっこいい。

女の子のパワーを炸裂させたい、という思いがありました。
本当の女の子の力って、結構、凶暴で手に負えない、というのを確認したかった。
ずんすん地面を踏みつける女の子の脚力を! あははっ!!

――『ぐりぐりぐるみ』より

私は、心の中が凶暴そうな女の子が好きなんです。
子ども心が暴走している、みたいな。なんていうか、子どもの持っている、悪いことをするのを純粋に楽しんでいる部分。そういうところが好きなんです。
大人になって働き始めたりすると、そういう部分をなくしていかないとやっていけないのかなと思うんですけど、「子どもの悪い心を持ったまま大人になってもいいんじゃないか」って思い込んでいるところがあって。

――『創作あーちすとNON』 宇野亜喜良との対談より


のんの中では、社会的ペルソナを身に着ける前の「子どもの心」と「女の子の凶暴さ」は結びついているようだ。

彼女の生み出す「かりんとう」や「ワルイちゃん」のようなキャラクターがその具象であることは論を待たないだろう。

これらのキャラクターを見ても明らかなとおり、「凶暴さ」とはいっても何かを傷つけるようなものではなく、赤ん坊の「疳の虫」のような、見ていて思わず笑ってしまうような無邪気なエネルギーの爆発だ。

「女の子のパワー」の強調の中には、「大人社会への反発」や「男性支配への反感」、ひいては「男嫌い」(misandry)の傾向すら読み取ることが可能かもしれない。

だがその一方で、男性を演じることへの強い憧れも語っていて、『野獣郎見参』(劇団☆新感線)の「ただ身体が強いだけ」みたいな設定が好きであると述べており、そこには性別を問わず「凶暴さ」への強い志向がある。

宇野亜喜良は、上記ののんの発言に応えて、コンビニのおでんをツンツンと言いながら指でつつくような幼児性は好まないと述べた。それに対するのんの返答が注目に値する。

それは嫌ですね。けっこういますよね。動画の再生数を稼ぐために麻痺しちゃっている人というか。それだとすごく、なんていうか、皮膚感覚が閉じているというか、モニター画面の中だけで生きているって感じがしますね。(下線は引用者による)

純粋な気持ちじゃなくて、「俺、こんなことやってみちゃったりして」みたいな、わかった上でやっている感じがします。


こののんの言葉からも分かる通り、のんのいう「凶暴さ」というのは、自意識が生まれる以前の無分別で原初的な本能的衝動に近いものだ。それゆえに純粋であり、それゆえに手が付けられないエネルギーと勢いがある。「アウトサイダー・アート的」と呼ぶことも可能だろう。

「皮膚感覚が閉じて、モニター画面の中だけで生きている」ようなバーチャル・リアリティー感覚のアイドルが存在する一方で、のんの存在はそれとは対極の方向性を示している。鈴木心が指摘する「違和感を感じたときにこれは違いますとはっきり表明する嗅覚の鋭さ」は、リアリティを皮膚感覚で捉えるのんの感性ともつながっているだろう。

『創作あーちすとNON』の冒頭を飾る「アクション・ペインティング」は、のん自身の肉体を使って描かれた全身パフォーマンスであり、「全部、カミナリ」と題されたその作品は、のんが言う所の「女の子の凶暴さ」を余すところなく表現している。絵の具だけでなくガムテープや段ボールも駆使して、6時間と言う限られた時間で制作された作品としては信じがたいほどのクオリティである。

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『美術手帖』の、あの作品から僅かの期間に、物凄い進化を遂げていることにも驚く。

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あまりに凄いので、本当に一人で描いたのか? と疑う人たちのために、制作過程を収録した動画も公開されている。



アクションペインティングの頁から富士山をバックにしたのんの写真へと移り変わる構成は、あたかも優れた映画のはっとするような場面転換を思わせる。

本の終盤に収められた、故郷の神河町の風景には、「まさやん」や「てっちゃん」の話など、また別の本にまとめてもらいたいほど、いろんな記憶の匂いが含まれている。この素朴な環境からのんが出現したのだと思うと感慨深い。

企画されているという神河町のPRフィルムの完成が楽しみである。

すっかりまとまりのない雑駁な感想になってしまったが、最後に、のんが珍しく(初めて?)「エロさ」について語っていることについて触れたい。

撮影のとき、「汚い感じとかえろい感じにされると思ったら、違う方向にずらす」というのん。

どろっとした感じじゃない色っぽさなら好きなんですけど。難しいですね。エロエロな感じが出せないので。

生活感のある色っぽさというか、生々しさがあるものというか。そういうものが苦手なんです。もうちょっと夢のあるファンタジーめいた方が好きです。


日活ロマンポルノを観るのが好きと公言している橋本愛とは好対照だなあ、なんて感想は置いといて、のんが目標にしているという吉永小百合でさえ、中年以降はけっこうエロい役もやっているのだが、「そういう仕事はやらない」と断言するのんが女としての悦びに開眼する時は来るのだろうか(エロオヤジみたいで気持ち悪いですよね)。

僕個人について言えば、「のんさんにエロさを求めることはありません」と断言できるが(エロオヤジみたいで気持ち悪いですよね)、「生活感のある色っぽさ」なら、すずさんは最強レベルだと思うんだけどね。

あとは夏目三久のモノマネがマイブームっていうのがけっこう気になった(笑)。


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宇野亜喜良が「ちょっとのんさんに似ている気がする」というJoanna Shimkus
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