2017/1/31 | 投稿者: pdo

奥菜恵さんが約2年ぶりに舞台で主演する。

『親愛ならざる人へ』

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主演の花嫁役は約2年ぶりの舞台出演となる奥菜恵。三十三歳、厄年を迎えた花嫁による「本音」の物語になるという。
さらに若手俳優・佐伯大地、劇団鹿殺しのオレノグラフィティ、元宝塚歌劇団 月組の久世星佳らが出演する。

作・演出は劇団鹿殺しの丸尾丸一郎が手掛ける。

STORY

三十三歳・厄年の花嫁が、毒を吐く!
その時、胃腸の弱い新郎、最強の母、逃げる父、人生の先ゆく妹、うわべの友人たちは……
NHKラジオで生放送されたドラマ、史上最低な結婚式が帰ってくる。
(注)これは、家族再生の物語である。(公式サイトより)

家の近所だし、行ってみようかな・・・

奥菜さんの舞台は、『アンネの日記』に始まり、けっこう観に行っているのだ。

チケットまだあるだろうか。



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2017/1/30 | 投稿者: pdo

三浦九段が対局中にソフト・カンニングしたという疑いを【証拠なしに】かけられ、【不当に】竜王戦の挑戦権を剥奪された事件(休場措置というのも同じこと)について、連盟理事が記者会見で謝罪し、谷川会長が辞任したが、まだ騒動が収まったとはいえない状態が続いている。

昨年末以来、将棋への関心が急速に失せていき、もう正直どうでもよくなってしまっているのだが、自分の考えを整理するために、たぶんこれが最後になるが、個人的見解を記しておく。

昨夜、羽生三冠の妻が、この件について連続ツイートをしてニュースを賑わせている。

(以下ネットニュースより転載)

メディア、ネットでの情報拡散の恐ろしさと、イメージ先行の怖さについて計19個の大量連続ツイートをしますので、お嫌な方は今すぐミュートして下さい」――羽生理恵さんの投稿はこうした文章からはじまり、半分は自身のこと、もう半分は将棋のことについて語った。

 将棋に関する主な内容は以下の通り。

・2月13日に三浦九段の復帰戦(相手は羽生三冠)がある。否が応でも注目される対局を前に誤解を解きたい

・羽生三冠が2016年10月に開かれたトップ棋士らの会合に出席したのは、島理事から電話があったため。「渡辺竜王からどうしても羽生にお話がある(中略)来てほしい」との要請があり渋々出かけた。そこでは一方的に説明を受ける形となった。

・島理事からのメールの返信として「その経緯が本当に事実でもグレー」といったコメントをし、疑わしきは罰せずが鉄則と明言した。しかし、前後の文脈を省いた部分が週刊文春の中吊りなどに使われた。

・文春の発売を知った羽生三冠は「1人の棋士の人生を変えてしまう、将棋界のためにも書く」として、夜中対局から帰宅後、Twitterに意見を投稿した。

・いつまでもネット上の噂や騒動が収まらないことが三浦九段の棋士としての日常を壊している。三浦九段が「早く普通に将棋を指したい」と望んでいることもあり、収束は弁護士に任せ、復帰戦を見守ってほしい。「将棋だけに集中出来ますように。ファンの皆様、お力をお貸しください!」

(転載終わり)


連続ツイートの前半部分は、過去に羽生との婚約時に言われなきデマのような記事を書かれたことやコメンテーターへの批判であり、この機会に鬱屈した感情を爆発させた感がある。

気持ちは分からなくもないが、この一連のツイートによる発言が、騒動を収束させることに役立つかどうかは極めて疑問だと言わざるを得ない。

騒動がいつまでも収まらないのは、三浦九段の棋士人生を変えてしまうような告発を行った棋士たち(複数)及び三浦九段を「クロ」と決めつけて処分した連盟理事について、その責任がうやむやにされているという印象を与えたままだからである。

そこがはっきりしない限り、当事者である棋士の妻がいくら「騒ぐな」と喚いても逆効果になるだけだろう。

ではどうすればいいのか。大変悩ましい問題である。次期会長候補とされる佐藤康光九段もさぞ頭が痛いに違いない。もっともこの大変な時期に敢えて会長になろうと言うのだから、この事件の収束に向けた何らかの考えは持っているものと思われる。

僕のぼんやりした頭では、この騒動を理想的な形で収める方法が思いつかない。結局、羽生夫人の言うように、収束は弁護士に任せ、淡々と「将棋だけに集中する」しかないような気もする。

厄介なのは、今回の事件の背景に、将棋ソフトの実力がトップ棋士を凌駕したことをトップ棋士自身が認めているのに、将棋連盟がそのことを真正面から認めるのを避けてきたという事情が存在することである。

三浦九段が数年前に将棋ソフトに敗れた時点で、連盟(谷川会長)は、「ソフトの実力は少なくともプロ中位クラス以上はあると認めざるを得ない」などとヌル過ぎるコメントをして、その認識の甘さに失望したものだ。

あのときにもうこの事件の種子は蒔かれていたのだと今になれば思う。

トップ棋士たちが、相手に凄い手を指されたときに、カンニングを疑うようになってしまった。そのことが、何ともやるせないし、もう将棋というゲームの終焉を感じさせる。

今春には最強ソフト「ポナンザ」と、現役棋士最強の佐藤天彦名人の「電王戦」が行われる。

将棋界にとっては、この勝負が、「歴史の終わり」となるかもしれない。

大義を失った世界は、もう何でもありの弱肉強食の世界になるしかない。この場合の「強さ」には、政治的な力や、他人を陥れて非難されても動じないメンタルの強さも含まれる。

「純粋なるもの」の窮極の頭脳勝負を楽しんでいた僕のような人間が、「純粋なるもの」を失った世界に魅力を感じなくなるのは必定の理。

何ともうすら寒い限りである。

はてさて、困ったねえ…

なんとかならんもんかねえ…

(以下 現実逃避)

「ありがとう、この世界の片隅に うちを見つけてくれて」

「ほいでもう離れんで ずっとそばに居ってください」

すずのこのセリフを読んで、のんは片渕監督に、「このセリフは、今までのすずさんならモノローグ(心の声)だったと思うんですけど、ここでは声に出して言ってるんですね。それはすずさんが変わったということなんですね」と言ったとか。

このセリフの後、二人の後ろを毛むくじゃらのオッサンが通り過ぎる。これは冒頭に出てきた、周作とすずの出会いのきっかけになった「人さらい」と同一の存在であろう。

「運命」が周作とすずの二人を引き合わせた。そして、この橋の上で、すずはあのセリフを「声に出して」言うことで、この「運命」を主体的に受け入れたのだと思う。

この作品は「運命」を引き受けて生きる人間の強さを描いているから、海外でも普遍的な感動をもたらすに違いないと思った。

「運命」を聴いた後、賢治は弟の清六に「おれも是非ともこういうものを書かなくてはならない」と語ったそうだ。

そうして出来たのが、詩集「春と修羅」(1924年・大正13年出版)であった。

賢治の言う「こういうもの」とは、どういうものか。

そんなことをいつまでも考えていたい。

そんな風に思った。


※追記

谷川浩司現会長の実兄、谷川俊昭氏が、三浦弘行九段の真の名誉回復を実現するため、真相の徹底究明と、渡辺明氏を中心とするメンバーの適正な処分を求めて、ウェブ上で署名活動を開始したというニュースが流れた。

将棋連盟に将棋愛好家の声を届けるには一つの有力な方法かもしれない。
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2017/1/29 | 投稿者: pdo



中野ブロードウェーのタコシェで『AX』第111号を買う。「美代子阿佐ヶ谷気分」が有名な安倍慎一特集。つげ義春のインタビューも載っていてお得。「無頼の面影」というアベシンの短篇はつげ義春の「海辺の叙景」を思い出した。

抒情にはストーリーは必要ないと改めて知る。

つげ義春もインタビューの中でこう語っていた。

アベシンの良さは、なんていうんだろう、表面的な、何かストーリーに沿って人物の内面を描くとかっていうんじゃなくて、アベシンそのもの、魂がこもっているというか、その点がいいなと思うんですよ。

掲載作品はそれぞれ面白く、具伊井戸夫「僕のやさしい魔女たち」が秀逸。

夜はネットテレビで「秋田県の魅力」を語る鳥居みゆきを見て、のん(本名:能年玲奈)との共通点をまた一つ見つけた。

二人とも足を開きすぎ! せっかくのいい女が台無し! でも、男の目線に媚びないそんなところがまた魅力!

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2017/1/28 | 投稿者: pdo

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『ヤクザと憲法』(2016年、東海テレビ)

年末にCSで放送していた。TV初ということで、貴重なオンエアだったが、これもハードディスクの交換と共に消えてしまうので、今のうちに感想だけ記しておく。

東海テレビ・ドキュメンタリー取材班が制作した作品である。大阪の堺市に事務所を構える指定暴力団「二代目東組二代目清勇会」にキャメラが入る。

取材の取り決めとして、

・取材謝礼金は支払わない

・収録テープ等を事前に見せない

・モザイクは原則かけない

という合意があったとテロップが流される。

この手のドキュメンタリーが好きな人は、ネットや書籍等でこの映画に関するいろんな情報を手に入れることができるだろうから、ここにクドクドと書かない。

社会的アウトサイダー集団の内側に潜り込んでキャメラを回すというドキュメンタリーでは、個人的には森達也監督の『A』や『A2』が印象に残っている。

排除され、異質で理解不可能な集団とみなされている人々に直接取材し、実際に話を聞いてみると、そんなに「私たち」とかけ離れた人々というわけではなく、彼らには彼らなりの切実な言い分がある(決して共感や同意はできないにしても)ことが分かる、というのがこの手のドキュメンタリーの基本的な構図。

もちろん取材に応じている時点で彼らは彼らの主張のために取材を利用しようという意図が多かれ少なかれあるのだし、本当に見せたくない面は隠すと見るのが当然だろう。

それでも、今まで見えてこなかったものが見えてくるということの意味は確かにある。

この『ヤクザと憲法』の取材のいきさつは知らないが、この作品では取材を受ける暴力団の側に明確に「主張したいこと」があり、映画の基本的なテーマもそれに沿ったものである。

それは、「ヤクザとその家族には基本的人権が保障されていない」という現実である。

銀行口座がつくれず子どもの給食費が引き落とせないと悩むヤクザ。金を手持ちすると親がヤクザだとバレるのだ。自動車保険の交渉がこじれたら詐欺や恐喝で逮捕される。しかし、弁護士はほとんどが「ヤクザお断り」…。日本最大の暴力団、山口組の顧問弁護士が、自ら被告になった裁判やバッシングに疲れ果て引退を考えている。(映画公式HPより)

映画の前半では、おそるおそるキャメラが事務所の内側に入り、その日常風景を淡々と撮影し続ける。

会長や、山口組の顧問弁護士が登場してからは、この映画の主張が前面に出てくる。といっても、強いメッセージ性というにはかなり控えめなトーンではある。

暴対法以降の「ヤクザの人権保障」を巡る議論は、単純ではなく、それについてここで立ち入るつもりはない。

暴力団対策法の施行からもう25年以上が経つ。当初からこの問題は存在したわけで、むしろこれまでこのようなドキュメンタリーがまったく製作されなかった事態の方が異常なことに思える。

結論を言えば、この映画ですら中途半端な内容であり、問題提起の半ばで終わっていると言わざるを得ない。

しかしそのことで製作陣を批判するつもりはない。むしろ東海テレビの勇気ある取り組みは称賛に値する。この作品はもっと知られ、評価されてしかるべきであると思う。

ここで言いたいのは、民放テレビは、在京キー局よりも、地方局の方が番組制作の姿勢と見識において優れているということだ。

地方テレビの制作するすぐれたドキュメンタリーや教養番組は、全国で見れるようにするべきだということが言いたいのだ。

たとえば、岩手朝日テレビでは、2月20日に、「賢治文学とクラシック〜のんが解くダダダダーン〜」という教養番組を放送するのだが、こういう良い番組を、全国でも見れるようにして、ソフト化も希望する。

そのことが書きたかった。

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2017/1/27 | 投稿者: pdo

第一部の終わりに、衛と令子が歩きながら、令子が暗唱する衛の詩。この場面以外にも、何か所かで断片的に出てくる。


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言葉のダイヤグラム


言葉は想像力を運ぶ電車です

日本中どこまでも想像力を運ぶ「私たち」という路線図

一個の私は想像力が乗り降りする一つ一つの駅みたいなもので

どんな小さな駅にも停まる各停みたいな言葉もあれば

仕事をしやすくしてくれる急行みたいな言葉もあるし

分かる人にしかわからない快速みたいな言葉もあって

いちばん言葉の集まる駅にしか停まらない新幹線みたいな言葉もあります

地下の暗闇を走る言葉もあります

地下から地下へ受け渡される邪(よこしま)な想像力たち

でも時折地下から地上に顔を出して

ビルの谷間を潜るとき

不意の太陽が無理やり縦縞に変えようとするから

想像力は眉をしかめたりします

時々届くのが早いほど 言葉は便利な大事なものに思えます

だけど本当に大事なのは

想像力が降りるべき駅で降りること

次に乗り込むべき言葉に乗ること

ただそれだけです

だから

ダイヤグラムの都合から

ぎゅうぎゅうづめの急行と

すっかすかの各停が

同じ時刻に出発して

ほんの一瞬

同じ速さで走るとき

急行の中の想像力がうらやましげに

各停を眺めることもあるのです

2012年には

東京メトロ副都心線と東急東横線がつながるみたいに

今までつながれなかった

あれもこれもつながるんだろうか

そんなことを想像しています

(2011年2月3日 武蔵小杉のドトールで)


次は、衛が演じる第二部の演劇の主人公「衛」が、「北の詩人たち」という朗読会で読み上げる「暴力と選択」という詩。

自己紹介ではボソボソ呟くように話していた衛が、この詩を朗読する時は、何かに憑りつかれたかのように激しい口調になる。

彼は山崎のパン工場で週4日、1日13時間働いている。「そのことは、詩の内容とは関係ない。特別な痛みだけが痛みではない、そんな詩を書きたい」と言う。


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暴力と選択


暴力とは何かとずっと考え続けてきた

最近ようやく答えの一つが導き出された気がする

選択肢を与えないこと

もしくは選択肢がないと信じさせること

つまりは選ぶという人間精神の根本的な自由を否定し奪い去るもの

それが暴力だ

このことで身体的な次元にとどまらない暴力まで説明できる

身体的な暴力が否定されるべきは基本的に二点ある

それが人を不可逆的に損ない選択不可能性であるところの死へと近づけるから

もしくはまたそうした身体的な暴力が未来における選択の可能性を狭める

もしくは狭めるよう要求するからだ

しかしこれはより大きな暴力の一つの形にすぎない

人に「選ばせない」選ぶことができると信じさせない力

それが暴力だ

それは身体的な暴力にとどまらない

言葉と関係による精神の暴力があり

運命の暴力もまたある

しかし一般に暴力と思われているもの

それを世に放っただけで暴力は暴力になるのではない

この世には放たれた不完全な暴力が漂っている

それはもはやそれを吐きだしたのが誰かもわからないような

常に着床の機会をうかがう暴力の胞子だ

われわれに選べることは少なくとも二つある

一つは少なくとも自分はできるかぎりその胞子を吐きださないようにすること

もう一つは自分がその胞子を着床させないということだ

極端なことを云えば人を殴ることは必ずしも本質的な暴力ではない

殴られた人間は自分を被害者だと感じたとき

自分は不当な影響力の下に置かれたと感じたときにのみ

暴力は完全な暴力となる

このことからある種のけんかや体罰が必ずしも暴力ではないという現実的な事態が説明できる

ちなみにもしそれが人に死をもたらすものなら

選択の可能性を奪うそれはそれ自体で成立する暴力だ

誰かを殴ることはもちろん暴力の胞子を吐きだすことだ

それが悪意に基づくものならそれはかなりの確率で着床するだろう

しかしそれはまだ完全な暴力ではない

それはまだ人の選択を奪い去りはしないからだ

このとき被害者然とふるまう人々

彼らこそが実は暴力を完全なものとするのであり

彼らもまた暴力の担い手なのだと言ったら彼らは驚くだろうか

自分たちはただ暴力の純粋な被害者だと彼らは訴えるだろうか

彼らは言うかもしれない

そんなことは選べない だって私は殴られたのだから

そんなことは選べない だって私は罵られたのだから

そんなことは選べない だって私は傷ついたのだから

しかし単に人を傷つけることは 人に傷つけられることは

それがいずれ癒えるならそれはまだ暴力ではない

人はすべてを選ぶことができる 何かを選ばないことも

ただ一つだけ選べないのは「選べない」ということである

人は「選べない」ということを選ぶことはできない

その時人はもう既に何かを選んでいるからというトートロジーだけが問題ではない

人が「選べない」と口にするそのときに

自らの精神から選択を奪ってしまうのならば

そのときに人は自らのうちに暴力を育てているのだ

自らの精神から選択を奪ってしまうのならば

彼彼女は知らず知らずのうちに自らに暴力をふるう

そして彼らが暴力をふるうのは実は自らに対してのみではない

彼らは自分自身を通じてすべての人間に暴力をふるう

このとき暴力は単なる胞子であることを超え

根を張り大地へと侵食する

人は何度でも選ばなくてはならない

なぜ選ばなくてはならないのか

暴力が奪い去ることならば選択とは与えることだからだ

選ぶことはいつも過去から未来へと向けられている

選ぶことは信じることと同義である

既に確かな何かを信じることはできない

不確かな何かを信じ未来に向かう力を与えることが

選ぶということの本質だ

もし人が互いに不確かなまま出会い

それでも互いを未来へと向けて選びあうなら

互いに力を与え続けることもできるはずだ

それは信じあい 選びあう力だ

ただ暴力だけは選ばないための力だ

暴力も暴力の胞子も もうなくなりはしない

ただ私たちはいつもそれを選ばないことを選ぶ

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